ふつうっぽい日記
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2012年04月14日(土) 出逢い巡り会い

新年度が始まった。
新しい職場で支援者としての任務が始まった。
1週間が経った。

現場から外れた1年を含めて、6年目にあたる。
まぁ、1年といっても初めの1年は9月からだったし、前年度は5月連休明けからの1年だったし、二ヶ月交替の任期だし、合計すると2年くらいなのか。

関わりを強く求めてくる子等だからか、丁寧な関わり方が必要な子等だからか、たった1週間しか経っていないのに、愛情をこめて名前を呼び捨てしてしまうくらいに関係が濃くなっている気がする。

学校以外での日常生活を集団生活で過ごす子たちと関わることになった。
これは、わたしにとっては貴重な経験との出逢いである。
貴重な経験との出逢いといえは、双子の子に関わるというのもそうだ。
その双子の子の笑顔は、どこか私の義父の優しさを想起させるところがある。
義父から幼少時代の話を聞き出すことは厳しいのだと思うとリアルな現実と向き合わねばならない思いも意識されるけれども、目の前にいる子等には何も罪はないのだ。
過去のあれやこれやの複雑な思いや光景が、目の前にいる子等の行動や言動で掻き出されたとしても、目の前にいる子等には何も罪はない。大人を困らせようとしているわけではない。

落ち着きのない子どもは、落ち着きたいのだろうか?
落ち着きたいと思っているのか?
なんて問いかけたくもなる。
そしてこんな風に、理屈として括りたくもなる。
関心の赴くまま興味が向くまま感情を操作した一つの行動の結果を、「こちら側」が、表面的に「落ち着きがない」という括りに繋げてしまっているに過ぎないのではないか。
だって、「興味」とか「関心」は引き出されるものであって、本人の主体的な、意識的な意図なんてものは、興味関心が引き出される前にあらかじめ分かるものではないはず。

こういう場面を「引き」で見ていた。

「Aちゃんはブロックが好きなのかな?」と、指導者BさんはAちゃんに声をかけた。
初めてAちゃんがブロックで遊ぶ姿を見たにもかかわらず。

たまたま手に取りやすい遊具がブロックだったに過ぎないのかもしれない。
もしかすると自宅では年上の兄弟がブロックを占領していて、やっと自分にも手に取れるチャンスが巡ってきての緊張と喜びが詰まったブロック遊びデビューになったかもしれない。

ところで、わたしの支援者としての活動の場は、小学校が多い。
ではあるけれども、自分以外の職員の組織的な位置づけや意味はほとんど分かっていなかったりする。

「指導方法工夫改善担当」的な担当名称の職員がいらっしゃり、この名称自体はこれまで何度か見てきて、珍しくはない。
だけれども彼らが組織内で、また担任教師にとってどういう意味、意図でその任務をおこなっているのかはわたしにとっては非常に謎なのである。
ふとした時に彼らの行動を見て、およその枠を検討つけてはいるが、やはり謎は謎。
であるけれども直接伺うのも、いかがなものかとその機会を見送ってきた。
今回、たまたま、自然な流れでその機会があったのだけれど、笑顔とともにその場はごまかされてしまった。まぁ、だからといって、わたしの任務に支障がある訳では無いし、別の場で再びチャンスが巡ってくるかもしれない。
そして、明後日になれば、濃厚な新たな1週間が始まるので、そういう謎も自然に埋没していくのだろうと思う。

毎週金曜日夕方のクリーニング出し、すっかり昨日、忘れてしまった。


2012年04月02日(月) 「天然さん」考察

わたしは、いわゆる関西人からみると「天然」らしい。
いや、関西人に限らず「天然」を見分けられる人からするとそうらしい。

我が家の同居人つまり夫は関西人である。
関西人はどの土地に行っても関西弁を話すなんて言う声を聞くことがあるが我が夫に関してはあてはまらない。わたしからすると、関東人(都会人)に見られた願望があるからじゃないのかと映ることもある。特に女性、例えばわたしの友人と話す時など、「〜だよね〜」「〜じゃん?」とか、家では使わないような気取ったような言葉を使うからだ。

さて、わたしの「天然さ」について。先日、来店二度目の美容室美容師さんから「カルテに天然と書いておきましょうかね」っぽい言葉を言われたのだ。美容師さんは20代後半か30代前半と思われる。男性である。最近入籍をしたと語っていた。話の要点は、指輪の話と移っていった。大中小3種類の指輪の候補から、買うのは「大」にしようと決めていたはずなのに、金額の差にビビリ「小」にしたという。
「オレってちいっちぇなぁって思いましたねぇ」と。
こんなエピソードを語るような素朴な青年から、「天然ですねぇ。いやぁ〜……素敵です!」なんぞ言われたのであるから、なかなか接客の精神が鋭い。
客へのサービストークに「天然」というキーワードを落とし込み、「素敵」とまとめる精神。
こうやって、確実なる「指名」に繋げていくのだな、と、わたしは楽しく分析したのであった。

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あるきっかけで、自閉症スペクトラム当事者の著書を読み進めている。
イラストを交えたとても分かりやすい展開。
であるから、ともいえるかもしれない。
その本を書いた著者の場合である、と、強調されているが、初発の感想として……。

わたしと似ている!
だった。
スペクトラムというのが変化する連続体とかいう意味だったと思う。
よって、共感できる点があるのはありうることなのかもしれない。
にしても、「分かる分かる」と深く共感できてしまう。

文章中にも吹き出しがあったが
「みんなそうなんじゃないの?!」とツッコミを入れたいくらいである。

この日記的なスペースに「ふつうっぽい日記」と名付けているわたし自身のほどよく揺れる思いが何気に交わる。
すべてが「これって、ふつうじゃないの?!」という流れにはなってはいないものの、時折、「ふつうって何だろう?」と自問自答しているのだ。自分自身がどこか「ふつう」を逸脱していることに関しての疑いみたいなものが中心という訳ではない。
ちょっぴり謎な行動や言動や思い込みをしてしまうことも、クスクス笑いそうになるエピソードとして「オチ」がつけば、何か楽しい気がする、みたいな気持ちに支配されながら綴ることをしたに過ぎないということもある。
ここ最近は、思い込みの論破みたいなものを楽しんでいる様な気もしている。

著書にあったエピソードの一つで「方向感覚」がテーマにあった。
例えば百貨店の化粧室。行きはいいけれど帰りが不安、みたいな感覚。
行くときは「化粧室→」という表示を頼りに進めばいいが、どこを目指して戻ればいいのか。
化粧室の入り口で連れが待っているという場面ならばいいが、例えば食事をする店で、店外に化粧室がある時、ちゃんと戻れるか、という不安。
夜の居酒屋なんてなると、飲酒状態にあるし、さらに厄介なのである。
ガイド役の道連れが必要。
むかし、男性2名、女性2名でそういった場所で食事をして、化粧室に行ったわたしはどこに戻っていいのか分からなくなって、店員に「わたしはどこから来たのでしょうか?」と尋ねた結果、誘導された場所が10名ほどの若い団体客の座敷だった、というエピソードを持っているのだ。
なので、化粧室までの景色を刻みつつ、かつ、化粧室の表示を確認しながら、歩まねばならず、総じてその様子は挙動不審であり、たいがい、店員から「化粧室はこちらですよ」と先手を打たれるのである。「お連れいたしますよ」という親切そうな状況に遭遇したこともあるが、行きはよいよい、帰りはなんとやらで、帰りはお連れ頂けないので泣きそうになるのである。
よほどの場合は、今はケータイを持ち歩くことにしている。
夫と食事の場合は、まずは夫に化粧室の場所を偵察させることにしている。

著書のエピソードではなくて、主として当事者からなるコミュニティのような場で、「靴下の相手が見つからない」という記事を見つけた。洗濯するためのカゴに入れる時、バラバラになるし、洗濯機で回すときもバラバラになるし、干して畳む時にバラバラになったものをマッチングするという作業が厳しいという状況。

あるある、である。

わたしの場合は、冬場、靴下を履いて寝る週間があって、起きた時に片方脱げていたり、両方脱げていることがあって、着替えるまでに2時間以上ゆとりがある場合は、寝る用靴下のことはすっかり忘れて、着替えた時に履く靴下を履き、何らかの作業をする。そして、着替えて……。夜、寝る用靴下は新しいものを履いて、洗濯をしようとする時、布団の中で忘れられている靴下を発掘したり、その発掘が1本であっても相手を探すということをしないということも「ふつう」にあって、干す時に「相手」がいないということは「ふつう」だったりする。
そういうときは、干したままにしておくか、アイロン台の上に置いておく。
そのうち、1本だけの相手がやってくるので、出逢ったときにマッチングすればいいのだ、的な考え方でもって作業を進めてきたのであった。

もっと、こだわってもよさそうではあるが、どうにかやっていければ別になんら生活していく上では苦ではないのである。たとえば大家族で1週間まとめて洗濯なんていうことになったら、靴下だけで何本(何足ではなく)あるのだろう……
まぁ、現実、大家族ではないし、男女の各一名なので間違えるということはほとんどない。
時々、わたしのものが夫のところに紛れる程度である。
夫も、「履こうとしたらなんか小さかった。これ、君のだよね?」的に自然に促してくれるので悩みには繋がっていない。
わたしと夫の足のサイズが同じであれば、さらに気にならないような気がする。

とはいえ特性によっては、環境によっては、二次障害という深刻な状態に繋がることもありえる。

友人や家族のように、特性っぽいことを「君は天然だからね」と、理解してくれている存在に気づくことがなければ苦悩に満ちた生活だったかもしれない。

自分自身ではどうもピンとこないけれど、天然さんらしいわたしを愛してあげよう。
そして、「天然さん」を見抜いてくださった人たちに感謝をしよう。


KAZU |MAIL