ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2011年03月31日(木) 「頑張る」こと、そして「未来予測」

(大辞泉)
[動ラ五(四)]《「が(我)には(張)る」の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字》
1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」
2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我(が)を張る。「―・って自説を譲らない」
3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」


(大辞林)
(動ラ五[四])
〔補説〕 「我(が)に張る」または「眼(がん)張る」の転という。「頑張る」は当て字
[1]あることをなしとげようと、困難に耐えて努力する。―・って店を持とう 負けるな、―・れ
[2]自分の意見を強く押し通す。我を張る。ただ一人反対意見を述べて―・る
[3]ある場所を占めて、動こうとしない。入口には守衛が―・っている
〔可能〕 がんばれる


こう、辞書の意味を見ると「頑張る」というのはずいぶんとエネルギーが必要な「動き」だなと思う。

「困難に耐えて」「めげないで」「我慢して」「努力する」「やり抜く」

何か具体的な目標を持てるというのは幸せなことなのだと思った。


ーーー
「みんなで頑張りましょう」
この言葉を発する人も「みんな」の一部。
何を頑張るのか「出来ること」
「出来ること」の先にあることが目指すこと。

「目指すこと」が一点、一場面、一瞬ではないところにそれぞれの感性が問われる。


「出来ること」は何かを提供すること、捧げること。
「提供すること」は「何か」(存在するもの)
「捧げる」とは存在しているものから発するエネルギーのようなものを活かすこと。

それも「目指すこと」が一瞬でないのだから「継続」されることが必要。

「労働力」を捧げる人。
捧げる人にもエネルギーが必要。
そのエネルギーを提供することも「出来ること」

「医者」として労働力を捧げることはできないが
「医者」を支援することはできる

後方支援の視点。



ーーーー



「保護者」(誰かの親)として…
「保護者」(誰かの親)を…


「母親」として…
「母親」を…


「父親」として…
「父親」を…


「子ども」として…
「子ども」を…


「教師」として…
「教師」を…


「管理職」として…
「管理職」を…



ーーー

他の誰かを自分のこととして
自分のことを他の誰かのこととして
完全に理解することはできないが
他の誰かや自分のことを
理解しようと努力することはできる。

そのそれぞれの「努力の形」が「他の誰か」や「自分」が気づいた時、自己成長を知る。

努力を「今、ここ」から始めたとしよう。
その「形」が「形」として気づく時間は明日ではない。
これは確実ということだ。
「明日」であったということを知るのはその「明日」の5年後かもしれないし、10年後かもしれない。

それを「未来予測」と呼ぶのかも知れない。

頑張ることと努力することは近い気がする。


ーーー

「未来予測」が「いのちの危機」に関わる領域を含むことが気がかり。

人間が必然的につくった物なのにその扱いに手こずり犠牲が出る。

原子力
放射能
いのち


被曝
虐待


活かされている必然性で「未来予測」をしよう…


2011年03月30日(水) 30日のことば

日めくりカレンダーより


「一生燃焼」
「一生感動」
「一生不悟」

相田みつを 氏


「瞬」
「真剣にやっていると
ある日 フッと
つながる」

K作(kei-saku)氏


ーーーー
3・30

「何一つとして偶然に起こることはありません。」
「あなたの人生で何か腑におちないことが起こり、自分はどうしてこんな破目におちいったのだろう、と思い悩むときは、しばらく時間をとって、そのことが全体の中でどういう意味を持つのか考えてごらんなさい。やがてあなたは、どんなことにも理由があることを理解するでしょう。その理由は必ずしもあなたの予測どおりではないかもしれませんが、喜んでそれを受け入れ、そこから学ぶべきことを学びなさい。」

Eileen Caddy
『Opening Doors Within』(『心の扉を開く』)
日本教文社(1998年)
97頁より抜粋


ーーーー

金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと
JULA出版局
1984年
90−91頁より引用


「はちと神さま」

はちはお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土べいのなかに、
土べいは町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。

そうして、そうして、神さまは、
小ちゃなはちのなかに。



ーーー

同じ年、同じ誕生日のAKIKOより

「春らしい陽気です。
新しい歳の始まり
どんな朝を迎えましたか

私は今月は震災があったからか
なんだか毎日
ただ無事に過ごすのに精一杯で
なんとなく気分も重いし
どこいっても節電で薄暗く
物も少ないので
余計にそう感じました

自分の誕生日も忘れてるくらいで
いつものような意気込み!?抱負も浮かばず過ごしてました

でも数日前から
うちの前の桜が咲き出し
今朝はまだピンクの花びらが広がってて
あー
新しい季節の始まりだ!
新しい一年が始まる!と思えました

自分ができることを着々と行い
毎日感謝の気持ちで過ごそうと思います
38歳もよろしく
素敵な誕生日を」


ーーー

AKIKO!
あなたのメッセージを見て
私も気づきました

昨日まで覚えていたことが
今日少ししか覚えていなかったことに

桜の咲くこの時期というのは
自然のリズムですね
毎年毎年のリズム

茶色の木肌や枝から
緑色の葉っぱもなく
ピンク色に咲く
独特なこの花の姿

神秘的な時期に生まれてきたのだな、と
しみじみ思うのでありました

やがて元気な緑色の葉を付けていきます

やがて
間もなく
新しい命が
あなたから出てきますね

あなたの
ご家族の
さらなる幸せを
祈っています


ーーー


2011年03月29日(火) 待つ人

「待つことの大切さを学びましたね」
教育実習の時の指導教官からのコメントである。

子どもへの声かけ(「発問」)に子どもからの反応を「待つ」ひとときは実に長く感じたものだ。
その沈黙に耐えられずに何かを喋りたくなる。
実際、かなり喋った。

大学生相手の模擬授業では45分のところを90分に渡り展開したことのある私は、90分授業ができる「上を行く」人なのかもしれなかった。
オチとしては、その想定が小学2年生であったことである。
実際の現場で、そうなると、授業が授業として成立しないであろう。
教科は音楽で、音楽科指導法の教授は「待つ人」だといえる。そして、「止めない人」でもある。
教案(指導案)が何やら興味深いものであったとしても実際に授業を展開できるとは限らず、そこからの進歩は確実に壮大なものだ。

仮説があって、行動に移し、そしてふり返る。
同じ流れであっても、洗練されていくのは想像ができる。

初めて受け持つ学年が3年生という方が翌年も3年生の担任をされてあって、子ども達は変わるが、授業そのものに対しての経験が基盤にあるので「ゆとり」のようなものを感じたことを思い出した。
その先生も来月からの新年度は4年目に入るというのだから、月日が流れるのは早い。


ーーー

明日は誕生日。
今日で13878日経った。

実家に電話をした。
母が出て、「お父さんが連絡を待っていた」と言う。

父は「待つ人」なのだと受容した。


私にしてみれば、待たせていた感覚はまったくなかった。
「待たせていたんだ」と自分を責めることなかれ。

ありのまま、「待っていたのだな」と受け止めればヨシ。

でも、言ってしまうのだ。
「待っていても来ないよ」



ーーー
高齢期に入る、「人」というのは「待つ」形が自然でいられるのかもしれない。
潔さのようなものを感じる。



ーーーー

蚊が飛んでいる。
「蚊がおるぞ」と殿が言う。
「はは。」と家臣が言う。
家臣は眼をグルグル回しながら
ただ、その蚊を見続け
やがて血を吸い重くなり床へ落ちた蚊を
ふところの紙で拾い
静かにふところへしまう。

そこには殺生がない。
その世界観というかその場の雰囲気が心地よいと思った今日である。

《参考文献》
新井白石 桑原武夫訳 『折りたく柴の記』 中央公論新社 2004年


2011年03月28日(月) 「あの時代」「的の多用」

日記サービスが一時的にPCから更新(書き込み)できない状態にあり、3月28日分として入力しようとしていた内容は、文字としてノートに手書きで残した。
同サービスのユーザーの日記(携帯からは書き込みができたそうであるが、わたしの携帯は対応していなかった)で、サービスの運営が「岩手県」であるということを見て、「待つ」つもりではいた。
運営が「岩手県」云々に関しては、わたしには分からない。


入力できるようになった今、3月29日でありながら28日としてノートを見つつ、これをタイプしようと思っている。
なかなか「昨日書いたラブレター」ではないが、なんとも未熟に映る文章。
しかし、不思議なものでさらに過去に書いた文章(タイプされたネットの日記)を読んでも、とくに未熟であるとか、くすぐったい特別な想いは気にならない。

努力してこの手書きの言葉を見つめつつ、「今」の言葉も織り交ぜることにする。


ーーー

このことも、偶然ではないのだ。

偶然の力、直感の力とは、目の前に起きる様々な出来事を広く受け止める力なのだと考えられるようになった。

その「直感」とは違うのか一部なのかは分からないが、手に取るいくつかの本から、語られてくる「メッセージ」の中に、共通点を見て、「その様である状態だった」と自分自身をふり返っているこの実感。

“卒業”させてくれた専門家のタイミング、さすがプロだと思った。
迷うひとときも、有意義だった。
「自分でコントロールできる」という切符を持たせてくれたプロ。

そう考えると「臨床」の肩書き付きの名刺を思いがけず受け取った、その状況もある意味、次への扉への進む切符になっていたのかもしれない。
もっとも、その切符はひとつの幻聴の世界を巡る思いがけない旅につながってしまったのだが。

あの歌の歌詞。
あれは、多領域、多重の層につかみどころのない、それでいていとも簡単に表面だけ、視覚に入って来た文字をおそろしくつなぎまくるエネルギーへ姿を変えた。

その世界を仕切っていたのは、自分でありながら自分ではない人格という設定。
さらにその人格に、わたしは名前をつけていた。
その名前をもつ人格(のようなもの)の「死」によって、混沌というべき苦しい世界に決着をつけようとしていた。

「苦しい」という実感は認知されていたのだ!

「離人感」というのだろうか。
ある種の「境界」に「存在」していたのかもしれない。
その「微妙な感覚」(意識)を「今」、ふり返ると「過去」のこととして、受け止められる。
そして、そのことについて「今」頑張らなくてもよいということも納得している。

何度か「微妙な感覚」の通過をわたしは自分で試した。
その「微妙な感覚」は、否定した気持ちを噴出させ、「怒り」を抱えることになった。
その「怒り」は、対象を変え、何度も試してきた。

その「怒り」は胎内を巡らせることで、やがて「消化」されていったのだ。
と、今ならこう表現できる。抽象的表現や思考も繋がる。
「あの時代」のその作業だったゆえに、とても長く深い時間を必要としたのだろう。

この種の、一連の心の変容が「人格」領域の危機の類なのかはわたしには分からない。

「プロ」の処方する薬からの「逆算」の様な勝手な作業から病例症例を推理していくより方法はなかった。

「プロ」に「わたしの病気(?)は何なのか」に問う方法はとらなかった。
というより、そういう「思いつき」にも至らないほど「ズレ」「揺れ」を生じさせていたともいえる。

「あの時代」
その「揺れ」の中で、この言葉を信じて、「明日」が来ることへの希望が持てるようになったといっても過言ではない。

「新しい秩序へと変わってゆく前に、
混乱はきちんと認識され、
体験されることが必要である」
(ヘルマン・ヘッセ)


以上が手書きで書いた文章を「今」を織り交ぜつつ書いたもの。
「略」せざるをえない部分があった。
簡単に言うなら「文字が光っていた」という説明をしていた部分。
「幻聴に加えて、この訴えてくる文字」の様について説明をしていた。


ーーーー

「あの時代」の真っ最中、「的」を多用していた。
今も多く使うが、かなり多く使っていた実感がある。
「あの時代」ではそれは「言い訳」ではなく、「ありのまま」だった。
「あの時代」でなければ、「言い訳」や「ごまかし」の「形」になるだろう。

目の前に起きる様々な出来事をリアル(現実)として自覚して対話をしていき、行動を起こせる「今」が分かるこの実感で、「ありのまま」「あるがまま」の自分を置く意味、価値をこれから実感していきたいと思う今日である。

河合隼雄 『心理療法序説』 岩波書店 (1992年)
51頁引用()書きは補足としてわたしが書いたもの。

…話は横道にそれるが、小林秀雄の友人だった青山二郎について、白洲正子が述べていることは非常に示唆的である。彼は美術品の鑑定にかけては超一流の人であったが、「人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない」と考えていた。彼は「精神は尊重したが、「精神的」なものは認めなかった」のである。精神的(「的」には「、」が振ってある)なものが精神そのものを覆い隠してしまうのである。「メタフィジックな物言いは、ごまかすのにはまことに都合のいい言葉で」あると白洲は言う。
心理療法家はこのことをよくよく心得る必要がある。心理的(「的」には「、」が振ってある)なもの言いが、心そのものを隠してしまう。精神的、哲学的、文学的、と「的」のつくもの言いによって、自分が毎日毎日、毎回毎回、勝負しなくてはならぬ具体的なことがらをごまかしてしまうことがないように心がけるべきである。青山二郎は、「魂がほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない」と言う。心理療法家も、毎日接するクライエントとの間での関係という「かたち」に実現されてくることを、何といっても一番大切にしなくてはならない。それを抜きにして、有難い言葉を言っていても話にならないのである。…


2011年03月27日(日) おとうとの木

私には「おとうと」(弟)はいない。

しかし、かなり昔、母から私と妹の間には残念ながら生まれてこられなかった子がいたことについて知らされた。
私が中学生くらいだったかもしれない。
幼稚園とか小学校低学年ということはなかったはずだ。

このことも、突然に思い出されたことである。

昨日の夕方あたりから、いつものような日々の流れをこなしながら、その感覚が私に降りてきた。

その感覚に素直に耳を傾けていると、私の幼少時代の基盤の「愛」が揺らいだ理由のようなものが、するっと繋がったのだった。

自分の中で納得がいったのだ。

その理由を私は虐待されたと思い込んでいた。
そう考えることで私の中ではつじつまがあっていたからだ。

「出て行きなさい!」と言って、追い出された記憶。
私は見捨てられ、傷つき、近所の家に泣きながら助けを求めた。
追い出された家に対しての取り引き、懇願というのを知らなかったのか。
謝り認めてもらう、ということも出来たはずであるが、「ここには私の理解者はいない」と判断する行動。


生まれてこられなかった小さな命が、「愛されなかったから生まれてこられなかったのだ」と思い込むことはあるだろうか。
命が通る道を歩いてこられなかったある「存在」と、命が通る道を歩いてきたのだが絶えた「存在」との違いはあるのだろうか。

弔いは確実な「形」のある抜け殻がある者に対してだけ行われ続けるものなのだろうか。

生まれてこられなかった小さな命の話を生まれてこられた小さな命(確実に大きく育っていく命)に語られる気持ちは残酷なのか幸せなのか。


不思議だった。
何もかも幸せのような感覚のようなものを感じられて震えそうだった。


ーー

昨日の夜、午後8時半から9時半まで「アースデー」の取り組みで節電を実行した。
照明を落として、キャンドルを灯し、夕食を過ごした。

その時。

揺らぐキャンドルの炎に私は「おとうと」の存在を感じていた。
キャンドルは4つ。
その内の1つが元気がなかった。
30分くらい経ってから、その1つを別のものと場所を交換した。
元気のないそれは、私や夫の近くで見守られた。

その1つは、元気に揺らぎ始めたのだった。


ーーー

テレビドラマの台詞がすーっと入って来た。

「もう俺無しでも君はやっていけるはずだ」


それは「おとうと」の声のような気がした。


そして私の本棚にある『愛されない子』『小さなことでくよくよするな』というタイトルが目に入る。


「姉貴。俺は愛されなかったから生まれてこれなかったのかなぁ」
「姉貴。小さなことでくよくよするなよぉ」

そんな形なき、存在の記録なき、供養の習慣なき、「おとうと」の存在を認めて、私はその「おとうと」に感謝の気持ちさえ持った。



そして、根拠もなくこう思えた私がいた。

輪廻転生、木の根に降りてくるかもしれない近い魂を受け止める準備ができた。

「喪の作業」と「愛を与える作業」を同時に、器用にできる人間なんてほとんどいない。
愛すべき、不器用ないのち。


2011年03月26日(土) 小さなガイド

週一度、クリーニング屋に行っている。
自宅も兼ねているその店舗には、子どもがいる。
看板娘は50代ー60代と思われる女性。
彼女は、子どもの祖母であるらしい。

小さなその子どもを見たのは二度目。
一度目は二ヶ月くらい前だった記憶である。

一度目の時も、小さなその子は店内にある鉄棒でひそかな得意技を披露してくれた。
そばで見守る女性は、穏やかだった。
しかし、危険な一瞬は見逃さず適切な叱りを与えていたことを覚えている。

こういう類ではなかった。

「お客さんが、びっくりするでしょう?」
「お客さんがおかしいって見てるよぉ」
「おばあちゃん、恥ずかしぃ」

一度目の時、小さなその子は、私が「こんにちは」と言うと、「おばあちゃん。おきゃくさぁん!」と言った。

二度目の時、私が「こんにちは」と言って店内に入ると、小さなその子は私をしっかり見つめて「こんにちは」と言った。
二ヶ月前の子と同一人物であることは分かったが、成長を感じた。
二度目の時、小さなその子は、「おばあちゃん」とは呼ばなかった。
やがて、「おばあちゃん」が来た。
小さなその子は、縄跳びを鉄棒に巻き付けようとしていた。
その姿は懐かしかった。

「おばあちゃん」は、「どう考えてもその縄跳びはあなたの体重を支えることはできないでしょう」と言った。

小さなその子は「幼稚園でみんなしているよ」と言う。
続けて
「でも、先生から怒られよるとよ。そんなこと、しちゃだめぇって」

「おばあちゃん」は、「そうでしょう。だったら…」

小さな子は、「でも、みんなしよるとよ」と言って、笑顔。



そう。
何か注意を受けた時、怒られた時、それが他の人にも同じように影響を与えるものなのか、人を変え、場所を変え、試すのが子どもである。
毎回同じ人がその場に立ち会うわけではないのであり、「過去に怒られた惨めな自分」を知らない記憶にもできる。

小さなその子の無邪気さ、素直さ。
「過去に怒られた惨めな自分」をも笑顔で告白する、純粋さ。
そこには、「納得」もあるのだろう。


ーー
「過去に怒られた惨めな自分」に「納得」がいかない状況もありうる。
「意味が分からない!」
意味が分からぬままに怒られ続けるこの「僕」「私」。


この大人も、あの大人と同じようにどうせ怒るのだろう!
ほら、やっぱり!

この連続は「形」になり、悲しい「基本」として定着していることがある。


「どうして、先生は怒らないの?」
と、言われたことが何度もある。

「怒るのも愛情だよ」と言われたこともある。
その人は、おそらく、自分だったら怒るのに穏やかにその場に居続けることが「意味不明」だったのかもしれない。

私には意味があった。
その子が怒られている現場を何度も見ていた。
だからといって、その場で怒っていた大人を引き継いで怒る理由はなかった。
怒りたい気持ちを説明することもしなかった。

そうしたら、現実、どんなことになってしまうのか。
そうしたら、私はどれほど私の気持ちは切なくなってしまうのか。
これらについて、想像を働かせて語りかけることをしていた。

高いところに上る衝動。
ひとまずのその行動を制止することを多くの大人がしていて多くのエネルギーを費やしている姿を私は見ていた。
20人いて19人が高いところに上れば上らない方が目立つ。
その逆である。
なぜボク以外は高いところに上らずにおられるのかについての懐疑。
その闘いの想像が私の中には走っていた。
私もそのボクと同じくその高いところの空気を共にやり過ごしてみる、というのも一つの手ではあった。
私は彼が降りたいと言った時にいつでも降りられるハシゴになろうと思った。


どうぞ、降りたくなったらお知らせください!

やや。楽しく、君は上っていたではないですか!
同じように降りればよいではないですか!


考えて!
考えてみて!

心で叫ぶ。
念じる。


上っている子「うー。うー。降りられなくなったよぅ」


ハシゴ「どうぞどうぞ。椅子をお持ちいたしましたよ。右足をこちらにそして左足を」


上っていたが降りた子「やった!死ぬかと思った!」


もはやハシゴではない大人「ケガはないですか。しかし、降りられてよかった。」


ただ、何かしら分からぬ動機で高いところに上ってしまったが、無事に降りることができた、その動きをやったある一人の子ども。


私の経験した多くがそういう場から始まる人間関係ゆえに、いきなり怒る、とりあえず怒るということはないのだ。



ーーー

小さなガイドは、純粋な笑顔で、澄んだ瞳で、私の途中経過を観察に来たような気がした。


人間の外側を借りて、実のところ、「いのち」「たましい」の内部の微妙な存在同士が微妙に交信しているような不思議な感覚を持った。


時間は確実に進んでいる。


2011年03月25日(金) インコを弔った日の記憶から

やはり、「木」を見てしまう自分がいる。
そして、昨日とはまた違う「木」の存在に気づくようになった。
「木」の集まりの形、遠くの「山」を認めるようになった。

「山」と「森」の違いはなんだろうか。


「山」に入って周りを見渡す景色が「森」なのだろうか。


ーー

「木」を見て意識されてきた記憶について。

小学生の頃、インコを飼っていたことがある。
黄色の「きーちゃん」と緑色の「みーちゃん」であった。
そのどちらかは、猫に襲われてインコとしての魂は移行していった。
そのどちらかは、広い空に飛ぶ道を進む行動を果たした。

移行されていった魂の抜け殻。
それを父とともに弔うことをした。
それは浄水場の近くにある展望公園の石で囲まれた植物の植えられた土の中に埋められた。
拾ってきた棒を立てて、「安らかに」と小さな手を合わせて祈った記憶がゆるやかに、しかし、突然に思い出された。

その公園の近くに、生まれながら「宗教」のある環境に育った友人の実家がある。
何度となく、その友人から「宗教」の誘いを受けた。
しかしながら、私は誘いに対して距離を置く姿勢を貫き続けている。

その「宗教」でなければならないことを決める場所に自分を持って行けないのだ。
その友人は「私はこれ(宗教)があったから、こう考えることができたから幸せ」と、闘病や苦悩と向き合っている最中に近況として伝えてきている。
その時の私は、精一杯聞き流す努力をしたものだった。


視野狭窄のようにならずにすんでいる、「今」に繋がることのできた、あのショックのきっかけの近くにいた、「その人」はインコを飼っていた。
おそらくほとんど他人を受け入れなかったであろうその生活空間に私が足を進めることができたのは、「その人」にとっては最大限の勇気、エネルギーを使った行動だったのかもしれない、と今ならば思える。
その「その人」の生活空間にインコはカゴに入れられて生きていた。

「私が帰ってきたら、この子を自由にするの。」

そういって、私にインコは大丈夫かということを確認して部屋の中で自由にした。

そして、「その人」は語ってきたのだった。
「インコが自分の口先で身体を刺していたの。
病院に連れて行ったらストレスだろうって。
犬がしているのを見かけたことはあったけど、身体に傷をつけないように首のあたりに輪っかを付けられたのよ。」

そして、「その人」のある時のことが思い出された。

ある時とは、片眼に眼帯を付けてきたことである。

「娘からママ、その顔で行くの?怖いよって言われたから、
慌てて眼帯を探して、大変でした」

そんなことを言っていた。
それでも、その状況にありながら来るという行動。
その姿をもかけがえのない存在するものとして「認めて」ほしかったのだろうと今さら、今だから思える。


のちに「その人」から痛みを伴い告げられる言葉は痛い我慢の塊だった。

先輩であるあなたを認める私だから我慢を続けた。
そうするしかなかった。
我慢するのが大人。

そのように「その人」を追い詰めたのは、深く積み重なったいろいろな黒い物だと今さら、今だから思える。

私自身、「その人」の黒くて重い塊を受けつづけ、そこにずれずに居続けることが精一杯だったにもかかわらず、私は「その人」を理解する方法の模索を減り続けるエネルギーの自覚と対峙しながら進めるしかなかった。
「その人」は、もう、私が発する一つ一つの言葉が誰に向けて誰に対して言われているのか区別ができていない状況だった。


電話というコミュニケーションの手段は、顔や表情が見えないためにある守りの距離が取れる。
そして、攻撃の距離も取れる。
しかし、気持ちのふれあいは相当に意識しないと厳しいものがある。

私はずれていく自分の感覚を感じながらも、つとめて「前向き」にふるまった。


「その人」は私の言葉全てが恐怖である感覚があったために、隙を作らないような勢いで(塊で)言葉を投げ続けるしかなかったのだ。

私が冷静に言葉を言うことを「その人」は、こう表現していた。
「私はあなたに心理分析を依頼しているのではありません」
「その人」の感覚において、「あたかも自分が心理分析を受けている風」であったのだ。
そして、他者から「分析される」こと、自分が知られようとしていることが、恐ろしく恐怖であったのだろう。
今さら、今だからそう思える。

私は私がゆっくり、まるで分析しているかのように聴いている理由を「その人」に伝えた。
「私は言葉によっては、あなたが誤解を抱くということを知っているから」
そして、なんとも答えようのない「その人」からの質問に対して答えられないことも、素直に伝えた。その伝えられないこと自体の沈黙さえも、「その人」は許せない、そんな情緒の波の中で必死であった。
今さら、今だからそう思える。


それでも最後に、「その人」はたしかにこう言ったのだ。

「あなたは支援の仕事を続けないのですか。
続ければいいじゃないですか」と。

「その人」の精一杯のけじめの言葉であったのか、強がりであったのか。
いや、「その人」の純粋な心から発せられた「愛」だったのだ。

今さら、今だからそう信じられる。

「その人」と遭遇しない人生を願い、「その人」から逃げる人生を願った、否定的な「過程」を越えて、私はある一つの「無条件の愛」を学ばせてもらったのだ。


多くの人たちから距離を置かれる(置かれてしまう)人というのはなぜだかいるのだ。
強情な…。
それは「指導者」「管理者」という立場である人もいる。
彼らは「ひねくれている」とさえも映っていた。
今、思い出すそれらの、距離を置かれる人たちの言葉には輝きがあった。

誰でも自分を守るために必死になる。
その守りのための表現にはバリエーションがある。

怒りの奥にある寂しさを感じ取る感性が繋がった今日である。








2011年03月23日(水) 木を見て想う

ここから見える「木」はいくつかあるが、いくつかある、という存在に気づけたのは、1本の「木」を集中して見ていたからだ、ということに気付いた。

これは、「人」に気付くことや理解していく視点に似ている気がする。

がっつり、どっぷりとある一人に集中して寄り添い、見守れた経験。
ちゃんと意味があったのだと今、とくに思える。

その体制、制度は、原則一人に寄り添い見守り支援する、というものであった。しかし、状況によっては多くを広く浅くとりあえず見守る、ということもありえた。

私にとっては必要な段取りであったと思う。

勝手なもので、一人に集中する途中の段階で、他の子にも寄り添い見守り関わりたい思いが膨らみ、もどかしく、落ち着かない気持ちを持った。
「あの子も、この子も、その子も、見守りを必要としている!」という声なき声を感じたのだ。

その声は聴こえるべくして聴こえてきたと思われる。

しかし、子どもは賢いもので、そのあたりを察知して挑んでくる。
いや、子どもの立場では、さりげない、それでいて特別な存在であり続けてほしいという希望を持ち続けていいのか、いけないのか、信じていいのか、信じないほうがいいのかという課題に向き合っているという方が近いかもしれない。

どうせ、この大人も…。

大人が「見守る」という行動も、子どもの立場にすれば「見守られている」。信頼の基盤になる。


独占したい気持ちと対峙しつつも、「この人は、他の友達とどんなことを話してどんな遊びをしているのか」という興味は広がり、今度は子どもが「さりげなく、それでいて特別に」その大人を観察する。
そこに、一貫性が感じられると、一つの大人のモデルのようなものが作られて、それに似た別の対象を探すきっかけとなるのかもしれない。

私は一人しかいないけど
私に似た人はたくさんいる

こんなことを誰かに言ったことがある。


人生において、理想的な「ホンモノ」のような「お手本」のような「モデル」(かたち)に出逢って、それを自分の中に取り込むことは衝撃的であり衝動的だ。

取り込まれた方はどうなのだろうか。



ーーー

その「木」は語りかけてきた(気がした)

私は誰かのための特別な「木」ではない。
今、私の存在を気にしている誰かについて何も知らない。
それでも、私はここで「木」であり続け、ここに居続けるだろう。
春が来て、そして、夏になれば、青々とした葉をつける
秋が来て、そして、冬がくれば、深い色の葉をつける。
そのいとなみは、自然の法則だ。
葉をゆらす暖かな風、冷たい風。
自然の音や匂いや色や光を、私はここで届け続ける。
一枚一枚の葉、繋がり分かれる枝、そして根。
たましいは木の根から生まれる。


「木」に惹かれる私の「いのち」は
まだまだ始まったばかりなのかもしれない。


2011年03月20日(日) あるエピソードから学んだ

福島県内で避難所生活をされてあったご夫婦。
避難所で知り合いになった方とともに山形県に移動することを決める。
理由は福島の避難所の人数が膨らんだためであると聞く。

ご主人は仕事が気になるので後から追いかけることにした。
山形県では久しぶりの入浴ができたことに感謝し、お弁当と畳の上に布団が準備されていたことに感謝し、後から到着するご主人の布団の準備をしていただけたことにも感謝したという。

奥様は埼玉の嫁に連絡をした。
嫁や孫は埼玉に来るように声かけもしたそうだ。
しかし、こう言ったそうだ。

「息子と孫達をよろしく頼みます。
あなたたちの気持ちにはとても感謝しています。
こちらでの温かい心づかいにも感謝しています。」

お嫁さんはずっと気を張っていた。
さらに、何も出来ない不全感に自分を責めていた。
初めて一人で泣いたという。

「夫と子どもの前では泣くわけにはいかない」と強くなった嫁である彼女の姿を感じた。



ーーーー

被災者同士ゆえの強固な絆のようなものが前進するエネルギーになっているのだ、と思った。
ネガティブな気持ちを超えて。

東北で暮らす人たちの文化を支えてきた強い基盤のようなものを感じた。
それでも私は東北の文化については無知である。

そして、甚大なショックを受けた人たちが周りの温かい気持ちや心に気づき、「感謝」の気持ちを表現している姿から、学ぶ。

なんだかのショックを受けたとき、周りの人たちの存在に気づく感覚を持つこと。
たとえ一人でも自分の存在を認める人がいることに、感謝すること。

これまでに何度も同じような「形」があった。
出来事から学び取る感性が一つ広がった。


2011年03月18日(金) 考えるために

避難所まるごと他県へということを聞いた。

そして、西日本への「疎開」策。

災害で負った痛みに加え、新しい環境への適応。



ーーーー

今、読み進めている本から

○渡辺実 小田桐誠 共著 『ドキュメント 崩壊からの出発 阪神大震災5年「生活再建」への挑戦 社会思想社 2000年

梁勝則氏の「孤独死」と題する詩が載っていた。

人は死ねば孤独になる
あの世に極楽や天国があるのかどうかは知らないが
少なくとも現世とは無縁となる
孤独は死の結末なのだ
仮設住宅の「孤独死」は異形の死だ
独居の人が仮設に閉じこもり外に出なくなる
やがて栄養失調や脱水や突然の病気で息絶える
仮設住宅では孤独は死の出発点なのだ
(中略)
ノックは孤独死を防がない
ドアをたたくだけでは孤独死を防ぐことはできない
誰かが勇敢に部屋に入らなければならないのだ
合い鍵を使い ドアをけやぶりガラスを壊せば
瀕死の人は助けられる
死んだ人は醜くなる前に見つけられる
プライバシーの名分の下で救出されなかった命もあるだろう

中島正義氏(春日野公園地域型仮設住宅自治会長)
…まず被災者が哀しみや苦悩を抱えながらも自ら立ち上がる意思を持つこと。
そのうえで、ボランティアと連携したり、行政に要望し対応してもらうこともある。
被災者の自助精神、被災者同士やボランティアによる共助、行政の公助が三位一体になることで生活を建て直すことができる。

中辻直行氏(支援ネットワーク)
…地震で『市民』は『避難民』になり、充分な援助のない避難所で『難民』となりました。
抽選でバラバラにされ、遠方の仮設住宅に移され、『流民』となりました。
そして国民として当然の支援を受けられず、『棄民』となろうとしています。


山折哲雄氏(白鳳女子短期大学学長)
「第一の言明。人間も最後は石ころのように死んでいく。土くれのように孤独のうちに死んでいくほかはない。人間であるからといって何の特権もないのだ。
人間の運命のうえにも、天地の万物と同じように無常の風が吹く。
第二の言明。その場に駆けつけて、死にかかっている人間を助け起こす者がいるかもしれない。
されば彼は、その人間を病院につれていき、看護の手をさしのべ、退院した場合もなおかれの人生を全うさせるために努めなければならない。その介護と看護の仕事に終りはなく、彼が死に至るまで続けられるべきである。それが慈悲の行為である。終りなき慈悲の行為である」

桜井誠一氏(市長室広報課長)
…自分の生活を取り戻すために、自ら動くことで社会復帰していくことこそリハビリ。
我々の仕事はそれを支えることであって、モノやカネだけを与えればいいというわけではないとも考えた。自助と公助、それとボランティアによる共助によってスポーツ、文化的なものを楽しめるようになる。…被災者だって人の役立つことや教えるものを持っていればそれを表現してほしいと思った。…集団生活にトラブルは避けたいものだが、経常的なコミュニティの中なら「お互い様」で辛抱できることが、特に震災によるにわか作りコミュニティの中では、いずれ別れ別れになるということもあって、遠慮なく深刻なトラブルに発展することも多かったのではないかと思われる。


○河合隼雄+柳田邦男 『心の深みへー「うつ社会」脱出のために』 講談社 2002年

(河合)
…ものがないとか何かが足らないというのはものすごく生きやすい。目標がはっきり見えるから。
…ショッキングな体験をすると、すごい視野狭窄になったように見えなくなるか、ものすごく広く見え出すかのどちらかに分かれる。

(柳田)
…東北で出会ったドクター。
「これからの日本の文化の発信地は東北ですよ」
高度成長の恩恵にもあずからず、バブルにも乗れずに取り残されてきた東北には、いちばん大事なものが温存されている。
だからこそ、新しい21世紀の日本の文化をつくり、社会をつくっていく発信地になる。




ーーーー

包み込む側のコミュニティの個人、一人ひとりのひたむきな理解が問われる。

包み込むコミュニティも、また包み込まれているという構造であることを忘れない。
包み込まれる集団は、それぞれ「個人」であることも忘れない。

包み込まれるそれぞれ「個人」が、包み込むコミュニティに気づき、「一人ではないこと」に気づき、自分の中にも包み込める力があることに気づき、やがて包み込まれ包み込むコミュニティに属しているという基盤のもとに、その「個人」にとって幸せな人生となりますように。







2011年03月17日(木) オーストラリア在住の先生からのメール!

Claire 先生からメールが来た。
Claire 先生は大阪時代の英会話の講師だ。
英会話は3年くらい通っただろうか、記憶は定かではない。
そして、講師の入れ代わりはよくあることだった。

今、先生の顔が「どっち」なのか思い出せない。

どこかに写真があったような気がする。

宛先は日本の知り合いであろう多数のアドレスが書かれてある。
一斉送信であることが分かる。
教えたアドレスはフリーなのでどうってことない。
もしかしたら、今までにも何度か彼女からメールが来ていたかもしれないが、来ていたとしてもそれは削除されている。

タイトルは「Daijoubu desu ka???」(大丈夫ですか?)

送信された時間:Wed, 16 Mar 2011 02:04:31


Hello Nihon Friends,
I see so much happening in Japan.
It makes me so sad.
I hope you and your families are ok.
I hope you are all safe.
In Australia we are thinking of you very much.
In our hearts and minds.
Please take care
and
look after each other.
Please let me know if I can help.
Ki wo tsukete
love Claire



ーーー

「出来ること」は何か、という思いは国を超えていることは分かっていたつもりだが、個人的なこのようなアプローチがあるとは思っていなかった。

「繋がっている」
あの時、アドレスを書いた紙をもらって、それにメールを送った、その行動が、繋がっている。


Please let me know if I can help.


3月16日水曜日 午後12時8分


2011年03月16日(水) 偶然はない

ひたむきに生きることを考えたい。


「幸運」なんてものはないというのは納得した。

次に「たまたま」とか「偶然」の持つ可能性に魅力を感じた。
それを拾い上げることや繋げることが楽しかった。
自分が必要だと思う「情報」が引き寄せられている、とさえ思えた。
浮かれていた。

そこへ「偶然はない」「起こるべくして起こった」という言葉を知る。

そこには残酷や悲劇であっても、「起こるべくして起こった」出来事であって、誰かや何かの仕業という視点はない。

癒すことができるとすれば、「無条件の愛」だという。


であるなら「たまたま」「偶然」、ヒトは死ぬことはない。



高柳和江 仙波純一 著 『かしこくなる患者学』 放送大学教育振興会 2007年
(182頁)
・「受精の瞬間から死は始まっているのである。こうした細胞が集まったものが臓器で、臓器の集まりを個体(ヒト)という。」
(188頁)
・「死における過程をキュプラー・ロスは、(1)否認ー自分自身を守る反応、(2)怒り、(3)取引、(4)抑うつ、絶望ー孤独、および(5)受容の5段階をたどるといった。実際には、このとおりの経過ではなく、行き来をするようになっている」

ーーー
思想的、宗教的な次元になってしまう。
そうなってしまうものなのかとも思える。

「出来ること」「祈るくらいしかできない」

「祈る」ことを知っているのは偶然ではない。


死者への弔いの時の「祈り」と「復興」や「希望」への「祈り」。
死んでもなお、「希望」への「祈り」をする。

「生」を継続していても、「死」の始まりであっても、そこには「希望」への「祈り」が「存在」している。であるのだから、「生」と「死」の間においても「希望」は「存在」するはずだ。

「死」の始まりの自覚(意識、主体)は、誰のものか。
誰が、「分かる」のだろう。
その「分かる」主体がいたとして、それは「希望」か「恐怖」か。

誰も「死」が分かる主体の「存在」は知らない。
よって、「感情」も分かるはずはない。

分かるはずのない「感情」だから、「恐怖」なのか。
「恐怖」が分かる「感情」が「分かる」主体は、「恐怖」なのか。



「事実と向き合っていくこと」

「事実」とは何か。
「事実」とは普遍的なものか。
「事実」とは惨劇の実態のことか。
「事実」とは必要なことについて考えることか。
「事実」とは麻痺していく、悪い影響が出てくることを知ることか。

「事実」はどうやって分かるのか。
新聞、テレビ、うわさ、ラジオ、インターネット…。
その「事実」には「同一性」があるのか。それらをすべて「分かる」こと自体が「事実」なのか。

どうやって「向き合って」いくのか。
自分とその他の人と論議することなのか。
「事実」と接することなのか
「事実」に関わることなのか
「事実」を知ることなのか

「向き合う」とは考えることなのか

であるなら「事実」を考えることなのか
「事実」は考えることなのか


「向き合った」先にあるものの一つが「祈り」のような気がする。
一つの「宗教」集団属していない「自称無宗教」であっても「祈り」を抱く。

宗教観を持つこと、「祈り」観を持つことが「出来ること」に繋がっていそうである。
であるならば、どうやって「宗教観」「祈り」観を自分の中に取り込んでいくか。



「いったい何なのか」

それぞれが「出来ること」を考える個体である自覚があるとき、それぞれの自覚でもって、起こった出来事を受け止めた自覚でもって、それぞれの自覚が直感的に思った「何か」について、「いったい何なのか」への関心を行動に起こすことが「出来ること」


「いのちとは何なのか」
「放射能とは何なのか」
「人生とは何なのか」
「崩壊からの出発とは何なのか」
「心とは何なのか」

…。




行き詰まった時、私は「木」を観る。
「無意識」に「木」を観ていた時、何かに行き詰まっていることが「意識」できる。
「意識」されたことは「無意識」には戻らない。
そうやって、「無意識」を「意識」に広げる。
だからといって、ただただ「木」を観ても何も変わらない。


私は、ひたむきに生きながら、生きているという自覚を否定せず、考える主体であり続けたい。

穏やかな青空が広がる。
南にそびえる建物のてっぺんにカラスが一羽見える。
「彼」にとってはいつもの日常なのだろう。


2011年03月15日(火) いつもと同じように居続ける

こういう時に、今ここに留まり続けることがなんだか申し訳なくて苦しい気がする。

ここで、思い出す。
「生きていて申し訳ないという感じです」と言っていた友人の言葉。

「生存」と近い場所にある人たちは選択肢もなくそこに居続けるしかない。

だからこそ、いつもと同じように留まり続け、居続けることは基本。
目の前で起こっていることは、距離があるにもかかわらず、「心が折れそう」になる。
ここで、折れないように踏ん張る。
ひたむきに。
申し訳なく生きるのは違う気がする。

どうってことない今日を過ごせることに感謝して、癒しの環境に恵まれていることに感謝して、包みこむエネルギーをチャージしたい。


ーーー
「道」に寄せる迷走

大きなことがあると、小さなことが隠れてしまう。
大きなことに対してのちっぽけな貢献の「道」。
小さなことに対してのパワフルな貢献の「道」。

大きい、小さいって何か。
何と比べているのだろう。

昨日の夜、福祉関係の番組で被災地の障害者の実態を少し見た。
自閉症の方々は避難の声に固まって動かなくなる。
寄り添う人は、「オヤジギャグ」を言って気持ちを和ませようとした。
でも、その寄り添う人も切なくなってくる。
そこにいて、寄り添い続けて、和ませ続けることのエネルギー、
寄り添う人にだって家族がある。
ジレンマに陥る。
いきなりの避難所での集団生活。
ある専門家は「チャンスです」と言っていた。
「避難所には障害者がいるということを知っておいたほうがいい」



先がよめる険しくないと分かっていそうな「道」にいることに気づいたとしても、小さくて気づかない課題をそれでも拾い上げ続けることも「道」。
誰かにとってそれは右側の「道」かもしれない。

右側、左側って何か。


「凡人」という自称も、何か。
「ちっぽけな自分」というのは誰と比べているのだろう。

そして、「道」なんて本当は自分が作っている観念的なもの。

「道」は自分が歩いた後ろ側にしかできない。

同じ「道」を毎日通っていても、道ばたのゴミを拾っているか。
道ばたに咲く花に気づいているか。
いつもあたりまえにそこにある「木」に気づいているか。


個人所有の押し入れの奥で眠る使い古しの毛布は何を温めるか。
できることの気持ちって何か。
善意は確実に届けたいと思う。
確実に届く道ができるのならば、「お取り寄せ」だって可能になっていく。
生活する基盤が整ってそこで上向きの経済を生産できるようになって地産地消できるようになることを願うのだとすれば、内側から外側へ、前向きに生き抜くエネルギーを信じてアシストしていくこと。
様々な善意をとりまとめて受け取ったからには届けないと気持ちがすまなくなる。

受け入れ体制はどうやって構築されていくのだろう。

陸路から、空から、海から。
本当に人々や物流が通る「道」を開くためにスキルを持った専門家が集う。
今は、受け入れ体制の「道」が開かれ繋がっていくことをただただ見守る。




2011年03月14日(月) 「どうってことない今日」

どうってことない今日であるならば、今日という日に感謝できていただろうか。

朝起きて、南側のベランダのカーテンを開ける。

空があること、穏やかな空気があること、カラスが飛び交うヒッチコック的な空でないことに安堵する。

窓を開けて、深呼吸をする。

どうってことない今日であるならば、ただここに居続けることにソワソワなんてしてなかっただろう。


師匠的教育実践家である人の言っていた「感性」「直感」に立ち止まり続ける。
それでも、本当はずっと同じ姿勢で立ち尽くしている訳ではない。
考え込んだとしても1時間も満たない。

朝起きて、昼のお弁当を作って、朝ご飯を食べて、夫が入れる豆から挽いた珈琲を飲む。
「どうってことない今日」に似ている。
私の「脳髄」で考え入力され画面に映し出される文章も、「どうってことない今日」にしか見えない。

「どうってことない今日」と同じように同じ時間ラジオを聴いている。
リスナーからのリクエストやパーソナリティ選曲の歌は言葉にしなくてもいい気持ちにやさしく浸透する。

リスナーからのメッセージにパーソナリティは声をつまらせる。
「私たちはのんきにご飯を食べていてもいいのか」


ーーー
「インフラとしてのtweet」

tweet。
追いかけられているようで私にとっては不安をかきたてるツールでしかなかった。
それは、思い込みであることを目の当たりにした。
「被災地の情報を得ようとしてたまたま見つけた」と書かれた、たまたま見つけたある日記を私は読んだ。
そこにはリンクが張ってあり、開かれるそのサイトには以下のメッセージが書かれてある。
参考までにそのリンクを張っておく。


ーーーー

#prayforjapan は、海外の人たちから日本に送られてくる応援メッセージのハッシュタグです。
1秒に1回以上のペースで、地震発生時から現在まで地球上のあらゆる地域から寄せられています。

prayforjapan.jp は、避難生活を余儀なくされている方、不安に押しつぶされそうな方に、
すこしでも勇気をもってもらえたらと思い、このメッセージを受け取ってもらうために、つくりました。
公開にあたり悩みましたが、一人でも希望を持ってもらえたらと思い、
国内で投稿された心に残るつぶやきや、海外から寄せられた応援メッセージをまとめています。

このサイトは、栃木県の避難所にて、停電のなか最初の夜を明かしている20歳の学生によって作られました。
現在、FacebookやTwitterで賛同してくれた有志により、運営と多言語化などのプロジェクトが進んでいます。

http://prayforjapan.jp/tweet.html


ーーーーー




私の「直感」は、この曲(歌)を選んだ。
久しぶりにコンポに入れて再生するこの曲は、針が飛び飛びだった。
でも、言葉は浸透する。
このCDはシングル。
小さな円盤だ。
アダプターにそれをセットしてしか聴けない時もあった。
リリースされたのは1997年1月22日。



Homeless Heart
山下弥生(vocal) 岩田浩(guitar)

『朝』
作詞:山下弥生
作曲:近藤有子
編曲:近藤由紀夫

改札を抜けていつもの電車を見送る
もう何度も迎え慣れた朝もやの中に
友達はみんな嫁いでもうあの街を出た
私だけがひとり まだ夢を見てる
もう戻れやしない あの頃と同じ夢を

生活に追われているのに慣れていくこの頃
あきらめかけてた夢をひろい集めながら
うす紅(くれない)の花びらが散るのをながめてた
走り続けてきた 夢を追いかけて
すてきな現実に うそはもうつきたくない

改札を抜けていつもの電車を見送る
もう何度も迎え慣れた朝もやの中に
かみしめていた悲しみの向こうに朝が来る
戦うことを避けて 何を守るというの
もう一度戻るよ あの頃と同じ夢に


2011年03月13日(日) 見守られていることと感謝と情報と

海外からの支援。
被災者の内部からの自発的コミュニティの形成。

今日で三日目にあたり、「日本の政府は〜!」との憤りのような声もラジオを通して聞こえてくるようになった。
部分的であれ断片的であれ海外へ発信される「情報」から「察する」「想像される」姿は、手を伸ばす準備をする行動に繋がっていて、あとは「具体的なGOサイン」を待つだけという状況に二日目に入った頃にはなっていたのかもしれないと思われた。
被害の規模が分からない状況にもかかわらず、海外からの支援の声に即座に「よろしく」を決断することを待つのはなぜだろう。「被害はそこまでじゃないかもしれない」との希望か。
最悪の事態の想定はなかったのだろうか。それよりも事実、情報としての確実さが先なのか。

一日目は呆然とただただ「なすすべもない」現実を知ることしかできない。
新聞記事コメントの言葉を借りるなら、「これはCGなんじゃないのか?」という予想外のリアルをただただ知らされる。

二日目、気持ちを同調するような言葉にできない気持ちでいっぱいで、励ますことも場違いで、別の土地での祝い事も慎まねばならない空気になる。切ない言葉のない音楽で現実を「受容」をすることを知る。

三日目、希望を持つように、そして、「ケア」という面でのサポートの必要性を共有する。
海外からのサポートや、全国的レベルで支援の動きが実行されるという知らせを共有する。
ラジオでは希望を持つように願いがこめられたリクエストが届く。
子どもに向けてアニメソングも流れる。
テレビでは厳しい現状が、広範囲で記録されたことが、繰り広げられる。
ラジオが出来ることを、ラジオがやる。

「情報」という言葉がよく出てくる。

「よく分からない状況」も「情報」だろう。

今日、三日目夕方頃「死者数万単位の可能性」と聞こえた。
可能性なら一日目の終わりでも二日目の始めでもあったはずで。


部分的な被害状況や映像が流される中、それが地図的位置的にどこからどの地区なのかが解説者も分かっていないことを視聴者は見る。
「これは森林か何かでしょうか」
それは、海岸部分だったことが後から分かった。
その映像を映したのは誰か。その映像の発する価値は何か。

自然の結果ではあるが、世界的に今、注目されている。
見守りや支援の対象となっている。
文化的規模の感謝と、この共生ともいえる形をしっかり覚えておきたい。


一人ではない。


「情報」の価値、意味について考えたいと思う今日である。





2011年03月12日(土) 3月11日午後

今、3月11日午後7時に近い。
「未来」の日付でこの日記を書いている。

午後4時半に用事を済ませた。
ラジオを聴く。
ネットを少し見る。
「停電している」とのつぶやきがSNSであって、テレビを付けた。
ずっと付けている。

マグニチュード8.8が発表された時も見ていた。
解説者の専門家のような人が小学生でもできる引き算だか足し算を音声にして「いや、まてよ…。阪神淡路大震災の150倍?…いや…え?!??」と動揺していた生の声も聞いた。

映し出される津波の目を疑うような光景。
流される船や車。岩手県。集落全体が流されたと今ニュースは言っている。
いろんなものが海水に押されるように流され、それらが広大なビニルハウスや畑の上にのっかていく。その向こうには1本の道路が見えて、その道路を走る自動車が見えた。
そこで映像は別に移る。その映像はもう3回以上見た。

コンビニの陳列棚が倒れているのにもかかわらず、店に殺到する人々。
それが現場だ。


去年の3月11日は、私が壊れたきっかけの日で、気が重かった。
でも、「そんなことより…」という明治以降国内最大の惨事が起こっている、この今。
慌てて、外に出てみた。
福岡は通常の空である。人や車の動きも電車の動きもいたって「ふつう」である。

テレビではくり返し言っている。
「冷静に行動して無理に帰宅しないように。」
「緊急時以外は連絡をしないようにしてください。」

3月10日の朝刊には宮城県知事が写っている。

なんということだろう。

都市圏の交通も麻痺して、隣接する県も混乱している。
千葉のコンビナートが燃え上がっている様子もおそらくリアルタイムで映し出されていた。
ヘリコプターで取材をしているが、熱さで近づけないと言っていた。
その取材レポーターに向かって「人々の避難している様子は確認できますか」などと言っている。
そんなの分かるものか!

切り抜かれる映像は多くのチャンネルで同じようだった。
多くの情報発信地とされる都市圏の放送局のアナウンサーはスタジオと思われる場所で実況をしつつもヘルメットをかぶってその様子を伝える。声がふるえている、もう誰か分からない音声さえも拾い上げている。それだけ生々しい。


被害者情報は「○市では1名の死亡が」「○市では5人の死亡が」という一桁レベル。


それでも、この今、私がいる場所は電気がガスも止まらず、同じような穏やかな空気に包まれている。テレビやラジオを付けていなければ、分からない都市圏近隣での混乱。

取材技術やカメラの設置は進化していて頑丈になって、届く情報はリアルで早い。
リアルな周りの音も聞こえる。
現場の「何が起きているか分からない人々」よりも、この今、ここで流れてくる耳に入ってくる情報は先を行っているかもしれない。
それでも、私は今、何か現場に働きかけることはできないでいる。
それでも、その現場の様子を見続け、聞き続けることは大切なことのような気がする。
情報を冷静に見聞きできる環境で現場の激しい様子を見続けるこの際どさ。
それでも、それは揺れや熱を伴わない。
それでも、ここにいる私は見続け聞き続けるしかない。

宮城県には電子力発電所がある。
「これまでのところ安全上の問題は無い」と言っている。

首都圏の全ての私鉄は止まっている。
安全点検は徒歩で行っていると言っている。

明日は博多〜鹿児島新幹線開通の日であるが、浮いていられない。
当たり前だ。
繋がっている日本だ。

それでも、今、出来ることをするしかない。
それでも、今。


お願い、津波おさまって。
お願い、余震おさまって。


それでも、今。
生き続けて祈るしかできない。

3/11 午後7時37分 





2011年03月11日(金) 結婚式で涙を見せなかった父親を考察する

私は、ずっと不思議だった。

どうして父親が結婚式で泣かなかったのか。

ずっと、気になっていた。


物心ついてから一緒に暮らしてきていると、だいたいの行動は推測できて、だいたいそのようになる。そして、父親を知る多くの人から「絶対、君のお父さんは泣くね」と推測されてきた。

替え歌ではないが、「結婚式で泣かないと冷たい人と言われそう」ではないが、自然な流れとして彼がそうなるのではないか、そうあってほしい、そうなるんじゃないかな、そうであると都合がいい、そうであるとホッとするのに…。という気持ちがあった。
照れ笑いをしながら、お互いにお互いの「家族」の歩む道を認め会えたら楽だっただろうな…という一方的な筋書きだ。

でも、現実はそうはいかない。


養老氏の本を読んでいて、ふと繋がった(ような気がした)

養老氏は4歳の頃に父親を亡くしてある。享年33歳。
結核で、「お別れしなさい」との周りの声もありながらも、少年は動揺を隠せない。
そのうち、父親はニコッと笑って喀血したのだそうだ。
周りの人々が悼んで泣いているのにも関わらず、泣けない自分がいた。
それから数十年だって、いきなり泣いたという。
そのエピソードで「挨拶」にも触れていた。
氏は人を見てすれ違いながらも挨拶をしなかったという。
挨拶をする、ということは父親の死を受け入れるということで、そうしないことで自分を守っていた。それほどに「死」に対しての恐怖感があった。
「死体」を相手にする学問に進んだのもそのことが繋がっているのだろうといったことも書かれてあった。


我が父親は、私の祖父つまり父親の実の父親に挨拶ができなかったのだ。
私もできなかった。
妹もできなかった。
母だけが「挨拶」をした。

私ができなかったことの要因は今の幸福に繋がっている。
道を選んだ、ということだ。

父はアメリカにいた。
妹は入院していた。
私は青森にいた。
スキーを堪能し、酒を飲んでいた。

気丈であったのは、母親ともいえる。

後日、父と私は焼香に行った。


父は祖父の喪の作業を行えただろうか。



そして、さらに考察する。
私の生まれ育った家庭には「挨拶」が「お休み」以外しか定着していなかった(と思う)

「ちゃんと挨拶をしなさい」と外で他の誰かと両親と私が一緒の時に言われて何度か戸惑ったことを覚えている。

「ちゃんと」自覚して挨拶ができるようになったのは、学生時代アルバイトをしてからだったと思う。「社会」で学んだ。

「ありがとう」と言うのも機会を逃すことが多かった。
「ごめんなさい」もそうだった。
育った家庭での親子関係に「ありがとう」「ごめんなさい」は、なかった。
両親の会話でもそういったやりとりを聞いたことはない。

きょうだいケンカで謝らせられることはあったが。

ところで、妻であり、母親である人が、夫であり父親である人に謝る時、どういう台詞をはくのだろう。逆であってもいい。

「あなた、ゴメンナサイ」(「君、ごめん」)?
「パパ、ごめんなさい」(「ママ、ごめんなさい」)?
「お父さん、ごめんなさい」(「お母さん、ごめんなさい」)?
「太郎さん、ごめんなさい」(「花子、ごめんなさい」)?



ーーー

結婚するということは、「別れの練習」の一つだと思う。

「別れ」とは親しい誰かを送る、という意味で。
分かりやすく言うと、喪の作業への心の準備。

遠方へ嫁がせる親としては、空きの巣となった家庭の受容課題。

いろんな感情を消化して、やがて、それぞれの人生を大切に歩いて行くのだ、ということを人生の節目で知るのだろう。




沖縄のお墓が、標準になればいいのになぁ…。
それか、死者を弔う時、鈴をならして参列する文化。


2011年03月10日(木) それでも出逢う

1月にラジオで偶然聴き取った内容で、気になる本があった。
雑誌の出版に関わっている人が紹介していた本だった。
その本はちょっと難しいけど読みやすくちょっと怪しいかなと思われたがさまざまな研究についても触れているので読み応えがある、といったコメントだった。

その本のタイトルをメモって心当たりのある本屋で在庫検索をした。
近所の本屋で取り寄せたい旨を伝えた。
しかし、「出版社にも問い合わせたところ、増刷の予定はない」という返事で入手は実現できなかったのだ。
その本にこだわるのは、あきらめた。

後日、そのタイトルを含む本やテーマとして扱う本に偶然何冊か出会い、私は買ってきた。
それもめぐり合わせだと思い、連想ゲームの様に次から次に手に取って読みたいと思った本は必然的なのだ!と思うことを素直に受け入れた。
解剖学者の著作まで行き当った。


1日前に読んだ養老氏の本でこのようなことが書かれてあったことを思い出した。
「科学」で証明されたある一つのことを信じすぎると「宗教」のようになるので、「科学」と「宗教」は時々仲が悪い。


ここで、自分を考察する。
「科学」的に論理的で道徳的に心理的な視点で展開する文章に私は引き込まれやすい。自分へのメッセージと受け取ってしまう。
惑わされない距離感を持つと、最高の「師匠」となる。

しかし、例えば、心のバランスを崩していて、そのまっただ中である時、その自覚がない時、最高潮に対峙している時、そのようなメッセージに依存すると、暴走は止まらなくなる。
あたかも自分を陥れているのではないか?
何かの「宗教」的な空間へ誘導されようとコントロールされているのではないか?
そのうち、聴こえないほうがいい「声」まで聴こえてくる。
見ているテレビやラジオや新聞などのあらゆる言葉やメッセージが自分の敵にしか思えなくなる。やがて、身近な家族から自分は抹殺されるのではないか、また、自分が拒絶したいと思うとか不満を抱いてる対象を殺してしまうのではないかという極度の不安(妄想)にずれていく。

今となっては貴重な経験、というところまで思えない。
でも、「恐怖」ではない。
それを「恐怖」としてしまえば、そう思っている自分(「自我」)を消すことでその「恐怖」から逃げないといけなくなる。

「自分を振り返る」こと、「反省をする」ことは大切だが、そのやり方によっては選ばないほうがいい選択もある。
それでも、選ぶのは自分なのだ。

しかし、今日、一度、あきらめていた本と思いがけず出逢った。

「あきらめた」という気持ちはなんだったのか。
実物を前に私は試された。

「君はたしかあきらめたんだよね?」という光線をダイレクトに受けた。(気がした)

後から聴こえた(※危ない声ではない)


学生時代、芝居の脚本を書いていたこともあり、どうも台詞を文章化したくなる私がいる。


あきらめていた本(台詞):遅くなってごめん。どうしようかなって思った。でも、すぐに君の前に姿を現さなくてよかったなって思う。
求めている物がすぐに手に入ることが喜びだというのは君はよく知っている。
だから、君に練習をさせたくなったんだ。
ほどよい探求心を持ちながら、偶然から展開される流れに君はついていけるかってね。
君は自分と対話しながら、向上していけるようになった。
前を向いて歩ける準備もできた。
君はボクを見つけてくれた。
でも、君があきらめたことはボクは知っているよ。
だから、君が手にとらなくてもどうってことはないんだ。



あるオジチャン的な「師匠」は言った。

「逃げていると、何度も何度も追いかけてくる。」

その時、私は「苦痛や苦手で避けていること」を想像した。
だから、逃げてはいけないんだ、と自分に言い聞かせた。

でもそれは少し意味が違うことを学んだ。
自分が近づきたい、求めたいという対象の方から近づいてきている直感、感性向上の練習が「逃げずにどう受け止めるか」につながるのであって、憎しみ、恨みを抱かずに我慢してその場に居続けることを強要しているという意味ではないということ。


あきらめたと自分が思った対象にも出逢えたという経験。

「どうせ私にはできない」と思ってあきらめていることだって、向こうから近づいてくることだってあるのだ。

さて、どうする?


とりあえず、流れる季節の真ん中で、それでも出逢った本を読もう。







2011年03月09日(水) 直感の練習

変な題名だ。
「直感の練習」

「直感」とは何か。

[名](スル)推理・考察などによるのでなく、感覚によって物事をとらえること。「―が働く」「将来結ばれる運命であることを―した」(『大辞泉』より)


一方的に「師匠」と呼ばせていただいている方からの言葉。
私の「師匠」は歴史上の人物から「隣のオバサン」的な人まで多様である。


どんな人が「偉い」「スゴイ」かというのは人それぞれだろうけど、例えばテレビに出ていたことがあるとか新聞で連載をしていたとか本を出しているとか公な公共的な場に実名を出し存在を伝えるというのが一つの共通した認識なのか?と思われる。

しかし、本人が「私はテレビに出たことがあるんですよ」「私は新聞に…」「私は本を出しています」と言ってもらわないと分からないということもある。
「その道で」「その領域で」有名であると言っても、その道や領域を概観する要領なんてものはこれまたそれぞれであるわけで。

だからといって、「本人」が「私は有名なんですよ」的な言葉を伝えて来たとしても、微妙そうである。しかし、「ホンモノ」は何気に自己アピールをするのが上手である。




おそらく、私は「芸能人」「著名人」という方が隣に座っていても分からないのだと思う。
分からないゆえに、気軽に世間話的なトークもやってしまう。
「その人」を知っている人に何気に「その人」に関するエピソードを語るとき、「あなたはいったい何者?あの人は有名な方なんですよ。そういう話をされるなんて…(あなたって…)」ということもある。

実際にあった。
そのやりとりを通して、「その人がいかに有名か」とか「その人がいかなる実践者か」というのが見えてくる。


インターネットが普及している世の中。

「もしかしたら、本人の意思ではない言葉かもしれない」という疑いみたいな一歩引くこともある。そういう時はだいたい自分自身が信じられない。「こんなすごい人からコメントがつくはずがない。これはきっと偽のやりとりだ」といった様に。

自分にとって成長させてくれるような気づきを与えてくれるようなメッセージに気づく喜びのような感覚そのものは、メッセージをメッセージとして受け取った人に委ねられる。




この1年で、私は結構「考え方」が変わったと思う。



2011年03月08日(火) 「お寿司」で「挑戦すること」を考えてみる

奇想天外なことを楽しく考えるクセをつけることは、いいことらしい。

そういうことが書かれた文章が頭に残っていたからか、ある時なぜか「お寿司」に例えて「ある人」に熱く語っている情景を想像してしまった。
それもその「ある人」というのは、「異端児」のような人格を設定していた。

異端児のその人は言った。
「私にもお寿司の作り方、教えてくれたっていいじゃないですか。
誰も私には教えてくれないんです。店長はあなたから私が教えられているものって思っているんです。店長からあなたにも私に教えるように言われたはずです。私に教えたくなければその時にあなたは店長に言うべきです」

私はいろいろとそれに続く展開要素を考えてみた。

・私も始めは「炊きたてのご飯」だと思っていた。
・すぐにそれは冷ましたご飯的であり、ほんのり「酢」が入ったような風味であることが分かった。
・ご飯を炊くときに水に酢を加えればよいのだろうと思い、そうしてみる。
・でも何かが違う。酢の量が違うのだと思っていろいろと試行錯誤する。
・でも何かが違う。ふと、ご飯を炊くときに「昆布」を入れると美味しくなるということを知る。
・試しに「昆布」を入れて普通に炊いてみる。
・普通にご飯を炊くということでも「昆布」の存在が生きているということを知って感動する。
・「昆布」の種類にもいろいろあることを知る。
・苦手な親戚の集まり。「ちらし寿司」をいただく。
・親戚のおばさんは「ちらし寿司くらいしか人様に作ってさしあげられない」と言っている。
・別の親戚の人が「優しい味付けだからホッとする」と言っている。
・別の親戚の人が「我が家では、子ども達にうちわでご飯を扇いでもらっている」と笑顔で言う。
・親戚のおばさんは優しく微笑む。
・ふと、こういう考えが浮かんでくる。
ご飯を少しさましてから、「酢」を入れてみたらいいのかもしれない。
・誰も私に具体的方法を教えてくれないということに不満を抱いていなかった自分に気づく。
・いろいろと私が試行錯誤することを見守ってくれていた人たちに気づく。
・「お寿司」の味は、それを食べてくれた人の思いを察することで奥行きが出てくる。



「感覚的」につかんでいったことを教えるのは難しい。
マニュアルがあればいいと思ったことがあった。
そのマニュアルを探すのに奔走したこともあった。
マニュアルがないのに「させようとしている」ということに無神経だと思ったこともあった。


これという手段が限定されてないということは、いくらでもチャレンジが出来るということで、誰もどの部分が違うか間違っているかなんて分からない。
その試行錯誤の姿から、見えてくるパターンや新たなアイデアが生まれることもある。


2011年03月04日(金) 私も大人になったか

「3D」漬けになってはならぬ!と、自分に言い聞かせて散歩に出かけた。

友人によると図書館までだいたい歩いて40分くらいというデータだった。
私は行きは電車で行くことにした。
思えばこの電車に乗るのはかなり久しぶりだった。
駅前の景色もピンとこないくらいに変貌途上で、懐かしく古い記憶と重ならないことに、なんだかおセンチになる。

小さな遊園地の近くにそれはある。
駅からこんなに歩いたか?と信じられなかったが、でも、そんな気もしてきた。
古い記憶が重なるまでには時間がかかるようになったらしい。

私も大人になったな。

遊園地の木立が新鮮に思えて、ケータイで写真を撮ろうと構えた。
しかし、太陽の光線が強烈で見送った。

やっぱり、私は「木」が気になる人なんだなと思った。



一回りしてから、カード登録申請手続きをした。
市内の大きな図書館と10分館で使えるカード。
返却は地下鉄の駅2箇所と市役所でも可能とのこと。
旅人気分で各地の図書館に行ってみるのも面白そうである。

今日行った図書館では(共通したシステムかもしれないが)、「自動貸し出しシステム」という機械があり、感動した。
本を積み重ねて指定の場所に置いて、カードを差し込むと液晶に冊数が表示されて、レシートが出てくる。

機械というのは進化するものである。
誰がやっても同じ。
それが機械。

人間は瞬間瞬間、衰えたり向上したり慌ただしい。
人間というのは進化するものである。
一人ひとり進化の時期や内容は微妙に違う。
それが人間。


ーーー

今日、「さて、活動準備だ!」というその時。
インターホンが鳴った。
まだ脳に栄養が行き渡りきってないような微妙な時。
女性2人組の姿が液晶に映っている。
安心せよ、こちらの姿は分からない。

いきなり先方は言った。
「紛争は人々の祈りによって…あなたは、どう考えますか?」

「紛争」というキーワードにはたしかに敏感であった。
そして「人々の祈り」というのも、「信念」とか「信じること」「魂」に視点を置けば、哲学者や臨床心理士の書いた書籍を読んでいることもあって敏感な領域ではあった。

私は正直に言った。
「いきなり聞かれても、即答できません」

すると、本来の目的を女性2人の内1人が簡単に語る。
なんとかという冊子を配っているのだと。
「うーん。結構です」と反応を送ると、女性はインターホンのところの表札を確認するような視線を送って去っていったのだった。

もしも、と、想像する。

「でしたら、また明日伺います。今日一日お時間差し上げますので、あなたの考えをお聞かせ下さい」という切り返しを受けたら…

「でしたら、こちらの用紙にお考えを書かれて、こちらの番号にFAXくださるかメールアドレスにメッセージをしてください。なんでしたら、切手不要の返信用封筒をお付けしますがいかがされますか?」という切り返しを受けたら…


彼女らは、与えて与えてひたすら与え続け説き続けるという同じような行動をする人たちであることは、今までの「こういった」経験から分かってはいるのだが。
同じような行動をするということが分かっていたゆえに、私自身の対応の仕方にアレンジ(?)をしてみたくなったのだった。

私も大人になったな。


2011年03月01日(火) 春の前はたしかに冬〜何日か前は冬だった〜

気温9度。

ファンヒーターを稼働。
何日か前の雨は、春の陽気が感じられた。
しかし、昨日、今日の雨は冬の余韻が感じられる。
傘をさしながら、手袋を装着しての外出。

何日か前に市のアンケートに回答した。
論点がずれたか?と思いつつも「飲酒運転」について書いてみた。
その二日後、新聞記事に市長のコメントとして「飲酒運転」の言葉を含むメッセージを載せていた。なんだか市民に近い市長なのかもしれない…という期待が持てた。そう思えたのは、私が関心を持って文字をつかまえたからだろうと思う。

何日か前にメールをすべて消去した。
登録アドレスも何人かを残して削除した。
携帯のメールは受信して解決したら(必要な返信を終えたら)フォルダに移動するように何日か前からそうするようにした。

何日か前から、食卓に意識して物を置かない様にしている。

何日か前から、電子ピアノの蓋を開けるようにしている。


何日か前に、市のホームページをお気に入りに登録して、新着情報が分かるように設定した。



何年か前に「新しいふくおかの教育計画」というのをプリントアウトしていた。

今日、「福岡市特別支援教育推進プラン―福岡いきいきチャレンジプラン―(原案)」というのをプリントアウトしてみた。


「新しいふくおかの〜」の中に「福岡スタンダード〜福岡のすべての子どもが身につけてほしい大事なこと〜」として「あいさつ・掃除」「自学」「立志」が挙げられている。
「スタンバード」という「福岡スタンダード」推進キャラクター(バード:鳥をイメージ)もある。

この「スタンバード」言われてみれば、公立小中学校付近の看板で見かけた。「あいさつ・掃除」「自学」「立志」という文字も。


「環境としての大人」というのを、時々私は好んで使っている。
それは「子どもの保護者としての大人」の立場が自然な流れとしてないために、包括するような表現はないか…と何年か前に考え、いつしか私の中では頻繁に使う言葉となった。


児童を支援するという任務にあたっていた現場にも多くの「環境としての大人」が存在。そして「子どもの保護者としての大人」の立場であると思われる方も多数いた。

「見た目」または「自然に想像する範囲」で、私の年齢層は中学生の子どもが家族として存在していても「変」ではない。
夫の年齢層ともなると、子どもが成人していても「変」ではない。
しかしながら、自分という一人家族であることもまったく「変」ではない。
さらに、離婚して母子または父子家庭であることもまったく「変」ではない。
別の視点からすれば、独身である子どもと同居している親がいても「変」ではない。
子供夫婦と同居しながらも孫がいない親がいても「変」ではない。

そういう社会に属している。

そういう社会ではなかった時代に20代、30代過ごしていた大人は焦ったものだと聞く。世間が許さない、世間体を気にする時代。
そういう時代に頑張った世代からすると、子育てもしていないような大人がよそ様の子どもの支援に当たるなどはどういう感覚(神経)をしているのか?と疑問に思えてならないと映ることもあるのかもしれない。

しかし、だからといって、私の中にこみ上げてきた、「人」「もの」「こと」と「豊かにかかわり」、「目的や見通しを持ち、主体的に活動しようとする」「自学」の精神、「自分を信じ、持てる力を十分に発揮し、社会へ参加していこうとする」「立志」の精神を押し下げる必要などないはずである。


「特別な支援を必要とする子どもたちの姿」では、上記「福岡スタンダード」を「人・もの・ことと豊かにかかわり、生活に必要な知識、技能を身につけようとする子ども(あいさつ・掃除) 目的や見通しを持ち、主体的に活動しようとする子ども(自学) 自分を信じ、持てる力を十分に発揮し、社会へ参加していこうとする子ども(立志)」と具体的に掲げられている。
「めざす子ども像 夢に向かってチャレンジする子ども」という言葉もある。

「福岡いきいきチャレンジプラン」
私という一個人も、この土地で「いきいきチャレンジ」する気持ちで、児童を支援するという任務<第2章>を歩もうと決意したくなった今日である。

いろいろなメッセージがあふれている。
自分の関わりたい領域や自分が関わる身近な社会にそれらを読み替え、自分の中でそれを吸収して消化して実践していく(行動する)ことを自分で「実験」して、「振り返っていく」こと。
それが今の社会でひたむきに生きていく理由であり目的なのかもしれない。
だとしたら「他の誰か」の主観的なセリフに翻弄されなくてもよさそうである。

自分を愛そう。
自分に期待しよう。



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