私的正論。

2005年03月31日(木) 何で作られるのか人は。

幼い時代の愛情の欠落を、出会った者同士で埋めようと一緒になる。
身体を求め合う。子どもが出来る。
自分たちこそは自分たちの愚かな親たちのようには、なるまいと。
真新しい決意かいい加減な対抗意識を元手に育児に取り組むが。

そのハードルの高さに初心は萎え疲れて行き、愛情など最初からあったのか。
それすらも疑わしい。

やがて女か男が最初に裏切り。
小さい子どもをかかえたままどちらかが家を去り。

そうした後に。
小さい子どもをかかえた健気が、次なる新たな愛情を獲得したかのように。
はじめは思われるけれども。

そこでも愛情など、最初からあったのか。


子連れで独り身となった人間が新しい伴侶を得、暮らし始めた後。
虐待や放置が、ゆがんだ心のはけ口となり。
小さい子どもに襲いかかるが。


誰が助けられるというのだろう。

あの小さい彼らのことを。





子どもを作っては別れ満足に育てていけない人間が居る一方で。
そうした子どもを積極的に引き取って、育てていきたいと思う人が居て。

そういう素晴らしい人たちは、どうやって子どもたちを育てるだろう。
あったかどうかわからない愛情の間に生まれた子どもたちを、素晴らしい人たちは。

どうやって、明るく笑えるようにするだろう。



何で作るのか人を。

何で作られるのか、人は。



勧善懲悪の昔話。イソップ童話。アンデルセン。
イエスさまか。観音さまか。
ご先祖さまか。


かわいそうだねえと涙をこぼすのは簡単だ。
しかしどうやって人を作ったらいい。


今すぐ答えを出さなきゃならない、この問題に。
けれども誰も答えを出せないまま、そこにあるのは罪を裁くための法律だけ。


罪を犯したものを閉じこめる牢獄だけ。







豊かな畑と収穫物と。
からみあう原子の働き合いが生む素朴な美味。
目の前にあるものに学び。
目の前にあるものを表し。

「仕方がない」と「それではだめ」を行きつ戻りつしながら、どうやって。

小さい子どもを間違わせずに、歩ませていけばいい。








好きなように子どもを作らせ、預かりますよと微笑みかければ済むのか。
やつらに。

こちらで正しいように育てますのでと言えば済むのか。
やつらに。

誰が正しいように育てることができると言い切れるのか。




ひとつの答えも出ていない。

ひとつの答えも、出せていない人間の世。


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桜木



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