愛より淡く
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2004年01月31日(土) |
その他は、すでにもう、真っ白な記憶 |
巷で話題の芥川賞最年少受賞作品を読んだ。「蛇にピアス」
私には、絶対使えない言葉たちがいっぱい並んでいた。
すごいなあ。すごいなあ。すごいなあ。
露骨だなあ。突き抜けている。
なんて思いながら読んでいった。
作者は、まだ、20歳とのこと。まぶしいなあ。
ふと、20歳の頃の自分を思い出した。
まだ人格も完成されていたなかったあの頃。いまだに、完成されないままのようだけど。
もう私の人生はおしまいだ。お先まっ暗よ、なあんてずいぶんと悲観にくれていたあの頃。
毎日毎日布団にくるまって、泣いて暮らしていたあの頃。
なつかしい。
あの頃私の部屋には、小さなホワイトボードがあって、そこにいろいろ忘れてはいけないこととか書き込んでいた。
そのホワイトボードは、ある事件のあと、ある単語だけが記されたままの状態が何日も続いた
その部屋の中で何日も何日も、虚ろなまなざしで、寝床からその単語だけを眺めて過ごしていたような記憶がある。
あの頃のあの部屋を思い出す時、あのホワイトボードの、頼りなくて消え入りそうな文字で記されたその単語だけが、ぼんやりと
2004年01月30日(金) |
日記に書きたくても書けないこと |
日記に書きたいけど書けないことが起こってしまった。
思考というのは、とりとめもなく脈略もなく
ほんとうに不思議だ
昨夜寝床で、寝返りを打ちながら、あれこれ考えている中で
突然
梅宮氏の記者会見のセリフなんか思い出したりして
苦渋に満ちた表情で、彼は語っていた。目に涙すら浮かべて。
「それでもアンナが愛してやまないっていうのだから、どうしようもないですよ」
「愛して止まない」
よい言葉だ。
それでも、それでも、いつか止んでしまうものなのね。
愛して止まなかった頃のことなんて、すっかり忘れてしまうものなのね
ほんに
人の心は
ずいぶんと久しぶりに実家の父から電話があった。
今にも死にそうなほどか細い元気のない声だったので驚いた。
おまけにものすごく気弱なこと言うし。
さらに
「○○くん(夫の名)にあんまりキツく言うたったらあかんで」
なんて、言うのだ。
心配になったので、後からまた母あてにかけなおした。
「お父さん、どっか具合でも悪いの?」
「ぜんぜん。また負けたんちがうか。もう放っといたってるねん」
なるほど。父は、Pの負けがこむとしょんぼりして、生きる気力をなくしてしまうようだ。
そういえば今までにもそういうことって、いやというほどあったなあ、となつかしく思い出した。
あれは、たしか私が小学3年生くらいの冬の日のこと。
珍しく父がトレンチコートなんか着ていたので、もうそれだけでただごとではないと思ったけれど
父は涙ながらに私にこう言ったのだ
「お父さんは、これから遠いところに旅に出る。もう帰ってけえへん。達者でな、お母さんの言うことちゃんと聞いてがんばるんやで」
そんなことを言って、出て行ってしまったのだ。
「なに、なに、なに、いったいどないしたん?どこに行ってしまうん」
わけがわからず、ただただおろおろするばかりの私だった。
いったいうちらの家はどないなってしまうんやろうって、不安で不安で目の前が真っ暗になってしまった。
今でも、あの時のあの妙に哀愁を帯びた父のトレンチコートの
思えば人騒がせな父だった。
父とPに関するなさけなくてあほみたいな思い出話なら、くさるほどある。
あははははは(しばし思い出し笑い)
そんなふうに、今となっては全て笑い話。
それでものんきに笑ってる場合でもないのだった。
と、急に我に返ってためいきをつく私。
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階段の踊り場のところから背伸びして見える教室
その中に、いるかしらって
探していた
探しながら
もし見つけて
彼の学生服姿を見てしまったら、
また好きになってしまうかもしれない
いけないけない
見つけちゃいけない
って
どきどきしていた
どきどきしながら
探していた
つまさきだちで
やっと見える教室
でも
見つけられなかった
見つけられないまま
目が覚めた
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先日の新聞に掲載されていた「パパ久しぶりに抱いて」の投稿を読んで私も同じことでずっと悩んできたという主婦のかたの投稿が、またまた今朝の新聞に掲載されていた。
このかたはご主人に、はっきりと「したくない」と拒絶されてしまったそうで、さらに
「家事と子育てだけじゃだめなのか?」と言われたそうだ。
私が、「女」を主張すると嫌がりました。ともあった。
私は家政婦じゃないのだから!!とかなり苦悩されたようだ。
それでも、そのこと以外は、なんの不満もないとあり、とてもよいご主人のようだ。周囲にもとても仲のよい夫婦に思われているともあった。
このかたは、ある時から、もう家政婦でもいいや、と思えるようになったとのこと。
というのも、「女は終わり」と、女をあきらめかけていたころ、ある人と再会し恋をして、現在もその恋は続いているそうだから。
夫に相手にされず、「家事と子育てだけをしていればいい」と言われて悩んだすえの結果です。で、その文章は結ばれていた。
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ゆうがた。いつも行くスーパーに買い物に行った。
子どもたちと主人にバレンタインのチョコレートを買うことを
思い出して、特設会場をのぞくと、ほとんど「もぬけの殻状態だった」
しまった。昨日に買っておくべきだった。
おめあてだった、毎年買う「チョコッと気持ちチョコ」(名前うろ覚え)も売り切れていた。
がーーーーーん。
仕方ないので、残っているチョコレートの中から適当なのを見つけて、ラッピングサービスのレジに並んだ。
中略
午後8時過ぎごろに夫がしょんぼりして帰ってきた。
ほんとうにしょんぼりしていたので、こう思わずたずねてしまった。
なんか、ほんとうについてないわたしたち
なにをやっても裏目裏目に出てしまうみたいだ
どうすればいいのだろう?
ってこんなところでこんなことしている場合ではないのかも
でももうどうでもいいのかも
投げやりになっちゃあ、おしまいかも
明日は明日の風が吹く
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2004年01月18日(日) |
春の日の幻と化した殺し文句 |
なんとなく春めいてきた今日この頃。
この季節の、日差しの柔らかさや空気の温さなどを感じる時
私は誰かを好きになり始める頃の、あの初々しくてどこかたよりなくて儚い感情を思い出します。
えらく抽象的ではありますがね。本当は、もう少し具体的なことも頭をよぎったのでした。
その人は、運転中、私を見つけて、車で追いかけてきてくれたのでした。
その人は、はあ、はあ、と息を切らして、
「やっぱりそうやった。違っていたらどないしようかと思った」
と無邪気にうれしそうでした。
「そんな遠いところからよう私ってわかりはりましたね〜」
と感激しますと
その人は、春の日の暮れの柔らかな日差しを浴びながら、
満面の笑みを浮かべ
それから、その人は、ほんじゃ、と、さっさと行ってしまいました。
私はといえば、ちょっと期待はずれの答えに、がくっという感じ。
それでは、私はあの時、いったいどんな答えを期待していたのでしょう?
もっと女ごころをくすぐるような気の利いた殺し文句のようなもの?
そうだったのかもしれません。
春うらら♪
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あれから
何かが変わったようで、何も変わらないようで
三歩進んで二歩下がるような日もあり、一歩進んで五歩下がるような日もあり、七歩進んで下がらない日もあり、何も進まない日もあり
それでも比較的穏やかで、だけどそれは、深刻な問題をわざと視界に入らない場所に追いやっているだけのようで、それらは解決される術もなく依然と存在している。
私な、このごろな、車を運転してたらな、なぜかいつも「花街の母」のサビの部分を唄いたくなるねん、で、なんべんもなんべんも、唄ってしまうねん
こーんなくろうに〜♪けり〜つ〜け〜て〜♪のところを延々と嫌になるまで。
というようなことを夫に打ち明けた
すると夫は
そうか、実はな、俺もな、このごろ、なぜかむしょうに、「命くれない」ばかり唄いたくなるねん、特に、生まれる前から〜むすばれていた〜のところ
と答えた
それから、
きっとあんたと俺も、生まれる前から結ばれる運命やったんやわ
と自分で言って自分で照れていた。
ふうん。
そういえば「命くれない」って、生まれる前から〜♪のところしか知らない。「花街の母」も、出だしとサビの部分しかしらないけど。
なんだかこんなふうに書くと、夫婦のごくごく普通の日常のやりとりみたいでしょう?
話せばわかりあえるってこともあるのかもしれません。
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ありがとうございましたゥ
2004年01月15日(木) |
年を重ねるとそんなことどうでもよくなってくるのかな? |
私は、夫のことをパパとは呼ばないので、「パパ、久しぶりに・・・」なんてことは絶対言えない。などということをぼんやり考えてみた。とりとめもなく。
夫は、私のことを昔は「ママ」と呼んでいたけど、そのうち「お母さん」になって、私は、そう呼ばれるのがどうしてもイヤで、ある日、勇気を出してそのことを主張したら、少し呼ぶ回数が減ったことは減った。けど。うっかりすると呼ばれてしまう、「お母さん」。そいでもってうっかりすると私も返事をしてしまう。
言われるたびに、「私はあんたを産んだ覚えはない」などと言い返すのも、カドが立つしめんどくさいし。
そういえば、実家の母などは、いつのまにか父に「おばあちゃん」と呼ばれるようになってしまっている。
それって、それって、それって、呼ばれてあんまりよい気はしないかも。母は、父より7つも若いのだ。
それでも、年を重ねると、そんなことどうでもよくなってくるのかな?
いや違う。私には、わかる、「おばあちゃん」と呼ばれる度に、母は、やはりちょっとムッとしていると思う。
このところなかなか時間がとれなくて、日記が飛び飛びにになってしまっている、飛んでいるあいだにも、実生活では、書ききれないほどいろいろあって、ほんとうに毎日があわただしく、大変なこともおこったりとかで、あれよあれよというまに過ぎていく。
それでも、時間と気持ちに余裕ができれば、ゆっくりとこれまでのことを振り返って記したいと思う。
2004年01月14日(水) |
「パパ、久しぶりに抱いて」 |
昨日の朝。ぼんやりと新聞を読んでいたら、28歳匿名希望の、ある女性のかたの投稿がこの目に飛び込んできた。
そこには、二人目の子を出産してから6年間一度も夫に触れてもらったことのない苦悩が切々と綴られていた。読んでいて胸がつまった。
その女性は、家事や子育てや仕事に夢中でこの6年間を過ごしてこられたようだ。
子どもが小学生になって手もかからなくなり、また夫に目が向くようになった。そしてこの正月に彼女は勇気を出して夫を誘ってみた。とのこと。
「パパ久しぶりに抱いて」
なんて可愛らしい言いまわしだろうと読んでいてグっときた。
私が彼女の旦那さんなら、きっと、「(なんてなんて可愛いやつ)よっしゃよっしゃ。おやすいごようや」と抱きしめてあげると思う。
しかし答えはNO。
それから言い合いになり、最後は
「俺はもう一生しない」
と泣きながら夫に言い切られてしまったという。
そ、そんなーーーーーーーーーーーーーー(旦那さんもなにも泣かんでもええのに^^)
なんでもご主人は、もともとそういうことをするのがおキライな方だそうだ。その文章にも、2人も子どもができたのが不思議なくらいだ。と記されていた。
それでも、その女性は、旦那さんを深く愛しておられて、人間的にも尊敬しておられるそうだ、そのこと以外については、なんの問題もないとのこと。
「心から愛している夫に一生抱かれない生活。もう彼の胸に顔をうずめて彼を感じることはできないのだろうか?この底なし沼のようなさみしさをいったいどうやって埋めたらいいのか、その術を私は知らない」
でその文章は、終わっていた。
彼女は、まだ28歳。まだまだ、これからではないか。
2004年01月13日(火) |
もっと早くにそうなっていれば・・・ |
話せばわかる、わかりあえる、ということが、本当にあるのものなのだなあ、としみじみ思い知らされた。
時間をもらって、じっくり上司と話し合うことができた。
いろいろと話を聞いてもらったら、凝り固まっていた糸がスルスルとほぐれていくみたいに、気持ちが楽になった。
今まで、お互いに、ずいぶんとコミュニケーション不足だったのだなあと改めて思った。
雨降って地固まる。という感じ。
心がふれあうって、よいものだなあ。(彼女は彼女で大変だったのだということがよくわかった。)
もっと早くにそうなっていれば
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ありがとうございましたゥ
思い起こせば、ずいぶんと、トラブルメーカーだった私。
その昔、何度も上司や同僚とぶつかって、騒ぎをおこしたことがある。
ある時は、職場の出入り口のガラスのドアを、勢いよく閉めた拍子に粉々に割ってしまったこともある。(実は、それは、ある同僚との痴情?のもつれも関係していたのだけれど。)我ながら、あまりのバカ力に恐れをなして、その日は、仕事をボイコットして、逃亡してしまった。このプチ失踪事件に職場は大騒ぎになった。
またある時は、直属の上司の陰謀を暴露する直訴状(血判押して)を、事業部の人事課に持っていったこともある。そのことは、その営業所始まって以来の物議をかもしだしてしまった。
またまたある時は、終電の電車内で、同僚と思いっきり口論したこともある。酔っていたとはいえ、言い過ぎたと反省したけど、案の定、その後、所属する課の村八分にあってしまった。まあ、当然だけど。とほほ。ごめんなさい。しかし当時あんな小娘ひとり相手に、大の大人たちが、シカト作戦に出るなんて、今思えば、ちょっとなさけないなあとも思う。
彼らは、私が結婚退職したのをいいことに、私の営業成績を山分けして、ハワイに行ったのだ。(その当時、営業成績がよければ報奨としてハワイ旅行がプレゼントされる企画があった)
どうせ辞めたもんの成績なのだから、と、所長が有効利用しはったようだけど。せめてひとこと断ってほしかった。死人に口なし。てか。
しかもそのせいで、私は、「最終月、目標売り上げ額なし」という不名誉な成績を残して職場を去ったということになってしまったではないか。なんか不本意である。 がんばったのに、がんばったのに。
返せ、私の、私の、有終の美!!ぐやじーーーー。
そんなことしてまで、ハワイに行きたかったのか?
行きたかったのでしょうね^^。あは。
うぉーーーーなんか思い出したら、腹立ってきた。ふつふつふつと。
まだもっといろいろあったようだけど、今は、もう思い出せないほど、遠い昔のことになってしまった。
そしてまた、平成16年1月29日、新たに、やってしまった。
上司と大激突。あああ。
なんてこらえ性のない私。
それでもそれでも
はははははは。
笑うしかない。
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ありがとうございましたゥ
腰の方は、おおかたよくなって、もうひとりで靴下もなんなくはける。
朝おきても、それほどカラダも痛くない。
でも、なんか、過剰?なストレスのせいか
ホルモンバランスを崩してしまったようで、ちょっと、不安。
そういえば、ずいぶんと昔も、このような季節に同じようなことがあったなあ
義母がケガで入院して、子どもたちをつれて毎日お見舞いに通っていた頃だ。下の子は、赤ちゃんで、上の子も赤ちゃんに毛がはえた程度の幼児だった。
とにかく、毎日通わねばならないという、使命感というか強迫観念めいた気持ちで、お見舞いを続けていた。
面会時間なんて、たかがしれていたのだけれど
それでも毎日様子を見に行った、というか、子どもたちの様子を見せに行ったというか
なつかしい。
それにしても果たして
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ありがとうございましたゥ
2004年01月09日(金) |
「真夜中の話し合い」に至るまで |
その後、夫は義母に呼び出されて、義母にこっぴどく叱られ、お説教されてきたようだ。
義母の家に偵察に行った長男が、ドア越しにこっそり聞いてきた一部始終をおしえてくれた。
果たして義母のお小言がいったいどこまで夫に通用するものなのか?
私も子どもたちも夫のP依存症に対しては、それなりに傷ついている。
以前長男は、夫が出かけようとしている時に、なんとかPに行かせまいとして、車が動かないようにと自分で作った車止めを、タイヤの前に置いたこともある。
全然効果がなかった^^。
その時の私は、子どもの心を踏みにじってまで行こうとするなんて、夫がほんまに許せなかった。
「Pに行くと、お父さんとお母さんがケンカをする。借金が増えて、家ももっと貧乏になる。お父さんがPにさえ行かなければ、みんなみんなうまくゆくんだ。」
そんなふうに思い込んでしまっているようだ。
それは、幼い頃、私がPに対して抱いた感情とよく似ていた。
全てをPのせいにして、世の中から全てのP屋が消え去ることを祈り、いささかお門違いの憎しみをPにぶつけてしまったあの日の私と・・・。
さて、義母にこってりしぼられた夫は、しばらくシュンとしていた。
その後私は、なにもかもイヤになって、実家に帰りたくなった。
でも実家に帰ってもなにも解決しないということが、なんとなくではあるけれど、わかっていた。
実家は、一時的な避難場所にすぎないのだ。
それに、実家には、すでに私の居場所などどこにもないのだ。
私が慣れ親しんだ「わたしの部屋」は、もうどこにもないし。
すべて母に片付けられてしまった。
私の愛用の化粧台ですら、母は、捨てた。
私の母は、あきれるくらい、なんでも潔く捨ててしまえる人なのだ。
みんなみんな知らない間に捨てられてしまっていた。
だけど、捨てられてしまったことを知っても、さほど感傷的には、ならなかった。
ったく、なんで捨てるのんさ。ぶつぶつ。
ちょっとボヤいただけで、終わってしまった。
もともと私には、物に対する執着心がさほどないようだ。
そういえば。なんでもよくなくした。消しゴム、ふで箱、えんぴつ、定規、コンパス、ノート、したじき、縦笛、などなど、いつのまにか、私のそばからいなくなっていたんだ。まるで自らの意思でもって、私の元を去るかのように。いつのまにかいなくなっていたのだ。
その中には、いなくなったこと自体気づいてもらえないまま、私に忘れ去られてしまった物もあるだろう。
今だって、毎日、なにかをなくしている。 毎日、なにかを探している。毎日、なにかをあきらめている。
どうもここの日記の調子が悪いようだ
今書いてUPしたけれど
なんかおかしな具合になった
文章が途中で半分ほど
ぷっつり切れてしまっていた
今日はこれで二度目だ
なんでかな?
なんか疲れてしまった
ふぅ
布団とりこもうっと
私は母に真相を話して、これまでの私たちの夫婦関係についての私の苦悩のようなものをかいつまんで打ち明けた。
しかし、そばに子どもたちがいたので、そう露骨には話せなかった。
それでも不思議なもので、母に少し話を聞いてもらっただけで、かなり気持ちが楽になった。
それにしても義母がなんでそんなデタラメなことをうちの母に伝えたのかは、よくわからない。
あの時私の云ったことがうまく伝わらずに間違った解釈をしてしまいはったのかもしれない。
だけどそこに私は、義母の我が子に対する深い愛情のようなものを強く感じてしまった。
「そうでないと、あのおとなしい子がそんな暴力ふるうわけがないとお義母さん電話で言うたはったで」
という、うちの母の言葉を聞いてよけいそう思った。
2004年01月05日(月) |
家庭内別居 なんでそうなるのん? |
昨日、実家の母から電話がかかってきた。
なんでも、夫の母から詳細を説明する電話がかかってきて、
その内容を聞いて、愕然としてしまったうちの母が、真相を確かめるために 私に電話をしてきたというわけだった。
よりにもよって
息子がかわいそうでならないって、お義母さん電話口で泣いたはったで。
って
なんでそうなるねん!!
私は、わなわなと震えた。
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ありがとうございましたゥ
長男が、近所に住む義母(夫の母)のところに、事の顛末を伝えに行った。
電話でうちの実家の母とも話をしたようだ。
しばらくして義母がやってきた。
玄関のひどいありさまを見て、驚いていた。
これまでの事情を説明した。
中略
一夜明けて、さっき、また義母が来た。
煮物などのおかずとかをいろいろ届けてくれた。
買いものに出かけるところだったのだけど、表に出ると、ちょっと手招きされて、こそっとこんなことを言われた。
「あんたは二階で子どもたちといっしょに寝て、○○(夫の名)は、下で ひとりで寝ているのが、いけないのではないか?やっぱり夫婦はいっしょに寝て仲良くしないと、○○は、まだまだ男盛りなんだから、週に1回くらいは、どうのこうのどうのこうの、発散できないので、ギャンブルに走ったり、暴力ふるったりするのでは、云々」
と、ちょっと面食らってしまうようなことを真顔で言われた。
それは絶対違う。お義母さんは、かなり見当違いをしておられる。
それで私は、言った。
「それが、いっしょに寝よう行っても向こうがイヤヤと言って拒否しますねんもん、どうしようもありません」
さらに私、感きわまったのか、涙声で
目を丸くして驚いてはった。
夫婦円満はのひけつは、やはり、肌のふれあいが大いに関係すると思う。
わかっているけど、こればっかりは、ひとりでどうしようもない。
だから、わたしたちは、もうだめだっちゃ。
今の私は憎しみしか持っていない。
そして激しい嫌悪。
もう遅すぎる、
心もカラダも開かない。
どうしようもない。
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ありがとうございましたゥ
今朝、殺されかけました。っておおげさかもしれないけれど
それくらいの恐怖を感じました。
暴力までふるわれるようになっては、やはりもうおしまいです。
玄関には、陶器製の傘たてが、こなごなに破壊されたままになっています。
片付ける気力もないという感じ。
見せしめのためにあえて、そのままにしているのかもしれません。ってひとごとみたいに。そうしているの、ほかでもなく、わたしなのですがね。
こんなふうにした本人が片付けるべきなんだと思います。
こんなひどいありさまにした本人が片付けるべきなんだと思います。
私は、傘で突かれそうにそうになったのを、かろうじて身をこなして助かりました。
壊れる時には、あっけなく壊れるものなのですね。
ものごとなんでもそうなのかもしれません。
悲喜劇は、表裏一体。
少し興奮と混乱はおさまりましたが、まだ私も、正常な精神状態とはいいがたい。
それでも、さすがに、もうだめですね。
修復不可能
あの傘たてのこなごなぶりが、今後を物語っているような気がします。
割れた陶器は元には戻らない。二度と。もう二度と。
不思議ですが、案外淡々としているものなのですね。
もっとドロドロとして生々しく悲惨な状況を想像していたのですが
なんか、あっけらかん、というのに近いかもしれません。
単に感覚が麻痺しているだけなのかもしれませんがね。
数日後、どどどっと来るのかな?
涙も出ないほど、すっかりカラカラに乾ききってしまった心。
とりあえず、
土壇場
正念場ということだけはたしかなようで。
自分で何を書いているのか、よくわからない。
そのうち消します。
なんか私が書くと、どうしても、どっかに滑稽味を帯びてしまうような気もしています。
それともただの気のせいかしら?
もつれにもつれてこんがらがって凝り固まってしまった糸の塊を、
ええいもういいやって、スパッとハサミで、切っちゃった。
そんな感じでしょうか?
時間をかけて、じっくり、ゆっくりと、ほどいてゆく、という根気がなくなってしまったのでしょうね。
今はまだ。
自分の心の傷口を見る勇気がない。怖くて見ることが出来ない。
そこから逃げてしまう。立ち向かおうとしない。
はぐらかして、ごまかして、見ないふりをして。
生き方をどこかでまちがってしまったのでこんなふうになってしまったのかな?
まだ、よくわかりません。頭ごちゃごちゃ
しあわせになりたくて、がんばってきたけれど
なんかがんばればがんばるほど、しあわせから、遠のいていくようで
なんだかねえ
あ、今、ハッピィ&ブルーの歌詞が脳裏をよぎってしまった。
いつまでたっても、だめなわたしね〜♪
とりあえず、やっぱり、片付けますわ。
踏むと足ケガするし。誰か玄関から入ってきたら、びっくりしはるやろうし。
ではまたね
2004年01月02日(金) |
美・サイレント 壊れてゆくカラダ |
毎年、一定の割合で減ってゆくようなものではないのだ。
ある時を期に、どどどっと怒涛のごとく減ってしまうものなのだ。
そのようなことをしみじみと感じる、今日この頃。
いったい何が?
さあ
ご想像にお任せします。美♪サイレント♪美♪サイレント♪意味不明?
まあそれはおいておいて。
実は、
去年のお正月には、想像だにしなかったことが私の身に起こってしまった。
それは、「朝起きてなんの苦もなく起き上がれなくなったということ」
去年まであたりまえにできていたことが今年はできない。
起きるのが、こんなに大変で辛いものだったなんて!!!
今年はじめて身に染みた。
すんなり起き上がることが、ままならなくなってしまった。
あちこち痛くて痛くて、よいしょっとやっとこさ起き上がる
という感じ
ああ、ああ、ああ、なんという老化現象。
ちょっと早すぎやしないか?
なんでこんなことに?
鍛えなかったからか?
ああおぞましい。
いったい何が起こったのだろう?
それも年末から急にこんなふうになってしまった。
私のカラダ、私のカラダ、
なんでこんなことに?特に酷使したというわけではない。
ごくごく普通に生活していたつもり。
なのに、こんなにこんなに、もうボロボロのがたがた。
思い起こせば、たしか去年の一月ごろに、寝床で仰向けにまっすぐに足を伸ばして眠ると、左の足の付け根に激痛が走る。というようなことを日記に書いていたような気がする。
それが悪化してこんなひどい状態になってしまったのだろうか?
普通に起きたい。普通に起き出して、靴下とかはきたい。
ある日ふっと目覚めた時、何事もなかったように、すんなり、なんの痛みもなく起き上がることができるものなのだろうか?
そうなってほしい。
奇跡を奇跡を奇跡をわたしに!!
あーめん。
って、やはり無理なような気がする。
治療しないといけないのかも。
新年早々、暗雲たちこめる?????
2004年01月01日(木) |
2004 我が愛の行方 |
今年(もう昨年)は、家族そろって「紅白歌合戦」を見ることができた。
たしか去年(もうおととし)もそうだったように思うけれど、「涙そうそう」で涙が
こぼれてこぼれてしょうがなかった。といっても涙がこぼれたのは、
彼女の歌声を耳にした時だけ、森山良子やBEGINの時は、平気だった。
どうも私は、彼女のあの澄みきった美しい歌声に弱いようだ。
しかしこの手の涙は、何度も流しても心地よいものだ。心が洗われる時に流れる涙。
そうそう^^。
一夜明けて、2004年元旦。
とても晴れやかで穏やかな朝だった。
お雑煮やお餅を食べて、爆笑ヒットパレードを見ながら、ウダウダと過ごす。
漫才グランプリで優勝した「フットボールアワー」の左かわの人の困ったような顔と漫才のネタが、なぜか脳裏にやきついて離れない。こんなのだ。↓のだ。
「奥さんを中国人にたとえると?」「中国人に例えてどないすんねん!!」
ああテンションは、床を這っている。
子どもたちは、お年玉をもらいに、近所のおばあちゃんの家へ。
夫は、「風に吹かれてさすらってくる」
というわけのわからない言葉を残して出て行った。行く場所は、わかりきっている。
今年も元旦から、こりもせず・・・。もうためいきも出ない。昔は、P屋は元旦は休みだったはず。なのに、いつから元旦まで開店するようになってしまったんだろう?
はがゆい。元旦くらい休んでおくれやす。
私は、今、ひとりぼっちで、じゃがりこサラダ味を食しながら、日記を打っている。
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