samahani
indexpastwill


2002年12月25日(水) I love you.

ベイルでの3日め、クリスマスだというのに、ケーキもシャンパンもプレゼントもなく、ただひたすらスキーをしているだけの我が家。夫が「一度はちゃんとスキースクールに入って習っておいた方がいい」と言うので、家族4人で、午前中の3時間はプライベートのコーチをお願いした。はじめは初級者コースで、基礎を教わったのだけれど、わたし一人だけが「うー、言っていることは分かるけど、体が言うことを聞かないのよぉー状態」だった。なので、途中でみんなと別れて、ロッジで休憩することにした。

待ち合わせのロッジまで、地図を見ながら初級者コースを滑っていったはずが、突然、視界が開けて眼下に広がっていたのは「崖」だった。わたくし、まさに「がけっぷち」。こわひ! ふと横を見ると、このまま横の方にずれていけば、コースに出られそうだったので、がけっぷちを横滑りしていくことにした。けれど、誰も滑っていないそこは、新雪だったのだ。全くすすまないどころか、ズボズボとスキーが埋まってゆき、左右の足は股裂き状態。横は、がけっぷち。立とうにも立てない。わたしはこのまま雪女にでもなるしかないのか・・・・と絶望していたら、白馬に乗った王子さま(んなワケないが)がやってきて、「大丈夫?立てる?」と助け起こしてくれた。このまま下まで連れて行っておくれよぉー と思ったが、わたしが「ありがとう」と言うと、すぐに颯爽と滑っていってしまった。

それから、股裂きだけにはならないように気を付けて、何十分もかけてやっと下までたどり着いた。途中でスキーを外して、お尻で滑って降りようとしたけれど、新雪だったのでそれもままならなかったのだ。

ロッジで皆と合流して、お昼を食べた後は、文庫本を読みながら休憩することにした。スキーコーチの言う通りにするのも、崖っぷちをお尻で滑り降りるのも、とっても疲れることだから、もうスキーはこりごりって気分になったのだ。

その日は、石坂晴海著の「×一(バツイチ)の男たち」という本を読んでいた。これがなかなか面白くて、さらりと読めるのに、深いのだ。いろいろ考えさせられながら、ふうーっと目が空(くう)を見つめていたりする。すると、いつの間に来たのか、同じテーブルに、50代後半と思しきおじさんが居て、独り言を喋っていた。「たっけーなぁー、これだけで10ドルもするなんて」と言いながら、ホットドッグをほおばり、コーヒーを飲んでいた。

わたしと目が合うと、いろいろ話し掛けてきた。どこから来たのかとか、裏山の上級者コースの方はもう行ったかとか、ダンナはワシントンで何の仕事をしているのかとか、をゐヲヰ、初対面でそこまで聞くかいなってことまで、突っ込んで聞いてくる。まあ、人懐っこいという感じで、不快感はないからいいのだけど。

おじさんは地元の人で、このベイルの雪山が大好きなのだ。「ここはいいでしょう?ワシントンみたいな都会だとごみごみしていて住んでいられないでしょう?」なんて言うので、「いや、東京から来た人間にはワシントンでも、充分広々していて日本の田舎みたいだ」と返事したり。「あそこにいる(東洋人っぽい)女の人は東京から来た人だから話をしてみるといいよ」と言うから、「どうして知っているの」と聞き返すと、「いや、そうだろうと思っただけだ」と言ったり。(笑)

「何の本を読んでいるの?」と言うから、「ノンフィクションだ」と言うと、「ダメじゃないのぉ、こういうところではそういうカタイ本は読まないで、もっとリラックスして読めるロマンスなんかを読まなくちゃダメだよ」なんて言ったり。 わたしとしては、とっても面白い本があなたの所為で読み進められないと言いたいところだったけど、それは言わずに、「じゃあ、そろそろ滑りに行くから」と言って席を立った。

おじさんは、残念そうな表情とは裏腹に「それがいいね」と言い、そのあとすぐ “I love you.” と言い足した。わたしは、一瞬、耳を疑ってしまった。いまのは確かに I LOVE YOU だったと反芻して念を押したのだが、こういう時、何と言って返事をすればいいものか分からなくて、(まさか me too なんて言えないし)黙ったまま小さく頷いて席を離れた。

ブラッド・ピットばりのカッコイイおにいさんに言われたのならまだしも、単なる人懐こい初老のおじさんに言われたからって、ドキリとすることもなかろうにと思うのだが、なにしろ生まれて初めて言われたのだ。そして、これからもたぶん二度とそんなことはないだろう。

夜になって、もしかしたらあれは I loved you. と言ったのかもしれない、話して楽しかったよと言う意味で、 I enjoyed it. くらいの意味合いだったのかもしれないと思ったが、(そういう言い方があるのかどうかは知らないが)それは言わずに、夫に今日のロッジでの出来事を話した。

子どもも聞いていたので、途中まで話したところで、「最後にね、わたしすごいこと言われたんだよ。ちょっと耳貸して・・」と、夫にだけ内緒で伝えたら、夫が驚いて「えっ、そんなこと言われたの?」と言った。

どんなすごいことを言われたか気になる息子には、「ママのことを、『すっごい美人ですねぇ』って言ったんだよ」と言っておいた。

息子が「うそぉー、ほんとにぃ」と、怪訝な顔をしているのは、嘘をついていると疑っているからなのか、ママが美人のワケがないと思っているからなのか、そこらへんのところは深く追求しないでおこうと思った。


2002年12月16日(月) 距離を感じる

日本に帰省中の4日め、兄と昼休みに待ち合わせてランチを食べた。

東京に住む兄とは、夏休みに帰省した時に3日間ほどしか会えない。一度ゆっくり話をしたいと思っても、その時は兄の家族も一緒なので、義理の姉に遠慮して言えないこともある。

70をいくつか過ぎた母は、この夏、随分と気弱になっていた。母より年下の近所の友人が急に倒れて、一晩で帰らぬ人となってしまったり、母の実の弟が大病を患い、7時間にも及ぶ大手術をして長期入院をしていたりと、身近で起こった出来事に我が身を案じていたのだ。

「もし、寝たきりになったりしたら誰が面倒見てくれるんだろ・・」と言う母に、兄嫁は「おかあさん心配しないで私が面倒見るから」とは言わなかった。そのことを「そんな時は 嘘でも、そう言ってくれればいいのに」と母は私に愚痴った。

実際問題、兄だって東京で仕事をしていて一緒に暮らすのは無理なのだから、出来もしない嘘を言うのがいいのかどうかは分からない。けれど、兄がそのことをどう考えているのか一度きちんと話し合いたかった。


東京に着いてから、兄に電話をしたら、その話を持ち出す前に、怒られてしまった。「どうして、ひとりで日本に帰ってくるの? 主婦なんでしょう? よくそんなお金があるねえ・・。」 「ちょっと説教してあげなきゃいけん」とまで言われて、一番堪えたのは「お金」のことを言われたことだ。

兄が、マンションのローンや私立中学の学費(その前は塾)やお稽古事の月謝でかなり苦しい生活をしているらしいのは知っている。そんな兄から見たら、「そんなお金」になってしまうのだろう。

実は、兄と夫は途中まで、全く同じようなキャリアだったのだ。同じ大学と大学院(ふたりとも理系)を出て、ほとんど同じ仕事に就いた。給与体系も同じだった。

私と兄は、同じ年に結婚したのだが、その頃は、兄の方が先に働いていたし、きちんと貯金もしていたので、貯金が0の夫より、むしろお金持ちだった。私が新婚の頃はとっても貧乏で、とても貯金に回すお金なんか無いのに、家計を預かる身として切り詰めて貯金しなきゃなんてけなげに思っていたくらいだったのだ。(とは言っても、両方の親がまだ仕事もしていたので、援助してもらっていたのだけれど)

息子が4つくらいの時だったと思う。入園か七五三かなにかで、義理の妹がお祝いをくれた。封筒には1万円入っていて、こんな小さな子どもの大きな節目のお祝いでもないのに、1万円もくれたことに複雑な心境になった。妹に子どもが出来ても同じようにお返しできないだろうと思ったのだ。

義理の妹夫婦はふたりとも医者なので、その頃の収入は、ふたり合わせて少なくともウチの4倍はあったのではないかと思う。妹の家の1万円は、うちの2500円と同じ価値なのだ、そう思うと、同じように付き合うのがとても理不尽に思えた。


あれから、ウチでは、夫がボストンに留学したりいろいろとあって、アメリカに住むようになって3年目あたりからお金に困ることはなくなった。兄が夫と自分を比べているとしたら、きっと、義理の妹が1万円くれた時の私の気持ちと同じような気持ちになっているのではないだろうか。


2年前の夏、夫の父親と私の両親は、3人とも70歳だった。義理の妹が義父の古希のお祝いをしたいと言うので、温泉に2泊してご馳走を食べた。「その手配は全部妹に任せるから手ごろな値段で探しておいて」と言うと、妹はひとり2万円の宿を予約していた。(実はとても驚いた)うちは子ども料金も適応されず、4人分と義父の分も折半してかなりの出費だった。

一方、私の実家の両親のお祝いは、近所の温泉に一泊で国民宿舎のようなところだった。兄と折半したから、そんなに高いところを提案できるわけがないとは分かっていたけれど、義父のお祝いを終えていたので、比べてしまい、それでも自分の親の「子どもや孫が皆集まってお祝いをしてくれて、こんなに嬉しいことはない」と心から喜んでいる様子に、ちょっと哀しい気持ちになった。


兄と会うたび、少しずつ距離を感じるようになってしまったのは、兄のそんな気持ちが、なんとなく伝わってくるからなのかもしれない。


2002年12月08日(日) パーティーは思索の時

夫の会社関係のパーティーというのは、妻にとって大変疲れるものである。師走のこの忙しい時期に(←気分だけは忙しいのだ)、なにもパーティーに呼んでくれなくてもいいのにと思うのだが、相手がこの時の上司となれば、無碍に断る訳にもいかないのだ。(子どもが小さかったら、「ベビーシッターが見つからなくて」と言い訳もできるのになあ・・)

なので、行ってきました、雪の残る日曜日の夜に。

わたしも、これはお仕事のうちと思うものの、下手な英語で会話し、ダンスの時間(ディスコティック・ダンス)に参加し、難しそうな仕事の話に分からないまま頷き、放って置かれれば一人で思索の時間に充て、はあぁーー、もう一週間分の妻の務めを果たしたゾという気分になった。

以下は、そんなパーティーで起こったこと、考えたことのあれこれである。

・夫の仕事は、中東・北アフリカ地域に関係しているので、フランス人やフランス語の喋れる人が多い。(←なぜか奥さんの方も) 「この中でフランス語の喋れない人いるの?」と言われて、思わず、「はいっ!」って、元気よく手を挙げたら、それってジョークにもならなかったみたいで、一瞬、みんなが凍り、リアクションに困っていた。気まずかった。

・パーティーには15分遅れで着く、というのは常識なのだが、1時間遅れ、もしくはそれ以上遅れてくる人もいて驚いた。6時からのパーティーに30人全員が揃ったのは7時半くらいだった。(一番遅くに来た人が一番早く帰ったこともビックリ)

・パーティーにでても、昔ほど疲れなくなった。けれどそれは私の英語が上達したからではなく、会話の内容が分からなくてもまあいいやと開き直れるようになったからである。

・昔から何度も思うことだが、英語の習熟度とアメリカ滞在期間は正比例しない。なので、(ボストン時代も合わせて)6年半もアメリカに居て、こんな程度の英語しか喋れないの?という言い方(ツッコミ)は全く正しくないのだ。

・同じく、英語の上手さとコミュニケーションの上手さは別物。英語が下手でも、社交的で前向きな性格の人は、どんどん人前に出て友達付き合いができる。(ま、そういう人は大抵、英語も早く上手になるけど)

・牛肉の食べられないインド人(ヒンズー教徒)が、ひとつひとつの料理を指差して、これには何が入っているのかと聞いていた。当然、中東のアラブ人(イスラム教徒)も多いので、豚肉料理もなかった。因みに、今日のメニューは、豆料理2種、ポテトとカリフラワーのカレー風味、なすのカリカリ揚げ、白身魚のクリームカレー・ライス付き、チキンのチリソース煮、トマトとレタスのサラダ。

・夫の職場では、上司も部下も関係なく、ファーストネームで呼び合うのだが、夫も、初めのうちは苗字で呼ばれていた。1年後に、ファーストネームになり、2年後に、お昼のカクテルパーティーに呼ばれるようになり、3年後に、夜のディナーパーティーに呼ばれるようになった。そんな変遷を経た今回のパーティーにも、夫は多少の感慨深いものを感じていたに違いない。

・それにしても、私って英語が下手になってる・・・いま英語学校に通うのを辞めてるからなあ・・・とかなり反省した。いくら音楽の所為で聴き取りにくいとはいえ、壁の花(にもなってないが)ではダメだぁ〜。


2002年12月07日(土) 発言する

息子たちは、日本に居れば、小6と中3なので、この春には揃って学校を卒業することになる。本当ならいま頃、中学受験と高校受験とで、家の中がピリピリしているところなのだろうけれど、アメリカは高校まで義務教育であり、塾に行ったりすることもないので、ここに住んでいるおかげで、子どもの教育に関して、親の私はとても楽をさせてもらっている・・らしい。(教育費もかからないし)

そんな訳で、唯一の特別教育の場である日本語補習校で、卒業式のあとの謝恩会(保護者主催で小・中学校合同)に、親として協力することになったとしても、バチは当たらないだろうと思われる。(←使い方間違ってます?)

あまりボランティア精神に富んでいるとはいえない性格の私だが、係を担当してその係の責任者になってください言われたとき、そのくらい協力しなくてはと思った。

今日は、各係の担当者も交えての初めての会議がもたれた。予算について、ひとりいくら集めるのかというところから再度話し合われたのだが、私は、今までの経緯を知らないので、はじめは黙って聞いていた。が、途中で意見を求められたので、思ったままを(その予算では足りないのではないかと)言ったのをきっかけに、それぞれの予算を決めていく段階で、そのつど意見を述べるようになった。

他の人ももちろん意見を言うのだが、それを聞いている私は、内心(ああ、なんて穏やかに理路整然とお話できる方なのかしら、それに比べて私ときたら、早口でまくしたて、声も大きくて、場慣れしていなくて興奮しているようにも見え、もしかして品のない人なんて思われてるのではないかしら)と自分の至らなさを実感してしまった。

ところが、会議が終わって席を立つと、数人の人が私を取り囲み、「今日は、ありがとう、あなたが来てくれたおかげで、スムーズに話も進んだし、有意義な話し合いが持ててとってもよかった」と、口々に声を掛けてきたのだ。 「いやぁー それほどでもぉ〜 byクレヨンしんちゃん」とちょっとテレたが、そのときは、新参者が参加してくれたことへの ねぎらいの挨拶(社交辞令)なのだろうと思った。

(2度目の→)ところが、自宅に戻って夕食の準備をしているところに、別の人から電話があり「今日はありがとう、とっても助かった、来てくれてほんとによかった」とまた言われたのである。 聞けば、みんなは、委員長さんに遠慮して、(予算が)それでは足りないでしょうと言い出せなかったそうなのだ。みんな内心は私と同意見でありながら、私のようにはっきりと否定の意見を言うことをためらっていたのだ。

そうか、そんな裏話があったのね。なんとも、日本的な・・・と驚いた。「意見を言わなければ、その場に居ないことと同じ」と言われるアメリカのミーティングの場では、どんな発言でも受け入れられるし、意見を戦わせることが、意義のあることとして認められ、会が終われば あと腐れなく解散することもできる。

私は、性格的には、アメリカっぽいところも多いのだよねとよく思う。そして、久しぶりに褒められたり感謝されたりして、ちょっぴり気分がよかった私である。







↑エンピツ投票ボタン(続きが読めます)

 


2002年12月05日(木) 初雪 (画像有)



気温はマイナス10度にもなっています。

寒さに慣れたのか、そんなに寒く感じません。

学校は休みになりました。

会社は自由出勤だそうだけれど、夫は出勤しました。

今年は、わたしも家族と一緒にスキーに行くことにしました。 (去年の日記)

コロラドのベイルというスキー場(デンバーから車で2時間)

あたりを、真っ白く覆い隠して、雪はまだまだ降り続いています。

雪景色を見ていたら、スキーもちょっと楽しみになってきました。


2002年12月04日(水) たくましくなる

ある奥様グループの送別会があった。

日本人だけのポトラック・パーティーは実はとっても楽しみな催しのひとつである。各自一品ずつ持ち寄る手の込んだ家庭料理が、20人も集まれば20種類にもなって、お皿がいっぱいになる。お赤飯、ちらし寿司、ローストビーフ、お芋の煮ころがし、魚介のチリソース、蕪のサラダ、などなど。それから、デザート。 どれも食べ慣れた味付けなのも嬉しいし、これはどうやって作るのと訊くこともできて、レパートリーが増えるのも嬉しい。

今日の主賓の彼女の一家は、年末には引越しをするそうだ。「次はどこに行くの?日本に帰るの?」と訊いたら、「実は、まだ分からない。日本でもアメリカの別の場所でもないことだけは分かっているのだけど・・」と言われて、驚く。どこに移動になるのか分からないのに、せっせと荷造りを進めなければ間に合わない。「・・たぶん、アフリカのどこかになると思う」と聞いて、アフリカかぁ・・、(そんなふうに転校を続けていれば)子どもはたくましくなるだろうなぁと思った。

子どもたちは、アメリカの学校に転校してきたとき、英語なんて片言も分からなかったのに、特に問題もなく、いつのまにかすんなり溶け込むことができた。はじめの一年間、私は、週に一回、息子2のクラスのお手伝いに行っていたので、様子が分かるのだけれど、学校の先生がとても大げさに褒めてくれるのだ。

当時小学校2年生の息子が分かるのはアルファベットくらいだったけれど、「これは何?」と先生に聞かれて、「ジー(G)」と言えた息子のことを「すごい!すばらしい!」と、聞いているこっちが恥ずかしいくらい褒めてくれた。けれど、子どもは、そうやって認められている実感があったので、嫌がることもなく学校に通えたのだなあと私は思っている。

そういうアメリカ式の教育でも、学校になじめなくて、毎日、行きたくないと泣いて嫌がる子もいたし、お母さんと子どもだけで日本に帰ってしまった例もいくつもある。 アメリカで慣れることのできなかった子は、たぶん、どこに行っても慣れることはできないだろうと思う。

アフリカかぁ・・・。 急に引越しすることが決まって、あわただしく、さよならをして、また次の場所で、子どもも、おかあさんも、(もちろんそこで仕事をしていくおとうさんも、)たくましく生きてゆくのだよなぁと、お別れのさびしさを感じつつ思ったのだった。


 


2002年12月03日(火) 時がワープした・・

一度に347冊も本が増えて、プチ図書室みたい(←おおげさ)になった我が家。ここでは、日本の本は貴重品なのだ。

日本語の新聞も貴重品なので、読み終わったら捨てずに、まとめて次の人に渡すこともある。けれど、何人かの人を経た半年遅れの新聞が、何か月分も車のトランクに入っているのを見たときには、やっぱりちょっとびっくりした。おいおい、ここって、人里離れた山奥の水も出ないようなところとは、違うだろ・・・って。

ただ、新聞もとっていなくて、日本語チャンネルも契約していなくて(うちもしていないけど)、一日一時間だけ放送される日本語のテレビも見ていなかったら、まるで浦島太郎みたいに日本のことなんて何にも分からないのだ。別に知らなくてもかまわないと言われれば、そうなのだけど、半年遅れでも、日本のことを知りたいと言う気持ちも分かる。

まとめ買いした本を床に並べながら、本にも鮮度があるのだなあとつくづく思った。なぜか「動物占い」という昔流行った本が、続編もあわせて3冊もあった。あの時は、自分のことを占って「うわーぁ よく当たってるぅ」と思ったのに、子どもや夫を占ってみるとまるで大はずれだった。(だからといって、怒ることないと思うゾ<オット) だいたい、性格が正反対の息子1と息子2が(ついでに私も)同じ動物(ペガサス)っていうのが変なのだ。

それから、「五体不満足」もあった。もう読んだけど、もし初めてだとしたら、いまさら読みたいとは思わないだろうなあとか。

そう考えると流行(はやり)の本というのは、わりと多くて、時代を超えていつまでも名作と呼べるものはそう多くはない。そう思いながらも私は、日本の活字が恋しくて、やっぱり ちょっぴり時がワープした世界に入り浸っていくのである。


2002年12月02日(月) 寝正月と読書三昧な日々

11月28日から12月1日までのサンクスギビングの休日は、アメリカのお正月みたいなものなのだけれど、夫は、前日の27日に4週間の出張から戻ってきたばかりで、今年は去年のようなお誘いもなく、そのうえ、夫が風邪をひいていて、文字通り寝正月 になってしまった。出張の最終日に、翌日は飛行機の出発が早いから荷造りをしておこうと思い、スーツケースの中にパジャマを仕舞い込んで寝たからだそうである。 う〜ん?

夫が帰ってくる前日に、メーリングリストで「本のまとめ売りをします」という投稿をみつけた私は、すぐに返事を出した。なにしろ、300冊で80ドルという格安価格なのだ。1冊、約27セント。こちらで本を買おうと思ったら雑誌でも文庫本でも日本の2倍の金額を支払わなくてはならない。(航空便で送られてくる週刊誌なんて一冊1000円以上もする) 300冊の中にどういう本があるのかは分からないけれど、4分の1くらいでも読みたい本があれば充分だと思い、他の人に先を越されないよう、休みになったらすぐに取りに行きますと書いた。

そこは、車で1時間以上かかる場所だったので夫に運転を頼み、出張から戻った翌日(休みの1日目)に取りに行ったら、風邪がひどくなって夫は寝込んでしまった。なので申し訳なくて、わたしはこれがなければ一日も日が暮れないというパソコンに電源を入れるのを止めた。うちのパソコンは寝室に置いてあるのだ。

・・・というのは、かなり嘘で、単に面白い本を読みふけって、読書三昧だっただけである。

子どもと一緒に、階段の下の床に本をずらーっと並べる作業をした。「あっ、これがあった」とワイワイ言いながら、4箱分を全部だしてみたら、347冊もあった。既に持っている本があったり、同じ本が2冊あったり、これは何人の人の手を渡ってきたのだろうというようなボロボロの本もあったりして、あちゃ〜とも思ったけれど、読みたかった本も何冊もあって、しばらくはこれで私も子どもも楽しめると思うと、80ドルはまあまあいい買い物だった。

一番初めに手にとったのは、この方の日記を読んで、以前から、読んでみたいと思っていた山本文緒の一冊で、「きっと君は泣く」というタイトル。






↑エンピツ投票ボタン


どちらも、女性が美しいことについてに触れており、まるで前回の日記に呼応しているみたいで、つくづく日本って国はねぇ・・・と思ったのだった。
(2冊目の方は、時代物なのだけど・・)


さとこ |mail

My追加