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2005年04月21日(木) ジャクリーン

おとなになってから、学生の時にもっと勉強しておけばよかったと思うのは誰しも経験していることだろうけれど、アメリカに住むようになって、私がそう思うのは、英語よりもむしろ歴史や地理などだったりする。

ジャクリーンは私が唯一知っているバングラデシュ人である。彼女は、私が途中から入った英語のクラスにずっと在籍している人だった。ジャクリーンはクラスに来ていても、積極的に発言をしたり、ノートを取ったりということをほとんどしなかった。そのクラスは、ビギナーから上級への通過点にあったのだが、そんな様子なので彼女は、いつまでもそのクラスに留まっていた。

休憩時間、私と彼女はよく教室で2人きりになった。

ある時「さとこは、今週は日本語の先生の仕事はあるの?」と訊かれ、「生徒が日本に出張に行っているから、今週は休み」と答えると、「それは大変! 大丈夫なの?」などと言われて、私は返事に窮した。お金が入らないと生活出来なくなってしまうでしょう?と、本気で思っているようだった。

彼女の旦那さんは、インド料理レストランで働いている。子どもは8歳の女の子が1人。PGカウンティ(黒人の多いところ)に、いとこの家族(3人)と計6人で一緒に住んで、2年くらいになる。決して余裕のある生活は出来ないのに、英語の学校に来ているのは、仕事のある旦那さんと子どものビザは発給されるのに、奥さんはビザが出ないので、合法的に滞在するために、学生ビザの出せる学校(週20時間以上就学)に通う必要があるからだった。私の周りの日本人では、研究職でも学生(留学)でも他の職業でも、奥さんのビザが出ないなんて人は聞いたことがないけれど、どうしてそんなことになっているのだろう。

「私は、金食い虫だ」とジャクリーンが悲しそうに言う。本当は英語学校に通う事なんてしたくないのだ。できることなら働きたいだろう。「本当はもうバングラデシュに帰りたい」「けど、子どもに英語教育を受けさせ、国に帰っていい仕事に就けるようにしてあげたいという夢(目的)があって、帰れない」と言われ、その夢がかなうのはいったいいつなんだろうと 私は思った。

夫にその話をすると、夫は「さとこが日本に帰りたいって言うのは分かるけど、バングラデシュでもそうなんだね」と言った。

ジャクリーンに会うまで、私はバングラデシュのことを何も知らなかった。インドの東側にあること、ベンガル語を話していること、毎年大きな洪水や疫病が起こって甚大な被害を受けていること、いまだに政情が不安定なこと、GDPは中国の半分以下、日本の約85分の1で、世界の最貧国と言われていること、日本をはじめとする海外からの援助に頼っていること、などなど。

ラテンアメリカや中国など貧しい国からアメリカにやってきて永住する人は、どんな仕事でもして、以前より少しでも豊かな生活をしたいと考えている。初めから帰らないつもりでやってくる。そういう人たちは本当にたくましい。




今年の1月から、英語学校の授業料が、月600ドルから1050ドルに2倍近く値上がりして、それからジャクリーンは学校に来なくなった。今ごろジャクリーンはどうしているのか、不法滞在におびえて、ひっそりと暮らしているのだろうか。



2005年04月12日(火) ソマツなツイタク

「もしパパとママが離婚することになったらソマツになるね」と息子(次男)が言った。「えっ?その日本語変だよ、どういう意味?」「食事が粗末になるとか、洋服が粗末になるとか言わないと、意味を成さないでしょ」などと言ってみたが、彼も私の言うことが分らないらしい。あれこれ言ううち、彼が言いたかったのは「離婚することになったら、訴訟になるね」だったと分った。

てか、財産分与のことを言っているのだろうけど、別に離婚になっても話し合いで解決するから訴訟にはならないでしょう、アメリカ人じゃないんだから。

ある時は、誰だったか亡くなった人の話をしている時に、彼に「○○さんが亡くなったの知ってた?」と言うと、「うん新聞にツイタクって記事が書いてあった」と言う。「ぎゃー、それは追悼って読むのだよぉ」

ある時は「パパの作った味噌汁はコサソウだから飲まない」と言う。「それを言うなら、濃そうでしょう。濃さ、重さ、高さなんかはみんな名詞。形容詞は、濃い、重い、高い。重そう、高そうは形容詞の最後の(い)をとって(そう)をつけているのだから、(濃い)は(濃そう)ってなるのは分るでしょ」とすらすらと説明の言葉が出てくるところは、私もやっぱり元日本語教師である。(あ、まだ辞めた訳ではないけど)

彼も家庭では日本語を話しているし、日本語の新聞も小説も読んでいるようだからと安心していたけれど、少し心配になってきた。考えてみれば、彼は3月の末に14歳になったばかりなのに、そのうちの9年をアメリカで過ごしているのだ。親として、日本人としてのアイデンティティーを持ち続けてほしいと願っているが、日本語の能力とともに彼の日本人としてのアイデンティティーも欠落していっているのではないかと。

昨日の日記を書いた後で思った。彼は日本語を喋っていても、日本語は既によその国の言葉な感覚で、「セッ○ス」なんて言えてしまうのではないだろうか。「べ○」とか「ぼ○」とか地元の人は人前では言えない淫靡な言葉も、地元民でなければ言えるのと同じように。

「こうすけは、ママともっとたくさん話をするようにした方がいいと思うよ」と言うと、「ボクは忙しくて他にしなくちゃいけないことがいっぱいあるんだよ」なんて抜かしおった。 それでも、日本の学校はきついと弱音を吐いていた息子が、今年も日本の中学校に夏休み前の1ヶ月体験入学させてもらうことを決めたから、少しは本人も気にしているのだろうと良い方に思うことにしよう。


2005年04月11日(月) セッ○スにどぎまぎ

3月初めのその日、彼はとても上機嫌で饒舌だった。

「今日、すごかったんだよ。みんなにワーッ!って喝采浴びて、拍手もいっぱいもらって、ボクたちのやったビートルズが一番の人気だったんだからね」

その日、息子の中学校でタレント・ショーが催され、事前に申し出た20組のグループが歌を歌ったり楽器演奏をしたりダンスや手品をしたりした。私も見に行きたいと言ったのだが、去年まではしていなかった行事なので、息子も様子が分らず「親なんか誰も見に来ない。絶対来ちゃダメ」と固く拒絶されてしまった。

ところが、他のお母さんたちはやっぱり見に来ていたようで、「えーっ、なにそれ、ひどーい」とぶつぶつ言う私に、息子は罪滅ぼしのつもりかいろいろ話して聞かせてくれたのだった。息子たちは、それらしき衣装(スーツ)を着て、口パクでCDに合わせて大げさな振り付けで踊っただけなのに、「ちゃんと歌っていた人や練習した人よりウケてしまって、なんだか悪いような気がしたよ」なんだそうだ。それからも、彼はよっぽど気分がよかったらしく、自慢話がエスカレートしていったので、私は嫌味を言いたくなった。

「でもさ、キミ、今日はもてもてだったかもしれないけど、バレンタインデーになんにももらえなかったじゃない?」

ところが彼は全く動じず「そうだよ、でも、なおき(兄)だって、なんにももらってないし、だいたいジュニア(高校4年のうちの3年生)にもなって彼女もいないって方がよっぽど恥ずかしいよ。ボクの調査によればジュニアでのセッ○スの経験率は50%以上なんだよ」と、さらりと言ってのけた。

えええーーーーっ!! (いまあなた、セッ○スって言いましたね、伏字無しで)(だいだい、なによその「ボクの調査によれば」って)

以前私はこの日記に、息子が8歳の頃、彼に「ボク、不思議なんだよな、どうして子どもはオンナがひとりで産むのに、おとうさんが関係あるみたいに、父親に似てるとか、父親のナントカが遺伝したとかって言うんだろ?」と訊かれて、任せなさい!母の出番よ♪と嬉々として、その仕組みを話して聞かせたという話<ここ>を書いたことがあるのだが、その頃の私は見る影もなく、心臓がバクバクしてしまったのを悟られないように、「僕の調査って、インターネットのどこかにそんな記事が書いてあったの?」と言うのがやっとだった。なのに息子は追い討ちをかけるように「ああ、それ? 直接聞いたんだよ」って。

(きみぃー! キミの周りにどこにそんな知り合いが居るねん!)

そのあと、私はもうその話は聞かなかった振りをして、さりげなく話題を変えた。息子、8年生(日本の中学2年生)。これがアメリカのスタンダードなのかどうか全然分らない。私、40+α歳。なさけない母になってしまったもんだ。


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