記憶の記録。
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2003年10月31日(金) (修復ここまで)

それを、やっとと安心できる思いと、とうとうこんなに負担をかけるところまで母を連れて来てしまったという思いと。
私達はこの入院で何かが変わり、何かを出来て、何かを救い、何かになれるのでしょうか。


初日のことだし、本当はもっと詳細に書きたいのですが、これだけ書くのに2日間かかりました…f^_^;それでは日記にならないので(笑)今後は「簡潔に、でも毎日!」をモットーに頑張るです。


これは10月30日に書きました(自分達用メモ)


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…というのが、本来10月27日一日分の日記でした。もちろん28日以降31日まで、一生懸命書きました。が、残念ながらそれらはバックアップをとってありません。初日の、二日かけて書いたこの長い日記をたまたま残せていただけでも幸いだと思います。読みにくくて申し訳ありませんでした。


2003年10月30日(木) (更に更に続き)

震えが止まらなかった。O崎先生(臨床心理士)、O先生(精神科医)と主治医は女性の方にお願いしてきたこともあり、男性医に他人格の衝動をぶつけるのは(男性医自体は、さらにこの1週間前初めてY病院に来てOG先生と面談したので2渡めなのだが、OG先生の時には時間も短く、他人格の干渉はなかった)久しぶりだったので、彼の動じなさが『お前の演技など通じるか』と宣言されたと同じだと思い込んでいたのだ。「あなたは嘘つきです。お帰りください」と言われるのだと。でもそうではなくて、M先生のご判断は、「本人・他人格による自傷自殺の恐れが強く、保護入院が必要」というものだった。

(続く)


2003年10月29日(水) (更に続き)

相違もあるし、暴走人格の権利も強いようなので、退院時期は僕とお母さんと妹さんで決めるようにしておきましょう」と淡々と話された。
1時間前、私がM先生と初めての面談をしている時、意識の鉄壁の向こうから小さい左手が伸びてきて、先生のデスクの上を不機嫌に払い散らしたことを思い出した。ハンコがいくつかと四角い朱肉(それは両親が教師だった『私』には馴染み深いものだ)が派手に床に飛んだが、M先生は少しも驚かずカルテを赤ペンに変えて書き続けられた。『私』は自分の左手がしたことが恨めしく、M先生の冷静さが恐ろしくて体の

(続く)


2003年10月28日(火) (続き)

(続き)
デタラメな思い込みなんだ」と自己嫌悪が募るばかりだった。今は勿論、「8年間周囲の人々を騙してきた報いを今こそ受けねばならない」という悲壮感で一杯だ。だけど、Y病院M先生は、母に「今回のあかりさんの場合本人の意志による任意入院ではなく、医師と保護者が必要と判断する保護入院(強制入院)となります」と告げた。『私』は「自分から入院したいと先週話したので、任意の養生入院ではないのですか」と聞いた。「内容的には養生入院でいいんですが、任意と保護では退院の決定権が違います。あかりさんの場合は他人格との意見の

(続く)


2003年10月27日(月) 入院一日目〜やっと、もしくはとうとう〜

本当に、「やっと」もしくは「とうとう」だ。
Y病院精神科に入院が許された今日、『私』の心境は複雑で単純だ。各人格単位の話をするなら、もっとたくさんの感情が入り乱れることだろう。だけどそれらは、ある部分では薄衣一枚、またある部分では分厚い鉄壁に阻まれて『私』が知ることは出来ない。O崎先生と歩んだ8年間に『私』が手に入れた、この「薄衣一枚」という距離は、中々微妙でもどかしい距離感だ。調子がいい時には自分が治癒に向かっているという確信になっていたし、調子が悪い時には「やっぱり自分は嘘をついていて、DIDなど

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2003年10月26日(日) 最初に

この日記は、『私達』がY病院精神科・閉鎖病棟に保護入院した日から綴り始めた記憶の記録です。入院目的は希死念慮の緩和と、人格間の混乱の緩和。当初の入院予定は一ヶ月間でした。(03年11月14日・退院の次の日に携帯用日記からこのエンピツ日記へ移行)


あかり