見つめる日々

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2010年06月30日(水) 
起き上がり、窓を開ける。湿った風がさぁっと部屋に流れ込む。私はベランダに出て、大きく伸びをする。空にはうねうねとした雲が広がっている。鼠色の雲。雨雲だ。すぐにでも雨が降るんだろうか。それとも今日は晴れ間は見えるんだろうか。所々、雲の切れ間から漏れ出ずる光。鼠色の雲の向こうに、白い輝かしい雲がぽっこり浮かんでいるのが見える。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。五本のうち、弱々しいのが一本在る。新芽を出してはいるのだが、背丈が全然伸びてこない。他のものたちはみんなそれぞれ、葉を伸ばしているというのに。でも、枯れるという気配は今のところはない。
デージーの丸い粒はやはり花芽だった。凝視すると、細かく細かく、円を描いて花びらが出てきているのが分かる。こんなに小さな丈で、もう咲いてしまうのか。不思議な気がする。そういえば、私はこういった草を育てたことがなかった。だから不思議な気がするのかもしれない。なんて小さな花なんだろう。これはどのくらい大きくなるんだろうか。それともこの程度の大きさのままなんだろうか。
ミミエデンは、二輪目も咲こう咲こうと頑張っている。ピンク色の中心を持つ、外側が白い花。まさに結婚式のブーケにぴったりな花だと思う。病を患っていなければ、もっとしゃんと咲けただろうにと思うと、悔やまれてならない。本当は昨日のうちに花芽を切り落としてしまおうと思っていたけれど、二輪目が咲くまで、待つことにする。せっかくここまで頑張っているのだもの。
ベビーロマンティカの花は綻び始めており。今日もし陽射しが出れば、きっと開くんだろうと思う。今朝もベビーロマンティカは、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしている。さんざめく小さな笑い声。また新芽をあちこちから吹き出させ始めた。ベビーロマンティカは、沈黙の時期がないんだろうか。こんなに次々変化があって、大丈夫なんだろうか。私はちょっと心配になる。
マリリン・モンローは沈黙しながらそこに在る。ついこの間まで新葉だったものたちも、今ではすっかり古い葉たちと同じ色合いになってそこに在る。病葉が幾枚かあるけれど、この程度の斑点なら、しばらく放っておいても大丈夫だろう。
マリリン・モンローの隣で、ホワイトクリスマスはしんしんとそこに在る。今、マリリン・モンローがちょっと茂りすぎていて、ホワイトクリスマスの領分を侵し始めている。今度枝を詰めようか。どうしようか。私はちょっと迷う。
パスカリの、病葉を四枚、摘む。もう歪んで、粉も噴いていて、どうしようもなかった。ごめんね、心の中でそう言いながら、私は摘んでゆく。奥からまた、新たな新芽が顔を出し始めているのに気づく。今のところ形に歪みはなく。このまま健康に開いてくれればいいのだけれど、と、私は祈るように思う。
ふと気づくと、さぁっと雨が降り出した。私は慌てて部屋の中に入る。アスファルトが瞬く間に濡れてゆく。街路樹の緑が雨粒を跳ね返してる。トタン屋根に弾き返される雨粒は、まるで音楽を描くかのようにとんとんと跳ねている。なのに、雨雲の所々が切れて、向こう側に水色の空が見える。

久しぶりに行った美容院で、開口一番、伸びましたねぇ、と言われる。そんなに伸びただろうか、前髪は確かに伸びて、邪魔になっている。と言うと、いやそれが、普通の長さなんですよ、と笑われる。どうも私は、前髪は短い方が好きらしい。目にかかるのが苦手なのだ、邪魔で邪魔でしょうがない。睫に髪の毛がひっかかると、気になって仕方がなくなってしまう。
本の話になる。あの本、もう読まれました? あぁ、出てすぐに読んだよ。やっぱりなー、読んでるだろうと思ったんですよ。私も読んだんですけど、なんか、痛いですね、あれ。痛い? いじめられっこもいじめっこも、両方、あぁこれ、現実にあるんだろうなっていうのがすごく伝わってきて、痛いんですよ。あぁ、なるほど。最後の展開は、現実にはないんだろうなって思ったけれども、それ以外のっていうか、そこまでにいたる過程は、もしかしたらこの現実の世界に、ごろごろ転がってるんじゃないかなって思ったら、ちょっと怖くなりました。うんうん、そうだね、ごろごろ転がってると思うよ。やっぱりそう思います? うん、思う。
高校時代って、どうでした? 私の高校時代? はい。私、高校ひとつ辞めてるんだよね。あ、そうなんですか? うん、友達が自殺したの。あちゃ。それに絡んで、いろいろあって、辞めて、新たに受験し直したんだ。だから高校は四年間やってる。そうだったんだー。どうしてその子、死んじゃったんですか? いじめ。いじめだけで死んじゃったんですか? そうだね、うん。そうなんだ…。やっぱりそういうことって、あるんですね。って、ないと思ってた? いや、ニュースではよく聴くけど、身近にはなかったから。そうなんだ、それは幸せだったかもしれないね。私の周りには、たくさん死が在ったよ。そうなんだー。
そんなこんなでおしゃべりしているうちに、髪の手入れは終わり。短くさっぱりした前髪は、ちょっと揃いすぎている気がしないでもないが、まぁこんなもんか。私は手を振って店を後にする。

弟から連絡が入る。打ち合わせをしたいとのこと。一通りのことを聴いて、電話を切る。言われたことをとりあえず調べておいて、あとは当日話を聴いてみればいいだろう。私は自分にできることとできないこととを書き出して、できることだけ済ませておくことにする。
弟に会うのはどのくらいぶりだろう。もう忘れた。去年の秋頃だったかもしれない。もっと前だったかもしれない。やつれて、苛立っていて、見ているのが辛かった。その頃の弟とはまた違った弟に、明日は会えるはず。そんな気がする。

ふと、棚の端に掛けてあるラックの中の、白い封筒が目に付いて手を伸ばす。それは、すっかり忘れていたが、大叔母が亡くなった折の写真だった。大叔母の葬儀は本当に素敵だった。身内が肩寄せあって集まり、大叔母の昔話で盛り上がった。泣いたり笑ったり、みんながそうして、身を寄せ合っていた。あんな葬儀は、もうないだろう。
この写真たちはみんな、大叔父が撮ってくれたものだ。そして後日、大叔父が短い手紙を添えて送り届けてくれた。その大叔父はもう、いない。

ねぇママ、私、今年、リレーの選手にも応援団にもなれなかった。そうなの? リレーの選手さ、私、この前足に豆ができてたでしょ、だから痛いなって先生に言ったら、走るのやめときなさいって言われてさ。そしたら、知らないうちにリレーの選手、決まってた。私、走ってないのに。そうなの? うん。…。応援団もさ、前にやったことある子ばっかりがやるんだよ。どうしてなんだろう。…。そんなのつまんないよね。そうだね、つまんないね。なんかやだな。うん、やだね。
ママ、どうして公平にやらないのかな。そうだねぇ、どうしてやらないんだろう。公平にやらなきゃずるいよ。うん、ママもずるいと思う。あなた、それ、先生にちゃんと言ったの? ううん、先生、もう聴いてないもん。決まったことだから、って。そっか。ママも先生に文句言わなくていいからねっ。あ、分かった。本当にいいのね? うん、いい。もう、いい。そっか。
ふと、小学生の時の、図画工作展の時の先生とのやりとりを思い出す。私の目の前で私の絵を破って棄てた先生のことを。あれ以来私は、絵を描くことを止めた。
娘にとってそんな体験が、できることならなければいい。私は祈るように、そう思う。

お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶。そうだ、今日はお弁当を作らなくちゃいけない。おかずは何にしよう。冷凍庫を探る。あぁ、ミニ春巻きがあった。あれを三つくらい入れて、野菜はブロッコリーを昨日茹でたからそれを使って。デザートには娘のご注文のみかんの缶詰を入れて。あとはおにぎりとゆで卵でいいか。まったく、いつとってみても、適当弁当だなぁと思う。でもそれを、文句も言わずに食べてくれる娘に、私はただただ、感謝。

なんかねぇ、ママの周りで恋の花がいっぱい咲いてるみたいだよ。そうなの? うん、そうらしい。いいねぇいいねぇ。いいねぇって、ママはどうなのよ! ママは、全然だねぇ。全然だねぇって笑ってる場合じゃないよ! しっかりしなさいよ! しっかりしなさいってったって、相手に出会わなきゃ、何も始まらないよなぁ。出会いがないよ、出会いが。ママってほんと、だめだよねぇ、そういうところ。そんなことしてるうちに、私が大きくなって、ママ一人になっちゃったらどうするの? 寂しくないの? そりゃ寂しいだろうなぁ。その時のために、ちゃんと恋人ぐらい作っておいてよね! あ、はい、すみません。まったくもー! はいはい。

じゃね、それじゃぁね、手を振って別れる。さっき降っていた雨はさっとやんでくれたらしく。私は、思い切って自転車で出かけることにする。久しぶりに乗る自転車。勢いよく漕ぎ出す。
風を切って走るのが気持ちいい。そうこうしているうちに、公園へ。公園の紫陽花は気づけばもう、枯れ始めているものもあり。早いものだ。私が展覧会をしている間に、もうこんなふうになってしまうなんて。
池の縁に立てば、鬱蒼と茂る茂みの真ん中、ぽっかりと空いた口から空が見える。ちょうどぱっくり割れた鼠色の雲の向こうから、陽光が降りおりてきて、池の水をきらきらと輝かせている。
よく見ると、池の中、蠢くものが。あぁ、おたまじゃくしだ。私は思わず笑顔になる。今年も会ったね。こんにちは。心の中、挨拶をする。群れて泳ぐおたまじゃくし。この中のどれほどの者が大人になりきれるんだろう。
大通りを渡り、工事中の高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木ももうすっかり茂って、道は影になっている。点滅している横断歩道、勢いよく渡りきり、私はさらに走る。
さぁ今日も一日が始まる。雨雲の向こうにはきっと、陽光が燦々と降り注いでいるはず。


2010年06月29日(火) 
娘にぴっとりくっついて眠られて、私は暑くて暑くて、眠るどころではなかった。汗だくの娘の頭を脇に感じながら、彼女が赤子の頃のことを思い出していた。彼女が赤子の頃、私は彼女に添い寝することが怖くて怖くて仕方がなかった。乳を口に咥えたまま眠ってしまう彼女を、寝床に横にさせ、自分も横になればそれでいいというのに、私は怖くて、隣に眠ることができなかった。潰してしまうんじゃないかとか、私の穢れが移ってしまうんじゃないかとか、様々なことが頭を巡って、どうにもこうにもいかなかったのを思い出す。あの頃はそういえばモモとチビという猫も一緒に暮らしていた。不思議なことに、赤子のいる部屋には一切入ろうとしない猫たちで。娘がはいはいできるようになってからは、娘の遊び物にされても、絶対に娘を引っかいたりしない、不思議な猫たちだった。懐かしい。今まだ生きていたら、娘のいい相談相手になってくれただろうに。そんなことを思う。
娘の体を跨いで起き上がり、窓を開ける。あぁ、今すぐにも雨が降ってきそうだ。そう思った。思いながら見上げる空は、まさに鼠色で。もくもくとした雲がこれでもかというほど敷き詰められており。手を伸ばせば今すぐにでも、雨粒が落ちてきそうなほど湿っていた。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。五本の枝葉たちは、めいめいに伸びている。背の高いものはもう十センチになるだろうか。今のところ、彼らの根を食う虫は、鉢の中にいないらしい。もうあんな目に遭うのは嫌だなと思う。
デージーに、小さな小さな丸い、粒のように丸いものがくっつき始めた。これは花芽なんだろうか。母だったらすぐに分かるんだろうに。私には、自信がない。花芽といえばそのような気もするのだが。どうなんだろう。
ミミエデンが咲いた。一輪咲いた。濃いピンクの中心をもつ花だ。病に冒されながら、よく咲いてくれた。私はじっとその花を見つめる。今日帰ってきたら、早速切ってやろうと決める。そして病気の葉も、何とかしてやろう。そう思う。
ベビーロマンティカの蕾もまた、綻び出している。肥料も殆どやっていないというのに、よく続いて咲いてくれるものだと思う。この生命力は一体何処から来るんだろう。この鼠色の空の下でも、さわさわとおしゃべりしているような賑やかさ。こんな季節なんだもの、雨が降るのは当たり前よ、と笑っているように見える。
マリリン・モンローは、一輪の花を咲かせ終え、今、沈黙の時期に入っているようだ。しんと静まり返っている。何処からも紅い新芽の気配はなく。しばらくはこのままなんだろう。お疲れ様、私は心の中、声を掛ける。
その隣のホワイトクリスマスも、今は沈黙の時期。でも僅かに、枝葉の付け根に、新芽の気配。固い固い芽の気配。伸びてくるといいな、とそう思う。
パスカリたちの一本は、新芽を次々伸ばしてくれているのだが、その大半がうどん粉病にかかっている。かわいそうに。全身粉を噴いているわけではないのだけれども、葉が歪んでいる。もう一本のパスカリの新芽は、今のところ大丈夫そうだ。
しかし、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の新芽は。これもまたうどん粉病に冒されており。せっかく伸ばしてくれる葉の殆どが粉を噴いている。困った。どうしよう。全部を摘むにはあまりに忍びなく。私は数枚だけ、酷いものだけをとりあえず摘んでみる。残りは様子を見よう。
ふと気配を感じ振り返ると、雨が降り始めていた。しっとりと降る雨だ。激しいわけではなく、でも、細かい雨だ。
玄関に回り、校庭を見やれば。けぶるような雨の様。埋立地の高層ビル群は、雨と雲の向こう側に埋もれている。今日は誰も、校庭で遊ぶ子はいないんだろうなと思うと、ちょっと寂しい。
部屋に戻り、娘を起こす。五時に起こせと言われていた。揺り起こし、シャワーを浴びるように言う。
その間に私はお湯を沸かし、生姜茶を入れる。そうして椅子に座り、煙草に一本、火をつける。半分開けた窓からは、雨の静かな音がみっしりと響いてくる。

私にはもう、弟はいないと思っているの。母が電話口で言った。母は四人兄弟だ。兄が一人と弟が二人。その二人のうちの一人の弟は、もう癌で亡くなった。一番下の弟は健在だが、母にとってもう、その人は弟ではないと言う。どうして、とは聴けなかった。おじが亡くなったときの、下のおじの仕打ちは、私も知っていたからだ。
だから私の兄弟はもう、兄さんだけよ。母が言う。その兄さんというのは、私にとってはムーミンのおじさんと呼んでいるおじさんで、もう七十一を数える。
大叔父の葬儀の折、ムーミンのおじさんは母にぴったりくっついていた。いや、母がおじさんにくっついていたのかもしれない。どちらか、それは分からない。その様子を見ながら、私は、お兄さんがいたらこんな感じなのかな、なんて想像した。
親族と呼ばれる人たちの様子を、ぼんやり眺めながら、もう二度と会わないのかもしれないのだなとも思った。
血のつながりって、何だろう。

ねぇママ、たった一日で、ディズニーランド、全部回っちゃったんだよ、乗り残した乗り物、ひとつもないんだよ。すごいでしょ。娘が興奮しながら言う。うんうん、すごいね、みんな疲れなかったの? 疲れたよぉ、でも、絶対全部乗ろうねって約束したの。何が一番面白かったの? お化けのお屋敷かなぁ。え? ジェットコースターじゃないの? うん、だって、ジェットコースター、あんまし怖くなかった。あ、そうなの。ご飯は何食べたの? ピザ! ねぇママ、ママにお土産に買ってきたノートだけどさ、あれ、私にくれない? なんで? 日記帳にしたいんだけど。あ、いいよ、分かった。ママに買ってきたんだけどさ、でもさ。分かってるって。いいよ、日記帳に使いな。うん!
じじばばには絶対秘密だね。もちろんだよ、秘密だよ。その分ちゃんと、勉強しないとバレちゃうよ。大丈夫大丈夫、絶対頑張るから。頼むよっ。
私は娘の話を聴きながら、あれこれ想像した。人ごみがだめな私の代わりに、娘をディズニーランドに連れて行ってくれた友人二人。さぞや疲れたことだろう。本当にありがたいことだ。まさか娘に、ディズニーランドを体験させてやれるとは思ってもみなかった。ありがとう、ありがとう。

亡くなった友人の夢を短く見る。それは、彼女が暗闇の中、じっと身を潜めているところで。ハリネズミのように全身の毛を逆立てて闇に目を配り、敵が何処にいるのかを凝視しているところで。そんな彼女の姿に、私は、思わず手を伸ばそうとして。そこで夢が醒めた。
大丈夫、もう、そんなふうに、身を潜めていなくてもいいんだよ、もう大丈夫なところにあなたは逝ったのだから。夢が醒めてから、私は心の中、彼女に言った。私の声は、届いたろうか。

次の個展が決まった。秋だ。十月下旬から十二月。毎年国立の書簡集でやらせてもらっている。今年も、「あの場所から」を前期に展示する予定だ。
「あの場所から」も今年で四回目になる。性犯罪被害者の友人たちが参加してくれての撮影だ。そろそろ彼女たちに、今年のテキストを頼む時期にも来ているなと思い出す。七月に入ったら早速その作業に入らないと。私は予定表に書き込む。
今回は、撮影のモデルになってくれた子が二人、撮影の手伝いをしてくれた子が一人、その他文章で参加してくれると言ってくれている子が二人いる。
性犯罪被害者の人たちが本当に参加してくれるんですか、と、百音の個展の最中に問われた。そう思う人が多いのかもしれない。でも、実際に参加してくれるからこそ、この撮影は成り立っている。
私は、彼女たちの悲惨さを写し出したいわけじゃぁない。「今」の彼女たちを写したいといつも思っている。「今」を生きている彼女たちを写すことで、彼女たちが乗り越えてきたものたちがどんなものたちであるのかを、見てくれる人たちがそれぞれに想像してくれたら、と思っている。
今ネガを机に広げながら、どこから手をつけようかと考えている。今回はしんしんとした画になりそうだな、という予感がする。

「もしあなたが悲しければ、悲しみなさい。それから抜け出す方法を探そうとしてはいけません」「自己認識というものは、他人や、書物や、告白や、心理学や、精神分析学者などを通じて寄せ集めたりすることができないのです。それはあなた自身が発見しなければなりません。なぜならこれはあなたの人生だからです」「精神の自己閉鎖的な活動を超えるためには、あなたはその活動を理解しなければなりません。それを理解するということは、物や人間や観念との関係の中であなたの行為を注意深く見守ることなのです。その関係―――それは鏡の役目をするのです―――の中で、私たちは正当化も非難もせずに、私たち自身の姿を見始めるのです」

じゃぁね、それじゃぁね、また後でね。手を振って娘と別れる。私はゴミを出し、そのまま通りを渡ってバス停へ。
混みあうバスの中、ヘッドフォンから流れてくるのはSecret GardenのEscape。まさに今このバスの中から逃げ出したい気分だと、私はこっそり下を向いて笑う。
ちょうど出勤時刻。これでもかというほどの人ごみ。私は頭がくらくらしてきそうになるのを何とか支え、階段を上る。
晴れていれば、駅三つ分を自転車でかっ飛ばして走れたのに。そう思いながら走り出す電車の窓の外を眺める。このあたりも随分変わった。昔デパートがあったところに、高層マンションができたり、逆に昔ながらのビルががら空きになっていたり。
明日弟と会う前に、準備をしておかなければならないことを思い出し、急いでメモする。弟は今、再び、岐路に立たされている。その手伝いが少しでもできれば。
さぁ、今日も一日が始まる。滑り込んだホーム、私は勢いよく駆け下りてゆく。


2010年06月28日(月) 
何度か夜中に目を覚まし、そのたび起き上がる。湿気が酷くて、空気が重たく感じられる。それが体に纏わりついて、なんとも気持ちが悪い。娘は大丈夫なんだろうかと横を見れば、まさに文字通り、大の字になって眠っている。その寝顔を見て、何だろう、妙に安心する。私が眠れなくても、彼女は眠っていて、ちゃんと世界は回ってる、そんな気がした。それだけでもう、十分なような、そんな気がした。
実は半月前から、友人たちと計画していた今日。娘を何とかしてディズニーランドに連れて行ってやれないか、という計画。それが実現する。私は病院で、一緒に行くことはできないが、私の親しい友人二人が、娘を連れて行ってくれる。直前まで何処へ行くかは秘密にしてある。さて、行き先が分かったとき、彼女はどんな顔をするんだろう。
椅子の上に体育座りしながら、煙草に火をつける。半分開けた窓から白い煙がゆらゆらと流れ出てゆくのを眺めながら、私はぼんやり昨日のことを思い辿る。
告別式の後、一枚の写真が、私の手元に残った。それは、亡き祖母と亡き大叔母とが写った古い写真だ。祖母はもうその頃病んでいたのだろう、そういう顔をしている。それでも、私の知っている祖母の顔だった。大叔母はまだ、病などどこぞといった明るい表情で、二人で肩を組んで写真に収まっている。色褪せた写真。見つめるほどに、涙が零れてきそうになった。でも、零れ落ちることはない涙。
舌癌を患っている叔父は、もうじき放射線治療が一段落するのだという。腫れて黒ずんだ頬が痛々しかった。それでも、大叔父の棺を囲んで明るく振舞う叔父の姿に、私は何処か、励まされていた。
友人の葬式は、密葬ということで。どうせ病気を患っていたのだから、と、まるで恥ずかしいものを隠すかのようにして済まされた。どうして病気であることがそんなに恥ずかしいのだろう。それよりも、彼女が長い間、近親姦で苦しんでいた、その事実の方が、重いはずじゃぁないのか。そう、彼女は長いこと、父親からの近親姦で苦しみぬいていた。何処へ逃げても、何処へ隠れても見つけ出され、餌食にされるのだと、とぼとぼと話していた。私が暗闇は怖いと言ったとき、彼女は逆に、暗闇の方がずっと気が楽だ、と言った。それは、自分の姿さえ隠れるほどの濃い闇なら、父親に見つけられ襲われずに済むかもしれないから、という理由だった。母親はその事実をずいぶん昔から知っていながら、何もしなかった。何の助けも出さなかった。そのことで余計に彼女は、苦しんでいた。
私と途中何度か連絡を断った時期があった。それは、「ねぇさんに父さんの手が及んだりしたら、それこそ取り返しがつかなくなるから」と。彼女はそう言って、何度か連絡を断った。
彼女は風俗の仕事をしながら、何とか生計を立てていた。私にはもうこの仕事しかないから、と言っていた。穢れた自分の体なんだから、とことんまで穢れればいい、と思う、と、そう言っていた。そんなふうにして、日々の銭を稼いでいた。
生きて生きて生きて、ここまで何とか生きてきたのに。断たれた命はもう二度と戻りはしない。自殺というのはなんて、暴力的なんだろう、と、改めて思う。暴風雨どころの話じゃない、もっともっと暴力的な何かだ。
今私は、祖母と大叔母の写真と、娘のアップの写真を並べて目の前に置いている。置いて眺めている。そして思う。私は、どうあっても、自ずと死がやってくるその日までは、生き延びてやろう、と。生き延びるのだ、と。

搬出の日。気づけばあっという間に終わった気がする。たくさんの人に支えられての展覧会だった。ありがたいと思う。テキストをゆっくり読み返したいからコピーをしてもらえないかとおっしゃってくださった方もあった。テキストを並べることに関して、最後まで迷っていた自分にとって、それはとても嬉しい言葉だった。
これは新作ですか、と期間中よく尋ねられた。私はその言葉に戸惑った。初めて並べるものもあれば、一度並べたことのあるものもあったりした。でも、私にとってはどれもこれも、新しいものだった。
もともと私は、すぐに現像プリントしない。何ヶ月か、半年か、フィルムを眠らせておくことがしばしばある。何を撮ったのかもう忘れた頃現像し、そこから新たな作業を始める。
だから、「撮影したのはいつですか」と言われれば、何年前です、と応えようがあるのだが、これは新作ですかと言われたとき、私にとっては新作です、であり、でも世間一般では、新作とはいわないんじゃないか、そんな気がしている。
どうであれ、今回、今までちゃんと飾ることができなかった作品を、展示することができたことは、私にとって幸せなことだった。
会場を貸してくださった方々、展示に携わってくださった方々に、改めてお礼を言いたい。ありがとうございました。

まだ雨が降っている。今日は一日、降ったり止んだりなんだろうか。せっかくの娘のお出かけの日なのに。そう思いながら、ラヴェンダーのプランターの脇にしゃがみこむ。
五本のラヴェンダーは、思い思いに葉を伸ばし、枝を伸ばしてそこに在る。もう、昨日まで在った六本目のことなど彼らは忘れているかのようで。今を必死に生きている様が、ありありとうかがわれる。
デージーも細かな細い葉を茂らせて、こんもりした小さな茂みを作っている。なんだかちょっと、作り物みたい、と思う。植物というよりも、パンフラワーか何かの造花みたいな感じ。
ミミエデンは、病葉に塗れながらも、必死に立っている。二つの蕾が、白い粉を噴きながらもピンク色の花弁をちょろりと垣間見せているのが切ない。どうしてやったらこの病気を治してやれるのだろう。
ベビーロマンティカは、そんなミミエデンをよそに、ひそひそ話を続けている。二つの蕾を中心に、楽しげな噂話に興じているかのように見える。これを見ていると、カミーユ・クローデルのおしゃべりな女たちの彫刻を思い出す。
マリリン・モンローは、切り落とされた花の痕をまっすぐに、それでもまっすぐに天に向けて伸ばしており。ここからこの枝はどうなってゆくのだろう。私はそれをじっと見つめる。
ホワイトクリスマスはその後ろで、しんしんと黙ってそこに在る。まるで私の内奥に沈むものを見透かすかのようにして、そこに、在る。

テーブルの上、向日葵の花と薔薇の花たちとが、それぞれ花瓶に生けて在る。しかし、頂いた薔薇の花の具合が何とも心配だ。何度水切りをしても、くたっとなってしまう。もしかしたら、私の邪気を吸ってしまったのかなぁなんて思ったりもする。そのせいでこんなに元気がなくなってしまったんじゃなかろうか、と。

ねぇママ、今日写真撮りに行くの? それとも何処行くの? 娘は朝からずっとその問いを私にぶつけっぱなしだ。そのたび私は、うーん、うーん、と流している。いい加減教えてよぉ、と言う娘に、さらに私は、うーん、と応える。
私は心の中呟く。一緒に行けないママを赦してね。みんなと楽しんで来てね。そしてお土産話をいっぱい聴かせてちょうだいね、と。

「生きていることは関係していることであり、関係がなければ生活はありえないのです。孤立して存在できるものは何一つありません。そこで精神が孤立を求めているかぎり、そこに必ず恐怖が生じるのです。恐怖は抽象概念ではなく、何かとの関係の中にのみ存在するものなのです」「恐怖をひき起こすものは、その事実についての私の不安なのです。その事実がどういうものであり、どういう作用を及ぼすかということについての私の不安なのです」
「それでは過去のものと同一化したり、命名したりせずに、その感情をただ見ることはできるでしょうか。感情に持続性と力を与えるのは、その感情に命名することなのです。あなたが恐怖と呼んでいるものに名前をつけたとたんに、あなたは恐怖を強化してしまうのです。しかしもしあなたが命名しないでその感情をただ見ることができるなら、あなたはその感情がひとりでに消えてなくなってしまうのに気づかれるでしょう」「もし私たちが恐怖から完全に自由になることを望むなら、言語化、象徴やイメージの投影、事実の命名などの全体の過程を理解することが必要なのです。言いかえれば、自己認識があるときにのみ、恐怖から自由になることができるのです。自己認識は知恵の始まりであり、それが恐怖を断ち切ってしまうのです」

集合場所の駅地下で、友人の姿を見つけた途端、娘は走り寄り、友人に抱きついた。友人は、これからデートだよ、とおちゃらけている。バス乗り場の近くまで三人で歩き、別れる。じゃぁね、と私が言うと、娘の心はもう何処かへ飛んでいった後だったのだろう、うんうん、とだけあっけなく言って、先に進んで行ってしまった。私はその二人の姿を見えなくなるまで見送る。
私は私で、やらなければならないことが山積みだ。しかと歩いてゆかねば。そう思い顔を上げた瞬間、陽射しがさぁっと降り落ちてきた。あぁ、陽射しだ。
さぁ、今日も一日が始まる。


2010年06月27日(日) 
雨の音で目が覚める。なんでこんなに雨の音がはっきり聴こえるのだろう。そう思って窓際に寄ろうとしてぎょっとした。窓を全開にして眠ってしまっていたのだった。慌てて窓を閉める。閉めて、でもやっぱりちょっと外の空気を感じていたくて、少しだけ窓を開ける。
そうだった。昨日は疲れ果てて帰宅して、シャワーを浴びるどころか顔さえ洗わず寝床に突っ伏したのだった。と思い出してはっと気づく。ハムスターたちに餌をあげることをすっかり忘れていた。大慌てで餌の準備をする。と、ミルクもココアもゴロも、待ってましたとばかりに小屋から出てきて、まだかいまだかいと催促の仕草。ごめんねぇと謝りながら私は、ミルク、ココア、そしてゴロの順に餌を置いてゆく。ミルクとゴロはすぐに食べ始めるのだが、ココアはなかなか食べようとせず。こちらを向いて、何かを待っている。そうか、外に出してくれと言っているんだな、と思い、手のひらに乗せてやる。すると、ほっとしたような顔をして、私の手のひらから肩まで一気に上ってくる。私はしばらく、彼女の好きにさせておく。
そういえば顔を洗っていないんだった、シャワーも浴びていないんだったと改めて思い出し、風呂場へ。泥のように溜まっていた疲れが少し、シャワーの水と一緒に流れていく気がする。
お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶を入れかけて、躊躇う。もう季節柄、店で取り扱わなくなったという生姜茶。残りはあと僅か。でも飲みたい。私はマグカップに溢れるほどお湯を注ぐ。
テーブルには、友人たちから頂いた薔薇の花と向日葵の花と、それから昨日切ったベビーロマンティカ、それからマリリン・モンローの花が所狭しと置いてある。みんなそれぞれに光を放って、そこだけがほんのり明るいように感じられる。
大叔父が亡くなって、一番小さくなったのは父かもしれない。大叔父と父は五つしか歳が離れていない。父は常々言っていた、大叔父は希望の光だ、と。大叔父が元気でいてくれる限り、自分も大丈夫な気がする、と。その大叔父が逝ってしまった。父は、通夜でも淡々とした顔をしていたが、その背中はとても小さく、震えていた。
告別式に参加したのは私と母で、私は何故だろう、母のことが心配で心配で、大叔父への最期の挨拶をすることよりも母のことが心配で、たまらなかった。母は感情を公の場で露にする人ではない。思ったとおり、涙ぐんだのは数回で、それもこっそりと目尻を拭う程度で。でも、母がどれほど悲しんでいるのかは、痛いほど伝わってきた。
何だろう、うまく言えないが、比較的明るい式だった。多分それは、大叔父の人柄のせいなんじゃぁなかろうかと私は思っている。あのおおらかで、明るい大叔父のことを思い出すと、みなが微笑んでしまう。だからこその明るい式だったんじゃぁないか、そう思う。私がムーミンのおじちゃん、と呼んでいる母の兄も、遠い町から駆けつけた。母を支えるかのように立つムーミンのおじちゃんの姿に、私は心強さを覚えた。あぁこれなら母も大丈夫だろうと思った。兄妹というのはこういうものなんだな、と、しみじみと感じた。少し羨ましかった。
滞りなく告別式も終わり、私は駆け足で個展会場へ向かった。正直、心は乱れたままだった。個展会場に着き、そこには店のオーナーがこの春産まれたばかりの赤子を連れてやって来ており。みなが赤子を囲んで微笑んでいた。その光景は、私には少し眩しくて。離れたところから眺めているのがやっとで。
命は巡るのだ、ということを、改めて思った。
私の娘が産まれたとき、実家の犬が息を引き取ったことを、今更ながら思い出す。メリーという雌犬だった。ビーグル犬で、やたらに体が大きく、父とメリーとがしゃがんで並んで撮った写真は、メリーの体の方が大きく見えるくらいで。でも、とてもおとなしい、やさしい犬だった。メリーは老衰で逝った。眠るように息を引き取ったと母から後で聴かされた。私は娘を見つめながら、娘がこうやって無事に産まれてくれたのは、メリーの支えがあったからかもしれない、とその時思った。
雨の中、ベランダに出、私はいつものようにラヴェンダーのプランターのところにしゃがみこむ。全身茶色くなった枝を、そっと抜いた。ありがとうね、ごめんね、そう心の中で言いながら。五本の枝たちは、めいめい枝葉を伸ばしてくれている。今土の中、彼らの足元に根は生えているだろうか。生えていてくれるといい。そう信じよう。
ミミエデンは病葉をあちこちに広げながら、それでも立っていてくれている。蕾の先がピンク色に染まり始めた。あぁこんなにも酷い病にかかりながらも、彼らは花を咲かせようとしているのだ、と思うと、胸がきゅんとした。無事に咲くかどうか分からないのに。それでも必死に、エネルギーを注いでいる。やめようとしない。その命の在り方に、私は涙が出そうになった。
小さな、挿し木ばかりを集めたプランターの中、もうどうにも黒く枯れ果てたものたちを一本ずつ抜いていった。命を繋ぐものもいれば、こうして消えてゆくものも、在る。そのことを、改めて見せつけられている気がした。
ベビーロマンティカは、雨が降っているにも関わらず、軽やかに唄い、喋り、二つの蕾を中心に、笑っていた。二つの蕾も少しずつ少しずつ、花びらの色味を見せ始めており。じきに花開いてくれるのだな、と、そのことが伝わってくる。
マリリン・モンローの、花を切り落とした後の枝は、花が切り落とされたにも関わらず、まっすぐに立ち、空を見上げていた。鼠色の空を。ただ一心に。
その向こう、ホワイトクリスマスは、こんなときもただじっと黙って、そこに在った。幾枚かの病葉を抱えながらも、しんしんと、そこに在った。
日常はすぐそこに在って、すぐここに在って、私を取り囲んでいる。でも何故だろう。私は地上から五センチくらい浮いている気がする。いつもの風景、いつもの光景の中に私はいるというのに。
でも。こういうときだからこそ、毎日のささやかなことたちを、日常を、大切に撫でてゆかねばならない、と思う。こういうときだからこそ。

大叔父が亡くなるのと重なって、友人が亡くなった。私が妊娠していた頃、必死に励ましてくれた子だった。私がつわりで動けないと知れば、何かしら食べれそうなものを送ってくれたり、私が前置胎盤で絶対安静だと知れば、電話をかけてきては何かと励ましてくれた。私がパニックを起こしたりフラッシュバックを起こして苦しんでいるときには、大丈夫大丈夫と言い続けてくれた友人だった。
彼女が送ってくれた長崎ちゃんぽんの麺は、たった一袋だけ、今も食べることができずに残っている。賞味期限なんてもうとうの昔に切れている。そんなことは知っている。知ってるけれど。彼女だって病気だった。その病気の彼女が、必死の思いで外出し、買って、送ってくれたその食糧。最期の一袋だけは、とてもとても、開けられなかった。今も台所の棚の奥、しまってある。
私のことを、ねぇさん、と最初に呼んでくれたのは彼女だった。
彼女が送ってくれたマタニティドレスは、今もきれいに畳んで押入れの奥、しまってある。もし娘がいつか妊娠したときに贈ってやろうと思って、とってある。彼女の手紙はいつも、走り書きのような手紙で。その手紙もみんな、残ってる。
そんな彼女が、とうとう逝ってしまった。
最期に電話を受けたとき、どうして私は気づいてやれなかったんだろう。どうして気づけなかったんだろう。どうして。
今更悔やんでも、もうどうにもならない。
今空を見上げながら、思う。どうかあなたの逝った場所が、美しくてあたたかくて、明るい場所でありますように、と。ただそれを、祈る。

玄関に鍵を閉め、階段をゆっくり降りてゆく。そしてバス停へ。雨がまだ降っている。バス停に立つと、埋立地に建つ高層ビル群が見える。上のほうは雲の中。でもその横に、太陽の光がぼんやりと見える。
やって来たバスに乗り、一番後ろの席に座って窓の外を眺める。日曜日の朝、いつもより車の数も人の姿も少ない。それでももう、街は動いている。
珍しく座れた電車の中。ぼんやりとあたりを眺めるでもなく眺める。本を読む人、ゲームに興じる人、新聞を広げる人、化粧をする人。それもみんな、生きているからできること。
さぁ、今日も一日が始まる。個展最期の日。しかと味わって過ごさないと。私は電車から勢いよく降り、階段をのぼってゆく。


2010年06月25日(金) 
真夜中に目を覚ます。寝床でしばらくじっと身を潜めている。何となく、そうしていたかった。娘は珍しく、枕に頭を乗せてくーかー眠っている。こんな日もあるんだな、なんて、ぼんやりと思う。
起き上がり、窓を半分開ける。すっと冷気が忍び込む。こんな夜でも風は吹くのか、と、ぼんやり思う。お湯を沸かし、レモン&ジンジャーのハーブティーを濃い目に入れてみる。一口啜ると、強いジンジャーの味が口の中に広がる。
灯りの代わりに、蝋燭をつけてみた。会津で買った花の絵の描かれている蝋燭。長いこと使わずにしまい込んでいたが。こんな夜は、ちょうどいいかもしれない。
蝋燭の火を使って煙草に火をつけてみる。母の言葉がふっと浮かぶ。大叔父や叔父が癌になったのだって煙草のせいでしょう、それなのにあなたはまだ煙草をやめないの?! 確か二月か三月頃、そう言われた。叔父も大叔父も、煙草が大好きな人だった。私はふぅっと煙を吐き出してみる。大叔父のように輪っかは作れないけれども。
大叔父が亡くなった。あっけない最期だった。脳溢血で倒れたという知らせから一日、経つか経たないかで、次の知らせが飛んできた。亡くなった、と。
明るい人だった。いつもユーモアに溢れ、私や弟を笑わせてくれた。車を運転することが大好きで、大叔母が元気だった頃は、日本中を走って回っていた。その大叔父が、死んだ。
私と弟のことを、いつも気に懸けてくれている人だった。あの父母に、私たちのことで食ってかかってくれたのも、大叔父だった。そんなんじゃいつか二人は駄目になってしまう、どうしようもなくなってしまう、こんなんじゃいけないんだぞ、と、父母を怒鳴りつけたのは大叔父ただ一人だった。そのことがあって、しばらく縁遠くなった時期もあったけれど、それでも大叔父や大叔母はまたやって来て、私たちに笑いかけてくれた。大叔母は精神科の看護婦長をやっていたこともあり、私が病んでゆくのに気づいて、二人していろいろ心配してくれた。でもあの頃私は、全くそれらに応えることができなかった。今更ながら悔やまれる。そうしているうちに今度、大叔母が病に罹り、戻らぬ人となり。そして今、大叔父が。
何の恩返しもまだ、私は彼らにしていない。していないうちに、彼らはこうして逝ってしまった。今まだ、私には涙さえ、ない。
何だろう、私はまだ、彼らがどこかで生きているように思えて仕方がないのだ。ちょっと旅行に行ってくる、と、二人してドライブに出かけたような、そんな気がして仕方がないのだ。それは私の勝手な、妄想だと分かっていても。
私はもう一本、煙草に火をつける。窓を思い切り開けて、風を部屋に呼び込んだ。そうして天井を見上げながら、煙草を吸った。
すべてが遠くなる、そんな気がした。いろんなものが遠くなってゆく、そんな気がした。何が、と言えないのがもどかしいけれども、ありとあらゆるものが、遠くなってゆく、そんな気が、した。
弟と二人、毎晩のように私の部屋でこっそり、飲んで語り合った場面が思い出される。弟の作る酒を酌み交わしながら、私たちは朝まで語り合った。その時よく、大叔父の話が出た。もし大叔父がいなかったら、と。大叔父がいなかったら、私たちはどうなっていただろう、と。
あの笑顔に何度、どれほど、救われてきただろう。おうっと手を上げて車を降りてくる大叔父の姿に、何度私たちは励まされただろう。あぁ来てくれた、大叔父がいる間は大丈夫だ、と、そんなことを思った。縋るように、思った。
私がだいぶ元気になり、娘を連れて叔父の家でみんなが集まったとき、大叔父が、よくまぁここまで大きくなれたもんだ、と、私に笑いかけた。私の娘を叔父が膝に抱きながら、大叔父がへたくそな手品を披露してくれていた。
すべてが懐かしい、でももうはるか遠い、昔の出来事のようで。手を伸ばしてももう、届かないのだった。
長い蝋燭も、消えかかり。私はふっと、息を吹き消してその火を消した。もう空は十分に明るかった。
ベランダに出、大きく息を吸う。いつものようにラヴェンダーのプランターの前にしゃがみこむ。茶色くなった枝。もう新芽も茶色くなり。完全に枯れてしまった。それが分かっても、私はそれを抜くことができないでいる。いずれ抜かなければならない時期が来るだろう。それまでは、そっとそこに挿しておこうと思う。
デージーはこんもりと葉を茂らせ。まるで絵本の中の世界の枝葉のようだ、と思う。明るい黄緑色のその葉の下には、誰かがこっそり隠れているんじゃないかと思えるような、そんな感じ。
沈黙していたパスカリから、少しずつ少しずつ新芽が顔を出してきている。紅い紅い新芽。まだ葉は開いてはなくて閉じているのだが。今のところ、白い粉は噴いていない。
ミミエデンは病葉に塗れながら、それでも必死に立っている。私はそっと指で葉の白い粉の痕を拭う。歪んだ葉の形が痛々しい。
ベビーロマンティカは今朝もくすくすと笑っているかのようで。四つの蕾のうち、二つが花開いた。もう切ってやらないといけない。そう思いつつ、今朝はそれをする気持ちになれない。帰ってきたら切ってやろうと思う。
ホワイトクリスマスはただじっと、じっとそこに在り。まるで私の様子を見つめているかのようで。私が見つめているのに、そのまま見つめ返されているかのようで。私は一瞬下を向いてしまう。
マリリン・モンローの蕾はただまっすぐに、ひたすらまっすぐに天を向いて立っている。もうじき咲くんだろうその花。先が綻んできている。濃いクリーム色がこの空の下、鮮やかに映える。
私はマリリン・モンローの蕾の脇にしゃがみこみながら、空を見上げる。晴れろ。今日は晴れろ。思い切り晴れて、大叔父を見送らせておくれ。

帰って来た娘に、大叔父が亡くなったことを告げると、娘はいきなり問うてきた。ママ、なんでそんなあっけらかんとおじさんが死んじゃったって言うの? え? だってあんまりにもあっけらかんと言うから。じゃぁどう言えばいいの? うーん、もっとこう、考え込んでっていうか、いや、まぁいいんだけど。考え込んで、静かに、おじさんが亡くなったよって言ったら、ママの気持ち、伝わるのかしら? うーん、分かんない。ママも、どういうふうに言えばいいのか分からないのよ。悲しいんだけど、まだ実感が沸かないの。おじちゃんはどこかに生きていて、こっち向いて笑ってるみたいな、そんな気がしてならないの。ふーん。
ねぇママ、おばちゃんの時みたいに、おじちゃん、冷たくなってるの? え、あぁ、そうだねぇ、人間死んじゃうと、冷たくなるねぇ。冷たくなって、固くなるんだよね。そうだねぇ。真っ白にもなっちゃうよねぇ。そうだねぇ。どうしてそうなるんだろう? 分かんない。どうしてそうなるんだろうね。でもさ、みんなでお見送りすれば、元気になるよね。え? だから、みんなで笑ってお見送りすれば、死んだ人も元気にあの世にいけるんでしょ? あ、あぁ、なるほどねぇ、そっかぁ。そうだねぇ。そうかもしれない。

「生きていながら死ぬことは可能でしょうか。ということは、死んで無になるという意味なのです。すべてのものがより以上のものになろうとしたり、またそれに失敗したり、すべてのものが出世し、到達し、成功しようとしているような世界で生きていて、果たして私たちは死を知ることができるでしょうか。すべての記憶を清算することはできるでしょうか。それは事実や、あなたの家の道順などについての記憶のことを言っているのではありません。それは記憶を通しての心理的な安全に対する執着や、あなたが今までに蓄積し貯えてきた記憶で、その中にあなたが安全や幸福を求めているような種類の記憶のことなのです。そのような記憶をすべて清算して片付けてしまうことはできるでしょうか。ということは、明日新しく生まれ変わるために、毎日毎日死んでゆくという意味なのです。そのときに初めて、私たちは生きていながら死を知ることができるのです。そのような死と、持続の終焉の中にのみ新生と、永遠のものである創造が生まれるのです」

じゃぁね、それじゃぁね、また後でね。手を振って娘と別れる。ふと思った。これがもし最期のじゃぁねだったら、私は一体どうなってしまうんだろう、と。
娘は学校へ、私はバス停へ向かう。道を挟んでこちらと向こう、再び手を振り合う。娘の姿がちょうど学校の中に消えるところで、バスがやって来た。
眩しい陽射しが窓の外、きらきら輝いている。こんな日に喪服を着るなんて、なんかちょっとおかしいよ、と私は心の中に在るおじちゃんに話しかける。おじちゃんのせいだからね、と付け加えて。
駅に着いた。バスからどっと人が降りてゆく。私もその中の一人。
ふと立ち止まる。こうして交叉する人たち。その間にも幾つの命が消え、同時に幾つの命の火が点るのだろう。はかりしれない。
さぁ、今日も一日が始まる。私は、階段を思い切り駆け足で降りてゆく。


2010年06月24日(木) 
真夜中にやはり目が覚める。寝返りを打とうとして逆に娘の足に腰を蹴られる。やられた、と思ったがもう遅い。かなり勢いよく蹴られ、しばらく腰が痺れる。起き上がって、迷った挙句、友人から貰ったハーブティーを入れる。三分待って、三回ティーバックを揺らすのがいいらしい。説明書どおりに入れてみる。レモンの香りのする、でも、口をつけるとほんのり甘いハーブティーのできあがり。
窓を半分開けて、夜空を見上げる。少し風が強い。カーテンがびゅうびゅうとなびくので思い切ってカーテンを開けてしまうことにする。そうして一本の煙草に火をつける。
昨日のことがうまく思い出せない。それほど疲れているつもりはないのだが。そう思いながら、深呼吸してみて、いや、と思い直す。やっぱり疲れているのかも、そう思って苦笑する。明日になったら滋養強壮剤でも一本買って飲もうかしらん、そんなことを考えてみる。
ようやく電話が繋がった友人と話をしたことを思い出す。疲れ果てた声だった。そして、私にさえ怯えているような声が、最初響いてきた。
赤子を、自分の子供と思うことさえできない、そんな自分がいる、と。彼女は言った。子供の世話も何も、親に任せっきりで、何をする気も起きず、今日初めて自分ひとりで外出したのだ、と彼女は語った。私はその彼女の声の様子に耳を澄ます。ねぇさんにも言うことが怖かった、自分の子供なのに愛せないどころか、自分の子供と思うことさえできない、もうこんな子、施設に入れてしまえばいいとさえ言ってしまった、と。彼女はそう言いながら、自分で自分に戸惑っているようだった。もしかしたら、こんなはずじゃなかったのに、と思っているのかもしれない。
母乳をあげることさえ嫌で、母乳を断つ薬を貰ったの。それから病院で安定剤とか貰おうとしたら、もう必要ないみたいなことを言われて。私、どうしたらいいんだろう。彼女はぽつ、ぽつ、と話してくれる。私は相槌をうちながら、それを聴いている。
母乳をやらなければいけない、などというのは、一体誰が考え出したんだろう。それが負担な母親だっているのだ。それがとてつもなく重くて、拒絶するしかない母親だっているのだ。どうしてそれを受け容れることができないのだろう。
そして何より。こうした心の揺れを、誰にも打ち明けることができず、どんどんどんどん追い詰まってゆく、そういう人間の孤独さを、どうしてもっと思いやることができないのだろう。
夫がこの前来ていたのだけれど、犬ばっかり可愛がるの、子供より犬の方が可愛いって。彼女が小さな声でそう話す。おまえだって子供なんて施設に入れてしまえばいいって言ったじゃないかって、そう言われた、と。
彼女の言葉は、ひとつひとつが重かった。重たく、私の中に沈んでいった。
このままもし夫の元に戻ったら、私、子供を虐待してしまうんじゃないか、死なせてしまうんじゃないかって思って。
彼女の言葉を聴きながら、私はじっと、自分の内側を見つめていた。そして、自分のことを思い出してみた。
私は娘に触れることが、最初怖かった。こんなに穢れている私が彼女に触れたら、彼女も穢れてしまうんじゃなかろうか。こんなに汚れている私が彼女に触れたら、彼女も汚れてしまうんじゃなかろうか。そう思って、とてつもなく怖かった。抱くということどころか、触れるのさえが怖かった。
私は産んだ瞬間に、あぁこの子は私とは別物だ、と感じられた。そしてほっとした。よかったと思った。そんな私であってさえ、赤子にいざ触れようとすると、とてつもなく怖かったのだ。
今彼女はどれほどの思いを抱えているだろう。そう思ったら、胸が詰まった。
ねぇさんにこんなこと話すことも躊躇われた。何て思われるかって思ったら、躊躇われて、電話にもなかなか出られなかった。彼女がそう話す。
だから私は彼女に言う。大丈夫だよ、いつでも電話かけてきてね、と。
私は言いながら、もっと他に言葉はないんだろうか、と自分を張り倒したい気持ちだった。でも、下手な言葉など、こんなとき、何も見つからない。言葉なんて陳腐なものだ。不用意な言葉で彼女をこれ以上、傷つけたくもなかった。できるのは、私はここに在て、あなたと繋がっているんだよ、という、そのことを伝えることだけ、だった。
できるなら。
できるなら彼女の元へ飛んでゆきたかった。飛んでいって、彼女をハグしたいと思った。心の底から。でも、今の私には、それは叶わない。
今彼女はどうしているだろう。産まれたばかりの赤子では、夜泣きも酷いだろう。それに振り回されて、へとへとになっていやしないか。自分の思いのたけをぶつける相手が身近に居なくて、必要以上に孤独になっていやしないか。きっとこれからのことを思って途方に暮れているに違いない。そんな夜は、とてつもなく、長い。
徐々に白んできた空を見上げ、私は椅子から立ち上がる。
ベランダに出、大きく伸びをし、深呼吸をする。雨に洗われた街はさっぱりと埃を落としてしんしんと静まり返っている。
しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを見つめる。やはり、一本は枯れてしまうようだ。新芽の色も変わってきた。明日にはきっと全身が茶色くなってしまうだろう。ごめんね、私は声を掛ける。せっかくここまで来たのに、生かしてやれなくてごめんね。そして残りの五本を見やる。残りの五本は、思い思いに葉を伸ばし、新芽を伸ばし、育ってくれている。この枯れてゆく一本の分も、元気に生きてほしい。
ミミエデンのうどん粉病の具合は、酷いものだ。薬を散布したものの、葉は歪み、白く爛れている。かわいそうに。私はそっと指で病葉を撫ぜる。せっかく萌え出た新葉の殆どがこうして病葉になってしまった。蕾も白く粉を噴いている。母ならどうするんだろう、こんな時。母なら思い切って切り詰めてしまうのかもしれない。でも。私にはそれができない。明るくなったら母に電話して、相談してみようか。どうするのが一番いいのか。そこまで考えて、ふと、思った。母がいなくなったら。私はこんなとき、どうするんだろう。母がいずれいなくなることなど、当然のことなのだ。今大叔父が危篤であるように。私はぶるり、背筋が震えるのを感じた。
大叔父が危篤だという知らせを受けたのは、昨日、展覧会会場でだ。メールの音に気づいて開くと、母からだった。危篤、とだけ書いてあった。急いで電話をしたものの、母は母であちこちへの連絡で忙しく、あまり話を聴くことはできなかった。ともかくも、大叔父は今危篤なのだ、という現実が、私に圧し掛かってきた。
大叔父と、今は亡き大叔母は、私と弟が父や母から精神的虐待を受けていることに気づいて、直談判に来てくれたような人だった。そのためにしばし縁遠くなったことさえあった。それでも。遠くからいつも、私たちを見守ってくれていた。大叔母は、白血病を患い、それから肝炎を、そして全身に癌を患い、消えるように亡くなっていった。そして今大叔父がまた。
唇を噛もうにも、噛む力さえ沸かなかった。
マリリン・モンローの蕾が、まっすぐに、本当に真っ直ぐに、そそり立っている。あぁ蕾よ、どうか大叔父の命をもう少し、燃やしておいてほしい。私は祈った。おまえのその力を、大叔父に少しでも伝えてほしい。分けてあげてほしい。そう祈った。蕾は綻び始めている。僅かに綻んで、そうして立っている。
挿し木を集めた小さなプランターの中、せっかく葉を広げ始めていた枝が、くてんと枯れている。あぁまただ、と思った。これでもうこの枝はお終いになってしまう。悲しかった。せっかくここまで生きてくれたのに。これは多分、棘が多いからマリリン・モンローの枝だ。あぁ、もし根付いたら、母にあげようと思っていたのに。
ベビーロマンティカは、そんな私の気持ちに気づかぬかのように、明るい色味を見せている。そうして四つの蕾を湛え、小さな笑い声さえ響かせている。そうだ、おまえたちは元気に咲いておくれ。せめてこの雨雲の下、明るい色を見せておくれ。

「他人を当てにするのは全く無益です。他人が平和をもたらすことはできません。どのような指導者も、軍隊も、国家も、私たちに平和を与えてはくれません。平和をもたらすものは私たちの内部の変革であり、それが外部の行動に結びつくのです。内部の変革は外部の行動からの孤立でもなく、回避でもありません。その反対に正しい思考があるときにのみ、正しい行動がありうるのであり、正しい思考がないときには自己認識はありえないのです。そしてあなた自身を知らなければ、平和は存在しないのです」

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って娘と別れる。階段を駆け下り、バス停へ。しばらく待ってやって来たバスに乗る。少し混みあってはいるが、後部の座席が空いており、私はそこに座り込む。
今日は雨は降らないと天気予報が言っていた。できるだけ早く帰宅して洗濯しないと。そんなことを考えているうちにあっという間に駅に辿り着く。
何処から集まってくるのか、いつの間にか生まれた人の列に混じって、私も歩く。海と川とが繋がる場所、暗緑色の水が波打っている。鳥の姿はなく、私はそのまま通り過ぎる。
歩道橋を渡り、ふと見ると、左手の方に大きな風車。さすがに橋は見えない。空全体を薄い雲が覆っているせいだろう。
この空の下、今この瞬間、一体幾つの命が交叉しているのだろう。

さぁ今日も一日が始まる。しかと歩いてゆかねば。


2010年06月23日(水) 
真夜中に目が覚める。どうも目が覚めるのが癖になってきたような気配がしないでもない。寝床の上、ごろごろと転がろうかと思ったら、娘の足が私のお尻にぐいと当たった。ふと見ると、私に対して90度の位置に横になっている。直角を描いて娘と私、布団の上。足の裏をこにょこにょとくすぐってみたがびくともしない。仕方なく、私はそのまま起き上がることにする。
まだ雨は降っていないが、いつ降り出してもおかしくないほどの湿気。明日は雨になるんだな、と思う。街灯がオレンジ色の光をアスファルトに投げかけている。街路樹の緑も今は、暗いオレンジ色に染まっている。
ガラスのポットの中、冷めた生姜茶をカップに注ぎ入れる。一口、一口呑みながら、ぼんやりと天井を見やる。そこには娘がまだ幼稚園の頃に描いてくれたお絵描きが数枚、貼ってある。
その中で一番私が気に入っているのは、どんぐりの親子を描いたものだ。どんぐりの木からどんぐりが落ちてくる。「ぽるぽる どかーん」と言葉が添えてあるその図。そして木の隣には、どんぐりたちが住む三階建ての家があって、ベッドやら机やら、いろいろな小物が描いてある。そして一番端に、一番大きなどんぐりが描いてあって、そこに「どんぐりのおかまさん」と文字が添えてある。いや、これ、多分、どんぐりのおかあさん、と書こうとしたんだと私は思っている。思っているのだが、読むたび、ぷっと笑ってしまう。どんぐりのおかまさんは、どんぐりの子供たちを見守るように、優しい目をしている。
ただそれだけの絵なのだが、私はこの絵が一番好きだ。いつ見ても、心がほっくりとしてくる。描いてくれた娘に、感謝、だ。
再び寝床に戻り、横になる。しかし娘の足が私の領分にまで伸びていて、私は廊下に一番近いところに小さく丸まるしか術はなく。仕方ない。このまま小さくなっていよう。私は丸くなりながら、昨日のあれこれを思い返す。
展覧会会場になっている喫茶店へ行くと、店員さんが一人、ぽつねんとしている。お客さんが珍しくいないらしい。私と店員さんはあれやこれやおしゃべりを始める。そのうち、彼女の心配事の話になり。私はただ耳を傾ける。時折涙しながら話し続ける彼女の声に、ただ耳を傾ける。
私に今できることは、情報提供だけだと思った。知っている情報を幾つか彼女に話す。そのつどメモをとってゆく彼女。それほどに今、そのことで心がいっぱいなのだなということが伝わってくる。少しでも情報が役に立てばいいのだけれども。
そうしてぽつぽつとお客さんの姿。私は約束していた老婦人を出迎える。背の小さな老婦人だが、きっといつも気を張っていらっしゃるのだろう、その姿はとても存在感がある。でも何だろう、今日はちょっと疲れているような気配がする。
向かい合って、お茶を飲んでいると、老婦人が訥々と話し出す。今心に掛かっているあれこれを、訥々と話し出す。だから私は相槌を打ちながらただ耳を傾ける。
こんなにいっぱい心に溜め込んで、さぞ重かっただろうと思った。だからこそ彼女はいつも、背筋を伸ばして、倒れてしまわないようにと気を張っていらっしゃるのだろうということが、痛いほど伝わってきた。
見送るとき、彼女が少し小さく見えた。切なくなった。早く元気になって欲しいと思った。私に祖母はもう生きていない。彼女を見送りながら、祖母のことを思った。祖母が生きていたら、もし生きていたら、こんなふうにあれやこれや抱え込んで、でも祖母だったらきっと、喚き散らしながら走り回っていることだろうな、とも思った。
ふと気づいて窓を開けると、もうすぐそこに雨の気配。もう降りだすな、と思った。私はベランダに出て、大きく伸びをした。そうしてラヴェンダーのプランターのところにしゃがみこむ。まだ、まだ緑色が残っている。新芽の緑色が生きている。一本の枝。ここからどうにか伸びてきて欲しい。私は祈るように思う。他の五本の枝たちも、いつか花を咲かせるくらい伸びてくれたら、いいなぁと思う。
ミミエデンは、昨日薬を散布したおかげなのか、白い粉の具合が一段落している。私はほっとする。これ以上薬を散布したくはない。だからこのまま、病が治まってくれたら。それを願うばかりだ。蕾は小さく二つ、まだ残っている。咲かせてやりたい。どんな小さな花であっても、できるなら咲かせてやりたい。そう思う。
マリリン・モンローは、鼠色の雨雲の下、凛々と立っている。濃いクリーム色の花びら。先が少しばかり綻んできており。もうじきだ、咲くのは。またあの香りを嗅ぐことができるのかと思うと、今から胸がどきどきする。
ベビーロマンティカの蕾は、いつの間にか四つに増えていた。今二つが綻び始めている。萌黄色の茂みの中に、明るい煉瓦色の蕾。その色のコントラストが、鼠色の雨雲の下でも美しく映えている。
パスカリの新芽。二箇所から出てきた。よかった。沈黙が破られたんだ、と思った。またすぐ沈黙するのかもしれないが、それでも、彼女が生きている、そのことが分かってよかった。
と、思っていたとき、ぽつり、雨粒が堕ちて来た。やっぱり降って来たか。私は空を見上げる。途端に顔にぱつぱつと当たる雨粒。どんどん勢いを増してゆく。私は窓を閉め、部屋に戻る。

昨日作ったお弁当を、娘は塾の友達に、クサイと言われたと言っていた。私はそれを聴いて少なからずショックを受けた。何が臭かったんだろう。コロッケと野菜の煮物とパイナップルを入れただけだったのだが。何がいけなかったんだろう。
そうして今朝も私はお弁当を作る。今日はシュウマイと茹で野菜とみかんの缶詰を用意した。あとはゆで卵におにぎり。私は一生懸命鼻をひくつかせて、匂いを確かめようと試みるのだが、よく分からない。何が臭いんだろう、何がいけないんだろう。分からない。頭を抱えてしまう。
そうしているうちに、朝練のある娘を起こす時間になってしまう。私も朝の仕事に取り掛からねば。焦りながら支度をし、娘を起こす。ふぁーい、などという気の抜けた返事が返ってくる。

ママ、今日はプールも特活も、雨じゃおじゃんだよ。娘が泣き声をあげる。娘の後ろから窓の外を見、私も、うん、そうだねぇと返事をする。楽しみにしてたのになぁ、最悪。ママの時なんて、雨でも水があったかければ泳いだんだけどねぇ。いまどきの小学校はそうじゃないからなぁ。えー、いいなぁいいなぁ、私も雨でも泳ぎたいよ、どうせ濡れてるんだから同じじゃんねぇ! うん、ママもそう思う。いいじゃんねぇ! 校長先生に頼んでみようかなぁ。頼むだけ頼んでみたら? 無理かもしれないけどさ。うん、そうする。
ね、ママ、交換日記ってやったことある? 交換日記? あるよー。楽しかった? そうだね、楽しい思い出と、苦い思い出と両方ある。苦い思い出って何? 交換日記に書いたことって秘密でしょ、なのに、相手の子が他の子に喋っちゃってね、それで台無しになっちゃったことがあった。えー、それ、ルール違反じゃん。まぁね、でも、そういうことがあった。どうしよう。どうしようって? 今、交換日記やろうかどうしようか迷ってるの。そっかー。交換日記ってさ、誰が見るか、どこから秘密が漏れるか、分からないからね。それを覚悟でやった方がいいかもしれないね。うーん、なんかそういうの、やだね。うん、やだね。でも、仕方ないよね。うーん。鍵つきのノートとかないのかな。あるよ。そういうノート。そういうのでやったらどう? うーん、どうなんだろう、ママはやったことないから分からないなぁ。そっかー。相談してみるよ。うん、そうだね、それがいい。うん。

「関係というものは恐れのない親交と、お互いを理解し、直接に話し合う自由を意味しています。関係は相手の人と親しく交わるという意味なのです」「愛の中には関係というものがないのではないでしょうか。あなたが何かを愛していて、その愛の報酬を期待しているときに初めて関係が生じるのです。あなたが愛しているとき、つまりあなた自身をあるものに、完全に全体として委ねたときには関係は存在しないのです」「愛の中には摩擦もなく、自他もなく、完璧な一致があるのです。それは統合の状態であり、完全なのです。完全な愛と共感があるとき、幸福で喜びに満ちた稀有な瞬間が訪れるのです」
「関係を理解するためには、まず初めにあるがままのものと、私たちの生活の中で種々様々に微妙な形をとりながら実際に起こっていることを理解することが大切であり、また関係とはどういう意味であるかを理解することが重要なのです。私たちの関係は自己啓示なのです。私たちが安逸の中に浸っているのは、私たちのあるがままの姿を暴露されたくないからです。そのとき私たちの関係は、そこに潜んでいる驚くべき深遠と意義と美を失ってしまうのです。愛があるときにのみ、真の関係が存在するのです。しかし愛は満足の追求ではありません。愛は無私との完全な共感―――それも少数の人間同士のものではなく、最も高いものとの共感―――があるときにのみ存在するのです。そしてこの共感は、自己が忘れられてしまったときにだけ起こるものなのです」

娘を送り出し、私も家を出る支度を整える。一応上着を着てゆくことにする。
階段を駆け下り、通りを渡ってバス停へ。ちょうどやってきたバスに乗ると、むわっとするほどの湿気が充満していた。一番後ろの席に座り、窓の外を見やる。窓が曇ってよく見えないけれど、街のどこもかしこもが濡れている。強い雨。
電車に乗り換え、一時間近く。揺られ揺られながら、会場の最寄の駅へ。
少し前から気になる本屋のポスター。夜行観覧車というタイトルの本。文庫になったら読んでみたい。いや、できるなら今手にしてみたいけれども。今はまだ、やめておこう。
さぁ今日も一日が始まる。傘の合間から見上げる空は鼠色。それでも気持ちの中だけは晴れやかに、歩いていきたい。


2010年06月22日(火) 
真夜中ぱっちりと目が覚める。一時間半寝床で我慢したがどうにも眠りが戻ってこない。やはり薬を飲み忘れたのがいけなかったんだろうか。寝返りを打ちすぎて疲れ、とうとう起き上がる。頓服だけでも飲んで、もう一度横になろうと思った。
起き上がってみると、窓ががらりと開いていて仰天する。多分娘が閉め忘れたのだろう。私も確認しなかったのがいけなかった。慌てて窓を閉めようとして、とりあえず半分にする。真夜中に一本くらい煙草を吸ったって、誰も咎めやしないだろう。気休めに一本、吸うことにする。
小さく音楽をかけてみる。Coccoのニライカナイに続けてSecret GardenのElanがスピーカーから響いてくる。今頃どこかで雨が降っているに違いない。そう思わせる、重たい湿った空気。窓の外には星も月も見えない。どんよりした雲が広がっている。
二曲聴き終えた時点で、もう眠るのは無理かなと思ったけれど、再び横になる。体だけでも休めなければ。頭がそう言っていた。
結局ばたんばたんと寝返りを打ちながら、朝を迎える。うっすらと、水彩絵の具の紺色を水で伸ばしたような色合いの空を、窓の向こうに見る。どうしよう、もう起き上がろうか。それとももう少し体を横にしておこうか。迷っている時、からからと回し車の音がした。あれはココアだろうと起き上がる。ココアが一生懸命回し車を回している。おはようココア。私は声を掛ける。ココアはきょとんとした円らな瞳をこちらに向けて、後ろ足で立つ。私は扉を開けて、彼女の頭をこにょこにょと撫でてやる。外に出してもらえると勘違いしたココアは、一気に扉のところへやって来て、背伸びしている。仕方ないなぁと言いながら私はちょっとだけよと断って手のひらに乗せる。サファイアブルーの背中の毛がつやつやと光っている。
しばらくそうしてココアと戯れた後、私はテーブルの上の花を見やる。水切りをしてやらなければと、まず向日葵に手を伸ばす。向日葵が父の日の花だなんて、どうしてなんだろう。父と向日葵は、どうやっても結びつかない。そんなことを思いながら、一本一本水切りしていく。次は薔薇の花瓶に手を伸ばす。白と赤と紫の薔薇。白の薔薇はちょっと弱かったんだろうか、幾つかの花がひしゃげてしまっている。一方赤の薔薇は元気いっぱいだ。紫の薔薇は別の花瓶に生けることにする。
そうしてだいぶ明るくなってきた空の下、ベランダに出る。明るくなってきたとはいえ、雨雲らしい雲が一面に広がっている。朝にしては暗い空だ。街路樹の緑もその灰色さ加減を反映して曇った色をしている。まだ通りに人影はない。行き交う車ももちろんない。
しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを見やる。全身茶色くなってしまった枝に、それでも緑の新芽が必死に二つくっついている。この新芽はどうなってしまうのだろう。この枝にくっついて、伸びてくるのか、それともこの枝と同じ色に染まってしまうのか。私はただただ凝視する。凝視したって新芽がそれで伸びてくるわけでもないことは承知の上で。祈るように凝視する。
他の五本の枝たちは、思い思いに枝葉を伸ばしている。改めて見ると、挿し木したその時の、倍以上にはなっているんだろうか。毎日毎日眺めているから、その変化に気づかなかったけれども。一番大きいものは、もう五センチ以上の丈になっている。この枝の下、土の中で、根はどうなっているだろう。ちゃんと伸びていてくれているだろうか。根を食む虫はもう、いないだろうか。
デージーはこんもりとした小さな茂みを作っている。ここに小さな小さな人形や家などを飾ったら、小さな町の出来上がり、だ。そんなことを思う。
ミミエデンのうどん粉病の具合が酷い。悩んだ挙句、もう一度薬を散布することにする。シュッシュッシュッ。薬を噴きかける。弱めの薬を使っているとはいえ、もうこれでおしまいにしたい。他の元気な葉にとっては迷惑な薬だろう。それにしても。新芽が全員うどん粉病になってしまうなんて。あんまりだ。かわいそうに。蕾のつけ根にも白い粉が噴いている。
マリリン・モンローの蕾がすっくと、真っ直ぐに天に向かって伸びている。それはまさに堂々とした立ち姿で。見惚れてしまう。蕾の先の方の色味が現れてきて、濃いクリーム色が見えるようになった。マリリン・モンローは、このたった一輪の花を咲かせるために、どれくらいのエネルギーを費やすのだろう。どのくらいの体力を使うのだろう。人間が子供を産むのと同じくらいだろうか。だとしたら、この薔薇たちは、なんて逞しいんだろう。私にはとても、真似できない。
ベビーロマンティカの蕾、二つが綻び始めた。残りの一つはまだ固く閉じている。明るい明るい煉瓦色が、じきにもっと明るい黄色になってゆくんだ。私は蕾を眺めながら、そのグラデーションに思いを馳せる。
沈黙を続けていたパスカリから、ようやっと新芽がひょいっと出てきた。下の枝の方から、隠れるように。紅い紅い新芽だ。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹も、うどん粉病が酷い。私はシュッシュと薬を噴きかける。これで薬を撒くのも最後にしたい。そう祈りながら。

病院で診断書を受け取った帰り道、友人らと食事をする。彼らと出会ったのは私が高校生の頃だった。それから長いブランクを経て、再会した。でも何だろう、彼らがあまり変わらないせいなのか、そんな何十年もというブランクが在ったことを忘れてしまう。もうお互い四十を数える年頃になっているというのに。そう思うとちょっと笑ってしまう。
本当にいろいろなことが在った。いろいろなことを経て、今私たちはここに在る。そうして互いに今の話をしている。それが、何となく不思議でもあり、心地よくもあり。私は彼らの声に耳を傾ける。

帰宅し、しばらくすると娘が帰ってくる。娘が塾の勉強をしている間、私は私で勉強をする。娘は食卓で、私は小さな座卓で。それぞれにノートに向かう。開け放した窓からは湿った風がしゅるしゅると流れ込み、私たちのうなじをそれぞれに撫でてゆく。
ねぇママ、明日ロケット作るんだ。ロケット? あぁ、科学部のね。うん。どんなロケットになるの? 知らない。秘密。なんか最近秘密が多いね、詩のノートも秘密でしょ? 秘密だよっ。まぁ秘密が多くなっていくもんだよね、年を重ねるごとに。ん? いやいや、こっちの話。ママさ、好きな人に振られたことある? はい? 好きな人に振られたこと、ある? 振られたこと、かぁ、うーん、あるようなないような。どっち? よく分かんない。ママが振ってきたことが多いけど、振られたこともなかったわけじゃないと思う。振られたとき、どういう気持ちだった? そりゃ悲しかったと思うけど。どのくらい悲しかった? その時は、そうだなぁ、この世が終わっちゃうみたいな悲しみだったと思うよ、多分。でも生きてるよね。ははは、そうだね、その時はとてつもない痛みに思えても、少しすると、だんだんと悲しみも薄れてゆくんだよ。神様は悲しみをそういうふうに作ったんだよ。ふーん。なに、あなた、振られたの? 秘密っ! そうか、秘密か。うん。まぁ悲しかったり嬉しかったり、いろいろあって面白いのよ。そうかなぁ。うん、そうだよ。楽しいだけだったら、楽しいに馴れちゃって、楽しいことが楽しくなくなっちゃうかもしれないじゃない。ふーん、そういうもんかなぁ。ママはそう思うよ。私は楽しいことばっかりの方がいいけど。ま、そりゃそうだよね。でも、いろんな気持ちを味わっておいた方が、いろんなことを感じられるよ。ふーん。そういうもんかなぁ。うん、そういうもんだよ。ふーん。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。友人から頂いたハーブティーの箱は、まだ開けていない。なんだかもったいなくてまだ飲めない。もうしばらく箱をそのまま眺めて過ごすだろうと思う。
マグカップを机に運び、椅子に座って、煙草に火をつける。とりあえず朝の一仕事を始めようか。窓の外はやはり、薄暗く。湿った風が渡ってゆく。

「凝視は一瞬一瞬働いているものなので、それを練習することはできません。あなたが何か一つのことを練習するとき、それは習慣になってしまいます。しかし凝視は習慣ではありません。習慣的になった精神は感受性に乏しく、また一つの型にはまった行為の中で動かされている精神は鈍感で頑固なのです。それに対して凝視の方は、柔軟性と鋭敏さを要求するのです。これは別に難しいことではありません。あなたが何かに関心を持っていたり、あなたの子供や妻や、あなたが世話をしている植物や木や鳥などを見守ることに興味があるとき、あなたはそれを実際にやっているのです。あなたは非難も同一化もせずに観察しています。それゆえ観察の中には完全な共感が存在するのです。観察している人と観察されているものとの間に完璧な親交が生まれているのです」
「凝視は自我の活動からの解放の過程です。それはあなたの日々の活動、思考、行為、そして他の人たちを注意深く見つめていることなのです。あなたが誰かを本当に愛しているときや、何かに興味をもっているときにのみ、あなたはそれができるのです」
「凝視は、真理が到達できる状態なのです。その真理はあるがままのものの真理であり、私たちの日常生活の単純な真理なのです。私たちがさらに遠くへ進むことができるのは、私たちがこの日常の真理を理解するときだけなのです。遠くへ行くには近くにあるものから出発しなければなりません。」

じゃぁね、それじゃぁね、ペットボトル持って行くのを忘れないようにねっ。はいはいっ。そう言って私たちは手を振って別れる。
ゴミを出し、そのままバス停へ。ちょうどやって来たバスに乗る。昨日より混みあってはいないバスの、一番後ろの席に何とか座り、私は車窓を見やる。このあたりも随分変わった。数年のうちにどんどん変わってゆく。いまに空き地なんて、何処にもなくなってしまうんだろう。今空き地には、色とりどりの雑草の花が咲いている。白いもの、ピンク色のもの、オレンジ色のもの、本当にきれいだ。一体何処から種が飛んでくるのだろう。人知れずやってきて、人知れず咲いて散る。その繰り返し。
郵便局へ立ち寄ってから歩き出す。海と川とが繋がる場所、今日は鳥の姿はなく。少し寂しい。そのまま真っ直ぐ歩いてゆく。何処から沸いてくるのか、いつのまにか人が列を成している。
さぁ今日も一日が始まる。向こうに見えるはずの風車も、今日は霞の中。私は歩道橋を渡り、さらに歩いてゆく。


2010年06月21日(月) 
娘の体を何度か押しやったような記憶がおぼろげにある。でもあまりに娘の体は重たくて、私は閉口したのだった。そうだ、確か二度ほどそうやって、ぺったりくっついてきた娘の体を押しのけたような。今娘は枕を抱いて、でーんと足を広げて眠っている。
起き上がり、窓を開ける。ついさっきまで雨が降っていたのだろう。アスファルトが濡れている。そして空気もみっしりと濡れている。それでも風が流れているせいだろう、ずいぶん楽だ。
昨日帰宅してからちょっと挿し木を増やしてみた。切り花にしたホワイトクリスマスの枝の残りと、友人から頂いた花の、一部の枝。成功するかどうかなんて、今の時点で分かるわけもないのだが、どうか少しでも育ってくれるといい。
ラヴェンダーのプランターを覗き込む。やはり六本目の枝は、駄目なようだ。新芽ひとつを残して、体全体が茶色くなってしまった。でもまだ抜くことはしない。新芽ひとつでも緑のうちは、土に挿しておく。他の五本は、みなそれぞれに枝葉を伸ばしている。そしてデージーもまた、ふわふわした葉を風にそよがせている。
ホワイトクリスマスは一仕事終えたせいなのか、いつもよりさらにしんと静まり返っている。御苦労様、私は声を掛ける。昨日挿した液肥を確かめ、私は枝を指で撫でる。またしばらく沈黙の日々が続くのかもしれないが、それでもこの樹の存在は大きい。我が家の樅の木のようだ。
マリリン・モンローはだいぶ膨らんできた蕾を、天に向けてまっすぐに伸ばしている。何枚かの葉がやはり白い斑点をつけている。そろそろ摘んだほうがいいのかもしれない。今日家に戻ったら摘んでやろうと決める。
ベビーロマンティカの蕾も、一番最初についたものがぱつんぱつんになってきた。明るい煉瓦色の花びらがもう見えている。残りの二つも順調に大きくなってきている。萌黄色の新葉は艶々して古い葉よりさらに一段明るい色味を発している。今日も賑やかにおしゃべりしているかのようなこの樹。この樹を見ていると、本当に心がほっとする。和やかになる。
ミミエデンは蕾をつけはしたものの、蕾が弱いようで。くてんとなっている。水が足りないんだろうか。いや、そんなことはない。ちゃんとこのプランターには水をやっている。というより、今必要以上にやったら葉がとんでもないことになる。さてどうしたものか。生きていてくれる限り花はいつか咲く可能性があるのだから、葉の病気を優先させるべきなのか、それともここは花を優先させるべきなのか。すぐには決められそうにない。
パスカリはパスカリで、一本の方は新芽を徐々に徐々に伸ばしてきている。しかもそこにはまだ白い斑点はなく。私はほっとする。このまま新芽を伸ばしていってほしい。祈るように思う。もう一本の方は沈黙を続けている。新芽の気配は、今のところ全く、ない。
昨日は展覧会会場で、懐かしい友人に会った。私が写真を始めた頃、よくモデルになってもらった友人だ。絵描きの友人。彼女と会うと、それがどのくらいぶりであっても、ぽんぽーんと会話のやりとりができて、本当に楽しい。おかげであっという間に時間が経ってしまう。友人は私の誕生日を覚えていてくれたらしく、プレゼントを持ってきてくれた。白いレースのチュニックで、私が着るのはちょっと照れてしまいそうなかわいらしい代物。でも、嬉しい。
あっという間に数時間が過ぎ、帰路へ。途中で友人と別れ、私はいつもの電車に乗る。娘が待つY駅へ向かう。
正直くたくただった。さすがに毎日この距離を往復するのは、私には疲れるらしい。へろへろになりながらY駅に着くと、娘がにかっと笑って待っている。このにかっという笑顔が曲者だ。私の心を鷲掴みにする。
本屋に立ち寄り、娘が前から欲しがっていた本を一冊買う。バスの中で早速それを広げ、読み始める娘。私はその隣で、ぼんやりと車窓を眺めている。
ねぇママ、じじって何ですぐ怒るの? あー、うん、じじは怒るのが役目だからね、いつでも怒ってるのよ。ママが小さい頃からそうだった。えー、いつでも怒ってるのって疲れないのかな。ははは、そりゃ疲れるんじゃない? 疲れるのになんで怒ってるの? うーん、それは多分、怒ってないとじじの威厳が保てないとでも思ってるからかもしれない。変なのー。ばっかみたい。はっはっは、そりゃまぁそうなんだけど。じじはね、そうやって家を守ってるんだよ。ふーん。
ばばと朝早く散歩したときにね、栗鼠にまた会ったよ。へぇ、こんな時期にも栗鼠に会ったの? うん、会った会った、木をね、びゅんびゅんのぼったりおりたりしてた。でね、私を見つけたら、ひゅんって消えちゃった。ははは、まぁそうだろうなぁ。栗鼠はすばしっこいからね。私は栗鼠より、ハムスターの方が好き! はっはっは。

西の町に住む友人と、話す。すべてを遣り尽くして愛猫を見送ることができたせいか、今はずいぶん落ち着いているという。お墓もちゃんと作ることができたよ、と、彼女が言う。よかったね、と私は返事をする。
彼女にとってあの愛猫は、本当に家族のようだった。目も見えない、歯もほとんどない、老猫をひきとった彼女。静かで穏やかな猫だった。だからこそ、彼女と一緒に暮らすことができたのだろう。私がアダルトチルドレンであるように、彼女もアダルトチルドレン。機能不全家族に育った。だからこそ家族に対する思い入れは強い。
その彼女があの愛猫を失って、どうなってしまうだろうと心配していたが。思った以上に元気だった。私はほっとする。そりゃぁしんどい思いが本当は胸の中渦巻いているのかもしれないが、それでも私に対して、大丈夫、と言えるほどになってくれている。そのことに私はほっとする。
一方、新しい命を授かった友人は、その命に対して戸惑っている。愛することができない、守りたいと思うことができない、と、そう手紙に書いてあった。でも。
愛さなければならないなんて、思う必要はないのだ。人はよく言う、自分が産んだ子どもなのだから愛することができて当たり前でしょう、と。とんでもない。当たり前なんかじゃない。愛は最初から用意されているような代物じゃぁない。
彼女も機能不全家族に育った。愛に飢えて育った。だからこそ、愛の居所が分からなくて当たり前なのだ。
今彼女はもしかしたら、そんな自分であることを責めているかもしれない。でも、責める必要なんて何処にもない。
愛は、育んでゆけばいいのだ。気づいたときにそこにふと在る、そんな代物であっていいのだ。
それよりも。私は彼女の体が心配だ。妊娠のせいで糖尿病になってしまったらしい。その処置も自分で為さなければならないという。それをしながら乳をやり、おむつを替え…。気が遠くなるような作業だ。大丈夫だろうか。彼女が先に倒れてしまいやしないだろうか。それが心配だ。

「内省の過程には解放がないのです。なぜならそれは、あるがままのものをそうでないものに変える過程であるからなのです」「凝視はそれとは全く違ったものです。凝視は非難を伴わない観察なのです。凝視は理解をもたらします。なぜかと言いますと、凝視の中には非難や同一化というものがなく、無言の観察があるからです」「事実を黙って観察しなければならないのです。そこには目的がなく、現実に起こっているすべてのものに対する凝視があるだけなのです」「内省は自己改善であり、従って自己本位なのです。凝視は自己改善ではありません。その反対にそれは、他人と違った特徴や記憶や欲求の対象を持っている自我、すなわち「私」を終息させるものなのです」「凝視の中には、非難も否定も容認も伴わない観察があるのです。その凝視は外部のものを見ることから始まります。それは物や自然をじっと見つめ、それらと親しく接触することから始まるのです。初めに、私たちの周囲に在る物の凝視があります。それは物や自然や人間に対して敏感であることであり、同時に自他の関係を意味しています。その次に観念に対する凝視があります。このような凝視―――それは物、自然、人間、観念などに対して敏感であることです―――は別々の過程から成り立っているのではなく、一つの統一した過程なのです。それはすべてのもの―――あらゆる思考、感情、行為をそれが自分の心に生じるたびに絶え間なく観察することなのです」「凝視は自我、すなわち「私」の働きを、人間や観念や物との関係の中で理解することなのです」

じゃぁね、それじゃあね。娘の手のひらの上に乗っているミルクの頭をこにょこにょと撫でてやる。ミルクは娘の手に乗っているときは本当におとなしい。そうして私たちは手を振って別れる。
階段を駆け下り、バス停へ。しばらく待ってやって来たバスに乗ると、とんでもなく混み合っており。私は何とかつり革に掴まって体を支える。
電車に乗り換え、川を渡る。川は灰色の空の色を映して暗い色をしている。それでも朗々と流れ。水嵩はそれなりにあるだろうか。波立つことも粟立つこともなく、淡々と流れ。私はその様をじっと、見つめる。
さぁ今日も一日が始まる。川のように生きてゆけたら、いい。


2010年06月20日(日) 
起き上がり、窓を開ける。薄曇の空が広がっている。私はもうずいぶんと暑い空気。風もぴたりと止んでいるから余計にそれを感じる。疲労感がまだ体に残っている。ちょっと踏ん張りすぎているかもしれない、そう思う。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを見やる。五本のラヴェンダーの枝は、萎れるわけでもなく、へたれるわけでもなく、そのままにそこに在る。鼻を近づけると、ぷわんとラヴェンダー特有の香りが漂ってくる。でも六本目は。やはり駄目なのか。茶色い部分がだいぶ広がっている。
デージーは小さな葉をふわふわと茂らせている。まさにふわふわ、と。その下には、もしかしたら妖精が住んでいるんじゃないかと思う。そんな葉っぱ。色は黄色を帯びた薄い緑色。
ホワイトクリスマスが咲いた。開き始めた花びらは私が思っていた以上にクリーム色がかっており。こんな色だったっけかと私は首を傾げる。でも、鼻を近づけてみれば、その涼やかな香りが胸いっぱいに広がる。あぁこの香りだ。懐かしい、この香り。咄嗟だったとはいえ、支柱を挿してよかった。大輪のこの花を支えるのは大変だろう。風のないこんな朝だから、今はこうしてじっとしていられるけれども、ちょっとでも風が吹けば。くわんくわんと枝は撓るに違いないから。
マリリン・モンローはその隣で、じっと時期を待っている。咲くのにはもう少し時間がかかるんだろう。まだまだこの蕾は膨らんで太っていくに違いない。何だろう、とても嬉しい。ホワイトクリスマスもマリリン・モンローも、無事に咲いてくれることが、こんなにも嬉しい。
ベビーロマンティカの蕾の一つが、色を見せ始めた。明るい煉瓦色のその色。これがもっともっと明るくなって、黄色に近くなって、そうして咲くのだ。肥料も大して施してやっていないこのプランターの中。それでも咲いてくれようとする生命。
ミミエデンは確かに蕾をつけているのだけれども、この蕾は下手するとすぐ落ちてしまうかもしれない。そんな気配がする。葉の白い斑点は、薬を噴き付けたおかげなのか、あれ以上には酷くなってはいないが。それでも。かわいそうに。葉がへにょへにょになっている。私は一枚一枚、葉を指で拭ってみる。それで病が治るわけではないことなど、百も承知で。
パスカリたちも昨日を越えてくれたようで。無事にそこに立っている。新葉のいくつかがやはりまた白く粉を噴いている。酷いものは葉全体が粉を噴いており。私はそれを仕方なく指で摘む。
娘のいない日曜日の朝。やけに静かだ。あぁそうか、ハムスターたちも静かだから、音がしないのだと気づく。籠に近寄ってみると、ミルクは家の外でてろんと腹ばいになって眠っている。私がじっと見つめていると、片目だけ開けて、こちらの様子を窺っている。おはようミルク。私は声を掛ける。ミルクは返事をする代わりに、くいと首を動かし、こちらを見やる。しかし私が、娘でないことを確かめると、再びてろんと腹ばいになる。私がミルクを怖がっていることを彼女も承知しているかのようで。なんだか酷く申し訳なくなる。ごめんね、娘は昼には戻ってくるからね。そしたら遊んでもらうんだよ、と声を掛ける。ココアとゴロは家の中に入って眠っているらしい。しんと静まり返っている。
昨日頂いた花を、再度水切りすることにする。向日葵の花束と薔薇の花束をそれぞれ頂いた。薔薇は、いくつかを挿し木にしようと思っている。根付くかどうか分からないが、せっかく頂いたのだから挿し木にしなくちゃもったいない、そんな気がする。それにしても。花があるだけでこんなにも部屋が明るくなる。不思議だ。花はまるで、灯りを点してくれるかのようで。内側から光り輝く何かを持っているのだろうと思う。
性犯罪被害者グループが全国で初めて発足したというニュースを聴いた。そうなのか、とぼんやり思った。発足するまでにどれほどの痛みを伴ったんだろう、と考えた。そしてこれからさらに、どれほどの痛みを伴っていくのだろう、と。私にできることなどたかが知れていて。でもだから、自分にやれることを、ひとつずつやっていくだけなのだ、と改めて自分に言い聴かせる。自分がちゃんと生活していけることがまず何より私には大事で、それを見失ってはならない、と。自分が立っていなければ、娘を守ることだってできないのだから。私が守りたいのは、何より娘との生活なのだから。
私はまだまだ揺れているのだ、と、この前の波で、痛感した。私の中の罪悪感、懲罰感、穢れているという感覚など、そういったものはまだ、生のものなのだな、ということを実感した。娘がこっそり泣いているのも見てしまった。
今もう私の左腕の傷はだいぶ癒えた。もともとぼろぼろの腕だから、何処に新しい傷がついたのか、すぐには判別できない程度になった。それでも。あの時娘を泣かせたことを、私は忘れないだろう。私が私を傷つけたりすることがなければ、娘はあんなふうに泣かなくて済んだ。そのことを私は、忘れちゃいけないと思う。
昨日帰り道、突然大きな声でサッカーの応援をし始める人たちがいた。改札口でその人たちとすれ違う。ただそれだけのことだったのに、私にはとてつもなく恐ろしいことのように感じられた。何だろう、あの大声が恐ろしいのだ。突如響く声が恐ろしいのだ。自分を打ち負かした声を思い出させるようで、咄嗟に耳を塞ぎたくなった。
その人たちがすでに通り過ぎていっても、私の耳にはその声が木霊のように響いていて。電車に乗ってもう安全なのだと自分に言い聞かせても、胸の鼓動は止まなかった。
こんなこと、日常の、当たり前の日常の、一シーンに過ぎない。でも私はまだ、そういったところで戸惑っている。そういう自分が、まだまだ、在る。

「この孤独に対処する方法を、どのようにして発見したらよいのでしょうか。あなたが逃避をやめたときに初めて、あなたは何をすべきかということが分かるのです。そうではないでしょうか。あなたが自ら進んで現実にあるがままのものに直面したとき―――それはラジオをつけてはならないということであり、文明に背を向けなければならないことを意味します―――そのとき、孤独は終わってしまいます。なぜかと言いますと、その孤独は完全に変容してしまっているからなのです。それはもはや孤独ではありません。もしあなたがあるがままのものを理解するなら、そのあるがままのものが実体なのです」「あるがままのものを見るためには、多大な受容力と、行為を見守る観察力が必要なだけではなく、また今までにあなたが築き上げてきたすべてのもの―――たとえば銀行預金とか名声―――や、私たちが文明と呼んでいるすべてのものにあなたが背を向けることを意味します。あなたがあるがままのものを見たとき、あなたは孤独を変容させる方法を発見することでしょう」

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。煙草に一本火をつけて、机に座り朝の仕事を始めようとしたら、どうも調子がおかしい。これはこの場ですぐどうこうできる問題じゃぁないらしい。私は大きく溜息をつく。仕方ない。帰ってきたら対処することにして、今日は早々に家を出よう。

バス停でバスを待つ間に、実家に電話をする。父が出、娘はばばと一緒に朝の散歩に出掛けているという。十分後に掛け直せと言ってぶっつりと電話が切れる。相変わらず無愛想な父だ。私は苦笑する。
言われたとおりの時間に電話をする。娘が小さな声で、じじばばには内緒だからね、と話し始める。今日早く家に帰ってひとりでお留守番する、という。読みたい本もあるし、ハムたちのことも気になるし、だからね、いいでしょ? うーん、じじばばに秘密なの? うん、秘密なの、だって言ったらだめって言うに決まってるじゃん! わ、わかったよ。でも、本当に大丈夫なの? 大丈夫だってば! 分かった。
電車が大きな川を渡ってゆく。いつもより水量が少ないように感じられるのは気のせいか。雨がこれだけ降っているというのに、まだまだ足りないとでもいうのだろうか。
イヤホンからはSecret GardenのRaise your voicesが流れ始める。私の大好きな曲だ。途端に気持ちがふわりと浮き上がる。
落ち込んでばかりもいられまい。しっかりせねば。私は自分に言い聞かせる。
空はやはり薄曇で。そんな中、電車は走る。
さぁ、今日も一日が始まる。


2010年06月19日(土) 
娘が今日もまたぴったりとくっついて寝ている。何度も娘の体を転がそうとしてみるのだが、重くてうまく転がらない。もうそういう年になったか、と改めて実感。抱き上げるなんて、今じゃとても無理なんだろう。ぐいぐいと大きくなってゆく娘に対し、日々しぼんでゆく母の図を頭に浮かべ、ちょいと溜息。しっかりせねば、と思う。
窓を開けようとして、やめた。あまりに強い風。雨も叩きつけるように降っている。ベランダの植物たちはどうしているだろう。窓に額をはりつけて、見ようと試みるのだがうまく見えない。仕方なく、窓を細めに開けて、外に出てみる。髪をきつく後ろに結わいてみるが、それでも風に煽られる。街路樹の葉は一斉に翻り、雨のばつばつという音を響かせている。
ラヴェンダーは無事だ。デージーは小さく丸まっている。心配なのは。
ホワイトクリスマスの蕾だ。前後左右にぐわんぐわんと揺れている。マリリン・モンローの蕾もだ。ここまで大きく育ってきたのに、無駄にするわけには絶対にいかない。どうしよう。何か支えはないだろうか。思い出した、娘が昔使った朝顔の支柱がどこかにあるはず。ベランダの反対側にそれを見つけ、私は慌ててホワイトクリスマスとマリリン・モンローの蕾を支えにかかる。
ベビーロマンティカは大丈夫だ。萌黄色の茂みの中に蕾はまだ入っている。飛び出しているものもないわけじゃないが、支えが必要なほどじゃぁない。
それにしても何て風なんだろう。びゅんびゅんと唸り、回っている。その風に沿って雨も回っている。
とりあえず窓を閉め、部屋に戻る。戻ると、からからからと回し車の音が響いている。これはココアだなと見やれば、やはりココアが回し車を回しているところ。おはようココア。私は声を掛ける。何となく籠を開け、手を差し伸べてみる。と、途端に彼女は私の指をがしっと噛む。やられた。やっぱり娘じゃなくちゃいやらしい。私は諦めて扉をそっと閉める。
お湯を沸かし、お茶を入れる。いつものように生姜茶。もう、これを飲まないと朝が始まらないといった感じ。生姜茶を一口一口呑みながら、煙草に火をつける。

ねぇママ、私ね、今、詩書いてるんだよ。し? うん、詩。どんな詩? 秘密。えー、どうして、教えてよ。秘密ったら秘密! そうなんだー。詩書いてね、曲もつけるの。へぇぇ。それでね、友達と唄うの。そうなんだ。いいじゃん、いいじゃん。その時はママにも聴かせてよ。だめ! え、なんで? 友達と秘密っこでやるから。ははは。分かった、分かった。
そういえば、娘の年頃、私も詩を書き始めた。そしてそれをメロディに乗せて、よくひとり、歌ったものだった。思い出すと懐かしい。娘が一体何処からそんなことを覚え、やり始めようとしたのか私は知らないが、血というのは妙なところで繋がっているものなのだなと思ったりする。

授業でマイクロカウンセリングの情報・教示・意見・示唆の練習を為す。最初正直ピンと来なかった。これは一体何をしたいんだろうと思いながら練習を続けた。そうしてようやく分かった。これを為すには、よほど引き出しが多くなければできないということに。今の私にはとてもじゃないがその引き出しは足りていなくて、ほのめかすくらいのことしかできやしないのだ。その現状を見せつけられた。自分の力不足を、痛感した。
授業の後、クラスメイトと帰っている最中に、言われる。あなたは実体験もあるし、情報網もあるからいいわよね、と。
言われて、私は閉口してしまう。私の実体験がどうだというのだろう。私の情報網? そんなもの、ないに等しい。
他愛ない一言だったんだと思う。なのに私は、ひどく心がへこんでしまうのを感じた。どうしようもなく心がひしゃげてしまって、しばらく立ち直れそうになかった。

ママ、今日友達に言われたんだよね。何て? あんたは塾にも通ってて何でもできるからいいわよね、って。うんうん、それで? 塾に通うのっていけないこと? どうしていけないことなの? あなた、塾楽しいって言ってたじゃない。うん、塾、楽しい。じゃぁいいと思うよ。それでさ、塾にも通ってて何でもできるから、って、言われて、なんかすごく傷ついたんだよね。うんうん。どう傷ついたの? だって私、何でもできるわけじゃないもん。ってか、私、ぶきっちょだし、失敗ばっかりするよ。なのになんで、そんなこと言われなくちゃならないのかな。うーん、その子はどういうつもりで言ったんだろうね。私が授業中に手挙げたりするとさ、その子とかその子の仲間が舌打ちするんだよね。ありゃまぁ、そうなの? まただよって感じになる。だから私、手挙げるの、だんだんいやになってきた。そっかー、うんうん。そういえば、ママも昔、そういうこと言われてずいぶん傷ついたよ。ママは言われるだろうなぁ。なんで? だってママは本当に、なんでもできるじゃん。って、今あなた、ママにそういうこと言ったでしょ、ママ、それで傷ついたよ。え? そうなの? うん、ママは、別に何もしないで何でもできるわけじゃないんだよ、何かを為そうと一生懸命頑張って頑張って、それで何とかやってるだけなんだよ。何の努力もしないで何でもできる人がいるとしたら、それは天才っていうんだよ。ママは少なくとも天才じゃぁない。うん、ママは天才じゃぁない。ね? あなたも天才じゃないから、いろいろ努力するんだよね。失敗したり何したりしながら、それでも笑って頑張ろうってしてるんだよね。ママはちゃんと分かってるよ。…。だから、そんな言葉に負けるな。気にすんな。ね! うん、分かった!

友人のところに子供が産まれた。と思ったら、友人が家族を失った。
生と死はいつだって隣り合わせ、背中合わせ。

ふと外を見ると、あの雨が止んでいる。嘘のようだ。さっきまでのあの嵐はどこへ行ったんだろう。私は首を傾げる。娘に出掛ける支度をさせながら、私は窓際に立つ。まだ唸る風に耳を澄ます。
さぁ行こうか。あ、この手作りパン、じじに持ってって。えー、荷物が増えるからやだよ。まぁそう言わずに、じじの好きなパンだからさ、持ってってあげて。しょうがないなぁ、鞄に入るならいいよ。はいはい、今入れる。
私たちは手を繋いで通りを渡り、バスに乗る。こんな天気の朝だというのにバスの中は結構混みあっており。私たちは一番後ろの席に何とか座る。
ママは今日は展覧会会場に行くの? うん、そうだよ。展覧会やるって、結構面倒くさいんだね。はっはっは、そうかもしれないね。頑張ってね、ママ。あなたもね。
改札口、手を振り合って別れる。娘は右へ、私は左へ。
走り出した電車の中。私は窓際に寄りかかる。空の様子が気にかかる。このまま雨がやんでくれることを今は祈るばかり。

さぁ今日も一日が始まる。しっかり歩いていかなければ。


2010年06月18日(金) 
娘の熱い体がぴっとりと私に張り付いてくる。何度避けても、そのたび娘は転がって、私にくっついてくる。冬ならばちょうど湯たんぽ代わりでいいのだけれども、もうこの季節になるとさすがにきついものがある。娘の両手両足に、大きなイルカのぬいぐるみを挟み込んでみる。これで抱き枕にもなるだろう。
起き上がり、窓を開ける。ぬるい風がゆるくゆるく流れている。私はベランダに出、空を見上げる。しっとりとした雲が一面に広がっている。東から漏れてくる陽光で街全体は明るいのだが、それでもこの雲は拭えないらしい。やはり天気予報の通り、今日からしばらく雨になるんだろうか。考えるだけで憂鬱になる。
しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗き込む。五本の枝葉はそれなりに元気だ。そう、一本を除いては。この一本は本当にどうなってしまうんだろう。やはりこのまま枯れるんだろうか。徐々に徐々に茶色い色が枝全体に広がっていっている。私があの時もっと早く決断して、土をひっくり返していれば。幼虫を退治していれば。こんなことにはならなかったのに。そう思うともう、悔しくて悔しくて仕方がなくなる。でも、いくら悔やんでももう遅い。
薬を散布したミミエデンは、今日はおとなしげにそこに在る。ふと見ると、花芽がふたつ、生まれている。こんな、挿し木したばかりのものに花芽ができるなんて。吃驚だ。しかもふたつ。あぁそうか、ミミエデンはこうやって、群れて咲く花だった。
ホワイトクリスマスは蕾をてっぺんにしてすっくと立っている。花びらの白い色が鮮やかに映えている。少しクリーム色がかって見えるのは気のせいだろうか。いや、ホワイトクリスマスは真っ白のはず。私は首を傾げる。
その隣で、マリリン・モンローが蕾を天に向けて立っている。それにしてもよく茂ったものだ。たくさんの葉に囲まれて、蕾はひときわ明るい色味で立っている。まだ花びらの色は見えない。幾枚かの葉に白い斑点。このままにしておいても大丈夫か、それとも摘むべきか。まだ私は決めかねている。
ステレオから流れてくるのはSecret GardenのElegie。切なくて、何処か懐かしいような旋律。ゆったりと響いてくる。
ベビーロマンティカの三つの蕾たち。くくくっという笑い声が聴こえてきそうな気配。あちこちから新葉を燃え立たせて、蕾たちを守っているこの樹を見ていると、本当に、生きることは楽しいもののように見えてくる。いや、こうして笑っている陰に、どんな辛いことが潜んでいるんだろう。それを決して表に見せず、ただ笑い声をあたりに響かせている姿が、私はいとおしくてたまらない。
パスカリも、新葉を出すには出しているのだが、その大半が白く粉を噴いている。こちらはあまりに見事に粉を噴いているから、摘まずにはいられない。私はそっと指で挟んでそれを摘む。
パスカリの間に挟まれて、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹が、少しずつ少しずつ新芽を出している。けれどその速度はとてもゆっくりで。一体今度いつ花を咲かせるのか。そこには二年、三年という時間が流れてしまいそうな気配さえする。
ノートの整理をしながら、思う。いくら勉強したって、これでいいということはないのだろう、と。これで終わりということはあり得ないのだろう、と。やればやるほど、それを感じる。人を相手にするのだ、その人は常に唯一無二の存在で。この世にひとつしかない人生を背負って現れるのであり。それを受け止める、受け容れる、包み込む、それは、こんな、机上の勉強をいくらしたって、足りるものじゃぁない。
私にできることは何だろう。私が生きているその瞬間瞬間こそが、多分、勉強なのだと思う。いかに生きるか、それが試されているんだと思う。
曲が変わった。Gates of Dawn。私は鼻歌でメロディを辿る。
金魚がこちらを見ている。必死に尾鰭を揺らし、体を支え、こちらに合図を送っている。私は水槽の蓋を開け、餌をぱらぱらと撒く。一瞬の間を置いて、金魚たちが餌を啄ばみ始める。
西の町に住む友人から、何度も電話が掛かる。死ななければならない、という思いに囚われてしまって動けない、と。それを決断するなら、私は死ななければいけない、という思いに囚われてしまうのだ、と。
何か行動を新たに起こそうとするたび、こんな自分は消滅しなければいけないに違いない、という思いに囚われていた時期があったことを思い出す。その行動を起こす権利なんて自分にはなく、そう思ってしまう自分は罪で、だから自分は消滅しなければならない、と。そんな具合だったと思う。
自分を評価することが極端にできない。自分を認めることが全くできない。そういう位置に立っていると、自分のすることの何もかもが、罪で、罪悪で、だから、自分は消えなければならない、というような思いになってしまう。
でも。
違うよ、と今の私なら思う。あなたがそう思ったなら、思ったとおりにしてごらんよ、それでいいんだよ、と、言いたい。
自分を守って何が悪い。自分を守ることは大切なことじゃぁないか。自分を守るために行動を起こす、それのどこが間違っているというのか。あなたは消える必要なんてどこにもない。むしろ、精一杯生きて、生き延びていけばいい。私はそう思う。
電話の途中で彼女が何度も痙攣を起こしているらしく、声が途切れる。私はただ、じっと、それが収まるのを電話口で待っている。そして彼女に語りかける。大丈夫、あなたはあなたが信じたようにやればいい、間違ってなんかいないよ、消える必要なんてどこにもないんだよ、と。
もし近くに住んでいたら。飛んでいって、彼女に思い切りハグすることができるのに。その思いで唇を噛み締めながら、私はただ、電話の向こうの彼女を待つ。

ママ、水泳のさ、目標、私、ないよ。ん? ほら、見て。ここに書いてあるでしょ? ああ、ほんとだ。クロール何メートル泳げるようになる、とか、平泳ぎ何メートル泳げるようになるとか。私、全部できるもん。目標、ない。そうだねぇ、じゃぁ、あなたはここに、自分の目標を書き加えたらどう? 自分の目標? うん、そう、ここにはないから、新しくこの下に書き加えて、それを目標にしたらどう? そんなことしたら、目立っちゃってやだよ。目立っちゃってやなの? どうして? みんなから何言われるかわかんないからやだ。あぁなるほどねぇ。それは分かる気がするよ、ママも、いろいろみんなからからかわれたり虐められたりしたことあったから。ママが虐められるってなんか変。どうして? だってママ、強そうだもん。ははははは。でもママ、ちょうどあなたの年頃とか、中学生の頃とか、すんごい虐められてたよ。なんで虐められてたの? うーん、なんでなんだろ、よくわかんないけど、目立つからじゃないの? やっぱり、目立つと虐められるんだ。そうだね、飛びぬけてると、虐められるよね。でも、それもまぁ、いいんじゃん。なんでいいの? 虐めたい奴らに負けてるのも悔しいじゃん。ママ、虐められてたとき、どうしてた? ん? 虐められてたとき? 知らん顔してた。ロッカー室に閉じ込められたり、教科書なくされたり、いろいろしたけど。知らん顔してたよ。それでどうなった? 一年経つ頃には、虐めが突然終わった。ふーん。私、虐められるのも、目立つのも、やだなぁ。ははは。でもさ、目標がないのも、つまんなくない? まぁそれはそうなんだけど。じゃ、分かった、ここには書かないけど、あなたの心の中で、これが目標っていうのをはっきり作りなよ。たとえば? バタフライで50メートル泳ぐとか。それ、できるもん。あ、そっか、じゃぁ、平泳ぎで何秒出す、とか。あ、それいいね、ってか、ママに勝つってのを目標にしよう! ええっ、ママに勝つの、大変だよ。ママ、平泳ぎ得意だから。だからいいんじゃん、それ目標にしよう。ははははは。

ねぇママ、うちはどうして貧乏なの? それは、ママが病気で、十分に働けないからお金が足りないんだよ。パパもいないしね。うん、そうだね。普通はさ、パパが働いて、ママもちょっと働いたりして、そうやってお金作っていくんだよね。まぁそうなのかな。ママにはよく分からないけど。SちゃんのとことかAちゃんのとことか、そうだよ。じゃぁそうなんだね。パパってなんで突然働かなくなったの? うーん、分からない、突然働かなくなった。それでホームレスになればいいって言ってた。私、ホームレス、やだよ。やだよね、学校も行けないもんね。どうしてそんなこと、パパは言ったのかな。どうしてかな。ママにも分からない。ママ、別れてよかったね。え? 別れてよかったんだよ、きっと。…。

娘がどんな気持ちで、「別れてよかったんだよ」なんてことを言ったのか、私には分からなかった。いろんな思いが交錯していたに違いない。
うちは貧乏だ。確かに貧乏だ。それでも。この子が精一杯生きられるよう、私が何とかしていくしか、ないんだ。

じゃぁね、それじゃぁね、ほら、早くあなたも支度しなさい、朝練でしょうが。分かってるって、ママ先行っていいよっ。じゃあね。
階段を駆け下りて、バス停へ。ちょうどやって来たバスに飛び乗る。天気は中途半端なまま。やはり今夜から雨は降るんだろうか。
駅を渡り、川を渡り。川はこんな日でも朗々と流れ往く。止まることなく流れ往く。昨日などもうとおの向こうに押し流し、ここに在るのは今この時だけだ。
さぁ、今日も一日が始まる。私もしっかり、歩いていかなければ。


2010年06月17日(木) 
目を覚ました瞬間、蒸し暑い、と呟いていた。どんよりとぬるい大気に湿気が纏わりついている。起き上がり、窓を開けようとして、窓がすでに開いていることに驚く。娘が開けっ放しにしておいたらしい。私はそのままベランダに出る。
うっすらと空に雲がかかっているものの、雨の気配は今のところない。風もぴたりと止んでいる。あぁそうか、風がないから余計に、このぬるい大気が体に纏わりついてくるように感じられるのだ。私は納得する。そうして大きく伸びをして、周りを見やる。街路樹の緑は雨に洗われたせいか、美しい緑色を放っている。その足元に咲いていたポピーはもう、種に変わった。通りの向こう側、二階のベランダのところに、紫陽花の鉢植えが置いてある。きれいな水色をしている。ここから見て水色に見えるのだから、実際はもっと濃い色味をしているんだろう。久しぶりに雀の姿を見る。電線に三羽、囀っている。彼らにも言葉があるんじゃないかと思う。人が知らないだけで、人と同じくらい細やかな言葉があるような、そんな気がする。
しゃがみこもうとして仰天する。たった一晩のうちに、ミミエデンの新葉がすべて、粉を噴いている。参った。どうしよう。私は頭を抱える。これらすべてを摘むのはあまりに酷すぎる。じゃぁどうしよう。とりあえず、薬を噴きかけてみようか。そう決める。紅い新葉に向かって、あちこちの角度から散布する。これでどうにか収まってくれればいいのだけれども。それにしたって、たった一晩のうちにこんなになってしまうなんて。本当に、植物というのは油断できない。
ラヴェンダーは、一本を除いては、だいたい元気といっていいだろう。その一本だが、辛うじて新芽が出ているものの、他の部分はとうとう茶色くなってきてしまった。さて、この新芽がどこまで生き延びてくれることやら。このまま他の部分と一緒に茶色く変色していってしまうか、それとも伸びてくれるか。私はただ、見守るしかできない。
デージーは、大きいものはもう五センチほどまで伸びてきた。ぽわぽわした葉を茂らせて、ミニチュアの森のようだ。かわいい森。本当に、母の言葉どおり、デージーというのは強いのだなと感心する。でも同時に恨めしくもある。おまえのその逞しい生命力を予め私が知っていたら、と思うと。
ホワイトクリスマスの蕾がだいぶ膨らんできた。もう、花びらの色が垣間見えるほどになってきた。凛々と上を向いている。すっくと立つその姿に、私は思わず溜息を洩らしてしまう。美しいという言葉がこれほどに似合う立ち姿もなかなかあるまい。ただ、気になるのは、茂ってきた葉のところどころに白い粉が噴いていること。まだ摘むほどではないのだけれども。これ以上拡大しなければいいのだが。心配だ。
マリリン・モンローの蕾も、ホワイトクリスマスの蕾の隣で徐々に徐々に膨らんできている。まだこちらは、花びらの色は全く見えず、閉じている。萌黄色の蕾。マリリン・モンローの葉にも何枚か、白い粉を噴いたものが見られる。こちらは摘んでもいいかもしれない。それだけたくさんの葉が茂っている。でも、もうちょっと様子を見よう。
ベビーロマンティカは三つ目の蕾が生まれた。小さな小さな蕾。他の二つの蕾と同じように、にこにこおしゃべりしているように見えるから不思議だ。生きることをこんなに謳歌している蕾も、珍しいかもしれない、なんて思うほど。
パスカリの新芽も、半分が粉を噴いている。うどん粉病の何としつこいことか。これからの季節、もっと大変だ。梅雨という季節が恨めしい。そんな季節がなければまだましだろうに。それは植物だけじゃない、人にとってもだ。今年の天気はあまりに不安定で、心も体もついていかない。ただ過ごすだけで疲れ果ててしまう。そのせいで私の友人たちも多くが体調を崩している。もっと穏やかな気候ならいいのに、と、つくづく思う。
トラウマのある場所に戻り、仕事を得たものの、フラッシュバックが酷くなって結局休職に追い込まれてしまった知り合いからメールが来る。何の薬を飲んでも効果がない、このままじゃ生活ができなくなる、どうしたらいいだろう、と。
私は思い出す。症状が酷く出ているときというのは、私の場合、薬なんて何の役にも立たなかったな、と。症状を治めようと強い薬を飲めば飲むで、今度は眠気がやってきて、仕事にならない。要するに、薬を飲んで休んでいろ、ということであって、薬を使いながら仕事をこなし生活をこなすということは、症状が酷いときは全くできなかった。何度当時の編集長から、薬を飲むな、といわれたことか知れない。でも、飲まないと今度は、壮絶なフラッシュバックに襲われて、発作を起こし、それはそれで仕事にならなくなるわけなのだが。
これ以上医者やカウンセラーに話をするのも、傷つくから嫌だという。でもそれでは、何も始まってはくれない。悲しいかな。何も、生まれない。
自分が今何に躓いていて、何が苦しくて、何がたまらなくて、何が今自分をこうさせてしまっているのかを吐露できる専門家を見つけ、その専門家と組んで対処していくしか、術は、ない。
友達同士で慰めあってどうにかなるなら、それもありかもしれないが、もうその域を超えている。そのことを自覚し、現実を見るしか、前に進む手立ては、ない。
でもそれを、そのままの言葉で告げることはあまりに残酷で、私にはできなかった。幾つかの方法を書き、とりあえず試してみたらどうか、と勧めることしか、私にはできなかった。
昔の主治医の言葉が思い出される。トラウマのある場所に戻ることはできないのよ、戻ればまた、同じことの繰り返しになってしまうのよ、と。そんなことを彼女は言っていた。私はその言葉に当時、反発し、何度もトラウマのある場所に戻っていったが、それは、無駄な抵抗に終わった。だから私はもう二度と、その場所には戻らない。戻れない。私は生きたいから、生きていたいから、戻ることはもう、できない。

「私たちは時間によって生活しています。また私たちは時間の結果でもあります。私たちの精神は無数の昨日という過去の結果であり、現在は過去が未来に入っていくための通路に過ぎないのです。私たちの精神や行動や存在は、時間に基づいているのです。従って時間なしには私たちは何も考えることができません」「心理的な時間というものは、今日と関連した昨日としての記憶に過ぎないものであり、それが明日を形成しているのです。つまり、現在に反応して生まれた昨日の経験が、未来を作り出しているのです」「幸福は昨日のものではなく、また時間の産物でもないのです。幸福は常にこの今の中に、時間を超えた状態の中にあるのです。あなたが無我夢中になっていたり、創造的な喜びを味わっていたり、あるいは光り輝く雲の峰を眺めているとき、その瞬間には時間が全く存在しないということに、あなたは気づいたことがないでしょうか。そこには直接の現在だけがあるのです」「あなたが音楽に耳を傾けているとき、あなたの心があちこちを彷徨うことはないのです。それと同じようにあなたが闘争を理解したいと思うときには、あなたはもはや時間を少しも当てにしなくなるのです。あなたはあるがままのもの、つまり闘争に素直に直面するのです。すると即座に心の落ち着きと静寂が生まれます。あなたが時間に依存することの虚偽を理解し、あるがままのものを変革する手段として時間を当てにしなくなったとき、あなたはあるがままのものと向かい合っているのです。そしてあなたがあるがままのものを理解することに関心があれば、自然と心は静寂になるのです。そのような敏感で、同時に受動的な状態の中に理解が生まれます」「革命は未来にではなくこの今にだけ可能なのです。また新生は明日ではなく今日なのです」「時間は私たちの難局から抜け出す方法ではないことを知って、そのような虚偽から解放された人は、自然に理解しようという熱意を持つものなのです。従ってその人の精神は、強制もなしに、自発的に静かになるのです。精神がいかなる解答も結論も求めず、抵抗も回避もせずに静止したとき、そのときにのみ新生が起こりうるのです。なぜならそのとき、精神は真理であるものを知ることができるからです。そしてあなたを解放するのはこの真理であって、自由になろうとするあなたの努力ではないのです」

お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝は生姜茶と、珍しくアイスレモンティーを作ってみた。生姜茶が適度に冷めるまで、アイスレモンティーをちょこちょこと口に含む。開け放した窓の向こう、水色の空が広がってきた。風も少し出てきたようだ。カーテンが揺れている。そろそろ娘を起こす頃だ。そういえば今日はプールの日だと言っていた。どうだろう、入れるだろうか。
母に、最近眩暈が酷いのだ、という話をする。すると、更年期障害じゃないのと笑われる。最近は若くても更年期障害になる人が増えてるっていうから、あなたもそうなんじゃないの、と。まぁそうかもしれないなぁとも思う。違うとはいえない。私だってそろそろそういう年頃だ。母が言う。おばあちゃんは本当に更年期障害が酷くて、寝込んでたわね、しょっちゅう。そのおかげで私が家事とかやらなくちゃいけなくて本当に大変だったのよ。そうだったのか、と、私はその時初めてそのことを知る。四人兄弟のうち、女は母だけだった。だから母にかかる負担もさぞ大きかったことだろう。母が素直に祖母のことを好きだと言わない、いや、言えない気持ちも、今なら理解できる気がする。
そう、今、なら。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は昨日空気を入れた自転車に跨り、走り出す。坂道を下り、信号を渡って公園へ。公園の紫陽花がきらきらと輝いて見える。池の周りに立つ桜たちはこれでもかというほど葉を茂らせ、東からの陽光を遮るほどで。私は池の畔に立ち、ぱっくり開いた茂みの間から空を見上げる。眩しすぎて正視できないほど。さっきよりぐんと、空の水色の部分が広がっている。
大通りを渡ると、高架下はちょうど工事中で。それを避けながら埋立地へ。こちらも銀杏が茂って陽射しを遮るほど。でも、暑い日にはちょうどいい木陰だ。
さらに信号を渡り、プラタナスの通りを突っ切って海の公園へ。いつかこの辺りから発着しているヘリコプターに、娘を乗せてやりたいと思っている。ほんの十分か二十分の周遊らしいが、高いところが好きな娘は、大喜びするだろう。その前にお金を貯めなければいけないのだが。
生きているといろいろある。本当にいろいろ。それでも。生きていかなければならないんだと思う。どんなことがあっても。
さぁ、今日も一日が始まる。


2010年06月16日(水) 
細く開けたままだった窓から、だるく湿った風が吹き込んでくる。閉めに行きたいのだが起き上がれない。娘が私の胸を枕に眠っているからだ。重い重いと思っていたら、いつの間にかここまで転がってきていたらしい。それにしたって、私を枕にする必要はないだろうに。しばらくは我慢していたのだが、とうとう重みに耐えられなくなって、彼女の頭をそっとどかす。途端に娘は、さらに私の方へと転がってくる。私はどんどん廊下の方へと追いやられる。もう諦めて起き上がるのがいいらしい。そうして起き上がり、窓に寄る。びゅうびゅうと吹き付ける雨風。こんな風雨は久しぶりだと、しばし見惚れる。或る意味気持ちがいい。潔くここまで嬲りつけるような雨風。
植木は大丈夫だろうか。私は髪をきつく結い、外に出る。一番心配なのは蕾たちだ。この風雨の中、どうなっているだろう。ホワイトクリスマスの蕾もマリリン・モンローの蕾も、嬲られるままになってしまっている。どうしよう。支えは何かないだろうか。いや、多少の支えなんてあったって、これは無駄かもしれない。私は結局諦める。ベビーロマンティカの蕾は茂みの中にまだ在るから、風に嬲られるほどではない。大丈夫だ。ミミエデンも、びゅうびゅう吹かれてはいるが、折れるわけでもない。ラヴェンダーたちも、何とか必死に土にしがみついていてくれている。
見上げると、空には明るいグレーの雲が、ぐいぐい流れてゆく。街路樹の葉は風に翻り、裏側を晒している。夜のうちに出されたゴミが、通りの中央まで吹っ飛んでいる。でも、さすがにこんな天気、啄ばみにくる烏はいない。
昨日のあの天気が嘘のようだ。一体何処へ行ったんだろう。昨日の天気は本当に、幸運としかいいようがない。搬入さえ無事に済めば、あとはどうとでもなる。
そう、昨日は搬入の日だった。朝早く手伝ってくれる友人と待ち合わせ、電車に乗る。今回は額縁七つと少なめだったにも関わらず、朝のラッシュ時、それを運ぶのはかなり無理があった。友人がいなくて私ひとりだったら、立っていることもままならなかったろう。
友人がふと言った。もし私がドタキャンしたら、あなたはどうするの?と。思ってもみない言葉だったから、一瞬驚いた。でも、ドタキャンされてもおかしくないことなのだ、厚意で手伝ってくれているだけなのだから。だからドタキャンされたとしたら、そのままひとりでともかくも搬入し、展示を無事に終えるだけ、だ。でも。
私は多分、無条件に信じているのだ。彼女は約束をちゃんと守ってくれる人だ、と。たとえ当日になって彼女が実際にドタキャンしたとしても、それはやむを得ない事情だったのだろうと私は思うのだろう。そうして一人で、何とかするんだろう。そう思う。
今回、とりたてて、新しいものはない。今まで撮り貯めたものの中から選んだ。一点でしか飾りようのないもの七点を選び、それに短めのテキストを添えて展示することにした。ただそれだけの展示なのだが、今までやったことのない形式だったから、私はひどく緊張していた。一点一点壁に掛けてゆく、それだけで汗だくになった。展示が終わったときには、もう、正直くたくただった。
手伝ってくれた友人を見送ったその直後、思ってもみなかった人が現れた。外出することもままならないはずの友人だった。一体どうやってここまで辿り着いたのか、私は本当に吃驚した。無事に辿り着けるかどうか分からなかったから、知らせないで来てみたの、と彼女は笑った。途中で薬のお世話にもなったけど、でも、どうにか辿り着いたよ、と。
どれほど私が嬉しかったか知れない。まさか彼女がここまで来てくれるとは、本当に思ってもみなかった。被害に遭って以来、車掌さんの姿が見える車両にしか乗ることができない彼女が、ここまでやって来た。すごいことだと思った。涙が出そうだった。
普段ランチを注文しても半分は残してしまう彼女が、おいしいおいしいと言ってランチを食べ尽くすのを、私は見守っていた。こういうとき、展覧会をやってよかった、と、つくづく思う。
気をつけて帰ってね、と彼女を見送り、私は店の外で煙草を一本、吸い込む。なんだかもう、今日の分は全部やり尽くしたような、そんな気分にさえなってしまう。彼女が無事に帰宅できますよう。私は空に向かって祈る。

休憩していると、娘からメールが届く。頑張ってるかーい。と書いてある。だから、頑張ってるよー、そっちも頑張れー、と返事を書く。
本当に暑い日で。太陽は夏のようにぎらぎらと輝き、降り注ぐ陽光は肌を焦がすのだった。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ついでに何となく、レモン&ジンジャーのハーブティーも入れてみる。両方のカップを持って机に運び、窓の外を眺める。風は止む様子はなく。細めに開けた窓からは、重たい湿った風がひゅるひゅると流れ込んでくる。
何となく音を聴いた気がして、ハムスターたちの籠の方に近寄ってみる。一昨日娘が作ったクッションは、ゴロの籠の中に入れられているのだが、そのクッションを、ゴロががしがしと噛んではひっぱっている。じきに糸が切れて、中に詰めた藁が飛び出してくるんだろう。私はその様子をじっと見守っている。そんな私に気づいたゴロが、後ろ足で立ってこちらを見上げてくる。おはようゴロ。私は声を掛ける。するとその声に反応し、ココアもミルクも起きてくる。参った。私は、ちょうどいい頃合だと、娘を起こしにかかる。みんな起きて待ってるよ、と言うと、それまでごろごろ寝床に転がっていた娘がすっくと立ち上がり、まずはミルクを抱き上げる。抱き上げて、そのままぶちゅーっとキスをする。それが彼女の挨拶らしい。
ねぇママ、ミルクたち、あとどのくらい生きてくれるんだろう。うーん、二年くらいが寿命って言ってたもんねぇ、もう少しで一年経つね。どうして二年しか生きられないんだろう。体が小さいからなぁ、それだけ寿命も短いんだよ、きっと。私、ミルクたちが死んじゃったら、生きていけない。そうかなぁ? ミルクたちの体が死んでも、あなたの中にミルクたちの思い出は生きているでしょう? そうである限り、ミルクもココアもゴロも、死なないんだよ。ママはそう思う。…。

「私たちは真相を探求する必要はありません。真相はどこか遠いところにあるものではないのです。なぜかと言いますと、それは精神についての真相であり、またその精神の一瞬一瞬の活動についての真相だからなのです。もし私たちが一瞬一瞬の真相と、時間の過程の全体を注視しているなら、その注視そのものが、私たちの内部の意識やエネルギーを解放してくれるのです。そしてこの解放された意識とエネルギーが、同時に理解力でもあり愛でもあるのです。精神が意識を自我の活動として利用している限り、そこに時間が介入して、あらゆる悲惨や闘争や害毒や、あるいは意図的な欺瞞をもたらすのです。そしてこの全体の過程を理解することによって精神が静止したときにのみ、愛の誕生が可能になるのです」

朝練の娘を送り出し、私も家を出る。雨はさほどではないが、風が唸っている。校庭を見やると、同じく朝練に参加する子供らの姿が、ぽつぽつと見られる。いまどきの子は長靴というものを履かないんだろうか。みんな運動靴だ。そのうちの一人の男の子が、校庭にできた大きな水溜りにじゃぽんと突っ込んでいく。周りに居た女の子たちが嬌声を上げるのがここまで響いてくる。
私は階段を駆け下り、バス停へ。この天気でバスは遅れ気味。ようやくやってきたバスに乗ると、これでもかというほど混み合っており。私は後ろの方に何とか位置をとる。終点で降りる。海と川とが繋がる場所でふと立ち止まる。水は波立ち、がらがらと流れてゆく。鳥は一羽もいない。どこかで雨宿りしているのならいいのだけれども。
歩道橋を渡ろうと上がったところで、立ち止まる。遠く左手に、大きな大きな風車が見える。ぐるぐると勢いよく回っており、そのさらに向こうには大橋がかすんで見える。この歩道橋からこんな景色が見られたなんて、今の今まで気づかなかった。私は雨が降っているのも忘れ、しばし佇む。
幾人もの人に追い越されながら、私はそれでも風車に見入り。やがてその風車も、雲の中に隠れてしまう。
さぁ、今日も一日が始まる。私は、滑らないように気をつけながら、階段を降りてゆく。


2010年06月14日(月) 
目を覚ますと午前五時少し前。よく眠ったなぁと我ながら吃驚する。このところ小刻みの睡眠しかとれていなかったから、なんだか体の重さがふっと軽くなったようにさえ感じられる。でも。外は雨。
窓を開けると、しとしとと雨。みっしりと降っている。こんな雨はどのくらいぶりだろう。雨と雨の隙間が感じられないほどにぎっしりと降っている。音もなくただ、降っている。
足元でココアががりがりと籠の扉を噛んでいる。おはようココア。でも、おねえちゃんはまだいないの。今日の午後帰ってくるからね、そしたらいっぱい遊んでもらいなね。私は声を掛けながら彼女の頭をこにょこにょと撫でる。
その気配を察したのか、ゴロまでが小屋から出てくる。後ろ足で立って、こちらを見上げている。おはようゴロ。私は苦笑する。おねえちゃんはまだ帰ってこないんだよね、今日帰ってくるから、それまで待っててね。私はココアに言ったのと同じことを繰り返す。納得がいかないらしいゴロは、しばらく小屋の中をぐるぐる回っていたが、諦めて、再び小屋に入っていった。
私はベランダに出て、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。萎れかけている一本はやはりそのままで。ぴくりとも変化がない。それでもまだ、葉は緑色をしていてくれている。まだ、諦めるには早い。そう言われている気がする。まだもうちょっと、もうちょっと待っていておくれ、そんな言葉が響いてくるような気がする。気のせいだと分かっていても、私は頷いてしまう。うん、待ってる。とことん待ってる。信じて待ってるよ。
ホワイトクリスマスの蕾は一段と膨らんできて。まっすぐに天を向いて立っている。その隣、マリリン・モンローの蕾もまた、まっすぐ天を向いて立っている。隣り合わせの蕾たち。でも、形は全然違う。色も微妙に違う。
ベビーロマンティカの蕾たちは、今朝もまた、おしゃべりをしている。もしかしたら、雨なんていやねぇ、なんてことを喋っているのかもしれない。いやねぇと言いながらも彼女らは実に楽しげで。私は思わず微笑んでしまう。
ミミエデンの紅い新芽。徐々に緑色に染まり始めている。でもまだ、新たに顔を出そうとしているものもおり。今ミミエデンの内側は一体どんなふうになっているのだろう。フル稼働しているに違いない。そんなに急がなくていいよ、私は声を掛けてみる。ゆっくりゆっくりでいいんだよ、と。
パスカリはしばし沈黙の時期らしい。じっとしている。その間で、桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹が、少しずつ、少しずつ新芽を出してきている。それはとてもゆっくりで、控えめで。注意していないと見逃してしまいそうなほどで。
友人が、誕生日プレゼントにとワンピースをプレゼントしてくれる。スカートやワンピースをプレゼントされるなんてどのくらいぶりだろう。嬉しくて、でも、ちょっと恥ずかしくて、お礼がうまく言えない。ちゃんと今度着て見せてよね、と友人が笑っている。私も照れながら頷く。
気づいたら、個展直前になっている。今回は、モノクロ写真と短めのテキストをあわせて展示することにしている。そういう展示の仕方をしたことがないから、搬入設営が手こずるかもしれないが、まぁそんなことはいい。
この一週間を振り返ると、まさに、熱病に魘されていたかのような気がする。自分じゃどうにもコントロールできないところで、ばたばたと足掻いていた、そんな気がする。今、その熱も下がって、だいぶ落ち着いてきて思うのは、もっと自分をコントロールできるようになりたい、ってことだ。そして、できることならもう、自分で自分を傷つけることは、やめたい。
自分を追い詰めることが必要なことも、もちろん在る。でも、私の追い詰め方は、自分に刃を向けてしまうというところで間違ってる。そう思う。
娘は私に何も言わなかったし、これからも多分、何も言わないんだろうと思うが、私がリストカットをして数日経った夜、私の腕を握ってきた。その後、おやすみと布団にもぐりこみ、声を殺して泣いていた。あれは、私が私をまた傷つけたせいだったんじゃなかろうか。もしかしたら違う理由もあったのかもしれないが、あの時、つくづく思った、私は、私を傷つけていることに間違いないけれど、同時に、私の大切な人たちの心も傷つけているのだ、ってこと。
忘れないでいよう。心にしかと刻んでおこう。

「私たちの心の中には、兵士を監督し威圧している指揮官のように、「私」という上から見下ろしているもう一人の立派な実体が常に存在しているのです」
「自我を非難したり正当化したりせずに、その自我の働きを目を凝らしてじっと見つめていること」
「私たちの生活の複雑な問題を見つめ、私たち自身の思考の過程を注意深く観察し、そして思考は実際にはいかなる結論へも導かないことを認識したとき、個人のものでも集団のものでもない真の理解力が、確実に生まれてくるのです」
「私が何かを理解し、よく見てみたいと思うとき、私はそれについて考えたりする必要はないのです。私はそれをただ見るだけでよいのです」
「あなたは反駁されるかもしれません。「もし思考がなければどうして私は存在し、生きることができるのか。どうして私は空っぽな精神を持ったりできるのだろうか」と。空っぽの精神とはあなたにとっては無気力とか白痴を意味しているのです。従ってそれに対するあなたの本能的な反応は、そういう精神をきっぱり拒絶することなのです。しかしながら、非常に静寂で、思考によって撹乱されていない精神や、何でも自由に受け容れられる開かれた精神は、問題をきわめて直接的に、かつ非常に素朴に見ることができるのです。そして私たちの問題を解決する唯一のものは、このような注意力を逸らさずに問題を見つめる能力なのです。またそのためには、静止した落ち着いた精神がなければならないのです」

ひとつの岐路に立っている気がする。ここから私はどこへ行くのか。右へゆくのか、左へゆくのか。まだ分からない。でも、その決断を、迫られている気がしている。

お湯を沸かし、お茶を入れる。友人にはペパーミントティー、私には生姜茶。開け放した窓の向こうでは雨が降り続いている。
こんなに眠れたのって、どのくらいぶりだろう。そう二人言い合って笑う。あたたかいお茶は、私たちの心も体も、ぽっくりと暖めてくれる。

バスに乗り、駅へ。降り続く雨の中、私たちは歩いてゆく。晴れていれば向こうの方に見えるはずの風車も、今日は雲って欠片さえ見えない。海と川とが繋がる場所、忙しなく人が行き交い、私たちはその間をゆっくりと縫って歩く。
明日、晴れるといいね。うん。そうだね。

さぁ、今日も一日が始まる。


2010年06月12日(土) 
どうも娘はこのところ眠りながら回転するのが癖になっているらしい。そのたび私の腹、或いは顔に足蹴りを食らわしてくれる。何度彼女の足を元の位置に戻しても、気づけば体の向きは斜めになり、反対になり、そうして足蹴り。もういい加減彼女の重たい体を持ち上げるのにも疲れ、私は眠るのを諦めることにする。
しばらく天井を見上げて過ごしてみる。そういえばいつだったか、雨漏りしたことがあった。上の階の人が床に水をぶちまけたのが、そのまま漏れてきたのだった。私とほぼ同年代のこの建物、雨漏りしたって全然おかしくはない。でもそれは私にとって初めての経験で。真夜中突然ぼたぼたと布団の上に水が垂れ始めたときには、娘を抱きしめて、どうしていいのか途方に暮れたのだった。今じゃ懐かしい思い出だ。
起き上がり、窓を開ける。ぬるい空気が私を包み込む。まだあたりは闇の中。私はとりあえず、煙草に火をつける。
昨日は授業を終えるともう体中が疲れ果てており。早々に帰宅した。帰宅して、横になったのだった。私が昼間から横になることなどほとんどない。よほどに疲れていたんだろうと思う。とにかく横になって、目を瞑った。怒涛のようにいろいろな映像がフラッシュバックしてきた。あまりに忙しく映像が行き来するから、私はさらに強く目を閉じて、何とか映像を追い払おうとしてみた。が、無駄だった。起き上がれば映像は消えるかと思い体を起こそうと試みたが、今度はそれができない。困った。枕を叩いてみたり床を叩いてみたり、いろいろしてみたのだが、それも全部無駄に終わり。結局私は、娘が帰宅するまでどろどろと床の上に転がっていた。
不思議なことに、娘が帰宅する音と共に私は起き上がり、娘に弁当を渡し、見送った。でも、それが終わると再び床に崩れた。結局、娘が再び帰宅する直前まで、床に崩れっぱなしだった。
あれは何だったんだろう。あれが疲れというものなんだろうか。私は首を傾げる。そこまで疲れているつもりは全くないのだが。それとも自覚が足りないんだろうか。
徐々に徐々に空はぬるんでゆき。東から陽光が伸び始める。辺りがふわりと軽くなる。街景が露になってゆく。風はほとんどなく、街路樹の葉たちはじっと佇んでおり。私はベランダに出、大きく伸びをする。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。デージーたちは元気いっぱいに育っている。と思っていたが、一本だけ、くてんと倒れているものを見つける。枯れているわけではない。でも、この一本だけが、新しい葉を全く出していず。じっと沈黙している。きちんと立ってはいるのだが、立っているだけで、うんともすんとも言わない、という感じ。どうしたのだろう。でも枯れているわけではないのだから、しばらく様子を見続けるしかない。その傍ら、ラヴェンダーはじっとしており。六本のうちの一本は、やはり今朝も葉を萎れさせており。水を吸い上げる力が全く残っていないわけじゃぁないんだろう、葉は緑色をしているのだから。でも、その力が足りていないのは明白だった。だからといって、今私がしてやれることは何も、ない。悲しいかな、何も、ないのだ。私はじっとその一本を見つめる。
ちょっと油断している間に、またパスカリたちの葉の裏に巣食うものたち。私は農薬を散布する。何となく目を泳がせて、びっくりした。ベビーロマンティカの葉の裏にも、どうも巣食っているらしく。私は急いでそちらにも農薬を散布する。今年はどうも、虫たちが豪勢にこのベランダに巣食っているらしい。たまったものではない。何とかしなければ。と思うが、とりあえず農薬を散布して様子を見るくらいしかできない自分がいる。全く情けない。
そんなベビーロマンティカは、二つの蕾を徐々に膨らませ始めており。蕾の方は順調らしい。今朝も萌黄色の新芽は、さわさわとおしゃべりをしているかのようで。賑やかなその葉の雰囲気を見ていると、こちらの気持ちも和んでゆく。
マリリン・モンローとホワイトクリスマスの蕾は、まさに真っ直ぐに天に向かって伸びており。その蕾の周辺だけ、静謐な空気が漂っている。何者も寄せ付けない、凛々とした強さが張り巡らされており。見ていると、こちらの気持ちがきゅっと、引き締まってゆく気がする。ふと見ると、新葉のところどころに白い粉がついている。とうとうこちらにもうどん粉病がやってきたか。私は拭ったって仕方がないことを知りつつ、その粉をそっと拭う。葉全体が粉に覆われているわけではない、本当に点のように粉がついている、といった具合だから、まだ、葉は摘まなくても大丈夫だろう。私は勝手にそう判断する。
ミミエデンから紅い新葉がにょきにょきと萌え出ており。もちろんそこに花芽などまだまだないのだが。私は夢見る。いつかミミエデンの花を見られる日のことを。
小さな挿し木だけを集めたプランターの中、友人からもらったパスカリが、新芽を出している。他にも、もう誰が誰だったか覚えていないのだが、それぞれに新芽を出しており。このまま立ち枯れるものも中にはいるんだろう。葉を出してもそれで根付いてくれるわけではない。だから、新芽を広げながらそのまま干からびてゆくものもある。それでも。生き延びてくれるものだってちゃんと、きっとあるだろうから。そう私は、信じている。
朝早く、電話が鳴る。西の町に住む友人からだった。大事にしている猫の具合が急激に悪くなっているのだという。だからねぇさんの展覧会、いけないかもしれない、と。
電話を切ってから、改めて思い至る。そうか、展覧会はもう目の前だ。搬入は、あと何日? まさに間近じゃないか。準備は整っている。整っているはず。だが、ここ数日のばたばたですっかり時計が狂っていた。しっかりしなければ。
五時に起こしてくれ、と娘が言っていたっけ。思い出して、時計を見、私は娘を起こしにかかる。起こしてくれと言っていたくせに、ちっとも起きようとしない。それどころか不機嫌だ。私は尋ねてみる。どうしたの? ねぇ、今日学校行きたいんだけど。だって今日は父親参観日だから休もうって話し合ったじゃない。お父さんなんかいなくたって、学校には行きたい。今更そう言われたって、欠席届出しちゃったし、ママは今日午前中留守だし。あのね、私にお父さんはもういないわけでしょ、いないならいないでいいわけよ、そんなのどうだっていいの、学校に行きたいの。…。
わかってるよ、もう欠席届出しちゃったし無理だって。分かってるけどさ、私にはお父さんはもう関係ないってことが言いたかっただけだよ。
娘がぽつりと言った。
その言葉は、私の胸に、ぐさりと突き刺さった。

お父さんはもう関係ない。娘がそこに至るまで、どんな経緯があったんだろう。私には測り知れない。
来年は出席しようね、と、約束できればよかったのかもしれない、せめて。でも、私にはそれができなかった。

「関係というものは、あなたがその中で自分自身を発見できる鏡なのです。関係がなければ、あなたは存在しません。生きるということは関係することであり、それが生活にほかなりません。こういうわけですから、あなたは関係の中でのみ生きているのです。もしそうでなければ、あなたは生きることもできず、その生活も全く意味を失ってしまうのです。あなたという人間が成立するのは、あなたが現にここにいると考えているためではありません。あなたは関係付けられているがゆえに存在しているのです。また私たちの間に多くの対立をひき起こす原因は、この関係に対する理解力が、私たちに欠けているためなのです」
「関係というものは、実際は自己発見の手段なのです。なぜなら関係は生きていることであり、生活そのものなのですから。関係なしには「私」は存在しないのです。そして私自身を理解するために、私は関係を理解しなければならないのです。関係は私自身の姿を見ることができる鏡にほかなりません」
「孤立して生きているようなものは一つもないのです。いかなる国家も国民も個人も、孤立して生きることはできません。それにもかかわらず私たちが種々様々な形で権力を求めるために、そこから孤立が生み出されるのです」
「自他の関係は自己発見に至る過程なのです。そして自分自身と自分の精神や心の働き方を知らずに、ただ単に外面的な秩序や制度や巧妙な方式を確立しても、それは全く意味がありません。重要なことは、他のものとの関係の中で自己を理解することなのです。その自己を理解したとき、自他の関係は孤立化の過程ではなくなり、生きている働きになってくるのです。その働きの中で、あなたはあなた自身の動機や思考や、あなたが追求しているものを発見することができるのです。そしてこの発見こそ、解放と変革の始まりなのです。」

目を閉じると、「サミシイ」が浮かび上がってきた。「サミシイ」はこちらをじっと見つめていた。まるで、頑張れ、頑張れ、と言っているかのようだった。少し前だったら、その、頑張れ、という言葉が私に負担になっていたかもしれない。でも、「サミシイ」の頑張れは、違った。それは、踏ん張れ、に近かった。
穴ぼこは、じっと沈黙しており。でも、穴ぼこはこちらをじっと凝視しており。大丈夫か、と語りかけているかのようで。
あぁ、私は、彼らにまで心配をかけていたのだな、と思い至る。そんなつもりは全くなかったのだが、彼らは私の中で起こっていることを敏感に感じ取り、彼らなりに何かを思っていたのだろう、と。
だから私は、大丈夫、と応えた。まだちょっと体はふらつくけれど、心はもうだいぶ回復してきた。だから大丈夫。やっていけるよ、と。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。娘は、学校の方を見やっている。私は黙ってその姿を見ている。
メール頂戴ね。娘が通りの向こうから、大きな声でそう言った。私は手を振って、それに応えた。
バスが走り出すのを見送って、私は携帯からメールを打った。「ごめんね」。その一言以外、今は思いつかない。
坂道を下り、信号を渡って公園へ。池の端に立つと、木々の茂みがちょうどぱっくり割れている、その天井から光が燦々と零れてくる。池に一つ石を投げ込むと、ぱっと広がる波紋。やがてそれも消えてゆく。
公園の周囲には水色の紫陽花が満開で。陽光を受けきらきらと輝いている。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木はもうすっかり陽射しを遮るほどになっており。私はその下を走ってゆく。埋立地に残るほんの僅かの空き地は、今、様々な種類の雑草が花開いている。私はそれらの名前をほとんど知らない。白い花、ピンク色の花、オレンジの花、薄の穂のような草まである。海から流れてくる風に揺れて、さやさやと唄っている。
ふと見ると、娘から返信が。「わかってる。ごめんね」。ただそれだけ書いてあった。読んだ途端、私は切なくてたまらなくなった。どうしていいか分からなくなった。
娘よ。母、頑張るから。諦めずに頑張るから。どうか見守っていてほしい。私もお前をいつも、見つめているから。

さぁ、今日も一日が始まる。


2010年06月11日(金) 
娘の足蹴りで目が覚める。午前四時。その前にも二度ほど、娘の足蹴りを食らった。どうも今日は寝苦しい夜らしい。すっかり布団を剥いで、くるりと半回転した娘の足は、まさに私の顔に向かっており。痛いよ、と悲鳴を上げてもびくともしない。仕方なく私は起き上がる。
がら、がらららと回し車の音がする。この豪快な音はミルクだ。籠に近寄ってみると、ミルクがぼてっとした体を必死に動かしている。おはようミルク。私は声を掛ける。途端に回し車を止め、入り口のところに齧り付くミルク。ごめんね、私はちょっと君を抱き上げるのは怖いのだよ、と私は苦笑し、頭を下げる。娘にはほとんど噛み付くことがないのに、私には容赦なく噛み付くミルク。だから私はミルクが怖い。かわいいとは思うのだが、やっぱり怖い。
窓を開け、ベランダに出る。薄暗い空が広がっている。一面、というわけでもないが、空を覆う雲は灰色で。もこもことうねっている。雨が降るんだろうか。私は何となく空に手を伸ばしてみる。届くわけもないことは分かっているのだが、何となく。
街路樹の緑はそんな空を映してか、暗い色をしている。風がぴたりと止まって、じめっとした感じが肌に伝わってくる。
私はしゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを見やる。どうしてもどうしても、この一本は葉をぴんと伸ばしてくれない。葉の色は緑色をしているのだが、それでも、萎れたままだ。このまま駄目になってしまうのだろうか。今この土の中で何が起こっているんだろうか。私は土をかきむしりたい衝動に駆られる。そんなことをしたって何にもならないことは分かっているのだけれども。残りの五本は、ぴん、というほどではないけれど、葉を萎れさせることもなく立ってくれている。せめてこの五本だけでも、何とかならないだろうか。何とかなって欲しい。私は祈るように思う。
ミミエデンから新芽がまた吹き出してきた。紅い葉だ。ぶわっと塊になって噴き出してくる。まるで破裂するかのように。このまま新芽を次々芽吹かせて、育っていってくれるといい。
ホワイトクリスマスの蕾は今朝もしんしんとそこに在り。沈黙の衣を纏って、真っ直ぐに立っている。こちらから見るとマリリン・モンローの蕾と並んで立っているように見える。マリリン・モンローの蕾はホワイトクリスマスの蕾と比べて少し丸い。色も、ホワイトクリスマスの方が青味がかっている。紅かったマリリン・モンローの新葉が、徐々に徐々に緑色に変化していっているのが分かる。赤から緑へ、と、それを私が絵の具で描こうとしたら不細工な色合いになるんだろうに、植物の変化は不思議だ、本当に滑らかに滑らかに、変色してゆく。
ベビーロマンティカの蕾は今朝も賑やかで。ぺちゃくちゃとおしゃべりをしているかのよう。萌黄色のその柔らかさは薔薇の群れの中でもひときわ鮮やかで。つやつやと輝いている。
玄関に回り、校庭を見やる。湿った砂の色が広がっている。昨日の天気を思い出せない。雨は降ったんだろうか。降ったからこんなにも湿っているに違いないのだけれども。どうなんだろう。後で娘に尋ねてみよう。
幾つもの足跡が描かれている校庭。サッカーゴールの前に、滑り込みをした跡のようなものが残っている。体育の授業でサッカーをしたんだろうか。ふと見れば、いつの間にかプールに水が入っている。そういえば近々プールの時期になるんだったっけ。どうもいけない。私の内側の時計がちゃんと動いていないらしい。
学校の周りにも紫陽花が何本も植わっており。その殆どは水色の紫陽花で。今まさに咲きだした頃。灰色の空の下、その水色がひときわ輝いている。ふと思う。水色はもしかして雨を呼ぶ色なんだろうか。
友人が電話をくれた。今のあなたなら大丈夫だよ、越えてゆけるよ、と。ありがたかった。ほっとした。その昔、彼女と縁遠くなった時期があった。私の病が酷かった時期だ。そうした時期を経て、今なお、繋がっていられるということに、私は感謝する。
今、私は腕を袖で隠している。そのことが正直ちょっと、不思議だ。以前の私なら、そんなことをしなかった。傷つけた跡は傷つけたものとして、晒していた。でも、何だろう、今もう、そういうことをしてはいけない気がする。
私が堂々と晒すことで、娘はどう感じるだろう。娘の周囲はどう感じるだろう。それを、考えてしまうのだ。
私はいい。私がしたことなのだから、私が為したことなのだから、そのまま受け止めるだけの話だ。でも。
私はもう、私だけのものじゃぁないということを、痛感する。
私の中に、娘や、大切な友人たちが、在ることを、痛感する。私は、それらの人たちをも傷つけたのだなと思う。自分の腕を切り刻むことは、私の大切な人たちの思いをも切り刻むことだった。そのことを、私はあの時、忘れていた。
思い出して、ようやっと思い出して思うのは、この傷跡は勲章なんかじゃないってことだ。或る人が言ってくれた、そういう傷跡もあなたの生きてきた証、勲章だよ、と。でも。でも、違う。
私のことだけを考えたなら、そうかもしれない。でも。私はひとりで生きているわけではなく。娘や、多くの大切な友人たちによって生かされており。私を取り囲む多くのそうした人たちにとってこの傷跡は、悲しみだ。
そのことを、私は失念していた。
まだまだだな、と思う。そう、まだまだだ、私は。自分がひとりきりで生きているわけではないことを、こんなにも簡単に忘れてしまうなんて。
見上げる空は灰色で、何処までも灰色で。ちょっと空の螺子が緩んだらそのまま堕ちてきそうな感じさえする。
娘は、私の腕の痕に気づいているのかいないのか、一切何も言わない。私も何も言わない。いつもと変わりなく、時間を過ごしている。それはとてもありがたいことで。私を再び日常に帰してくれる。

お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶を入れた後、ふと思いついて、椎茸茶も入れてみる。黒胡椒の入った椎茸茶。旅先で見つけた。私はほのかにしか椎茸の香りが分からないけれど、きっと今、いい香りが漂っているに違いない。
煙草をくゆらしながら、窓の外を見やる。昨日母から電話が来て、一瞬、具合が悪いと言いかけた。言いかけて、やめた。
母はまだ病院通いが続いている。そんな母に心配を掛ける必要はない。私は大丈夫、ここからまた始めるだけのこと。ちょっと躓いたけれど、またここから歩いていくだけのこと。わざわざ心配を掛ける必要は、ない。

「生活は関係の問題です。そして静的ではないこの関係を理解するためには、柔軟で、同時に積極的なものでなく、油断のない受動的な注意力がなければならないのです。すでに申し上げましたように、この受動的な注意力は訓練や練習によって出てくるものではありません。それは一瞬一瞬絶え間なく、私たちの思考や感情の動きをじっと凝視していることなのです。またそれは私たちが目覚めているときだけではありません。というのは、私たちがこの問題をさらに深く追求していくにつれて、睡眠中でも自分が夢を見始めていることに気づくようになり、やがて今まで夢に与えられてきたすべての象徴的な意味をすべて捨て始めていることに気づくのです。このように私たちは今まで閉ざされていた未知の世界へ通じる扉を開き、こうして未知であったものを知ることができるようになってゆくのです。しかしこの未知なるものを発見するためには、その扉を超えて進まなければなりません。確かにこれはきわめて難しいことです。「真の実在」というものは精神によって知ることができないものなのです。なぜなら精神は既知のもの、つまり過去の結果だからなのです。そういうわけで精神は、精神そのものと、その働きと、その真の姿をまず理解しなければならないのです。そのときにのみ、未知なるものが存在する可能性が生まれてくるのです」

じゃ、ママ、行って来るね。うんうん、朝練、頑張ってね。うん、でも眠い。ははは。頑張れ。うん。
娘を送りだし、私は出掛ける準備を始める。娘のお弁当も作った、今日発送しなければならない荷物も持った、大丈夫。そして私は玄関を出る。
ちょうどやってきたバスに乗り、駅へ。窓の外は一面薄暗く。傘を持つ人も多く在り。そういえば折り畳み傘を持ってくるのを忘れた。気づいてももう遅い。
そういえばパリで過ごしていた頃、どしゃぶりにも関わらず、毛皮のコートの裾を颯爽と翻して歩いている女性とよくすれ違った。あんなにめいいっぱいおしゃれをしているのに、傘をささないのかと、すれ違うたび不思議に思った。私はといえば、ぼろぼろのジーンズにセーターだったから、濡れようと何しようとお構いなしの格好だったわけだけれども。でも、こんなふうに、雨の中だろうと何だろうと、傘なしで颯爽と歩いてゆける女性って素敵だなと思ったことを覚えている。
駅を横切り、川を渡る。川は深い緑色を湛えており。ゆるりゆるりと流れてゆく。まるで、急ぐことはない、ゆっくりいけ、と言っているかのようで。
さぁ今日も一日が始まる。私は前に向かってまた一歩、歩み出す。


2010年06月10日(木) 
起き上がり、窓を開ける。しっとりとしたぬるい空気が漂っている。ベランダに出て、空を見上げる。昨日の雨雲は何処へ行ったのだろう。きれいに晴れ渡る空。地平線の辺りに漂っている雲が、雨雲の名残だろうか。東から伸びてきた陽光が、雨粒を纏った街路樹を輝かせる。きらきらきら、と、雨粒がそこかしこで輝く。これも多分一瞬のできごと。じきに雨粒はどこかにいなくなってしまうに違いない。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを見やる。濡れた土の上、六本の枝葉。ちゃんと生きているだろうか。どうなんだろう。でも、くてんと萎れているものはひとつきり。それ以外はちゃんと葉を伸ばしてる。ということは水を吸い上げているという証拠のはず。デージーは次々に新しい葉を出しており。こちらは大丈夫なんだろう。そう思う。
私はしゃがみこんだまま、ホワイトクリスマスを振り返る。まっすぐに伸びた枝のてっぺん、蕾が凛々と立っている。何者も寄せ付けず、ただ凛々と。なんて気品のある姿なのだろう。気のせいじゃなく、それは眩しくて。私は目を細める。昨日より一層膨らんできたように感じられるその姿。逞しい、というのともまた違う。
マリリン・モンローの蕾も、空に向かって伸びている。どうしてこうも真っ直ぐに伸びるのだろう、蕾たちは。決して疑うことを知らない子供のようだ。そこに光が在る、光が待っている、そのことをただひたすらに信じて伸びてゆくかのよう。彼らは絶望を前にして屈してしまうということがないんだろうか。絶望しようと何だろうと、こうして立ち上がってみせるのだろうか。
ベビーロマンティカの蕾も、柔らかな色合いでもって、天に向かって伸び始めている。ホワイトクリスマスが気品のある姿、マリリン・モンローが逞しい姿、だとしたら、ベビーロマンティカのそれは、いかにも楽しげな、笑い声が今にも零れてきそうな雰囲気をしている。楽しくて楽しくて仕方がない、生きることはこんなにも楽しい、と、いわんばかりの雰囲気。
パスカリたちは沈黙している。私はパスカリの花が好きだ。涼やかな、これといって華があるわけでもないけれど、洗い立ての洗濯物のような、そんな姿のパスカリの花が好きだ。だからずっと待っている。花芽が出るのを。花なんて咲かなくても生きていてくれればいいよといいながら、それでも待ってる自分がいる。
まるで魔の一日だった。越えるのが本当にしんどかった。ぱっくり開いた傷口から漏れ出る血はやはり赤く、でももはやそれは私を、安心させる代物ではなかった。
逆に、私を自己嫌悪に陥らせた。何をしているんだろう、私は。一体何をしているんだろう。私を見下ろすところから、もう一人の私が言っていた。私は私の体を離れ、私を見下ろし、言っていた。何をしてるの、一体。
いくら切っても足りなかった。足りない足りない、と、誰かが言っていた。こんなんで足りるものか、切ったって切ったって足りないのだ、と、誰かが言っていた。
同時に、いくら切ったって足りないのなら、切るだけ無駄じゃないか、とも誰かが言っていた。突き放した、冷たい声だった。でも、それは本当のことだと思った。
切って切って、何とかなるなら、いくら切ったっていいかもしれない。でも、切ったって切ったって足りないのなら、切るだけ無駄じゃぁないか。
でも。
赦せなかった。自分を滅茶苦茶にしたかった。もうすべて荷をおろしてしまいたかった。無責任になりたかった。
ぱっくりと口を開ける傷口は、肉の層を露に私に見せつけた。さんざん切り刻んできた腕は、そうやすやすと壊れるものでもなかった。私に見せ付けるだけ見せ付けて、嘲笑っているかのようだった。おまえなんかに壊せるものか、と、まるでそう言っているかのようだった。私の弱小さを、さらに思い知らせてくるかのようだった。
切り刻む隙間が、気づけばもうなくなっていた。机の上、血だまりが残った。それを掃除するのも馬鹿らしくて、私はしばらくそのままでいた。
私の頭上で私の声が響いていた。結局何を得た? 何も得るものなどなかっただろうが。一体お前は何をした? そうすることで何を失うのか、おまえは分かっているはずだろうが?!
眩暈がした。私が私の中に納まってくれない。私の内と外とで、ぎゃんぎゃんそれぞれに喚いている。好き勝手に喚いている。私は耳を塞ぎたかった。でも、耳を塞ぐ余力も、なかった。
結局。傷跡だけが残った。私の内奥で蠢くものはそのまま残り、私の腕に、傷跡だけが残った。

生きるしか、ないんだよな、と思う。別に死のうと思ったわけじゃない。ただ、自分が存在していることが赦せなくて赦せなくて赦せなくて、たまらなかった。自分を滅多切りにして、消えてなくなりたかった。ただそれだけだった。
でも、そんなこと、現実にできるわけもなく。
分かっていたはずだった。そんなこと、もう十二分に分かっていたはずだった。なのにまた、繰り返してしまった。
苦味のある虚しさが、残った。

私の腕の傷に気づいてはいない娘が、明るく尋ねてくる。ねぇママ、土曜日さ、父親参観日なんだよね。どうする? どうしよっか。今年も欠席するか。先生はちゃんと出なさいって言ってたけど。どうする? どうしたい? 別にどうでもいい。じゃぁ、欠席しようか。うん、そうだね。

傷を隠していても、布の下、ぱっくりと割れた傷口から血が漏れ出し、染み出してくる。そのたび私は着替える。じきにこの血も止まるだろう。今は熱を持っている傷口も、やがておさまるだろう。
そしてまた、日常が始まる。はず。

ちょっと道を逸れただけだ。大丈夫、いくらでも修正はきく。大波をだぶんと頭から被ったようなものだ。大丈夫、大丈夫、何とかなる。
しばらくすれば、またやっちゃったよ、と笑えるようになる。そうしてまた、歩き始めればいい。

お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶を入れてみるのだが、全く味が分からない。というより、生姜茶の味に感じられない。全く別物のお茶を飲んでいるかのような気がする。迷った挙句、それは水筒に入れ、レモンティーを作り直すことにする。レモンティーくらいはっきりした味なら、さすがの私も分かるだろう。
開け放した窓の外、陽光が燦々と降り注ぐ。火をつけた煙草を胸いっぱいに吸い込む。さぁ朝の仕事に取り掛かろう。

「私たちにとって困難なことは、外部の挑戦に対して適切に、つまり完全に対応することなのです。問題は常に物や人間や観念との関係の問題なのです。それ以上に問題はないのです。そしてこの関係の問題―――それは絶えず多様に変化する要求を伴っています―――に正しく、かつ適切に対応するためには、私たちは受動的に凝視していなければなりません。この受動性は決意や訓練の問題ではありません。まず私たちが受動的ではないことを自覚することが出発点なのです。私たちがある特定の問題に対して、特定の解答を期待していることを知ることがその第一歩なのです。私たちとその問題との関係や、私たちのその問題の処理の方法を知ることが始まりなのです。そしてその問題との関係の中で自分自身を知り始めたとき、つまりその問題に対応している過程で、私たちがどのように反応するか、あるいは私たちの偏見や欲求や追求しているものがどのようなものなのかを知り始めたとき、この自覚が私たちの思考の過程や、私たちの内部の本質を開示することになるのです。そしてそこに解放が生まれるのです」
「重要なことは、選択せずに凝視することなのです」「重要なのは次の点です。凝視することによって生まれた経験を記憶の中に蓄積せずに、一瞬一瞬常に注意深く見つめ続けていけることです」

もう同じ間違いを、繰り返さないで済むだろうか。繰り返したくないと思う。まだ私は、私の頭上と私の内側とで、分離したままだけれど、それもまぁ、じきに融合してくれるだろう。時間が解決してくれるに違いない。
今はしんどくても、そう、じきに、じきになんとかなる。そう信じよう。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は階段を駆け下り、自転車へ。
坂を下り、信号を渡って公園へ。紫陽花の咲き誇る公園。水色のその色合いは、まるで雨を呼んでいるかのようで。
池の端に立つと、頭上から燦々と降り注ぐ陽光。まるで、おまえがどんな代物であろうと、私は構わないよと言われているかのようで。目尻に涙が滲む。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木が陽光を受け輝いている。私はそのまままっすぐ走り続ける。モミジフウの脇を通り抜け、さらに走り、海へ。
緑がかった紺色の海。堤防に当たって弾ける波は白く。
また、ここからだ。私は自分に言い聞かせる。何度でもやり直せばいい、私はまたここから、やり直す。歩き出す。ただそれだけだ。
さぁ、今日もまた、一日が始まる。


2010年06月08日(火) 
起き上がり、窓を開ける。ベランダに出て空を見上げれば、一面に雲が広がっており。もこもことした雲は鼠色で、雨が降ってきてもおかしくはない様子。微かな風がそろそろと流れている。街路樹の葉を揺らすわけでもなく、そろそろ、と。私は櫛で髪を梳き、後ろひとつに束ねる。
昨日はそんな、当たり前のことさえできなかった。何を見ても色が失われ、輪郭さえ定かではなく。どこまで堕ちればとまるんだろう、という具合だった。すべてが上滑りしていた。いや、その記憶さえ定かではなく。ところどころしか覚えていない。ただひたすらに、消えてなくなりたい、という気持ちだけが、在った。
気を張っていないと、いつまた自分の腕にナイフをつきつけるか分からなかった。そんなことをしたって何の解決にもならないことが分かっているのに、私はそれでも切りたかった。切って切って切って、木っ端微塵にしたかった。どうにかして、自分を消去したかった。
でも私は今こうしてここに在て。生きている。ちゃんと生きてる。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。土が少し乾いてきている。そろそろ水を遣る時期か。でも。見上げる空はいつ雨が降ってきてもおかしくはない具合。帰ってきてからどうするか決めよう。私は土の表面を指で撫ぜながら思う。
ホワイトクリスマスの蕾は、ついこの間まで葉と葉の間に隠れていたのに、今はもう、頭一つ分、飛び出している。凛と天を向いて立つその姿。美しい。何て美しいんだろう。それはまるで、光を信じてやまない者の姿のようで。私はその姿が眩しくて、思わず目を細める。こんなふうに立っていられたら。憧れさえ、抱く。
マリリン・モンローの新芽たち。今のところ花芽は見られない。今はぐいぐいと枝葉を伸ばす時期なのだなと思う。こんなに茂ってどうするんだろうと思わず笑ってしまうほど、勢いがいい。まるでこちらを励ますかのようで。
ベビーロマンティカの葉と葉の間に花芽を二つ、見つける。ついこの間花を咲かせたばかりだというのに、大丈夫だろうか。でも嬉しい。また花を見ることができる。それが嬉しい。また、新しい場所からも新芽が噴き出ており。萌黄色の柔らかな柔らかな芽。
パスカリは、また葉に白い粉をつけ始め。私はそれをひとつずつ、そっと摘む。摘みながら、私はここ数日のことを考えている。
はっきりと、何があった、というわけではない。明確なきっかけがあったわけじゃぁない。ただ、いろんなものが積み重なって、私は疲れていた。憂鬱がぐわーんと、私を呑みこんでいた。ひとりでじっとしていると、勝手に涙が零れた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、と、涙が零れた。すべてから逃げ出して、消えてなくなりたかった。
でも。それができないことも、分かっていた。
心の奥底で、私は生きなければならない、ということが、ありありと横たわっていた。
何とかして、言葉にしてみようとも思った。言葉に吐き出せば、何とかなるんじゃないか、それだけでも少しは楽になるんじゃないか、そう思った。なのに、全く言葉が出てこない、これっぽっちも出てこない。
行き場が、なかった。
彷徨って彷徨って、辿り着いたのは家だった。
どこをどう歩いて帰って来たのか、はっきりいって覚えていない。覚えていないが、気づけば私は家にいた。そしてそこには、娘がいた。
あぁだめだ、娘を残してはいけない。この、生の塊を放ってはいけない。
私はトイレで、泣いてみた。泣けるだけ泣いてみた。何が悲しいのか、何が辛いのか、もうよく分からなかった。分からないけど、泣けるだけ泣いた。
体が、疲れていると言っていた。もう倒れ込みたいと言っていた。それを無視して夕飯を作り、後片付けをし、仕事をし、そうしてやっと横になった。
横になってみると、どれほど疲れているのかが体の実感として感じられた。
私の内奥で誰かが言っている。頑張れ、もっと頑張れ、頑張れ、もっと頑張れ。
その声を聴きながら、私は眠った。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。いつもの風景。何ら変わらない、いつもの動作。でも、今日もまたこうできることに、今は感謝する。
とりあえず私は朝の仕事に取り掛かる。できることをひとつずつやっていけばいい。今はもうただ、それだけ。

ママ、大丈夫? うん、大丈夫。大丈夫じゃなさそうだけどなー。うん、でも、もう大丈夫。ちょっと疲れてるだけ、くらいだよ。ふーん。じゃぁいっぺんで治る方法してあげようか。何。ちゅーだよ、ちゅー。ははは。じゃぁほっぺにして。うん、ちゅー! ありがとねー。少しは元気出た? うん、出た。明日には元気になるよ。ウンウン。

私は何て弱いんだろう。つくづく思った。弱い、弱すぎる。これっぽっちのことでこんなにぐでんぐでんになるなんて。
よく覚えておこうと思う。こんなにぐでんぐでんになる自分の事を、よく覚えておこうと思う。そして、繰り返さないよう、心に刻んでおこうと思う。

「自分自身に対する認識は、自他の関係の行為の中ではっきりと試すことができるのです。それは私たちの話し方やふるまいによって試すことができるのです。ですからあなたを他のものと同一化したり、比較したり、批判したりしないで、あなた自身を注意深く見詰めてごらんなさい。じっと見詰めているだけで良いのです。そのときあなたは驚くべきことが起こっていることに気づくでしょう。そのときあなたは無意識的な行為を終息させるばかりではなく―――というのは私たちの行為の大部分は無意識的なものだからです―――そのうえに、研究したり掘り下げたりせずに、それらの行為の動機を知ることもできるのです」「私たちが対象を批判せずに、それを尊重し、注意深く見守るならば、その行為の真の意味が自ずと現れてくるのです」「正当化しようという意図をもたずに、ただじっと見詰めるのです。これは随分消極的なことのように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。その反対に、それはそれ自体直接的な行為であり、しかも一種の受動性をもつものなのです」「もしあなたが何かを理解したいと思うなら、あなたの精神は受動的になっていなければなりません。あなたはその対象についてあれこれ考えを巡らしたり、推測したり、質問したりしてはいけないのです。あなたはその対象の真意を理解できるほど感覚が鋭敏でなければなりません。たとえて言えば、それは写真の感光板のようでなければいけないのです。もし「私」が「あなた」を理解したいと思うなら、「私」は受動的に見つめていなければならないのです。そうすると「あなた」の方で自然にあなたの素性を語りかけてくるのです」

まだ浮上しきれてはいないけれど。少なくとも、地面がどこにあるかは、ちゃんと感じられる。私はその上を、歩いてる。
こういうことがまた、起こるのかもしれない。そうだとしても、
私はやっぱり、生きていくしかないんだろう。

振り出した雨に構わず、自転車に跨る。坂道を駆け下り、信号を渡り、公園へ。
池にもぽつぽつと、雨粒の跡。幾つもの波紋が生まれている。
紫陽花の茂みは、まるで雨を恋しがっているかのように、天へ天へと花が向いており。その数はもう、夥しいほどで。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木の脇を通って、真っ直ぐ海の方へ。暗い暗い紺色の海が広がっており。ばしゃんばしゃんと打ち付ける波飛沫の色がくっきりと映えわたっている。
さぁ、今日という一日が、始まってゆく。
私は自転車に再び跨り、勢いよく走り出す。


2010年06月06日(日) 
最近夢と現実との境が曖昧になっている。今朝も夢から現実への移行が難しかった。戸惑って、確かめて、何度も確かめて、ようやくさっきまでのことが夢で、今ここに在ることが現実なのだと納得する。時間にすればそれは数分かもしれないが、それはとても頼りなくて、足元が酷く頼りなくて、不安になる。
窓を開ける。もうすっかり空気はあたたまっており。私はあたたかいというよりもむしろ、暑いと感じる。私はやっぱり、朝のあの、ひんやりとした感触が好きだ。体がきゅっと引き締まるような、ひんやりとした感触が。
ベランダに出て通りを見やる。まだ誰の姿もない。陽射しだけが東から燦々と降り注いでいる。私は大きく伸びをして、空を見上げる。空に雲もほとんどなく、晴れ渡っている。あぁ今日は洗濯日和だ、そんなことを思う。
しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーの枝の、古い葉はみな、くてんと萎れている。新しい葉はこぞって空を向いている。この違いは何なんだろう。古い葉にはそんなにも、水を吸い上げる力が足りていないのだろうか。それともこれが自然なのだろうか。同じプランターの中、デージーはみな、生き生きと育っている。こんなことを思うのもどうかと思うが、なんだか、ラヴェンダーとデージーとを見ていると、デージーが憎たらしく思えてくることがある。なんでこんなにも勢いが違うのだろう。悲しくなってくる。
挿し木ばかりを集めた小さなプランターの中を覗く。一本の枝から、今次々紅い縁を持った新芽が芽吹いているところ。長い間うんともすんとも言わなかった枝。これまでエネルギーを内に貯めていたんだろうか。いきなりあちこちから葉を出し始めた。他にも、新芽の徴を抱いているものたちが大勢いるのだが、これがそのまま立ち枯れてしまうこともあるから、油断はならない。まだまだ枝は根を出しているわけではないだろうから。いや、葉を出したって、開いた葉がそのまま枯れてゆくことだってある。私にできることは、ただ待つことだけ。信じて待つこと、それだけ。
ホワイトクリスマスの新芽。その中から一つの花芽。昨日よりぐっと表に現れてきた。若い緑色をしている。他の新芽の間も見てみるが、今のところこれ以外に花芽は見つからない。今流れてくる微風を受けながら、凛としてそこに在るホワイトクリスマス。
マリリン・モンローの、根元からぐいと出てきた枝葉は、まさにまっすぐに天に向かって伸びており。もはや何者も受け付けないといった雰囲気を私は感じる。誰に何を言われても、誰にどう遮られても構うものか、私は伸びる、というような意志が漲っている。私は半ば圧倒されながら、その枝をじっと見つめる。触れることさえ赦されない、そんな気がする。
ベビーロマンティカの新芽は、まるで小さな笑い声をともなってそこに在るかのようで。耳を澄ましたらその笑い声が木霊してきそうな気がする。カミーユ・クローデルの作品に、確かおしゃべりをする女たちというものがあった、あの彫刻を思い出させる。
ミミエデンからも新芽が次々噴き出そうとしており。あの時枝を挿して本当によかった、と思う。果たして花をつけるほどになってくれるのか。分からない。分からないけれど。一輪でもいい、いつか、あの花が見たい。
パスカリの一本の新芽はやはり、粉を噴き始め。私はそれを、つけ根から摘むことにする。ごめんね、と小さく呟きながら摘む。せっかく開いた大きな葉が、私の手のひらの上、震えている。
何だろう、突然涙が零れた。これといって理由があるわけでもない。何があった、という、そういうはっきりしたものが在るわけでもなかった。でも、涙がぽろり、零れた。
私の人生を、決めつけないでほしい。そう思った。どうしてみんな、勝手に決めつけるんだろう、あなたは絶対こうなるわよ、こうならなきゃおかしいわよ、こうなるに決まってるわよ。いとも簡単に、みながそう言ってのける。
そんなもの社交辞令と受け流せばいいのだろうが、私は昔を思い出す。幼い頃を思い出す。そうやって周囲の人たちすべてから言われ、私はいつも、潰れそうだった。いっそのこと、潰れてしまえば楽だったのかもしれない。でも、潰れることは赦されなかった。潰れたら、今度は冷たい視線が待っている。冷たい沈黙が待っている。耐えられなかった。
どうしてみな、私がデキルのが当たり前だと言うんだろう。当たり前って何なんだろう。いつも思ってた。どうしてそんなこと言えるんだろう、と。
私はデキルのが当たり前で、デキナイことは論外だった。たった一歩、たった一足、間違えただけで、顰蹙を買った。冷たい視線、冷たい言葉、手のひらを返したような態度がそこに待っていた。いつでも私は、模範にならなければならない子供だった。
今また、そのヴィジョンが繰り返されている。こんな歳になってまで、そんなものに囚われている。それが、私には、しんどい。
そんなもの跳ね除けて、関係ないよと笑って、過ごせたらどんなにいいだろう。そう思う。他人の目など、他人の言葉など、関係ないよと笑ってやり過ごせたら、私はどんなに楽なんだろう、と思う。思うのに、自由になれない。囚われてしまう。恐怖を感じてしまう。ここから外れたとき、私は一体どうなるんだろうと考えてしまう。怖くて怖くて、夜も眠れなくなる。
私は私だ、と、胸を張って、笑っていられたらいい。そう思うのに。それができない。それができない自分が一番、悔しい。
いっそもう、人の間にいることをやめてしまおうか、とさえ思う。そうしたら私は、楽に慣れるのかもしれないなんてことさえ思う。でも私は人間で。人の間で生きる存在で。そして私の耳は、過敏だ。そういうことに、酷く過敏だ。
人の言葉が痛い。あなたができるのは当たり前よ、あなたならできるに決まってるわよ、あなたなら、あなたなら、あなたなら。
何が当たり前なんだ? 何が決まってるんだ? 何も当たり前なんかないじゃないか。何も決まってなんかないじゃないか。私はそんな、あなたたちが思っているような人間じゃぁない。
じゃぁどういう人間なんだ? そう、これっぽっちの、弱い弱い、どうしようもない人間で。あなたの無邪気な、他愛ない言葉に、敏感に反応して怯えるような、そういう小さな人間で。期待されても、私はそんな、応えられない。
あなたなら何があってもそれを乗り越えていく力があると信じていたわ、あなたならどんな困難にも打ち克って切り開いていくに決まっているわ。そうした言葉は、本来、決して否定的な意味で言われている言葉じゃない。そんなこと分かってる。そんなこと、十分すぎるほど分かってる。分かってるけれど。
辛いのだ。しんどいのだ。怖いのだ。私は。あなたなら、あなたなら、あなたなら。そう言われるのがどうしようもなく怖いのだ。
どんなに期待されても、どんなに思われても、私には限界があって。できることとできないこととがあって。いや、むしろ、出来ないことの方が多くて。私はまさに、これっぽっちの人間で。
私だって泣く。悲しくて泣く。どうしようもなくて泣く。むしろ、私は泣き虫だ。今だって涙が零れそうになってる。思い出すだけで、涙が零れてきてしまう。
私にこれ以上、ハードルを作らないで。ハードルを高くしないで。これ以上私を、追い詰めないで。そう、心が叫んでる。
同時に思い出すのだ。弟が言ってた。何も期待されないことの悲しさって、姉貴、分かるか、と。そのことを、思い出す。弟のしんどさ、辛さ、虚しさを、思い出す。思い出して、私は沈黙する。もう、沈黙するしか、なくなる。
自分は贅沢だと、思う。
だから、背負っていかなければならないと思う。笑って、受け流して、黙々と、歩いていかなければと思う。
黙々と、歩いて。

友人に言われたことがある。私に何も期待してないって、そう言われて、悲しかった、と。
でも、期待するとか、あなたなら、とか、そういう言葉を吐いてしまうことが、いや、そもそもそういう思いを抱いてしまうこと自体が、私には、辛いのだ。罪にさえ感じられる。自分がこんなふうに、もう声を上げられないほど、それに押し潰されてきたから。
何も期待しない、というのは、信じていない、ということではなくて、信じているから、あなたを丸ごと信じているから、あなたが何をしても、何を言っても、どんな選択をしても、それはあなたなのだから、そのまま受け止める、という意味だった。
今また彼女のその言葉を思い出す。そして弟のことも。
俺が親に期待も何もされず、無視されて、どれほど辛かったか、しんどかったか、悲しかったか、姉貴、分かるか、と。
多分。多分、私には、その痛みを本当の意味では、理解できないんだと思う。悲しいかな、多分、彼女や弟のようには、感じられていないんだと思う。
本当に申し訳なく思う。
だから、私は歩いていかなきゃならないと思う。どんなにしんどくても何でも、歩き続けていかなきゃならないと思う。

「たとえば私が橋とか家を作りたいとします。私はその技術を知っていて、その技術がその作り方を私に指示してくれます。私たちは普通これを行為と呼んでいるのです。行為には、詩を作ったり、絵を描いたりする行為、国家の責任ある行為や、社会的あるいは環境上の反応による行為などがあります。これらはすべて観念、すなわち過去の経験に基づいていて、それが行為を形作ってゆきます。しかし、観念形成がないとき、行為は果たして存在するでしょうか。
 確かにそのような行為は、観念が止んだときに生まれてきます。そして愛があるときにのみ、観念は終焉するのです。愛は記憶ではありません。また経験でもありません。愛は、愛している相手について考えることではないのです。なぜなら、もしそうであるとすれば、愛は単なる考えに過ぎないからです。あなたは愛そのものについて考えることはできません。あなたが信奉する導師や、神仏の彫像、あるいはあなたの妻または夫のような、あなたが愛していたり傾倒している人のことを考えることはできます。しかし思考やシンボルは真実でも愛でもないのです。従って愛は経験ではないということになります。
 愛があるときに行為があるのではないでしょうか。しかもその行為は私たちを自由にするのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。また観念と行為の間にあるギャップは、愛と行為の間にはないのです。観念は常に古く、その影を現在の上に投げかけています。そして私たちは行為と観念の間に、絶えず橋渡しをしようとしているのです。愛があるときに―――この愛は精神作用でもなく、観念形成でもなく、記憶でもなく、経験や鍛錬でもありません―――この愛そのものが行為なのです。それこそ私たちを解放してくれる唯一のものなのです」

玄関を出ると、校庭は光の洪水で。幾つもの足跡がまるで光の中踊っているようで。私は思わず手を翳す。
自転車に跨り、坂道を真っ直ぐに駆け下りる。信号を渡り、公園へ。鬱蒼とした緑の茂みはもう、緑というよりも暗い影にさえ見える。紫陽花は今満開で、だんだんと首を重たげに傾げ始めた。ブランコの周りに鳩が集っている。躑躅の茂みから猫が現れ、大きく伸びをして、ベンチの脇、横たわる。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の枝葉がまっすぐに天を向いて伸びている。茂る葉はさやさやと風に揺れ、まるで歌を唄っているかのよう。
このまま海まで走ろう。海が何か私に語ってくれるわけでも何でもないけれど。でも、海は間違いなく、ただ黙って、そこに在てくれるだろう。
さぁ、今日も一日がまた、始まる。


2010年06月05日(土) 
起き上がり、窓を開ける。ちょうどよい感じの風が流れている。そう、吹いているのではなく、流れている。私はその風を感じながら、ベランダに出る。明るい陽射しが東から伸びてきている。トタン屋根がちょうどその陽射しを浴びて、きらきらと輝いている。通りを行き交う人も車もまだない。在るのは陽射しと風と緑と。そして私。
街路樹の緑は小さく小さく、時折揺れている。このくらいの風にならびくともしないほど葉が厚くなってきた証拠だ。ほんの少し前まで、まだまだ葉は小さくて、軽くて、か弱くて、少しの風にもさやさやと揺れていたのに。ふと気配を感じ横を見ると、電線に烏がとまっている。あぁそうか、今日もゴミの日だ。私は烏を見て思い出す。烏の目はもうすでにゴミ集積場所に向いており。私もそこを見下ろせば、もう幾つものゴミが並んでいる。正直言えば、私も時折夜のうちにゴミを出すことがある。朝早く出かけなければならないときなど、そうすることがある。だから何も言えない。言えないが、でもこうして、人が起きる前から動き出している烏を見てしまうと、何とも言えない気分になる。とりあえず夏の間だけでも、ちゃんとゴミを出す時間を守らねば、と自分に約束する。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。一本がどうにもこうにも、葉をくてんと萎れさせており。私は心配になる。これは一番つけ根だった部分だ。つまり、去年挿し木した古い古い枝の部分ということ。他の、新しく伸びたところを切り分けて挿したものは、多分、エネルギーをいっぱいもっているんだろう、ぐいぐい水を吸い上げてくれる。でもこの、古いものは、どうももう、エネルギー切れの様子で。大丈夫だろうか。私があの時気づいて幼虫を排除してやっていれば、おまえは今頃、ちゃんと根も伸ばして、葉も伸ばして、しゃんと立っていられたんだろうに。後悔しても始まらないことは分かっているのだが、私はつい、唇を噛む。おまえは再び根を出してくれるんだろうか。出して欲しい。出して、もう一度立ってほしい。私は祈るように思う。
デージーは細っこい枝葉をくいくいと伸ばしており。植え替えてからの方が元気に見える。こうした様子を見ていると、母が笑っているように思える。ほら言ったじゃない、デージーなんて強いから放っておいても大丈夫なのよ、と。優先順位をちゃんとつけなさい、それを見極めなきゃだめなのよ、と。言われている気がする。
ホワイトクリスマスの新芽は、まっすぐ天を向いて伸びてきている。その中に、ひとつ、花芽を見つけた。まだ本当に小さい、私の小指の先ほどもない、小さな小さなものだけれども、確かに葉と葉の間に在る。ちょこっとだけ顔を出している。あぁよかった、この樹もまだ、花をつけられるほど元気なんだ。それが分かって私は心底嬉しくなる。
マリリン・モンローの紅い新芽。本当にあっちこっちから芽吹いている。昨日のうちにまた新しく顔を出し始めたものも在る。こんなにいっぺんに次々芽吹かせて、大丈夫なんだろうか。私はちょっとだけ心配になる。それは、そう、ちょっとだけ。マリリン・モンローには申し訳ないけれども、何故だろう、あなたはちゃんと、また次も花を咲かせてくれる気がする。私は勝手にそう、信じている。
ベビーロマンティカの萌黄色の新芽。前へ前へと伸びてくる。それはまるでさらなる陽射しを求めて、張り出してきているかのようで。ふと、大昔にやった理科の実験を思い出す。光合成の実験。じゃがいもの葉っぱを使ってやったっけ。今ベビーロマンティカの葉の中でも、その光合成やら何やらが行なわれているんだろうか。こんな薄っぺらい、爪を立てたら容易に折れてしまうような葉であっても、これが薔薇の樹の命を繋いでいる。不思議だ。命の塊が今目の前にあるということ。今この時も、呼吸して、生きているということ。その当たり前のことに、私はやっぱり、ふとしたとき、立ち止まらずにはいられなくなる。
パスカリたちの葉はもう赤い縁取りもなくなって、緑の葉に変わった。今ぐるり樹を見回してみるけれども、新しい紅い徴は見えない。また一呼吸置いているんだろうか。私はじっと樹たちを見つめる。ベランダの右側と左側、ただそれだけの位置の違いなのに、新芽の萌え出る速度の何と違うことか。土も同じ、日当たりだってほぼ同じ。風の吹き具合だって同じはず。違うものは何なんだろう。
昨日の授業でやったことを、頭の中、反芻する。積極技法のうちのフィードバック。それに焦点を当てた実習授業だった。やってみるまで分からなかったが、フィードバックというものは結構危険をともなうものなのだなと実感した。或る程度冷静な時なら、カウンセラーのフィードバックに耳を傾けることもできるだろう。でも。切羽詰っているとき、そんなもの、クライアントにとって役に立つんだろうか。そんなこともう分かっている、そんなことどうだっていい、そんなことに耳を傾けている余裕すらないからここに今在るんじゃないか、と、私だったら思うかもしれない。そう感じた。そう考えると、カウンセラーがクライアントをどれだけ観察しているか、ということが、やはり大切なのだなと思った。クライアントと信頼関係を結んだ上で、どれほど観察し、タイミングよくフィードバックできるか。そういうことなんだろう。そう、タイミングが悪ければ、何の意味も為さなくなる。それどころか、クライアントとの信頼関係を崩しかねない。
この勉強を終えた後のことを考える。これらの勉強をすべて終えた後、私はどうするんだろう。もうすでに、それを考えているクラスメイトもいる。そうした方々を見ながら、私はそこまで今まだ自分が固まっていないことを実感する。うまくいえないが、人を預かる、いや、命を預かる仕事といってもいい。それに対して、私はちゃんと向き合っていけるんだろうか。そのことを、考えてしまう。
自分を省みて、あのカウンセリングを受けてよかったな、という体験がほとんどない。あのカウンセラーについていきたい、と思えたことが、正直、ない。私にとってあの時期越えてこれたのは、あの主治医がいたからだ、と今でも思っている。主治医は医者としての指示だけでなく、私のカウンセラーでもあった。本来診察時間は五分十分なのに、あの主治医は三十分、一時間、と、必要ならしっかり時間を割いて話を聴いてくれた。患者と向き合ってくれた。ああした体験がなければ、私はあの時期を、越えてこれなかった。つくづく思う。だから、私にとって、理想のカウンセラー像というものが、はっきりいって、ない。私にとって浮かぶのは、あの主治医の姿だけだ。
そんな私が、果たして、この仕事に関わっていいものなのか。もちろん、理想像がちゃんと描けていればいいというわけでもないだろう。それは分かっている。でも、何だろう、なるのであれば、クライアントに寄り添える、ちゃんと耳を傾けられるカウンセラーになりたい。でも、じゃぁ私は今、それになれるだけの力を持っているのか。そう考えると。足が止まってしまう。
クラスメイトの、今後自分たちはどうするか、どうしたいかの話を聴きながら、だから私は心の中、少し羨ましく思っている。そんなふうに真っ直ぐにそこに向かっていけること、羨ましいと思う。
私はそこまで、自分をまだ、信じきれていない。多分、そういうことなんだと思う。

突然連絡が取れなくなった友人がいる。或る日突然、だ。約束を交わし、その日、友人は現れなかった。それから毎日連絡をしているが、全く連絡が取れない。私に対して何か思うことがあって連絡を断っているのであれば構わない。でも、もしも、もしも友人の身に何か起きたのであれば。
そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。だからって何ができるわけでもない。もちろんそれも分かっている。
心の中、じだんだを踏みながら、私は今日も友人の留守電にメッセージを残す。連絡待ってます。
何もないならいい。何となく気分で約束を放り出したのなら、それでいい。何事も起きていないのなら、それでいい。
何事もないことを祈りながら、私はメッセージを残す。連絡、待ってます。

友人が言う。片っ端から自分が覚えている友人の名前を挙げてみるんだよ、と。言われて気づいた。私はほとんど、名前というものを覚えていない。
あまりにいろんなものが、途中で断絶されてきた。中学も高校も大学も、そしてその後も。事件の前まで持っていた住所録は、事件の後しばらくして、すべて焼き捨てた。だから、住所どころか、名前さえ、もう覚えていない。
あぁ本当に、あの事件で、私は変わってしまったのだな、と思う。
根無し草。そんな言葉がふと浮かぶ。
私が立っているのは一体何処なんだろう。
誰の記憶にも残らず。誰の心にも残らず。私はひとり、死んでゆくのかと思ったら、ちょっと悲しくなった。悲しくなって、小さく笑った。

「たとえあなたが醜くても美しくても、また意地悪で罪作りな人間であっても、そのあるがままの自分を理解することが、「徳」―――真価―――の始まりです。この「徳」こそ、私たちにとって欠くことができないものなのです。なぜならこの「徳」によって私たちは、自由を与えられるからです。あなたが真理を見い出し、本当の生活ができるのは、kの「徳」の中だけです。しかもそれは、一般に「徳をつむ」というような意味でのつんだ徳では駄目なのです。そのような徳からは、いわゆる尊敬は生まれるでしょうが、理解と自由は決して出てこないのです。「徳」をもつことと、「徳」をつもうとすることとは違うのです。「徳」はあるがままのものを正確に理解することから生まれてくるのですが、「徳」をつもうとすることは、あるがままのものを理解することを先に引き延ばすことであり、あるがままのものを、こうありたいと思っているものによって糊塗しているだけのことなのです。従って、「徳」をつもうとしていて、実際はあるがままのものから直接に行動することを避けているのです。しかも理想に向かって努力することによって、あるがままのものを回避していること自体が「徳」であると一般には考えられているのです。しかし、もしあなたがそれを詳細に、じかに見るなら、それが本当の「徳」とは何の関係もないことが分かるはずです。理想を求めるということは、実は、あるがままのものに面と向かい合うのを引き延ばしているだけなのです。「徳」というのは、自分自身と違ったものになることではないのです。「徳」はあるがままのものを理解することであり、それによって同時にあるがままのものから自由になることなのです。現在のように休息に分解してゆく社会では、このような「徳」は欠かすことができないものなのです。古い世界からはっきり訣別した新しい世界や社会を創造するためには、「発見するための自由」がなければなりません。そして、自由が存在するためには、この「徳」がなければならないのです。というのは、「徳」がなければ自由もないからです」
「真の実在というものは、あるがままのものを理解するときにのみ、発見できるのです。しかもあるがままのものを理解するには、あるがままのものに対する恐れから解放されていなければならないのです」「あるがままのものというのは、あなたが現実に、一瞬一瞬、行為し、考え、感じていることなのです」「もし私が誰かを理解したいと思うのなら、私はその人を非難してはいけないのです。私はその人を観察し、学ばなければなりません。私が学んでいる対象そのものを愛さなければなりません」「あるがままのものを理解するには、自己と対象を重ね合わせて同一化することもなく、非難もしない精神状態、言いかえれば、機敏であって、しかも受動的な精神を必要とするのです」「自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―――「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです」

じゃぁね、それじゃあね、手を振って別れる。娘はバス停へ。私は自転車へ。メール頂戴ね、という娘の声にもう一度手を振って応えながら、私は走り出す。
坂道を下り、通りを渡って公園へ。さっきまで燦々と降り注いでいた陽射しが、突然現れた雲に遮られ。今池の畔は薄暗い。足の先で軽く蹴った小石が池に落ち、瞬く間に幾重もの波紋を描き出す。くわんくわんくわん。そしてやがて、消えてゆく。
反対側に回ると、紫陽花の渦。朝早く散歩に出たのだろう老人がベンチに座って、ゆったりと煙草をふかしている。煙は瞬く間に風に流され、それもまた、消えてゆく。
再び自転車に跨り、大通りを渡って高架下を潜り、埋立地へ。店に立ち寄り、一杯のカフェオレを買ってそのままさらに走る。
海は灰色と濃紺を混ぜ合わせたような色合いをしており。ざざん、と堤防に打ちつけてくる波。白く弾け、飛沫が散る。
十年前、私はこんな歳まで自分が生きているとは思っていなかった。まさかこんな歳になるまで。さっさと死んでいなくなるつもりでいた。それがどうだろう。私は今こうして、ここに立っている。
鴎が一羽、大きな翼を広げ、横切ってゆく。一瞬強い風が吹いて、鴎がくるり、方向を変えた。
さぁ今日もまた、一日が始まる。私は自転車に跨り、また走り出す。


2010年06月04日(金) 
起き上がり、窓を開ける。昨日よりずっとぬるい風が流れているのを感じる。東から伸びてくる陽光は明るく、街景を浮かび上がらせる。私は大きく伸びをして、それから空を見上げる。雲のほとんどない、すっきりとした空がそこに在る。街路樹の葉がさやさややと揺れているのが見える。烏も雀もいない。通りを往く人も車もない。しんしんとした、朝。ゆっくりと空を往く雲の欠片。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。こんなに毎日毎朝覗き込んだって、変化がありありと分かるわけではない。そんなことは分かっている。分かっているのだが、気になる。もし私がほんのちょっとの変化を見逃したせいで、駄目になってしまうとしたら。そう思うとやっぱり、こうして毎朝毎朝、覗き込んでしまう。
大きく伸びた葉はしんなりとしているが、その合間合間から出ている短い葉はぴんと天を向いて伸びており。これならまぁ大丈夫だろう。私はほっとする。ここに改めて挿してから新しい芽はまだ出ていないけれど、それでもこうしてちゃんと、干からびることもなく立っていてくれている。鼻を間近に近づけると、ほんのりラヴェンダーのあの香りが感じられる。そしてふと思い出す。母の庭のラヴェンダーの茂み。母はどんな思いで、あの茂みを毎日眺めているのだろう。母が苗を分けてやろうかと言ってくれたのが先日、でも、まだいいと断った。まだ私のプランターの中でこの子たちは生きている。この子たちが生きているうちに、他の子を貰いたくはない。この子たちの行く末を、しかと見届けなければ。そう思う。
病に冒されている方のパスカリは、それでも葉を必死に広げており。日の光を浴びようと、必死にその手を伸ばしており。ふと思う。人は時に自ら命を断つというのに、この、植物たちの真摯な生き方はどうだろう。確かに、自ら命を断つというのも、人に与えられた一つの術なのかもしれない。自分だってさんざんそういう位置に在った。だから、それについて語れるような言葉は私は持っていない。それでも。この植物たちの姿勢を見ていて思う。真っ直ぐに生に向き合うことの重さを、強く、思う。
もう一本のパスカリは、昨日のうちにまた一枚、葉を伸ばしてきた。赤い縁どりのある葉。私はその葉をじっと見つめる。今のところ病に冒されている様子はない。このまま元気に開いてくれればいい。私は祈るようにそう思う。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。新しい葉を少しずつ出し始めている。私はその裏側をそっと撫でる。撫でた指には何もついていない。大丈夫、裏側にも粉は噴いていない。そういえば、この樹の葉は、薔薇の葉らしさがあまりない。細めの葉で、ちょっとかくかくしている。花がかわいらしいのに対して、葉は少し固めの雰囲気がする。色も緑というより黄緑色っぽい。他の葉より乾いた色をしている。私はぐるり、その樹を見つめる。今のところ、花芽は何処にもなく。それもそうだろう、この間花が咲いたのが奇跡のようなものだ。いや、花が咲かずとも、一生懸命ここで生きていてくれれば、それで、いい。
ホワイトクリスマス。新芽は徐々に徐々に、赤から緑色に変化してきている。そういえばホワイトクリスマスは棘が少ない。隣のマリリン・モンローに比べたらないに等しいくらいだ。棘で武装する必要がない、とでもいうのだろうか。その潔い姿に、私は今朝も励まされる。
マリリン・モンローは今、あちこちに紅い芽を吹き出させており。まるであっちこっち擦り傷を負ったガキ大将のようで。昔赤チンをあっちこっちに塗りつけていた子がいたっけ。最近は赤チンなんてものを見なくなったが、あれは今もあるんだろうか。マリリン・モンローの棘にそっと触れてみる。古い棘に比べてずっとまだ柔らかいその棘。真紅に緑を少し混ぜたような色合い。
ベビーロマンティカは、私が花を切るために切り落としたところから次々、新芽を芽吹かせている。柔らかな色合い。軽く茹でたらインゲンのようにおいしく食べられそうな、そんな色味。
それができないなら、私はもう死ぬしかない、そう思えて仕方がないの。友人が言った。電話の向こう、かすれた声で。遠く西の町、住んでいる彼女の声は、電話を通しても今は遠く感じられる。
それができないなら、自分はもう死ぬしかない。あぁ、そういう感覚がかつて、私にも散々在った。思い出すと、胸が何故か、ちくちく痛む。
これができないなら自分は死ぬしかない、これがやれないなら自分は消えるしかない。自己否定感が強すぎると、どうしても、そういう思考回路が生まれる。はっきりいって、他人から見たら、何故それっぽっちのことで?というような、その程度のことで、回路が繋がってしまう。
私もかつて、そういう時期があった。確かに、あった。
でも何だろう、彼女に対して今私は、うんうん、そうだよね、とは言えなかった。だから私は言った。それは違うよね、と。
何かができない、何かをやれない、だから自分は消えなければならない、というのは、やっぱり違うんだ。それができないなら、今度は別の選択をすればいい。それだけのことなんだ。選択の余地は、まだまだ残っている。どんなときでも、選択の余地は、残っている。
ただ、その余地が、見えるかどうか、ちゃんと感じられるかどうか、なんだと思う。
こんなこと言っていいのかどうか分からないが。私が言える言葉であるのかどうか、はなはだ疑問だが。それでも、最近思う。生まれたからには生きなければならない、と。
生きるために、生き残るために、今何ができるのか。それをこそ、考えなければならない、と。
今の私は、そう思う。
死にかけたことが、何度かあった。数えるほどかもしれないが、それでもあった。自らそういうふうに仕掛けたことが何度かあった。だから、そんな私が言っても、何の足しにもならないかもしれない。それでも、それでも思うんだ。生まれたからには生きなければならない、と。それはもう、理屈なんて抜きに。
これができなければもう、死ぬしかない、死ぬしかない、死ぬしかないって、頭の中で連呼する誰かがいるんだ。もうそれに従うしかないって、そう思えてしまうんだ。彼女が言う。私はただ、それを聴いている。
ねぇ、でも、そんなことないよね? 私、生きてもいいんだよね? それを選択したからって、死ななければならないなんてこと、ないよね? 友のその言葉に、私は頷く。当たり前じゃん。生きてていいに決まってるじゃない。あなたは生きるために産まれてきたのだから。生き延びることを今は、考えていこうよ。生き延びるために、今日、明日、生き延びるためにできることを、していこうよ。

娘が帰って来た。二泊三日、体験学習はあっという間に彼女の中で過ぎていったに違いない。満足そうな顔がすべてを物語っているようで。そんな彼女が私に尋ねてくる。ねぇママ、寂しかった? はい? 私がいなくて、寂しかった? ははは、寝るときとかね、寂しかったよ。あぁいないなーと思って。へへへ。何? ううん、何でもない。
どうも私に秘密にしたいことがあれこれあるようで。だから私は敢えて、何も聴かない。彼女が話すことだけに、耳を傾ける。

「世界の変革は、「私自身」の全体の変革を通して為し遂げられるのです。というのは、いわゆる私の自我というものは、人間存在の全体の働きの産物であり、その一部に過ぎないからなのです。従って「私自身」の全体を変革するためには、自己認識がどうしても必要になってくるのです。あるがままのあなたを知らなければ、正しい思考の基盤がないのです。「あなた自身」を知らなければ、変革もありえないのです。私たちは、こうありたいと思っている自分ではなく、あるがままの自分を知らなければいけません。こうありたいと思っている自分とは、単なる理想であり、架空の非現実的なものなのです。変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです」

私は時々戸惑う。これまで親しんできたものたちが変化している様に、私は戸惑う。たとえば生きるということに対しての思い。たとえば親に対しての思い。たとえば自分自身に対しての思い。
戸惑って、だから、時折途方に暮れる。一体どちらが本当なのだろう、と。私は今、どちらを選択すればいいのだろう、と。どちらをこそ感じ取ればいいのだろう、と。
戸惑って、途方に暮れて、私は立ち止まる。立ち止まって、そのたび、自分を励ます。今、今この時、私が感じていることが、私の真実なのだ、と。
確かに、十五年前、私が感じていたこと。それもまた真実。その時の私の真実だ。もう死ぬしか術はない。自分なんて穢れている、これ以上ここに在てはならない。そういった感覚は、それはそれで真実だ。
でも、今感じていることもまた、真実。私は生きてゆくべきであり、生き残るべきであり、穢れてはいるかもしれないが、それでも生きてゆくべき存在であり。
そうやって私は何度も、戸惑うだろう。途方に暮れるんだろう。立ち止まり、泣くこともあるのかもしれない。それでも。
それでもやっぱり私は、生きていくんだと思う。

それじゃぁね、じゃぁね、気をつけてね。手を振って別れる、玄関前。私はそのまま階段を駆け下り、バス停へ。
バス停に立つと、陽光がこれでもかというほど燦々と降り注いでおり。上着を羽織ってきたが、ここにいるとそんなもの要らないようにさえ感じられる。
混みあうバスに乗り、駅へ。制服を着た小学生が、泣きそうな顔をしている。どうも忘れ物をしたらしい。友達が、僕のを貸してあげるよ、と一生懸命なだめている。
たとえばこうした光景ひとつとっても。私にとって、日常ではなかった。朝出掛ける、バスに乗る、電車に乗る、人とすれ違う、それらすべて、一時期の私にとって、日常ではなかった。部屋から一歩も出ることなどできず。どうしてもと外に出ると、世界がぐわんぐわんと歪んで揺れて、地べたは下にあるものではなく、いくらでも揺れ動く、頼りない恐ろしい存在だった。
だから感謝する。今、こうして、多少の緊張感や恐怖感はともなってはいても、それでも外に出て、風を感じ、呼吸をし、歩いてゆけることを、幸せだと思う。
バスからどっと流れ出る人。その人波にもまれつつ、私もバスを降りる。駅は大勢の人が行き交い。私はその間を縫って足早に歩いてゆく。

さぁ今日も一日が始まる。


2010年06月03日(木) 
がしがしと籠を噛む音が聴こえる。あの音はミルクだ。そう思いながら籠に近づく。やはりミルクが、籠の入り口のところ、がしがしと噛んでいた。おはようミルク。私は挨拶をする。娘が留守の三日目。いい加減彼女にもストレスが溜まっているだろう。娘がいればしょっちゅう籠から出してもらえて、遊んでもらえて。私はとりあえず、籠をちょんちょんと指で叩いてみる。後でちょっとなら出してあげるから、それまで待っててねと声を掛ける。
窓を開け、ベランダに出る。もうすでに外はずいぶんと明るい。朝の肌寒い冷気が私を一気に包み込む。ぶるりと体を震わせ、私は空を見上げる。すっきりと、雲のない空。水色の水彩絵の具をざっと広げたなら、きっとこんな色味になるんだろう。私は大きく伸びをする。軽やかな風が吹いている。旅先で買った柘植の櫛で、今朝も軽く髪を梳く。いい加減髪も伸びた。もう腰に届いている。切ろう切ろうと美容院に行くたび思いながら、ここまで伸ばしてしまった。ここまで来ると、一体何処まで伸びるものなのか、試してみたくなったりする。さて、今度多少なりとも切ろうかどうしようか。迷いながら、私は髪を一つに結わく。切るといったって、それは結局私の場合揃える程度のこと。それなら自分でもできないわけじゃぁない。今度髪を洗った後に、十センチくらい切ってみるのもいいかもしれない。
珍しく、灯りのついている窓がある。もう十分に外は明るいのに、それでも点っている。徹夜明けなのだろうか。そういえば冬の頃は、こうしてベランダに立って、今朝は幾つの窓の灯りが点っているのだろうと数えたものだった。
電線に今朝は、烏がとまっている。あの目線は、ゴミ集積場所に向いているはず。あぁ、そういえば今日はゴミの日。前夜からきっと出している人がいたのだろう。だからこうして烏が集まってきているのだ。私はベランダの手すりから身を乗り出し、下を見やる。やはり。もうすでに烏の嘴によって破かれたゴミ袋が、道路のあちこちに散乱している。烏はどうやって、このゴミの在り処を探ってくるのだろう。そのアンテナの張り具合、見習いたいほどだ。
しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗き込む。枝によっては、何枚か枯れてきた葉も在る。私はその葉をそっと指で摘む。今彼らは、土の中、どんな具合になっているのだろう。覗いてみたい。でも、今掻き出したら枯らしてしまうことになる。ただじっと待つしかない。水を吸い上げる力はまだ在るのだから、信じて待つしか、ない。
パスカリの一本の新葉が、うねっている。怪しいと思って目を凝らすと、どうも病に冒されている様子。私は大きく溜息をひとつつく。せっかくここまで開いてきたというのに、やはり病は去ってはいなかったということか。私は急いでもう一本のパスカリを見やる。こちらはまだ大丈夫そうだ。新しい葉はぴんと伸びている。同じ種類、同じ土、なのに病に冒されるもの、大丈夫なもの、何が違うんだろう。分からない。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の新葉を撫でる。裏側も丹念に撫でてみるが、以前のように粉っぽさはない。そろそろまた薬を撒いた方がいいかなと思っていたが、もう少し様子を見ても大丈夫かもしれない。
ホワイトクリスマスは、昨日のうちにまたくいと芽を伸ばしてきた。赤く染まる部分が多くなってきた。白緑色から赤い縁をともなった緑へ、そうして深い暗い緑色へ。この、途中に赤をともなう変化の具合を考えたのは一体誰なんだろう。不思議でならない。今ホワイトクリスマスの体の五箇所から、新芽が噴き出し始めている。そのうちの二箇所がすでに赤く染まっており。新芽は今、微かな風に晒されながら、なんだか気持ちよさそうに見える。このまま伸びると、左右のバランスが非常に悪くなるのは分かっている。でも、だからといって矯正するのもどうなんだろう。私が育てているのだから、そんなもの、必要はない。自由に伸びればいい。
マリリン・モンローの新しく根元から伸び出した枝葉。結構な太さだ。その太い枝に夥しい数の棘をつけている。青褪めた緑色に、赤い葉。開き始めた葉は最初、赤と青と緑を巧い具合に混ぜたような、そんな色味をしている。中でも赤が強い。だから、茂る葉の中で、誰が新芽なのか、一目瞭然だ。体のあちこちから噴き出させている赤い新芽。この中に花芽をつけるものもきっとあるんだろう。
ベビーロマンティカの、萌黄色の新芽は今朝も瑞々しく、艶々と輝きそこに在る。摘み頃の蕨を思わせるような柔らかさ。これが徐々に徐々に、逞しい強さをともなってゆく。風に晒され、日に晒され、時に晒され。そうして変化してゆく。まるで人間の肌のようだと思う。
友がぽつり、呟く。あなたはもうその境地まで至ったのだね、と。私はまだ、自分の母と自分の娘との間で葛藤している。母と娘があまりに似通っていて。それに圧倒されて。負の要素ばかりが襲い掛かってくる。正直しんどい、と。
しんどい、という言葉が、私の中で響く。とてもよく分かる気がした。私もしんどかった。自分の母と、自分と娘とが似ている。かつて虐待してきた母と似ている娘を、どう扱っていいのか、どう接したらいいのか、全く分からず、途方に暮れたことがあった。隣に眠る娘の匂いがあまりに母の匂いを髣髴させ、全く眠れずに夜を過ごしたこともあった。
じゃぁどうやって、そこから抜け出たのだろう。改めて考えてみる。
そこには、気づきがあった。
巧く言えないが。それまで私は、母と娘との共通点をどこかで探していたのかもしれない。一度見つけてしまった共通点を、どんどん広げるべく、次々探し出そうとしていたのかもしれない、と。そのことに、まず、気づいた。
母と娘、重なり合う像。それをそれぞれの像にすべく、だから私は、彼らの相違点を探すことにした。たとえばすごく些細なことかもしれないが、決して謝ることのない母、に対し、娘はごめんなさいという言葉を用いる。たとえば母は決して喜びを体で表現しようとはしないが、娘はする。
そんな、どうでもいいような、見過ごしてしまいそうな相違点を、ひとつずつ挙げていった。はっきりいって、負の要素のほうがずっとずっと大きく圧し掛かって見えてくる。でもその狭間で揺れている違いを、私はあえて数え上げた。それまで重なり合うしかなかった像を、私はそうして、引き離していった。
そして何よりも。当たり前のことなのかもしれないが、それでも。私と母の関係は私と母の関係であり、私と娘の関係は私と娘だけのものであり。決して重なり合うものではないということを、自分にくっきりと刻み込んだ。
関係は連鎖するものではない、ということを。
どうやったって似ている。血がどこかで繋がっているのだから、私は母の面影を娘の中にこれからも見出すのだろう。それでも、違うのだ。母は母、娘は娘。そして何より。
私は私。
途中何度も、引き裂かれそうな痛みを感じた。自分が分裂してしまうんじゃないかと思った。一体私は誰なのかと、問わずにはいられなくなる時間もあった。娘の中に母をどうしても見てしまうから、娘から目をそらしてしまうことも、在った。
それでも。
諦め切れなかった。私は、諦められなかった。
私は、愛したかった。
母を、娘を、それぞれに、愛したかった。だから、諦められなかった。
母との時間は、あまりに重くて。何度押し潰されそうになったか知れない。母のあの冷たい目、冷たい言葉、冷たい背中。様々な記憶が、津波のように何度も押し寄せた。もうあの位置には戻りたくない。悲鳴を上げそうになった。耳を塞いで、もう何もかもどうでもいいとしゃがみこんで目を閉じてしまいたくもなった。
でも。
どんなに目を閉じても、どんなに耳を塞いでも。現実は、そこに、在った。
私が過去の重荷にのた打ち回って、喘いで、そうして顔を上げると、そこには「今」の母と娘が立っていた。母はいつものように口を結び、娘はにっと笑って、そこに立っていた。
そう、「今」の母が、「今」の娘が、そこに在た。
私の過去がどうであっても。母と私の過去がどうであっても。過去は過去、変えようがなく。
あぁそうか、私に在るのは、「今」なのだ、と。私に変えてゆけるものがあるとしたら、それは唯一「今」なのだ、と。
ようやく気づいた。
失敗は、何度でもするんだろう。何度だって躓くんだろう。これからも。何度でも。それでも、「今」は、私に与えられた、唯一のものなのだ、と。
私は彼らとこれからも関係し続けてゆく。その彼らとの関係は、「今」なのだ、と。
そんな、当たり前のことに、ようやっと、目を据えることができた。
母と娘の像が、重なり合っていた像が、気づけば、それぞれに別れていた。二人は二人として、そこに在った。私の目の前に。
私は母と血が繋がっている。でも、全く別個の人間。私は娘と血が繋がっている。でも、全く別個の人間。三人とも、全く別個の、それぞれの、人間。
これからだって痛い思いはするんだろう。怪我もするだろう。心がぼろぼろになることもあるんだろう。泣き叫ばずにはいられない夜もあるかもしれない。それでも。
私は娘を愛し、母を愛し、そして二人を、慈しむ。

「この解答は、明らかに、この問題を生み出した当の人間にあるのです。つまり害毒や憎悪や、人間同士の間の測り知れない誤解を生みだしている私たちの中にあるのです。このような害毒や無数の問題を生み出しているのは、「あなた」や「私」という個人の方であって、普通私たちが考えているように、世界の方ではないのです。世界は「あなた」と「他の人」との関係であり、「あなた」や「私」と別の存在ではないのです。世界や社会は、私たちがお互いの間に樹立している、あるいは樹立しようとしている関係にほかならないのです。
 そこで問題は、「あなた」と「私」であって、世界が問題ではないのです。なぜかと言いますと、世界は私たちの姿が投影されたものなのですから、世界を理解するためには、私たち自身を理解しなければならないことになるのです。世界は私たちから独立した存在ではなく、私たちが世界そのものなのです。ですから私たちの問題は、そのまま世界の問題と言えるのです」
「人間は孤立しては生きられないのですから、それは世界から身を退くことではないのです。生きるということは、私たちがお互いに関係をもっていることであり、孤立して一人で生きることではないのです」「私たちの住む世界が、たとえどんなに小さなものであっても、私たちがその窮屈な世界の中でお互いの人間関係を変えることができるなら、この新しく生まれた人間関係は、ちょうど波が波紋を描くように、絶えず外へ外へと広がっていくことでしょう。ですから、私たちの住む世界がどれほど狭くても、その世界は私たちの人間関係にほかならないのだということ―――この点を十分理解しておくことが大切だと私は思います」

玄関を出ると光の洪水。私は階段を駆け下り、自転車に跨る。坂道を下り、通りを渡って公園へ。
池のある方とは逆の方へ行ってみる。あぁやはり。紫陽花がもう咲いている。水色の、雨の雫を紙に染み込ませたらこんな色になるんじゃなかろうかと思うような水色の、紫陽花。この公園のこちら側には、紫陽花が山ほど植わっている。これからしばらく、紫陽花は次々咲いて、このあたりを彩るんだろう。私はしばし時計柱の下に蹲る。そうして周りをぼんやり見やる。水色の花が帯のように見えてくる。ふと見れば、ブランコの周りに鳩が集っている。忙しげに何かを啄ばんでいる。木の実でもあるのだろうか。
公園の坂道を下り、大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏が立ち並ぶ通りを一気に走り、モミジフウの辺りへ。まだ行き交う人も疎ら。私はその中に立って、樹を見上げる。高い高い樹は見上げると、陽光を受けきらきらと輝いて見える。でも一方、幹の黒さはこれでもかというほど際立ち。光と陰の具合に私は圧倒される。
樹の足元に集っていた鳩が今一斉に飛び立った。
さぁ今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、走り出す。


2010年06月02日(水) 
今頃娘は何をしているのだろう。でーんと大の字になって、友達と一緒に眠っているのだろうか。そんなことを思いながら私は勢いよく窓を開ける。すっと冷気が私の体を包み込む。あんまりにもひんやりとしているから、今が六月だということを忘れてしまう。もう今年が始まって半年も経ったのか、と、改めて時の早さを思う。この半年の間に私は何を得、何を失ってきただろう。
風はさほど強くはなく。だから街路樹の葉も、そよよと揺れる程度。私は髪を後ろひとつに束ね、大きく伸びをする。陽光は明るく、東から伸びてきており。街景は濃い陰影を放っている。トタン屋根にちょうど朝陽が当たり、黄金色に輝いている。向こうの丘の上、団地はまだ、うっすらとした闇の中。通りを見下ろすと、ちょうど植木おじさんがポリタンクをひきずってやってきたところで。私は心の中小さくおはようございますと挨拶をする。おじさんは、街路樹ごとに立ち止まり、その根元に彼が植えた植木に水を遣ってゆく。他に人影は一切なく。車もまだ、行き交ってはいない。しんとしずまりかえった街。
私はしゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダー六本は、それぞれ思い思いにそこに立っており。葉をくてんとさせたものもいれば、ぴんと張っているものもあり。玄関側に置いていたときは、東からの陽光に毎朝晒されていたのが、ここに来て、南からと西からの陽光に晒されることになったわけだが、そういうのはどう彼らに影響しているんだろう。まだその違いが分からない。そろそろまた水を遣る頃かな、と、土の様子を眺めながら思う。今日帰宅して、土の表面が乾いているようなら、軽く水を遣ろうと決める。
デージーは小さな小さな芽をめいめい思い切り広げている。植え替えた後、倒れ伏すものもなく、今のところみな順調だ。これならこのままいけるかもしれない。再び母の、デージーは強いのよ、という言葉が心に甦る。そして、植木屋から、病気になって売り物にならなくなったような蘭を貰っては、再生させていた母の姿を思い出す。母の手にかかると、どんな弱い株も、再び花をつけるようになる。何年かかろうと、母は丹念に世話をし続ける、その姿を私は、間近で見てきた。正直、羨ましい、妬ましいと思うことさえあったくらいだ。そんなに植木に気持ちを傾けるなら、その分を私にまわしてほしい、本気でそう思っていた時期もあった。今思い出すと笑ってしまう。
ミミエデンは、新芽をくいくい広げており。その周りで、それぞれ挿し木したものたちも、新芽を湛えたり固く閉じていたり。同じように同じだけ愛情を注いでいるつもりなのに、こんなにも違いが生じる。何が違うんだろう、何が違ってしまったんだろう。省みても、それが分からない。
ホワイトクリスマスの新芽が、昨日あたりから、赤く染まり始めた。深緑色になる前に、どうも一瞬赤くなるらしい。不思議な変化の仕方だ。今までも見ていたはずなのに、今更そのことに気づいて、不思議になる。私はじっと見入る。葉の縁が一番赤が強く、内側にいくほど萌黄色。まだまだ柔らかく、もし爪を立てたりなどしたら、容易に切れてしまうんだろうと思う。それでもホワイトクリスマスは、気品を失うことなく、しんしんとそこに、在る。
マリリン・モンローの、足元からぐいと出てきた新芽は、にょきにょきと伸びてきている。立派な棘もしっかりついている。マリリン・モンローの棘は鋭いし数が多い。今新芽についている棘はまだ暗紅色で、見た目には柔らかそうに見えるが、触るとそれは、しっかりと痛みをともなう。そんなに武装しなくても、誰もあなたを苛めたりしないよ、と思うのだが、それでもマリリン・モンローは全身に棘を纏っている。
ベビーロマンティカはそんなマリリン・モンローの隣で、もちもちとした、柔らかな新芽を湛えており。それは本当にかわいらしい、瑞々しい新芽で。私が花を切り落とした、その後から、次から次に芽を噴き出させている。この中にまた、新たに花芽をつけるものもいるんだろうか。今まだそんな気配は微塵も見られないが、きっとまた、咲いてくれるんだろう、そう思う。
パスカリの新芽はもう殆ど赤味を失って、濃緑色に変化していっている。大きく元気に開いてきてくれている葉を、私はそっと指で撫でる。念のため、裏側も拭ってみる。大丈夫、今のところ裏も表も元気いっぱいだ。私はほっとする。
立ち上がり、通りを振り返ろうとすると、目の前の電線に小さな雀が二羽。きょときょとと首を回している。まだ子供なのだろうか。ずいぶんと体が小さい。ひっきりなしに体のどこかを動かしている雀たち。そして彼らは突然、飛び立ってゆく。
昨日は臨時授業だった。マイクロカウンセリングの、論理的帰結の実践授業だった。やりながら、私は、自分が患者として在ったときのことを、あれこれ思い出していた。こんな筋道だった、あまりに冷静なことを提示されたら。あの頃の私だったら、とてもじゃないが受け付けなかった。そんなこと分かっている、分かっているけれど困っているんだ、と、撥ねつけたに違いない。
練習を行いながら、そんな自分だからだろうか、つい、行動の帰結にではなく、その過程の気持ちの方に言葉をかけてしまいがちな自分がいることに気づいた。今は論理的帰結の練習の場なのだから、と自分に言い聞かせるのだが、ついつい違う方向に傾いてしまう。自分が患者だったら、自分がクライアントだったら。おのずとそういうふうに考えている自分が在る。
昨日グループを組んだメンバーは、私以外に自分が実際にクライアントになったことがある人はいなくて。だから、他の人だったらどうなのか、を知ることはできなかったけれども。確かに、ある程度クライアントの状態が落ち着いてきたなら、そういう提示もあるのだろうけれども、そうじゃないときに出すべき技法じゃぁないなぁと、私は感じた。出し方によっては、信頼関係が根本から崩れてしまいかねない。そう感じた。
ふと思った。父や母は、こうした思考回路が、とても強い人だったのかもしれないな、と。自分のメリット、デメリットを常に計算して、行動できる人だったんだろうな、と。そんな父母のもとで育った私だけれども、私にはそういう能力が大きく欠落している。そう思う。
私は父母の何を見ていたんだろう。そう思った瞬間、祖母の姿が浮かんだ。あぁ、そういえば祖母は、感情の人だった。気持ちが何より大事、という人だった。私はそんな祖母が大好きだった。歳を重ねるごとに私は、祖母に似ていると親戚から言われるようになったが、そういうところも含めての意味なのかもしれない。
母のかつての言葉を思い出す。私はそういうおばあちゃんがとても嫌だった、と。母はそう言っていた。あなたにとってはいいおばあちゃんかもしれないけれど、私にとっては大変な母だったわ、と。あの感情の塊のような人にどれほど振り回されたか、そのために私はどれほど犠牲になったか、母はつくづくとそう言っていた。そしてまた、ぽつり、羨ましいと思うことさえあるほど、しんどかったわ、と。そんな祖母に、あなたはよく似ている、と。そう言っていた。
私が中学二年生の二月末、祖母は癌で亡くなった。あの時のことは、今思い出しても涙が出てくる。私にとって祖母は太陽だった。私の支えだった。反りの合わない父母のもと、それでも私が子供で在れる場所は、祖母の周りだった。祖母がいるから、私は子供らしい一面を失わずにいることができた。それがとうとう、いなくなってしまった。いずれいなくなってしまうことは分かっていたけれど、こんなふうに、骸骨のように痩せ細って、何も言わずに逝ってしまうことなど、その時は考えてもみなかった。祖母をそんなふうにして奪った癌を、どれほど恨んだか知れない。あの時どれだけ、祖母の骨を一欠けらでもいい、食べてしまいたかったか。それもできず、私はただ泣いていた。
今なら思う。母は母で、若い頃から癌に冒され入退院を繰り返していた祖母のもと、苦労したのだな、と。そんな祖母のもとでだからこそ、母はああいうふうな人になっていったのだな、と。今なら、分かる。
そしてまた、きっとこう思ったはずだ。自分のようにはさせまい、と。母のことだから、きっとそう思ったはずだ。そう思いながら、私を育てたんだろう。それが、私が祖母にどんどん似ていく。その様子を見て、母はどんな気持ちを抱いただろう。複雑だったに違いない。
そして今また、母から見たら、放任極まりない私の子育てを見て、母はきっと、たまらない思いを抱いているに違いない。
母よ、ごめん。私はとうてい、あなたの思ってくれるようには行動できないらしい。別にあなたを傷つけようと思ってそうしているわけではないのだけれども、それでも私は、このようにしか行動できないらしい。母よ、ごめん。死ぬまでそうやって、私はあなたを、悲しませ続けるのかもしれない。
それでも母よ、私はあなたを愛している。とてもとても、あなたの願うとおりにはなれないけれども、私はあなたを、愛している。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。思いついて、生姜茶だけでなく、レモングラスとペパーミントのハーブティーも入れてみる。二つのマグカップを机に載せて、私はとりあえず朝の仕事を始める。
半分開け放した窓からは、風がすうすうと流れ込み、カーテンを揺らしてゆく。天気予報では、明日から夏日になると知らせている。過ごしやすい日和は今日で終わりだと、そう告げている。
空はぐんぐん明るくなってゆき。陽光は空のあちこちで弾けている。何処からか鳥の囀りが聴こえてくる。ステレオからは、Secret GardenのSigmaが流れ始めている。

「人生の意味は生きることです。私たちは本当に生きているでしょうか?」「私が人生の意味とは何なのかを決めるのは、自分の先入観、欲求、欲望に従ってなのです。つまり、私の欲望が目的を決めるのです。たしかに、それは人生の目的ではありません。どちらがより重要でしょう―――人生の目的を見つけることか、それとも精神それ自体をその条件付けと尋求から自由にすることか? たぶん精神がそれ自らの条件付けから自由になるとき、まさにその自由そのものが目的になるでしょう。なぜなら結局のところ、人が何らかの真理を発見できるのは自由の中でだけだからです。ですから、第一に必要なものは自由なのです」
「重要なのは人生のゴールが何かではありません。自分の混乱を、みじめさ、恐怖を、そして他のすべてを理解することです」
「生きることの意味を十全に理解するには、私たちは自分のこんぐらがった日々の苦しみを理解しなければなりません」
「人生とは関係です。人生とは関係の中における行為です。私が関係を理解しないとき、あるいは関係が混乱しているとき、そのときに私はより豊かな意味を求めるのです。なぜ私たちの人生はこうも空虚なのでしょう? 私たちはなぜこんなにも寂しく、欲求不満なのでしょう? それは私たちが自分自身を深く見つめたことが一度もなく、自分を理解したことがないからです。私たちは決して、この人生が私たちの知っていることばかりなのだとは自分に対して認めず、だから十分かつ完全に理解されるべきだとは認めないのです。私たちは自分自身から逃走することの方を好むので、それが関係から離れて人生の目的をたずね求めることの理由です。もしも私たちが、人々との、財産との、信念や考えとの自分の関係であるところの行為を理解し始めるなら、その時関係それ自体がそれ固有の報酬をもたらしてくれることに気づくでしょう。あなたは探し求める必要はないのです」
「私たちの人生がひどく空虚なのは、自分自身を超えた目的を求めるのは、私たちの精神が専門用語の類や迷信的な呟きでいっぱいになっているからであり、だからこそ私たちは自分自身を超えた目的を探し求めるのです。人生の目的を見出すには、私たちは自分自身のドアを通り抜けねばなりません。意識的にか無意識的にか、私たちはあるがままの事象に面と向き合うことを避けていて、だから神に彼方へのドアを自分のために開けてもらいたがるのです。人生の目的についてのこの質問は、愛さない人々によってのみなされるものです。愛は行為、関係である行為の中にのみ見出されます」

玄関を出て、階段を駆け下りる。自転車に跨り、坂を駆け下りる。通りを渡ると現れる公園。緑は鬱蒼と茂り、もはや東からの陽光をこちらには届かせないほど。池のほとりに立つと、その真上の、ぽっかり空いた茂みの窓から、陽光が燦々と降り注ぐ。向こう岸に千鳥が三羽、ちょこちょこと歩き回っている。何かを探しているような様子。もう子育てにの時期に入っているんだろうか。私は彼らを驚かさないように、そっと、足音を忍ばせてその場を後にする。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。真っ直ぐに伸びる銀杏の枝。小さな萌黄色の銀杏の葉はまさに枝に鈴なりで。耳を澄ましたら、しゃんしゃん、しゃららんと音が聴こえてきそうな気さえする。
信号を渡り、モミジフウの樹を横に見ながら、さらに走る。海と川とが繋がる場所。紺碧の海が向こうに広がっている。白い波飛沫が、あちこちで弾けている。
鴎が一羽、大きな羽を伸ばし、風にその体を預けている。巡視艇がゆっくりと動いてゆくのが見える。
さぁ今日も一日が始まる。私はまた、続く道を走り出す。


2010年06月01日(火) 
薄暗い部屋の中、起き上がる。窓を開けてベランダに出、空を見上げる。薄い雲がかかっている空。でも、曇りというわけでもない。雲がかかってはいるが、これもじきに晴れてくるのだろう、と私は勝手に思う。それにしても空気が冷たい。もう今日で六月になったというのに、この冷たさは何だろう。Tシャツ一枚ではどうにも寒くて、私は掛けてあったカーディガンを羽織る。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。六つの枝は、それぞれにそれぞれの容姿で立っている。水は今のところちゃんと足りているようだ。一度萎れかけたものも、今朝はそれなりの姿で立ってくれている。私はその枝にそっと指を伸ばす。この枝が根付いてくれるかどうかなんて、今、誰にも分からない。分からないけれど、いや、分からないからこそ、祈らずにはいられない。どうか育ってくれますように、と。
デージーの芽の方は順調で。今のところ枯れたものはいないようだ。植え替えたとき、根は、長いものでも、一センチなかった。本当に本当に僅かな根しかなかった。にもかかわらず、今、こうしてここに在る。
ベビーロマンティカから伸び出した新芽。萌黄色の新芽。くいくいと伸びてくる。瑞々しく、艶々と輝くその葉は、古い葉を上手に避けて、その合間から顔を出している。この中にいずれ、花芽をつけるものも在るんだろうか。在るといいな、なんてことを思う。そんな贅沢を言う前に、これらの芽が無事に枝葉を広げてくれることを祈るべきなのに。私はちょっと苦笑する。
マリリン・モンローの新芽は、ベビーロマンティカよりも伸びるのがさらに速くて。それはまさに、ぐいぐい、といった感じだ。昨日ちょっと青ざめて見えた枝は、今朝にはもう、深い緑色に変わっている。今のところ病葉は一枚も見られない。
ホワイトクリスマスの新芽、こちらは、今まさに葉を広げようとしているところで。マリリン・モンローたちよりもゆったりとしたその速度に、私は何となく目を細める。白緑色だった芽が、開くにつれて萌黄色、さらに緑色に変化してゆく。最後にはきっと、この、深い深い暗い緑色になるのだろう。今三箇所から同時に芽を広げ始めているところ。こんな時、樹の中はどんなふうになっているんだろう。どくどくと脈打っているんだろうか。芽を開かせるために、全身のエネルギーをそこに集中させているんだろうか。私はそっと指で新芽の先に触れてみる。ひんやりとした感触がそこに、在る。
桃色の、ぼんぼりのような花をつける樹も、久しぶりに新芽の塊を湛え始めた。どのくらいぶりだろう。もう思い出せないほど久しぶりだ。私は念のため、彼女の今在る葉の裏側を指で拭ってみる。多少の粉はつくものの、以前より格段にその粉の量は減ったと思う。このままこの粉もなくなってくれるといいのだけれども。
パスカリたちが広げ始めた葉は、思ったよりも大きくて。しかもそれは病気に冒されてはいず。よかった、本当によかった。次の新芽の塊も、目を凝らすと見てとれる。これならゆっくりであっても、ちゃんと芽を広げ続けてくれるんだろう。

なんとなく、憂鬱が私の中、居座っている。何が憂鬱の中は分からない。よく分からないけれども、どんよりとした何かが、そこに、在る。
それをしんどいと言ってしまうと、余計にしんどくなる気がする。だから極力、しんどいとは思わないようにしているのだが。でもやっぱり、しんどいのかもしれない。
ゆっくりと、蟻地獄に吸い込まれていくような。そんな感じなのだ。いっそのこと、ぼとん、と、穴に落ちてしまえば楽なのかもしれない。でもそれが、なかなか落ちない。落ちないで、ずぼずぼ、ずぶずぶと、砂の途中、喘いでいる。そんな感じだ。
生殺し、という言葉がふと浮かぶ。あぁ、そうなのかもしれない。何に対してそうなのかが今まだ分からないが。そんな感じだ。
私は耳を澄ます。じっとして、耳を澄ます。
これは何処から来ているんだろう。今の私の何に関係しているんだろう。問うてみる。何処からも誰からも、返事はなく。でも私は、さらに耳を澄ます。
あぁ、そういえば、この感覚は以前にも、味わったことがある。そのことを思い出す。被害に遭って、会社を休職して、そのあとそのまま私は辞めた。あれはちょうどこの時期だった。そう、まさにこの時期だった。
途方に暮れたんだ。一体これからどうすればいいというのだろう、と。行くあてもなく、何を為せばいいのかも分からず。闇雲に動いてみたりもしたけれど、そこでも挫け。そんなことを繰り返しているうちに、私はもう、自分には何処にも行き場がないように感じ始めた。こんな穢れた自分には、この世界に在ること自体が赦されていないんだ、そんなふうに考え始めた。あのことによって仕事も信頼も何もかもが奪われた。そう、奪われた、としか、その頃は思えなかった。
その頃、祖父が亡くなり。父も外国で仕事をしていた。部屋の中、もう何処にも行き場がないと思った時、ふと父の顔が浮かんだ。
そして父にファックスを送った。
これこれこういうことがあった、それで私は仕事を辞めざるを得なかった。今もう、どうしていいか分からない。そんなことを、つらつらと書いたような気がする。正直、正確なところは覚えていない。
翌日だったか、父から返事があった。まさか父から返事があるとは思わなかったから、吃驚したのを覚えている。
父のファックスには、確かこう書いてあった。過去に囚われるな。過ぎてしまったことはもう過ぎてしまったこと、これからのことを考えなさい。
その頃の私には、その言葉はきつかった。どうして過去に囚われないでいることができよう。あんなことがあったんだ、それなのに、囚われないでいるなんて、どうしてできようか。
でも。
今だから認める。私は、父のファックスを抱きしめて、あの時泣いたんだ。どうしてこんなこと言うんだろうと怒りながら、同時に、父から返事が在ったことに、嬉しくて、悲しくて、泣いたんだ。
それから後も、本当にいろいろなことがあった。父母と、一体何度、ぶつかり合っただろう。一切の連絡を絶った時期もあった。
あぁそうか、あの頃の、そうしたものたちが、今まだ私の中に残っているのだな、と、私は納得した。まだまだ解き解されないものが、私の中に残っているのだな、と。
今の私にできることは、何だろう。私は問うてみる。今私ができることは、何なんだろう。
今はそっとしておいて。突然、声が響いた。何処からだろう。辺りを見回したが、全く影は見えない。でも、確かに聴こえた。
そうか、まだ、そっとしておいてほしいのか。私は項垂れる。できることなら、何とかして、少しでも軽くしてやりたかったが。
私は、六月の空を見上げてみる。いつの間にか辺りは明るくなっており。東から伸びてきた陽光に、街は陰影をくっきりと浮かび上がらせており。
私はひとつ、溜息をつく。それでも私は、こうしたものを越えていくのだろう。いかなければならない。そう思いながら。

ねぇママ、友達がウザくなる時ってない? ん? なんかこう、突然、ウザくなる時。ない? ん、あるよ。ママもある? うん、ある。そういう時、ママはどうする? 自分と闘う。自分と闘うってどういう意味? 独りになれればいいけれど、そうじゃないときは、自分と闘う。自分を抑えるっていうか…なんだろう、巧く言えないけれども。なんかさ、今日思ったんだよね、どうしてこの人、こんなことばっかり言ってるんだろう、よく平気で私の前でそういうこと言えるなぁって。どんな話だったの? …言えない。そっか、言えないか、うん。言えないけど、そう思ったんだ。それであなたはどうしたの? ばれないように、笑ってた。そっか。でも、苦しかった。もういい加減黙ってよ、って思ってた。うんうん、そういうの、ある。なんかさ、人の気持ち考えないで、自分だけうきうきしてさ、もう大喜びしててさ、いい加減にしてよって思った。一緒に話してるなら、こっちの気持ちも多少は思いやってよ、って。そう思った。うんうん、ママもそういうこと、あるよ、うん。そっかぁ、大人になってもそういうことってあるんだぁ。そりゃぁあるよぉ。なんかさ、人って、ほんと、自分勝手だなって思う。自分のことしか考えてないんだよね。結局のところ。そうだねぇ、それは自分も含めて、そうなんだろうね。悲しいときってさ、悲しくても相手を思いやるようなところあるけど、嬉しいとさ、嬉しいが爆発して、もうそれだけになって、相手のこと、全然考えないよね。あー、うん、そういうところあるね、悲しいときより、嬉しいってときの方が、周りのことに気を使えない。そういうところ、確かにある。だからね、思った、嬉しいって思うときほど、友達のことちゃんと考えなくちゃだめだな、って。だってさ、私が嬉しくたって、相手が今嬉しいかどうか、全然分からないわけじゃん。うんうん。もしかしたら私は嬉しいかもしれないけど、相手はとんでもなく悲しいかもしれないわけで。うんうん。だからね、思った。相手が今どんな状態なのかって、分かる範囲でいいから、見ておかなくちゃって。そうだねぇ。うんうん。難しいよね、そういうことを見極めるのって。うん、難しいね。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。今日は臨時の授業があるから、その授業に持っていく水筒分も、お茶を入れておく。
今日から林間学校に出掛ける娘が、その前に、と、ココアやゴロと戯れている。ミルクは一緒に籠から出すと、相手を噛んでしまうところがあるのだけれども、ココアとゴロは何故か、噛み合ったりしない。ふと思う。ミルクは結構弱虫なのかもしれない。自分が攻撃される前に、相手を攻撃して確かめようとしてしまうところがあるのかもしれない。
朝の仕事を早めに切り上げ、娘のお弁当を作る。荷物にならないよう、食べたらぽいと包みを棄てられるよう、サンドウィッチにする。卵と胡瓜のサンドウィッチと、ハムと胡瓜とトマトのサンドウィッチ。その間に娘は、昆布入りおにぎりを、はぐはぐと食べている。

じゃぁね、それじゃぁね。帰ってくるの何時だっけ? えっとね、三時。分かった。気をつけていっておいでね。うん!
手を振って別れる。娘は学校へ。私はバス停へ。
バス停に立つと、ちょうど朝の陽光が燦々と降り注いでおり。私はその陽射しに手を翳しながら、もう一度空を見上げる。
私の足元は、まだまだ不安定だ。どうしようもなく不安定だ。それを思うと、不安になる。この先もこうして生活していけるのか、そのこと自体に不安になる。
やって来たバスに乗り、駅へ。つり革に掴まり、ただじっと、駅に着くのを待つ。
川を渡るところで立ち止まる。川に降り注ぐ陽光で、水面はきらきらと輝いており。私は再びその光に手を翳す。
どんなときであっても、流れを止めることなく、この川のように朗々と、流れ続けてゆけたらいい。
さぁ、今日も一日が始まる。私は橋を渡り、真っ直ぐに歩き出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

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