ふつうっぽい日記
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2001年12月27日(木) よいお年を

12月の月末だということで、来月が1月だということで、いつもとは違う月末な訳で。毎年いろいろと年を越すことについてふと考えているような気がする。

学生の身分の年末と、仕事人(就職している人)の年末と、分かっていて無職である人間の年末と、本人の意志とは反する無職状態である人間の年末と、いろんな立場での年末がある。従妹のように、一時帰宅で正月を過ごす年末もあり。反省しつつ塀の中で年越しをする人間もあり。運だとか縁だと自分に言い聞かせて、1年を振り返り、また、新年を迎える。

「おみくじは新年に1回引くから意味がある」と母が言っていただろうか。私は神社等に行って、初詣以外でもおみくじの箱を見つけると引いているような気がする。その結果に一喜一憂しそれからの何日かを過ごす。実家では雪の降る大分にる神社によく家族揃って行っていたもので、帰りに温泉に浸かって帰ったりしていたっけ。実家を出て、帰る家が別にできてから、いや、違う、親不孝と自覚しつつも年末に今の主人の一人暮らし先に押し掛けてどこかのお寺に初詣に行った。「最後の家族での正月」も実現させずに私は嫁いだはずで。もっと「実家での正月」を刻んでおくんだったと今さらながら思った。



<<<願>>>来年1年も健康に過ごせますように…

<<<願>>>夫婦(家族)円満に過ごせますように…

<<<願>>よいお年を…


2001年12月26日(水) 頭は使い過ぎると痛くなる?!

今日は朝から、頭を使うことをやっていた。本当はさっさと済ませるか、いさぎよく後回しにして今月の家計の〆と年末年始の計画(食材とか大掃除とかの)をたてようと思っていたのだが…主人の忘年会をいいことに、自分中心の時間が過ぎていった。それでも、ちゃんと買い物と郵便局のちまちまごとは済ませたのだけど。

郵便局は近所に行ったのだが、こんなに利用する人がいたのか?!と目を疑うような人の数だった。さすが年末だ。局長らしきおやじさんの言葉が聞こえた。「昨日は400人の利用やったから機械も調子悪くなるわな〜今日は昨日よりはマシな方やで〜」と。400人とは凄い数だと思った。まあ、同じ人が残高照会をして払い戻したりする場合もあるだろうが。年令層的には高齢の方が多く、孫のお年玉のスタンバイかしら?なんて観察していた。窓口は2つしかなく、相変わらず親切とは言えない表情で対応している局員だったが、こういう時だからこそ、気合いを入れるべきだ!とココロの中で思う私って。私の手続きはものの数秒で心なしか、局員さんはほっとした表情をしていた。郵便局のみならず、年末は何かと処理が立続けにやってくるもの。

さて、外出からは2時半には戻っていた。それから私がしたことは、WINDOWSの学習。ちょろっと触ってから、クリスマスプレゼントにねだったPS2ソフトを立ち上げるつもりだったのだが、気付いたら7時を回っていた。なんて集中力!!(*途中で洗濯物を干したりしたが)主人の草野球のHPの6割ぐらいをWINDOWSデータにおきかえた。メールアカウントの移動もやり、有意義な時間だったが夕食時に頭痛が襲ってきた。ぼぉ〜っとして野菜サラダを食べ、パスタを平らげると少し落ち着いた。

今日はよく眠れるような気がする。


2001年12月25日(火) クリスマス

昨日はクリスマスイヴ。天皇誕生日の振り替え休日ってことで、お休み。何して過ごしたのか?と振り返ってみることにする。普段の土曜日、もしくは日曜日と同じような感覚でゆっくりと起床。ケーキは前日23日の夜に焼いていたので、後は食べるだけという状態。乾杯のシャンパンも買っておいたので、後は飲むだけという状態。あとは…お決まりのチキンを入手すれば主役は揃う。多いとは分かっていながらチキンの老舗ケンタッキーに向かう。
やはり、多く、いつものピース売りはしておらず、セットになった限定販売のみだった。お向かいには別のファーストフード店が「並ばずにすぐに買えますよ〜」とハムスターのキャラグッズを高々とあげて呼びこみをしていた。私たちがくだした決断は、お惣菜コーナーで売られていたチキン。チキンだけで腹を満たそうなんて思っておらず、トンポウロウ(中華惣菜)をメインに選んだ。あとは、サラダ。レタス、トマト、キュウリという定番に加え、クリスマスというイベントにかこつけ、彩り豊かな赤黄オレンジのパプリカ、サラダ用ほうれんそう、カイワレ、パイナップル、いちご、オレンジ、ライチが食卓に並べられる。「サラダバイキング」さながら。デザートには自家製チーズケーキと赤ワイン。今回はなかなか焦げ目がつかず失敗か?という不安もあったのだが、もちもち感はちょうどいい感じで主人は二切れ食べていた。私は今日1切れ食べた。あと2切れあるので今日のデザートになるかな。日本の行事ではないけど、華やかで明るいクリスマスは嫌いじゃない。でも、1週間後には確実に年越しをしていることを、思い出した時が慌てる慌てる。しかし、今日は給料振り込みであるにも関わらず午前中、まったりと過ごしてしまい、家賃の振り込みが1日遅れることに(^^;)

さて、気合いして今年のラストスパートしなきゃ\(^o^)/


2001年12月21日(金) 帰省日記(友情編)

12月の帰省では、家族と友だち3人との面会が主だった。たしかに、他の友だちとも会いたい思いはあったのだが、ゆったりと過ごしたかったのも正直なところであり。友だち3人とは「帰省日記」にも書いたように宿泊付きの集まり会でイベント盛り沢山だった。それぞれに役割があって、気持ちは学生時代と変わらずはしゃぎまくることができた。この仲間の中では私が唯一の既婚者で、次は誰だろう?というのが毎回必然的に話題になる。

ホテルの部屋(和室)での二次会のイベントでは、私の司会で始まる「ジュース早飲み競争」、松島ななこ系のT子主催のサイコロトークと変装タイム、16日に誕生日を迎えた子主催nの福袋形式プレゼント交換、ジャニーズ大好きみんなのムードメーカー的存在のF子の極秘M子に贈るバースディ企画と濃厚なスケジュールだった(笑)定期的に睡魔のビッグウェーブに襲われながらも、話に話した。

私が企画した「ジュース早飲み競争」というのは、たんに注がれたジュースを飲むのではない。もちろん、青汁のようなゲテモノのジュースを飲ませる訳でもない。では、なんなのか?あるアイテムを使って同じ量のジュースを飲むのだ。今回使ったのは大阪の雑貨屋で調達してきたモノで長さ2メートル、直径2ミリのチューブ型ストロー。(*酒類では絶対してはいけない)私の「よ〜い、スタート!」のかけ声で4人みんな飲みはじめる。コツをつかんだF子は親切にみんなに「こうするといいわよ!!」と得意げに伝授。しぃ〜んと静まり返った和室にてのこの光景はかなり異様だったであろう。5分くらい経って、T子が(^ー^)v完飲!!続いてF子、私、M子が寸差で飲み終えた。M子がラストだったのでM子からサイコロトークが始まった。

前もってお題が決まっているのは面白くないので、当日、それぞれにカードが渡され、そこにトークのテーマを書き、企画担当者のT子に渡し、T子自作の「カード連動式サイコロ」にて展開された。「マイブームは何?」「次に結婚するのはズバリ誰だと思う?」という定番的なモノから「小泉首相に一言!」、「次にやってみたいヘア−スタイルは?」「穴があったら入りたかったあの時」「2度あることは3度あるといえば…」という質問もあり、トークの内容はそれぞれ質問を作った者の予想とは反していて面白かった。私はもちろん、ドアノブ事件のことを身ぶり手ぶり、そしてデジカメ写真を見せながら披露した。

トークが落ち着きを見せ始めた時に、変装タイムが始まった。あみだくじで変装するアイテムが決まった。1番くじを引いたのはおとぼけキャラの(?)F子だった。F子は私とM子が目隠しをされている間に変装タイムリード役の松島ななこばりのT子により、鼻から下をゴリラにされていたΨ( `∀´ )Ψ「みんな見ていいよ!」との合図でF子の顔とご対面。もう笑うしかなかった。次は私の番で次は何にされるのやらドキドキだった。私はたぬきでも牛でもなく「ちびまるこちゃん」に出てくる「はなわくん」だった。続くM子は「ともぞうさん」だった。ラストは松島ななこばりのT子でF子のコーディネートにより、鼻たれ小僧にされていた(爆笑)残念なことにその時の情景は写真には残されていない。できたなら、記念撮影したかったものだ。

続いて、誕生日を迎えるM子主催の福袋タイムが始まった。これはくじをひくと、紙にキャラクターのシールが貼ってあって、同じシールが貼られた袋がいただけるというシステムだった。500円相当のプレゼントが4品が袋に入っており、かなりお得な気分だった。自分の選んだプレゼントも入っているのだが、選ぶ時に「自分がもらっても嬉しいモノにすること」というルールを作っていたのでみんな満足。それぞれゲットしたプレゼントを並べて「これからの自分へのテーマ」を語った。T子は全体的に黄色で統一されており、「テーマカラーは黄色で癒し系を目指すわっ」なんて言っていた。私はピンクのガーベラの花のついた「ローズ」の香り付き吸盤とピンクの目覚まし時計が入っていたので「ピンク!」と叫んだのは言うまでもなく。がやがやとしゃべっているのに紛れて、M子の誕生日企画の準備を進める。M子は沖縄が好きなので音響担当の私は持参しておいた沖縄のCDをさりげなく流す。

それをきっかけにF子とT子が「忍者玉」をM子に投げバースディカードが手渡された。「忍者玉」というのは、簡単に言えば紙テープである。蜘蛛の巣のようにピヒャ〜ッとピンクとブルーのテープが綺麗に広がった時は感動だった。クラッカーは音が鳴るので却下したのだ。M子はしばし、驚きの為固まっていたが、M子の感謝の言葉によりイベントは全て無事終了したのだった。

M子29歳の誕生日。嫌なこと、楽しいことと向き合いながら、30を目前に微妙な1年を過ごすのはみんな同じ。いつまでも、仲良しでいようね!!


2001年12月20日(木) 帰省日記(2)

13日(木曜日)
夕ご飯:父が3パック800円で買ってきた「ふぐ刺し」「たこ刺し」あと忘れた何かのお刺身をつまみに父母とともに軽い酒盛り。妹は外で忘年会だとかで11時過ぎに帰宅。

14日(金曜日)
朝、父親を駅まで車で送る。久々の運転だったが、車の数も少ないし、道幅も広いのでるんるんした気分で運転することができた。しかし家に無事戻るや否や、みぞれまじりの雨が降った。そして、かなり寒くなった…私はみぞれ女なのか?寒い女なのか?母は私がてっきり二度寝をするものだと思いこんでいて、布団を畳まずに残しておいてくれた(私は母と同じ布団に眠ったのだ(*^.^*)でも、運転して目が覚めて朝ご飯とデザートをしっかり食べてまったりと過ごす。ややあって、妹が起きてきた(妹は今、ぷー太郎さん。来年から働くらしい)帰省の目的の一つであるパソコンのメンテナンスを始めることを告げた。デフラグができない(WINDOWS)と聞いていたので主人に電話で尋ねつつ作業を進める。メモリの増設もちゃんとできた。作業がわりと早く終わったので妹の運転で「トリヤス久山」(福岡県粕屋郡久山町)というショッピング施設に行った。そこで肌着を調達。少しは家から持ってきていたが、現地調達も少し。安いし品揃えも魅力的で留守番している主人の下着やら靴下やらも衝動買い。帰りに晩ご飯鍋の食材を買った。父は忘年会で不在だった。「カニとすり身は冷蔵庫にある」ことを鍋を食べはじめてから気付く天然3人家族…「メインはカニだから助っ人として牡蠣を入れよう!」ってはずだったのに、主人公は忘れられて…そうこうして金曜日の夜は更けていった。

15日(土曜日)
8時過ぎのJRで行橋の友人宅へ移動。最寄りの駅から乗った時にソバージュでサングラスをかけたおばさまが降りようとして私の肩をたたき、ビビった私。「ぉお〜!!っ!ああ〜っ!」という私のおたけびと同時におばさまは「頑張ってね!」という。「ああ〜っ!」と発した時にそのおばさまが誰なのかを思い出したのだが、すぐにトビラは閉まってしまった。行きつけの美容院のママさんだったのだ。友人の結婚式で帰省した時はそこでセットをしてもらっていたし、独身時代も常連だったので覚えられているのだった。感動的な束の間の再会の後、普通車両にも関わらず「検札します」と車掌が接近してきて、バタバタした私。なつかしい景色を見ていたらすぐに乗り換えポイントの小倉(こくら)駅に到着。そこで行橋の友人にメールを送りお迎えを依頼した。彼女は10分ほど送れて現れた。その間に、病院関係の送迎バスの運転手と思われるおじさんから「病院行くとはあんたね?」とナゾの問いかけをされ、「友だちと待ち合わせしてますぅ」と見ず知らずのおじさんに丁寧に説明。おじさんは笑ってその場を去っていった。私は大きなスポーツバッグを1つ抱えていたのだが、その姿が「そう」思わせたのだろうか?はてはて。車で15分くらいしたところに彼女の家があってお母さまとともに歓迎された。ここでも帰省の目的のパソコン関連の作業を行った。その間にお母さまは「かきもち」(餅を伸ばして乾燥させたものを焼いたモノ)を出してくれた。ちゃっかりとお持ち帰りをいただき、彼女とともに博多行きのバスに乗って移動。今晩は大学時代の仲良し4人組で泊まり付き宴会なのだ。予想外にバスは車両混雑し、予定時刻よりも45分くらい遅れて博多入りした。慌ただしくチェックインを済ませて、二次会(ホテルの部屋)の準備をする。駅の近くの100円ショップで買い出しをしている時に3人目のメンバーと落ち合った。彼女もチェックインをしてまったりとしている時に4人目のメンバーより連絡があった。彼女とは夕食会場近くで落ち合うことにした。夕食はエスニック風の居酒屋で雑誌に付録としてあったドリンク券(グループにも対応)のおかげで一人当り1800円くらいでデザートまで食べれた。夕食会場を後にして、ホテルに着いたのは10時半を回っていた。私以外のメンバーはどうしても見たいテレビ番組があるというので、その間に私は一足早くシャワーを浴び、浴衣に着替えた。私が部屋に戻るとエンディングがせまっていた。それから、二次会がジャジャ〜ンと開催された。サイコロトーク、変装タイム、プレゼント交換を終えて、秘密企画であったメンバーの誕生カードの授与を終わらせ、気付くと3時を回っていた。それから、パタパタと就寝。

16日(日曜日)
9時半頃、起床し10時半頃、チェックアウト。「キャナルシティ福岡」(福岡市中洲にある)まで徒歩で重い荷物を持ち移動。ロッカーに荷物を預け、1番の帰省目的である演劇鑑賞にあたっての差し入れ(ワイン3本とチーズ)を購入し朝昼兼用の食事をイタメシ屋で堪能。演劇は大学時代にお世話になった先輩の劇団のもので結成10周年という節目の公演なのだ。(劇団PA!ZOO!と言います(*^.^*)アンケートにもしっかり大阪の住所を書き、客出しで整列していた中から先輩を見つけて握手と軽い抱擁(女性です!)結婚して大阪に嫁いだことを告げると無邪気に喜んでくれた。公演の内容はホームドラマ仕立てでこたつを囲んで繰り広げられる家族模様で、のほほんとした気分になれた。土曜日の宴会もそうだったがデジカメを持ってきていたのにも関わらず撮影するのを忘れて、後悔を少し。公演の後、川端通というローカルな商店街の喫茶店で会計報告と4人組の活動の展望などを気侭に語り、楽しい時間は幕をおろした。私は帰ってから母と温泉に行くことになっていたのでみんなとはお別れ。家に着いてから温泉に行く準備をして、私の運転で脇田温泉(福岡県鞍手郡若宮町近辺)に向かった。夕食を取って入浴し、帰宅したのは10時頃だった(温泉:泊まりではない)少したってから父と妹が帰ってきた。

17日(月曜日)
昼過ぎまで寝ていた。父が昼過ぎに帰ってきた。父に郵便局まで乗せてもらって、宅配便の手続きをした。あっという間に夕方になり、妹と母が帰宅した。私の最後の滞在の夜だし、初めて家族4人が揃ったということで外食。福岡といったら新鮮な魚ということで魚中心の居酒屋にタクシーで乗り付けた。店の雰囲気も料理も文句なかった。楽しい夜はすぐに更けていった。

18日(火曜日)
父と母は9時くらいに仕事に出て行った。「気を付けて。そしたら、良いお年をね」という言葉を言って。妹はスケジュールが夕方まで空いていると言ったので、一緒に博多に出た。2時近くの新幹線で、12時くらいに博多に着いたから2時間くらいぶらぶらしていただろうか。最後の目的「一蘭のラーメン」を食べることにも同席してくれた。ちゃっかり替玉をして満足で大阪に向けて私は戻った。


2001年12月19日(水) 帰省日記(1)

13日から18日まで帰省していた。正確には13日の夕方から18日の昼まで。13日は午後2時近くの新幹線だったのに何を血迷っていたのか(?)12時には新大阪の駅に着いていた。つまり、2時間近く時間を潰さなければならなかったのだ。頭の中では出発の30分前に新大阪に着いてから土産を少し買えばいいと考えていたのに。重い荷物を引きずり、散策する気にはもちろんなれずにロッカーに預けた。喫茶店で時間を潰すことも考えたりしたがちょうどお昼時で急がしそうなサラリーマンの近くで時間を潰すのも気を遣いそうだったのでパックのジュースを軽く飲んでから駅の中の雑貨屋や本屋、土産物屋を回って2時間過ごした。本屋では母の誕生日の希望の品である家計簿と新幹線の中で読む本を2冊買った。2冊の内の1冊は英訳がついた4コマ漫画で気楽に読めそうなので選んだ。主人は週刊誌を1冊読めば2時間なんてあっという間なんて言っていたが、どうも、週刊誌を買うのはもったいない気がしたのだった。最後に土産屋に行ったが思いのほか、迷ってしまい、ハラハラしながらロッカーから荷物(スポーツバックとUSJのショッピングバック)を取り出してのりばへと急いだ。

乗車したのは「ひかりレールスター」。新幹線の中では新型車両で、人気のある種類。3人席のないタイプの車で(2列通路2列)足下もゆったりとしていた。新大阪の乗車は、平日の昼過ぎということで通路側まで埋まるほどの数ではなかった。新大阪発だったので荷物を棚にあげるのも気楽にできた。2つの大きな荷物も棚にあげた。着駅も博多なので終点ってことでゆったりと降りることができるので気楽だった。しかし…

福山だったか岡山だったかで隣の席の入れ代わりがあり、私は一人“穴があったら入りたい思い”をすることになったのだった。私は少し本を読み、うとうとと眠りについた。私の席の隣に若者が着席し、1駅で降りていった。そして、入れ違いでおやじさんが乗ってきた。そして、おやじさんが降りた(と思った)。その時に目を覚ましたらしい。すぐに通路側の人間はやってこなかったのでここの駅からは隣の席は空いているのね、なんて確信して、隣の席の前の網ラックの中に無造作だがきれいに差し込まれた新聞に気付いた。よく見ると英字新聞らしく珍しくなり、私の手は誰かの新聞を触っていた。ちょうど、手に取りなになに?とページをめくろうとしたまさにその時、通路側の人がやってきたのだった!私は「すみませんm(_ _)m」と小さな声で言って、新聞をもとあったところへ戻して寝たふりをしたのだった。その時私の頭の中は活発に思考していた。「あの新聞は今、席にやってきた人のモノで新聞を買ってそこにさして、車内で何だかの用事があって離席して戻ってきたのだ。絶対、そうだ。だとすると、私はすごく変なやつだ…買ったばかりの新聞を見ず知らずの誰かに勝手に読まれている…」と。寝たふりをしながら、隣の様子を観察していた。しかし隣の席の男性は鞄から単行本のようなのを出して靴を脱ぎ、読んでいるのだ。網ラックの新聞にはこれっぽっちも触らない。再び、私は思考した「降りた人が置いていったモノだったのか!!!だとしたら別に私が勝手に取っていても文句はないじゃないか!!…でも…」でも、私は最低でも今、隣に座っている男性が降りるまで眠っている人を演じるしかなかった。

無事、実家に着いたら着いたで「377号って夜9時くらいに着くんじゃなかったの??!!」と言われ実家にあった時刻表を見せられそれが(古い)4月のものだったことが誤解の元だったにも関わらずなぜか私は責められた気持ちでいっぱいだった。歳をとると頑固になるというが、父は輪をかけてそうだ。4月から半年は経っているとはいえ、新幹線の時刻表なんて滅多にチェックするものじゃないし、在来線がそうであるように時間が変わっていてもちょっとだけだと思ったのも分かるのだけど…しまいには「JRに文句言ってやる!!」とまで言われ、「ああ〜!もうイライラするっ!!早く着いたことはいいことなんだし、済んだことはもう、終わり!!」と強引に会話を止めるしかなかった。

イライラしたのも初日だけで、後は美味しいひととき(?)だった。続きはまた明日。


2001年12月12日(水) 気力フラフラ。 

明日の昼から18日の夕方まで出かける。旅立ちと言うとなにやら壮大な感じだが帰省するだけだ。昨日の昼あたりまで、実感がなくて準備もしなきゃいけない家事にもエンジンがかからなかった。気を使わない友だちの掲示板にも「気力がなくて、旅支度も進んでない…」と情けないコメントを書き込みした。私にはそういう弱いところがある。何日か前まではリーダーシップをとり、企画にはりきっていたのに、ダウン…その企画に関わる仲間にも心配をかける言葉を落とす。心配させてしまうってその時は考えずに弱い言葉は吐き出される。不思議なことに、「気力がないの…」とダラダラと書き終えてから、ムクムクとやる気が出てくる。ゴミ出しをしてから、掃除に力が入るように…「元気ないんだよね」という言葉が出るまでのキツイことツライこと。

元気がないといえば、今日も英会話の先生は風邪ぎみだった。「もしも、サンタがいたならば、私は祈りに祈る。元気が欲しい。」多分、そんなことを先生は言っていたと思う。私はおかげさまで風邪も落ち着き、今日の挨拶は「I'm fine ,today!!」と言った。世間話ついでに11月末の騒動を語りたかったのだが、余裕がまったくなかった。次のレッスンはもう年明け。「See you next year!!」と言ってパートナーさんと先生に今年の別れを告げた。あまりにも早いレッスンの終わりでなんだか調子狂ってしまうが年明けにババ〜ンとエピソード(ハプニング)を語れるといいなと思う。

今日は明日からの帰省の準備の最終チェックと、不在中の主人の餌(コラ!)「おでん」の作成をする。

♪あ〜明日の今頃は私は新幹線の中〜


2001年12月10日(月) 悲しい反比例?!

反比例なのか正比例なのか、視点は様々だし情報もひとかけらだから本当のところはは分からない。

虐待のニュースが目につくってことは、子どもの数がただでさえ減っているのにさらに減っているってことで、子どもができにくいと悩む女性の数が増えてきているけどできちゃった結婚もいて。

私達にはまだ子どもがいないが、卑劣な子どもを巻き込んだニュース、特に親が虐待して子どもを亡きものにさせた事件を聞くと激しい憤りを感じる。虐待する親も、生まれたての子どもは可愛かったんだろうけど。切なすぎる。

今週末、宿泊をともに楽しむ仲間は学生時代の芝居仲間なのであるが、不定期だが順番で「お便り」(学級通信みたいな)を作成している。それには近況が書いてあったり、考えていることや思っていることを書いたりしているのだが、仲間の一人は「空爆におびえる子どものことを考えると辛い」とあった。彼女は独身だが、旅好きで文通好きで友だちは多く、広く物事を捉えることができる人柄ゆえの思いだったと思う。共通するのは「子ども」。たしかに子どもの質も親である人間の考えや価値観の成長(?)で変わってきてはいるが、子どもは子ども。守られるべき、子ども。

そんなことが頭によぎりながら、私の割り当て分の年賀状のコメント欄はすべて埋められた。子どもをもつ、従姉妹、友だちには「お子さまは元気に育ってますか?」という言葉を添えた。

想い、願い、をこめて。


2001年12月07日(金) いいかもしれない(*^.^*)

実家に小包を送った。父がジャンバーが欲しいと言っていたと母から聞き、主人のお下がりを2着送っちゃったのである。お下がりってことで、まあ、気に入らなかったら処分してくれてもいいとは告げたが。1着はカーキ色のちょっと重そうな布地で、ポケットのあたりが少しすれたような感じになっていたのだが、なかなか捨てられずに取っていたのだ。60近い父が着るのには、まあ、ちょうどいいかなと勝手に思っているが、本人としてはどうだろうか…もちろん「捨てようか迷っていたモノなのよ」なんてことは一言も言ってない。あと1着はインスタントコーヒーのメーカーのロゴの入ったジャンバーで、主人の草野球の仲間に2年前にもらったもの。なんどか袖を通したモノなのだが、毎年もらっているので1枚くらいいいかとこれまた勝手に判断して送った。来週、帰省した時に着ていれば気に入ったってことであろうし、箱の中に入れっぱなしになっていたとしたら「処分するよ」ってことだろうし…はてはて。

実家に小包を送るに際し、少し考えた。近所に宅配便の受付窓口があるのだが、そこに持ちこむか、対応のいいとは言えない近所の郵便局に頼むか…。送り先が九州なのでいずれにしてもお安くはない。ふと、「集荷1個から承ります」という郵便局のチラシがあったことを思い出した。一か八かで集荷の電話をしてみた。集荷受付係の女性の対応は悪くなかった。宅配便はたしか、750円くらいしたはずだった。あとは料金が問題。集荷は5時前にやってきた。インターホンで聴く限り、感じのよさそうな集荷の人の声。すでに伝票には必要事項を書いていたのでさっさか手続きは進む。集荷係のお兄さんは、大きな郵便袋から電子秤を登場させ、小包(缶ビールの箱を利用!)をそれに載せた。2キロ以内、九州福岡は710円とのことだった。ココロの中で「ヤッタ!(^ー^)v」と言い、小銭でちょうどの金額を差し出す。無料で集荷に来てもらえる上、思ったよりも安く、私の中での郵便局のポイントはあがった(笑)


2001年12月06日(木) 深夜のおたけび

「ばあちゃんのおらぶ声はすごい」と死んだじいちゃんが言っていた。「おらぶ」というのは寝ている時に発する声だ。その血を私は受け継いだのかもしれない。

小学校時代までは妹と二段ベッドで寝ていた。もしかしたらその時からなんだかの寝言とか叫びとか発していたかもしれないのだが、記憶にはない。中学生から個室が与えられて就寝も一人ですることになった。結婚するまでほとんど一人で寝ていた。酔っぱらった時はいびきは大きいだろうっていうのは何となく分かってはいた。でも、二十歳を過ぎてくらいから寝ていてうなされることも多くなったかもしれない。あまりの叫び声の大きさに父が寝室に駆け付けたこともあったっけ。その時はなんと私は目を開けて寝ていたらしいのだ…まったく本人は意識していないことだが。

結婚してから身内であるが「他人」と就寝を共にすることになった。初めの頃は適度の緊張のために気を張って眠っていた…かもしれない。3年目を迎えるともう、自分のペースで眠りにつくことができ、寝相が悪かろうが布団を蹴ったくろうが知ったこっちゃないくらいにくつろいでしまう私。昨日も大きな声で寝言を言っていたらしい。はっきりとした言葉ではなくて「うなり」「さけび」という感じだったらしい。今朝になって「あれはさすがにビビったね」と主人が言っていたが私は全く覚えてなかった。
来週末の友との宿泊…妙な心配をかけるような寝言を言いませぬよう…


2001年12月05日(水) 宛名書き

年賀状の宛名書き。昨日、筆ペンを3本調達してきた。プリントは終わっているのであとは宛名書きをして少しコメントを書くのみ。今年はざっと90枚。でも、新しい主人の会社の人の分は入ってない。住所録が特にまだ配付されていないとかで半端な気分の私。今のところ、印刷と宛名書き担当は私の仕事。宛名まで印刷に頼っていたら出したかどうか分からなくなるし、同じフォントを見かけたりしたことがあるので私は受け入れてない。100枚程度なら苦にはならないし。筆ペンで字を書くというのも年賀状くらいなものだし。字を書くことは嫌いではないのだ。

今回の年賀状は2タイプ用意した。カジュアルとフォーマル。コメントが難しい親戚や社交辞令的な相手(?)などにはフォーマルでコメントのスペースが少ない形式のにする。素材をお借りしての作成。馬の絵も自分で描けなかったので偶然目にしたイラストをスキャンして加工した。まあ、商用に使うわけでないし、目をつぶってくれるかなと思って。気楽な仲間にはカジュアルタイプで二人の言葉を吹き出しの中に編集した。でも、言葉の方が多すぎて吹き出しの枠からかなりはみだしてしまった。まぁ、いいだろう。いろいろあった2001年だもの。

まだ、残された12月の日々で何かが起きても変じゃないが…


2001年12月04日(火) 気の波

昨晩はカレーライスだった。主人の帰りも早く、一緒に食卓を囲んだ。しかし…

例の“事件”のことで「○○さんが心配して電話してくれた」と主人。「で?」と焦らす私。「なーんだ。そんなことか!!」って言われたらしい…おそらく携帯電話でのやりとりだから、かなり簡単に説明されたんだと思う。主人も主人で夫婦が絡んだ事態であったことを告げてない。それには腹は立たなかったが「なーんだ!」と簡単に言われたことにはすごく腹が立った。もとはといえば、主人の関わる野球のサークルのホームページの掲示板不安をかきたてる内容の書き込みをした私が悪いのだけど。なんだか、恥ずかしくなってきた。そしてすごく自分を責めた。でも、やっぱり、「もう、あんなん嫌や!!」っていうのは素直な言葉。

言葉って難しい。言わなけりゃ、言わなくていいことたくさんある。書かなくてもいいこともたくさんある。それでもどこかに書いたりして落ち着かせようとする自分も私。気分を入れ替えて今年の残された日々を暮らして行こう…


2001年12月03日(月) 週末日記

先週末(金曜日)というか、月末、ある事件があった。でも、今はまだ真相については語らない。

土曜日はその事件(?)絡みで事件を処理して下さる方(?)と夕方面会。そのせいで、途中から主人と単独行動をすることになった。本当は私も主人と一緒にPC関連の店に行きたかったのだが、しょうがないことだ。私が家に着くと、すでに面会すべき方は到着していた。我が家が留守にしていたので、大家さんと世間話をしていたようだった。

日曜日は、義妹(主人の妹)と義母(お姑さん)がやってきた。お姑さんの訪問はその日になってから決まったらしく、昼前はバタバタしていた。そうそう、お昼ののど自慢には大学時代の友人の弟が出場しており、テレビに釘付けだった。惜しくも鐘は1回だった。弟さんとは面識がなく、推測で観ていたが予想は当たっていた。目の周りが姉である友人に似ていた。友人は自宅のテレビにてその様子を観ていたようだった。テレビが終わって少したってから姑さんは帰ると言い、義妹はPC関連のソフトを持ってきてくれていたのでその処理が終わるまで我が家にいることになった。姑さんを近くの駅でおろしてジャスコへ向かった。そこで遅めの昼食をとった。いくつかの雑貨屋も回った。そうそう、イベント会場に画家の「ジミー大西」が来ていて、絵本にサインをしていたようだった。絵本を買えば、サインがもらえ、握手ができるというイベントだったが充分に見物ができた。彼は赤いベレー帽をかぶっていた。横顔は決してお笑い芸人ではなかった。家に戻ってきたのは4時過ぎでもう暗くなっていた。主人はPCの組み立てをやっており、義妹はプレステ2で遊んで私はマイペースで夕食の準備をしたり風呂を洗ったりした。夕食は義妹と一緒に鍋を囲んだ。遅い昼食のため、ふだんよりも少ない量で満腹になった。結局、義妹が持ってきてくれたソフトとこちらが必要とするソフトが違っており、作業は途中で止まった。今日、会社から速達で送ってくれるということだ。その義妹も今日で私と同じ歳だ。

今日は年賀状のレイアウトをして、今、印刷中だ。帰省前に宛名書きも終わらせたいので今週、来週、ハードな日々になりそうだ。そうやって忙しく動きながら、体温が下がる自分を受け入れる…雅子様、おめでとうございます。こちらにもコウノトリさんをお願いしますね(*^.^*)


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