ふつうっぽい日記
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明日は、街に出る予定であるので今日は自宅で過ごそうと決めていた。
めずらしく午後3時くらいから何かをしても構わないがかといって何をするかを考えるのが面倒な数分があった。
人はそれを「暇」と言うのだろうか。 私、個人的に「暇」という言葉を好んで使わない。
「何か」をしていないことを「暇」と言うのならば、「何か」をしていないことをしているのだから「暇ではない」と考えるからである。 そしてそこには「考える」ということをしている自分がいる認識がある。
少々哲学的な文章を書きたくなったのには理由がないこともない。 むしろ、ある。
午後3時から気づけば2時間くらいベランダで夫の喫煙用折りたたみ椅子にどっしりと腰掛けて、池田晶子さんの本を読んでいた。 『魂とは何か』 この本を買うに至ったきっかけは「スクールカウンセリング」関連の書籍に参考文献として紹介されてあったからである。 他にも参考文献は紹介されていたのにも関わらず、この本は絶対に読みたいという気持ちがあった。
暖かな陽射しを受けながら読むのには心地よい文章だった。
タイトルの表現「○○とは何か」という言葉が随所に見られた。
ずいぶん前、「あなたの日記にはある作家(?)の表現(雰囲気?)に似ているところがある」というような意味深な感想を頂いたことがあった。 当時は芸能人の書くエッセーの雰囲気かしら?と思っていた。 でも、よく分からないことは、ふとしたときに、浮上するらしく、厚かましくも「池田先生」の表現なのか?と今日は思ってしまった次第だ。 だいたい、今の時点の記憶で、「誰かの雰囲気に似ているとたしか言われた」程度なので、調子よく繋げたかっただけかもしれない。
そういうことを伝えてくださった方の記憶ともなると、かなり曖昧なはずで、こちらから「ずいぶん前に…」と聞き返すのは変だ。
調子よくとは何か。(意識して使ってみる) 都合よく、ということである。(薄いなぁ)
これは、違うな。 違う違う。
哲学的な、理論的な文章を読むというのは時に私にとっては心地よい。 感覚的に読めるからである。 詳細な背景を想像しながら、人物関係を把握しながら読み進める必要がないからである。 だからといって、そのような本が苦手という訳ではなく、というよりハマるとしばらく同じ作者の本を読み漁る(買い漁る)という傾向がある。
『魂とは何か』の中に「存在論」というのが出てきた。 そして「知ってしまった人」という読者からの手紙が載っていた。
次から次に繋がっていくことばかりではなかったが、今日の午後3時からの2時間の私は「存在論とは何だろう」「ヘーゲルの哲学とはどんなものか」「ユング関連について知りたい」と思った。
人の思いや考え、気持ちなんていうのは何秒か毎に揺れて変化するものである、と昼前のラジオで言っていた。
にもかかわらず、ある出来事から掻き出された気持ちにとらわれ続けていろいろと考える。 ときに怒りや嫉妬のようなネガティブな気持ちの扱いに困る。 忘れようと意識すればするほど深く刻まれる。
思い切って、体内(胎内)を巡らせる。 「誰か」や「何か」に「期待」をする必要などないのだ。 「期待」をするとしたら、自分自身。 誰かにとって自分は「誰か」である。 つまり、「期待される自分になる」なんていうのは、なんて変な表現だろう!
ポロリンと排出して、「じゃ次、行ってみよう!」 しかし、巡った巡った。 気づけて善かった。
見た目は同じ人間であっても、一人ひとり「魂」は違う。 親子であっても違う。 兄弟や姉妹であっても違う。 ひとり一つ「魂」を持っている。 自分の魂の世話をしていくことが、生きていくこと。
生きること自体が善であるかは分からないが、ただ、ひたむきに、善く生きていけばいい。 はたして「善く」生きているのか?とふり返るためにも、生きていくことはただただ求められる。 「善く」と言っているからには、善悪のセンス(分別)を問いかけながら、考えながら日々生きることをしたいと思えた今日であった。
2011年02月18日(金) |
すがすがしい一歩成長の足跡 |
昨日、連休にバス旅行をした年輩の女性と電話でお話。 天候が悪くて、予定とは違うルートをとることになり、大変だったことをまず伝えてきた。「ふんだりけったり」みたいな感じで、ネガティブな感情が漂っているのかな?と思われた。 しかし、「へぇ〜。」と相づちを打ちながら聴いていると、食事の話に変わり、その素敵さ、感動について熱く語ってきた。 そして、「主人とまた行けるといいねぇって言ったんですよ」と括った。 「それはそれは、有意義な週末を過ごされたようでよかったですね」とお伝え。 ちょっとしたこういうやりとりも「傾聴」の仲間なのかもしれない。
想定外な出来事があると、そのインパクトが強くてなんとも気持ちが不愉快に傾くこともあるけど、一連の流れでみると「美味しい」「幸せな」出来事もちゃんとあるものだ。
---- このところ、「脳」に関する本をいろいろと読んでいる。 それらの本からの「ほむほむ」エピソード。 印象的だった言葉など。
「中年」という年齢層において、「名前が出て来ない」とか「白髪が増えた」とか「抜け毛が多くなった」といった老化に脅かされる。 そういう表面的な衰えから、脳の内部もその機能が低下してきていると考えてしまう傾向にある。
だいたい脳内の機能って意識できることなのか? 理解することができるものなのか? 見えないのに?
高齢者を見ていると、認知症(痴呆)や身体が不自由になり車椅子での生活が待っているのではないかと不安になりがち。 しかし、「中年」の脳内の細胞は、進化のピークであるそうだ。 脳をスキャンすると白い脂肪質の細胞が増えていることが継続研究で分かってきたという。 その進化の過程で、「名前が出て来ない」といった記憶領域に「ずれ」が起こっているのだそうだ。 たしかにその「ずれ」具合は気になることである。
十代の少年たちと比べると、中年という発達段階では、思慮分別がついていて、賢い判断ができるようになっている。 中年期は物事を全体的に見通した上で目の前で起こっている状況を冷静に受け止め受容できる視力も培われている。
「細心の注意を払える」パイロット、「熟練した」専門職のように、それまでに経験を積んできたものや磨いてきたものが「才能」のように現れる時期が中年期ともいえる。
「知恵」という言葉は年齢に関係なく表現で使うことはある。 中年期は本当の意味での「知恵」が誕生する時期であるそうだ。
ある「行動」があり、「気づき」、「理解」し、「受容」していく流れ。 「受容」の後、すがすがしい一歩成長した自分が完成している気がする。
こう考えると、目の前で起こる理解し難い出来事や人との関わりも自分を成長させてくれる教材ということになりそうだ。
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