ふつうっぽい日記
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2015年01月12日(月) 再開によせて

半年以上の充電期間を経て、再開することになった学校支援。

充電期間と表現したけれど、放電期間とも言える。
どっちだっていい(というか、私は電池ではないのだし)

不思議なことだが、確信的なこと。

人は、前を向いて歩き出すと、「不思議な縁」が出来てきて、「扉」が現れるのだ。
しかも、それは「いきなり」
しかも、それは「どうして、あなたからなの?」的な状況だったりもする。

たしかに、私の中では
「春から復帰しよう」という気持ちが膨らんでいた。
それは何も同じ現場を選ぶということではなくって、募集一覧から自分で選ぶ、というプロセスを経てということなのであって、こだわりはなかったのだ。

ある意味、一方的なコミュニケーションの断絶であった(と、私は思い込むことに成功していた)はずが、実は継続されていたのだ。
「春から復帰予定です」と、ある職員宛の年賀状に書いたことが波紋となったからなのか、偶然なのかは分からないが、私が今となればかつての現場で復帰するならば、すぐに席は確保されないことうぃ恐縮したのかもしれないが。
一つの状況選択の結果として、私に委ねられたのだ。
それが、これまた偶然に「かつて」の現場であった。

いくつかの「かつて」の現場が巡ることになる。
もはや、そう、
「置かれた」「流された」「場所」で咲くようなプロセスになっていると言いたくもなる。
壮大なプロジェクトに組み込まれている、とも。(これはあくまでも私の思いこみの世界である。それは認めよう)

思い出せばこうも言われてはいた。
「やはり、ウチではダメですか」と。
コミュニケーションの断絶が私サイドの「限界」「拒絶」だと置き換えられたとしても無理はない。そうとは限らないのだが、まったくそうではないとも言えない微妙な要素や空気を含むからだ。

選べる状況下で選ばないという考え方もたしかにある。
二つの選択肢から一つを選んだに過ぎない。
「過ぎない」と言えば、淡泊にも思えるが、私の場合は「かつて」という過去があった。
その過去に心地よく包まれたい期待が盛り上がった、というのが近い。

その「かつて」で括られる様々なエピソードから、特異なケースが浮上してきた。
それが「特異なケースである」と「体験の回避」しようとすることも起こりうる。
それもざっくり処世術ではある。
しかし、回避すればまた同じ様な状況に遭遇するものなのだ。
「かつて」自体から解き放たれる、自体を巡らせきる必要を感じた。
その必要を解決する時には「言葉」が肝心だ。
そうかなるほど、「かつて」も「言葉」である。
「言葉」を解放するということ、一時的に小説のように「言葉」をただ通過させているに過ぎないとする、という仮説が自分を支えてくれるのだし、そう考えれば「言葉」が自分を守ってくれる。
「敵」でさえも、内部に入れば、supporter<味方>となるのだ。
「今、ここ」で知った。
「サポーター」「supporter」とは「味方」という意味があるということ!
設定でコントロールキーに4を押すと英単語が出てくるらしく、
「みかた」をコントロールキー+4としたら「supporter」と出てきたのだ!

ヘルプではなくてサポートを。

サポートする役回りの私たちは、その対象を選ぶことはできない。
その対象の気質を選ぶことはできない。
しかし、その対象がサポートされることが必要ではない場合はサポートする必要はないのだ。
つまり、「味方」を前面に出しすぎることはしなくていいのだ。
おそらく、それをやってしまうと
「八方美人」などと置き換えられてしまうのだ。

コミュニケーションするには「言葉」が必要だ。
その言葉は置き換えられていくプロセスなのであり、途上の連続に過ぎないのだ。
どうか、途上の連続であるということを忘れないように。
明日の私へのメッセージである。


KAZU |MAIL