見つめる日々

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2010年07月30日(金) 
いつの間にか雨が降り出したらしい。しかも結構な勢いだ。窓際に立って私は外を見つめる。ざんざんと降りしきる雨は、何処かちょっと怒っているかのようで。私は耳を澄ます。何にそんなに怒っているのだろう。気になる。
傘を持ってベランダに出る。ぱしっぱしっと傘に当たる雨。弾かれてそれは何処へ堕ちてゆくんだろう。私はラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。濡れたラヴェンダーとデージー。絡まり合った枝をそっと解いてゆく。濡れているからいつもより余計にそっと解いてやらないと切れてしまう。黄色いデージーは、こんな空の下でも明るく咲いている。
パスカリの、根元からようやく新芽を出した方を見やる。新芽はもう五センチをゆうに越えており。もうじき十センチに届こうとしている。どこまで伸びるつもりなんだろう。くいくいと伸びてゆくそれを私はちょっと不思議に思いながら眺める。まだまだ赤い縁取りをもって、伸びてゆく枝葉。この週末の間に、他の枝に負けないの高さにくらいぐいぐい伸びてきそうな気がする。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせている樹。この雨の中、桃色はひっそり微笑んでいる。ピンク色と桃色は、どうしてこうも輝き方が違うのだろう。ピンク色は、見て、私を見て、というように華やかに輝くのに対して、桃色は静かに密やかに輝く。私はどちらかといったら桃色の方が好きだ。
花芽を抱いているパスカリ。白い蕾は小さいながら綻び始めた。やはりちょっと肥料が足りないんだろうか、こんな小さいまま綻んでくるということは。私はちょっと申し訳なくなる。この花が終わったら、肥料をまた継ぎ足してやろう、そう心にメモをする。
アメリカンブルーは今朝は一輪も開いていない。ちょっと寂しい。
ミミエデンは新葉の色がぐんぐん変わってきている。もうほとんど緑色だ。葉脈から緑になり始めて、全体が緑色になっていって、そうして最後、縁取りの紅色もやがて消えていくのだろう。カーテンで折ってしまった花芽は、今、テーブルの上、花瓶に挿してある。咲いてくれるわけはないと思うが、それでも、やっぱり。
ベビーロマンティカの蕾は、昨日のうちにぐいと大きく膨らんできた。花びらの色がこぞって見えるようになった。明るい煉瓦色のそれ。かわいらしい色。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンロー、揃って新芽を出してきている。こんな空の下でも、くいっと空を見上げている。私もそれに習って空を見上げる。鼠色の雲にびっしりと覆われた空。そして絶え間なく雨が降り堕ちる。
部屋に戻り、お湯を沸かす。昨日試しに買ってみたジンジャー&マテのハーブティー、結構おいしい。それを今朝は入れることにする。
窓を半分だけ開けているのだが、カーテンがぶわんぶわんと風に吹かれ、揺れている。そして激しい雨の音。時間が経つごとに強くなっていくような気がするのは気のせいか。
おはよう。いきなり声がする。振り向くと、娘がすっくと立っている。どうしたの、こんなに早く。なんか起きちゃった。眠くないの? 全然。それよりおなかすいた。分かった、じゃぁチャーハンでも作るよ。うん。
娘は最近、起きると一番にミルクを起こしにかかる。そして手のひらに乗せてというよりほとんど握って、あぁだこうだと遊んでいる。今朝もやっぱりミルクを起こしに行った。ミルクぅ、と言いながら、ミルクの背中を撫でている。私はその声を聴きながら、冷蔵庫の中を漁る。

ママ、この女の子リストカットしてるって言ってるけど、ママの傷痕とずいぶん違うね。DVDでとあるドラマを見ながら、娘が言う。あぁ、ママのはちょっと酷いから、違うように見えるんでしょ、そう言って私は笑う。なんかずいぶん違うよなぁ。娘が首を傾げる。私は黙ってそれを眺めている。娘が言う。でもさ、このくらいで済んだなら、この子、きっとじきに元気になるんだよね。そうだね、うん、きっと。私は返事をする。
フライパンでご飯を炒めながら、私は何となく、自分の右腕と左腕を比べる。右腕の傷痕は、まぁさもありなん、というか、よくあるリストカットの傷痕なんだろう。娘が言うように、ドラマにも出てきそうな傷痕、その程度で済んだ。娘はきっと、その右腕の傷痕は、ほとんど目に入っていない。私の左腕の傷痕のことを、娘はリストカットの痕と思っているに違いない。
どうなんだろう、私も、今まで自分の左腕のような痕は見たことがないから、ふつうというものを知らない。娘にどう応えていいのか、だからよく分からない。
娘はもう、すっかりドラマの中に引き込まれて、ガンバレ、だとか、負けるな、だとか言っている。娘のこの、気持ちの転換の早さに、私はちょっと感謝する。

母に電話をすると、今菅平から帰って来たところだと言う。あら、菅平、お父さんと一緒に行ったの? だって、あまりにこっちが暑いから、車しんどいけど、頑張ってみたのよ。そうなんだ、でも今週はこっちもそれなりに涼しかったよ。ほんと、帰ってきてそう思った、これなら車でしんどい思いしなくてもよかったかもって。でもねぇ、あっちは昼間は半袖でも、夜はやっぱり長袖じゃなきゃだめなくらい涼しかったわよ。よかったね。
そしていきなり母が言う。あなた、恋とかしてないの? はい? だから、恋愛とか。してないしてない、全然そういうの、ない。そうなの。母が黙る。なんでそんなこといきなり聴くわけ? いや、あの子が、ママは全然恋愛しないから駄目なんだとか言ってたから。あぁ、そういうことか。別にいいじゃない、恋愛してなくても。今はあの子で手いっぱいだから、無理無理。そう、それならいいけど。え? あ、恋愛してほしくないってこと? そりゃそうじゃない、下手に恋愛なんかして、またどうしようもなくなったら、こっちの身が持たないわよ。あ、はい。分かりました。まったくもう。はいはい。それにね、今度また失敗なんかしたら、今度こそ本当にあの子がかわいそうなんだからね、分かってる? 分かってます分かってます、分かってますってば。分かってるならいいけど。はいはい。
母の口からまさか恋愛なんて言葉が出てくるとは思わなかった。吃驚した。でも、こんな話をできるようになったということが、ちょっと嬉しい。母と他愛ない話をすることが、私の一つの夢だった。その夢が、言ってみれば、叶ったということか。
授業で一緒になる女性の一人が、今改めて、機能不全家族というものに悩んでいるという。授業でそれを扱ったことで、自分の家が明らかに機能不全家族だと自覚したのだという。でも今更、何処からどうそれを掘っていけばいいのか、分からない、でも、ここからどうにか何かを変えていかないと、私はきっとずっとこのままになってしまう、それはいやだ、と彼女は言った。
自分の中に、ACを自覚し、かつ共依存傾向が強いことも自覚した彼女が、それに合うような本はないかと問うてくるので、私は本棚を探した。昔々、読んだ、ACや共依存に関して書かれた著書を見つける。渡すと、彼女はじっとそれに目を落としていた。
今更かもしれないけど、私、自分を変えていきたい。彼女のその言葉に、私はうんと頷いた。変えていきたいと自分が思ったその時が、ちょうどいいタイミングなのだと私は思う。自分がそう思えなければ、周りが何を言おうと無駄なのだ。

ママ、Oちゃん、どうしてる? あぁ、頑張ってるよ。猫、まだ見つからないの? うん、まだ見つからない。みんな駄目だって? そうだね、今まで当たったところは、全部駄目だったみたい。でも、きっと何とかなるよ。どうしてそんなこと言えるの? 諦めたらもうそこで終わりだけど、まだOちゃんもママも諦めてないからね。必ず見つかるよ。そう、ならいいんだけど。大丈夫、きっと何とかなる。
何とかなる、なんて確証は、何処にもない。でも。諦めたらそこでまさに終わりだけれど、諦めなければきっと。私はそう信じたい。
きっと何処かに、出口は、在る。

ママ、雨酷くなるね。学校大丈夫? ほんとだねぇ、酷い酷い。こんな中行くのはやだねぇ。ママ、雨の中歩くと蕁麻疹出るよね。うん、だからイヤなんだよね。頑張ってね。うん。
娘に見送られて家を出る。降りしきる雨の中、バス停へ。誰もがうんざりしたような顔をしてバスを待っている。
バスはほどなくやって来た。どこかで娘の声がする、と思って見上げると、ベランダから大きく手を振ってくれている。私も大きく手を振り返す。
バスに乗って駅へ。何台も止まっているバスやタクシー。どっと降りる人、人、人。その中を、私も、縫うように歩いてゆく。
川を渡るところで立ち止まる。水嵩がいつもの倍以上になっている。泥水色に濁った川。魚の姿など何処にも見えない。
授業も今日を入れてあと二回。あと二回、何ができるだろう。
さぁ今日も一日が始まる。私は真っ直ぐ、教室に向かって歩き出す。


2010年07月29日(木) 
起き上がり、半分開けておいた窓から外へ出る。見上げると、もくもくとした濃鼠色の雲が空一面を覆っている。それはもう見事なほどのうねり具合で。雲が生きていることを、実によく語っていた。あぁこれは雨が降るんだな、と思いながら私はしゃがみこむ。ラヴェンダーとデージーの、絡み合った枝を解いてゆく。そろそろデージーの花も終わりになるのかなと思いきや、その勢いは全く衰えることなく。いまだに花盛りといった感じだ。ラヴェンダーの二本の、長く長く伸びた枝を昨日切ってみた。それでもここまで絡まり合うのだから、もしかしたら、この二種類は、犬猿の仲なのかもしれない、なんて思ったりする。
アメリカンブルー、今朝は二つの花が咲いてくれた。真っ青のその花。この濃鼠色の空の下でも、その青の透明さは変わらない。それが嬉しい。
桃色の、ぼんぼりのような花。三つの花が、ぽろん、ぽろんとついている。その隣で、パスカリが白い花芽を揺らしている。下の方から伸びてきた新芽が、ぐいぐいと首をもたげている。
もう一本のパスカリの、根元から出てきた枝葉も、赤い縁取りを伴いながら、くいくい伸びてきている。結構太い枝だなと、私はそれを指でそっと撫でてみる。ぷるん、と、先端の葉が揺れた。私は慌てて手を離す。邪魔しちゃいけない。
ベビーロマンティカは、幾つもの蕾を伴って、それでも飽きずに新芽を伸ばしてくる。この元気さ加減は何処からくるんだろう。こんなに暑い日が続いているのに、そのエネルギーが滞る気配は何処にもない。
ミミエデンはミミエデンで、紅色だった葉がすっかり緑色になった。これがもう少し明るい葉の色になるはず、と思う。昨日折れてしまった花芽、テーブルの上で今水に挿してある。本当にもったいないことをした。カーテンの仕打ちが恨めしい。でもそんなことを言ってももう元には戻らないのだから仕方がない。また花芽を出してくれるのを待つばかり。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。それぞれに新芽をぶわっと噴き出させて来た。私はしゃがみこんで、下の方からその芽を見上げる。空に向かって真っ直ぐ伸びるその新芽。どんどん伸びろ。私は心の中、声を掛ける。
昨日、死刑が執行されたというニュースが流れた。その途端、批判の声明があちこちから挙がっていた。それを見ながら、私は私で考えていた。
私は一被害者として、死刑執行に反対しない。
自分が、あの被害に遭ってからの日々を省みれば、とても死刑なんかで償えるものじゃないと、私は思う。いくら加害者が死刑になっても、私の時間は戻らない。私の体験はなかったことにはできない。私が経てきた苦しみは、決して消えてなくなるものではない。
でもじゃぁ、たとえば私の加害者たちが、死刑になったとして。それで私の苦しみが消えるかといったら、それも否なのだ。
私は、生きながらずっと、あの出来事を抱え、背負ってゆく。それならば、加害者たちも、そうであってほしい、と、私は考えてしまう。
だから、死刑よりも、終身刑を作って欲しい。そう思う。
友人の何人かには、終身刑だって足りないという人たちもいる。それはそうだ、いくら閉じ込められているとはいえ、飯はちゃんと出る、眠る場所もある、それだけで贅沢だと、その意見も分かる。
でも。
死刑にしたからって私の苦しみは拭われない。そのことも、歴然としている。ならば私は何を選ぶか。終身刑を作って欲しい、終身刑で一生、その人がそこで、罪を償ってほしい、そう、願う。そう、生きながらでしか味わえない苦しみがあると、私は考えるからだ。
何度死のうと思ったか知れない。何度それを実際試みたか知れない。それでも死ねなかった。私は生き延びてしまった。その生き延びてくる中で、味わった苦しみ悲しみは、生きながらでしか味わえない代物だった。
日本に終身刑が存在しない限り、私は死刑執行に反対はしない。でも、終身刑を作ってくれるなら、死刑なんていらない、と、私はそう思っている。
同じ被害者同士でも意見が分かれるこのこと。私が軽はずみに何か言っていいとは思わないけれど。
私がもし、あの加害者たちに望むことがあるとすれば。それは、一生涯その罪を背負って、独房で一人寂しく死んでいってくれること、だ。私がここに在ながら、様々な人との緒を失って、堕ちて堕ちて、這いずり回った地の底を、味わえなくともせめて、想像くらいはしてほしい。
でも同時に。こうも思っている。いくら想像したって届かないのなら。いっそのこと地の果てで、ひとり朽ちていってほしい、と。
そう、たったひとりで、朽ちていってほしい、と。

娘と二人、猫探しの日々が続いている。動物病院やペットショップへ行って里親募集の貼り紙がないか探してみたり、思いつく人に連絡をとってみたり。こういうことは多分、タイミングなんだろうなと思う。私たちが行くところ行くところ、つい最近まで募集があったけれど決まっちゃったよ、というところばかりで。また募集があったら連絡ください、と、連絡先を告げてとぼとぼ帰宅することばかり。それでも、諦めたら終わりだと、二人で言い合いながら、あちこち回る。
そう、諦めたら、終わりだから。

ねぇママ、ママは私くらいのとき、勉強こんなにいっぱいしたの? んー、そうだね、同じくらいしてたな。嫌じゃなかった? ママ、実は勉強するの好きなの。ええーー! 信じらんない、勉強が好きなの?! うん、だからこの歳になってまで、また勉強始めたりしてるのよ。うぅぅ、私、無理。ははは。まぁ普通はそうだよねぇ。あなたは何の科目が一番好きなの? 最近はね、国語。でも、物語文じゃなきゃだめ。へぇ、詩とかはだめなの? うん、全然ちんぷんかんぷんだもん。何が言いたいのか、全然分からない。そうかぁ、ママは詩とか大好きで、自分でも書いてたんだけどなぁ。そうなの? うん、日記の他に、詩もよく書いてたよ。そういうノート、残ってる? 残ってるけど、見せないよっ。えー、見せてよぉ。だめだめ、そういうのは秘密なの。私、作文はいくらでも書けるようになったんだけどなぁ、詩ってわけわかんないよ。そっかぁ。他に何が好き? うーん、理科だけど、覚えるのはやっぱり、だめ。そうだね、あなた、暗記が苦手だよね。でも、理科とか社会って暗記しないとどうしようもないからなぁ。実験とか大好きなんだけどな、私。うーん、テストでは実験しないもんねぇ。まぁ、やれること、一個ずつやっていくしかないよ。ね? 分かってるけどさー。あー、しんどー。

ママ、死刑になんで大勢の人が反対するの? ん? どうして死刑はいけないの? だって悪いことしたんでしょ、それで死刑になるのは当たり前でしょ? ん…。なんで死刑反対とか言う人がいるの? 信じられないんだけど。ん、ママにもよくは分からないけれども。人間が人間を殺すって、それ自体がよろしくないってこともあるんじゃないかなぁ。ママ、でも、よく分かんない。私、死刑って、在って当然だと思う。悪いことをしたら死刑になるのは当然だって思う。そうか。ママはね、終身刑っていうのがあればいいなぁって思うんだよね。シュウシンケイ? うん、そう、死ぬまでずっと刑務所に入って、罪を償うの。でもさ、その人のご飯とか何だとか、そういうのって、全部用意されてるんでしょ、なんかずるくない? …。だってさ、うちなんか貧乏だから、ご飯どうしようかっていうときだってあるじゃん。あるねぇ。でもその人たちは、そこにいるだけでちゃんとご飯もらえちゃったりするんでしょ、寝ちゃったりするんでしょ、ずるいじゃん。…。私だったら、さっさと死ねって思う。死ね、か…。ママは、死ぬより苦しいことがある、と思うんだよね。死ぬより苦しいこと? うん、死ぬのなんてある意味、簡単かもしれないじゃない。だって、誰かに死刑執行してもらうんだから、一瞬苦しみはあるかもしれないけど、あっけなく死んじゃえるんだよ。でもね、生きているからこその苦しみっていうのが、ママはあると思うんだよ。それをね、犯罪を犯した人には、ちゃんと味わってほしいと、ママは思うの。ふぅん。私、さっさと死んでくれってやっぱり思う。そうか。うん、そうか。

じゃあね、じゃぁね、昼前には一度戻るから。そしたらお昼一緒に食べよう。うんうん。それまでにやることやっといてね。分かったー!
いつも返事だけはいいんだからなぁ、と、私は心の中思いながら、苦笑する。手を振って別れる。
さっきあれほど強く降っていた雨が少し止んでいる。まぁ濡れてもいい格好をしているから、このまま自転車で行ってしまおう。私は自転車に跨る。
娘の言葉をあれこれ思い出しながら、公園の前へ。今朝、さすがに蝉の声は殆どしない。蝉も、あの激しい雨を避けて、どこかに避難しているのかもしれない。
耳に突き刺したイヤフォンからは、Secret GardenのElegieが流れ始める。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。と、また雨が降り出した。でも今更引き返すのもどうか。私はそのまま走ることにする。
こんな時。胸が苦しくなる。頭がふらふらしてくる。それでも。
私は生きることを選んだのだから、と、私は自分で自分を叱咤する。しっかりせねばと叱咤する。

さぁ、今日も一日が始まる。上を向いて、歩いていこう。そう思う。


2010年07月28日(水) 
夜風がびゅうびゅう吹いている。そのお陰で窓を開けておくと気持ちがいい。蚊取り線香の香りも風に煽られて何処かへ消えてしまう。そのくらいの風。娘は塾の宿題をしている。私は私で仕事をしている。それぞれ何も言わずの作業。淡々と夜が過ぎてゆく。
ママ、先に寝てていいよ。なんで? うん、ちょっとまだ終わらないから。そんなにあるの? うん。あ、分かった、解けない問題があるんでしょ。っていうか、いっぺんに覚えきれない。覚えなきゃいけないこといっぱいあって、無理。ははは。そういうのは、電車の中で覚えるんだよ。電車の中は友達とおしゃべりしてる。あぁそうか、じゃぁ無理か。ママは、友達と一緒になって、電車の中で暗記したものだけどなぁ。ふーん。まぁやれるところまでやっちゃいな、待ってるから。うん。
結局十一時近くまでかかって宿題を終わらせた娘。早く寝なさいと寝床に追いやる。私もとりあえず横になる。
眠る前、友人から届いたメッセージが心に引っかかっている。ねぇさん、もう想定内って分かっているけれど、それでも、虐待するために猫が欲しいんでしょって言われるたび、心が引き裂かれるように痛くなる。そういったことが書いてあった。想定内、そう、もう想定内なのだ、病気で一人暮らしで、それで猫が飼いたい、という場合、言われることはだいたい決まっているということが、私にも分かった。猫を可愛がって育ててきた彼女にとって、猫と慎ましやかな生活をしてきた彼女にとって、「虐待」と言われることはどんなに痛いだろうと思う。特に、自分が親から虐待を受けてきた者にとって、この言葉は痛い。
それでも。一緒に暮らしたいと思うなら、探すしかない。どんなに痛い言葉を突きつけられようと。それはそれで理由があるのだ。猫たちが実際、どれほどの虐待を受けてきたか、しかも人間から。それを少なくとも私たちも知っている。仕方ないのだ。
そんな傍ら、テレビから、今日も虐待のニュースが流れる。私はちらり、聴いただけで、胸がぎゅっと痛くなって、テレビを消す。
別の友人、この六月に子供をようやっと産んだ友人からの電話を思い出す。性犯罪被害を受け、それでもようやく妊娠出産に辿り着いた。でも。今彼女はいろいろなことにぶつかっている。たとえば、子供が怖いということ。とてもよく私にはその気持ちが分かる。私自身怖かった。自分が触れれば触れるほど、子供に自分の穢れが移ってしまいそうで、怖かった。そもそも、どう触れたらいいのか、それ自体分からなくて、どこまでも戸惑った。元夫が、ひょいと娘を抱き上げるのを、いつもどきどきはらはらしながら見守っていたことを思い出す。そして、同時に自己嫌悪に陥るのだ。どうして私はこうやって、すっと抱いたりあやしたりすることができないんだろう、どうしていつでもおっかなびっくりなんだろう、と。
ねぇさん、育児書って、何なんだろうね、と友人が言った。育児書どおりにやらなくちゃって私、思い込んで、縛り付けられて、どうしようもなくなってた。ミルクの缶に書いてある通りにミルクを飲ませなくちゃいけないとか、そんなことでも縛られてた。ははは、大丈夫、そんな、書面どおりにはいかないんだよ。うちも、ミルクの量だってうんちの回数だって何だって、育児書とは全く違ってた。赤子によって違うんだから、いいんだよ、そんなの気にしなくて。うん、今ならそう思う。でも、最初本当に困った。どうしたらいいのって、自分を責めてた。うんうん、分かるよ。でも、そんな必要はないんだよ。責めたりする必要は、何処にもない。だから安心して。…うん。ねぇさんは、この時期、眠剤とか飲んでた? 私は確か飲んでなかった。私、飲んでるのね、で、そうすると、夜、全く使い物にならなくて、だから、夜泣きすると母が全部やってくれてて。うんうん。そういうのも全部自己嫌悪になっていく。うんうん。でもさ、手伝ってもらえるものは手伝ってもらうのがいいんだよ、それでいいの。いいのかな。いいのいいの! わぁありがとう、って言えばいいの。話を聴いていけばいくほど、赤子の前でどんどん萎縮していっている彼女の姿がありありと浮かぶ。それを思うと私の胸も痛む。今、赤ちゃんにどう接してあげればいいのかな? そうだねぇ、今は夏だから、夕方とか一時間くらい、二人で散歩するとか。昼間は陽射しが強いから止めた方がいいと思うよ。もうしてもいいのかな。でも私にできるかな。最初は十分二十分って短い時間でいいんじゃない。やってみたらいいよ。うん、自信ないけど。できそうだったらやってみる。そうだね、できることから始めればいいよ。ミルクもさ、その子その子で飲む量が違うから、規定量飲まないからってあんまり心配する必要ないよ。不安になったらいつでも電話かけといで。うん。そうする。ありがとう。
横になりながら、私はじっと天井を見つめている。見つめながら、友人たちの顔をひとつひとつ思い浮かべている。性犯罪被害というものが、どこまで私たちの足をひっぱるのかを、改めて考えている。虐待された経験が、私たちをどこまで怯えさせるものなのかも。こういうとき、男性の被害者はどうなんだろう。どんな思いを抱くものなんだろう。
明るくなってきた空の下、ベランダに出る。風が本当に心地よい。私は思い切り深呼吸する。街路樹の緑が、風に煽られている。うちのベランダのデージーとラヴェンダーも、すっかり絡まりあっている。私はひとつずつ解いてゆく。
と、その時、見つけてしまった。ミミエデンの、花芽が折れている。風で煽られたカーテンがひっかかって、ミミエデンのせっかく萌え出した花芽が折れてしまったのだ。ショック。とても悲しい。私は慌ててそこを切り落とし、花瓶に生ける。無駄かもしれないけれど、それでも。
私はカーテンを結んで奥に追いやり、睨みつける。おまえが悪戯なんかするから、せっかくの花芽が折れてしまったじゃないか。悲しい、悲しすぎる。もう悪戯なんかしないで、と、心の中、カーテンを叱り付ける。
ベビーロマンティカは咲いた一輪と四つの蕾。もう少し花が開いたら切ってやろうと思う。ベビーロマンティカは、カーテンの害を、少し受けただけで済んだようだ。よかった、こちらまで花芽や葉が折れていたら、とても耐えられない。
パスカリの蕾。白い色をちょろっと出して、またひとまわり、大きく膨らんできた。まだ咲くには時間がかかるだろう。昨日古い枝を切ったお陰なのか、下から出てきた枝が、ぐいっと伸び上がってきた。これからどんなふうに枝葉を広げるのだろう。
桃色の、ぼんぼりのような花。三つが揃って咲いている。ぽろん、ぽろん、ぽろん。指で弾くと本当にそんな音色が聴こえてきそうな気がする。かわいらしい花。うちにある薔薇の中で唯一、下を向いて咲く花。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、ようやく出てきた新芽の塊を、徐々に徐々に綻ばせ始めている。私はその芽を凝視する。本当にちょこっと、まだ顔を出したばかり、といった具合だけれど。確実にこれは新芽だ。それが嬉しい。
私は部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を作る。ついでにアイスレモンティーも。新しく買ってみた麦茶は失敗だった。味がどうも悪い。安売りを狙っての失敗。今度はもう、いつものお茶にしようと心に決める。せっかくの毎日ごくごく飲むお茶なのに、おいしくないのは困る。
ココアが起きている。おはようココア。そう言って手を差し出したら、思いっきり噛まれた。痛い。血が滲んでくる。私の、痛い、という声に起きた娘がどすどす足音を立ててやってきて、ココアを叱り付ける。駄目でしょ! ママを噛んだら駄目って言ったでしょ! ぺちん! ココアの頭を軽く叩く。ココアには伝わっているのだろうか、どうなんだろう。娘の手のひらの上、小さくなっている。その姿を見て、私も苦笑する。
ゴロも起きてきた。おはようゴロ。私はそっと手を差し伸べる。ゴロはいつものようにおずおずと私の手に乗ってくる。私は彼女の背中をこしこしと撫でてやる。おまえは人を噛むということをどうも知らないようだねぇ、と私は話しかける。いつでもおっかなびっくり、とことこと手のひらの上、動くゴロ。三匹の中で一番おとなしい。体はミルク同様大きいのに。でもそんなところが、私から見るととてもかわいい。
胡瓜を細切りにして、ツナと混ぜる。マヨネーズと塩コショウで味付けし、ツナサンドを作る。同時進行で、娘の朝ご飯、久しぶりにチャーハンを作る。細かく切ったインゲンとベーコン、卵、そしてご飯。フライパンの中でしゃかしゃか混ぜる。塾でおなかがすいたとき用には昆布入りのおにぎりでよし、と。これでとりあえずご飯はできあがり。
一日一時間だけテレビを見ていいことになっている娘は、朝からお気に入りのDVDを見ている。ママ、このお母さん、すごい勝手だよね、いつ見ても。あぁ、それはそうだと思う。だってさ、自分で子供棄てといて、後でまた、戻ってきてって来るんだよ。勝手すぎるよね。うん、ママもそう思う。私、ママがこんなお母さんだったらすんごいヤだ。ははは。ママは、ママパパだからね。ん? だから、ママは、ママとパパとを合わせてママパパなの。なんじゃそりゃ。だってママってさ、ママだけのときもあるけど、パパっぽいときもあるじゃん。どういうとき? うまく言えないけど。だからうちのママは、ママじゃなくてママパパなの。変なのー。へへへー。
ねぇママ、さっきニュースでやってた、自殺したって人、二月に子供産んだばっかりなんだって。うん、そうだってね。子供残して死んじゃったってことだよね。そういうことになるね。どうしてそんなことしちゃったんだろう。どうしてだろう、ママは分からない。子供、これからどうなっちゃうんだろう。どうなっちゃうんだろうなぁ。ママは自殺しちゃだめだよ。はい? ママは長生きしなくちゃだめなんだよ。分かってるよー、自殺なんてしないから、間違っても。約束だよ。うん。約束。
娘と約束しながら、私は昔のことを思い出していた。彼女を産むまで、私はいつ死ぬかということをいつも考えていた。いつ死んだらいいか、いつ死ねるか、それしか考えられなかった時期があった。今ではそれを笑って思い出すことができるけれど。あの時は必死だった。もうそれしかないと信じていた。
だから。私は感謝する。娘の存在に。

じゃあね、それじゃぁね、今日ママ、昼には戻れないから、自分でちゃんと塾行くんだよ。分かってるってー。あ、図書館行くなら、九時からだからね。うんうん。じゃぁね! 手を振って別れる。玄関を出ると、焼けるような陽射しがざんざんと降り注いでいる。
私は階段を駆け下り、自転車に跨る。
坂を下り、信号を渡り、公園の前へ。蝉の声がぐわんぐわんと鳴り響いている。公園の樹々は、毎日続く強い陽射しに、少し疲れているように見える。それも当たり前だ、こんなに強い陽射しに毎日晒されていたら、どんなに強い樹だってうんざりしてしまうに違いない。夕立でもいいから、降ってくれることを、願う。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木はまっすぐ天を向いてそそり立っている。その姿はいつ見ても気持ちがいい。
私は信号を左に折れ、真っ直ぐ走る。プラタナスの通りも通り過ぎ、一気に自転車置き場まで。
さぁ、今日も一日が始まる。私は自転車を降り、鞄を肩に掛け直して歩き出す。


2010年07月27日(火) 
雷がきらり、きらりと夜空に光る。まるで瞬くように。私は雷を遠巻きに眺めているのは好きだ。窓の内側から、しばし見惚れる。しばらくして娘から電話が掛かってくる。ママ、大雨だ、大雨。サンダルがぐちょぐちょだ! 大笑いするかのような娘の声が受話器の向こうから響いてくる。つられて私も笑う。気をつけて帰っておいでね。うん、大丈夫ー! あっけなく電話は切れる。
窓を開け放して眠るわけにもいかず、仕方なく窓を閉める。閉めた途端むわっとした空気が部屋に篭る。これじゃ眠れそうにない、と思いながら隣を見ると、娘はあっという間にくうくう寝息を立てている。見事な寝入りっぷりだ。私は羨ましくそれを見つめながら、じっと横になっている。
少し前、友人とやりとりしたことを思い出す。また猫と暮らしたいと願う友人。でも友人も私と同じくPTSD持ちだ。しかも一人暮らし。近くに弟夫婦は暮らしているものの、病人が一人暮らしで猫を飼うというのは、なかなか世間に受け容れられないらしい。彼女はこれまで、生まれて二週間の子猫を育てたこともあれば、目の見えない大人猫をしっかり見送るところまで一人でしている。それを私は実際見ている。それでもだめなのか。その現実を見せ付けられて、私は自分の幸運さを思う。私が猫を飼い始めたそのとき、確かに私はまだ病気ではなかった。ペットショップの広告でちらり見つけ、どうしてもと思い連絡したところ、先方がにこにこ笑いながら二匹の子猫を連れてきてくれた。元気なトラ猫一匹と、もう一匹、籠の中からなかなか出てこようとしないぶち猫一匹。先方は、元気な方を勧めてくれたのだが、私は何故か、その出てこようとしない一匹が気になって仕方がなかった。私が引き受けてやらないと、この子はこのまま出てこないんじゃないか、なんて勝手に思った。そうしてその子を貰うことにした。二匹目も、同じ飼い主さんが、母親が同じだから、つまりは兄妹になるから、一緒に飼ってやってほしい、と連れてきてくれた。その頃私はすでに病持ちだったが、そんなこと先方には関係なかったらしい。でも、今友人の現状を見ていると、私の場合は本当に幸運だったとしか言いようがない。「仕方ないんだよ、里親募集のところ、みんなそうだから」。友人がか弱く笑う。でも。どうにかならないものなのか。私は悲しくなる。これからも動物病院やペットショップの広告をよく見ておくからね、と約束し、電話を切る。
病気持ちであることは、確かに、他のことにもいろいろ影響する。私が仕事を探す場合にだって、影響している。共存できないものなのか。PTSDなんて、いつ治るか分からない病気だ。治らなければ一生動物と暮らすことができないということなんだろうか。何処までも仕事も何も中途半端で行かなくちゃならないってことなんだろうか。悲しい。本当に悲しい。
白み始めた空の下、私は窓を開け、外に出る。昨日の雷が嘘のように晴れ渡っている。薄い水色の絵の具をひいたような空。私は大きく深呼吸してみる。ふと見ると、桃色の薔薇の三つ目も咲いている。あぁよかった、これで三つ、ちゃんと咲いた。ぽろん、ぽろん。指で弾くと、音色が聴こえてきそうだ。
アメリカンブルーも一輪咲いた。真っ青な花びら。それを見ているだけで心がほっと落ち着く。新しいプランターの中、根付いてくれたようで、それもまた嬉しい。
ラヴェンダーとデージー、絡まり合ったものをそれぞれ解く。黄色いデージーの花が忙しげに次々咲いている。その花を一輪も落とさぬよう気をつけながら、絡まった枝葉を解いてゆくと、やっぱりラヴェンダーの香りがふわんと、その間から漂ってくる。いい匂い。きれいな匂い。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。それぞれ、ようやく新芽を芽吹かせ始めた。ほんのちょこっと顔を出し始めた新芽。かわいらしい。他に気配は何処にもないか、私はあちこち樹を見つめる。一つ、二つ、これがそうなんじゃないかというものを見つける。力を蓄えて、また秋に向けて芽吹いていってほしい。祈るようにそう思う。
ミミエデンはもうだいぶ紅色が消え、緑色に変わっていっている。人がもし紅色から緑色のグラデーションを作ったら、なんだか奇妙な色合いになるんだろうに、こうして自然が生み出す色は、実に滑らかで、止まることがない。歪みもなく、粉を噴くこともなく、無事に開いた新葉。これからたくさんの陽を浴びて、元気に育っていってほしい。
ベビーロマンティカは、一輪目が咲いた。葉の影になっていて、ちょっと表からは分からないけれども。明るい煉瓦色と黄色のあいのこのような色味。香りは私には殆ど感じられないのがちょっと残念だけれども。
パスカリも、白い蕾をくいと持ち上げて、空に向かっている。勢いよく根元から出てきた新しい枝に、古い枝が重なって邪魔をしている。どうしよう。やっぱりこれは、古い枝を切ってやるしかないんだろうか。迷いに迷った挙句、古い枝を二分の一のところで切り落とし、切り落としたものは挿し木にする。
ふと顔を上げると、金魚と目が合う。そうだ、昨日餌をやるのを忘れてた。私は慌てて餌を振り入れる。ゆっくりとした動作で、いつものように一度潜り、それから浮き上がって餌を突付く金魚たち。このゆったりとした速度、私にはないテンポだなぁと、いつも苦笑してしまう。
行きつけの喫茶店でいつも会う留学生と、娘を交えておしゃべり。草食男子について調べてるんだって、と娘に話すと、娘がいきなり、草食男子、うちの塾にもいるよ、と喋り出す。すごく弱っちくて、いつでもいじめられてるんだよね。からかわれてるっていうか。え、そういうのを草食男子って言うの? オトナとコドモでは、意味が違うんですね、きっと。微妙だなぁ、なんか。三人とも笑い出す。
ねぇママ、Oちゃんに猫、見つけてあげられないかなぁ。うーん、じゃあ今度、学童のNさんたちに訊いてみるだけ訊いてみようか。うん、そうだね、NさんもTさんも猫大好きだから、何か知ってるかもしれない。うん、そうしよう。
ねぇママ、うちは病気でも、ハムスター飼ってるよね。うん、そうだね。でもそれは、買ったからね。買うのはいいの? 買うのはいいのかもしれない。サトオヤっていうのになるのが駄目なの? そうなんだと思う。なんか変だねぇ。何が変だと思う? だって、Oちゃんは、これまでにもサトオヤになったことあるじゃん。そうだね。そういう経験があっても、駄目ってなるの? 病気持ちだとそんなにいろんなことが駄目なの? そうだね、そういう世の中だね。冷たいね。え? 冷たい。オトナって冷たい。いや、大人が冷たいんじゃなくて、世の中の仕組みが、或る意味、或る部分で、とても冷たいのかもしれない。Oちゃんはさ、自分が具合悪くても、ちゃんとガオさんの世話、してたよね。どんなに自分が具合悪くても、ガオさんのご飯とか、ちゃんと用意してたよね。そうだね。一緒に遊んであげてたし、それでも駄目なんだね。そうだね。なんかそういうの、やだね。そうだね。
私は、虐待を受けて棄てられた猫たちのことを、ふと思う。猫たちのことを思うからこそ、猫をサポートする団体の人たちだって神経質になるのだ。次は、次こそはこの猫たちに幸せになってほしいと願うから。…分かっている。十分にそれは分かっている。
何処にも行けなくなった思いが、私の中、充満する。私に何ができるんだろう。何かできないんだろうか。どうしようもないんだろうか。

北海道に住む友人から、本当に久しぶりに葉書が届く。彼女の文字はいつでも、流れるように美しい。万年筆で書かれた文字を、私は何度も辿る。最近ちょっと具合が悪いのだけれども、長年やり続けて来たビーズが商品として売れるようになって、それで何とかやっている、と書いてある。そうか、そうだった、彼女は北海道に渡ってからビーズを習い始めたのだった。いや、もともと手先の器用な子だった。でも、まだ彼女がこちらで暮らしていた頃は、PTSDの症状が酷く、手元も危うかった。それがビーズを始めただなんて。パニックを起こしながらもビーズを探しに買いに出て、そうして商品となるまで作り上げているなんて。嬉しい。
彼女も性犯罪被害者の一人だ。そしてまたDV被害者でもある。この場所に辿り着くまで、長い長い道程が在った。そんな彼女の道程を思うと、私は祈らずにはいられなくなる。できるだけ長く、彼女の平安が続きますように、と。

二人一緒に自転車に跨る。ママァ、本当に私も一緒に行くの? うん。ママのそばで勉強してればいいじゃん。勉強やだよぉ。そんなこと言ってないで。ほら、さっさと走る!
信号を渡り、公園へ。蝉の声が辺りにくわんくわん響いている。娘がぽっかり口を開ける。ママ、すごい蝉の声だね。うん、すごいでしょう? ここは樹がいっぱいあるからね、蝉さんにとっても居心地がいいんだよ。それにしたってすごいねぇ。私たちは池の端に立って、辺りを見まわす。あ、あそこに三匹いるよ、蝉。こっちにもいるよ。娘が次々指差す。見てご覧、私はその足元を指差す。ここから出てきて、生きている間、一生懸命啼き続けるんだよ、蝉は。地面の中の生活ってどういうんだろ。どういうんだろって? 真っ暗でさ、お日様の光も無くて、つまんなくないのかな。わかんない。どうなんだろ。人間みたいに長生きできればいいのにね。ははは、そうだねぇ。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木の影で、信号が青になるのを待つ。陽射しが強い。
ママァ、海が濃いね。辿り着いた海と川とが繋がる場所で、娘が言う。確かに今日の海の色は濃い。緑色と紺色を混ぜたような、微妙な色をしている。
ほら、行くよ。私は彼女に声を掛ける。
さぁ、今日も一日が始まる。私たちは真っ直ぐに、川を上ってゆく。


2010年07月26日(月) 
夢の中で、猛烈に熱さを感じる。何だろうこの熱は、何なんだろう、と唸って目を覚ますと、私の腹部に娘の頭がぴたっとくっついており。熱い、猛烈に熱い。思わず娘のおでこに手をやる。熱は全く無い。しかし、熱い。私は思わず小さな溜息をつく。子供の体というのは、どうしてこんなにいっぱいの熱を発するんだろう。まさに熱の塊だ。それに比べて私の体といったら。娘に比べたら冷たいくらいだ。同じ生きた人間だというのに。
起き上がり、窓を開ける。ぬるい空気がぺったりと横たわっている。風がない。もう白み始めている空の下、私は大きく伸びをしてみる。纏わりついてくる空気の熱。何処へ行ってもぺったりとくっついてくる。でも、数日前よりは、まだまし。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターの中を覗き込む。ラヴェンダーとデージーは今朝もやっぱり絡まりあっており。私はひとつずつ、それを解いてゆく。それにしても、ラヴェンダーはずいぶん長く伸びてきた。そろそろ一度長すぎる枝を切ってやる必要があるかもしれないと思うほど。本当に、種類によって同じラヴェンダーでもずいぶん違うものだ。母の庭にはこれと同じ種類と、あともう数種類あるが、たいがいはまっすぐしゃんと伸びて、てっぺんに花を咲かせる。あれが束になって咲いていると、本当に美しい。デージーはデージーで、次々花を咲かせている。こんなに強い花だとは、私は全く知らなかった。母の言っていた通りだ。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。咲いた花が二つ、ぽろん、ぽろんとついている。咲いても丸いのは変わらず。まさにぽろん、ぽろん。もう一つ蕾があるが、まだこちらは開いていない。
パスカリの、根元から新芽を出した樹。赤い縁取りのある緑の芽。くいっくいっと伸びてきて、もう五センチを越えた。他のところからは全く新芽の気配はない。
もう一本のパスカリ、蕾のついている方の樹。蕾はまたひとまわり大きくなり。根元から二本の枝葉が伸びてきている。一本は隙間から伸びてこれるだろうが、もう一本はどうだろう、横に広がった枝の下から生えてきている。これはだいぶ上まで伸びないと、日を浴びることができない。どうしよう。ちょっと悩む。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。しんしんとそこに在る。まだまだ固い新芽の塊。でも間違いなくほんのちょっとずつ、前へ前へと出てきている。
ベビーロマンティカは、私が気づかなかっただけで、葉の影に二つ、さらに蕾が生まれていた。合計五つ。そのうちの一つはもう綻び始めている。煉瓦色と黄色を混ぜたような色合い。新芽もこんもり。本当に元気な樹だ。
ミミエデン。新葉の色が、徐々に徐々に緑色に変わってきている。不思議なグラデーション。紅色から緑色へ。古い歪んだ葉を囲うように、広がってきた新芽。これなら歪んだ葉を摘んでやっても大丈夫かもしれない。今日帰ってきたら摘んでやろう。
アメリカンブルーは、二つ、今朝も新しい花をつけてくれた。染み透るような青。私はその色をじっと見つめる。見つめていると、まるでそこに、小さな海があるような気がしてくる。深い深い、海の底。
洗濯機を三回回す。一回目はシャツやらスカートやら。二回目は下着。三回目はタオル。順番に洗ってゆく。それにしても。今度注意しなければ、と思う。娘がまた、下着や靴下を丸めて出すようになった。丸めて出したら洗わないよ、と言ってあるのに。今度やったら机の上にそのまま洗わず戻してやろうと決める。
洗濯物を干し、それから原稿に向かう。少し前から、とある書類を書いているのだが、なかなか書き進まない。というのも、自分のことを書かなければならないからだ。それも自分を紹介する、というもの。私はこういうのが大の苦手だ。自分のやっていることを、こう、何と言うのだろう、外にアピールするということが、苦手なのだ。黙ってやってりゃいいじゃないか、とつい思ってしまう。でも、それじゃぁいけない。
ふと、喉が渇いて飲み物を作ることにする。友人が以前くれた梅ジャムがあと一回分くらい残っていたはず。思い出して、その梅ジャムをカップに入れ、少なめのお湯で溶き、そこに思い切り氷を入れる。ただそれだけ。ただそれだけの即席梅ジュース。でも、おいしい。
梅ジュースを飲みながら、煙草を一本くゆらす。ふと、先日会った友人と話したことを思い出す。何かの拍子に、友人が、記憶に突き刺さった死の話をしてくれた。その話を聴きながら、私は私なりのそうした記憶を辿っていた。高校の時だった。友人のお兄さんが行方不明になり。みんなで探していたら、車庫の中で首を吊っていたのだった。また、私が東京方面になかなか行けない理由のひとつに、とある駅で、友人が目の前で電車に飛び込んだ。あの時、片付けられてゆく遺体を、私はぼおっと見つめていた。でも、耳たぶだけがひとつ、ぽろんと線路に残っており。あぁ、お願い、耳たぶもちゃんと拾って、と心の中で叫んでいた。あれは、今でこそ淡々と思い出すことができるが、二十年近く心にちくちく刺さっていた。思い出すとぎゅっと胸を鷲掴みにされるような痛みを覚えた。
私はあれこれ思い巡らしている心の一方で、書類と睨めっこしている。「あの場所から」という活動で、何故写真というものを取り入れたのか、と尋ねられた。改めて思い返せば。私はただ、必死だったのだ。私にとってできることが、写真しかなかった。外と繋がるものが、写真しかなかった。そう、外界と繋がる術。私にとって当時、それは、写真しかなかった。外へ向けて発信したいと思った時、だから私は、写真という術しか思いつかなかった。
何といえばいいのだろう。あの時、思ったことを必死に手繰る。私は、自分たちが経てきたことを、外に発信すべきだと思った。このままじゃいけないと思った。今この時も、何処かで、被害を受けている人がいるかもしれない。そう思ったとき、何かしなければと思った。そして、自分に一体何ができるかを考えた。
考えたとき、毎年やっている写真展で、何か形にすることはできないか、と思った。ならば、被害者にモデルになってもらって、写真を撮り、手記を発表する、という形で外に発信できるんじゃないか、と。でもそれは、奇跡のようなものだった。何故かといえば、被害者が顔を晒すなんてこと、誰が好んでしてくれるものか、と。それがあったからだ。でも、私はその思いを、ぶつけてみずにはいられなかった。まず、声を出してみよう、そこからだ、と思った。
奇跡は、起こった。何人かの人が、参加する、と意志表明してくれた。そうして「あの場所から」は始まった。
そうして、できあがった作品の何枚かを参加してくれた友人たちに送ったとき、さらに奇跡が起こった。友人たちが言ってくれたのだ。「あぁ私たち、こんなふうに笑ってる。まだ私たち、笑えたんだね」と。
そう、写真の中の彼女たちは笑っていた。泣いてもいた。笑って泣いて、泣いて笑って。それでもちゃんと、そこに在た。
初回にモデルになってくれた一人は、私の写真の一枚を、自分が死にたくなったときにこの写真を見て、まだ大丈夫って思えるように、と、お守りにしてくれた。あれほど嬉しいことはなかった。
毎年これまで参加してくれている一人は、こんなことを言っていた。まずこうして同じ被害者が集まること、そのことが、嬉しい。ここでならどんな話もできるという安心感がある。だから何でも話せる。そうしてそのメンバーと共に写真に写ることができる。こんな嬉しいことはない、と。
写真は、残る。当たり前だが、残る代物だ。消そうとしても消えない。誤魔化そうとしても誤魔化せない。あるがままをあるがままに写し出す。彼女たちの今も残る疵も、彼女たちの越えてきた疵も、あるがまま、そのままに写し出す。だからこそ、絵でもただの手記だけでもなく、写真が必要だったのだ。と、その時改めて思った。あぁ、私は写真をやっていて、本当によかった、と、そう思った。
奇跡的に、今年、四回目まで「あの場所から」の活動は続いている。これが来年どうなるのかなんて、分からない。分からないけれど。
外界と一度切り離されてしまった私たちが、外と繋がる術として、この活動が、残っていってくれたら、と、祈るように、思う。

今年モデルになってくれた友人から連絡が来る。ねぇさん、今年のテーマのままだと、私今、原稿が書けない。うんうん。私、今を何とか乗り越えるので精一杯で、先のことなんてこれっぽっちも考えることができないの、今。うんうん、分かった。じゃぁ、「今のありのままの自分」を、書いてくれればいいよ。それなら書ける。うん、じゃあそれで書いてみて。わかった。じゃ、もうちょっと待ってて。うん、分かった。
今年文章を書いてもらうにあたり、自分の被害についてとこれからについてを両方書いてほしい、と私はみなに頼んだ。今そのみんなはどうしているだろう。彼女らのことを考えると、私は心がぴーんと張るのを感じる。生半可な気持ちで受け取りたくない。受け取れない。私もしゃんとしなければ、と思う。

じゃぁね、うん、じゃぁね、また後でね。手を振って別れる。
もう夏休みが始まった。これから私も娘に合わせて予定を立てなければ。自転車で走りながらそのことを思う。予定の立て直しが必要かもしれない。
坂を下り、信号を渡って公園の前へ。ぐわんぐわんと耳が揺れるような蝉時雨。今日は比較的涼しいというのに、この蝉時雨は半端じゃない。私は思わず頭を振る。でもこれは、命の歌なのだ。僅か数日しか生きることができない、蝉の、命の歌なのだ。それを思うと、絶対に耳を塞いではならないと思う。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。と思ったら、目の前で自転車の衝突事故。真っ直ぐに進む自転車と、脇道から出てきた自転車とがまさに衝突。どちらも謝ることがなく、罵り合っている。私はその脇を、体を小さくして通り過ぎる。
さて、やることをさっさと済ませて、家へ帰らねば。私は予定を頭の中で辿り、自転車を漕ぎ続ける。その時私の頭の上、鴎が大きく旋回して、港へと飛んでゆく姿。
さぁ、今日も一日が始まる。しゃんと背筋を伸ばして、しっかり歩いてゆかねば。


2010年07月25日(日) 
なかなか寝付けないまま夜が更けた。気づけば午前一時。このまま一睡もせず朝を迎えるのでは絶対まずいと、頓服を呑む。麦茶を一杯、ついでに飲んで、再び横になる。なった途端、蚊のぶぅぅんというあの嫌な羽音を聴いてしまい、慌てて線香をつけ、窓も半分に閉める。
その、蚊の音がいけなかったのか、嫌な夢を立て続けに見る。うんうん唸っているうちに午前二時、三時と時間が過ぎてゆく。眠らなければという焦る気持ちと、眠れないことへの苛立ちが両方極まって、余計に神経が昂ぶってゆく。いっそのことと一度起き上がり、深呼吸をひとつしてみる。そうして再び横になり目を瞑る。
午前四時半、目が覚める。短い時間だったけれど熟睡できたんだろうか、変な体の強張りはなく。すんなり起き上がる。起き上がるとミルクがその気配を察し、ぐわっしと籠の入り口のところに齧り付き、がりがりと音を立てる。おはようミルク。私は苦笑しながら声を掛ける。でも。あなたを外に出すのは、私は怖くてできないの。ごめんね、とさらに声を掛ける。ごめんね、謝りながら、切なくなる。こんなに必死に、出して出してと言っているのに、抱いてやれない私って何だろうと思う。
そういえば、娘は赤子の頃、昼間は泣く子じゃなかった。よほどのことがなければ泣かなかったような記憶がある。代わりに、夜泣きが酷かった。突如闇を切り裂くような泣き声を上げる。私はあまりの声に吃驚して飛び起きる。そうして、恐る恐るベビーベッドの娘を見やる。娘はもう、一心不乱に泣いている。私は、こわごわとその娘を抱き上げ、あやす。そのくらいじゃ絶対泣き止まない娘。しばらく抱いているのだが、一時間もすると腕が痺れてくるから、今度は抱っこ紐を使って体に娘を巻きつけ、部屋をてこてこ歩き回る。すると、ようやくひっくひっくと声は止んでゆき。娘はうとうとし始める。でも、ここで寝床に戻すと、さらに火がついたように泣くのが常で。だから私はさらに二時間ほど部屋をひたすら歩き回る。冬の遅い夜明けが来る頃、ようやく彼女を寝床に戻し、私はぺったりと床に座り込む。
夜泣きの子供を木箱に閉じ込め、窒息死させてしまうというニュースが耳に入る。木箱で泣き声は防げたんだろうか。それとも、木箱に閉じ込めることで、もうその存在はなかったこと、としてしまっていたんだろうか。私には分からない。いや、分かってはいけない気がする。
娘の夜泣きは、離婚してもさらにしばらく、そう確か彼女が四歳くらいになるまで続いた。私はただおろおろてこてこ、彼女を抱いてひたすら部屋を歩き回る日々で。そんな毎日は、睡眠時間などほとんど無いに等しかった。等しかったが。そういうものなのだと思っていた。誰かに教えてもらったわけでも何でもないが、娘が泣くのは当たり前で、それはいつかきっと止むに違いないと、そう信じて、止むときを待っていた。
保育園も年長さんになる頃、彼女は自然、泣かなくなった。小学校に上がれば、昼間動いてくる分、彼女の熟睡度や睡眠時間も増えていった。あぁ、これが止み時なんだなぁと思ったことを、今でも覚えている。
耐えられなかったのは、彼女が泣くことよりも、泣いている彼女を私が投げ捨ててしまうかもしれないという恐怖が私の中に巣食っていたことだった。もしかしたら私は、彼女を傷つけてしまうかもしれない、投げ捨ててしまうかもしれない、そういうことに対する恐怖を、私がすでに抱いている、というそのことが、何より恐怖だった。虐待は連鎖する、というその呪文のような言葉が、ぐるぐると私の中で渦巻き、私を呑みこんでゆくようで、本当に本当に恐ろしかった。その連鎖にだけは、巻き取られたくないと、必死に抵抗していた。
もっと正直に告白すれば、赤子の彼女を抱き上げる、おむつを替える、ミルクをやる、あやす、すべてのことに対して、私はこわごわやっていた。いつ私の中に在るかもしれない虐待の芽が、ぶわっと吹き出て私を呑みこんでしまうことか、と、いつもいつも、そのことに怯えていた。虐待は連鎖する。虐待は連鎖する。あなたのような人は母親の資格は無い。妊娠中に言われ続けた、周囲から言われ続けた言葉が、私の中で大きく大きく木霊して、私はいつもその声に怯えていた。
今でこそ、私は、虐待は連鎖するものでも何でもなかった、と、ちょっと自信なさげにではあるが、言うことはできる。でもあの頃は。あの頃はとても、言えなかった。
娘がここまで無事に、育ってくれて本当によかった、と、最近つくづく思う。と同時に、ふとした時、彼女にも突然降ってくる災害があるかもしれないことに、怯える。私があの被害に遭ったように、彼女もまた被害者になる可能性がある、いや、加害者にだってなる可能性もある。それはもう、誰にも分からないことで。だからこそ、いつもその危険と背中合わせに自分らが生きていることを、思う。
白んできた空を見上げながら、ベランダに立つ。風が弱い。だからなのか、湿っぽい蒸し暑さがどよんと肌に纏わりつくのを感じる。街路樹の葉群れも、さやさやとは揺れない。その程度の風しかない朝。
私は桃色の、ぼんぼりのような花を咲かす樹を見つめる。二つ目の花が咲きかかっている。桃色のきれいな花びらがほろり、綻び始めている。私はプランターの前にしゃがみこんで、じっとそれを見つめる。この花は、何処か日本的で。かわいらしい。
パスカリの、根元から新芽を出し始めた樹。にょきにょきとたった一日のうちに五センチほども枝を伸ばしている。なんて早いんだろう。私はちょっと呆気に取られる。でも、嬉しい。今までずっと沈黙していた樹がこうして動き始めてくれることを知ることができるのは、本当に嬉しい。
もう一本のパスカリ、花芽をつけている方も、根元から二本の新しい枝をにょきにょきと出してきている。赤い縁取りのある新枝。蕾は蕾で、またひとまわり、大きく膨らんできている。もう早々と、真っ白な花びらの色を垣間見せている。さて、これはちゃんと、全身白く咲くんだろうか。それともやっぱり、白と黄色のグラデーションを見せるんだろうか。
ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝葉を解いてやる。ラヴェンダーの香りが漂ってきて、私の鼻腔をくすぐる。デージーはまさに花盛り。一体いつまでこうして次々花をつけ続けてゆくのだろう。このエネルギーは一体何処から沸いてでてくるんだろう。こんなか細い体から。
アメリカンブルーは、今朝も二つの花を開かせており。青く青く、青く青く。目の覚めるような青がそこに在る。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、それぞれに、新芽の塊を湛えており。昨日よりさらに表に姿を出してきたその塊を、私はじっと見つめる。大丈夫、樹は確かに生きている。そのことが、嬉しい。
ベビーロマンティカは、三つじゃなく、もう四つ目の蕾もつけており。本当にこの樹は元気だ。止まることを知らないかのようだ。今朝もぺちゃくちゃおしゃべりしている葉たちに、私は耳を澄ます。彼らの言葉を私が理解できたら。きっともっともっと楽しいんだろうに、と思う。
ミミエデンは、紅色だった葉が少しずつ、緑色に変化していっている。葉脈に沿って、緑色が広がっていっているのが分かる。最後まで残る紅色はだから、縁の方で。あぁ、あと数日もすれば、この葉はすっかり緑色に変化するのだろうな、と思う。
昨日久しぶりに会った友人は、再会した幼馴染の話をいろいろ聴かせてくれた。よほど再会が嬉しいのだろう、その話をするときの彼女の顔は本当にやわらかく、明るく輝いている。こんな表情をする彼女を、私はどのくらいぶりに見るのだろう。本当に楽しげで。だから耳を傾けている私も、なんだか楽しくなってきてしまう。
結局、朝から夜までずっと話尽くめで。別れる頃には月がぼんやり高みに浮かんでいるのが見えるほどで。私たちは手を振って別れる。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。マグカップを持って机に座り、とりあえず一服。そうして私は朝の仕事に取り掛かる。
相変わらず風は弱く弱く流れており。カーテンは揺れもせず。ただ椅子に座って作業しているだけだというのに、私はあっという間に汗だくになってゆく。

電話が鳴る。娘からだ。ねぇママ、今日は三時か四時頃には帰れるからね、いい? 了解。待ってるよ。うん! 短い電話だけれど、それだけで私の中、力が沸いて来る。
よし、私も活動開始だ。鞄を肩に引っさげて、玄関を出る。階段を駆け下り、自転車に跨る。坂道を下って信号を渡り、公園へ。昨日以上に蝉の声がどしゃっと上から降ってくるのを感じる。私はその蝉の声にまみれながら、池の端へ。真っ直ぐ立って、上を見上げる。ぱっくり開いた茂みの向こうには、白っぽい空が広がっている。池はその陽光を受け、きらきらと輝き。蝉の声はさらに大きくなって、私の耳でわんわん木霊する。
公園の中の坂道を下り、大通りへ出て、高架下を潜り、埋立地へ。
今日は休日とあって、出勤する人ではなく、ランニングをする人たちと多くすれ違う。みんな黒く焼けた肌をして、目は前方を凝視し、一定のリズムで走っていく。私は彼らの邪魔にならぬよう、道の一番端っこを走り抜ける。
さぁ、今日も一日が始まる。やることは山ほどある。しっかりこなしていかなければ。


2010年07月24日(土) 
寝苦しくて目が覚める午前二時。何故か顔にびっしょりと汗をかいていた。あまりに汗だくで、ハンドタオル一枚じゃ利かない。何か夢でも見ていたんだろうか。覚えていない。二枚目のハンドタオルを操りながら、私は首を傾げる。
開け放した窓からは、すぅとも風が入ってこない。ベランダに出る。やはり風がない。これでは暑いわけだ、と納得する。橙色の街灯の輪の中、照らし出される街路樹の葉群れ。ぐったりと疲れ果てているかのように見える。今点っている部屋の灯りは六つ。さすがにこの時間まで起きている人は少ないらしい。
娘の様子を覗き込む。シャツを肌蹴て、でーんと足を広げて眠っている。暗い灯りの中、じっと目を凝らし、彼女の手足を確かめる。赤い腫れは、すっかり引いた。よかった。これからさらに陽射しが強くなるかもしれない季節、外で遊べないのではかわいそうだ。でもやっぱり。薬というのは或る意味怖いと思った。あれほど赤く腫れていたものを、あっという間に治めてしまうのだから。薬を常時飲むようになって十五年以上経つ私の体には、どれほどの薬の残骸が降り積もっているのだろう。想像もできない。
授業で逐語記録について学ぶ。とある文献の、カウンセラーの言葉を一言一言辿ってゆく作業。それを後でグループに分かれ、分かち合いをする。様々な意見が行き交う。たとえば私が○としていた箇所を、或る人は×としていたり。その違いは何処から生じたのかをあれこれ話し合う。そうしてみんなで意見を突き合わせながら、文字だけから解釈するのは限界があるね、と話す。機会があったら、自分自身のミニカウンセリングの様子をテープに録ってみることが必要だと思った。自分ではその場で気づけないことが、きっと山ほど出てくるはず。
午後の授業は傾聴トレーニング。久しぶりにカウンセラー役をやり、緊張する。要約は比較的できたのかもしれないが、見立てがなかなか。たった三分間のうちに、主訴と見立てと反省点をずらっと述べ切るのは、本当に難しいと思った。三分間という時間に慣れてゆく必要があると感じる。
授業でやったことを、真夜中にあれこれ振り返っていると、先生によって本当に教え方というのが異なるのだなという、当たり前といえば当たり前のことに改めてぶつかる。たとえば要所要所を端的に教えてくれる先生と、流れるように言葉を操る先生と。相性もあるのだろうが、習うというのは本当に難しいことなのだな、と、歳を重ねるごとに、痛感する。
ノートをまとめていたら、いつのまにか空が白んできた。少しけぶった空だ。私は改めてベランダに出、大きく伸びをする。ふと足元を見ると、アメリカンブルーが二輪、咲いている。あぁ、そうだった、一輪ずつ咲くわけではなく、こうやって思い思いに咲くのだった、と、去年までうちに在った株のことを思い出す。とても元気な株だったのに。根っこを虫に食われて駄目にしてしまった。本当にもったいないことをした。この今在るものを、大事に育ててやらねば。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かす樹。一輪が咲いた。ぽっくり、ぽっくり咲いた。残りの二輪はこれからだ。ピンク色ではなくまさに桃色。やさしいやさしい色。それを見ているだけで心がやわらかくなってゆくのが分かる。
沈黙していたパスカリの、根元の方から、くいっと新芽が出ているのに気づく。あぁ、ようやっとおまえたちも動き始めたのか、と、私は半ば感動すら覚える。それは赤く縁取られた緑色をしており。小指の先ほどの、ほんのちょっとの芽だけれど。確かにここに在る。あぁ、枯れたわけでも何でもなかった。本当によかった。
もう一本のパスカリは、昨日のうちに根元から二本目の枝葉を伸ばし始めており。一粒の蕾も昨日よりさらにひとまわり、膨らんでおり。今度は真っ白な花が咲くだろうか。ちょっと心配。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、それぞれに白緑色の新芽の塊を湛え。しんしんとそこに立っている。大きく茂ったマリリン・モンローと、細めの茂みのホワイトクリスマスと。それぞれの立ち姿。
ベビーロマンティカは三つの蕾を芽吹かせながら、次々新芽を出している。今朝はどんなおしゃべりをしているのだろう。私は耳を澄ます。すると、昨日娘が歌っていた、トトロの中のとあるメロディが聴こえてくる。もちろんそれは私の錯覚と分かっているのだが、思わず私も声に出して唄い始めてしまう。
ミミエデンも順調に新葉を萌え出させている。全身紅色の葉が、徐々に徐々にその紅色を失って、緑色に変わってゆく姿。不思議なグラデーション。そろそろ古い歪んだ葉は、摘んでやってもいいかもしれない。
ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝葉を解いてやる。風がないから、ラヴェンダーの枝が擦れるたび、ふわりとあのいい香りが漂ってくる。これでお茶を入れたら、さぞやおいしいことだろう。
ふと思う。昨日は友人の誕生日だった。直前に速達で送ったプレゼントは彼女の手元にちゃんと届いただろうか。今友人は声を失っている。このところ立て続けに起きた出来事によって、精神的に崩れ、声を失った。
もともと彼女は、DVの被害者であり、かつ、性犯罪被害者でもある。若い頃に父親を自殺によって失い、母親との確執も抱えている。いまだにそれは解けていない。今病院にも行くことが叶わない状況だというから心配は募る。できることなら飛んで行きたい。飛んで行って、彼女を抱きしめたい。でも。それは今、叶わない。
ただ、信じて待つしか、私には今、できない。

ねぇママ、心が壊れるってどういうこと? ん? あなたは傷ついたり悲しくなったりしない? するよ。傷つきすぎるとね、人の心は、ぺしゃん、って壊れちゃうのよ。どうしてそういうことが起きるの? どうしてだろう、たいてい人の心は、人によって壊れてゆくんだよね。人によってって? 人間同士の、何ていうんだろう、軋轢っていうか、こう、人間同士の争いによって、人の心は壊れたり傷ついたりするんだよね。壊れるとどうなるの? 心が壊れるとね、体の調子もおかしくなってくるんだよね。どうおかしくなるの? ママは、たとえば、人に見えないものが見えたり、聴こえないはずのものが聴こえるようになったりしたなぁ。声が突然でなくなったり、何も食べることができなくなったり、眠ることもできなくなったり、ね。どうやったらそれって治るの? どうやったら治るんだろう、人によって生じた疵は、人によってしか癒されないのかもしれないってママは思うことがある。バンドエイドとか貼って、薬塗ったり飲んだりして、すぐ治らないの? そうだね、そうしてすぐ治ってくれれば、それほどいいことはないよね。でも、心が一度壊れると、なかなか治らないんだよ。どのくらい時間がかかるの? それも人によるなぁ。一年でだいぶ治っていく人もいれば、十年二十年かかる人もいる。疵の度合いによるんじゃないのかなぁ。なんか難しい。そうだね、難しいね。心ってさ、目に見えないから、手術もできないし、バンドエイドも貼れないでしょ、だから、難しいよね、余計に。心が目に見えるものだったらいいのにね。神様ってずるいな。ははは。そうかもしれないね。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。と、足元でかりかり音がする。見れば、ココアが起き出して、こちらを見上げている。おはようココア。私は手を差し伸べる。手のひらに乗ってきたココアの、左目を確認する。だいぶよくなってはいるものの、起き抜けのときはやはり、ちょっと具合が悪い。あと一週間目薬をやってくださいね、と獣医さんは言っていた。その言いつけを守って、娘は一生懸命世話をしている。無事にココアの目が治ってくれますように。祈るように思う。

それじゃぁね、じゃぁね、ママ、絶対メールちょうだいね。うんうん、約束した。でも、返事もちゃんとちょうだいね。わかってるー! 手を振って別れる。娘はバス停へ。私は自転車へ。
坂を下り、信号を渡り、公園の前へ。立ち止まった瞬間、夥しいほどの蝉の声が頭の上に降ってくる。こんな朝早くから、こんなにたくさんの蝉の声。私はあんぐりと口を開けてしまう。自転車を押して、公園の中へ入り、池の端へ。そこに立つと、ますます蝉の声が鳴り響いてくる。今私を取り囲む樹のあちこちに、蝉がへばりついている。たった数日の命を燃やし尽くすかのように、懸命に鳴いている。そう思うと、胸がぎゅっと痛くなった。たった数日。蝉にとってはそれが当然の、当たり前の命の長さだから、それについてあれこれ考える余地はないのかもしれない。でも。あまりに短くはないか。切ない。ふと桜の樹を見上げて、三匹の蝉がそこに止まっているのを見つける。足元には、彼らが出てきたのだろう小さな小さな穴が、残っている。
その穴を壊さぬよう、そっとその場を離れ、自転車に再び跨る。大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木の影を抜けると、肌に突き刺さるような陽光が。
土曜日とあって、人気の少ない通りを走る。ひたすら走って、海と川とが繋がる場所へ。いつのまにか水母もいなくなった。今朝は何だろう、ちょっとどんよりした水の色。それでも水は、決してひとところに止まることなく流れ続ける。そう、ひとところに止まり続ければ、それはやがて、腐ってしまう。
さぁ、今日も一日が始まる。私は向きを変え、再び自転車を走らせる。


2010年07月23日(金) 
寝苦しくて目が覚める真夜中。隣の娘を見ると、娘もさすがに暑いらしく、シャツをいつの間にか脱いでしまっている。薬を飲み始めてすぐ、彼女の手足の赤い腫れは引いていった。塗り薬も毎朝毎夜薄く塗るのだが、もうそれが必要ないんじゃないかと思うくらいになった。薬というのは何て強力なんだろう、と改めて思う。その薬を何錠も、十年以上に渡って飲み続けている私の体は、一体どうなっているんだろう、と思ったりする。
どうにか再び眠れないかと寝床の上頑張ってみたのだが、こう暑くては再び寝入るのは無理らしい。諦めて起き上がる。丑三つ時。さて、何をしよう、と、手元の、プリントアウトしてある友たちの手記を読み返す。ここから二、三行ずつ、抜き出さなければいけない。そういう作業が必要になってきていることを思い出し、早速取り掛かる。
DVに苦しんだ被害者、近親相姦に長年晒された被害者、強姦という被害に遭って記憶を半分失った被害者、幼児期に性的悪戯を受けて悩み続けた被害者。彼女らの声がここに在る。私はそれらを、一行ずつ、いや、一文字一文字、追ってゆく。
被害に遭って、どれほどの地獄を味わっただろう、彼女らは。それを思うと胸が苦しくなる。喉が焼けるように痛くなる。それでも、彼女らは、生きようとしている。これまでもそうであったように、ここからさらに、生き続けようとしている。その必死な叫びに、思わず文字から目を逸らしたくなる瞬間もある。でも、逸らしてはならないと思う。この、彼女らの声がどれほどの思いで紡がれたのかを思えば、一瞬たりとも目を逸らしてはならないのだと思う。
作業をしていると、あっという間に時間が過ぎてゆく。目の奥が痺れてきているのに気づいて目を上げれば、空はもうすでにうっすらと明るくなってきている。
私は開け放してあった窓からベランダに出、空を見上げる。まだ空の色は定かには分からないが、今日もきっと暑くなるのだろう。毎日毎日、熱中症で病院に運ばれる人が大勢出ているとニュースが言っていた。今のところ私も娘も、そして実家の母も無事。それは幸運なことなのかもしれない。
ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこもうとして、アメリカンブルーが咲いていることに気づく。真っ青な花。青い青い花。毎日一輪ずつ咲いていくのは、この花の習慣なんだろうか。それともこのうちにある株がたまたまそうだというだけなんだろうか。不思議だ。
しゃがみこみ、ラヴェンダーとデージー、絡まりあった枝葉を解いてゆく。昨日はそんなに風が強くなかったから、絡み合っている部分も少しだけで済んだ。それにしても。今デージーは花盛りのようで。次から次に蕾を出してはぽんぽん、ぽんぽん咲いてゆく。次から次に目の覚めるような黄色い花びらが開いてゆく。
パスカリの新たな花芽。一段と首をくいと持ち上げて、空を向いて立っている。ふと見ると、一番根元のところから、新たな茎がにょきっと出ている。こんな下から出てきたんじゃ、枝葉を広げるのが大変だろうに、とちょっと私は心配になる。でも、そんな私の心配などどうってことないというように、きっと枝は伸び、やがて葉も茂るんだろう。そんな気がする。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。三つのうち二つが、色濃く桃色に染まってきた。もうじきだ。もうじき花が咲く。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、揃って新芽の気配を湛え出した。白緑色の、固い固い塊。まだまさに塊としかいいようのない姿だけれど、これがやがて綻んで、葉になってゆくのだ。
ベビーロマンティカは、もういいよとこちらが思うほど、葉を次々萌え出させ、茂ってきている。そして花芽も三つ。生まれてきているのに気づく。この樹は本当に、なんて元気なんだろう。私は小さく溜息をつく。そんなに生き急がなくてもいいよ、と思わず樹に声を掛けてしまう。そういえば、私も昔、その言葉を散々友人たちから掛けられたなぁと思い出す。思い出して、何だかちょっと笑ってしまう。私はやっぱり、生き急いでいたんだろうか。当時は、そうでもしなければ私は生きていけないんだ、と心の中、言い返していたものだった。今となっては、ちょっと滑稽だなと思う。そんなに焦って急いで、私は結局何をしてこれただろう。何を残してこれただろう。それを思うと、生き急ぎすぎて、転んで躓いて倒れて、自分の体がぼろぼろになっただけのような気がしないでもない。まぁ、それも今思うから、なんだろう。当時は必死だったのだから。
ミミエデンも、紅い紅い新葉を次々広げてくれており。それが嬉しい。最初に開いた新葉の色が、少しずつ、少しずつ紅色が薄れてきている。これがやがて黄緑に近い緑色になってゆくのだと思うと、どきどきする。
金魚と目が合って、私はそういえば昨日餌をやっていなかったことを思い出し、慌てて餌を振り入れる。一度潜ってすいっと浮かび上がってきて、そうして餌を突付く金魚たち。大きな尾鰭が、ゆらり、ゆらり、揺れている。
行きつけの喫茶店で知り合った外国人の女性。再会し、あれこれ話をする。今日は大阪から友人が来てくれるので品川に行くのです、と彼女が言う。そして、お土産は何がいいと思いますか、と問われ、私は慌てる。シュウマイ以外のものがいいという彼女に、そういえばこの辺りのお土産って何があったんだろう、と。いつもこの街を徘徊しているというのに、お土産と問われて思い浮かばない自分。情けない。あれこれ話しているうち、赤い靴クッキーに興味を示す彼女。そしてまた、私が先日名前を挙げた作家の本を、早速彼女は本屋に探しに行ってくれたのだという。ブックオフで探すのと、図書券で買うのとどちらがいいでしょう、と問われる。ブックオフのことまでもうすでに知っている彼女に、私は面食らう。私が外国に行ったときには、彼女のような貪欲さがあっただろうか。確かに私は目的のものに関しては必死に調べた記憶があるが、それ以外のことに関して、はっきりいって無知のまま帰国してしまった。今思うと、もったいないことをした、とつくづく思う。結局その日、メイドカフェについてまで二人で調べて、そうして別れた。
ママ、私ね、お別れ会の実行委員になった! へぇ、そうなんだ。どんなことするの? お別れ会をどうやってやるかとか考えたりするの。引越しちゃうの? うん、そう。埼玉の方に引っ越しちゃうんだって。もう会えなくなるね。そうだね、ちょっと遠いね。でも、住所とか聴いておけば、お手紙のやりとりはできるよ。あ、そっか! じゃぁ新しい住所、聴いておかなくちゃ。うん、それがいいよ。ママは手紙とか子供の頃書いた? いっぱい書いたよぉ。文通相手とかいたし。ブンツウ? そう、文通。手紙でやりとりすること。そういうお友達が、実はママにはいっぱいいた。切手貼って出す手紙のこと? うん、そう。そういうお友達、どうやって探すの? あぁ、ママの頃はね、引っ越ししていった友達とか、それから、雑誌とかに「文通して下さい」っていうふうに載っててね、それでたくさん友達ができた。今もその手紙って残ってる? どうだったかな、少しは残ってると思うよ。へぇっ、じゃぁ私、Mちゃんと文通する! そうだね、してごらん、楽しいよ。手紙ってさ、書く言葉でしょ。うん。声に出していえないことでも、文字にすると打ち明けられたりしてね、楽しいんだよ。へぇぇ。それに、今日はどんな便箋で書こうかな、とか、どんなシール貼ろうかな、とか考えるのも楽しい。ママ、便箋買ってくれる? もちろん。わー、楽しみぃ。
そう、今も一部、残っている。本当に一部しか残っていないけれど。子供の頃文通していた相手が何人かいた。全く顔も知らないところから始まって、手紙を交換し、写真を交換し。そうやって、少しずつ相手のことを知っていって。お互いに、直接に知らないからこそ打ち明けられるものもあった。近くにいないからこそ、打ち明けられるものがあった。拙い書き言葉を連ね、それを伝え合った。今そういえば、「文通してください」なんて言い合う人はいるんだろうか。すべてがメールや電話やら、そういったもので済んでしまっている気がする。なんだかちょっともったいない。
手紙の類も、あの被害を受けた後、殆どを焼いてしまった。壊れてゆく自分と、離れてゆく友人たちの姿をまざまざと見せつけられて、人との繋がりが怖くなった、その時、殆どを焼いてしまった。もったいないことをしたな、と今なら思う。住所録も何も、その時一緒に棄てたんだった。文集の類も。今残っているものなんて、本当に一欠けらだ。
でも。
今も残っていてくれる人たち。確かに在る。数は少ないかもしれないけれども、確かな緒だ。私をいつも支えていてくれている。大事にしよう、そう改めて思う。

じゃぁね、それじゃぁね、今日ママ勉強? うん。お互い頑張ろうね。うん。手を振って別れる。
いつもバスで行くところを、試しに自転車で行ってみる。自転車置き場までとにかく走り、そこからは歩き。
海と川とが繋がる場所。もう人通りがずいぶん多くなった。N車のビルができて、この辺りはぐんと変わった。私はひとり、橋の袂で立ち止まり、水辺を眺める。強い陽射しがかんかんと降り注ぐ。目を細めながら、水面を見つめる。
もうあと二、三回で授業も終わる。そこからはもう、ひとりでやっていかなければならない。私にできることは何だろう。改めてそのことを思う。
さぁ、今日も一日が始まる。しっかり歩いていかなければ。


2010年07月22日(木) 
寝苦しい。本当に寝苦しい。じっとしていても汗がじわじわと噴き出してくる。顔中汗だらけになっている気がする。何度も汗を拭い、それでも止まらない。隣の娘を見ると、おなかを丸出しにして眠っている。でも顔に汗などかいていないようで。よかった、娘だけでも気持ち悪い思いをしないで済んでいて。私はもう我慢が出来ずに起き上がる。真夜中午前一時。
窓を開けても、風はひゅるりとさえ吹き込んでこない。風が停滞している。私は窓際に立ち、煙草に火をつける。煙は真っ直ぐ立ち上り、ゆらゆらと揺れることさえしない。それほど空気が沈滞している。街路樹の葉たちは、じっとそこに在り。かさりとさえ音も立てない。
さて、どうしよう。この時間。私は首を傾げる。このもてあました時間をどう過ごそう。とりあえず椅子に座ってPCの電源を入れる。書きかけの書類を開き、睨めっこ。
自分を紹介するって、どうしてこう難しいんだろう。私は自分をアピールすることが、本当に苦手だ。できることならしたくない。でも、それがこの書類には必要で。だからなかなか進まないのだ。
プロフィール一つとっても、たとえば三百字まで書いていいというのに、私がさっと書くと、百字ちょっとで終わってしまう。こんなんじゃだめだ。書き直す。書き直そうと何度も試みるのだが、なかなかこれができない。
自分の活動の、ユニークな点について記してください、と問われても、ユニークな、という言葉で引っかかってしまう。そんな観点で、自分の活動を見たことがなかった。さて、どうしたものか。困ってしまう。
でも、せっかく私を推薦してくれようとする人がいるのだ。書かねば。私はなけなしの脳みそをぐるんぐるん回転させ、必死に文字を紡ぐ。
同時に、プリンターも動かし始める。提出する資料をプリントアウトせねばならない。こうしてプリントしてみると、それなりの量になるんだな、と改めて感じる。たった三年の、まだ今年で四年目の活動だというのに。
そうこうしているうちに、あっという間に空が白んできた。あぁ、まだ完成していない。とほほ。そう思いながら大きく伸びをする。とりあえず続きはまた後でやることにして。今は朝のいつもの仕事にとりかからねば。
その前に。
私はベランダに出、ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。ラヴェンダーとデージーと、絡まりあった枝葉を一本ずつ解いてゆく。一緒の鉢に植えたのが失敗だったかな、と、今更ながら思う。まぁもう仕方がない。デージーの花を落とさぬよう気をつけながら、一本、また一本、解いてゆく。そのたび、ラヴェンダーのいい香りが、ふわりと私の鼻腔をくすぐる。
パスカリの、二つ目の花芽。小さいけれど、間違いなくこれは花芽。今度こそ真っ白な花が咲いてくれるだろうか。どうなんだろう。この樹は昔帰りしてしまったのかもしれない。ちょっとどきどきしながら、私は蕾をじっと見つめる。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。三つの蕾。だんだんと膨らんできて、もう桃色の花びらが透けて見えている。もうじき咲いてくれるだろうな、と思う。私は試しに、指で三つの蕾を触ってみる。ぽろん、ぽろん、ぽろん、と、音色が聞こえてきそうな、そんな気配。かわいい蕾。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。それぞれに白い固い新芽の気配を湛え、今、しんしんとそこに在る。昨日よりほんのちょっとかもしれないけれど、白い固い塊が、膨らんできたような、そんな気がする。これが膨らんで膨らんで、或る日突然ぽっと割れて、そこから新芽が噴き出してくるのだ。それが早く見たい。
ベビーロマンティカは、もう全身新芽の嵐、といった具合。次々、次々、新芽を出して、それが茂みを作っている。まだ花芽はないけれど、もう十分。耳を澄ましていると、葉の影から、小人が出てきてぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋っているような、そんな錯覚を覚える。そのくらい、賑やかな樹。
ミミエデンも、紅い紅い新芽をぴんと伸ばして。今、ほぼ全身が紅色。これらが無事に開いて伸びてきたときには、古い歪んだ葉は取ってやろうと思う。
行きつけの喫茶店で知り合った、外国人留学生。人類学を研究しているのだという。特に今回日本に来たのは、「草食男子」について調べるためだという。日本語の勉強をしながら、同時にその「草食男子」についての資料を集めている彼女。日本語はムズカシイと言いながら、とても魅力的に日本語で話をしてくれる。今授業で扱っている本のひとつは村上春樹なのだという。主語が曖昧なことがあって、そういったところでつっかえてしまうという。「何かお勧めの本はありますか?」と問われ、私の口は勝手に、「梨木香歩」さんの名前を出してしまっていた。「りかさん」や「裏庭」、「からくりからくさ」などはとっても面白いと思うよ、と告げると、ノートにメモする彼女。今夜、大阪の友人と再会するのだけれども、お土産は何がいいかと問われ、二人であれこれ考える。「日本のこういう習慣、ありますけれども、アメリカにはこういう習慣、あまりないですね。友人にお土産、という習慣は、あまりないです」「あら、そうなの? 私はしょっちゅう友達にお土産買って帰ってきちゃう」「ははは。日本ならではの習慣ですね、いいです、はい」。なるほど、土産を気軽に買って帰るというのは、日本の習慣の一つなのか、と改めて知る。思ってもみなかった。再会を約束して、別れる。
昨日よりずっと、娘の手足の赤い腫れは引いてきたようで。薬をちょっと飲んだだけで、そんなにも変化するものなのか、と私は感心する。「ねぇママ、飲み薬、昼間もあったらよかったのに」。娘が言う。なんで? そしたらさ、みんなに自慢できるじゃん。薬が自慢なの? え、違うの? 違うよー、薬なんて自慢にならないよー。ははは。えー、でも、みんなと違うってとこで、注目浴びるよ? あ、注目浴びたいの? え、あ、まぁ、たまにはいいかなーと思って。なるほどなぁ、まぁそれなら、確かに注目浴びるかもしれないねぇ。それにさ、いっつもママだけ薬飲んでて、ずるいなーって思ってた。ええっ、そんなこと思ってたの? うん、私には薬ないじゃん。それは健康って証拠だから、大事なことなんだよ。んー、でも、ママの友達はたいてい、薬飲んでる。確かにそうだね、うん。みんなどっか、具合悪いからね。私だけ飲んでない。仲間はずれじゃん。ははははは。そんなことないよ、みんなにとってあなたは、希望の星なんだから。何それ? いや、だから、あなたが健康であってくれることが、みんなにとって嬉しいってことだよ。ふーん。変なの。ふふふ。

ねぇママ、私ね、もう何も立候補しないことに決めたの。え、なんで? だって、私が立候補すると、絶対誰か、文句言うんだもん。陰口っていうかさ。んー、だから立候補しないっていうこと? うん、もうやだ。あなたはそれでいいの? いや、よくないけどさ、でも、陰口叩かれるのも、もっとやだ。気持ちは分からないわけじゃないけど。そんなこと気にしてたら、何もできなくなっちゃうよ。人は勝手に他人のことあれこれ言うものなんだから。でもさ、いっつもいっつも陰口叩かれて、こっちじろーって見られてたら、たまんないじゃん。あぁそうだよねぇ、それは分かる。うんうん。でしょ? だからもうやだ。やめる。でもそれじゃぁ、あなた、自分が本当はやりたいなぁって思ったことでも、やれないまんまで終わっちゃうじゃない。それでいいの? よくはないけど。そうでしょ? よくないんだったら、堂々と立候補するのがママはいいと思うよ。陰口言われようと何しようと、構わないじゃない。いや、構うよ。後で面倒なことになったりするもん。…。最終的にはあなたが決めることだけれども、でもね、何か行動を起こそうとするときって、100パーセントの人が賛成してくれるかっていったら、違うんだよね、反対する人もいれば、賛成してくれる人もいる、それは、あなたに限らず、たとえばママだって同じだよ。それでもね、自分がやりたいと思うなら、やってみるのがいいと、ママは思ってる。…うん。あとは自分でよく考えて、決めればいい。うん。

母と電話で話をする。この酷暑は、今の母の体にはきっときついだろう。そう思い、電話を掛けてみた。母はそれでも、「そろそろ夕暮れだから、ブルーベリーの実を摘まないと。鳥と競争なのよ、大変大変」そんなことを言いながら電話を切ってしまう。まぁこれなら、とりあえず大丈夫そうだな、と私は自分で自分を納得させることにする。
それにしても。鳥と競争でブルーベリーの実を摘む母。その姿を想像し、何となく微笑んでしまう。きっと実の幾つかは、鳥に譲ってあげてしまうに違いない母。そして残りを、ヨーグルトか何かにいれて食べるのだろうな、と想像する。
ニュースでは、熱中症で百人以上が倒れ、九人ほどが重症だと言っていた。別の件では亡くなる方まであったという。
どうか、あの家が、母を守ってくれますよう。祈るように思う。

じゃぁね、じゃぁ…あ! 帽子忘れた、取って! もうっ、ほら。ありがと、じゃぁね! はいはい、じゃぁね。
今日娘は社会科見学。私より早く学校へ行った。それを見送り、私も家を出る。坂道を下り、信号を渡って公園の前へ。黒い影にさえ見えるこの大きな茂み。強烈な日差しを毎日浴びているせいか、葉もちょっと疲れ気味に見える。紫陽花などは、もうぐてんとしていて、枯れた花をそのまま残しながら、首をかっくんと折っている。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木の影の中を通って、少しでも陽射しを避けながら走る。信号は青。そのまま真っ直ぐ渡って、美術館の脇を通り、港の方へ。
白い波が砕けるのを、しばらく眺めている。ぼーっと遠くで汽笛が鳴った。今日は水色の空じゃなく、白く霞んだ空が広がっている。何となく塵っぽい。海の上を渡る大橋も、けぶって見える。
さぁ、今日も一日が始まる。私はくいと自転車の方向を変え、再び走り出す。


2010年07月21日(水) 
久しぶりに娘の蹴りもなく、眠り続けることができた。午前四時。起き上がって窓を開ける。むわっとしたぬるい空気が充満している。風もない。風がないから余計に、空気の暑さを感じるのだなと思う。微動だにしない街路樹の緑をじっと見つめる。東から伸びてくる陽光がトタン屋根をぎらぎらと照らし出している。今日もきっと暑い。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。そうして絡まりあったラヴェンダーとデージーとを解いてやる。その時、ぷっつりデージーの細い枝が切れてしまった。その先には小さな花がついてたのに。悪いことをした。私はデージーの、細い細い切れた枝を摘み上げる。これだけでも水に挿してやらねば。私はテーブルの上にそれを置く。
パスカリの花が咲いた。どうもいつもと様子が違う。花の芯の方が黄色い。何だろう。この色は。何処から出てきたんだろう。真っ白な花が咲くはずなのに。私は首を傾げる。もしかして、これは接木で増やしたから、元の樹の色が出てきてしまったんだろうかとも考えたが、それはあるまい。どうしてなんだろう。不思議だ。私はとりあえずそれを切り花にし、残った枝を挿し木にする。そしてもう一つ、この樹から新たな蕾が出ているのを確認する。確かにこれは花芽だ。間違いない。昨日よりくいっと首を伸ばして丸い粒が見える。なんだか嬉しい。こんな暑い暑い中でも、花芽を出してくれるなんて。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。三つの蕾。新芽もあちこちから噴き出してきており。蕾は昨日よりひとまわり、また大きく膨らんだようだ。今のところ粉を噴く気配もない。これなら大丈夫。三つとも無事に咲いてくれるに違いない。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。白く固い新芽の塊を、枝と葉の間に湛えている。よかった、これなら大丈夫。私は心底ほっとする。正直、ここまで沈黙を続けていたから、心配だったのだ。立ち枯れてしまうんじゃないか、と。本当によかった。
ベビーロマンティカは、昨日よりさらにたくさんの新葉を広げている。もう茂みがこんもり。本当に不思議な樹だ。次から次に新芽を出したり花を咲かせたり。こんな天気の中でも、元気さを失わない。見つめているとだから、こちらも元気でいなくては、と思う。
ミミエデンは、全身紅色の葉を広げ。これが徐々に徐々に緑色に落ち着いてゆくのだから、色というのは不思議だ。
挿し木だけを集めたプランターの中。立ち枯れてしまった枝を一本、抜く。切ない。せっかく新芽を噴き出させていたのに。それなのに立ち枯れてしまった。私に何ができるというわけでもないことは分かっているけれど、それでも切ない。申し訳なくなる。私はごめんねと心の中呟きながら、枝をゴミ袋に入れる。
それにしても。昨日の夕焼けは美しかった。茜色というより、紅色を水で溶いたような、そんな色が西の空全体に広がって。所々浮かぶ雲も全身その色に染まり。しばし窓際で私は佇んでしまった。そのくらい、美しかった。
病院の帰り道、友人と会う。友人が、とてつもない穴に落ちたような、もう生きることができないんじゃないかって思うくらいの穴で、とぽつぽつと話してくれる。どこか目が虚ろで、私はその彼女の目の先を追う。もちろん彼女と同じものが見えるわけもないのだけれども。それでも追ってしまう。これまで似通った穴に落ちたことはあったけれど、でもそのたび、辛いのは私だけじゃないと自分を鼓舞してくることができた。でも今回は、それがどうにもできそうになくて。彼女が言う。あぁ、そういうことが確かに私にも在った、と私は思い出す。辛いのは自分だけじゃないなんて、思うことさえできなくて、もう駄目だ、すべてのこの世との緒は切れた、というような感覚に陥る。そういうことが確かに在った。それでも生きていかねばならないことなど百も承知で、それでも、もう駄目だ、私は駄目だ、としか思えなくなる。そんな時が。思い出すと、ぎゅっと胸を掴まれたような感覚に陥る。
友人と別れ、私は今度は娘を連れて病院へ。手足の赤い腫れがひかないのだ。皮膚科にかかるなんて、全くといっていいほどないから、なんだか緊張しながら名前を呼ばれるのを待つ。でも穏やかな丸い顔をした先生が座っていて。私はほっとする。あぁ、二つ考えられるのだけれども、ひとつは紫外線アレルギー。もうひとつはウィルス性のアレルギー。どちらかだと思うんだけど、日の当たるところだけ赤くなっているところを見ると、紫外線アレルギーかな、お薬出しますから、ちゃんと飲んでね、と言われる。
紫外線アレルギー。初めて聴く言葉だった。紫外線に急激に当たると起こるのだという。そういえば、以前ロサンジェルスに行った折、私自身、なったことがあったんじゃなかったか? あの時は紫外線アレルギーとは言われず、皮膚が炎症を起こしたのだと説明されたが、これと似た症状じゃぁなかったか? 思い出し、納得する。でも、私の場合は確かに、急激に強い陽射しを浴びたから、と説明がつくが、娘の場合はどうなんだろう。そんな、急激に強い陽射しを浴びた、というほどのことはなかった気がする。何故こんなことが起きたんだろう。私は首を傾げる。ともかくも、処方された薬をしっかり飲んで、様子を見るしかない。
そして次、今度はココアを連れて三人で病院へ。病院の先生は、前回同様丁寧にココアを診察してくれて。目はあと一週間くらい目薬をし続ければ大丈夫、と言われる。が、問題は足の腫瘍だった。関節のところにできているため、もし手術をしても、後が大変だ、ということで。最悪の場合、足を切断しなければならなくなる可能性もあるとのこと。ココアが歩くのに支障がないのなら、このままそっとしておくことがいいかもしれない、よく考えて判断してくださいね、と言われる。腫瘍、と言われて、私は自分の額の腫瘍を思い出す。私の場合、軟骨腫。ココアはどうなんだろう。ただの脂肪の塊なんだろうか、それとも悪性の腫瘍なんだろうか。それさえ今の段階では分からない。でも。
足を切断しなければならないような事態になるのであれば。ハムスターの寿命は二年か三年。たった二年か三年だ。その間、不自由させて生き延びさせるより、痛みがないのなら、このままにしてやった方がいいんじゃないか、と私は思った。娘はどう考えているのだろう。まだ実感しきれない顔をしている。「また時々様子を見せに来てね」と言われ、ありがとうございましたと返事をして診察室を出る。
ココアの籠が必要以上に揺れないよう、抑えながら坂道を自転車で上る。ママ、暑いからアイス食べたい。そうだね、スーパーでアイス買って帰ろう。私たちはクーラーが強力にかかっているスーパーの中に入る。一瞬くらりと眩暈。
野菜の値段が、いつもより少しずつ高くなっているのに気づく。私は最低限のものだけを買い物籠に入れてゆく。娘の視線の先を見ると、ジュースの棚。そういえば、うちには麦茶しか冷蔵庫に入っていない。たまにはジュースを買ってみるのもいいか、と、一番安いジュースを選ぶ。パイナップルジュース。娘がにっと笑う。アイスは一袋に二個入っているものを選び、買い物終了。
夕食を作り、風呂から上がると、もうぐでんぐでんに疲れている自分を発見する。たったこれだけ動いただけなのに、正直もうだめだ。疲れた。私は何も言わず、椅子にでーんと寄りかかる。ママ、早く横になったら? うん。あなたも早く寝たら? うん。両方で気のない返事を返しているのに気づいて、二人して笑う。
明日からもう、塾の夏期講習が始まる。またお弁当作りの毎日が始まる、ということだ。あぁ、お弁当のおかずの分を買い物し忘れた、と思い出す。仕方ない、何かありあわせのもので済ませよう。考えるのも面倒で、私はとりあえず考えることは放棄する。

お湯を沸かし、生姜茶を用意する。切り花にしたパスカリを改めて見つめる。やはり、芯の方の花びらが黄色い。白から黄色へのグラデーションの花。不思議な花。
昨日電話で久しぶりに話しをした遠い町に住む友人は、思っていた以上に元気だった。新しく治療として始めた、EMDRが自分に合っているのかもしれない、と彼女は話す。EMDRを初めて受けた日、これまで一度としてなかったくらいに熟睡できたのだという。これから続けていくつもりだと彼女は話していた。仕事の方も、新しく始まったらしく、その職場でならしばらくは働けそうだと話していた。よかった。なんだか順調にいろんなことが運んでいて、怖いくらいだよ、と彼女が笑う。そうかもしれない。でも、順調ならそれでいい。それに越したことはない。私は電話を切った後、しばらく受話器を見つめる。もう一人、気になる子がいる。彼女は大丈夫だろうか。連絡がないところを見ると、よほど思いつめているに違いない。それが気がかりだ。

三年分の、「あの場所から」の資料をまとめていて、たった三年だけれど、こんなにもたくさんの声があったんだな、と改めて思う。大切にしなければ、と。
そして、これを続けてゆくために、今私に何ができるだろう、と、考える。今私にできること。それは何。

ママ、学校に連絡しといてね。分かった、中休み外で遊べませんってちゃんと言っておくよ。うん。それじゃ、昼には戻るから。うん。じゃぁね、じゃぁね。
学校に行く娘より一足先に、私は家を出る。むわむわした暑い空気があたりに立ち込めている。その中を、自転車で一気に駆ける。
坂道を下り、公園へ。鬱蒼としたその森。緑の匂いがむわんむわんと通りにまで漂ってきている。私は自転車を引いて池の方まで。池の端に立ち、空を見上げる。ぽっかりあいた茂みの穴から見える空は、美しい水色に染まって。この断面を写真にできたらきっときれいなんだろうなぁなんてことを思う。公園の周りの紫陽花はもう、ぐったりと首を垂れている。色褪せたもの、枯れ始めたもの、それぞれに、ぐったりと。それほどに陽射しは強く、暑い。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木が作ってくれる木陰を走り、さらに信号を渡って真っ直ぐ走る。
海と川とが繋がる場所。眩しいほどの陽射しが降り注いでいる。流れはきらきらと陽光を受けて輝き。こんな容赦ない陽射しの下にいたら、誰もが干上がってしまうんじゃないかとさえ思う。
流れを凝視していると、水の中、泳ぐ魚の群れを見つける。彼らにとっても暑いだろう。いつもより水温は間違いなく上昇しているに違いない。
私は思い切り顔を上げ、空を見上げる。くらりと体が揺れそうになって、私は慌てて手すりに掴まる。ほんの数秒の出来事なのだけれども、じりじりと顔が焼かれるのを感じる。
さぁ今日も一日が始まる。私はさらに続く道を、自転車で走り出す。


2010年07月20日(火) 
隣の娘の足蹴りにあって目を覚ます。サイズもでかい娘の足。だが今、全面に汗疹ができている。暗闇の中、娘の足に触ってみる。熱い。私の足と比べると断然熱い。汗をかいているわけではないのだが、この熱のこもり方、まだ彼女は子供なんだなぁと思う。でーんと両手を広げて、頭には従兄弟から貰ったぬいぐるみの枕をして口を開けて眠っている。私はそんな彼女の足をしばらくさすっていたが、このままじゃ眠れそうになく起き上がる。午前一時。
娘と過ごした昨日は、あっという間に過ぎた。映画を見に行くという約束をようやく果たすことができた。子供との約束を放っておくというのは、どうも心地が悪い。昔誰かに言われた。子供との約束はどんなことがあっても守らなければならないんだ、と。子供は一心に信じているのだから、それを裏切ってはならないのだ、と。そう、昔夜の店で働いていたとき、客がそんなことを言っていた。あの言葉は今でもはっきり覚えている。
しばらく窓辺に座っていたが、こうしていても何もならないと立ち上がり、風呂場を暗室に変えることにする。こういう、何と言うんだろう、心がざわざわする時は、写真を焼くにかぎる。
写真を焼きながら、私は夕刻、外国に住む最近知り合った女性と話したことを思い出している。彼女から尋ねられたこと。そもそもどうして写真を始めたのか、どうして性犯罪被害者と共同作業をしようと思ったのか、その時彼女たちはどういう気持ちでカメラの前に立つのだろう、など、いろいろな彼女の言葉が甦る。
私も最初、無理だと思った。声を掛けてみたって、それは無理な話だ、と思った。顔を晒すなんてこと、誰もしたくはないだろう、と思った。それなのに。
集まってくれた人がいた。あの時の驚きと嬉しさは、今も忘れられない。
そうして撮影を終えた後、彼女らに作品を届けたとき、彼女らの共通した一言、それも忘れられない。「あぁ私、まだ笑えるんだ、こんな顔、できるんだ」と。
被害の折、カメラを向けられた被害者もいる。その被害者にとって、カメラの音もさることながら、カメラ自体が恐ろしい存在になっている。それなのに、そういう被害者たちまでもが集まってくれたことに、今も私は感謝している。
もちろん、カメラの前に出ることが叶わない者もたくさんいる。そういう者は、撮影に同行し、荷物番をしてくれたり、焚き火の守りをしてくれたりする。ただその場所にみんな一緒にいる、というそのこと自体が大切なことなのだ、と私は思っている。誰も信じることができなくなった、誰かと一緒にいることさえ怖くなった人間にとって、そうした時間は、とてつもなく貴重だからだ。
手記にだけ参加してくれる人もいる。自分の体験や思いを、改めて書き言葉にするという作業。それが、どれだけしんどいものか、私は私なりに知っている。書いている途中でフラッシュバックを起こす者もいるだろう、書いている途中でもしかしたら自分の腕に刃を向ける者もいるかもしれない。それでも書いてくれる、そういう人たちの声を、私は外に向かって飛び立たせたい。
そうした被害者たちは、どんな表現活動を行なっているのだろう、という問いもあった。私の知っている限り、詩を書く者もいれば、ビーズで小さな小物を作り、販売している者もいる、絵を描いている者もいる。でも、それは多分、少数だ。そうした表現活動さえできなくなる者が、大多数だろう。
私は。
いつも思うのだが、彼女たちの「今」を撮りたいと思う。彼女たちの過去を撮るのではなく。そのことをいつも、思う。彼女たちが今ここに在ること、そのことをこそ、撮りたいと。だから、いつも極力彼女たちの過去に接点のない撮影場所を選ぶ。その方が彼女たちが自分を解放できるんじゃないか、と思えるからだ。
今年もどんどん、展覧会の日が近づいてきている。今、手記の声掛けをしているところだ。今年どのくらいの声が集まってくれるのか、まだ分からない。分からないけれど。そのどれもを私は大事にしたい。大切に大切に、羽ばたかせたい、そう思う。
プリントを15枚ほど完成させたところで区切りにした。風呂場を出、窓に寄ると、もう空は白んでおり。きれいな薄い水色の空がそこに在り。私はひとつ、大きく深呼吸する。
ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこみ、いつものように絡み合ったデージーとラベンダーとを解き始める。この作業、結構好きだ。時折ラヴェンダーの香りがふわりと漂ってくる、それが何ともいえず気分がいい。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。三つの蕾がぽろんぽろんと垂れ下がっている。そう、この樹の花は、そうやって垂れ下がるようにして咲くのだ。ぶら下がるようにして。その感じと花の雰囲気とがとても似合っていて、とてもかわいらしい。今から咲いてくれるのが楽しみでならない。
パスカリの、花芽をつけている一本。もしかしたらこれも花芽かもしれない、という新たな芽が芽吹き始めた。多分これも花芽だと思う。小さな小さな徴。そんないっぺんに二つも三つも咲かせなくてもいいよ、と声を掛けながら、でも、嬉しくて仕方がない。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。もうじき新芽がその気配を露にするだろうと思える。白緑色の塊が、枝と葉の間で膨らんできている。ようやく君たちの新芽に再び出会えるのか。ようやっと。私はそれぞれの葉を指で撫でる。
ベビーロマンティカはもう本当にあっちこっちから新芽を芽吹かせており。あっちで一声、こっちで一声、木霊しあうようにおしゃべりしている。この樹はいつ見ても楽しげで賑やかだ。そんな姿に私はいつも、励まされる。
アメリカンブルーは、今朝は一輪も花はついていず。まだこんな早い時間だからかもしれない。私は土が乾いていないことを確かめ、そっと枝を揺らしてみる。大丈夫、根はしっかりついている。また虫にやられるのは、ごめんだ。
ミミエデン。紅色の新葉を思い切り広げている。よかった、どれもこれも病葉じゃぁない。このまま緑色になって、きれいな緑色になって、元気な葉を大きく広げていってほしい。
部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れながら、その傍らで、水筒にリンゴ酢のジュースを作る。リンゴ酢と蜂蜜、氷を入れてしゃかしゃか振る。娘が起きてきたら飲むだろうジュース。娘がお酢好きな子供でよかった。
マグカップをもって机に座る。煙草に一本火をつける。もうその頃には、空はふわぁっとさらに明るくなって、そして水色はさらに濃くなって。うっすらとした雲が所々、浮かんでいるのが見える。

「精神がもはや中心でなくなったとき、つまり言葉や、過去のいろいろな経験―――それはすべて記憶やレッテルであり、それが蓄積されて分類整理されたものです―――から成り立っている「思考する人」でなくなったとき、そして精神がそういうことを一切やめたとき、そのとき精神は確実に静かになるのです。精神はもはや束縛されず、また「私」―――つまり私の家、私の業績、私の仕事というような―――としての中心を持っていないのです。私の家とか私の業績というようなものはすべて言葉であり、それが感情に刺激を与え、その結果記憶を強化してしまうのです。こういうことが全然起こらないときには、精神は非常に静かです。その状態は無ではありません」「意味の全体を辿り、それを実際に経験し、さらに精神の働き方を知ることによって、もはやあなたが命名したりしない段階に達すること―――つまりもはやそこには思考とは別の中心が存在しないという意味です―――この全体の過程こそ真の瞑想なのです」

ねぇママ、ママ! 何? ココアの目のシコリ、なくなったよ。おお、よかったじゃん。目薬の効き目だね。うん、よかった。よかったねぇココア。ねぇ、お医者さんって、何でこんなことできるのかな? うーん、そういうお勉強をしてきてるんだよ。ママのお医者さんは、どうしてママのこと、すぐに治してくれないの? へ? だって、ココアは一週間で目のシコリがなくなったんだよ。ママも一週間で病気治ればいいのに。そうだよねぇ、ママもそう思う。多分、ママの病気は心の病気だから、心って目に見えないから、だから余計に治すのが難しいのかもしれないね。ふぅん、でも、ママ、ヤブ医者にかかってない? 大丈夫? ははははは、わかんないけど。まぁ、今の先生を信じてやっていくしかないなぁ。うーん。早く治ればいいのになぁ。私、医者になろうかな。え? お医者さんになるの? うん、それで、すぐ治しちゃうの、みんなのこと。ブラックジャックみたいじゃん。それ。うんうん、でもそれには、ピノコがいないとだめだよね。はっはっは。そんな有能な助手、いるのかなぁ。わかんない。ははははは。

じゃぁね、それじゃあね、あ、お昼はおにぎり食べておいてね。できるだけ早く帰るから。分かったー。
私は階段を駆け下り、ゴミを出して、通りを渡ってバス停へ。すぐやってきたバスに乗る。ちょうど盲導犬を連れた女性が同乗しており。いつ見ても、盲導犬というのは本当に利口だ。飼い主を絶対に守ろうと、目を配っている。それが自分の役目なのだ、と。私は彼の邪魔をしないよう、そっと脇に寄って立つ。
駅で下り、走ってはみるが、いつもの電車には間に合わず。一本後の急行に乗る。女性専用車両ができて本当に私にとってありがたい。助かっている。こういう時間帯に電車に乗らなければならないとき、この車両がなければ、私はばったり倒れるかパニックを起こすかしているんだろうと思う。
川を渡るとき。燦々と降り注ぐ陽光に輝く川面が見える。一面鏡のようにきらきらと輝いている。本当に美しい。そして、淡々と流れ続ける。この川のようになれたら、と、いつも思う。

さぁ今日も一日が始まる。私はホームに飛び降り、階段を駆け上がる。


2010年07月19日(月) 
娘の蹴りで目が覚める。勢いよく肩に一撃。見ると、やはり回転して、私に向けて足をおっぽり出している。私はひとつ大きく溜息をついて肩をさする。午前一時。この時間から目が覚めてしまうと、後がなかなか眠れない。
しばらく寝床でごろごろしていたが、眠気が一向にやって来ないので私は仕方なく起き上がる。PCの電源を入れ、メールのチェック。目的の人からメールが届いている。このメールを待っていた。
早速作業に入る。もうすでに送り届けたファイルの詳細をまずはテキストに直す作業。私は、写真展の際、「あの場所から」以外、たいてい漢字三文字ほどでタイトルをつける。その読み方をよく尋ねられるのだが、ルビはあえてつけない。漢字から立ち現れる雰囲気を、その人その人が感じてくれればいいなと思っている。
幻霧景、鎮風景、創始景、鎮歌景、視線/私線、虚影、樹映…。テキストにしながら、当時のことをそれぞれ思い出す。それぞれがそれぞれ、思い出深い。台風直後の森をぐしょ濡れになりながら走り回ったこともあった、砂吹き上げる丘で砂に足を取られながら駆け回ったこともあった、戦没者墓地でしんしんと佇んだこともあった。こうして見ると、なんだかすべてが懐かしく思えてくるから不思議だ。
そもそも私が写真を始めたのはどうしてだったか。私はそれまで写真が大嫌いだった。家族で写真に写るなんてとんでもなかったし、友達同士で写真に写るのも、極力避けていた。写真というそのものが、はっきりいって嫌いだった。
それが、或る時、本屋で、と或る作家の写真集を広げ、一変した。あぁこの画面だ、この粒子だ、私はそれが、自分の表現するものの上に欲しい。そう思った。当時私は、自分の肉体が自分とかけ離れているように感じられており。この手も、この足も、自分のもののはずなのに自分のものではないような、そんな感じに囚われており。だから確かめたかった。この手は、この足は、一体何者なのか。それを、何かで捉えたかった。絵は違う、自分の想像で描けてしまう、じゃぁ何だ、ありのままにそのものを写し出す写真しか、術はなかった。
写真に詳しい友人に、とにかく尋ねて回った。この画面を、この粒子を写真に出すには、一体何が必要なのか、と。ひたすら尋ねて回った。そんな私に呆れ果てた友人が、このフィルムやこうした現像液を使ってやれば、これに近いものが出ると思うよ、と教えてくれた。早速私は実行に移した。現像の仕方も何も知らないのに、とにかく液を作り、暗室を作り、引き伸ばし機を買い込んで、風呂場に立て篭もった。
一枚のネガから、何種類もの写真が生まれることを、その時初めて知った。そのあまりの面白さに、私はどんどん惹かれていった。同時にひたすら、写真機をいじくりまわした。真っ暗な部屋、明かりはデスクライト一つきり、そんな中、自分の手足を撮りまくった。そうして生まれたのが、「腔」というシリーズだった。
「腔」となった自分の手足を見て、私はようやく安堵した。あぁ、ばらばらでもいいのだ、私とかけ離れている、私のものでないと思えたっていいのだ、それでもこの手やこの足はここにこうして在るのだ、と、実感できた。ようやく、自分のばらばらだった手足が、ひとつになった気がした。
それから、自分がこうと思えるものにはカメラを向けるようになった。
でも。
いつも思っていた。この私の呟きや叫びは、果たして誰かに届くんだろうか、と。
だから今回、海を越えた向こうの国の、それまで名前も何も知らなかった人から、声を掛けられたとき、本当に驚いた。こんなことがあるのか、と、呆然とした。
自分に今何ができるのか、正直分からない。分からないが、精一杯その人へ向けて、応えたいと思う。自分に今できることを、精一杯。
作業をしていると、本当にあっという間に朝が来る。気づけば外は明るくなっており。窓を思い切り開けると、風がぶわっと一気に滑り込んでくる。私は髪を後ろ一つに結わいて、外に出る。明るい空。本当に明るい。水色の空が一面。
ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。デージーとラヴェンダーの、絡まった枝葉を私は今朝もまた解いてゆく。枝がこすれて香るラヴェンダーの匂いは、一瞬私の鼻をかすめ、そしてすぐに風に攫われてゆく。デージーは飽くことなく花をつけ続けている。こんな小さな、針金のように細い体の何処に、こんな膨大なエネルギーを隠しているのだろう。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹に三つの蕾。ぽん、ぽん、ぽん、と、三ついっぺんに一所から出ている。もう微かに桃色の片鱗が見えている。三つもいっぺんに花をつけて、大丈夫なんだろうか。ちょっと心配。でも、嬉しい。
花芽をつけているパスカリ。花がだいぶ綻んできているのだが、どうも花びらが、傷ついているようだ。茶色い傷がところどころに見受けられる。可哀相に。あの強い風に晒されて、あちこちに擦れたのだろう。それでも咲こうとしてくれているのだから、私はただ、信じて待つしかない。
パスカリの隣に挿した、友人から頂いた薔薇の枝。今三本残っている。枝も今のところ元気だ。さて、この三本、この先どうなっていくのだろう。根を張ってくれるだろうか。葉を出してくれるだろうか。私はどきどきしながらそれを見つめる。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。ようやく、新芽の塊らしい、その気配が見つかる。これが萌え出てくれれば。久しぶりに彼らの新芽が見られるのだけれども。まだまだ硬いその塊を、私はじっと見つめる。どうか萌え出てくれますように。
ベビーロマンティカはもう、あっちこっちから新芽を吹き出させている。数え切れない。しゃらしゃらとおしゃべりするその葉擦れの音に、私はしばし耳を傾ける。今日も晴れよ、きれいな晴れよ、真っ青よ、と唄うような声が聴こえてくるのは私の気のせいか。
ミミエデンも、無事新芽を開いた。少し暗めの紅色。今まさに葉全体がその色だ。でも、粉も何も噴いていない、歪んでもいない。あぁよかった、これなら健康な、元気な葉だ。私はほっとする。よく見ると、足元の方からも新芽を噴き出させており。大丈夫、これならまだまだいける。私はミミエデンを見ながら、ちょっと微笑んでしまう。
午後、実家に電話を掛ける。すると、母が、何か言いづらそうにもごもごしている。どうしたの、何かあったのね、と尋ねると。娘が自分の貯金箱から勝手にお金をいくらか持ち出したのだという。約束として、持ち出すときは必ず出納帳に書くことになっているのが、今回は勝手に持ち出して、一言もなかったのだ、という。以前にも一度そういうことがあって、問うてみたら、「ママは全然気づかないから」と娘が言っていたということを、母の言葉から知る。私はそれを聴いて、かちん、とくるものを感じる。娘め、私が全く気づいていないと思ったら大間違いぞよ、母は気づいていても何も言わないだけなんだからな、と、心の中、ひとりごちる。母にとりあえず謝罪し、娘にも一言言っておくことを告げる。
塾のテストが終わって早速電話を掛けてきた娘に、私は声を掛ける。ねぇ、お金、勝手に持ってった? …。何かお金を使いたい用事があったの? …。黙ってちゃ分からないから、ママに教えて。…明日映画に行く約束してるでしょ。うん。だからその時に、アイスとか買いたいと思って。あぁそうか、それなら、ちゃんと出納帳に書いて、ばぁばにも一言断って、それで堂々とお金を持って帰ってくればいいのに。…ごめんなさい。いや、ママに謝ってもしょうがないよ、ばぁばに謝らないと。うん、分かった。
しばらくして、メールが届く。「もう二度としないから、ごめんなさい。ばぁばには今電話して謝った。返事ください」。だから私は返事する。「そうだね、もう二度とやらないって約束だよ。じゃ、気をつけて帰ってきてね」。
とりあえず、今回はこれでさらっと済ませよう。そしてもう一度あった時には。がつんと言わなければなるまい。
そういえば。昔、小学生の頃、弟と一緒に、母の財布からお金を抜き取ったことが何度かあった。500円のお小遣いじゃ足りなくて、どうしても買いたい本があって、私たちはそんなことを何度か繰り返したっけ。誰もが一度は通る道なのかもしれない。それを思うと、ちょっと笑える。
私は、娘を叱るとき、できるかぎり、言うことを言ったら、後を引かないようにしようと決めている。ぐじぐじぐじぐじやられたら、せっかくごめんなさいという気持ちになっても、だんだん反発する気持ちの方が大きくなるものだ、と思うからだ。それに、うちは母子家庭、私が怒り続けていたら、彼女の逃げ場がなくなる。さっと怒って、さっと引く。それが、うちのルールの一つ。

突然玄関口から娘の声がする。ママ、ママ、来て! 何? 花火だよ、花火! ほら! 私が玄関を出ると、真正面のビルの脇に、港で打ち上げているのだろう花火が見えた。きれいだねぇ。うん、きれいだねぇ。ちょうど小学校の校庭では夏祭りが行なわれており。盆踊りに興じる人たちの外で、多くの人が花火に見入っている。
ママ、さっき盆踊りしたけどさ。うん。私、盆踊り、下手かも。ははは、なんで? だって、右と左、手出す場所、つい間違えちゃうんだもん。いいじゃん、間違えたってどうってことないよ、楽しく踊るのが盆踊りってもんだよ。ふーん。でも恥ずかしいよね。ははは。それもまた一興。へへへ。

「「怒り」という言葉はその感情そのものよりも大きな意味を持っているのです。実際にこれを発見するためには、感情と命名の間に間隙がなければなりません。それがこの問題の一面です。
もし私がある感情に名前を付けなければ、すなわち、もし思考が単に言葉のためだけに働いていなければ、言いかえれば、もし私が言葉やイメージやシンボルなどの観点から考えなければ―――私たちはたいていそうしているのですが―――そのときどういうことが起こるでしょうか。確かにその時、精神は単なる観察者ではありません。精神が言葉やイメージやシンボルの観点に立って考えていないとき、思考(それは言葉です)とは別の「思考する人」は存在しないのです。その時精神は静寂になっているのではないでしょうか。それも強制されてそうなったのではなく、ただ静かなのです。精神が本当に静まったとき、出てきた感情は直ちに処理することができるのです。私たちが感情に名前を与え、それによってその感情を強めてしまったときにのみ、その感情は持続するのです。そして感情はその中心に蓄えられて、今度はその感情を強化したり、あるいは伝達するために、この中心からさらに多くのレッテルを与えてしまうのです」

二人で玄関を出、階段を競争で駆け下りる。そして自転車に跨り、勢いよく走り出す。
坂道を下り、信号を渡って公園へ。鬱蒼とした森の中に、二人で分け入ってゆく。池の端に立ち、二人で空を見上げると、真っ青な空がきらきらと輝いているのが見える。ママ、すごいね、今日の空。うん、もう夏の空だね。夏真っ盛り! ははは、そうだね。
池の向こう側に、猫が一匹、休んでいる。私たちに気づいているのかいないのか、でーんと腹を出して横になっている。昔この公園のすぐ脇に、猫屋敷があって、そこのおばあさんのところにはごまんと猫が出入りしていた。もうおばあさんはこの町にはいない。猫屋敷も閉じられたままだ。この猫たちは、今どうやって暮らしているんだろう。
私たちは猫を起こさないように、そっと自転車を引いて公園を出る。そして再び走り出す。大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。
ママ、今日はこっち、風が緩いね。そうだね、緩いね。眩しすぎて上向けないよ。ははは。それだけ陽射しが強いってことだ。今日一日外にいたら、それだけで真っ黒になりそうだね。
並んで走る自転車二つ。まだ通りには殆ど人はいない。私たちは思うさま、自転車で辺りを走り回る。
辿り着いた港で一休み。通りはあんなに人気がなかったけれど、こちらはもう、祝日であるにも関わらず、あちこちで船が動き始めている。そして波。ざざん、ざざんと打ち寄せる波の間から、今、一匹の魚がぱーんと飛び上がった。銀色の腹がきらり、陽光に輝く。
さぁ、今日も一日が始まる。私たちはさらにまっすぐ、自転車を走らせる。


2010年07月18日(日) 
回し車の音がしている。から、からららら。あれは軽い音だから、ココアだろうか。私は横になったまま、しばらくその音に耳を傾けている。からら、から、からららら。リズミカルで軽い音。私は起き上がり、籠の前にしゃがみこむ。おはようココア。私は声を掛ける。声を掛けた途端、ココアはちょこちょことお尻を振って私の方に歩いてくる。ちょうどいい、と私はココアを抱き上げる。さぁ目薬。と目薬を出した途端、きっと声を上げて私の指を噛んでくる。なるほど、目薬が嫌らしい。嫌と分かれば余計に注してやりたくなるというもの。ココアァ、お目々よくしなくっちゃねぇ、と言いながら、上瞼をひっぱり上げ、目薬をぴょっと注す。ココアも馴れたもので、というか、それが本能なのかもしれないが、瞼を開けたり閉じたりし、目薬も零れることなく目の中に吸い込まれてゆく。はーい、よくできました、えらいえらい。私は思わず声を掛ける。毎朝娘がやっていること、娘が留守の時は私がやらなければならない。噛まれたのは痛かったが、まぁそのくらい、よしとしよう。
窓を開け、外に出る。すかんと抜けた青空。あぁやはり夏なんだ、と、私は空をじっと見上げる。ついこの間まであった鼠色の雲は、一体何処に消えたんだろう。今空に在るのは、さっと筆で描いたような白い髭のような雲ひとつきり。そういえば昨日は、一度もテレビを見なかった。仕事にかまけて、ニュースひとつも聴かなかった。雨の災害はどうなっているんだろう。また新たに行方不明者が出ているんだろうか。
風は微風。ちょうどいい具合に流れている。街路樹の緑はさやさやと小さく揺れるだけで、それは囁いているかのようで。何を囁いているんだろう。彼らが興味を持つものって、どんなものなんだろう。
私はしゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。昨日の夕方の風で絡まったのだろうデージーとラヴェンダーを、私は今朝もひとつずつ解いてゆく。デージーは髭のような手足をばたばたさせ、ラヴェンダーはラヴェンダーで水母のように長い手足をあちこちに伸ばし。この鉢はまるで小さなジャングルみたいだ、と思う。
その隣に置いたアメリカンブルーの鉢。今朝ひとつ、また花が開いた。真っ青な花。染み入るような蒼。私はこの色が大好きだ。見つめていると、何処か深い水の底に沈んでゆくような気持ちにさせられる。そうすると、いつか見たエメラルドブルーの水中の光景が重なり合って、私の瞼の奥深くに映し出される。私の目全体が、青色の中に沈みこむ、そんな感じ。
パスカリの花芽をつけている方は。風にゆらゆらと花芽を揺らしている。今のところ花芽は粉を噴くこともなく、無事に膨らみ続けている。さぁ、いつ頃咲いてくれるんだろう。楽しみで楽しみで仕方がない。
と、その時、はたと気づく。桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹に、三つも蕾が生まれている。一体いつこの蕾は生まれ出たんだろう。全く今日まで気づかなかった。私は思わず声を上げる。そうか、このすぐ隣に新たに挿した枝葉のせいで、そちらにばかり気が行っていて、こちらに目が行かなかったんだ、と気づく。それにしても。三つも。小さな小さな蕾三つ。嬉しい。私は思わず樹に向かって、ありがとう、と声を掛ける。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。私はじっと、その樹たちを見つめる。ふと、ホワイトクリスマスの枝と葉の間に、小さな塊を見つける。もしかしたら、これは新芽の気配かもしれない。もしかしたら。私はどきどきする。ようやく新芽を出す気持ちになってくれたか、と思うと、嬉しくて仕方がない。よかった、ちゃんと生きていた。立ち枯れることなく生きていた。それが分かっただけでも、とてもとても嬉しい。
ベビーロマンティカは、もう全身あちらこちらから新芽を吹き出させており。萌黄色の、柔らかな葉が、あっちこっちで揺れている。そしてミミエデンも。紅く紅く染まった新芽を、ぶわっと噴き出させて、今、風に揺れている。
挿し木だけを集めた小さなプランターの中、気になっている枝は、変化が見られない。ちょこっと新芽を出させた、その時点で止まっている。このまま枯れてしまうのでは、と気が気じゃない。どうかもうちょっとでも葉を広げてくれますよう。祈るように思う。
ふと顔を上げたら金魚と目が合った。はいはい、と言いながら私は餌を振り入れる。大きな尾鰭がふわりと動いて、一度沈んでから浮かび上がり、餌をつつく金魚。流線型のその体は、何処までも滑らかに動いてゆく。
部屋に戻り、お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶をいつものように入れるのだが、それだけじゃ足りず。今日は何となく、リンゴ酢に蜂蜜を垂らして飲みたい気分で。それも合わせて作ることにする。
机に座り、昨日の作業の続きに取り掛かる。「あの場所から」の、これまでの作品から、何点かずつピックアップし、また、彼女たちが寄せてくれた手記も併せて、ひとつにまとめるという作業。こうやって改めて見てみると、このシリーズを始めてすでに四年という時間が経過していることに気づく。四年。あっという間といえばあっという間。でも。同時に、それはとてつもなく長い時間、でもある。
彼女たちの手記を改めて読んでいて、私は胸がぎゅうぎゅう鷲掴みにされるような気分に陥る。これを書くのに、彼女たちはどれほどの思いをしたんだろう。ここまで書くのに、どれほどの思いを噛んできたのだろう。そう思うと、たまらない思いにさせられる。
赤裸々に、とも違う。伝わるよう、伝わってくれますよう、祈るような思いがそこに込められている。読み手への、祈りが、そこにこれでもかというほど詰まっている。
毎年そうやって私の手元に集まってくる幾つかの手記。それが、どれほど重たいものであるのかを、改めて思う。

月のものがやってくるたび、近頃思うのは、後どのくらいの間、これとのおつきあいがあるのかなぁということ。私ももういい年だ。私は始まりが早かったから、終わるのももしかしたら早いのかなぁとか、終わったらどうなるんだろう、とか、あれこれ考える。今すでに、私は眩暈やら頭痛やら、そういったものは日常茶飯事の出来事で、だから、たとえば更年期障害がやって来たとき、それだと気づくことがあるんだろうか、とか。母は、眩暈や頭痛、冷や汗などがこれでもかというほど酷くやってきた、と言っていた。その母の体質を私が受け継いでいるのなら。もしかしたら私は、それが更年期障害だと気づくこともなく、あぁいつもの眩暈ね、とか、あぁいつもの頭痛ね、と、過ごしてしまうのかしら。どうなんだろう。女の体というのは、本当に、よく分からない。

ねぇママ、ママには嫌いな人っている? ん? いるよ。え、いるんだ。うん、いるよ。ママは嫌いな人にどう接するの? んー、極力接しないようにする。どうしても接しなくちゃならないときは? 何食わぬ顔をして、普通に接する。んー、私、それができないんだよね。あなたにも嫌いな人がいるのね。そりゃいるよ。いるけど。なんか、ママが言うみたいに、普通に接するってことはできない。そうだねぇ、ママがあなたくらいのとき、そういうことが出来たかって言えば、出来なかったよ。どのくらいになったらできるようになるの? 大人って呼ばれるようになる頃かなぁ。じゃぁまだまだ先じゃん! だめじゃん! だめって、何がだめなの? なんかさ、この時は嫌いで、でも別の時は嫌いってわけでもなくて、って相手、いない? あぁそういうのもあるかもしれないね。それで? そういう人にさ、普通に接するっていうのが、私、できないんだよね。嫌なときは嫌、いいときはいい、みたいに、違う態度になっちゃう。うんうん。でも友達って、たくさんいた方がいいんでしょ? え、そうなの? え、違うの? ママは、別にたくさんいればいいってわけじゃないと思うけど。だって学校とかでは、たくさん友達作りましょうって言うじゃん。そうだね、確かにそうだ。でも、たくさん知り合いがいるだけで、本音で語り合える友達が一人もいないんじゃ、意味ないじゃん。んーーー。ママはね、心の中で、ちゃんと話ができる相手は友達、そうじゃない相手は知り合い、みたいに分けてるんだ。へぇ、そうなの? 友達は大事にするけど、知り合いだったら、ある程度、みたいに。ママにとって友達と呼べる人が、大切な相手だからね。そういう相手をこそ、大事にする。そういう相手、いっぱいいるの? いっぱいはいないよ。数えるほどだよ。友達いっぱいいなくて寂しくないの? 別に寂しくないよ。本音で語り合える相手が一人でも二人でもいれば、それでもう十分だったりするよ。んーーー、そういうもんなのかぁ。ママの友達がね、昔、こんなことを言ってたことがある。生涯で、友達と呼べる相手なんて、本当は一人か二人なのかもしれない、って。自分はだから、たった一人か二人の友人をこそ、大切にしていきたい、って。一人か二人かっていうのは置いといても、友達なんて、本当は、そんなたくさんいればいいってものじゃないんだよ。あなたが、心を割って話ができる、信頼して任せられる相手、そいう相手のことこそを、友達って言うんじゃないの。んーー。なんか分かる。うん、分かる。相手をちゃんと見て、感じて、選んでいけばいいんだよ。そうやって、大切な人を一人ずつ、増やしていけば、それでいいんだよ。みーんなにいい顔するなんて、それはそれで、変だと思うよ。八方美人って言うんだよ、そういうの。ふーん、そっかぁ。

「あなたが判断を下すや否や、あなたは固定して動かなくなってしまいます。そこで「好き」とか「嫌い」という言葉が重要になるのです。しかしあなたが名前を付けないとき、どういうことになるでしょうか。ちょうどあなたが花に名前を付けないとき、その花をじっと見なければならないように、あなたはある一つの感情や気持ちをより直接的に見るのです。そしてその感情に対して全く違った関係が生まれるのです。あなたは対象を新たに見なければならなくなります。あなたが人間の集団に命名しなければ、その人間を集団として扱うのではなく、一人一人の顔を見なければなりません。それゆえあなたはきわだって機敏になり、詳細に観察し、より多くのことを理解することになるのです。あなたはより一層深い同情と愛情を持つのです。しかしもしそれを集団として取り扱うなら、同情や愛情は消えてしまうのです。
もしあなたがレッテルをはらなければ、あなたは感情が生じるたびにその感情を一つ一つていねいに見つめなければなりません」「レッテルをはったとき、私たちはたいていその感情を強めているのです。その感情と命名は同時なのです。もし命名と感情の間に間隙があれば、その感情が命名と違ったものかどうか発見することができるでしょう。そのときあなたは命名せずにその感情を処理することができるのです」

玄関を出ようと扉に触れた途端、私は急いで手を離す。扉が燃えるように熱い。ノブに手をかけて、ゆっくり扉を開けると。そこは光の洪水で。東から伸びてくる陽光が、これでもかというほどこの辺りに降り注いでおり。光の当たっていないところなど、何処にもないかと思えるほどに、その光は平等に降り注ぎ。
私は階段を駆け下り、自転車に跨る。坂を下り、信号を渡って公園へ。こちら側から見上げると、それはもはや緑の森ではなく、影の森のようで。黒々とした姿が見上げるほどの高さまで茂っている。その森の中に入って、私は池の端に立つ。そこにだけ、やわらかな陽射しがさんさんと降り注いでおり。池はちょうどきらきらと、陽光を受けて輝いているのだった。池の向こう側には今朝も猫が二匹。彼らには今日の陽射しは強すぎるんだろうか。影になったところに、でーんと横たわり、うつらうつらしている。
私は再び走り出し、大通りを渡って、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木の向こうには、澄み渡る空が広がっており。何処までも何処までも広がっており。
さぁ、今日も一日が始まる。私は思い切り、ペダルを漕ぐ足に力を込める。


2010年07月17日(土) 
久しぶりにきれいさっぱり眠ることができた。起き上がるのも全然苦ではない。すんなり起き上がり、窓を開け、外に出る。ぴたりと風が止んでいる。街路樹の緑もさやとも揺れず。ぴくりとも動かない街景が目の前に在った。動いているのは私だけ。そんな気がして空を見上げる。空は美しい水色。雲が点在しているだけで、これまでのように空を覆うような雲は何処にも見当たらない。あぁ、夏だ。理由もなくそう思った。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを見やる。昨日の風で絡み合ったラヴェンダーとデージーとを、今朝も私はひとつひとつ解いてやる。そういえば、デージーの花の散るところをまだ見たことがない。花が終わるとき、デージーはどんなふうに散るのだろう。そろそろ終わりになる花もあるのだろうから、今度ゆっくり観察しようと思う。
ラヴェンダーは枝葉をあちこちに伸ばしており。枯れてしまった二本は本当に残念だったけれど。残りの四本がこうして頑張ってくれている。それだけでも、嬉しい。
パスカリの、沈黙したままの一本。今朝もあちこち見回してみるのだけれども、やはり彼女は沈黙を続けており。立ち枯れてしまったのかと思うほどの長い沈黙だ。少し心配になる。大丈夫だろうか。でもそれを言うと、マリリン・モンローとホワイトクリスマスも沈黙が長い。私は改めて、彼らを凝視する。何処にも新芽の気配はなく。こちらもどうしたのだろう。何か足りないのか。でも何が足りないんだろう。水も遣っている、液肥も施した。あと何が。分からない。
パスカリの、花芽をつけている方は。細い枝の先に花芽をくっつけて、その花芽は徐々に徐々にだけれど、確実に大きく膨らんでいっている。今朝見ると、だいぶ白い花弁の色が、見えるほどになってきた。このまま膨らんで、或る日突然ぽっと咲く。その日が楽しみだ。
ベビーロマンティカは新芽をあちこちから吹き出させており。さわさわとおしゃべりをしているようなその樹。私は耳を澄ます。澄ましていると、本当にあれやこれや、おしゃべりしている声が聴こえてきそうな気がする。
ミミエデンも、二箇所だけでなく三箇所、四箇所から、新芽を芽吹かせ始めた。赤い赤い新芽。嬉しい新芽。見ているだけでどきどきする。このまま無事に開いてくれるといい。病気に冒されることもなく。
挿し木だけを集めたプランターの中。あちこちから新芽が湧き出ている。でも、一本、角っこの方に挿してある枝が、新芽をちょこっと覗かせただけで、そのまま止まっている。嫌な予感がする。このまま立ち枯れてしまうんじゃないか。そんな予感。いやだ、もうちょっと開いてほしい。葉を広げて欲しい、ここまで頑張ったのだから。私は祈るように思う。
部屋に戻り、お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶の香りがふわんと、私の鼻腔をくすぐる。そのお茶を入れたマグカップを持って机へ。開け放した窓の横、椅子に座り、煙草に一本火をつける。
昨日は授業の日だった。親しくしている友人が、なかなか来ない。いつもなら、私の次には教室に入ってくるのに。どうしたのだろう。もしかしたら。嫌な予感がした。そして彼女は時間ぎりぎりに、俯いてやって来た。
午前中の授業が終わって、私は彼女に小さく声を掛ける。するとやっぱり、思ったとおり、彼女は午後の授業に出席するかどうかで悩んでいるところだった。
喫茶店で二人で隣り合って座る。そして、私は彼女の言葉に耳を傾ける。朝、どうしても行きたくない気持ちが沸きあがって来てしまって、どうしようもなかったの。あなたにメールを打とうかとも思ったんだけど、送信できなくて、そのままになってしまった。何だか思うの、私はまだこの勉強をする時期じゃなかったのかもしれないって。防衛機制をこの前やったでしょう? あれをやって、ますます、自分はここに在るべきじゃないんじゃないかって思えてしまって。どうしていいか分からなくなってしまった。
健常者とそうじゃない人とって、そんなにくっきり分けられるものなのかしら? みんなは健常者で、病気を患ったことのある私なんかはじゃぁ、健常者じゃないのかしら? でも何故? どこで区分けされるの? 私から見たら、確かに私は心の病気を患ったことがあるけれど、それは心が風邪を引いたようなもので。そういうもので。だから、何も、何々病だから、って区分けされるような、特別なものじゃなくて。でも、クラスのみんなから見ると、やっぱりそれは特別な、区分けするようなもので。何だかそういうこと考えていったら、何が何だか分からなくなって来てしまったの。
そんな、区分けをするような人に、私は診てもらいたくないって。そういう気持ちが湧き出てきてしまって。でも、そういう人たちがテストに受かって、カウンセラーになって、働くようになっていくわけで。その現実に、どんどんついていけなくなる自分がいて。
そうしたら、傾聴の授業にも、本当に出たくなくなってきて。でも私、今まで、何かを始めたら途中で投げ出すってしたことがなくて。だから、途中で投げ出そうとしている自分が許せなくて。たまらなくて。一体自分は、どうしたいのか、全然分からなくなってきてしまって。
私の旦那とか、実家の家族とかはね、私がこの心理カウンセラーの勉強をすることに、多分、反対なの。理由はよく分からないけれど、よく思っていないの。他のことには、協力的なんだけれど、この勉強に関してだけは。別なの。
私、どんどん、自分が外れていくように思えて。でももし今日も出席しなかったら、もうこのクラスに出席すること、無理になっちゃうんじゃないかとも思うの。どんどんどんどん萎縮していって、だめになっていく。そんな気がする。でも、どうしたらいいのか、分からないの。もうみんなに会いたくない、囲まれたくない、いっそ全然別の人たちの間でならできるかも、ってことさえ思うの。別にみんなが嫌いなわけじゃなくて。そうじゃなくて。ついていけないの。みんなのテンポに。みんなのあの、方向性に。
私は彼女の言葉を聴きながら、時折相槌を打ったり、短い言葉を挟んだりしていた。私が言えることなど、殆ど何もない気がした。何故なら、私も、似通った思いを抱いているからだ。私も、場合によっては、今の彼女のような気持ちに、陥っていたんじゃないかと思えるからだ。
ねぇ、なんで朝、メール、送信しなかったの? だって、先週、出ようねって約束したのに、自分から約束したのに、出たくないだなんて言えなくて。だから送信できなかった。そういう時こそ、メールくれたらいいのに。出たくない自分がいるんだよーって言ってくれたらいいんだよ。そうなのかな。うん、そうだよ。私、何か言える立場なんかじゃないけれど、でもね、無理して出席することもないし、それに、あなたは自分をもっと許してあげていいと思うよ、何も、ひとつのことを途中で投げ出すことになったって、一度それから離れることも、ひとつの勇気だと私は思う。そう、なのかな。どっちにしてもね、ひとつの勇気だと思うよ。
私、殆ど知らない人の間なら、やれるかな。もしそう思うなら、他の時間帯に振り替えて受けてみたっていいじゃない。そうか。それならやれるかな。でも、なんかそれすると、自分が負けたみたいにやっぱり思えちゃう。ははは。負けてなんかないよ。選択する権利は、自由は、自分にあるのだから、負けなんかじゃないよ。
…私、今日、出てみようかな。ん? そうだよね、あなたもいるし、出てみたら何とかなるかもしれないし。だめでもともとだもんね、出てみようかな。そうする? うん。じゃぁ一緒に行こう。
そうして私たちは、午後の授業に一緒に出席した。授業を終えて、立ち上がった時、彼女の頬は少し、紅潮していた。やり遂げた、という気持ちの現れだったんだろうと思う。私はそんな彼女を、誇らしく見つめた。

ねぇママ、ココアの目、これでよくなってるのかなぁ。悪くはなってないと思うよ。寝起きがね、やっぱりまだ、目の大きさがずいぶん違うけれど。目が覚めてくると、だいぶ目の大きさが揃ってきたし。あの赤い染みみたいなのはもうすっかりなくなったし。そっかな、大丈夫かな。今度病院行くまで、ちゃんと目薬注し続けてあげれば、先生がまた、ちゃんとやってくれるよ。うん。
ねぇママ、私が病気になったことってあるの? ん? あるよ。小さい頃、おなか壊して、すんごい臭いうんちになって、ママ、びっくりしたことある。臭いうんち? そう、とてつもない臭いうんち。おなかが壊れているから、そういううんちになっちゃうの。それでどうした? 病院連れて行って、お薬もらって、それで治ったよ。他には? あぁ、水疱瘡があったね。でもあなたは、思ったより高熱が出るわけでもなく、水疱瘡もあんまり出るわけでなく、軽くて終わっちゃったから。ママは楽だった。ははは。なーんだ、ママは私が元気なお陰で楽してるんじゃん! そうだね、そういうことになる。あなたが元気だからこそ、今の二人の生活が成り立ってるって言ってもいいかもしれないね。じゃ、私様々ってことだね! ははは。そういうことかな。

ママァ、あのさ。なぁに? クラスでさ、みんなで委員決めたんだけどさ。うん。私、また陰口叩かれた。どういうふうに? 私が立候補したら、SちゃんとかAちゃんとかが、教室の後ろの方に集まって、こっち見て、ぐちゃぐちゃ言ってた。そっかぁ、でも、それ、あなたのこと言ってたかどうかは分からないでしょう? いや、言ってた。こっち見て、ちらちら見て、指差したりしてた。そっかぁ。いやだねぇ、そういうの。どうしてそういうことできるのかな、みんな。されたらいやなこと、わかんないのかな。自分がされたら嫌だってことを、その時は考えていないのかもしれないね。どうしてそんなことできるのかな。相手が傷つかないとでも思ってるのかな。うーん、傷つけたくてやってるのかもしれないね。傷つけて何が面白いの? 何が面白いのかはママには分からない、ママはそういうことするの嫌いだから。でも、そういうことをいっつもする人たちにとっては、そういうことをして相手を傷つけるのが、面白いのかもしれない。…じゃ、それで傷ついてたら、ばかみたいってこと? うーん、そうは言わないけれども。ばかみたいだね、それって。思惑通りってことでしょ? まぁそうなるかな。私、やだ。ん? 私、そんな思惑通りになるの、やだ。傷つくの、やめた。そっか。そう思うなら、凛と背筋伸ばして、きっとして立っていてご覧。うん、そうする。それはそれできついことだけどさ、自分がそうと思うなら、そうすればいい。うん、そうする。思惑通りになるって負けるみたいで嫌だ。勝ち負けは良くわかんないけど。でも、自分がこうするって思うことを、してみるのがいい。と、ママは思う。うん。負けない。

月曜日は映画見に行くんだよ、絶対だよ。分かった分かった、その分週末勉強頑張ってきてね。うん、分かった! じゃぁね、それじゃぁね! 手を振って別れる。
娘がバスに乗るのを見送って、私は自転車に跨る。坂を下り、信号を渡って公園へ。公園は、さんざめく陽光を全身で受け、きらきらと輝いている。公園全体が、光の玉のようだ。緑のあちこちで、光がぱちぱち弾けている。池の端に立つと、池もきらきらと輝き。向こう岸に猫が二匹。茶ぶちとトラ猫。二人ともでーんと座って、何処かを眺めている。
私は再び自転車に跨り、大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木の向こうから、陽光が燦々と降り注いでくる。裸眼では眩しくて、私は目を細める。夏はサングラスが必要な季節って、本当にそうだ、と思った。でも私はサングラスが酷く似合わない。残念ながら。
通りを真っ直ぐ進み、モミジフウの脇を通って、海へ。ざん、ざんと打ち寄せる波は白く砕け。濃紺色の海が、延々と広がっている。忙しげに港の中を行き交う巡視船。その間をゆうらゆぅらと飛ぶ鴎。
さぁ、今日も一日が始まる。私はくるりと向きを変え、駅の方へと走り出す。


2010年07月16日(金) 
いつの間に眠ってしまったんだろう。覚えていない。気づくと二十三時。娘はでーんとおなかを出して眠っている。電気はつけっぱなし。ということはやはり、私が寝るつもりなく横になって眠ってしまったということか。珍しいこともあるものだ。私は起き上がり、窓を閉め、灯りも消して、再び横になる。
しかし、一旦目が覚めてしまったわけで。今度は目が冴えてちっとも眠気がやってこない。娘と久しぶりに一緒に風呂に入り、上がってきてから台所を片付け終えたのが午後八時過ぎ。その後に多分私は横になったということ。ということは、一日分、もうすっかり眠ってしまったというわけで。眠気が来ないのも当たり前か。私は溜息をつく。
ちょっと迷ったが、再び起き上がり、風呂場を暗室に変えることにする。小さな窓ひとつあるきりだから、そこに暗幕を張ればもうこの時間なら大丈夫。あとは液を作って引き伸ばし機を用意するだけ。
今年の「あの場所から」のプリントを再度試みることにする。今ひとつ、まだ自分にぴんと来ないものがあって、まだ納得していないのだ。百点近く撮った中から十五点にまで絞り込んだ。そこまではいい。しかし、そこからがまだ、こう、何と言うのだろう、がっしと自分の内側を掴んでくるようなものが、まだ得られていない。
焼きながら、ふと思い出す。夜明けを待って、スタートした撮影。思ったよりは冷え込んでいなかったとはいえ、それでも薄い白い服に着替えての撮影は寒かったろう。でも二人とも、何も言わずに着替え、動き始めてくれた。砂山を一気にのぼって欲しいと言えば、二人とも砂に足を取られながら、必死にのぼってくれた。今度は駆け下りてほしいと言えば、海に向かって一気に駆け下りていってくれた。本当に、二人には感謝している。
何だろう、天候が悪かったせいなんだろうか、画にメリハリがつかない。つけようと下手に焼き込むと、不自然さが際立つだけで、思った画にならない。これはどうしたものだろう。感度をいつもと変えて撮ってみたりしたのが、いけなかったんだろうか。普段の自分のネガとは、ちょっと違う感じがする。
でもそれは、私の違いだけでは、多分ないんだと思う。ここに写る二人の、心持が、去年と今年とでは大きく異なってきている、そのことも、影響しているんだと思う。
サバイバーとよく人は言う。サバイバーって言葉が、今ひとつ私には分からない。ぴんと来ない。素直に、生き残り、と言われる方がまだ分かる。生き残った、そう、確かに私たちは生き残った。でもそこには、血反吐に塗れた道があった、時間があった。
生き残るということを、自分の意志でしたというより、生き残ることをさせられた、というような感覚が強い時期もあった。そういう時期が長く長く在って、それからようやく、自ら、生き延びてきた、と言えるようになる。
こちらの彼女にも、あちらの彼女にも、それぞれに長い長い時間が在った。今完全に二人とも回復しているかといえば、どうなんだろう、一人は少なくとも、まだ道の途中だ。そういう私も、まだまだ道の途中。
それでも。
私たちは生きていて。今ここに在る。
そのことを、大事にしたいと思う。
一通り焼き終えて出てくると、もう空は白んでおり。いや、今日の空はちょっと違う、全体が水色だ。薄い水色。あぁ、雲がようやく少し途切れたのか、と、私は窓を開け、空を見上げる。今この時、自分の家にこうして眠っていられることに、感謝しよう。そう思う。
ベランダに出、辺りを見回す。風は昨日のように強くはなく。軽やかに流れてゆく。街路樹の緑もさやさやと、やさしく揺れている。朝焼けが強く強く光を放って、街全体を明るく照らしてゆく。あちこちのガラス窓が、光を反射させ、きらきらと輝いている。
私はラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。絡み合ったデージーとラヴェンダーとの枝葉をひとつずつ解いてゆく。ほろり、ほろり、解けるたび、ラヴェンダーの香りが私の鼻腔をくすぐる。デージーは細い細かな枝葉を、めいいっぱい広げており。花芽も次々生まれ出る。私が数えても、それが追いつかない程次々に。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、しんしんとそこに立っている。濃い緑色の葉が、風を受けて一瞬はらりと揺れる。まだ新芽の気配はなく。沈黙の時間を漂っているのだろうその二つの樹を、私はしばしじっと見つめる。
パスカリの花芽は風にゆらゆら揺れており。ぷっくり丸く膨らんできたその蕾は、僅かに下の花びらの色が現れてきた。真っ白のその色。私の大好きな、色。病に冒された葉は今のところ数えるほどで。それも粉を噴いているわけではなく歪んでいるだけなので、摘まずに残しておくことにする。
ベビーロマンティカはあちこちから新芽を噴き出させており。ぺちゃくちゃとおしゃべりを交わす枝葉。今朝もこの樹はとても賑やか。見ているだけでこちらの顔が綻んできてしまうのだから、この樹のエネルギーは実に強い。
ミミエデンも、二箇所から新芽を芽吹かせており。赤く染まった芽が、僅かに頭をのぞかせている。このまま葉を広げてくれたら。それも病葉じゃありませんよう。祈るように思う。
挿し木だけを集めた小さなプランターの中。新たに新芽を芽吹かせている枝。昨日と同じような位置で止まっている。大丈夫だろうか、ちゃんと葉を広げてくれるだろうか。ちょっと心配。
ふと水槽を見ると、金魚がこちらに向かって尾鰭を揺らしている。私ははいはいと言いながら、餌を振り入れる。一回潜って、それから顔を出して餌をつついと突付き始める金魚。そろそろ水槽を掃除してやらないと、私は心にメモをする。
部屋に入ると、ココアが扉の入り口に齧りついているところで。おはようココア、私は声を掛ける。そうして扉を開けて、手のひらに乗せてやる。私の目の高さのところにココアを持ってきて、彼女の様子をじっと見守る。左目は、ずいぶん調子がいいようだ。あの、ぺちゃんと潰れたような目だったのが、いつもの、くりんとした目に戻っている。目薬の威力ってすごいと改めて思う。そして、毎日ちゃんとそれをやっている娘にも、エライ、と一言心の中で声を掛ける。
母に電話をしたついでに、母にコンピューターのあれこれを説明する。それをインストールすれば、好きなときに孫とおしゃべりできるよ、と言うと、そんなことできるわけないじゃない、と反論される。いや、だから、できるんだってば、試しにインストールしてごらんよ。インストールなんてもの自体、私にはまだ分からないわよっと母。さて、と私も腰を落ち着け、結局一時間近くかけて、母にインストールの仕方を伝授する。試しにテレビ電話、やってみようか、と言って私がボタンを押すと、母の悲鳴が受話器から聴こえてくる。何これ、何かなってるわよ。その緑色のボタンの方を押してみて。緑? そう、緑。あ、映った。なんだ、あなたの映像なんてどうでもいいのよ。って言ったって、孫は今学校です。あ、そっか。無事に通話できるようになったらしい。一時間の電話代、今度返してもらおう。私は心の中、そんなことを思いながら笑ってみる。
母とこんなふうに、教えたり教わったりするのなんて、どのくらいぶりだろう。花のことはあれこれやりとりするけれど、それ以外のことでこんなやりとりをするのは、とても久しぶりのことなんじゃなかったか、と思う。そう、一度娘が赤ん坊の頃、酷くおなかを壊して、とてつもなく臭いうんちをし始めたことがあった。慌てて医学書みたいなものを広げても、訳が分からない。母におずおずと電話をすると、あぁそれはウィルスでしょ、病院行けばいっぺんで治るわよ、と笑われたっけ。あれ以来だと思う。
母とのやりとりも、父とのやりとりも、まだ私は緊張する。たかが電話一本、というけれど、そのたかが電話一本でさえ、私にはとてつもなく緊張する代物なのだ。また怒られやしないか、怒鳴られやしないか、電話を叩き切られやしないか、そういったすべてのことが、怖くてなかなか思うように電話さえできない。会いに行くことも、まだままならない。それでも。
昔よりずっと、できるようになったじゃないか、と私は心の中、呟いてみる。怒鳴る母や父の声、泣き喚く私の声、それらで部屋が充満するようなことは、もうなくなった。それだけでも、大きな変化なんじゃないか。
電話を切って、しばらくすると、コンピューターの画面に母からのメッセージが入る。
慣れるまで時間がかかると思うけれど、ありがとうね。
なんだかちょっと、私は涙ぐんでしまった。ありがとうね。その一言が、私の胸にちくり、刺さった。

ママ、生理来てる子、もう結構クラスにいるんだよね。そっかぁ。私、まだだよ。うん、別にまだでも大丈夫だよ。遅く来る方が得かもしれないし。なんで? ママもばぁばも、生理痛が酷かったから、多分あなたも生理痛持ちになると思うし。えーーー、何それ? 生理が来ると、頭痛くなったりおなか痛くなったりするの。えーー、やだ、それ、やだ。ははは。そんなこと言ってもしょうがない。当たり前のことだよ、生理痛なんて。なんか損する感じだなぁ。あぁ、それはあるね、ママもいつも、損してるなぁって思う。ママ、今も生理痛ってあるの? うん、あるね。最近は、生理の最中よりも、生理の前に、来る。え? 何それ? 生理の一週間くらい前になると、頭がふらふらしたり、痛くなったり、気持ち悪くなったりする。えーー、ますます損じゃん。ははは。まぁ、ばぁばもママも、そうやって生理とつきあってきたってことよ。ふーん。
それにしてもさ、あなた、お風呂の中でいっつもそんなふうにして遊んでるの? そうだよ。水中眼鏡して、潜って遊ぶわけ? うん! 楽しいよ。いや、楽しいのは分かるけど。だからいっつも、ぶくぶくぶくぶく、音がしてるんだ。あとは笛の音ね。あ、そう、お風呂の中でリコーダー吹くと、響いて気持ちいいんだよね。まぁね、それは分かるけど。八時過ぎたらやめてね。分かってるってー。

生姜茶を飲みながら、朝の仕事に取り掛かる。途中朝練のある娘を大声で起こし、さらに私は仕事を続ける。窓の外、今朝は雀の声が響いている。時折カーテンを揺らして、風が部屋に滑り込んでくる。気持ちのいい朝だ。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。娘は学校へ、私はバス停へ。
バスに乗って一瞬びっくりする。優先席二人分を、どーんと一人で占領しているおじさんがいる。シルバーのマニキュアを塗った指が、きらきら陽射しに光っている。模様のついた白いサングラスをかけて、今にも煙草をふかし出しそうな雰囲気だ。私に続いて、足の悪いおじいさんが乗ってきたのだが、全く席を譲る雰囲気がない。誰も何も言わない。
足の悪いおじいさんは結局、普通の、唯一空いていた席に座り。そのマニキュアのおじさんは、駅までずっと、鼻歌を歌いながら優先席を独占していた。私も、怖くて何も言えなかった。情けない。
バスを降り、燦々と降り注ぐ陽射しの中、川を渡る。橋の中ほどで立ち止まり、川を覗き込む。あれほどいた水母が、今朝はほとんどいない。不思議だ。何処へ行ってしまったんだろう。
それにしても。なんて明るい陽射し。空も澄み渡って。この空のずっとずっと向こう、どこかでは、雨がざんざん降っていて、今も災害に見舞われているかもしれないというのに。私は空を見上げながら、そんなことを思う。

さぁ、今日も一日が始まる。私は橋を渡り、さらに真っ直ぐ、歩き出す。


2010年07月15日(木) 
じめじめした夜気のおかげで、なかなか寝付かれず。半分眠りに落ちて、半分は起き上がっている、そんな具合で夜を過ごす。奇妙な夢を延々と見続けている、そんな感じ。今の主治医がひたすら黒板に向かい、ぶつぶつ呟いている。CさんとOとが部屋の隅の方で、エゴグラムを必死に描いている。AさんとMさんが向き合っている。そして私は一人、黒板をぼんやり眺めたり、窓の外を眺めたりしている。そんな映像が、淡々と、延々と、続いていた。窓の外といってもそれは暗闇で。何も見えないのだが。
起き上がり、窓を開ける。目の前には雲が延々と続いているのだが、南の空はぽっかりと口を開いていて、真っ青な空が広がっていた。それは本当に真っ青で。まっさらで。透明という言葉がそのまま当てはまりそうなほど澄んでいて。私はしばし、目を奪われる。
街路樹の緑はくわんくわんと揺れており。それは強い風で。窓を開け放していたら部屋中が風に満たされてしまいそうなくらいの強さで。私は髪を梳く暇もなく、後ろ一つに結わく。
足元にはアメリカンブルー。昨日ホームセンターの表で、九十八円で売っていたのを見つけた。一輪もう咲いており。それは空の色を凝縮させたような、蒼色。風にひらひらと揺れている。適当な土がなく、薔薇用の土を使ってしまったが、大丈夫だろうか。しばらく様子を見てみようと思う。
ラヴェンダーのプランターの中。ラヴェンダーとデージーが今朝もまた絡まりあっている。私はそれを、ひとつずつ解いてゆく。デージーの花は見かけよりずっと頑丈に茎にくっついているらしく、こうやって解いていても、一輪たりとて落ちることがない。茎同士が擦れ合うたび、ラヴェンダーの独特の匂いがする。でもそれはあっという間に風に流され消えていってしまう。なんだかちょっともったいない。
ステレオからはSecret GardenのSonaが流れ始めている。久しぶりにこの曲を聴くなぁと思う。一時期ひたすら繰り返し聴いていた曲のひとつだ。
パスカリの花芽も、くわんくわんと風に揺れている。細い茎の先についているから、見事に揺れる。でも、またひとまわり大きくなった。順調に大きくなってくれている蕾。なんだかとても嬉しくなる。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の新芽。ぴんと伸びて、きれいな葉をしている。病葉じゃなくて本当によかった。そして私は、それを見つめながら、頭の奥、別のことを考えている。
テレビで毎日毎日流れるニュース。大雨による災害。何人の人が行方不明で何人が死亡。そしてまた今朝も。私はそれを見つめながら思う。私はこのニュースをどこまで肌で感じているんだろう、と。私の住む町は何処か平和で。こんなニュースの傍ら、淡々と毎日が過ぎており。私と娘は無事で。今朝など南の空だけとはいえ青空を臨んでおり。昔友人が住んでいた町の名前がテロップで流れる。その瞬間はっとする。でも、今友人はもうそこにいるわけではなく。私のはっとした気持ちは、瞬間に萎んでゆく。濁流が轟々と流れ荒ぶ光景をテレビが映し出す。私はそれを見つめる。見つめるものの、多分、何処か他人事なのだ。他人事だから、こんなに淡々と見ていられるのだ。そんな自分の、酷薄さを、つくづくと感じる。そして憎みつつも、憎みきれない自分のそれに、唇を、噛む。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローが、そんな私の思いを見透かしたように、そこにじっと立って私を見つめ返している。所詮おまえはそこ止まりなのか、と、尋ねるようにそこに立っている。私は何も言い返せない。言い返せないまま、ただじっと、目の前を見つめている。
ベビーロマンティカは、次々新芽を芽吹かせており。まるで何事もなかったかのように、しゃらしゃらと笑い声を響かせながらそこに在る。大丈夫、みんなそんなものよ、自分のこと以外、そんな程度なのよ、と。嘲笑うのではなく、まさに、うふふと笑うかのように。私にはそれがまた、痛い。そうかもしれない、そうなのだろうけれども。でも。これでいいんだろうか、と、どこかで思うのだ。
ミミエデンも三箇所から新芽を芽吹かせ始めた。徐々に徐々に広がりゆくその新芽たち。嬉しい。とても嬉しい。でも。こんなにのほほんと、こんな当たり前の毎日を、私は過ごしていていいんだろうか、とも思うのだ。当たり前が当たり前じゃない日があった。当たり前が当たり前じゃなく、まさにひっくり返って、そこに在った。普通なんて言葉、何処にも見当たらなかった。たとえば世界の色。色鮮やかな、カラーの映像が普通に目に映るもの、それが普通。でも私には普通じゃなかった、すべてがすべて色を失って、モノクロ以外の映像はその時在り得なかった。普通って一体何だろう。当たり前って一体何だろう。
挿し木だけを集めたプランターの中、ようやっと芽吹いてきた新芽。このまま広がってくれたらいいと祈るように思う。同時に、その祈りの傍らで、私は結局私のためにしか祈ることができないのだろうか、と疑問符が浮かぶ。分かっている。どう足掻いたって、私が今何かすぐにできるわけじゃないってことも。私にできることなどたかが知れている。こうやって毎日をとにかく、ひとつひとつ、こなしてゆくことしか、できないということも。でも私のそうした毎日の向こうで、消えてゆく命があることも、やっぱり忘れることが、できない。
結局私は無力だ。誰かのためになんて、生きることはできない。私は私のことが、結局誰よりも一番にかわいくて、大事で。私の身の回りに在るものたちこそが大事で。それらが崩れることがないよう必死に祈るばかりで。私の祈りはだから、我儘だ。これでもかってほど我儘だ。分かってる。これでもかってほど。分かっている。
それでも、祈らずにはいられないのだ。この日常が日常で在り続けてくれますよう、この当たり前が明日もまた当たり前で在ってくれますよう、祈らずにはいられないのだ。私の大事な人たちが、明日もまたここに在って、笑っていられますよう。
テレビのニュースがどんどん遠くなる。遠くなりながら、耳の内奥で木霊している。でも私は、それを聴きながら、気づかないふりをしている。私の今ここをこそ、私が大事に保てますように、と、ただそれだけを、思っている。
ちぐはぐだ。私は私の限界を知っており。いやというほど知っており。だからこうしてしゃがみこんで、耳を塞いで、聴こえないふりをするのだ。
あぁ。

弟がやって来る。弟が次々口で注文を出すのに対し、私も次々モニター上にそれを形にしてゆく。あっという間に時間が過ぎてゆく。
とりあえず仕上がった原稿をプリントアウトする。チェックし終えたらまた連絡する、と言って弟は帰っていった。次の仕事へ向かうために。
私は弟の背中を見送りながら、祈るように思う。彼の今日が、そして明日が、変わらず流れてやって来るものでありますよう。突然の事故で、一瞬にしてすべてが木っ端微塵になんてなりませんよう。ひたすらに、祈る。

本棚を整理していて、ふと一冊の本が目に留まる。知人がわざわざくれた本だ。アメリカの、性犯罪被害者のレポートをしている写真家の著書。申し訳ないことに、私はそれをまだ紐解いていない。
知人は、私と似通ったことをしている人がいる、と、そう言ってこの本をくれたのだった。似通ったこと。本当にそうなんだろうか。
彼女は、性犯罪被害者を撮る。被害の現場に行って、被害者にその被害について語らせ、それをレポートしている。
私は。それはできないと思う。私がやっている「あの場所から」は、それとはまた、違う。
確かに私は、「あの場所から」で、性犯罪被害者にモデルになってもらい、写真を撮っている。写真展示の際には、彼女らの手記も合わせて、展示している。
でも何だろう。猛烈に何かが違うと、思うのだ。私は彼女らの「今」に焦点を当てたい。そこが、違うように感じる。
被害を越えて、それでも生き延びて「今」在ることを、今在る彼女らの姿をこそ、撮りたいと思う。

ねぇ、ママ、どうしてこういう小さな本には、絵がないの? あぁ文庫本? 確かに絵がないね。どうして? 多分、それは読む人に自分で想像してほしいからじゃないのかなぁ。それって難しくない? あら、そうなの? 絵があると、絵から想像しやすいけど、文だけだと、どんな顔してるのかな、とか、どんな洋服着てるのかなとか、想像しづらいじゃん。なるほど。でも、そういうのも含めて、自分で好きに想像できるっていうところもあるよ。自分で勝手に想像するってこと? そうだねぇ、まぁそういうことになるかな。私、そういうの苦手だよぉ。もしかしたらあなたは今、絵に頼って本を読んでいるのかもしれないね。絵に頼る? 文章で分からないことを絵に頼って想像するってこと。ママはそうしないの? ママは、文章からあれこれ想像するのが好き。だから、絵のない本の方がママは好きだよ。変なの、大人ってみんなそう? どうだろう? うふふ。
文庫本ってさ、なんか暗いよね。暗い? うん、明るくない。なるほどぉ、ママはそういうこと考えたことなかったなぁ。なんていうかさぁ、文字ばっかりで暗い。文字もちっちゃいし。ちまちましてるし。なるほどなるほど、確かにそれは言えるかもね。でも、そのちっちゃいものを辿っていって、自分で世界を創造するんだよ。その物語全体の絵を、世界を、自分で創造するの。面白いよ。そうかなぁ、なんかとっつきづらいよ、文庫本って。ははは、まぁそう言わず、読んでご覧。「西の魔女が死んだ」とか「りかさん」は、結構読めたけどさ、でもぉ。まぁまぁ、ちょうど読む本がないって言ってたじゃない、これ読んでごらんよ。「カラフル」もまぁ面白かったけど、でもぉ。いいからいいから。「夏の庭」「ポプラの秋」「春のオルガン」、全部、季節がついてる。うん、そうだね。これ、本当に面白い? あなたの年頃なら楽しいと思うよ。ママは大人になって読んだから、ちょっと損した気分だった。面白くなかったら、別の本、買ってよ。さぁねぇ、ちゃんと読んで感想文も書いたら考える。えー、ずるい! ははは。

じゃ、ママ行くね。うん、それじゃぁね。また後でね。あ、お弁当箱、自分で洗うんだよ。やだよっ。あ、じゃぁお弁当作らないぞ。えー、分かったよ、洗うよ。じゃ、ね! はいはい。
娘と別れた後、私は階段を駆け下り、自転車に跨る。坂道を一気に下り、信号待ち。南の空の美しいこと。澄みきった水色の明るい明るい空が、広がっている。
信号を渡り、公園へ。強い風に揺さぶられる樹たちの、ごごう、という音がここまで聴こえてくる。私は自転車をおりて、ゆっくり公園の中の坂道を上がってゆく。
ちょうど公園の中心に、道が集まっており。その隣に池が在る。私はいつものように池の端に立ち、空を見上げる。南の空以外、雲に覆われている。水色と灰色の混ざり合った空。その空がそのまま、池に映っている。石を投げ入れると、ぱぁっと波紋が広がり。瞬く間に空は消えてゆく。
私は再び自転車に跨り、坂道を下って大通りを渡る。高架下を潜り、埋立地へ。
びゅうびゅうとビルの間を流れる風が音を立てている。私はその音を聴きながら、ぐいぐいとペダルを漕ぐ。真正面から吹いてくる風に押され、自転車がなかなか進まない。
川と海とが繋がる場所。あの水母たちはどうしているだろう。私は川を覗き込む。いたいた。やはりまだいる。まるで、荒れる海から逃れてきたかのように、この場所に水母が集っている。その水母を避けて、魚がすいすいと泳いでゆく。ちょうど川下からやってきた船。川の真ん中を滑ってゆく。
さぁ、今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、走り出す。


2010年07月14日(水) 
真夜中に目を覚ます。隣を見ると娘がでーんと、私の顔の方に足を向けて眠っている。また回転したのかと思いつつ、彼女の腹部にタオルケットを掛けてやる。昨日の夜線香を焚いて眠ったから、今もまだ線香の匂いが部屋に充満している。私はこの匂いが結構好きだ。じいちゃんばあちゃんの家を思い出す。
暗闇の中、耳を澄ましていると、がらがららと、豪快な回し車の音が響き出す。あれはミルクだろう。そう思いながら私は目を閉じている。閉じても閉じても、夢の残照が瞼に残っていて、なんともいえない気分がする。
うとうとし始めたか、と思った瞬間、娘にお尻を蹴られる。勢いのよい一撃だった。痛い。これは痣になるんじゃないかと思えるほど。お尻をさすりながら、娘を一睨してみる。もちろん娘はそんなことに気づくはずもなく。くぅくぅ気持ちよさそうな寝息を立てて眠っている。
それにしても風が強い。窓の外、轟々と音を立てて吹き荒んでいる。暗闇の中耳を澄ましていると、まさにその音の只中にいるような錯覚を覚える。台風の直後の海で、こんな音に包まれたことがある。波は一体何メートルあったか、ゆうに私を呑み込む高さだった。それでも、見つめていると、そこに飛び込みたい、そんな誘惑にかられるのだった。
結局そのまま朝を向かえ、私は起き上がる。籠に近寄って見ると、ココアとミルクは家の中に入っているが、ゴロだけ外に出たまま、隅のほうにぺたんと腹ばいになっている。おはようゴロ。私は声を掛ける。そして手を差し出す。ちょっとびっくりしたようなゴロは、それでもとことこと這い出てきて、私の手のひらに近寄ってくる。掬い上げて、鼻キッスをしてやる。まだ半分眠っているのだろうか、手をぱちぱちと私の鼻にくっつけてくるゴロ。
窓を開けようとして、躊躇う。あまりの風だ。街路樹がひっくり返りそうなほどびゅんびゅんと吹いている。少しだけ窓を開け、そこから体を外に出す。途端に翻る髪の毛。私は慌てて後ろ一つに髪を結う。
空を見上げると、びゅんびゅんと雲が流れていくのが見える。それでも空全体を雲が覆っているのに変わりはなく。途切れない雲が何処までも続いている。
街路樹の緑が、白緑色の裏側をひらひらさせながら風に煽られている。でも、風の向きが幸いしてくれたんだろう、私のベランダの薔薇たちは、思ったよりも煽られることもなく、無事にそこに在てくれている。
しゃがみこんで、まずラヴェンダーのプランターを見やる。ラヴェンダーとデージーと、絡まりあっているのを、何とか解いてやる。今解いたって、また絡まることは分かっているのだけれど、そうせずにはいられない。黄色い小さな小さなデージーの花が、きゃぁきゃぁと嬌声を上げているように見える。風に向かって小さな手を思い切り上げて、声を立てているかのようだ。そういえば子供の頃、こんな風の強い日が結構好きだった。薄野がぐわんぐわんと波のように揺れて、竹林もこれでもかというほど唸り声を上げて揺れて。それを眺めるのが楽しくて、あちこち走って回ったのを思い出す。
竹林といえば、痛い目に遭ったことがある。友人と弟と三人で、竹林の向こう側に広がるアスレチックに、こっそり入り込んだ時のことだ。アスレチックの遊具で遊んでいると、こらーっという声と共に大人が手を振り上げて走ってくる姿。私たちは慌てて元来た道を駆け戻ったのだが、途中弟が転びそうになり。それを庇った私が逆に、ごろんと転んで。その瞬間、膝に細い竹が突き刺さった。誰かが切り落としたばかりの、切り口鋭い細い竹は、見事に私の膝に突き刺さり。悲鳴を上げることもできないくらい痛かった。それでも、追いかけてくる大人に掴まらないようにと、私たちは、肩を組みながら必死に逃げたのだった。三人ともいつの間にか泣いていた。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、私たちは必死に逃げた。今思い出すと、不思議と笑ってしまう。あの竹林、あのアスレチックは、今もまだあるんだろうか。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、風に微妙に揺らされながらも、しかと根を張って立っている。よかった、私はその姿を確かめてほっとする。まだ沈黙の時間を過ごすこの二つの樹だけれども、また新芽を、いずれ出してくれるだろうと、今は信じている。
ベビーロマンティカは、新芽を綻ばせて、この風の中、歌いながら立っている。新芽からその微かな音が聴こえてくるかのようだ。新芽はもうだいぶ開き始めており。明日明後日にはきっと、ぱっと開いた葉になるに違いない。
そしてミミエデンも。新芽を芽吹かせ始めた。あぁ嬉しい。たった一箇所からだけだけれども、それでも芽吹いていることに変わりはない。あぁこれが元気な葉だったら、なおさらに嬉しいのだけれども。私は祈るように思う。
花芽をつけたパスカリは、必死に風に向かって立っている。蕾のついている長い枝が、くわんくわんと揺れている。その蕾の下の葉は歪んでおり。明らかにそれは病葉で。でも、今それを摘むのは躊躇われる。花が咲き終わるまで、何とか摘まないでいてやりたい。
もう一本のパスカリは、ちょうど壁と壁の角のところにあるお陰か、風の被害をあまり受けないですんでいるようだ。よかった。沈黙の時間はまだ続くようで。新芽の気配は、どこにも見えない。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹は、ひっそりとまた新芽を広げており。今のところ、粉は噴いていない。ぴんと張った葉だ。私はほっとする。そっと指でその葉を撫でてみる。他の薔薇の葉にくらべて、薄いその葉は、私の指にぴたりと貼り付いてくる。
そして、挿し木だけを集めた小さな小さなプランターを覗き込むと、もう諦めかけていた枝から、にょきっと新芽が吹き出している。あぁ、こんなこともあるんだ、と、私は思わずほっと息をつく。それはまさに萌黄色をしており。柔らかい柔らかい、新芽なのだった。このまま広げていってほしい。私は祈るように思う。
昨日は教育相談という、要するに小学校の三者面談の日だった。教室まで上がっていく途中、すれ違う子供たちが、こんにちは!と挨拶してくれる。私も大きな声でこんにちは、と返事をすると、子供らはみんな、ちょっと照れたような顔をする。
小学校五年目。ようやく私も、こういう面談という場面に慣れてきた気がする。それまでは気持ちが苛立って、いがいがして、ただ椅子に座っているということさえきつかった。途中ふらふらと眩暈を起こしてしまうこともあったっけ。全く情けない母である。
娘と二人、先生と向き合って座る。こんな感じで学校で過ごしていますよ、と、担任の先生が詳しく話をしてくれる。その中で、林間学校や遠足の時、低学年の子たちをよくまとめてくれると先生が言っていた。それは多分、彼女が何年間かでも、学童という場所に通ったお陰なんじゃないかと、私は思う。学童での体験は、彼女にとって大きかったに違いない。大勢の兄弟に囲まれて過ごした四年間。そこで、上の子を敬い、下の子を世話する、という気持ちは、自然に育っていたのではないだろうか。そうだと、嬉しい。
でも、ちょっとしたことで、誤魔化したりすることがありますねぇ、と先生が笑う。娘も照れくさそうに笑う。失敗を誤魔化したりせず、ちゃんと言ってくれるともっと嬉しいんですけど。先生の言葉に、私は横に座る娘の顔を見る。もうわかってるよぉ、という顔をしていた。だから私は敢えて言う。声を出して返事をしなくちゃいけない場面で返事ができなかったり、そうやって誤魔化したりするところが結構あるので、がしがし言ってやってください。そう言って先生と娘に笑いかける。娘は、へっへっへ、という顔をして、俯いている。
帰り道、娘が、今度からちゃんと返事するから、あんまり言わないでよ、と言い出す。声出して返事してくれれば、ママは何も言わないよ、と私も言い返す。わかったわかったぁ、娘が走り出す。
こういう、当たり前のことが、当たり前にできなかった。長いこと、できなかった。今もまだ、過渡期といってもいいかもしれない。それでも。時は容赦なく流れてゆき。娘はどんどん成長してゆく。この速度に、いつか追いつけるだろうか。追いついてやれるならば、と、そう思う。

娘が一生懸命、ココアに目薬を注そうと苦闘している。ふと私が、ママがやってあげようか、と言うと、すかさず言い返される。私がやらなきゃ意味ないでしょ! 私はその言葉に、にっと笑う。心の中、よくぞ言った、そうでなきゃね、と呟く。あくまでハムスターたちは娘が飼い主だ。娘が留守のときは私が世話してやらねばならないが、そうでなければ、彼女がちゃんと全部をやるべきことであって。
家の手伝いを殆どまだしない娘だけれども。ハムスターの世話だけはちゃんとやっている。それだけでも、よしとするか。

お湯を沸かし、お茶を入れる。そういえば昨日、リンゴ酢に蜂蜜を入れて、ジュースを作っておいたのだが、どうなっているだろう。一口飲んでみる。まぁこんな感じかな、とひとり勝手に頷く。友人が以前くれた蜂蜜を取って置いてよかった。濃厚な味の蜂蜜だ。リンゴ酢とちょうど合う気がする。
朝練のある娘に声をかけ、私は窓際の席に座る。今回も市営住宅の抽選は外れてしまった。いつになったら当選するんだろう。できるだけ早く引越しがしたい。そんなことを思いながら窓を見やると、カーテンがびゅんびゅんと風に揺れ、その窓の向こうでは、街路樹の緑が翻っている。それでも、微かに陽光が漏れ出している。今日は晴れるんだろうか、雨なんだろうか、ちょっと不思議な空の色合い。

昨日話した、西の町に住む友人。まだ声が出たり出なかったりだと言っていた。これからどうしていいのか、まったくからっぽで、分からないんだ、と言う。私はただ、その言葉に耳を傾けている。とにかく今は、今このときを越えることで、精一杯だったりするよ、と、彼女が言う。そうだろうな、と私も思う。それでも、生き延びてよ、と私が言うと、彼女が、小さく、うん、と返事をする。私は、もどかしい思いを抑えながら、じゃ、またね、と言う。
もどかしい、そうだ、もどかしい。もっと私は彼女に話したいことがある。でも、今の彼女には、自分の思いがこれでもかというほど溢れ出ている最中で、私の言葉は届かない。だから私は、待っている。また話ができるその時を。信じて、待っている。

じゃぁね、それじゃぁね。娘を見送り、私も出かける準備をする。その前に母に電話をしないと。
少し早いかなと思いつつも電話を鳴らす。呼び出し音三つで、母が出る。事情を話し、今年も夏休み、みんなと旅行するのは難しそうだ、と話す。その週、学校の授業があるのだ。振り替えることができないわけじゃないのだが。問題は、別にある。母には秘密だが、ハムスターだ。ハムスターを二日以上放っておくわけには、いかない。母は素っ気無く、はいはい、と受け流してくれた。今年できるなら、一緒に行って、娘の写真を撮りたかった。それだけが、残念だ。また秋に、撮影する日を作ろうと心に決める。
玄関を出ると、ちょうど陽光が東から降り注いできており。校庭では、サッカーの朝練に勤しむ子供たちの姿。濡れた校庭でも、彼らはお構いなしに走り回っている。こういう元気な姿が身近にあるというのは、なんだか嬉しいことだ。こちらも頑張らねばと思う。
自転車に跨り、坂道を下り、信号を渡って公園の前へ。その直前、私は見上げる。とある部屋を。以前あそこに住んでいたことがあった。短い時間だったけれども住んでいたことがあった。娘はあの家に戻りたいと時々思い出したように言う。でも、もう戻れないことも、十分に分かっている。
公園の緑はまさに、轟々と唸り声を上げて前後左右に揺れており。これでもかというほどの撓り具合で。私はしばし、立ち竦む。それほどこちらを圧倒するような、そんな姿だった。
池の端に立つと、池は大きくさざなみ立っており。私はその波にじっと見入る。何処から生まれてくるのか知れないさざなみ。そういえば、以前ここに在たおたまじゃくしたちはどうしたんだろう。ちゃんと蛙になっていったか。
私は立ち上がり、再び自転車に跨って坂を下る。大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。不思議だ、いつもなら、埋立地の方が強い風が吹いているというのに、今朝は違う。さっきより緩い風が流れている。
数少ない、残っている空き地に、今シロツメクサなどがこんもりと咲いている。こういう草を見ていると、ある友人を思い出す。彼女は雑草にとても詳しくて。彼女だったら、ここに咲いている草たちの名前を全部、挙げられるんだろうなぁなんて思いながら、私は走る。
さぁ今日も一日が始まる。雲の割れ目からさぁっと陽光が。私はそちらに向かって一気に走り出す。


2010年07月13日(火) 
昨日のあの強風が嘘のようだ。風が止まっている。窓を開け、一番にそのことに気づく。街路樹の緑は一斉に沈黙している。しかし、昨日の強風の名残を残しており、葉が裏返ったままのものが殆どだ。
見上げる空は鼠色。段々になった雲が一面空を覆っている。と、思っているところに、ぽつり、雨粒が落ちてきた。あぁやはり降ってきたか。そう思いながら空に手を伸ばす。ぽつぽつぽつ、という雨がやがて、さぁっという雨に変わる。泣いているというより、空が囁いているかのような、そんな音。
私はしゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗きこむ。ラヴェンダーとデージー、絡まりあった枝葉を、そうっと解いてゆく。いくらそうっとやっても、枝葉は擦れ、そのたびラヴェンダーのいい香りがぷわんと私の鼻腔をくすぐる。とりあえず、傷つけずには絡まりを解くことができた。デージーは次々花を咲かせていっている。小さい花、小さな枝葉ながら、その生命力は強く逞しいのだろう。緩むことのないその力に、私はちょっとした感動を覚える。
パスカリの、花芽をつけている方は、無事昨日の強風を乗り越えてくれたようで。今、微動だにしないこのぬるい空気の中、しんしんと立っている。花芽の近くの葉が、歪んでいる。ここも病いに冒されたか、と、私は小さく溜息をつく。私の育てている樹木の中で、パスカリは以前は強い方だったのに。今年は何故だろう、病に冒されてばかりだ。花芽には今のところ、粉が噴く気配はなく。それだけは避けたいと、心の底から思う。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹が、新芽を広げた。私が気づかないうちに広げてくれたらしい。真新しい黄緑色の葉がふわり、広がっている。
ミミエデンは、新芽の塊らしいものを秘めてはいるが、果たしてそれが本当に新芽なのか、まだ定かではない。そうでありますように、と祈るように思う。
ベビーロマンティカは新芽をどんどん燃え上がらせており。もうじき葉が開いてくるだろう。今のところ、粉が噴いている気配はなく。このままなら元気な葉が見られるかもしれない。
挿し木だけを集めているプランターの中、ぐっしょりと濡れた土の上、五本の枝が、それぞれに新芽を出している。さて、この中で根をつけているものがどれだけあるんだろう。まだ分からない。今年はこの天候のおかげで、ちっとも挿し木が育たない。いや、天候のせいだけにしてはいけないんだろうけれども、それでも、思ってしまう。少々恨めしい。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、しんしんとそこに佇んでいる。大きく枝葉を伸ばしたその姿は、凛として、私の心を励ましてくれる。ただ、心配なことが在る。ホワイトクリスマスの、どうも新芽になるはずだったものたちが、こぞって茶色くなっていることだ。どうしたんだろう。樹が弱ってきているんだろうか。それともたまたまそうなっただけなんだろうか。分からない。分からないけれど、心配だ。気になる。マリリン・モンローは、今のところホワイトクリスマスのような弱った様子もなく。淡々とそこに佇んでいる。
金魚に餌をやってから、ココアの様子を見る。昨日ようやく病院に連れて行くことができた。そこで言われたのが、結膜炎だった。先生の言うところによると、木のチップで目を傷つけたのではないか、ということだった。そんなこともあるのか、と改めて思う。これから一日三回、目薬を注してあげてね、と先生は娘に目薬の注し方を教えてくれる。娘は食い入るようにその様子を見、神妙に頷く。でもそこで気づいたのは、娘が声を出さないことだ。先生が、こうやってね、とか、これこれしてね、と言っても、頷くだけで、はい、と返事をしない。そういえば母もそんなことを言っていた。あの子は、ちゃんと声に出して言わないところがある、と。これはいけない。ちゃんと教えてやらないと、と私は心にメモをする。頷くだけでは伝わらないこともあるのだ。そのことをちゃんと娘に教えなければ。
会計をするところに、大きな籠が置いてあり、その中に子猫が二匹、入っている。生まれてまだ二ヶ月の雄猫だという。里親を探しているらしい。娘がしきりにその猫に見入っている。ママ、モモチビ思い出すね。うん、そうだね。モモもチビも、こんな小さい頃からママのところにいたの? うん、こんな小さい頃からいた。チビなんて、一ヶ月するかしないかでうちに来たんだよ。かわいいねぇ。うん。ママは懐かしくなる? そうだねぇ、もっと写真撮っておけばよかったって、今は後悔してる。ママ、なんで猫の写真撮らなかったの? なんだろうなぁ、いつもそばにいたから、そばにいるのが当たり前で、それに、写真に撮ったらそれで終わってしまうような気がして、嫌だったから写真に撮らなかったの。ふぅん、ママって変わってる。そうかな、そうかもしれない。ねぇ、学童のMさん、きっとこの子達見たら欲しがるね。教えてあげれば? 今度学童行って教えてあげようかなぁ。
その猫たちの姿は、本当に懐かしく。モモとチビの、あの小さな小さな赤ん坊の頃にとてもよく似ていて。私は少し切なくなった。モモがもう成猫になってから、チビがやってきたのだが、モモは実によく、チビの世話をしてくれた。チビがいくらふーっと喧嘩を売っても、決して相手にすることなく、それどころかチビの毛づくろいまで手伝ってやっていた。二匹が喧嘩らしい喧嘩をするところを、私は一度も見なかった。後姿がそっくりな猫たちだった。
ねぇママ、ママがもう一度動物飼うなら、猫? それとも犬? 猫だろうと思う。犬だったら何犬がいいの? グレートピレニー犬。ひゃぁ、でっかい犬選ぶねぇ。ママは、教会でその犬に出会ったんだけどね、とても穏やかで優しくて、利口な犬だった。もちろんあの犬と同じ犬が他にいるとは思わないけれど、あの姿形、とても好きだな。私、チワワがいい。えぇっ、チワワ?! うん。ママ、やだよ、踏んずけちゃいそうで、やだ。えー、かわいいじゃん、小さくて。んー。でもママ、猫がやっぱりいいんでしょ? うん、やっぱり猫だな。ママは、正面切って、飼い主に寄ってくる犬さんより、猫の、あの、独特な態度が好き。つれない態度が好き。ひねくれてるなぁ、ママ。ははは。そうなのかもね。
獣医さんが再度出てきて、こんなことを言う。最近は、ハムスター飼っていても、ハムスターに触れない子が多いんですよ。えぇ? そうなんですか? そうなんですよ、もったいないですよね、ハムスターもかわいそうだ。君はちゃんとハムスターと遊んであげてるみたいだね。いや、遊ぶどころか、毎日キスして戯れてます。ははは。いいことだ。ちゃんと遊んであげてね。目が治ったら、その足の瘤もちゃんと見てみよう。はい。
動物病院に来たのなんて、どのくらいぶりだろう。モモチビの予防接種以外で来たことがなかった。いまどきの動物病院は何てきれいなんだろう。びっくりしてしまう。娘と二人、また一週間後にね、と見送られながら、帰路に着く。

お湯を沸かし、久しぶりにレモンティーを入れる。そこで思い出す。昨日炊いたご飯をおにぎりにしてなかった。慌てて炊飯器を開けて、驚いた。臭う。たった一晩でご飯が腐っている。参った。なんで昨日握るのを忘れたんだろう。舌打ちしてももう遅い。せっかくのお米が。泣く泣く私はそれらをゴミ箱に捨てる。
マグカップを持って椅子に座り、思い出す、昨日の風景描画法をやった女の子の絵。遠近が歪んで、何とも奇妙な構図を描いていた。二方向からの視点があって、それぞれに描かれているから尚更におかしな構図になっていた。その絵を挟んで傾聴していくと、彼女は今、外の世界に対して心がぴたりと閉じていることがありありと分かった。長いこと施設で暮らしてきたことの疲れ、人間関係に対する不信感が、そうさせているらしい。そして、自分の感情を外に出すことに対して、強い諦観のようなものを持っていることも伝わってきた。続けて、自分が今家族と呼べるものについての話に移ると、今家族と思える対象以外とは、接したくない、閉じていたいという思いが強く伝わってきた。
家族。家族って一体何だろう。改めて思う。血の繋がり、だけではない、何かがそこに、在る。そう思える。血の繋がりなんかでは片付けられないものが、そこには在る。そう、思う。
自分が円枠家族描画法でもって絵を描いたときのことを思い出す。私はどうしても円枠の中に自分を描くことができなかった。円枠の中には、それぞれに父、母がそっぽを向いて点在し、私は円枠の外にしゃがみこんでいた。母のシンボルとして描いたマチ針が、円枠にぶすぶす突き刺さっており、それは私のしゃがみこむ場所に対して一番多く在った。何も意識せずそれを私は描いたが、改めて省みて、私は母を強く強く意識していたのだと改めて思う。そして、父に助けを求めながら得られなかった、そのことに対しての絶望感が、そこには横たわっていた。
それにしても。なぜあの絵の中に弟はいなかったんだろう。私にとって家族と呼べるのは、あの頃弟だけだった。なのに、絵を描いたとき、弟は何処にもいなかった。不思議だ。私にとって家族は間違いなく弟であったのに。それほどに私にとって父母という存在が大きかったということか。
家族。その摩訶不思議な代物。或る時期私にとって化け物のような、怪物のような代物だった。改めて思う。今その呪縛からだいぶ解かれて、それは穏やかな波のようになっているけれど。
あの女の子の中で今、家族はどんな姿をしているのだろう。

それじゃぁね、あ、待って。娘がココアとミルクを手のひらに乗せてやってくる。はいはい。私はそれぞれに撫でてやる。じゃぁ、学校で待ち合わせね。分かってるって。
今日は教育相談という、いわゆる三者面談がある。さて、一体どういうことを言われるんだろう。
自転車に跨り、坂道を下る。信号を渡って公園へ。微動だにしない深い緑が、まるで辺りを覆い尽くすかのようにしてそこに在る。こんな街中に、よくこんな場所が存在しているものだ、と、ここに来るたびに思う。公園の中の短い坂道を上り、池の端へ。立って見上げると、ぽっかり空いた茂みの向こうには、やはり鼠色の、厚い雲が広がっているのだった。
もう紫陽花の季節は終わりなのだろう。公園の紫陽花はみな、茶色くなるか色褪せるかしている。私はその紫陽花を眺めながら、ゆっくり坂を下り、大通りへ出てゆく。信号を渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木が鼠色の空を反映して、鈍い緑色に見える。
途中、珈琲屋に立ち寄る。昔よく立ち寄った場所のひとつだ。カフェオレを注文してみて思った。味が落ちたな、と。こういうのに出会うと、なんだか寂しい気持ちがする。せっかくのスペースなのに、おいしい珈琲が飲めないのは、残念しきりだ。
そのまま走り、病院の前を通り過ぎる。一時期本当に世話になった。何度救急車で乗り付けたか知れない病院。夜勤の看護士たちが、喫煙所で煙草を吸っている姿が見える。私はその脇を通り抜け、さらに走る。
港の外れに辿り着き、私は自転車を止める。停泊する船の甲板を、忙しげに往き来する人の姿が見える。私の周囲を、犬を連れた人たちが往き来している。この辺りがきれいに整備されてから、ここは犬の散歩道になったのだな、と改めて知る。そして代わりに。猫たちがいなくなった。整備される前はあちこちにいた猫たちの姿が、欠片さえも見えなくなった。私は空を見上げ、寂しいなぁと呟いてみる。
さぁ、今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、走り出す。


2010年07月12日(月) 
起き上がり、何気なくハムスターたちの籠を見てぎょっとする。ミルクの籠の扉が開いている。もちろんミルクは中にいない。私は大声で娘を起こす。ミルクの籠の扉が開いてるよ、どうしたの、昨日夜何かしたの?! ん? え? だから、ミルクいなくなってるよ。えっ!
どうも昨日娘が扉を閉め忘れたらしい。ミルクは扉が開けば弾丸の如く外に飛び出してくる。私たちが眠っている間に、一体何処へ行ったことか。私たちはそれぞれに、物の隙間や本棚の後ろあたりを探し始める。いない。どこにもいない。いや、いないわけがない。昨日は窓を閉めて眠ったのだから、家の外に出ているわけはないのだ。必ず家の中にいる。ふっと思いついて、餌箱をしゃらしゃらと揺らして音を出してみる。この音に一番反応するのがミルクだ。名前に反応しなくても、この音になら誘われて出てきてくれるかもしれない。娘に言いつけて、とにかく餌箱をしゃらしゃら鳴らすようにし、私は私であちこち探し回る。
二十分くらいした頃。娘が無言で私の横に立っている。どうしたの、なんで探さないの? すると、娘がくいっと手を伸ばしてくる。そこにはミルクがしっかり掴まれていた。どこに居たの? わかんないけど、しゃらしゃらやってたら、出てきた。…。
時計を見ると午前五時前。なんだか朝からどっと疲れた。私は椅子に倒れ込み、娘は娘で床に座り込み、ミルクをしっかと握っている。ミルクは、遊びつかれたのか何なのか、娘の手の中で神妙にしている。彼女も事態がおかしいことは分かっているらしい。そのくらいはまぁ分かるだろう。それにしても。餌の音に釣られて出てきてくれるとは、何と食い意地の張ったハムスターだろう。でもまぁそのおかげで、私たちは救われた。
私はわざと娘を放って、ベランダに出る。いや、出ようとして、風に押し返される。あまりに強い風。慌てて窓を閉める。窓にへばりついて、外を見やれば、街路樹の緑が勢いよく翻っている。耳を澄ませば、びゅうびゅうびゅうと、音を立てて風が吹き荒んでいる。
私は窓をさっと開け、隙間から出て、再び扉を閉める。髪の毛がぐわんぐわんとなびくので、急いで後ろ一つに結わく。そうしておいてから、空を見上げる。灰色の雲が空全体を覆っており。また雨になるんだろう。そう思いながら、私は風に目を細める。こんなに強い風、久しぶりだ。あまりに勢いが良くて、ある意味気持ちがいい。
でも心配なのは植木だ。私はしゃがみこんでラヴェンダーのプランターを見やる。ラヴェンダーとデージーとが絡まりあって、びゅんびゅん揺れている。これは今解いたって無意味だろう。このままにしておく方がいいかもしれない。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローも、さすがにこの風には揺らいでおり。ホワイトクリスマスの葉がマリリン・モンローの棘に絡まっている。傷ついた葉を、これ以上傷が広がらないようにそっとそっと棘から外してゆく。いや、今外したからって、また絡まる可能性の方が大きいのは分かっているのだが。そうせずにはいられない。
ベビーロマンティカは、この風の中でもでーんと横たわり、逆に風を楽しんでいるかのように見える。本当にいつ見ても不思議な樹だ。先日から萌え出てきた新芽も無事で、私はほっとする。
ミミエデンは、風に揺れるほどのたくさんの葉は持っていず。だからこの風から免れているらしい。ふと見ると、これは新芽の気配なんだろうか、枝と葉の付け根の間に、小さな小さな塊が見える。あぁこれが新芽だったら嬉しいのだけれども。私は祈るように思う。
蕾をつけている方のパスカリ。蕾がぐわんぐわんと風に揺れている。でも、どうしてやることもできない。今のところ蕾は無事だ。引っかかるようなものが近くにあるわけでもなく。これなら大丈夫だろう、と私は判断する。
とりあえず、今のところはベランダは無事のようだ。私はほっとして、立ち上がる。立ち上がった途端、強い風を背中に受け、一歩踏み出してしまう。そのくらいに風が強い。
急いで部屋に戻ると、娘がしょんぼりと立っている。ママ、ごめんなさい。何が? 扉開けっ放しにしておいたこと。それもそうだけどね、これからは、眠たくなくてもママと一緒に電気消して横になること。分かった? うん。昨日は電気もつけっ放し、扉も開けっ放しで、いろんなものがやりっ放しになってたんだよ。うん、ごめん。分かったらよろしい。うん。
私は台所に立ち、お湯を沸かす。その間に顔を洗い、化粧水を叩き込み、ほっと息をつく。沸いたお湯で生姜茶を入れ、椅子に座り、煙草に火をつける。なんだかもう一日が終わりそうな、そのくらいばたばたした朝だった。それにしても。出てきてくれたミルクに、感謝感謝、だ。

電車に乗っていると、突然電車が止まる。車内アナウンスもしばらくないまま止まっている。嫌な感じが背中を駆け巡る。人身事故だったら。そう思った途端、かつて自分が目の前で出会った、人身事故の場面が甦る。いや、こういうことを思い出してはいけない。思い出すと、下手すればパニックを起こすことになる。私は自分に必死に言い聞かせる。これは人身事故じゃないかもしれないし、今と過去とは違うんだ、ということを。
ようやっと車内アナウンスが流れる。今車掌が確認しております、もうしばらくお待ちください。
座席に座っていてよかった、と、つくづく思った。でなければ私は、へなへなとその場に座り込んでいたかもしれない。
視界が少しずつ色を失い始め、人の声が遠のいてゆく。それを感じながらも、大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かせる自分がいた。
がたん。やがて電車は走り始め、説明のアナウンスも流れ。私はそれをぼんやり聴いている。とりあえず人身事故じゃぁなかったということか。よかった。本当によかった。
忘れることができないのは、あの、Y町駅での事故だ。いや、あれは事故ではなく。何と言ったらいいのだろう、本人が望んで電車に飛び込んでいった。そういう出来事だった。私の隣に居た友人が、ありがとう、と一言残して、滑り込んできた電車に身を投げた。それからのことは途切れ途切れにしか覚えていない。一番はっきり覚えているのは、ほとんどのものが片付けられた後、それでも耳たぶが線路に残っていて、あぁ、耳たぶもお願い、一緒に片付けてあげて、と、私が祈るように思っていたことだけだ。耳たぶから目を離すことが、どうしてもできなかった。
あんな思いはもう、したく、ない。

「あるものに名前を付けることによって、私は単にそれを一つの範疇に入れただけで、それを理解してしまったと考えるのです。そしてそれ以上に細かく見ようとはしないのです。しかしもし私たちがそれに名前を付けなければ、私たちはそれを見るように強いられるのです。つまり私たちは全く新しく、初めて出会ったものを調べるような気持ちで、その花に近づいていくのです。私たちは以前に見たことがないかのようにしてそれを見つめます。命名は物や人間を処理するための非常に便利な方法です」「命名したり、レッテルをはることは、何かを処理したり、否定したり、非難したり、あるいは正当化するための、非常に便利な方法なのです」「それは私と一体となったいろいろな感情―――言いかえれば現在を通して生命を与えられた過去なのです。その中核、または中心は、命名し、レッテルをはり、記憶することを通して、いわば現在を食べて生きているのです」
「もしあなたがその中心に名前をつけなければ、中心は存在するでしょうか。つまり、もしあなたが言葉の観点から考えなかったり、言葉を使わなかったなら、あなたは考えることができるでしょうか。思考は言葉の表現を通して生まれてくるのです。あるいは、言葉の表現は思考に反応し始めるのです。その中心や中核は、快楽や苦痛などの無数の経験の記憶を言葉で表現したものなのです」「中心とか核というものは、要するに言葉なのです」

ようやく電車が実家の最寄り駅に辿り着き、私は這うようにして外に出る。まだ待ち合わせの時間には余裕がある。私はホームで、柱に寄りかかり、しばらく深呼吸を繰り返した。大丈夫、もうあれは過去だ、また繰り返されるとは限らない過去なのだ。自分に言い聞かせる。忙しなく行き交う人々の、服の色が、少しずつ感じ取れるようになってくる。近くを通り過ぎた学生たちのおしゃべりの声が、耳に入ってくるようになる。
もう大丈夫だ、私は階段を上がり、トイレの鏡で自分の顔を確かめる。大丈夫、これなら娘を迎えに行っても、おかしくは思われない。何かあったのかなんて娘に思わせずに済む。私は、洗面台で顔を軽く洗い、ほっぺたをぱんぱんと両手で叩く。
改札口で娘を待つ。十分ほどした頃、娘とじじとがやって来る。娘はじじに手を振って、そのまま駆け足で改札を入って私の隣にやって来る。私は大きな声で、ありがとうね、とじじに挨拶をする。
それにしても。じじは痩せた。どんどん痩せていく気がする。彼の中年の頃を私は覚えている。ぱーんとおなかが突き出ていて、スーツを着ると、貫禄がありすぎて、近寄りがたかった。それが、ここ五、六年で、彼はぐんと痩せてしまった。仕事の第一線から退いて、それから転がるようにして痩せていった。目の手術もしたせいか、目の周りが落ち窪んでいて、今までのような生気が感じられない。弱っていっている、のとも違う。彼は確実に、年を取っていっているのだ。それが、私にはとても、切ない。
私にもうちょっと力があったら。彼らを安心させてやれるだけの力があったら。不甲斐ない自分の身の上を、少し、恨む。

じゃぁね、それじゃあね。今度はちゃんと扉閉め忘れないようにね! うん、分かってる。私たちは手を振って別れる。
いつもなら階段を駆け下りるのだが、何となくゆっくり歩いて階段を降りる。そうして風の唸る外へ。自転車に跨り、危うい空模様を見上げながらも、走り出す。
坂を下り、信号を渡って公園前へ。公園の樹々たちは、轟々と唸り声を上げて左右に揺れている。枯れ始めた紫陽花も、首を左右に振っている。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。風が一層強くなる。私の自転車は、前に進んでいるのか止まっているのか分からなくなるほど風に押され。私は閉口しながら何とか信号前に辿り着く。
プラタナス並木の通りが、びゅんびゅんと揺れている。通りを歩く人たちも、足を踏ん張って歩いている。ビルのそばを通るとき、風はさらに強くなり、私を押し戻す。
揺れる信号機が青に変わるのを確かめて、私は必死でペダルを漕ぐ。

さぁ、今日も一日が始まる。


2010年07月11日(日) 
はっとして起き上がる。今は何時で、何曜日だったろう。夢を見ていた、気持ちの悪いおどろおどろしい夢だった、それだけを覚えている。私は慌てて手元の時計を見、時間と曜日を確かめる。あぁそうか、今日は日曜日で、まだ午前三時。別に寝過ごしたわけでも、日にちを飛ばしたわけでもない。大丈夫。
隣に娘はいない。今頃じじばばの間で、くうくう寝息をたてながら眠っているはず。私は窓を開け、ベランダに出る。もわんとした空気。そして垂れ込める雲。
そういえばミルクやココアたちはどうしているだろう。昨日は遊んでくれる娘がいなかったから、さぞや退屈しただろう。そう思いながら籠に近づく。すでにココアは小屋から出てきており、籠の入り口にがっしと齧りついている。おはようココア。私は声を掛けながら扉を開け、飛び出してくるココアの体を受け止める。左目の具合を見る。まだ右目と大きさは異なるものの、この具合なら大丈夫だろう、と推測する。一時は獣医に診せなければいけないかなと思ったけれど。それにしても彼女は一体どこに目をぶつけたんだろう。籠の中、ぶつけてひっかかるようなものは何も置いていないはず。さっぱり分からない。そうしているうちにココアは私の腕を這い上がり、肩から肩へと移動し、もう一方の腕をたたたっと滑ってくる。そんなことしたら床に落ちるよ、と声を掛けながら、私は手のひらで彼女の体を受け止める。小さい。本当に小さい。ミルクやゴロと比べて、ひとまわりは余裕で小さい。この違いは何処から生じているんだろう。やはり食べる量なんだろうか。よく見れば、ココアの餌箱にはいつも、何かしらの餌が残っている。今朝も、穀類以外の餌は丸々残っている。一方ゴロやミルクの餌箱は空っぽで。やはりこの違いか。私は納得する。そうして、ココアの体の他の部分に異常がないことを確かめ、籠に戻す。
ミルクも起きてきた。おはようミルク。私は声を掛ける。でも、どうしてもミルクを手のひらに乗せることができない。噛まれることが怖いのだ。娘には一切噛むことがないのだけれども、私の手はがしがしと噛む。だから申し訳ないが、抱っこは我慢してもらうことにする。
ゴロはゴロで、後ろ足で立ってこちらを見上げている。私が手のひらを差し出すと、後ずさりする。仕方なく私は摘み上げ、ゴロを手のひらの乗せる。しかし、ゴロはすぐ、うんちをするのだ。しかもゆるゆるのうんちを。今朝もやっぱり早々にうんちをしてくれた。私は仕方なく、背中と頭だけ撫でて、彼女を籠に戻す。そうして手を洗う。
再びベランダへ出、辺りを見回す。灰色の空、灰色の町。全体が灰色にぼやけて見える。私はラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこみ、中を覗き込む。今朝もデージーは明るい色を放って微風に揺れている。そしてラヴェンダーは、細く長く伸びた枝葉が、プランターからはみ出そうな具合になっており。ここで一度切ってやるのがいいのかもしれない、とふと思う。どうしよう、切ろうか切るまいか。母に一度相談してからにしようか。ラヴェンダーというと、どうしても母の庭のラヴェンダーを思い出す。あの、両腕を伸ばしても抱えきれないほどの大きな大きなラヴェンダーの束。まさに束、といった具合に群れて咲いている。見事な茂み。何種類ものラヴェンダーが、庭のあちこちでそれぞれに咲いている。私が庭を持つことはあり得ないだろうけれど、もし庭があったなら、あんなふうにラヴェンダーを育ててみたい。そう思う。
小さな挿し木を集めたプランターの中を覗く。一本、葉を出したのに枯れ始めたものがいる。あぁぁ、と私は溜息をつく。これもまた、駄目になってしまうのか。そう思うと切ない。でも、まだ抜くには早いはず。そう思って枝をちょっとひっぱってみる。すると、思ってもみなかった反動が指に伝わってくる。これは、根だ。根が生えている。私はどきんとする。根が生えてきたというのに、上は枯れてきてしまったということか。なんてこったろう。私は唇を噛む。何とかならないものか。でも、この行方を知っている者は誰もいなくて。私はただ、彼らが生きて死ぬのを見守るしか、ない。
ミミエデン、沈黙の時間。どこにも新芽の気配はなく。ただじっと、プランターの隅、佇んでいる。私とミミエデンは、実は相性が悪いんじゃなかろうか、とふと思う。いくら一生懸命見守っていても、いつも枯れてしまう。私の元では、彼女はうまく育ってくれないんじゃなかろうか。これなら母のところにでも嫁に出してあげた方が、ずっとミミエデンのためになるんじゃなかろうか。そんなことさえ思ってしまう。でも。
私はミミエデンの花が、好きなのだ。あの小さくても彩り豊かな、ピンク色から白へのグラデーションを描く小さな小さな花が、大好きなのだ。だからもう一度でいい、あの花を、見たい。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローも沈黙の時間。今のところ新芽の気配はなく。ただじっと、そこに佇んでいる。しんしんと立つその姿は、こちらの心をまるで見透かしてしまうような、そんな強さが在る。
ベビーロマンティカから出てきた新芽は、これまたかわいい、萌黄色の赤子。小さな小さな手をちょこねんと今、突き出しているところ。その初々しさは、艶々と輝いて、この灰色の空の下でも、鮮やかに輝いて見える。早く出ておいで。待っているよ。私は心の中、そう声を掛ける。
パスカリの、花芽をつけている一本は。細っこい枝葉を必死に広げ、蕾をまるで守るようにしながら立っている。たったひとつの蕾。昨日よりまたひとまわり、大きくなった。本来ならもっともっと大きくなるはずの蕾だけれど、この細い枝にくっついているのだもの、小さくて十分。あまり枝に重荷になる前に、咲いてほしいと思う。
もう一本のパスカリは、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹と共に沈黙している。こうしてみると、今沈黙している樹の何と多いことか。天候がこんなに不安定では、安心して枝葉を広げてもいられないということなんだろうか。それとももっと、私の方に落ち度があるんだろうか。私はじっと、パスカリの枝葉を見つめながら考える。しかし、何も思いつかない。
昨日会った友人に、突然言われた。おまえは年々幼くなっていくような気がするなぁ。何それ? いや、若くなるのは無理なんだけど、何だろう、こう、気持ちが柔らかくなっていっているような、そんな感じを受けるよ。それは褒め言葉? だと思う。なら、ありがとう! ははは。
先日娘をディズニーランドに連れて行ってくれた友人の一人だ。高校の頃からのつきあいだから、一体もう何十年のつきあいなんだろう。二十年以上は年月が流れている。その間、本当にいろいろなことがあった。そもそも、友人は、自主制作の映画作りに私が参加し、それを陰ながらサポートしてくれた人の一人だった。当時は人を介してしか、話をすることもなかったが、私が就職したのを機に、親しく交わるようになった。
事件が遭って、私が発病して、それからも何かにつけ、私を外に出るよう誘ってくれた。どうしても駄目なときは、家までやってきて、飯を食おうと一緒に食卓を囲んでくれた。私が倒れたとき、何も言わずに介抱してくれたこともあったっけ。私がリストカットの嵐に見舞われている最中にやってきた彼が、何も言わずに手当てをしてくれたこともあったっけ。思い出すときりがない。お互い家庭を持って、それぞれの人生を歩むのかと思っていたら、私が離婚し、子供を一人で育てなければならない状況になった。そうしたらそうしたで、どうやって私の子育てを楽にしてやれるか、というようなことを、あれやこれや企画しては実行してくれる。だから娘にとっては、友人は父親でもお兄ちゃんでも友達でもない、何だか分からないけど特別な存在、というようなふうになっている。ありがたいことだ。
恋はしないのか。っていうか、出会いがないよ。出会いかぁ、俺の方が外に出てるわけだから俺に出会いがあったっていいのに、全然ないもんなぁ、お前に新しい出会いがあるわけもないかぁ。はっはっは。そうだよぉ。でもこの前娘ちゃんと遊んで、思ったぞ、娘ちゃんは、いつ母ちゃんに恋人ができても、それはそれでちゃんと喜んでくれる子なんだろうな、って。ええー、どうかなぁ、それは。いや、あの子はちゃんと分かってる。母ちゃんが幸せなら私も幸せ、ってなもんだよ。ふぅん、私にはちょっと分からないけど。だから早く恋人でも何でも作れよ。同性の友達は増えてくんだけどねぇ、異性はねぇ、どうもだめねぇ。まだ事件が尾を引いてるか? いや、それはないと思う、そういうことじゃなくて、何だろ、まぁ単純に、要するに、出会いがないってことだよ。それにさ、何だろうなぁ、娘を一人前にするまでは、そんな余裕もなさそうだし。そんなんだからだめなんだよなぁ。え、だめなの? 男作って、その男に何でもかんでもおっかぶさるぐらいの勢いがないと、男捕まえらんねぇぞ。あ、そっか。ははは、無理だ無理。なんていうかさ…ハンディが大きすぎるよ。ハンディって何だ? 私は子持ちでバツイチで、病気持ちで。もうそれだけで、重くない? んー、それで重いって奴は最初から頭数に入れない。はっはっは。そうすると、がががーんと人が減るよ。はっはっは。でも、そんなもん関係なくなるくらいの魅力は、お前は持ってると思うよ。うわー、すごい褒め言葉だ。いや、自信持てよ。いや、持てない。ははは。だめだ、こりゃ。だめだね、ははは。
夜、娘に電話をすると、すっかり熱も下がったようで。平熱以下しか熱がないよ、と笑っている。私もその笑い声を聴いて安心する。

お湯を沸かし、お茶を入れる。友人から貰ったハーブティーの一袋を開けて、入れてみる。ミントの香りがふわりと漂ってくる。すっとした味が喉の辺りに広がる。
何となく人の気配を窓の外に感じ、ベランダに出て通りを見てみると、何人もの老人たちが、学校の方に流れてゆく。あぁ、そうか、今日は選挙の投票日だった。こんな朝早くから行く人たちがいるんだなぁと、改めてその列を眺める。この列の先には、どんな結果が待っているんだろう。

友人と罪についての話をする。話していて、私は、自分自身を罪人だと思っているということに行き着く。確かに私は法を犯してはいない。しかし、人の心をこれまでどれだけ犯してきただろう。たとえば私がリストカットを繰り返すことで、それが映像となって心に刻み込まれ、そう、いわゆるトラウマになってしまった友人がいた。その友人はやがて私から離れていった。あなたが嫌いなんじゃない、でも、あなたといるとあのことを思い出して私は辛くなる、そう言って。たとえば私がたとえそれが病気の症状であったとはいえ、相手を傷つけ、距離を置かざるを得ない状況にさせた、そういうことが、どれだけたくさんあっただろう。法を犯していずとも、人の心をそうやって踏みつけにした、切り刻んだ、それもまた、或る意味での罪じゃぁないのか、だったら私は、れっきとした罪人なんじゃぁないのか。

私は玄関を出、階段を駆け下りる。いつの間にか何人もの人たちが、小学校へ向かって歩いている。私は自転車に跨り走り出す。小学校の体育館脇を通ると、開け放たれた扉の向こう、並ぶ箱が見えた。
そのまま走り、坂を下って公園の前へ。自転車を乗り入れ、公園の中の小さな急坂をのぼる。そうして現れる池の端に立って、辺りを見回す。今朝は猫も千鳥もいない。私は空を見上げる。ぽっかり空いた茂みの間から、灰色の空が見える。風も微風で、池の水が揺れることはなく。私は試しに小石を投げ入れる。途端にぱっと生まれる波紋。私はそれが消えるまで、じっと眺めている。
再び走り出し、大通りを渡って高架下を潜り、埋立地へ。雲の向こうに、発光する太陽の徴が見える。あそこに太陽は在るのか、そう思いながら私は目を細め見上げる。今日一日この雲が晴れることはないんだろうか。世界はどこか、雲の向こう側。
真っ直ぐ走って走って、港へ。もう忙しげに巡視艇が出ている。向こうに大きな橋が霞んで見える。鴎が一羽、私の目の前を横切ってゆく。
さぁ、今日も一日が始まる。


2010年07月10日(土) 
久しぶりに激しい雨を見た。ざんざんと叩きつけるように降る雨を、部屋の中からぼんやり眺めていた。でもそれもほんの短い時間で止んでしまい、後にはすかっとした夜空がぽっかり広がっていた。泣くだけ泣いて気が済んだ、というような具合なんだろうか。
起き上がり、窓を開ける。湿ってはいるがすんなりと風が流れている。街路樹の緑が艶々している。昨日の雨で一切の埃が流れ去ったかのよう。きらきらとした陽光が東から伸びてきているのがありありと分かる。トタン屋根がくっきりと、その光の中浮かび上がる。見上げれば空には、ところどころ雲が残るものの、水色が広がっている。あぁ久しぶりだ、と、私は手を伸ばす。高い高い、水色の空。
ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。長く伸びたラヴェンダーが、鉢からはみ出しそうになっている。そんなにも気づいたら伸びていた。でも花芽はまだ何処にも見当たらない。今は枝葉を伸ばすことで精一杯なのだろう。それでいい。
デージーはまた次々新たな花を咲かせており。小さな小さな黄色い花が、ぱっと開いている。そこにだけ、とびきりの鮮やかな絵の具をひいたかのよう。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、今も沈黙の時間を過ごしている。それでも何だろう、真っ直ぐに天を向いているその姿は雄々しく、逞しい。
ミミエデンはひっそりと、プランターの端っこに佇んでいる。今のところ新しい葉の気配はなく。大丈夫だろうか。どうしてだろう、ミミエデンに関しては、ホワイトクリスマスを見るようには安心して見ていられない。どうも心配になってしまう。生きているんだろうか、ちゃんと呼吸しているだろうか、と。そうであってくれますよう、祈るように思う。
ベビーロマンティカは、もう新芽をぐいと伸ばし始めている。二、三箇所から、新たな萌黄色の、艶々した芽が出てきている。この樹はどうしてここまで元気なのだろう。いや、元気というより、生き急いでいるかに見える。そんなに急いで次々やってのけなくてもいいのに、と、正直思ってしまう。大丈夫だよ、私はもう少し、気が長い。
パスカリの一本、花芽がくっきりと頭をもたげている。細っこい枝の一番天辺についている蕾。朝見るごとに、少しずつ、少しずつ、その姿を露にしてゆく。きっとここで咲くのは小さな花だろう。それでもいい、パスカリの姿が久しぶりに見られるのなら。
もう一本のパスカリは、新芽を出すわけでもなく、枯れるわけでもなく、ただそこに佇んでいる。しんしんと。桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹と共に、沈黙を守っている。
今日はゴミの日。突然思いついて、もう古くなった土を、捨てることにする。以前ラナンキュラスを植えていたプランターの土、以前挿し木をするために使っていたプランターの土、両方を、どどどっとゴミ袋に入れる。一番下の、軽石だけ掻き集めて、それ以外は捨てることにする。
玄関を開けると、ごごごっと音を立てそうな勢いで、陽光が降り注いでくる。思わず手を翳し、陽射しを遮るのだが、それでも眩しい。こんな陽光はどのくらいぶりだろう。東の、高いところの空を見上げ、ふっと息が漏れる。なんてきれいな水色の空。生まれたての空、という感じ。校庭の端っこで、プールの水が陽光を受けて乱反射している。
ゴミ捨て場とベランダとを二往復すると、背中に汗の玉が流れてくる。そのくらい、陽射しが強いのだ。今日は日焼け止めをこまめに塗らないと、とんでもないことになるかもしれない。
昨日、友人と話しをした。一クライアントとして実際に病院などでカウンセリングを受けたことの在る人間は、クラスで二人きり、私とその友人のみ。その友人とは、時折授業後に話し込んだことがある。
友人と二人、最初に出てきた言葉は、ついていけてないね、という言葉だった。クラス全体が今、試験をどう切り抜けるかといった雰囲気に染まっている。試験のための勉強になってきている。質問も、試験でならどう受け答えすればいいんですか、といったものばかり。そういった雰囲気に、私たちは二人とも、ついていけてない、ということ。
試験に受かることは大切だ。確かに大切だ。でも、何だろう、試験の後の方が、本当は大切なんじゃないのか。その思いが、私たち二人には在った。実際に、お金を払ってまでカウンセリングを受けに来ようとしている人を、どれだけ受け止められるか、受け容れられるか、引き受けられるか、そういったことに、私たちはどうしても重点を置いてしまう。試験をクリアするためのポイントを追うことより、そちらの方が大切に思えてしまう。でも。現実は違うのだ。現実は。テストをどうクリアするか、それが重要なのだ。今、クラスでは。
こういう人たちがカウンセラーになっていくのかと思ったら、私、もう二度とカウンセリングなんて受けたくないって思ってしまうのよ。彼女が言う。それは私も同様だった。テストのための勉強に終始しているクラスメートは、それはそれですごいと思うのだが、それを見るにつけ、こんなんでいいんだろうかと思ってしまうのだ。
傾聴のクラスも、見立てや目標を述べることに重点を置いていて、クライアント役の人の話なんて、あまり届いてなくて、そういうのを見ると、ここでクライアント役をやることがとても嫌になってしまうの、本当のことなんて、何も話したくないって思ってしまうの。彼女が言う。私はその言葉を聴きながら、自分はちょっと逆だと思った。本当のことを話すから、ちゃんと受け止めて見立てをして頂戴よ、と思っている。いつだったか、私がクライアント役をしていたとき、私には無理だわ、と投げ出すカウンセラー役の人がいた。こんな重い話、私、引き受けられない、聴いていられない、と。
でも。実際の現場では、そういった、重い話といわれるような話が、ごまんとあるんじゃなかろうか。違うんだろうか。
この授業を終えることで、卒業したという資格を得ることで、いつでも試験は受けられるのだから、慌てないで、焦らないで、自分なりの勉強を重ねていきたいって、私、そう思ったの。彼女が言う。私はそれに、ゆっくりと頷く。
私たちはいわゆる、負け犬なのかもしれない。テストを怖がってるだけ、と取られても仕方がない。私たち自身、自分たちの弱さを感じている。でも。
クライアントになったことがあるからこそ、カウンセリングというものがどれほど大切な場であるのかを私たちは知っている。それをないがしろには、どうやってもできないのだ。その気持ちを忘れることは、やはりどうやっても、できない。
私たちは、自分なりのペースを信じてやっていこう、と誓い合い、別れる。彼女と手を振り合いながら、こんなふうに話ができる人が一人でもいたことに、私は感謝する。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。夏が終わるまでは、もたないだろうな、と、生姜茶の袋を覗き込みながら思う。夏が終わる前に、さっさと生姜茶はなくなってしまうだろう。しばらく寂しい日が続くんだろうなぁと思う。代わりになるようなお茶は、見つかるだろうか。また秋、冬にならなければ、店には入荷されないと言っていた。それまで、どんなお茶を飲もう。
開け放した窓から、吐き出した煙草の煙がすいすいっと流れ出てゆく。明るい明るい、水色の空へ。溶け出してゆく。
娘が突然、体温計貸して、と寝床から言う。どうしたの、と訊くと、なんか体がだるいよ、と言う。計ってみると微熱がある。珍しい。熱慣れしている私と違って、娘はほんのちょっとの微熱でも、もうくたくたになっている。べそをかきながら、ママ、どうしようか、と言う。とりあえず準備して、済ませなきゃいけないことだけ済ませてしまおうか、と私は提案する。その後は、熱の具合を見て決めよう、ということになった。
べそをかきながらも、ココアの具合を見ることは忘れない娘。ママ、だいぶ目、よくなってきたみたい。うん、ママもさっき見た。ずいぶんよくなってきたよね。これなら大丈夫だよ。うん、そうだね。

防衛機制について勉強していて、自分の中でかつて、防衛機制の中でも強度といわれる抑圧や否認、隔離といったものがあった時期があったなぁと省みる。性犯罪被害に遭って、しばらくの間私は、その現場での状況を思い出すことができなかった。また、病院に通い始め、だいぶ経った頃、継続的に関係を強いられてきた事実を思い出し、パニックを起こした。また、それを思い出すことによって、私はますます、自分が穢れているものに思え、どんどん堕ちていった。
でも何だろう、私は思い出したことによって、その現実を事実を見据えざるを得ない状況に迫られた。そのことは、結果として、よかったんじゃないかと思える。でなければ、いつまでも現実から目を逸らして、事実を事実として受け容れることができずに過ごしていったかもしれない。そうなったらもっと悲惨だ。私は私自身を自分で歪めてしまうことになりかねなかった。だから早い時期に、しかもあの女医のもとで、そういうものと向き合ってこれたことに、今は感謝する。

ママ、熱が下がらなかったら迎えに来てくれる? もちろん。テスト悪い点でもいい? それが頑張った結果なら、仕方ないと思うよ。わかった、じゃぁ頑張ってくる! うん、頑張っておいで、応援してるから! 手を振って別れる。バスに乗った娘は、バスが動き出すまでずっと、私に手を振っていてくれた。もちろん私も。
娘を見送り、自転車に跨って走り出す。昨日友人と話ができたおかげで、心はだいぶ軽くなった。おかげで割り切ることもできた。自分なりにやっていけばいいんだ、と今は素直に思える。
信号を渡り、公園の前へ。鬱蒼と茂る緑の匂いが、通りにまで溢れている。紫陽花はもう、次々枯れ始めており。色褪せた丸い塊が、それでも枝にくっついて、重たそうだ。
大通りを渡り、高架下へ。数年前までここは、落書き天国だった。それが今はどうだろう、すっかり消されて、塗り替えられ、冷たい壁とアスファルトとが続いている。どぎつい落書きは見ているだけで辛かったけれど、この冷たい壁の色は色で、ちょっと寂しい気がする。
そんなことを思いながら、埋立地へ。銀杏並木の向こうから、さんさんと降り注ぐ陽光。目を細めても眩しい。信号が青になるのを待って私は再び走り出す。
さぁ今日も一日が始まる。私は私で信じる道を行けば、いい。


2010年07月09日(金) 
ココアの回し車の音が延々と続いている。その音でどうにもこうにも眠れない。午前一時、迷いに迷った末、頓服を二錠飲む。これでも眠れないなら諦めよう、そう思った。
目の縁を怪我しているココアは、昨夜大量に目やにを出していた。それを見た娘が、またまた心配になって、ココアの籠を枕と枕の間に置いたのだ。娘はことんと寝入ってしまうから気がつかないのかもしれないが、夜が更けるにつれて大きくなる回し車の音。私はたまったものじゃない。かといって、夜行性のハムスターを怒るわけにもいかず。
薬を飲んで横になったものの、しばらくは眠れず。悶々と過ごす。一方ココアは、元気よく回し車を回し続けている。こんなに回し続けても飽きないのか、と、半ば私は感心してしまう。
結局朝まで、悶々と過ごし、私は起き上がる。窓の外はどんよりと曇っており。いつ雨が落ちてきてもおかしくはない気配。今日もまた雨か、と思っていると、さぁっと雨が降ってきた。まるで私が呼んだかのようで、何となく気まずい思いをする。呼んだわけじゃないんだけどなぁ、と思う。それは細かな細かな雨で、細い細い霧雨のようで。しとしとという音ではなく、さぁっという音を奏で。私はしばしその音に耳を傾ける。街路樹の葉に当たる雨の音、トタン屋根に当たる雨の音、みんなそれぞれ、響きが微妙に違う。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。長く伸びすぎた枝が、くたっと土近くに倒れ込んでいる。昨日水を遣ったから、水分不足というわけではない。単に、横に伸びすぎて、頭が重すぎて、支えられなくなった、というところ。何となくおかしくて、私はくすりと笑う。どういう姿であろうと、育ってくれているというのは嬉しい。
デージーは、次々に花を咲かせており。小さな小さな、黄色い花。その花びらはほんの一センチあるかないかの長さなのだけれども、黄色というだけで、花の辺りがぽっと明るく見えてくる。こんな曇天の下でも、黄色は黄色、鮮やかに色を放っている。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、沈黙の時間。大き目の葉をそれぞれに広げ、じっと佇んでいる。比べると、ホワイトクリスマスの葉の方がひとまわり、マリリン・モンローのそれよりも大きい。そしてまた、柔らかい。マリリン・モンローは頑丈そうな葉を茂らせている。今、何処から新芽を出そうか、考えている、というような感じがする。
ミミエデンは、じっとプランターの片隅に佇んでいる。どれもこれも、伸ばした葉が病葉だったのだもの、ミミエデンとしてもショックだろうなぁと思う。次に伸ばす葉が、どうか病葉ではありませんよう、私は祈るように思う。
ベビーロマンティカは、早々に新芽の塊を幾つか見せ始めており。白緑色の、新芽の塊。枝葉の間にちょこねんと、在る。耳を傾けてみるのだが、今朝はそんなに賑やかなおしゃべりは聴こえてこない。小さな小さな囁き声がしているだけ。
パスカリの一本、花芽をつけた方は、花芽を出した途端、忙しくなってきた、といった雰囲気。花芽は昨日より一段と姿を露にし。周囲の緑とは異なる、白っぽい緑色をして、くいっと首を上げている。無事に咲けよ、と、私は心の中、声を掛ける。
もう一本のパスカリは、沈黙を続けている。昨日、心配を抱えながらも、たっぷり水を遣った。次に現れる葉がどうか病葉ではありませんよう、私は祈る。
展覧会の折に頂いた薔薇の枝を、挿してあるのだが、今のところ二本が、生き延びてくれそうな雰囲気。さて、どうなるだろう。どの色の枝が残ったのかもう分からないが、どの色であっても、生き延びて、新葉を出してくれるなら、もうそれで、いい。
部屋に戻ろうとしたところで、金魚たちと目が合う。はいはい、餌だよね、と言いながら、私は水槽の蓋を開け、餌を振り入れる。一度沈んで、それから浮かび上がってきて餌を食べる金魚たち。大きな大きな尾鰭が、自由自在に動くのを、私はしばらく眺めている。
正直、憂鬱なのだ、今朝は。起きたときから憂鬱だ。この憂鬱さは何処から来るのか、もう自分には分かっている。
今日は通常の授業と、午後に傾聴の授業とがある。その、午後の授業をどうするか、で、憂鬱になっているのだ。
先週、早退なんてことを仕出かす前は、毎週受けてしまおうと思っていた。でも。
もともと傾聴の授業は二週に一回、というリズムで為される。それがたまたまこの曜日のこの時間だけ、毎週授業が為されることになっている。授業の振り替えは自由にできる。だから、たとえばこの時間帯の授業を三回受けて、別の学校で別の時間帯に授業を受けることも、可能なのだ。
午前、午後、ぶっつづけで授業を受けることが、今の私には酷くしんどいことが、先日分かった。あの時は疲れすぎていただけだ、といえなくもないが、それでも、しんどかった。中途半端になるよりも、別々の時間帯で受ける方が私には有効なんじゃなかろうか。
と同時に、まるで、私は自分が逃げているように思えるのだ。最初決めたのに、決めたとおりにできないだなんて、と。一度早退してしまったからといって、次休むなんて、どういうことなんだ、と。
自分で自分を責めている。だから私の憂鬱度はどんどん増してゆく。たまらなくなって、私は頭を抱える。抱えてみるものの、いい案は、何も浮かんでこない。
溜まっているのだ、私の中に。いろんなものが。吐き出したい、吐き出したい、と、それは叫んでいて、でも、吐き出せる相手がいなくて、私は沈黙するしかなくて。
悪循環だな、と思った。そう思って、苦笑した。
天井を見上げ、思った。自分って何て弱虫なんだろう、と。弱虫いじけ虫。みみっちいなぁと思った。
でもそれが、今の私の現実なのだと言うことを、同時にいやというほど感じた。
しばらくこの、弱虫いじけ虫の自分を、見つめてみようと思う。

お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶の入ったマグカップを持って、椅子に座る。窓の外の雨はいつの間にか止んだらしい。雨の匂いだけが微風に混じって漂ってくる。私は煙草に火をつける、そのついでに、お香にも火をつける。
今頃大叔父は、祖父や祖母と再会しているだろうか。もちろん大叔母とも再会し、またいつものように手を繋いで、笑い合っているんだろうか。
なんだかちょっと羨ましい。

ママ、「カラフル」読んだ。おお、読んだんだ。どうだった? おもしろかったよ、うん。ねぇ、次何読めばいいと思う? ママが出しておいた文庫本あったでしょ、あれ読めば? うーん、なんか字が小さすぎて、読む気にならないんだよねぇ。ははは。そっか。じゃぁ自分が読みたい本を読めばいい。読みたい本って、どうやって探すの? うーん、図書館行ったり、本屋さん行ったりして、そこで、あ、これだ!って本と出会うのがいいよね。ママはそうやってきたの? うん、たいていそうだね、で、気に入った作家が見つかったら、その作家の本を徹底的に読んでみる。って感じかな? ふーん、まだ作家とか、よく分かんないよ。そうなんだ、じゃぁ、ぱらぱら捲って、数ページなり数行読んでみて、これならいけるな、と思ったものを、次々読んでみればいいんじゃない? そんなんでいいの? いいと思うよ。本なんて出会いだから。でもばぁばは、名作って言われる本を今読みなさいって言うよ。いや、それはそれで正しいんだけど、興味ももてないのに読んだって、頭に入らなくない? うん。だったら、自分がいいなぁって思うものを読んで、心に響くものを得る方が、ずっといいと思うよ、ママは。ふーん、ママと、じじばばの言うことって、時々ものすごーく違うから、困るよね。はっはっは。そりゃ、仕方ない。じじばばは正統派だから。正統派? うーん、こう、なんていうのかなぁ、正しいって言われていることを、当たり前にやってきた人たちだからっていうような意味かな。ママは違うの? うん、多分、ママは、わき道寄り道して、あっちこっち歩いてきた方だと思うよ。ふーん。だめじゃん。ははははは。まぁまぁ、それもありってことよ。

じゃぁね、それじゃぁね。お弁当作ってあるからね、持っていくんだよ。わかったー! 手を振って別れる。玄関前。
階段を駆け下り、バス停へ、と、その瞬間、バスは去ってゆき。残念、乗り遅れた。私は十分ほど待って、次のバスに乗る。
誰もが傘を持っている。今もまた、雨がぱらついている。雨がバスの窓に描く筋が、点々とついている。
駅に着き、歩き出す。川を渡るところで立ち止まり、私は川を覗き込む。今日もまた、水母が山ほど。川にどうしてこんなに水母がいるのか、私は不思議でしょうがない。こんなに川にいるってことは、海にはもっともっと水母がいるってことなんだろうか?
憂鬱は憂鬱としてそのままに。心の隅にそっと置いてある。どのみち、自分で決めるしかないこと。
さぁ、今日も一日が始まる。私は橋を渡り、真っ直ぐに歩き出す。


2010年07月08日(木) 
寝ようとする段になって、娘がばたばたし始める。どうしたの? ママ、ママ、ココアの目が変なんだよ。ほら。ん? わかんないの? ほら、赤くなってるじゃん。あらほんとだ、どうしたんだろう。ねぇ、どうしよう、病院行かなくていいの? 今病院やってないよ。でも、何かあったらどうしよう、ねぇどうしよう。大丈夫だよ、このくらいなら。どこかにひっかけたんじゃないのかな。でも、どうしよう、どうしよう、ねぇ今日、ココアの籠、枕の隣に持ってきていい? えぇっ? いいよね、いいよね? …しょうがないなぁ。そうして私と娘の枕の間に、ココアの籠が置かれ、灯りを消した。しかし、娘はことんと寝入ったものの、私はといえば、ココアの回し車を回す音でどうにも眠れず。結局うとうとするばかりで熟睡できずに朝を迎える。目覚めてすぐ、ココアを手のひらに乗せ、左目のところを見てみたが、これなら大丈夫そうだ、と判断する。よかった。実は、回し車の音を聴きながら、どうしよう、何かあったら、と私は思っていたのだ。ハムスターが自分から頭をどこかにぶつけるとは思えないし、よりにもよって目の周りが赤くなるというのは、解せなかった。だから心配だった。でもよかった、これなら大丈夫だ。
起き上がり、窓を開ける。夜のうちにまた雨が降ったのだろう、アスファルトが湿っている。けれど、何だろう、風が軽い。そう思いながらベランダに立って空を見上げると、昨日までの雲とは全く異なる、軽い雲が広がっている。玄関に回り、東の空を見上げてみれば、明るい陽光が伸びてきている。よかった、今日は晴れる。
ベランダに戻り、ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。ラヴェンダーはもうだいぶ伸びてきた。四本の枝からそれぞれに伸びて、長いものは私の手のひらを超える長さになっている。そしてデージーはデージーで、次々花を咲かせている。黄色い黄色い、小さな花だけれど、そこだけぽっと明るい火が点っているように見える。元気の印。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、天を向いて、しんしんと立っている。マリリン・モンローの足元の方、枯れた葉を今日も何枚か摘む。摘むというより、触っただけでほろりと落ちる。新芽の気配は、今のところ、ない。ホワイトクリスマスは枯れる葉もなく、ただじっと、そそり立っている。
ミミエデン。病葉の何枚かを摘んでゆく。こちらも今のところ新芽の気配は、ない。正直、ミミエデンは自信がない。いつ枯れるか、いつ倒れてしまうか、と心配でならない。毎朝こうして見つめているが、このままになってしまったらどうしよう、と、いつも心のどこかで思っている。
ベビーロマンティカは、もう新芽の気配を漂わせている。早い。なんでこんなに次々反応するんだろう、この樹は。目を見張るばかりだ。私は半ば呆気にとられながら、樹の、新芽の塊の部分を見つめる。嬉しいけれど、大丈夫なんだろうか、ミミエデンとは別の意味で心配になる。こんなに次々。少しは休んでいいのに、と。
パスカリの一本。花芽を見せ始めた樹を、じっと見つめる。昨日よりふっくらして、明らかに花芽と分かるようになった。それにしても、何だろう、この樹は、縦に伸びるのではなく、今、横に広がっている。横に横に、と、枝葉を伸ばそうとしている。奇妙な伸び方をしているなぁと思いながら、私は葉にそっと触れる。柔らかい感触が、指の腹に伝わってくる。
もう一本のパスカリは、今、まだ沈黙の時間らしい。じっと黙って、佇んでいる。水が足りないのかと水を遣れば、うどん粉病を発してしまう樹。どうしてやるのが一番いいのだろう。
部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れてそのマグカップを持って机へ。椅子に座り再び空を見上げる。開け放した窓から見える空は、まだ雲がかかっているものの、じきにそれも消えてゆくんだろう。そんな気配がしている。天気予報では最近、ゲリラ雷雨という言葉が繰り返し聴かれる。私の住むこの辺りは、そのゲリラ雷雨というものには今のところ襲われていないけれど。友人たちの住む街は、どうなんだろう。大丈夫だろうか。
テレビを眺めていた娘が突如言う。ねぇママ、冤罪って何? 冤罪かぁ、罪を犯してないのに、罪を犯したってされてしまうこと、かなぁ。なんでそんなことが起きるの? なんでだろう、ママは警察嫌いだから、よく分からない。ママ、なんで警察嫌いなの? うーん、ママ、警察でいやな目にあったことがあるから。どういうこと? それは、あなたがもう少し大きくなったら話すよ。どうして今じゃないの? 今はまだママが話したくないから。ふーん。
まだ話したくはない。というのは正確だろうか。まだ君が受け止め切れないんじゃないかと思うから、私はまだ話したくないと思うのだ。警察官は正しいことをする人、規律を守ってくれる人、と学校で習っただろう。でも、その警察官が、酷いことをしでかす可能性を持っている人だなんて、今彼女が知ったら、どうなるんだろう。人間であれば誰でも、どんな立場に立つ人であっても、間違いを犯す可能性がある、ということを、何歳になったらあなたは、考えるようになるんだろう。
今でこそ、PTSDのことも知られるようになり、勉強をしている警察官は、処方箋を述べただけで、PTSDであることを察知し、それなりの対応をしてくれることもある、と、友人に聴いた。私が被害に遭った頃はまだ、そういう体制は整っていず。散々な対応をされたことを思い出す。性犯罪被害というものにも、そもそも偏見があった。いや、今もまだ、それらは残っているのかもしれないが。弁護士にも、そういう偏見はあった。ストックホルム症候群というものを、理解できる弁護士など、何処にもいなかった。犯罪被害者が、犯人に対し、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことなどあり得ない、と、一蹴されるばかりだった。当時を振り返って、つくづく思う。
私は幸運だったと思う。最初に駆け込んだ病院で、あの女医と出会うことができた。PTSDに関する知識を豊富に持つ医者に。もし出会うことができていなければ、私は今頃どうなっていただろう。それを考えるとぞっとする。私の状態を見てすぐ、医者は私に説明をしてくれた。これがどんな病気で、だから今私が呈する症状はちっともおかしなものではないということを。それが、当時の私をどれほどに安心させたか知れない。理解してもらえないというところから、理解してくれる人が一人でもいる、というところに引き上げられたのだ。それはとてつもなく大きな違いだった。
そしてまた、場所は違えど、殆どといっていいほど同じ被害に苦しんでいる友人を見つけた。その友人と、国際電話を通じて、何度抱き合ったことだろう。お互いに励まし合い、慰め合いしながら、必死の思いで生き延びた。
その友人を含め、私が生き延びてくる過程で得た友人たちは、今、当たり前のように私の心の中に在る。そしてまた、私の娘の中にも在てくれている。その友人たちの経緯をいつか、私は話すことがあるのかもしれない。いや、いずれ話すだろう。でもその時はいつか。いつだろう。まだ、分からない。中学に入ってすぐかもしれないし、高校生になる頃になるかもしれない。あの子の様子を見ながら、それは推し量っていきたいと思う。

「あなたが何かを理解したいと思っているとき、あなたの精神状態はどのようになっているのでしょうか。…そういうときには、あなたは他の人が言っていることを分析したり、批判したり、判断を下したりしてはいないのです。あなたはただ耳を傾けているのではないでしょうか。あなたの精神は、思考の過程が活発に動いているのではなく、油断なく見張っている状態になっているのです。その状態は時間に属するものでしょうか。あなたはただ油断なく観察し、受動的に感受性が強く、しかも十分に意識が働いているのです。このような状態の中にのみ、理解が生まれるのです」「あなたが間違いを間違いとして認識したとき、あなたは真実そのものが何であるか知り始めるのです。そしてあなたをその背景から解放してくれるのは、その真実なのです」

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。
自転車に跨り、走り出す。日向を通った途端、ぐんと気温が上がるのを感じる。それどころか、この時間から肌がひりひり焼け付くような、そんな感覚を覚える。一体今日は何処まで暑くなるんだか。
坂を下り、信号を渡って公園の前へ。烏がやけに公園の柵沿いに集っている。烏に見つからないようそっと自転車を押して、公園の中に入る。池の端に立ち、見上げると、ぽっかり空いた樹の茂みの向こう、青々とした空が広がっているのが分かる。空の高いところでは風が強く流れているんだろうか。薄い雲がびゅんびゅんと流れてゆく。ふと池の向こう岸に目を遣ると、トラ猫が、大きく伸びをして、去ってゆくところだった。もしかしたら朝寝の邪魔をしてしまったのかもしれない。申し訳ないことをした。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木は、見事な日陰を作ってくれる程に育っており。私はその日陰を走ってゆく。交差点で信号待ちしていると、朝の散歩なんだろう、大きな大きな白と黒の犬を二匹連れたおじさんが、ゆったりと歩いてくる。私とすれ違うときも、お行儀よく通り過ぎていった。思わず微笑んでしまう。
信号を渡り、真っ直ぐ走る。モミジフウも今はすっかり茂っており。じきにあの、いつもの実の姿も見られるようになるんだろう。今年はまた、娘と拾いにきて、季節になったらリースでも作ろうかと思う。
辿り着いた海と川とが繋がる場所。ここにも、水母が山ほど漂っている。正直ちょっとぞっとする光景だ。あまりの夥しい水母の数に、慄いてしまう。港を見回すと、巡視艇が行き交っているところで。遠くに汽笛が響いている。
さぁ今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、走り出す。


2010年07月07日(水) 
目を覚まし、隣を見やる。娘はまた私の顔の方に足を向け、ついでに素っ裸で眠っている。それでも蚊に食われないというのだから羨ましい。私はといえば、一晩のうちに三、四箇所は食われているという始末。今朝は足首と右手の指の関節に二箇所。どこもかしこも痒い。掻き毟る前に薬を塗らないと、と起き上がる。
薬を塗り、ベランダに出る。ぞっとするほど雲が間近に迫っており。いつ雨が降り出してもおかしくはないといった具合。鼠色のもくもくとした雲。手を伸ばしたらすぐ届きそうなほど接近している。こんなに重たい雲はどのくらいぶりだろう。見上げながら思う。なんだか雲が怒っているような、そう、悲しみに怒り慄いているような、そんなふうにさえ見える。街路樹に目を移すと、じっと黙って、そこに佇んでいる。くわぁ、という甲高い声が響き渡った。烏だ、今朝はやけに烏が多い。ゴミの収集日でもないのにどうしたんだろう。気味が悪い。一方雀は、遠慮深げに、電線の隅、縮こまっている。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。四本のラヴェンダーの枝は、思い思いの方向に枝葉を伸ばしている。まだ花芽は見えない。葉に鼻をくっつけると、あのラヴェンダー独特の香りが漂ってくる。そういえば埋立地にあるホームセンターに、これとは種類の異なるラヴェンダーが安く売っていたっけ。もう花も咲いている株が、だだだっと表に並べられていたのを思い出す。
その隣、デージーは小さな花を次々つけ始めている。やはりこんな空の下でも、黄色は元気に輝いている。私は別に黄色が好きなわけではないけれど、こんな天気の下、この色が在ってくれてよかったと思う。
ミミエデンは病葉を摘んだせいか、少しすかすかして見える。沈黙の時間。今度はどこから新芽が出てくれるだろう。その気配はまだないけれど。でもまた新芽を出してくれますよう、祈るように思う。
ベビーロマンティカは、蕾があった頃のようにおしゃべりは響いてこない。それでも、萌黄色の明るい葉の色が、ふわりと辺りを明るくしている。新芽の気配はどうだろう。全身をくまなく凝視したわけではないけれど、今のところ、その気配はないようだ。こちらもまた、沈黙の時間。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスも、しんしんと立っている。マリリン・モンローの、下の方、黄色くなってきた葉を幾枚か摘む。ホワイトクリスマスの方にはそういった葉はなく。ただしんしんと、じっと起立している。
パスカリの一本を見て、目を疑う。これは小さな小さな花芽じゃなかろうか。私はじっと凝視する。やはりそうだ、花芽だ。まだ爪の先ほどの大きさしかないけれども、間違いはない。あぁよかった、花をつける元気を、取り戻してくれたということなんだろうか。いや、でも、それにしては小さく、枝も細い。か弱さがこちらにもじんじんと伝わってくる。それでも咲こうとしてくれているのだ。大事にしないと。もう一本のパスカリは、新芽を出す気配もなく、ただじっとそこに佇んでいる。今のところこちらに病葉はないけれど。それにしては沈黙の時間が長すぎやしないだろうか。少し心配になる。
桃色の、ぼんぼりのような花をつける樹は、本当にちょこちょことだけれども、葉を伸ばしており。でも、その姿は小さいまま。それ以上大きくなることをまるで拒んでいるかのようで。何が足りないんだろう。もっと大きく枝葉を伸ばしてもいいだろうに。私は樹の前でじっとしゃがみこむ。そうしたからって何か変わるわけでもないのだけれども。
玄関の方に回って、校庭を見やる。まだ人の気配も何もない校庭。その向こうには埋立地の高層ビル群が見える。その高層ビルは、上の方がすっかり雲の中で。あの建物の一番上に立ったなら、何が見えるんだろう、何を触れるんだろう、思わず想像してしまう。校庭の端っこ、プールは、微風で微かに水が揺らいでおり。誰も居ないプールで泳いで見たいと、小さい頃そういえばいつも思っていたっけ、と突然思い出す。また、台風の日、大会に出るメンバーだけで練習した日のこともまた思い出す。どうせ濡れるのは同じだと、先生が練習を赦してくれたんだっけ。私たちはきゃぁきゃぁ喜びながら、ざんざん雨風の降る中、練習をしたんだった。懐かしい思い出。
ママ、と呼ばれて振り向くと、ぶわんっと空気が降ってきた。何、これ、と尋ねると、空気砲だと言う。クラブで作ったのだと、ダンボールに穴がひとつ開いた代物を見せてくれた。おずおずと尋ねる。ねぇこれ、何に使うの? ん? 使い道、ない! …。どうするの、これ。とっとくの? うん。すごく邪魔じゃない? じゃぁママ、棄てろっていうの? い、いや、すぐ棄てろとは言わないけれども、でも、やっぱり邪魔だと思うよ、この狭い部屋の中。…。んー。いや、だから、すぐに棄てろとは言わないけれども、いずれ棄ててもいい? 私が気がつかないように棄ててね。わ、わかった。
久しぶりに友人と会う。外国旅行から帰って来た友人は、少し寂しそうな顔をしていた。多分、旅がそれほどに楽しく充実したものだったんだろう。今度いつ外国にいる友人に会えるんだろう、と涙をほろほろと零した。私は彼女の声に耳を傾けながら、何も言えない、と思った。
西の町に住む友人から手紙が届く。どうして私ばかりが失っていくのだろう、どうして私ばかりが大切なものを失っていかなければならないんだろう。そんなことが書いてあった。私は何度か読み返し、その手紙を閉じた。今、私は何の言葉も返すことができない、と思った。そして思い出す。自分がそう思うしかできなかった時期が在ったことを。周りの人たちに比べて、自分ばかりがどうして、と思った。どうしてこんな目に遭わなければならないんだろう、と床を叩いた。どうして、どうして、どうして。そうしか思えなかった。
今ならどうなんだろう。今も、他人と自分とを比べてしまったら、どうしてなの、と思うことはある。だから、他人と自分とを極力比べないようにしている。比べてしまった途端に、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のように、がんじがらめになってしまう、そんな気がする。
そういったマイナスの感情は、まさにその言葉どおり、私をがんじがらめにする。身動きがとれなくなるほど、ぎゅうぎゅうに私を縛り付けてくる。そうして悲鳴を上げるしか、術がなくなる。それを繰り返すしかなかった時期もあったけれど。今はもう、それさえ疲れた。そうすることさえ、今は憚られる。
私の左腕、夥しい傷痕を何となく眺める。皮膚がでこぼこになるほど切り刻んだ腕。そのために失ったものの数の多さ。省みると、悲しいという言葉さえ出てこなくなるほど、しんしんとした穴がそこに在る。それは底なしの穴で、行き止まりというものがないような穴で。どこまでもどこまでも、吸い込まれてゆくだけの穴で。だから、私はここで踏ん張って、自分の足で踏ん張って、とどまるしか、ないと思う。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ふわふわと白い湯気の立つマグカップを持って、椅子に座る。開け放した窓の外、さぁっと流れるような音。ふと見れば、細かな雨が降っている。にわか雨だろうか。すぐ止むような気がする。今日はきっと、こうした細かな雨の繰り返しのような気がする。
そう思って天気予報を見ていると、昨夜知人の町が水に浸ったというニュースが流れる。大丈夫だったろうか、友人に連れられて走ったことのある街並みがテレビの向こう、流れている。ここからそう遠くないところに友の家は在ったはず。ふと横を見ると、娘も起き上がってきてテレビを見ている。これ、Gさんとこの街? そうだよ。Gさん大丈夫なのかな。うーん、どうだろう、大変なことになっていなきゃいいけどねぇ。ママ、ここって高台? この部屋? うん。そうだね、高いところに立ってるね。じゃぁ水浸しにはならない? うん、よほどのことがない限り、大丈夫だと思うよ。よかった。…。
お香に火をつける。ぷわんと漂ってくる懐かしい香り。それと一緒に煙草にも火をつける。煙がふわふわと、窓の外に流れ出してゆく。やはり外の雨はじきに止みそうだ。

「生きていながら死ぬことは可能でしょうか。ということは、死んで無になるという意味なのです。すべてのものがより以上のものになろうとしたり、またそれに失敗したり、すべてのものが出世し、到達し、成功しようとしているような世界で生きていて、果たして私たちは死を知ることができるでしょうか。すべての記憶を清算することはできるでしょうか。それは事実や、あなたの家の道順などについての記憶のことを言っているのではありません。それは記憶を通しての心理的な安全に対する執着や、あなたが今までに蓄積し貯えてきた記憶で、その中にあなたが安全や幸福を求めているような種類の記憶のことなのです。そのような記憶をすべて清算して片付けてしまうことはできるでしょうか。ということは、明日新しく生まれ変わるために、毎日毎日死んでゆくという意味なのです。そのときに初めて、私たちは生きていながら死を知ることができるのです。そのような死と、持続の終焉の中にのみ新生と、永遠のものである創造が生まれるのです」

ママ、もう時間だから行くよ、了解、気をつけてね、朝練頑張って。うんうん、じゃあね! 手を振って別れる。玄関。
娘を見送った後、簡単なお弁当を作って、私も家を出る。雨に濡れてもいい格好で、自転車に跨り走り出す。
坂を下り、信号を渡ると公園が目の前に現れる。鬱蒼と茂った緑が、もはや垂れ下がるほど。公園の片側を取り囲む紫陽花は、もう半ば枯れかかってきており。茶色くなったもの、白茶けたもの、それぞれにまだ紫陽花の樹にくっついている。紫陽花の花というのは不思議だ。ぽとりと落ちるわけでもなく、はらはらと花びらが散ってゆくわけでもなく。その丸い形のまま、長いこと枝にくっついている。冬、この公園を歩いていると、幾つものそうした枯れて乾燥しきった紫陽花の花殻に出会う。
公園を通り抜け、大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。低く垂れ込めた雲は、もくもくと海の向こうまで続いているかのようで。私はその下を、ただ真っ直ぐに走る。
プラタナスの並木道。この時間は仕入れの車しか通らない。その道をただ真っ直ぐに走ってゆく。プラタナス独特の幹の具合を横目に流し見ながら、私は走る。
あそこの角を曲がれば、ヘリコプターの発着地。いつか娘を乗せてやりたいと思っている。いつになるか分からないけれど。私も娘も高いところが大好きだ。たった十分の飛行であっても、きっと楽しいに違いない。
その発着地の脇を通り過ぎ、さらに私は走る。
さぁ、今日も一日が始まる。


2010年07月06日(火) 
目を覚まして横を見れば、今朝もやはり娘は素っ裸。大の字になって素っ裸というのは、なかなか見応えがある。胸ももう、ほんのちょっとだけれどぷくんとなり始めた娘の体を、まじまじと眺める朝。なんともいえない。
起き上がり、窓を開ける。何となく一番に、あのお香を焚きたくて、用意する。ふわりと香ってくるあの匂い。懐かしい匂い。
ベランダに出ると、むわっとした空気が横たわっている。昨日よりその湿度は高いんじゃなかろうか。嫌だといっても肌に纏わりついてくる感じがする。試しに腕を動かしてみる。むわりと空気が動く。そういえば天気予報で、昨日は東京でも豪雨があったと言っていたっけと思い出す。私の住んでいる街では雨はうんともすんともならなかったが。今日もまたそんな天気なのだろう。私は空を見上げながら思う。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。残った四本の挿し木、今のところ順調に育っている。育ち方はみなそれぞれだが、それでもちゃんと、新しい葉を伸ばし、枝を伸ばしとしてくれている。頑張れ、みんな。私は心の中声を掛ける。
デージーはまた新しく花をつけ。小さな小さな黄色い花。まさに黄色。そういえば昔、図工の時間に、黄色の花を描いたら、隣の男の子に、きちがい色だ、とからかわれたことがあったっけ。思い出して私はくすりと笑ってしまう。きちがい色というより、やっぱり黄色は、元気色だと思う。
パスカリたちの、一本は、次々枝葉を伸ばしてきている。細い枝ではあるけれど、根元からぐいっと伸びてきた。その一部の葉が、やはり歪みを見せており。これは病葉だと分かる。でも、粉を噴いているわけではないから、このままにしておくことにする。もう一本のパスカリは、しばし沈黙の時を過ごそうというところなのかもしれない。
ミミエデンは、じっと佇んでいる。花を切り落とした後、沈黙を始めた、といった感じがする。しばらく休んで、また新たな葉を出してくれればそれでいい。舐めるように樹を見てみるが、今のところ新芽の気配は何処にもない。
ベビーロマンティカは、今朝は静かだ。こそこそっと囁き声は聴こえるけれど、それだけ。そりゃそうだ、あれだけ立て続けに花を咲かせ続けていたのだから。お疲れ様ね、また新芽や花をいずれつけてちょうだいね、と、私は心の中声を掛ける。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスは、しんしんとそこに在る。新芽の気配は今のところない。沈黙の時間だ。マリリン・モンローの下の方の葉が、少し黄色くなってきた。古くなって落ちてゆくのかもしれない。それにしても、マリリン・モンローはだいぶ茂った。去年の冬には、こんな姿が見られるとは想像もしなかった。ホワイトクリスマスはホワイトクリスマスで、不恰好ながらも、枝葉を伸ばし。一時は立ち枯れてしまったのかと思った瞬間もあったけれど、今は大丈夫。ただ沈黙しているだけだ。また時期が来れば、新しい葉を広げ、花芽もつけてくれるに違いない。そう信じることができる。
部屋に入ろうとした瞬間、からからと音が響いてくる。この音はココアだな、と、籠を覗くと、やはりココアが回し車を回している。おはようココア。私は声を掛ける。ココアはきょとんとした丸い瞳をこちらに向けて、後ろ足で立ちながら、どうしようかな、といった感じ。私が蓋を開けて、手を差し出すと、ちょこちょこと寄って来て、手のひらに乗った。お前は小さいねぇ、と声を掛けながら、背中を撫でてやる。餌箱の中に残っているひまわりの種を差し出すと、途端に手と口とで挟んで、そしてほっぺたの袋の中にしまい込む。娘曰く、ココアは甘えん坊だから、餌もこちらが差し出さないと食べようとしないんだとか。だから体が小さいんだよ、と娘は主張していた。それが本当なのかどうなのか分からないが、ココアは次々、私が差し出すひまわりの種をほっぺたの袋に入れてゆく。でも、餌箱におろして自分で食べさせようとすると、全然食べない。全く。甘えん坊なんだな、本当に。私は笑ってしまう。
その声を聴きつけたのか、ゴロが眠たそうな顔を小屋から出してくる。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロは、水を飲みに行き、その足で回し車に乗る。とっとっとっと、回し車を回す小さな手足。機敏に動くその体。不思議な生き物だなぁなんて、改めて思う。

病院の日。何だろう、待合室で待っていることがしんどかった。待合室にいる人たちみんなが、憂鬱な何かを発しているようで。それに呑みこまれそうな気がして、しんどかった。早く私の順番にならないだろうか、それだけを考えて、体を丸くしていた。
頓服を、もとの薬に戻してもらえるよう、お願いする。それから、このところはどうでしたかと聴かれ、葬式に何にと立て続けにあって、なんだか疲れていますと応える。ちゃんと眠れていますか、という問いにも、このところ断眠ばかりで、と応える。そうですか、うーん、と考えているふうな医者。いや、考えているのかいないのか、分からないけれども。新しく替えた漢方薬は効いている感じがありますか、と問われ、いや、まだ分からないと応える。正直、分からない。どの薬がどう効いて、どの薬がどう私の何を抑えてくれているのか。これかなぁ、と分かるときもあるけれど、それは、長いこと飲んでいる薬に限って、だ。
他にも何か話したが、忘れてしまった。送り出され、診察室から出、薬局へ。友人も診察を終えてやって来る。
彼女の話に耳を傾けながら、私は時に自分に置き換えてみたり、彼女の話の主人公の、私が知っている部分を想像してみたりする。彼女には時間が限られていて。だから、なかなか事を進めるのも難しいのかもしれない。でも、方向性は間違ってないよね、と言い合う。できることをひとつずつやってゆく、そうしてできることを少しずつ増やしてゆく。その繰り返し。
ダイエットしているという彼女が、小さな声で私に言う。でもさ、胸とかは落ちるのに、おなかが落ちないよね。そりゃそうだよ、私たちの年齢考えてみなよー。やっぱ、そうか。おなかだけぷっくりしている気がする。ははははは。もうこれは、しょうがない、年齢だ、年齢! やだなぁ、もう。私たちは笑い合って、それぞれおなかを触ってみる。そうだ、そうなのだ、もう人生の半分、生きている私たち。体もだいぶ使い古されてきて、若い頃のような無理はきかなくなってきた。体と相談しながらやっていくしかない年齢になってきた、とでもいおうか。歳を取るというのは、そういうことなんだなぁ、と改めてしみじみ感じ入る。

ねぇママ、ママって字、きれいだね。そう? うん。私、字、汚いよ。ははは。そう? うん、ばぁばによく言われる、字が汚いって。もっときれいに書きなさいって。どうやったらきれいに書けるの? うーん、丁寧に書く、とか? そういうことかな? 私、丁寧に書いてるつもりなんだけどなぁ。そうだなぁ、じゃぁ、好きな男の子にラブレター出すときのようなつもりで、字、書いてみたら? えー、やだよー。そうしたらいつも、きれいな字が書けるかも。ははははは。めんどくさー。だよねー。
ママは勉強するけどさ、大人になっても勉強しなくちゃならないって、嫌じゃないの? うーん、ママはこういうの、結構好きだから。嫌になったりしないの? ああ、よくあるよ、あー、もうやだ、もうやりたくない!って思うこと、あるよ。それでも勉強するの? うん、するねぇ、勉強しないと、分かることも分からなくなっちゃうから。ふーん。私、大人になっても勉強したりしたくないよ。じゃ、逆に、今のうちにいっぱいやっときなよ。でないと、なーんもわからんくなっちゃうかもしれないから。うーん、もう今も、めいいっぱいなんだよなぁ。ははは。ま、できることをひとつずつ増やしていくしかないね。積み重ねだよ、結局。あー、めんどくさー。あなた、さっきから、めんどくさいめんどくさいしか言ってないよ。そうだっけ? うん。ははは。

「あるがままのものを理解することは、単にある観念を受け入れたり、あるいはその観念の虜になるよりもはるかに難しく、そのためには多大の理解力と凝視が必要であるということなのです。しかしあるがままのものを理解するために努力する必要はないのです」「あるがままのものは事実であり、真実なのです」「真実のものは、あるがままのものを理解することによって、初めて理解されるのです。もし非難や同一化が少しでも存在するかぎり、真実であるものを理解することができないのです。絶えず非難したり、同一化している精神は理解することができません。精神はそれ自体の限定された範囲のことだけを理解できるのです。あるがままのものを理解し、それを凝視していることによって、驚くべき深層が開示されるのです。そしてその中にこそ、「真の実在」と幸福と喜びが存在するのです」

じゃぁね、それじゃあね、お弁当、冷蔵庫の中に入ってるからね、ウンウン、分かってる。手を振って別れる。
雲の様子を気にしながらも、私は思い切って自転車に跨る。雨が降り出したなら、それはそれで楽しめばいい、もう開き直ることにする。
信号を渡り、公園へ。公園はもう、鬱蒼と濃い緑が茂りに茂って、通りの方までその匂いが漂ってきている。紫陽花はまだ咲いており。でもそろそろ終わりかもしれない。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。春、あれだけ小さかった銀杏の葉も、今はもう十分に成長し、濃い色を見せて、さやさやと揺れている。
このまま真っ直ぐ走ればモミジフウの通り、少し外れた通りを行けば、川と海とが繋がる場所。さて、どちらから回って行こうか。私は一瞬迷い、その直後、ハンドルを右に切っていた。
海と川とが繋がる場所で。ここにも水母がぷかぷか浮いている。六月にこんなに夥しい数の水母に会うなんて。不思議な気がする。そして私の頭上を、鴎が旋回している。
さぁ、今日も一日が始まる。気を引き締めて走り出そう。


2010年07月05日(月) 
目を覚まし、隣を見ると、娘が素っ裸で眠っている。何で素っ裸なんだろう。脱ぎ捨てられたシャツとパンツとが、丸くなって娘の体の傍らに転がっている。暑くて無意識に脱いだということなんだろうか。私はしばし、彼女の裸体に見入り、首を傾げる。
窓を開け放し、ベランダに出る。どよんと湿った空気が一気に私の体を覆う。あまりの湿り気加減に、思わずうっと声が出る。雨がすぐそこまで来ている。そういう徴だろうか。空を見上げて頷く。空は一面、こちらに迫ってくるほど重い雨雲に覆われている。
通りにまだ人の姿も車の影もない。あたりはしんと静まり返っている。あぁ、そうか、風もないのだ、と納得する。だから葉の擦れる音さえ聴こえてこないのだ。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。この週末で、あの茶色くなっていた枝はやはり枯れてしまった。残り四本は、元気に枝葉を伸ばしてくれていることが救いだ。大きく葉を伸ばしている者は、もう私の手のひらほどの丈はあるだろうか。それを見つめていると、なんだかほっとする。枯れてしまった二本の分も、元気に伸びていってほしいと思う。
デージーは留守にしている間に花が二つ、三つに増えた。黄色い明るい色だ。小さな花だけれども、その花びらの明るさが、ぱっとあたりを明るくしてくれる。試しに息をそっと吹きかけてみる。それだけでさやさやと揺れるほどの草だ。それでもしっかりこうして花を咲かせる。
ベビーロマンティカは四輪目も咲いた。それを切り花にしてやる。お疲れ様、と声を掛けながら鋏を入れる。花を切り落としてみると、それまでおしゃべりをしていたベビーロマンティカの葉たちが、一斉に黙り込んだ、そんな気がした。あぁやはり、本当は疲れていたのだ、花を次々と咲かせて、本当は全身、くたくただったんだ、と私は感じる。ありがとうね、しばらく休んでね、私は心の中、声を掛ける。
ミミエデンもちゃんと二輪目も咲いてくれた。小さく小さく、本当に小さくだけれども、それでも咲いた。それにも私は鋏を入れる。ありがとうねと声を掛けながら。そして、病葉を、一枚、また一枚、摘んでゆく。全部摘んだらすかすかになってしまうかもしれないけれど、それでも、一旦リセットして、またそこから始めればいい。そう思う。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、沈黙を続けている。昨日の強すぎるほどの陽射しで、ちょっと疲れが増しているように見える。あまりに強すぎる陽射しは葉を焼いてしまう。そんなこと気にしていたらやってられないとも思うのだが、それでもこうして朝見つめると、その疲労加減がありありと伝わってくる。人間が酷く日焼けをした後と同じだな、と思う。今頃体のあちこちが痛くて、本当は小さな悲鳴を樹も上げているのかもしれない、と思う。
パスカリたちは、留守にしている間に、新芽をまた出して、そうして今、しんしんと佇んでいる。これが病葉じゃなければいいのだけれども、と祈るように思う。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹も、なんだか疲れているようだ。やはり昨日の陽射しが効いたか。私はしゃがみこみながら、その葉をそっと撫でてみる。張りのある感触が、指先に伝わってくる。よかった、ちゃんと生きてる。私はほっとする。
私は立ち上がり、再び空を見上げる。今日雨が降るのならば、水を遣らなくてもいいだろうが、どうなんだろう。降るんだろうか。何となく降る気はする。とりあえず夕刻まで待ってみよう。
部屋に入ろうとするところで、金魚と目が合う。おはようさん。声を掛けながら餌を入れてやる。一旦水槽の底に沈んで、それから浮かび上がってきて餌をつついてゆく二匹。大きな尾鰭が、ゆらゆらと水の中、揺れている。
あの日は散々だった。午前と午後と、両方授業のある日。その午後の授業の途中から、具合が悪くなり、吐き気に襲われ、とうとう早退せざるを得ないということに。這うように家に戻り、トイレで吐く。吐くだけ吐いたら、すっきりし、でも、どっと疲労が私を襲い。私は横になった。一体何やってんだろう、お金を払って授業を受けているというのに、その授業の途中で早退だなんて。本末転倒だ。一体自分は何やってんだ、と、悔しくて悔しくて仕方がなかった。でも、それよりも何よりも今は、疲労が私を押し潰そうとしていた。
私はこんなに疲れていたんだっけか。こんなにいっぱいの重たい疲労を抱えていたんだっけか。私は改めて、この何週間かのことを思い返す。個展に葬式に。それだけでもう、十分疲れているといってよかった。なのに私は、それを多分ずっと、無視してきた。そのつけが、今、私を襲っている。そんな気がした。
とにかく眠れるだけ眠ろう。そう思った。途中娘が帰宅し、再び塾に出かけてゆくのを見送る以外、何もせず、ただ横になっていた。泥のように横たわって、その間、幾つもの夢を見ていた。
友人が亡くなったのはいつだったっけか。大叔父が亡くなったのはいつだったっけか。個展の搬出はどうやったんだっけか。怒涛のようにいろんなことが押し寄せてきては、引いていった。部屋が徐々に徐々に闇の色に染まってゆくのを、私は意識のどこかで感じていた。もう夕暮れも過ぎて夜に入った。それでもまだ、私は起き上がれなかった。
途中弟から電話が入った。仕事のことだった。その時ばかりは起き上がり、メモをし、電話を切った。けれどそれが終わるとまた、私は床に横になった。起き上がっているのが、体を立たせていることが、しんどかった。
横になりながら、私は穴ぼこに会いに行った。穴ぼこはしんとそこに佇んでおり。でも何だろう、ちょっと怒っているかのようだった。そうか、私は何だかんだいって、自分の状態をないがしろにしてきたのだな、そのことを彼女は、静かに怒っているのだな、と感じた。
「サミシイ」にも会った。「サミシイ」は、オカリナで新しい旋律を奏でていた。あぁそれは、葬送の曲だ、と、聴いた瞬間に思った。「サミシイ」なりの葬送の曲。あぁそうか、「サミシイ」は、亡くなっていった人たちを敏感に感じ取って、だからこそ今こうして、音を奏でて見送っているのだな、と感じた。あぁそうか、まだ喪の時間は続いていたのだ。そうだ、そうだった。私はまだ、喪の時間を過ごしていた。そのことをすっかり、忘れていた。情けない。
いろんなことを、そうやって私は、置き忘れていたのかもしれないと、今更ながら気づいた。ざわざわするばかりで、そのざわざわの奥底に潜むものを、ちゃんと感じ取ろうとしなかった。勝手にいいように解釈して、何とかなると高をくくっていた。何とかなる、それには限度というものがあって。そのことを私は、ちゃんと見ていなかった。
帰宅した娘が問う。今まで横になってたの? うん、そう。やっぱりねー。やっぱりねーってどうして? だってさー、ママ、全然休んでなかったじゃん、最近。そうだっけ? うん、そうだよ。
そこまで娘が言った時、急にふらふらと体が揺れた。娘がばっと私の体を支えてくれたから倒れずに済んだけれども、危なかった。まったく、こんなになるまで、私は自分を放っておいたのか。情けない。
娘に急いで夜食を作り、食べさせる。その間も、私はできるだけ体を横たえていた。娘はそんな私を横目に時折確認しながら、うどんを啜っている。
結局、娘にもつきあってもらって、早々に電気を消し、二人で横になった。でも、眠りに入ったのはもちろん娘が先で。私は置いてきぼりにされたような気分で、しばらく娘の寝顔を眺めていた。

お湯を沸かしたところで、私はふと迷う。さて、何を飲もう。とりあえず生姜茶を入れてみたけれど。でもその前に、くいっと一口、冷たい麦茶が飲みたい。そう思った。冷たいものを飲みたいなんて、どのくらいぶりだろう。冷蔵庫から、娘用に作っている麦茶を出し、コップに半分注ぎ入れる。それにしても冷たいなぁと、いや、冷蔵庫から出したんだからそれが当たり前なのだけれども、でも、普段冷たいものを飲みなれない私にとってそれはやっぱり冷たくて。体の中に、冷たいものがぐいっと入っていくのを感じながら、ごくごくと飲み干す。それから、いつものように生姜茶のカップを持って、椅子に座る。
昨日買ってきたお香を焚いてみる。それはとてもとても懐かしい、亡き祖母の匂いを思い出させるような、そんな匂いで。目を閉じると、着物姿の祖母の姿が甦る。家の中ではいつでも割烹着を着ていた。髪を結い上げて、ぱたぱたと動き回っていた祖母。今、祖母の着物は殆どすべて、母が持っている。母がもし亡くなったとき、それは何処へ行ってしまうんだろう。ふとそんなことを思った。なくなってしまうのはあまりに寂しい。祖母と、そして母の、それぞれの匂いを含んだ着物たち。できるなら私が、継いでいきたい。
そういえば父から珍しく、穏やかな電話が掛かってきた。弟のことだった。手伝ってやってほしい、と、改めて言われた。父からそんなことを言われずともそのつもりだったけれど、父に改めてそう言われ、何となく、落ち着かなくなった。お尻の隅のあたりがこそばゆい、とでもいうんだろうか。そんな感じがした。
その弟は昨日もやってきて、デザインがどうのこうのと話し合い、帰っていった。帰りがけ、土産を渡すと、俺の好きな塩辛、覚えてたか、と弟がにっと笑った。私に何ができるのかわからないけれど、できることはやるつもりだ。心の中で、改めてそう思った。

ねぇママ、塾でね、ちんけ扱いされた。ちんけ扱いって? こいつちんけで勉強もできねぇんだ、って友達に言われた。そんなこと言う人が友達なの? いや、友達じゃないけど。でも。言われた。どうして言われたの。あのね、その子がね、プリントに名前書かないでいいみたいなこと言うから、書いた方がいいと思うよって言い返したら、突然、その子がそういう態度を取り始めた。帰りがけなんて、足引っ掛けられて、もうちょっとで転ぶところだった。そうか。うん。で、ちんけってどういう意味でその子使ってるんだろう? わかんない。でも、傷ついた。そりゃ傷つくわな。私、そりゃ、あんまり勉強できないけど、ちんけって言われたり転ばさせられたりするほど、悪いことしてないと思う。そうだね、今の話からだと、ママもそう思う。これからどうすればいいと思う? 放っておきなさい。放っておくの? じゃぁ、先生に言いつける? それはやだ。じゃぁ、しばらく放っておきなさい。何言われても、無視しちゃえ。それでいいのかな? いいかどうか分からないけど、ママはそうする。うん、ママはそうするってだけなんだけど。そうすれば、その子、そういうことしなくなるかな? もししなくならないんだったら、またその時考えようよ。でもさ、でもさ、私、そんなに馬鹿なのかな。なんで? だって、勉強できねぇって。ははは。じゃぁ最初から勉強できる子、何処にいるの? そういうのは天才って言うんだよ。ママは天才じゃないから、あなたも天才じゃない、残念ながらね。努力しないと勉強できるようにはならない。うん。もし悔しいなら、勉強して、見返すしかないなぁ。そっか。そうだよね。うん、分かった。
人の言葉ってさ、無責任で、どうしようもなく鋭かったりするから、傷つくよね。うん。でもさ、それにいちいち傷ついてたら、体も心もぼろぼろになっちゃうんだよ。うん。これからまだまだ生きていかなきゃならないからね。うん。聴き流す、やり流す、ってことも、時には大事なんだと、ママは思う。ふーん。ママはそうやって来たの? そうだね、影で泣いて、でも、表では、強気でいた。ははは。平気だよって顔してた。そうなんだ。それはそれで辛いこともあるけどさ、でも、多分、大事なことのひとつだよ。ふーん。

じゃあね、それじゃぁね、ちゃんと窓と鍵、締めてね。うんうん、分かった。私たちは手を振って別れる。
と、その時、雨が降ってきた。私は傘を取りに再び玄関に戻り、じゃぁね、と声を掛け、玄関を飛び出す。
マンションを出るところで、ママ、バス来たよ!と、娘の声が上から降ってくる。ベランダに出ている娘が、急げ急げとバス停を指差している。私は慌てて大通りを渡り、娘に手を振って、バスに乗る。
混みあうバス、混みあう電車。川を渡るところで、私はじっとその川に見入る。空の色を映して、濃暗色に澱んだ川が、それでも朗々と流れてゆく様を、私は目の奥に刻んだ。
さぁ、今日も一日が始まる。ホームに滑り込んだ電車から、私は駆け出す。


2010年07月02日(金) 
目を覚ますとまた夜中過ぎ。これが夜明け前ならどれほどいいだろうと溜息をつく。寝返りをうとうとした途端、娘の足に顔を蹴られる。どうして顔を蹴られなけりゃならないわけ、と見やれば、娘はまた、すっかり回転して、私の顔の隣に足を放っていた。毎晩毎晩、こう回転して、よく疲れないなぁと感心する。しばらく迷って、頓服を一粒、口に放り込む。昨日殆ど眠っていないのだから、眠らないと体がもたない、と思った。
しかし、そういうときに限って、眠りが全く訪れない。困った。私は再び起き上がり、とりあえず椅子に座る。これもまたとりあえず、煙草を一本、吸ってみることにする。音楽を流そうと思ったら、とんでもない、音楽データがすべて飛んでいる。参った。なんだか散々な目にあっている気がしてならない。バックアップはいつしたんだっけか、と思いながら、恐らく一年以上古いんだろうバックアップデータを取り込む。
そういえば昨日娘が、男の子を連れて帰って来た。学校の宿題で、動物園まで行って写真を撮ってこなくちゃいけない、その係になった、という。男の子はいきなり、手に持っていたとかげ君を披露してくれる。一瞬ぎょっとしたが、まぁかわいくないわけではない。よく見るとしっぽが切れている。そして彼は虫かごも手にしている。どうも今捕まえたわけではなく、前から育てているようで。とかげを育てるってどういう気分なんだろうと、私はあれこれ想像する。すると娘が、それに競うかのように、ハムスターたちを次々持ってきて彼の手に乗せてゆく。なんだかここ自体が動物園なんじゃないかと私には思えてくる。久しぶりに、わーきゃー言う子供の甲高い声を、間近に聴いている気がする。娘に兄弟がいたら、こんな感じなんだろうか。
娘たちが出て行ったのとすれ違いに、弟が再びやって来る。スーツ姿の弟を久しぶりに見るなぁという気がする。私がまだ実家で一緒に暮らしていた頃とは体つきの全く異なる、厳つい男がそこに在り。なんだかちょっと笑ってしまった。私は頼まれていた仕事の結果を見せる。弟はそれに目を通しながら、同時に、次々携帯電話にかかってくる電話を受けている。ひとりで起業するというのはこういうことなのかと、私はしばらく感心しながら彼の姿を眺めていた。
西の町に住む友人の、声がまた出なくなったのだという。声が出ないと電話にも出られない。伝達手段が本当に限られてしまう。一人暮らしの彼女は今、大丈夫なんだろうかと酷く気がかりだ。私たちの病気は、突如こうしたことが起こる。突然声が出なくなったり、視界がカラーからモノクロに突如変わってしまったり、耳が聴こえなくなったり、倒れたり。ばたんばたんと、しょっちゅうひっくり返っているようなものだ。おかげで生傷が絶えない。私も今、この間ひっくり返った時の痣が、大きく太腿に残っている。頭を打たなくてよかったと、つくづく思う。これ以上頭が悪くなったり、記憶喪失にでもなったらたまったものじゃない。
それにしても。どうしてこう、気がぴんと張り詰めているのだろう。休まるところが今、ない、そんな感じがする。こうして椅子に座っていても、ざわざわと体のどこかがざわめいている、そんな感じだ。
嫌な感じ、というわけではない。なんだかやけに久しぶりに、こういうざわざわ感に覆われている、そんな気がする。ただ、このままだと私ももういい歳だ、体がもたない、そう思う。
気づけば外はほんのり明るくなってきており。私はもう眠るのは諦めて、ベランダに出る。大きく伸びをして、ついでに深呼吸もしてみる。紺色の水彩絵の具を水で溶いて、画用紙にさっと伸ばしたら、こんな色味なんじゃなかろうかと思いながら空を見上げる。でも、雲は相変わらず空を覆っており。いくら凝視しても、雲が消えるわけでもなく。私はラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。
デージーが一輪、どうも咲いたようだ。正直、この花はよく分からない。これが花のできあがりなんだろうか。それとももっと花が大きくなるんだろうか。大きく強くなるんだろうか。私は首を傾げる。なんだか、蝶の幼虫のを見ている気がする。鼻頭を触ったらにょきにょきっと出てくるあの角のような。この花も私が指で突付いたら、もっとにょきにょきっと大きくなるんじゃなかろうか、そんな気さえしてくる。
ラヴェンダーは、やはりもう一本が、枯れ始めている。茶色くなっている部分が、徐々に徐々に広がっていっている。私は大きく溜息をつく。六本挿したうちの二本が、これで駄目になったということか。
ミミエデンの、二輪目が綻び始めた。先っちょがぽろり、零れ出している。よかった、よくここまで頑張ったね、私は心の中声を掛ける。病に冒されながら、それでも咲いた花。確かにとても小さくて、姿はぼろぼろだけれども。でも、ちゃんと咲いたのだ。偉いよ、君。私は指先でそっと花を撫でてみる。もう少し綻んだら、早速切ってやろう。そして、病んだ葉を全部、整理してやろうと思う。
ベビーロマンティカもまた一輪、咲いた。今ちょうど見頃だ。ぽっくり咲いたその花。耳を澄ましたらさわさわとおしゃべりの声が響いてきそうな、そんな気配がする。今日帰ってきたら早速切り花にしてやろう。私はそう決める。よく見ると、またあちこちから新芽を出している。よくもまぁこんなに、次々変化していくものだと、私は改めてその樹の姿を眺める。そんな私を、樹がくっくっくと笑っているかのような気がする。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。しばし沈黙の時間。そろそろこのプランターには水を遣ってもいいかもしれない。病葉も落ち着いてきた。今日の夕方には水を遣ろう。
パスカリたちは、一本はまた沈黙し、もう一本は、細いながらも枝葉を伸ばしている。同じ種類、同じ条件だというのに、何でこんなにも育ち方が違うんだろう。まるで人間の子供のようだと思う。その樹がもともと持っている性質が、そうさせているのかもしれないなんて思ったりする。
私と弟の差は、何処で生まれたんだろう。やはり生来の気質なんだろうか。幼い頃、弟はとても臆病な子供だった。外出するとき、母のスカートの中に顔を突っ込んで、外に出てこない、そんなことも多々あった。どうにかこうにか歩き出しても、絶対に母のスカートから手を離さない、そういう子供だった。一方私は、母の声などお構いなしに、あちこちきょろきょろしては走り出す、そういう子供だった。外見的には、私たちにはそういう違いが、もともとあった。
父母からの精神的な虐待に晒され、弟はでも、歪みながらも逞しく育っていった。一方私は。見かけは強く見えるのに、中身は酷く脆い、そんなふうになってしまった。今日弟を眺めながら、私は、私たちの違いって何処にあったんだろう、と改めて考えていた。いや、考えてもそんなこと、答えなど出ないものだと分かっていたけれども。そして、今私は弟に対して、何ができるんだろう、とも考えていた。何を返してやれるんだろう、と。

ねぇママ、ママってさ、誰かのことは心配するけど、自分のことって大丈夫大丈夫って言うよね。なんで大丈夫なの? へ? だから、なんで自分だけ大丈夫なの? う、うーん、いや、大して理由はないんだけれども。どうしてかなぁ、まぁ自分なら何とかやっていけると思うからじゃない? じゃぁなんで、たとえば友達のこととかはいっぱい心配するの? 友達も大丈夫じゃないの? …。それはね、ママは友達を、いっぱい失ってきているからだと思う。ママの友達は、いっぱい自殺していったりしてるから。そういうことかぁ。まぁ、そういうことだね。じゃぁなんで、自分は自殺しないと思うの? はっはっは、ママが自殺してもいいの? いや、よくない。よくないでしょ? うん、よくない。ママも昔はさんざん自殺しようって試みたことはあったけど。まぁ全部失敗したってことだぁね。ママ、そこ、笑うところじゃないと思うけど。いや、笑うところだよ、失敗したんだから。失敗って笑えること? いや、笑えることと笑えないこととあるけど、ママのそういう失敗は、もう笑い飛ばしていいくらい時間が経ったってことだよ。ふーん。
ねぇママ、今テレビでさ、「俺たちの運命は俺たちが守る!」って言ったけどさ、それって当たり前のことじゃないの? はい? 当たり前じゃん、自分の運命は自分で守るって。なんでわざわざこんなこと偉そうに言うのかなぁ。ははははは、それはテレビだからだよ。多分きっと。変なの! 変だね。
自分の運命は自分で守る。娘がそれを、当たり前のこととして考えているとは思ってもみなかった。思わず、私は、テレビを眺めている娘の横顔に見入る。そして、ふと微笑む。よかった、君がそういう思いを持っていてくれて、と。

「もし私たち双方がその問題の論点(それは問題そのものの中にあるのです)を発見しようとするならば、またもし両者がその問題の根底まで突き進み、その真相を発見し、あるがままのものを見い出そうと強く熱望しているなら、そのとき私たちは結ばれているのです。そういうとき、あなたの精神は鋭敏であると同時に受動的であり、この中に含まれている真相を知ろうとじっと見張っているのです」「受動的に見張っている精神の敏捷な柔軟性があるとき、確実に理解が生まれるのです。そのとき精神は受容する力があり、敏感になっているのです」「私たちの関係を理解するためには受動的な凝視がなければなりません」「関係の全体を凝視していることが行為なのです。そしてこの行為から真の関係の可能性と、その関係のもつ深遠さと意義を発見し、愛とは何かを知る可能性が生まれてくるのです」

じゃぁね、それじゃぁね。娘がゴロを抱いて私に差し出す。ゴロを撫でてやろうと体を触ったら、ゴロがまた大きくなっていることに気づく。ねぇ、ゴロ、またおデブになったんじゃないの? 違うよ、ゴロはね、筋肉なんだよ、だってミルクと重さが違うもん。そ、そうなんだ。うん。違うの! わかった、じゃぁね。うん、それじゃぁね。
階段を駆け下り、バスに飛び乗る。混みあうバスの中、ぼんやり外を眺める。何となく世界全体に、霧がかかっている、そんなふうに見える。
駅に着き、バスを降りる。駅を横切り、川の方へ。ふと川を覗き込んでぎょっとする。なんでこんなに水母がいるんだろう。いたるところ、水母だらけだ。ふわふわふわふわ、水に漂う水母。それだけこの川の水が海に近いということなんだろうか。それにしても。川を泳ぐこんなに夥しい数の水母を、私は初めて見た気がする。その水母の横を、魚がすいっと泳いでゆく。
さぁ今日も一日が始まる。私は水母に小さく手を振って、また歩き出す。


2010年07月01日(木) 
夜中過ぎに目が覚める。眠ることが出来たのは、約二時間というわけか。ちゃんと薬を飲んで寝たはずなのに。なんだかがっかりする。でも、頭は冴え渡っており。どうにもこうにも、再度横になるということができそうにない。私は仕方なく、起き上がる。
窓を半分開けた後、PCの電源を入れる。そして昨日作ったファイルを全部、頭からチェックすることにする。どこかに間違いはないか、スペルミスはないか。しつこくしつこくモニターと睨めっこ。
昨日会った弟は、久しぶりに生き生きとした顔をしていた。疲れは滲み出ているけれども、それでも彼は今気力に満ちている。それが分かった。こういう時の弟はちょっと怖い。いい意味で怖い。気力が先走りして、足元が疎かになっていることが多々在る。だから私は、用心深く彼の話に耳を傾ける。
私が今更何を言おうと、彼の決定は変わらないのだな、と分かった。彼の意志は強固で、私以外の誰であっても、それを突き崩すことはできないだろうと思えた。それなら私にできることは何か。彼が次々に私に案を放り投げる。私はキャッチできるものはキャッチして、できないものはできないと意思表示する。
私にも、多少のプライドは在るというもので。特に自分の仕事に関しては、それなりにプライドを持っているから、妥協はしたくない。弟と私と、向き合って、案をすり合せる。できること、できないことを、こういうときこそはっきりさせておかないと、後でとんでもないことになる。それは二人とも分かっている。こういうとき、姉弟という関係が、遠慮をなくさせてくれる。都合がいい。
突然ふと、思った。弟の人生脚本は、どんなものだろう、と。今までのものを見る限り、彼には、成功してはいけない、という禁止令が強く働いているように思える。
彼には凄まじい劣等感とプライドとが同居している。今気力が漲っているからそれがあまり目立って見えないが、彼の気の力が弱くなったとき、それが露骨に見えてくる。私はそれらが、どういう経緯を経て彼の中に巣食っているのか、いやというほど分かる気がした。父母の影響は、弟にも多大に作用している。
彼は脚本を描き変えることができるだろうか。もう年齢的にもぎりぎりだろう。これが或る意味、最後のチャンスかもしれない。ならば。
私にできることは、すべてやろう。そう思った。
私には、弟に対して、大きな大きな借りがある。
被害に遭った直後の日曜日。いや、もうあれは月曜日になっていたか。丑三つ時に、私は弟にSOSの電話を掛けた。弟は何も言わず、始発で飛んできてくれた。そして、会社にまで付き添ってくれた。それから後も、折々に、私をサポートしてくれた。
その借りを、返せる機会なのかもしれない、この今という時が。
そう思ったら、眠る気も失せるというもの。明日また会う時間になるまでに、私に用意できるものはすべて、用意しておきたい。
気づけば外は薄明るくなってきており。時計を見れば午前四時半。耳をすっと澄ますと、雀の啼く声がする。私は思い切り食堂の窓を開け、外に出る。ベランダから見える空は雲に覆われており。また雨が降るんだろうか。それとも日中はもつんだろうか。私は見上げながら手を差し出してみる。湿気を含んだぬるい風が、私の腕に纏わりつく。街路樹の緑は静かに佇んでおり。風はゆるく流れている。
ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。デージーの花の咲き方というのは、ちょっと変わっているのだな、と気づく。花びらが徐々に徐々に伸びてくる、そんな感じなのだ。今、丸い玉の周りに黄色い細い花びらがびっしり生え、それがちょっとずつ、ちょっとずつ伸びてきている。
ラヴェンダーは、よく見れば、一本が危うい気配を漂わせている。新芽が出ていないわけではないのだが、伸びがよくない。これも、前に枯れたものと同じ、古い枝だ。古い枝だから水の吸い上げが悪いんだろうか。だからこんなふうに、育つものも育たなくなってしまうんだろうか。このまま枯れるのは寂しいよ、私は心の中、声を掛ける。伸びておくれ、枯れないでおくれ。もうこれ以上。
ミミエデンの二輪目の蕾が、今一生懸命開こうと努力している。一輪目のすぐ脇で、二輪目はまだ丸く、閉じており。でも、花開こうと頑張っているのは強く伝わってくる。それにしても。この病葉はどうだろう。これでもかというほど。新葉という新葉がすべて、粉を噴いている。薬を噴き掛けて、多少今収まってはいるが。もう元に戻ることはない、歪んだ葉たち。花が咲いた後、どうやって手当てしてあげたらいいんだろう。私は頭を抱えてしまう。
ベビーロマンティカの蕾は昨日のうちには開かなかった。私はそっと指で撫でてみる。やわらかい花びらの感触が、指先からじわじわと伝わってくるのが分かる。うふふ、ふふふ、と、笑っているようなベビーロマンティカ。こんな天気でも、君は楽しげにそうやって笑うんだね、と、私は心の中声を掛ける。そう、どんなときでも楽しげな声を響かせてくれる。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。沈黙の時間、だ。しんしんとそこに立っている。マリリン・モンローの、内側の葉をよく見れば、自分の棘にやられて傷ついた葉が幾枚か。摘もうかどうしようか迷って、一番酷いものだけを一枚、摘んだ。
パスカリの一本が、急に動き出している。にょきにょきと根元から枝を伸ばしてきている。とりあえず今のところ、それは病気には冒されていないようで。私はほっとする。
母から連絡が入る。兄さんが、あなたからメールが来たんだってわざわざ電話をよこしたのよ。喜んでたわ。と。それだけの短い電話だった。そんな、私は別に、挨拶代わりに出しただけのメールだったのに、そんなに喜んでくれたなんて。なんだか急に照れくさくなる。でも、これで終わりになってしまうのもつまらないので、まだムーミンのおじちゃんが会っていないわが娘の写真を、小さく縮小して送ることにする。おじちゃんは何て言うだろう。娘は誰に似ていると言うだろう。母か、私か、それとも祖母か。
ふと思う。人とのつながりって、こうしたささやかなものの積み重ねなんだよな、と。そう、別に特別なことはなくても、小さな小さなことが積み重なって、大きく育ってゆく。そういう、もの。

ねぇママ、痛いところなぁい? あるある、足が痛い、脹脛。揉んであげようか? え、いいの? うん。ありがとー。あ、でも、それはくすぐってるっていう感じだから、いっそのこと、とんとん叩いて。そんなに痛いの? うん、今日は特に痛い。うちにお金があったらねぇ。え? だから、うちが金持ちだったら、こんなにしんどくないのにねぇ。あんた、何突然、そんなこと言ってんの? 貧乏なのが嫌になった? いや、別に、そういうわけじゃないけど、お金あったらなぁって思うワケよ。ははは。そりゃ、働かなきゃお金入ってこないね。うん、そうなんだけどさ! 宝くじでも当たればねぇ。ママ、宝くじ買ったの? ううん、買ってない。なんだ、買わなきゃ当たるもんも当たらないじゃん。いやー、なんかねー、買う気にならないのよー。宝くじ買うなら、そのお金で二人でアイス食べられるじゃん。まぁねー、そうなんだけどねー。ははは。ま、うちは、何処までいっても貧乏だね。だね!

ママ、この写真、覚えてるよ。こっちがチビで、こっちがモモでしょ? うん、そう。あ、私がモモの頭叩いてる! うん、この時、あなたがモモの背中の毛むしったり、頭叩いたりしてるのに、モモ、じーっと我慢してたんだよ。チビは? チビはたたたーーーって逃げてった。わはははは。モモは偉い猫だ、うん。はっはっは。
ママ、この写真、何やってるところ? あ、それは、あなたがティッシュペーパーを次々引っ張り出しては放り投げてるところ。えーー、そんなことやってないよ。やったんだってば。そのティッシュペーパー、どうしたの? 集めてママが鼻紙に使ったよ。えー、やだー! なんでやなのよ? 棄てればいいのに。もったいない、あなた、一箱分全部引っ張り出したんだよ。えー、知らない知らない、覚えてないから! ははははは。
この辺から、モモもチビもいないね。うん、そうだね。ママ、また猫飼いたい? うん、いつか飼いたい。私は犬が飼いたい! じゃ、犬と猫が飼える家に住まないと。だね、ってことは、やっぱりお金が必要じゃん。あー、働けってことかー。ママ、頑張れ。はいはいはいー。

「問題は何をなすべきかということです。当然のことですが、私たちは逃避するわけにはいかないのです。逃避することはあまりにも愚かで大人げないことです。しかしあなたがありのままの自分と向かい合ったとき、あなたはどうしたらよいのでしょうか。まず初めに、ありのままのあなたを否定したり正当化したりせずに、ただそれと共に留まっていることはできるでしょうか。これはきわめて難しいことです。なぜかと申しますと、精神は説明や非難や同一化を求めるからなのです。もし精神がそういうことを一切やめて、そのままじっとしているなら、そのとき精神は何かを受け容れているような状態になっているのです」「あるがままのものを受け容れるのは非常に難しいことなのです。あなたがそれから逃避しないときにのみ、それを受け容れることができるのです。非難や正当化は一種の逃避なのです。それゆえ、私たちがなぜうわさ話をするのかということの全体の過程を理解し、そこに含まれている愚かさや残酷さやその他すべてのものを認識したとき、そのとき私たちはありのままの自分になるのです。しかし私たちは常にそれを破壊するか、あるいは別のものに変えるために、自分自身に近づいてゆくのです。もし私たちがそういうことをせず、ありのままの自己を理解し、完全にそれと一体でいるという熱意を持って自分自身に近づくなら、もはやそれは恐れたりするものではないことに気づくでしょう。そのとき、あるがままのものが自ずから変容する可能性が生まれるのです」

じゃぁね、それじゃぁね。気をつけてね! 手を振って別れる。私は階段を駆け下り、自転車に跨って走り出す。
坂を下り、信号を渡って公園へ。公園の水色の紫陽花の色が少しずつ褪せてゆく。ほんの少しずつだけれども。それにしても、このあたりの家々にも紫陽花の樹が多くあるのだな、と、改めて気づく。紫色のものもあれば、ピンク色のものもあり、水色のものもあり。色とりどり。
大通りを渡って高架下を潜り、埋立地へ。信号をそのまま一気に渡り、モミジフウの樹のそばを通り、さらに私は走る。
海と川とが繋がる場所で、自転車を止める。濃紺と緑色を混ぜたら、こんな色の海になるんだろうか。私はただ、じっと、海を見つめている。
強い風が吹きつける。そのたび波がばしゃんと音を立てる。遠く汽笛の音が響いている。ただそれだけなのに。私はなんだかほっとする。
さぁ今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、先を急ぐ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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