見つめる日々

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2010年02月28日(日) 
冷たい雨が窓を叩く。アスファルトを叩く。街路樹を叩く。窓を開けて私はその様を見つめる。手を伸ばすと、雨粒がぱらぱらと私の手の上に落ちてくる。しとしとではない、ぱらぱら、だ。湿気が充分にあるはずなのに、どこか冬の雨というのは乾いて見える。何故なんだろう。
ゴロがまた前足を上げてこちらを見上げている。おはようゴロ。私は声を掛ける。おはようおはよう、繰り返し言ってみる。彼女はちょっと首を傾げ、それから小屋の入り口にぺったりはりついて、こちらをずっと見上げている。
お湯を沸かそうとしたところで、テーブルの上が適当に散らかっていることを思い出す。昨日は夜遅くまで友人とおしゃべりしていたのだった。椅子の端には彼女と開いた本がそのまま置いてある。そうそう、この本を広げて眺めたのだったと思い出す。それは絵本なのだけれども、手紙がたくさんの頁に挟まっているといった具合の絵本で。読み手はそれをひとつひとつ広げながら、笑ったりほろりとしたりするといった代物。私の好きな絵本のひとつ。空になったワインの瓶が、ちょっと寂しげに、しんとしてそこに在る。
私はテーブルをすぐに片付けようか、それともお湯を沸かすか一瞬迷う。普通ならここで片付けるのかもしれない。が、私はしばらくそのままにしておくことにする。カップだけ流し台に置いて、その他はそのままに。
ゴロがなんだかばたばたしている。私は彼女にどうしたのと声を掛ける。昨日娘がいなかったから、どうもスキンシップが足りていないらしい。出して出してといった仕草。私は彼女を肩に乗せ、そうしてお茶を入れる。

友人が娘さんを連れてやって来た。彼女と会うのは、病院で出会ったことを含めると三度目になる。伸ばしていた髪の毛を短く切った娘さんは、大きな目をくりくりさせながら、ずっと携帯電話をいじっている。
娘さんと話していて、彼女にとってお母さんという存在がどれほど大きいものなのかを改めて思い知らされる。自分のことをどれほど削っても惜しくないほど、母親は大きいのだ。そこには彼女の生い立ちが大きく影響しているのだろう。一見クールに見えるのかもしれないが、それは全く違う、とてもどくどくしたものを内側に持っている。私にはそう感じられた。自分でもそれが分かっているから、どうしたらいいのか分からないのかもしれない。私が開いていたノートの中から、彼女は共依存症と構造分析のところをコピーして帰っていった。
私たちはご飯を食べながら、おしゃべりを続ける。彼女は前髪を後ろ髪と同じ長さに伸ばしていつも垂らしている。ちょっと癖のある髪が、彼女のうなじあたりにふるりんと絡み付いている。小さめの目と口が、ちょこんちょこんと白い顔を彩る。薄い唇が、ゆったりと、動き続けている。
幼い頃から、集団生活に馴染めなかった自分がいたと彼女は話す。病弱だったこともあり、なおさらひとりで過ごすことが多かった、と。自分がしてほしかったことを子供たちにはしてやりたいと思いながら、いろいろな事情で充分にはそれが叶わなかった。だからこそ今、またここからだと自分を奮い立たせている。奮い立たせているといっても、それは劇的なものではなく、淡々とした、とても淡々とした中でのものであり。でもだからこそ、彼女の思いが強いことが伝わってくる。
私たちは話し続けている。時折笑ったりおどけたりしながら、話し続けている。それでも何だろう、お互いの領分を分かった上で話しているから、侵入感がない。それが心地よい。

「心理的な領域であなた自身について学ぶことはつねに現在にある」「学ぶことが過去ぬきのたえまない運動である」「何かを理解するには、あなたはそれと共に生きなければなりません。それを観察し、その中身、その性質、その構造、その運動すべてを知らなければなりません。あなたは自分自身と共に生きてみたことがありますか? もしそうなら、あなたは自分自身が固定したものではないことを、それがフレッシュな生きたものであることを理解するのでしょう。そして生きたものと共に生きるためには、あなたの精神もまた活き活きとしていなければならないのです。そして精神が生きたものであるためには、それは違憲や判断、価値観にとらわれてはならないのです」「何かをただ見ることは、この世で最も難しいことの一つです。私たちの精神は非常に複雑なので、簡素さをなくしてしまったのです」「どんな歪曲もなしに現実にあるものとして自分自身を見ることができる簡素さ―――自分が嘘をついているときは嘘をついていると言い、それを取り繕ったりそれから逃げ出したりしないことです」「自分自身を理解するためには、また、私たちは大きな謙虚さを必要とします」「あなたが特定の足場をもたず、そこに確実なものは何もなく、何の達成もないなら、見る自由、行なう自由があるのです。そして自由をもって見るとき、それはつねに新しいのです」
「木に触れるには、あなたは手をその上に置かなければなりません。そして言葉はあなたがそれと接触する助けにはならないのです」「私たちが目の前の現実から逃げ出すのはなぜでしょう?」「事実は依然としてそこにあるのです。事実を理解するには、私たちはそれを見なければならず、それから逃げ出してはならないのです。私たちの大部分は死ぬことと同様、生きることを恐れています」「単純な事実は、私たちが恐れているということです」「あなたが事実と向き合えるのは今だけです」
「〔なぜ行動しないのかという〕その理由は、あなたが見ないからです」「あなたが行動するのは、あなたがその条件付けを見て、かつ、断崖を前にしたときのようにその危険性をその場で見るときだけなのです。ですから見ることが行動することなのです」「あなたが自分の条件付けに全体的な注意を向けた瞬間、あなたは過去から完全に自由になることを、条件付けが自然にあなたから脱落するのを見るのです」

娘に電話をする。楽しそうに今日あったことを話す娘の声に、私はただ耳を傾ける。そして娘が言う、ママ、今誰起きてる? 誰って? 生ハムだよ、生ハム! あ、今誰も起きてないよ。さっきゴロがちょこちょこしてたけど、すぐ家に入っちゃった。なーんだ、あ、ママまた、抱っこしたりしてあげてないんでしょ! あ、うん。うんちされるのがいやだし噛まれるのもいやだし。全くもう、ママはいっつもそうなんだから! 構ってあげないとだめなんだよ。じゃ、あなたが帰ってきたらね。全くもうっ、頼りにならないんだからっ!
ひとしきりおしゃべりし、私たちは電話を切る。明日には娘も帰ってくる。それまでの間に私はやれることをやっておかなければ。ひとりだからこそできることを、やりたいことをやっておかなければ。

友人は白ワインを、私は梅酒をちびちび飲みながら、言葉を交わし続けている。彼女が、もう少し、精神的に強く逞しくなれたらと思うと話す。娘たちが存分に自身の弱い部分を自分に曝け出してくれるくらいに、強くなれたら、と。
でも。私が彼女と再会してから。彼女はずいぶん逞しくなったと私は思う。会った当初は、ちょっと強く触れたらすぐ倒れてしまいそうな雰囲気があった。それが今はずいぶん変化してきている。それはこれまでの彼女の時間からしたら、劇的な変化だろう。何より変化したのは、きっと、ノーという意思表示ができるようになったことかもしれない。それは拒絶とは違う。今自分にはできないことをできないと正直に表現する、ということだ。自分が倒れたら、元も子もない。だから、今自分に可能なことは何かを見極めること、だ。
誰かを大切に思うことは、自分を大切にすることでもある。自分をないがしろにしたまま、誰かを大切にすることなど、できやしない。

雨粒がだんだん大きく強くなってきている。その中を、バス停へ走る。ほどなくやってきたバスに乗り、駅へ。
歩き出すと、海と川とが繋がる場所で、鴎に出会う。こんな雨の中でも飛んでいるのかと、私は立ち止まり、鴎を見つめる。白い体躯が灰色の空の中、鮮やかに浮かび上がっている。それはまるで一筋の光のようで。その美しさに、私は目を奪われる。
昨日、少し離れた街に住む友人からメールが届いていた。私も今を頑張ります、そしていつか強く優しい人になれたら、と、そこには記されていた。強く優しい人。そんな人になれたらいいと思う。私はまだまだだ。強くもなければ優しくもない。いつもいろんな人に支えられてきた。今もそう。そうして何とか生きている、ちっぽけな存在に過ぎない。
でもちっぽけと分かっているなら、そこからまた始めることもできるんだろう。今は自分をそう励まして、踏ん張ることにする。
信号が青に変わった。私はまた、一歩を踏み出す。


2010年02月27日(土) 
午前五時。腰を庇いながら起き上がる。どうもこの、起きぬけの時に痛みが出るらしい。起きて顔を洗って、お茶を飲み始める頃になると痛みはすっと消えてゆくのだが。あの時痛めた腰が何か訴えているんだろうか。でも私にはそれが何を訴えようとしているのか分からない。近いうちにあの診療所へ行こうか。そう思い出してもう何ヶ月放置しているんだろう。気軽に通うには今住む場所からあの場所はちょっと遠い。
ゴロが早速こちらを窺っている。おはようゴロ。私は声を掛ける。掛けるのだが、しゃがみこむのはちょっと腰に辛く、立ったまま。彼女は餌箱の中にでんと座り、こちらを見上げているという具合。ご飯を食べているわけではないのだが、そこが今は居心地がいいらしい。てん、と、お尻をついて、こちらを見上げている。私は膝を曲げて、彼女の頭をちょこっとだけ撫でる。
お湯を沸かし、お茶を入れる。今日も生姜茶。いつもの香りが私の鼻をくすぐる。もし私がもっと匂いに敏感であったら、もっともっと香りを嗅いでいられるだろうにと思うと少し寂しい。
昨日のうちにご飯を炊いておいた。私はそれで塩むすびを作る。娘の朝ごはん用と、保存用。ごりごりとした粒のはっきりしている塩をささっとかけて、ご飯を混ぜる。そこに梅干をひとつ挟んで握ってゆく。冷たい手が瞬く間に赤く染まってゆく。熱い熱い、そう思いながらもぎゅっぎゅっと握る。
窓を開けるとやはり外は雨。結構な勢いで降っている。天気予報は雨のち曇りとなっているけれども、さて、どうだろう。果たして夕方には止むんだろうか、この雨は。私は空を見上げながら思う。ベランダの柵に沿って並べてあるプランター、イフェイオンやムスカリが植わっている。みな雨に向かって両手を広げ、一身に雨を浴びている。さぞかし気持ちがいいだろうなと思う。昔、豪雨の中、傘もささずに飛び出していったことがあった。全身ぐしょぐしょに濡れるわけなのだが、それが何とも気持ちよかった。すべてを洗い流してもらえるような、そんな感触だった。心の中まで洗い流される、そんな感じで。もちろん家に戻って母に叱られたのだけれど、それでも、あの気持ちよさは消えなかった。
風があるからか、窓際に並べたプランターにも雨粒がいくつか飛んできている。病気を気にして土を乾かし気味にしていたのだが、まぁ今日くらいいいだろう。艶のある少し固めの葉をもつマリリン・モンローなどは、嬉しそうに葉を広げている。雨粒がぱんぱんと小さな音を立てて弾かれてゆく。

授業の日。交流分析の中の交流パターン分析を学ぶ。ストロークがいかに必要であるかは自分の体験からつくづく感じている。ストロークの法則を読みながら、本当にそうだと頷く。相補交流、交叉交流、裏面交流についても学ぶ。もしかしたら日本人というのは裏面交流がとても多くあるのかもしれないと感じる。言葉の裏から仄めかす、というような。学びながら、今朝交わした娘との会話はこの中のどの交流に当てはまるのだろうなどと考えてみる。しかし。
そもそも、構造分析で学んだはずの、自我状態のそれぞれの特徴がまだ掴みきれていないせいか、細かい部分が分かりきれない。自分の勉強不足をつくづく呪いたくなる。ひとつひとつをきちんと踏んでいかないと、後で絶対後悔することになることが分かっているというのに。舌打ちしたくなって、あぁこれは非言語的ストロークの否定的な部分だなと気づき、苦笑する。こんなふうにひとつひとつ追っていったら、心がどうかしそうな気がするが、これもまた勉強のうち、と自分に納得させる。
自分が選んでしている勉強だ、悔いの残らぬようやらなければ。
そしてふと思う。我が家にはストロークは溢れているだろうか。弟が昔言っていた。親にされてもっともいやだったこと、それは無視されることだ、同じことを自分の子供にだけはしたくない。本当にそうだ。それだけはしたくない。
私は彼女のストロークを無視したりしていやしないだろうか。ないがしろにしていやしないだろうか。それが一番、気にかかる。

「あなたはあなた自身の教師となり、弟子とならねばなりません。あなたは人が価値ある、必要なものとして受け容れてきたものすべてを問い直さなければならないのです」「誰か従う相手がいないとき、あなたはとても孤独だと感じます。そのときは孤独でいなさい。なぜあなたは独りになることを恐れるのでしょう? それはあなたがあるがままの自分と向き合って、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪悪感にまみれ、不安な―――ちっぽけで卑しい、二番煎じの存在であることを見出すからです。その事実と向き合いなさい。あなたが逃げ出すとたん、恐怖が始まるのです」「自分自身を究明するとき、私たちは自分を外部の世界から孤立させているのではありません。それは不健康なプロセスではないのです。人は世界中で私たちと同じ日常の問題に捕らえられています。ですから、自分自身を究明するとき、私たちは少しも神経症的になっているわけではないのです。なぜなら、個人的なものと集合的なものとの間に違いは何もないからです。それは事実です。私は自分と似た世界を創ってきたのです。ですから部分と全体との間の戦いの中で迷ってしまわないようにしましょう」「私は個人の意識であると共に社会の意識でもある、私自身のセルフの全フィールドに気づかなければなりません」「私は関係の中でだけ、自分自身を観察することができます。なぜなら、すべての生は関係だからです」「私は自分だけでは存在できません。私は人々との、事物、思想との関係だけで存在します。そして内的な事物との関係だけでなく、外的な事物や人々との自分の関係を調べることを通じて、私は自分自身を理解し始めるのです」「私は抽象的な存在ではありません。それゆえ私は自分を現実の中で―――私がかくあれかしと願う自分ではなく、現実にあるそのままの私を―――究明しなければならないのです」

帰宅した娘は、一番にテレビをつけた。そしてフィギュアスケートの結果を私に尋ねてくる。これこれこうだったらしいよと告げると、途端に表情が暗くなる。途中からジャンプが乱れてしんどそうだったよと私が話すと、余計に顔が暗くなる。そして、こんなことを言う。やっぱりさぁ、みんながみんな、あの子に金、金って言うから、銀メダルとれたというのに泣けてきちゃうんじゃないの? うーん、それはどうなんだろう、確かに、みんなが金金って言うからっていうのもなかったわけじゃないだろうけれども、それより、ママには、自分で納得のいく演技ができなかった、っていうところで泣いているように見えたよ。ほんと? そうなの? うん、ママにはそう見えた。あぁよかった。ん? なんで? だってさぁ、なんかさぁ、人の言うことって無責任じゃん? うん、そうだね、私は笑う。で? 無責任な人の言い分に付き合ってたら、人生生きていけないじゃん。ははは、そうだね。あの子、日本の人たちの期待に押し潰されちゃって生きていけなくなるんじゃないかって思えたの。だからね、心配だったの。なるほどぉ、そうかぁ。でも、もし、自分で自分に納得できなかった、っていうところで泣いてるなら、よかったよ。そう? うん、なんか救われる。そっかぁ。
でもさ、銀って、なんか白くて、メダルって感じがしないよね。え?! 金と銅の方が、価値あるって感じがする! はっはっは。そうなのかぁ。ママは銀色って好きなんだけどな。ええ? そうなの?
そうして娘は出掛けていった。空は曇り空、どんよりとした曇り空。夕焼けも何も、見えない。

母と電話で話しながら、私は母や父と、どういう交流をもってきたのだろうと改めて考える。いつもどこかすれ違いだった。いつでも父や母の言うことは正論で、威圧的で、鋭く私に刺さった。私はもっと父や母とじゃれあいたかった。何ともないところで笑い合いたかった。でもそれは、叶わなかった。
それが辛くて、寂しくて、私は自然、ひとり遊びを覚えた。幻の家族の中で、それぞれの役柄を演じて過ごしたりしたこともあった。そして父母を演じるとき、時折涙が出たことを思い出す。
私はやりとりに飢えていた。あたたかいやりとりにいつでも飢えていた。だから、否定的なものにさえ縋った。その結果、自分をずいぶん貶めた。近づいてはいけない相手にまで近づいて、必死に尾を振った。それによってさらにずたぼろになる危険性が見えていても、なお。
そしてふと思う。私にとってのリストカットは、私と私のやりとりだったのかもしれない、と。私が私を確認し、その応えとして血が流れると安心する、そこに在る、ちゃんと生きてる、まだ生きてる、そのことを確認しほっとする、というような。
そのようにしか自己確認をできなかったあの時期の私に、今は苦笑できる。そのせいでどれほど多くの他者を失ったか。それも分かる。それでも止まなかった、私自身が生きていることをそうやって確かめるしか私には術がなかった、そのことも、分かる。
今ここにこうして生き延びてあることは、ああしたことたちの結果なのだ、とも。

じゃぁね、それじゃぁね、あ、ママ、メール頂戴ね! うん、分かった、メールするね。早く迎えに来てね。了解!
そう言って手を振り合って別れる。彼女は電車の方へ、私は雨の中へ。
雨の中、多くの人が働いている。この埋立地。建設中の建物たちのために多くの人が。雨に濡れながら。私はその脇をすり抜けて、歩く。
交差点、空を見上げる。迫ってくる灰色の雲、空一面を覆い隠し。私は手を伸ばしてみる。届かないと分かっていながら。
さぁ今日がまた、始まってゆく。


2010年02月26日(金) 
目を覚ます。午前五時。起き上がり、ハムスターの籠を覗く。ゴロはいつものように起きている。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女はその声や私の気配に反応して、すぐ籠の入り口に近づいてくる。頭のところだけちょこちょこと撫でてやる。そしてまた後でねと詫びる。私はそうしてココアの籠を見つめる。怪我はしていないか、情緒不安定になっていやしないか、それが心配だったが、彼女はぐっすり眠っているようだ。その隣の籠、起き出したミルクががっしと籠の入り口のところに齧りついてアピールしている。おはようミルク。でも籠を開けると彼女の場合飛び出してくるので、今はちょっと止めておく。
顔を洗い、鏡を覗く。私が鏡を覗く時間で一番長いのは多分、この朝の時間だけだ。といっても、一分もない。洗い立ての顔をただじっと見つめるだけだ。先日友人に会った折、友人が折々に鏡を覗いているのを見て感心した。私は手鏡という小物は好きなのだが、それを覗き込むということがない。持っているだけで終わってしまう。これじゃいかんなと思った次第。
お湯を沸かしながらテーブルを見やる。もうテーブルに残っているのは、名前を忘れてしまった、鞠のような形をした小さな小さな赤い花とレースフラワーだけ。ちょっと寂しい。かといって、自分で買ってくるのもこれもまたちょっと今は寂しい。
そう、昨日帰宅したら、ガーベラがくたりと萎れていたのだ。あぁ、寿命を全うしたのだな、と思った。そして、自然、ありがとう、と言っていた。萎れたガーベラは、まさに首がかくんと折れ、項垂れている。そんな項垂れる必要はないんだよ、君は一生懸命、今日というこの日まで咲き続けてくれたのだから、と声を掛ける。ありがとうありがとう、長いことありがとう、そう声を掛けながら、ビニールに包む。
今朝もまた生姜茶を入れる。入れた途端にふわりと香る生姜の匂いが、たまらなく好きだ。それでいながら、刺激は決して強くなく、ほのかに甘い味のするこのお茶。私はマグカップを両手で包み込みながら机へ運ぶ。半分開けた窓からは、ぬるい風が吹き込んでくる。今日は天気予報の通り雨がふるのだな、と、この湿気に思う。カップから立ち上る湯気が、ゆっくりと窓の外へ流れ出してゆく。

友人を待ちながら窓の外を眺めていると、濃い霧が辺りを覆っていくのに出会った。それはもう濃密な霧で。ここは本当にこの街なのかと思うほどに濃い霧で。私は呆然と立ち尽くした。一メートル先も定かではなくなった世界を私は見つめた。昔菅平でこういう光景はよく出会ったけれども、まさかこの街で出会うとは。思ってもみなかった。呆気にとられながら、私はただ見つめていた。
それは昼過ぎまで残り。そしてやがて、おのずと消えていった。露になってゆく街景。まるで一時の夢のように。

このところの生活の著しい変化に少し疲れているかのような友人は、ゆっくりと珈琲を飲んでいる。明日役所での審議があるのだという。それはもしかしたら初のケースになるかもしれないことで、だから彼女も緊張しているのだろう、疲れた顔が微妙に強張っている。そんな彼女の顔を見ながら、私もカフェオレを飲んでいる。
最近拒否することができるようになったよ、と彼女が話し出す。これまで、人に対してノーが言えなくていたけれども、最近言えるようになってきた、と。
私もそうなのだが、人と相対していると、つい、ノーが言えなくなっている自分に気づくことがある。そして気づいたときには、もう断りようがないところまで来ているというのが常だったりする。でも、それは多分違うのだ。断ることは悪いのではなく、断ることは必要なことなのだ、と、ここ何年かでようやく納得することができるようになってきた。意思表示をしっかり示すことは、決して悪いことではないのだ、と。
拒絶してはいけない、というような考えが何処かにあった。頭の何処かにそういう思い込みがあった。小さい頃からの習慣で、ノーと言うことはいけないことなのだ、と思い込んでしまっていた。
でもそうやって無理を重ねられるのには限度がある。限度を越えたら、自分が倒れる。自分が倒れたらどうなるか。今はそのことを思う。
自分が倒れたら、自分の大切な人たちを悲しませることになる。そういう事態が起こってしまう。それなら。最初に意思表示するべきなのだ。きっと。
そんな単純なことが、ずっとできなかった。できないできた。だから、できるようになって、すとんと体が軽くなった。
友人が話を続けている。あの人には昔本当に世話になったから、だからお返ししなくちゃと思う。そう話した彼女の言葉に私は引っかかる。かつての私がそこに在た。だから私は、彼女に話してみる。
確かに、かつてお世話になったことはなったんだろう、でもそれはその人の意思でしたことであって、それ以外の何者でもなくて、だからそれをその人に直接返さなくちゃいけないっていうのはどうなんだろう。私は言われたことがあるのだけれども、自分に返す必要はない、むしろ、今君の周りにいて、君の手が必要な人たちに返していけばいい、って。そう言われたことがあるよ。
私はそれを言われたとき、はっと目が覚める思いがしたのだ。それまで、これだけ世話になってきたのだから、これだけやってもらってきたのだから、この人たちにちゃんとお返ししなくちゃいけないと必死に思ってきた。でもそれは多分私にとってすごく負担にもなっていた。でも。
そうじゃないんだな、とその時そう言われて気づいた。そうじゃなくていいんだな、と。気づいた。私は彼らにしてもらったことにありがとうと思う、そう思うなら、思うからこそ、今私の周りで私の手を必要としてくれている人たちに返していけばいいのだ、と。そうやって続いていくのだ、回っていくのだ、と。
ジャスミン茶、プーアル茶、黒豆ほうじ茶、ライチ紅茶。私たちは次々お茶を飲みながら話し続ける。

「あらゆる種類の恐怖を投げ捨てることからやってくるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギーが劇的な内部の革命をひきおこすのです。あなたはそれについて何もする必要はないのです」「それであなたは一人取り残されることになるのですが、それがこのすべてに対して非常に真剣になるときの人の実際の状態なのです。そしてもう助けを求めて他の人やものに頼ろうとしていないので、あなたは自由に発見できるようになっているのです。そして自由があるとき、そこにはエネルギーがあります。自由があるとき、それは何も間違ったことはなしえないのです。自由は反抗とは全く異なったものです。自由があるとき、行ないが正しいとか間違っているとかの問題はありません。あなたは自由であり、その中心から行動するのです。そしてここに恐怖はなく、恐怖をもたない精神は大きな愛の能力を持ちます。そして愛があるとき、それはしたいことができるのです」
「私たちが今しようとしていることは、従って、自分自身について学ぶことです」「自分自身を理解するには、昨日の権威も千年前の権威も必要ではありません。なぜなら、私たちは生きた存在で、つねに動き、流れ、決して休止することはないからです。自分自身を昨日の死んだ権威に照らして見るとき、私たちはその生きた運動と、その運動がもつ美と質を理解しそこねるのです」「あなた自身のものであると他のものであるとを問わず、すべての権威から自由になることは、昨日のすべてに向かって死ぬことです。そうしてこそあなたの精神はつねに新鮮で、若々しく、無垢で、活力と情熱に満ちていられるのです。人が学び、観察するのは、その状態においてのみです。そしてこのためには、大きな気づきが、あなた自身の内部で進行していることについての実際的な気づきが必要となります―――それを正したり、こうあるべきだとか、あるべきでないとか言うことなしに」「自分自身についてあなたが知っていることすべてを忘れなさい。自分についてあれこれ考えてきたことのすべてを忘れ、あたかも何一つ知らないかのようにして、出発するのです」「昨日の思い出すべてを背後に置き去りにして、一緒に旅に出ようではありませんか―――そうして私たちは今初めて自分自身を理解し始めるのです」

ママ、ココアがいない! そう娘が叫んだ夕暮れ。何故いないんだと聴くと、ちょっとテーブルに乗せたまま勉強をしていたら、その隙にココアが何処かへ行ってしまったらしい。娘はもう、泣き出している。泣き出しながら、ありとあらゆるものをひっくり返し始めている。
それを見て、私は逆に落ち着いた。さて、何処を探そう。ここでいなくなったのだから、この辺りか。適当に辺りをつけ、ココアを探してみる。いない。ここにはいない。じゃぁ何処だ。と、ふとカーテンの裾を見れば、ココアがそこにくっついている。いたよ! 私は娘に声を掛ける。もう顔がぐちゃぐちゃだ。私は棚をどかし、カーテンの裾をひっぱり上げ、ココアに手を伸ばす。が、もう少しのところで届かない。仕方ない、机の後ろに回りこむか、と思っていたら、ちょうどそこにココアがやってきた。私は彼女の背中を摘み上げる。
しばらく娘の泣くのは止まらなかった。彼女は泣いた。さめざめと泣いた。この世が終わるかというほど泣いていた。多分彼女がここまで泣くのは初めてだと思う。私はそれをただじっと見つめていた。
ようやく泣き終えた娘は、抱きしめていたココアを籠に戻し、私のところへやってきた。ごめんなさい。彼女はそう言った。何がごめんなさいなの? ココア見てなくてごめんなさい。そうじゃないでしょ、ココアをそこに乗せたまま勉強しようとしたのがいけないんじゃないの? うん。勉強するときはもうココアはここには連れてこない。分かった? 分かった。
でも、娘の長所でもあるのだが、彼女は気分の転換が実に早い。しばらくすると、荒れた部屋を片付け始めた。あーあ、ココアのせいでこんなになっちゃったよぉ、と歌うように言いながら片付けている。私はそれを椅子に座って眺めている。これは彼女が片付ける分だと、手を出したくなるのをこらえて眺めている。

ニュースを見ていた娘が言う。ねぇママ、すんごい残酷じゃないの、これ。うん、そうだね。金メダル金メダルって、うるさいよ。そんなのどうでもいいじゃん、それにさ、この人以外にもこの競技に参加してる選手いるんだよ? その人たちのこと全然何も言わないってどうなの? 金メダル取れそうに無いから関係ないってこと? どうなんだろうねぇ、ママもこれ聴いてるとどうかと思うよ。参加することに意義があるとか言っておきながら、全然違うことしてんじゃん。そうだね。人間ってなんでこんなに残酷なことできるんだ? ははは。人間だからできるんだろうね、そうしてしまうんだろうね。うーん、納得できない。納得しなくていいよ。

じゃぁね、それじゃぁね。娘はココアを連れてきて、ココアがごめんねって言ってるよと言う。ココアは別に悪いことしてないでしょ、ココアは開放されたと思ったから好きに歩いただけなんだから、と私も応える。ココアは声をあげないし、こんなにちっちゃいんだから、あなたがしっかり見てあげないとだめなんだよ、と。うん、分かった、娘は神妙な顔をして応える。
じゃ、行ってきます。行ってらっしゃーい! 娘の声に送られ、傘を持って私は玄関を出る。ちょうどやってきたバスに飛び乗り、駅へ。それにしてもあたたかい。ぬるい。こんなにぬるいと何だか気持ちが悪い。
川を渡るところで私は立ち止まる。雨雲に覆われた空からは降り注ぐ陽光もなく。川は暗緑色をしている。さざなみだつ水面が、震えるようにして動いている。昨日電話をくれた友人の顔が思い浮かぶ。何とも誰とも比較することなく、自分が信じるようにやっていけばいい。
川はそうして流れ続け。私は歩き出す。今日に向かって。


2010年02月25日(木) 
寝過ごした、と時計を見ると午前三時。何が寝過ごしたんだろう、首を傾げる。別に夢を見ていたというわけでもない。が、寝過ごした、と慌てたのだ。こうなるともう、再び眠りに戻ることができない。仕方なく、しばらく娘の寝顔を見つめて過ごす。塾でドジノートなるものを作ることになった娘は、ノート買ったおかげで本を買うお金がなくなっちゃった、と嘆いていた。でもドジノートは、勉強が足りなかった子が作るノートらしい。それができないと居残りをさせられるとか。このところ娘の勉強をちゃんと見てやっていなかったことを私は深く反省する。またじっくりついて見てやる時間を作らなければいけないな、と思う。自分で進んで勉強をやる子なんて、そっちの方が私から見るとちょっと気持ち悪い。本当なら外で思い切り遊べる時間を、勉強にあてているのだ。いやいややるのが普通だろう。娘は天下泰平な顔をして眠っている。夢なんて見る暇もないかもしれない。そのくらい忙しい毎日。ふと思う。彼女は目を覚ますときいつも、どんな気持ちで目を覚ますのだろう。
テーブルの上のガーベラは、花びらが柔らかくなってきてしまった。もう終わりなんだ、と私は知る。ここまで長いことここで咲いてくれたことに本当に感謝している。花というのは不思議なもので、私の心を柔らかくしてくれる。それがどんな花であっても。ただそこに在るというだけで、ただそこで咲いているというだけで、私はほっとさせられる。そういう存在だ。カレンダーを見、ほぼ一ヶ月、ここで咲いていてくれたことを思う。でもまだ咲いている。まだ数日は保つだろう。それまで、精一杯咲いておくれ。
お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶。プーアル茶と生姜茶の比率が絶妙だなと、飲むほどに思う。そして甜茶の甘みが何とも言えない。何度飲んでもおいしい。
足元で音がする。ココアが巣から出てきたところだった。おはようココア。私は声を掛ける。すると彼女がこちらを見上げ、とことこ歩いて入り口のところまでやって来た。そして、がっしと籠に齧りついて、出してよぉという仕草を見せる。時間もたっぷりあることだし、と、私は彼女を抱き上げる。そして背中とおなかを交互に撫でてやる。しばらくじっとしていたココアは、やがて私の手を昇り始め、肩へ。うなじを通って反対側の肩へ。忙しげに動き回る。そして右肩のところで顔を洗い始める。
私はココアを肩に乗せたまま、窓を開ける。ぬるい。何よりも先にそう思った。ぬるいのだ、空気が。冬の空気じゃぁない。あの、ぴんと張り詰めた静けさは何処へ行ってしまったのだろう。今のこの空気は、ゆるんだ糸のようだ。私はちょっとがっかりする。私はあの冬の寒さが、凍てつく寒さが大好きなのだ。
点る灯りは三つ。その点を結ぶと直角三角形がちょうど描ける。空に星はなく、薄い雲がかかっているようだ。霞がかっているとでもいうのだろうか。闇に霞がかかっているというのも何だか妙な表現だけれども。街灯はしんしんとそこに在り、点々と大通りを照らしている。こうして見ると、我が町の街灯は、大通り沿いにしかないかのように見える。細々した細道は、今すっかり闇に沈んで、何処にどんな道があるかなど全く分からない。目で辿ることもできない。コンビニエンスストアさえこの丘にはないから余計に闇は濃く沈む。

一旦娘のお弁当を作りに帰宅する。部屋の中にまで暖かい陽射しが燦々と降り注いでいる。私は思い切り窓を開け、部屋に風を通す。
ベランダの薔薇は、次々と新芽を出しているのだが。パスカリの一本と、もう一本、名前を忘れてしまった、赤紫色の花を咲かせる樹が、どうもうどん粉病を発症している。新たに出始める新芽のどれもが、薄く粉をふいているのだ。私は指先でそっと新芽を摘む。本当はこんなことしたくないのだが、これ以上病気が広がるのはもっと嫌だ。だから摘む。そして母にメールしてみる。うどん粉病が、と。しばらくして母からメールが返ってくる。石灰を土に混ぜてみるといいかもしれない、とある。よし、近いうちにやってみよう。私はそう決めて、他にうどん粉病にかかっているものはいないかと、目を皿のようにして探してみる。今のところ見当たらない。よかった。一番勢い良く新芽を出しているマリリン・モンローは元気そのもの。そしてミミエデンもベビーロマンティカも、大丈夫そうだ。とりあえず、こちら側の二つのプランターに石灰を混ぜてやることにしよう。ところで何処で石灰は売っているんだか。私は首を傾げる。とりあえずホームセンターに行けば何とかなるだろう。勝手にそう決めて、私は部屋に戻る。
部屋から改めてベランダを見ていると、イフェイオンの葉の茂り具合が目に沁みる。こんなに茂っているのに花芽が出ないのは何故なんだろう。不思議に思う。ムスカリもそうだ。茂るだけ茂って、花が咲く気配がない。今年は咲かないんだろうか。それもまぁありかもしれないが。ちょっと残念では、ある。

待ち合わせた場所でしばらく待っていると、懐かしい彼女がやってくる。彼女と会うのはどのくらいぶりだろう。彼女に聴くと、一年半ぶりくらいかな、と返事が返ってくる。そんなに会っていなかったのかと改めて驚く。彼女とはもっと頻繁に会っているような錯覚がある。
相変わらず細く痩せた体つきをしている彼女は、はきはききびきびと喋る人だ。淀みというものがまるでない。それでいながら、決して侵入してこようとしない人でもある。だからかもしれない、こちらも適度な距離を持ちながら、彼女の話に耳を傾けていることができる。
そういえば、最近恋してないの? と唐突に聴かれ、私は、うん、と応える。彼女に、えぇぇ、と言われ、笑ってしまう。私の知っているあなたはいつでも恋してたわよね、と。確かにそうかもしれない。そんな私が、今全く恋も何もしていないとは。それはそれで不思議といえば不思議だ。でも、まぁ、そうなのだ。恋は、ない。
それにしても。彼女は綺麗になったものだと思う。隣に座っていて、時折、彼女の肩を抱きしめたくなるような衝動に駆られる。私はそもそも彼女のその、生きる姿勢が好きなのだ。いろいろあるんだろうが、それでも、基本、自分のペースを崩さない。自分の身の丈にあった生き方をしているんだな、と、いつ会っても思う。その姿勢に、私は、わが身を振り返らずにはいられなくなる。
その後用事があるという彼女を見送り、私はバスに乗る。バスはゆっくりとかたかた揺れながら、夕闇の町を走ってゆく。

「しかし、一人の人間に何ができるのでしょう?」「真理に道はありません。そしてそれが真理の美しさであり、それが生なのです」「真理が生きたもので、動いており、それは安息所をもたず、寺院やモスク、教会には存在せず、どんな宗教も、どんな教師も、どんな哲学者も、誰も、あなたをそこに連れて行ってくれることはないのだということを理解するとき、あなたはまた、この生きたものがあなたが実際にそうであるところのもの―――あなたの怒り、あなたの冷酷さ、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中に生きている苦悩であり、悲しみでもあることを理解するのです。こうしたことすべてを理解することの中に、真理はあります。そしてあなたはそれを、自分の生の中にあるそれらのものを見るすべてを知りさえすれば、理解できるのです。あなたはイデオロギーや、言葉のスクリーンを通して、希望や恐怖を通して、見ることはできないのです」
「ですから、あなたは誰にも頼れないことを知るのです。案内者も教師も、権威もいません。存在するのはあなた―――あなたの他者や世界との関係―――だけであり、他には何もないのです。あなたがこのことを悟るとき、それは大きな絶望を生み出して、そこからシニシズム〔冷笑的な態度・性格〕や苦々しさが生じるか、さもなければ、他の誰でもなくあなたが世界とあなた自身に、あなたが考え、感じること、あなたの行動の仕方に責任があるのだという事実に面と向き合うことになり、そのことによってあらゆる自己憐憫が消え去るでしょう」
「重要なのは人生哲学ではなく、私たちの日々の生活の中で内的外的に実際に生起していることを観察することです」「私たちが扱わなければならないのは存在の全体なのです。そして私たちが世界で起きていることを見るとき、私たちは外部のプロセスも内部のプロセスもないのを理解し始めるのです。あるのは単一のプロセスだけなのです。それは一つの全的、包括的な運動であって、内部の運動がそれ自らを外部に表現し、今度はその外部の運動が内部に反応を生み出すといった性質の、一まとまりの運動なのです。このことを見るすべを身につけるということが、必要とされるすべてである」「誰もあなたに見る方法を教える必要はないのです。ただ見ればいいのです」
「あなたはそのとき、この全体像を見て、言葉の上でではなく実際にそれを見て、無理なく自然に、自分自身を変容させることができるでしょうか?」

娘が朝からDVDを見ながら踊っている。この子は本当に体を動かすことが好きなのだなと思う。彼女の姿を眺めながら、私はわざと、突如立ち上がり、腰を振って両手を振って踊って見せる。呆気にとられた娘は、一瞬の沈黙の後、爆笑する。
彼女は歌ってもいる。しかし。彼女はやっぱり音痴のようで。メロディは完全に彼女の作曲した代物に変わっている。私は苦笑をこらえながら、それを聴いている。母が絶対音感を持っていようと何だろうと、それは遺伝することはないのだな、と、改めて思う今日この頃。まぁ本人が歌うことが楽しいというのが、一番いい。
それじゃぁね、私がそう言って靴を履いていると、娘がココアを連れてやって来る。私が待ってという隙間もなく、娘は私の背中にココアを乗せ、ココアはココアで私の背中を駆け回る。
じゃぁね、それじゃぁね、また後でね。
私は階段を駆け下り、自転車に跨る。公園の前を通るとき、木々を見上げると、赤い新芽の匂いが漂ってきそうだった。霞がかった空、乱反射する陽光。それらはすべて、冬の終わりを告げているかのようだった。
さぁ今日もまた一日が始まる。私は勢い良く、ペダルを踏み込む。


2010年02月24日(水) 
ぱっちりと目が覚めて起き上がる。さて今日も、と思ったとき、時計を見た。午前三時。まだ早過ぎる時刻じゃぁないか。私は時計を見つめたまま唖然とした。どうしよう。このまま起きてしまうか。それとももう一度布団に潜り込んでみるか。一瞬悩み、そして起きていることを選んだ。せっかくぱっちり目が覚めたのだから、これは起きろということなんだろう、ということで。
顔を洗い、鏡を覗く。顔は疲れているというわけではなさそうだ。元気一杯、というわけでもないようだけれど。でもまぁこんなもんか、私は自分で納得する。化粧水を叩き込み、日焼け止めを塗る。そして口紅一本。
この口紅は、一体いつから使っているんだろう。いや、何度も使い終わって、そのたび買い足しているわけだけれども。何年くらいこの口紅だけを使っているんだろう。我ながら不思議になる。よく飽きもせずこの色ばかりを使うもんだ、と。正直言えば、もうちょっとだけ薄い色が好きなのだけれども、私の唇の色は暗い。だから薄い色をつけると下の唇の色が浮き出てきてしまう。それが綺麗な色ならいいのだけれど、暗い暗い色だと、何とも気分が落ち込む。ゆえにこの色に結局落ち着く、という具合。まぁ、新しい色を試す度胸がない、ともいえるのだけれど。
デパートの化粧品売り場は、試供品をもらえる点ではいいのだけれども、私にとって非常に疲れる場所だったりする。だから、私にとってそこは試供品を集めるためだけに行く場所だったりする。口紅も、新しいのが欲しいなぁと思わないわけではないのだけれども、夥しい数の口紅を見るだけでもう、くらくらする。外国製品の、匂いの結構強いものなどのそばに寄ったら、別の意味でくらくらする。匂いに酔ってばたんきゅぅ、だ。ゆえに、同じものを使い続ける、という羽目に陥る。まぁそれはそれで、いいのだけれども。
お湯を沸かし、お茶を入れていると、ゴロが足元でちょこちょこ動き回っている。おはようゴロ。私はいつものように声を掛ける。そういえば昨日、娘におはようと声を掛けたら、ただいま、と言われた。言った本人も吃驚したらしく、慌てて言い直し、げらげら笑い始めたっけ。ゴロは鼻をひくつかせながら、扉の近くに寄ってくる。私は手のひらに乗せて背中を撫でてやる。
テーブルの上のガーベラ。昨日、一輪がとうとう萎れた。ありがとうね、ありがとうね、と言いながら、ゴミ箱に棄てた。本当に、これほど長いこと咲いていてくれるとは。そしてまだ一輪残っている。この子はどこまで咲いていてくれるだろう。あと少しで、この花を貰ってから一ヶ月が経とうとしている。
何をしようかと考え、昨日届いたクリシュナムルティの「既知からの自由」の続きを読むことにする。せっかく早起きして生まれた時間。自分の中に潜り込むには、ちょうどいい時間。

娘の誕生日。もうケーキも食べ終えてしまったので、何をする、というわけでもないが。娘がぽつり言う。ママとじじばばからだけかぁ。何が? プレゼント。なんか寂しいなぁ。何言ってんの。それだけ貰えれば充分じゃないの! でもさぁ、誰も来てくれない誕生日ってなんか寂しくない? うーん、まぁそう言われればそうかもしれないけど。でもみんな、忙しいからね。それにあなたも忙しいでしょ? うん。誕生日に塾ってどうなの? まぁまぁ、そう言っても仕方ないじゃん。お弁当作ったよ。今日のおかず何? 竜田揚げと苺と…。じゃいいや! ん? なぐさまったよ。ははは、単純だな。
じゃね、行ってきます! 行ってらっしゃい。気をつけてね。うん!

私は乾いた洗濯物を取り込んで、畳み始める。昨日片付けた部屋はがらんとしていて、なんだか自分の部屋じゃないみたいな気がする。それだけこれまで散らかっていたということか。溜め込む癖のある二人が揃えば、部屋はいくらだって散らかるというもの。
そろそろ本棚が危ない。いっぱいになってきた。かといってこれ以上棄てられる本がない。もう散々これまで棄ててきた。古本屋に泣く泣く売ってきた。これ以上何を売れというんだろう。うーん、考え込んでしまう。
流れているのはJohn Doanのthe old church of kilronanという一曲。淡々と紡ぎ出されるメロディは繊細な響きをもって、空へ空へ響いてゆく。開け放した窓からは、微風が時折吹き込んで、カーテンを揺らしている。

「探し求めないこと―――それが学ぶべき最初のことです」「あなた自身以外の誰も、何も、その問いに答えることはできません。そして、だからこそあなたは自分自身を知らなければならないのです。未熟さは自己の全的な無知の中にだけ存在するのです。あなた自身を理解することが英知の始まりです」
「外部的には牛車からジェット機への進歩がありました。が、心理的には個人は全く変わっていません。そして世界中の社会の構造は個々人によって生み出されたものです。外部的な社会の構造は、私たちの人間関係がもつ内的な心理構造の結果です。というのも、個人は人の経験と知識、行為全体の結果だからです。私たちめいめいはあらゆる過去の貯蔵庫です。個人は全人類であるところの人間です。人の全歴史は私たち自身の中に書かれているのです」「どうか観察して下さい―――あなたが権力、地位、特権、名声、成功その他諸々のもののために野心をたぎらせながら生きている、その競争的な文化の中で、あなた自身の内と外部にどんなことが実際に起きているかを。あなたがたいそう誇りに思っている業績を、あらゆる種類の関係の中に対立があり、憎悪と敵対、残忍さ、果てしない戦争を生み出す、あなたが生と四d寝入るこの全領野を観察するのです。このフィールド、この生が、私たちの知っているすべてであり、その巨大な生存闘争〔の全体〕を理解することができないので、私たちは自然にそれを恐れ、あらゆる種類の巧みなやり方でそれから逃避法を見つけ出すのです。そして私たちはまた、未知のものにおびえています―――死におびえ、明日の向こうにあるものにおびえているのです。だから私たちは既知のものと未知のものの両方を恐れているのです。それが私たちの日々の生活であり、そこには何の規模ぬもないので、あらゆる種類の哲学、理論的なコンセプトは現実にあるものからのたんなる逃避になってしまうのです」
「この社会、競争と残酷さと恐怖に根ざしたこの社会を終わらせることはできるだろうか」「現実問題として、精神が生き生きとして新たな、無垢なものになり、全く違った世界をもたらすことはできるのでしょうか? 私が思うに、それは私たち一人ひとりが、個人として、人間として、世界のどこに住んでいようと、どの文化に属していようと、世界の全体状況に責任があるのだという事実を認識するときにのみ可能になります」「私たちが、知的にではなくて実際に、空腹や痛みを感じるときと同じようにリアルなものとして、あなたと私が共にこれら混乱のすべてに、世界中の悲惨さすべてに責任がある、それは私たちが日々の生活を通じてそれに影響を及ぼしていて、自分は戦争、分離、醜悪さ、野蛮さ、貪欲をまといつかせたその社会の一部であるからなのだ、ということを理解するときのみ、そのときにだけ、行動が生まれるのです」

きゅんときゅんきゅん、ママにきゅん。娘が突如、体をくねらせてそう言う。な、何なの、それ? 流行ってるんだよ、最近。だから、何それ? もう一回やろうか? い、いや、いいけど。きゅんときゅんきゅん、ママにキュン! …。わはははは! いいでしょー、これ。あのさー、男の子にきゅんとなるのはいいけど、ママにきゅんとなったって意味ないじゃん。なんでぇ! いいじゃんいいじゃん。いや、よくない。ママ、照れてるの? いや、そういうわけじゃないけど。照れてるんだー! だから、そういうわけじゃないけど、なんか変だよ、それ。変じゃないもん! 立派な文句だもん! じゃ、せめて、こう、お尻くねらせてそれ言うの、やめない? やだー! これがあるから面白いんじゃん! …。
ねぇママ、全然これ、惜しくないじゃんね。何が? メダルに惜しくも手が届きませんでしたって言ってるけど、これ、全然惜しくないじゃん。負けは負けじゃん。ん、まぁ、そうだねぇ。メダルとればいいわけ? いや、そういうわけじゃない。メダル取れなくたって、オリンピックに出たってだけで、すごいじゃんね。メダル別に惜しくないよ。ごもっともだね、それは。うん。負けは負けで、それ認めるだけでいいじゃん、惜しくないのに惜しいとか言うからわけわかんなくなるんじゃないの? それもごもっともだぁね。音楽とかって分かりやすいよね。何が分かりやすいの? だって、音楽って、音を楽しむって書くんでしょ、音を楽しめばいいんでしょ? そりゃそうだ。競技とか言うからいけないんじゃないの? なるほど、技を競う、だもんね。技楽とかにすればいいんじゃないの? なるほどぉ、それは考えてもみなかった。いや、そもそもメダルなんてあるからいけないのか? うーん、どうなんだろうねぇ。
娘の頭の中は、今一体どんなふうになっているんだろう。朝からとっても忙しげに動いている。

じゃぁね、それじゃぁね。今日のお弁当は? 生姜焼き。なんだぁ、竜田揚げじゃないのかぁ。え? 同じおかずが続いていいの? いいよぉ、私、好きだもん。そっか、了解。今度お肉多めに揚げたときには、そうするよ。じゃぁね!
私は階段を駆け下り、自転車に跨る。公園に立ち寄ると、桜の新芽は昨日あたたかったせいかぐんと大きくなっている。どくん、どくん、と、脈打つ音が聴こえてきそうだ。そして高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木で立ち止まる。銀杏の新芽にじっと目を凝らす。大丈夫、ここも新芽がちゃんと出てる。じきに膨らんで、そうして割れて、かわいい赤子の手のような新芽が飛び出してくるのだ。
信号が青に変わった。私は飛び出すようにして自転車を漕ぎ出す。明るい日差しが辺りを照らし出している。空気中の塵がその陽光を照り返し、きらきらきらきら、輝いている。
さぁ、今日もまた一日が、始まる。


2010年02月23日(火) 
午前四時半。ぱちりと目が覚める。腰の辺りに鈍い痛みを感じながら起き上がる。また寝返りも何もうつことなく眠っていたのかもしれない。いつからこうなったんだろう。不思議でならない。一時期などは、寝返りを打ってうんうん唸ってしか夜を越せなかったというのに。この微動だにしないという具合は何なんだろう。私の体は何を訴えたいんだろう。考えても、そんなこと、わかるはずもない。
顔を洗い終えて鏡を見ると、いつもより少し白い顔をしていることに気づく。青白い、というべきなんだろうか。でも体調が悪いというわけではなさそうだ。化粧水を叩き込みながら、自分の体にしばし耳を傾けてみる。胃が微妙にしこっているくらいで、他は大丈夫そうだ。これなら平気。
お湯を沸かしている間に、ガーベラの花瓶の水を替えてやる。相変わらずお元気そうで。私は花に挨拶する。そうして窓を開けると、ぐっとぬるい空気。今日はあたたかいらしい。私は窓をしばらく半分開けておくことにする。
お湯をカップに注ぐ。今日もやっぱり生姜茶。なんだかこのところこのお茶ばかり飲んでいる気がするのだが。それだけ自分に合っているということか。少なくともこのお茶の味は、私に合っている。入れたてがもちろん一番おいしいけれども、冷めてもごくごく飲めるところが、結構気に入っている。
部屋の明かりを点けると、ゴロがぴたりと止まる。何かしていたらしい。おはようゴロ。私は声を掛ける。その声に反応したのか、ミルクが小屋の煙突のところから顔を出す。おはようミルク。私はこちらにも声を掛ける。
今点っている街の明かりは五つ。じきに空は明るくなる。灯りもそれに沿うようにして消えてゆくんだろう。私はしばし窓際に立ち、その灯りの醸す色合いを楽しんでみる。

学校が休みの娘に留守番をさせ、私は家を出る。いつものように電車に乗ってはみたが、なんというか、気分が乗らない。朝起きたときからそれはそうだった。どうも気分がすっきりしない。というより、むしろ、時間が経つほどもやもやしてくる。
病院に到着する直前、はたと気づく。私にとってこの行為が今負担なのかもしれない。
医者に勧められて始めたカウンセリングだった。しかし。私は今のカウンセラーを全くといっていいほど信頼できていない。そんな中で話せることなど、ほとんど無いに等しく。このままでいいんだろうか? 果たしてこのままで、本当にいいんだろうか?
そうして決めた。私はしばらくカウンセリングを中断しよう。今このままの状態で続けても、何にもならない。そんな気がする。
そうして決心したら、自分の中のもやもやがすっと消えた。あぁ、それだけ私には、負担だったのかもしれないと、改めて思う。普通、カウンセリングといったら、必要があって、その人にとってそれが必要で、だから行くことも苦じゃないというのも変かもしれないが、必死の思いでその場に行くものなんじゃないだろうか。私にとってかつて診察がそうであった。生き延びて、次また先生に会う、それが、私にとって支えだった。でも。
今は違うんだなと痛感する。
病院は、変わってしまった。先生もいなくなった。そして私はその先生を追いかけることはもう、ない。
私はここでやっていく。ここでやっていくならやっていくで、その新しい形があってもいい。私なりに考えて、私にとって負担のないように、やっていけば、いい。今は、そう思う。

病院の帰り道、娘に電話を掛ける。埋立地にあるホームセンターには小動物が揃っている。それを見に行く約束だった。
明日からのお弁当のおかずをあれこれ買い込んでから、小動物のコーナーへ。ママ、布団買おうかな。へ? 布団? あるじゃん。違うよ、ハムスターの布団だよ。え、そんなのあるの? 必要かなぁと思って。いやぁ、もう必要ないよ、これからあったかくなるんだよ。でも、ゴロは寒がりだよ。うーん、まぁ買いたいなら買ってもいいけど、ママはもう必要ないと思うけれど。そうかなぁ、そうかなぁ。
話しながら、私たちは、家にはいない種類のハムスターたちに見入る。その中に、とてもでぶっちょな一匹がおり。無事売約済のシールが貼ってあり、私たちは顔を見合わせほっとする。よかったね、おまえ、もらわれる先がちゃんと決まって。ほんと、よかったねぇ。おでぶだからって食べ過ぎちゃだめだよ。元気でいるんだよ。娘はしきりにその子に話しかけている。私はその間に、紙を買い足す。
そういえば、このところ金魚たちをちゃんと見てやっていなかった。そのことを思い出す。娘に、金魚、きっと落ち込んでると思うよ、と声を掛ける。そうかなぁ、金魚って感情あるのかなぁ。いや、わかんないけど。わかんないけど、でも、自分が金魚だったらどうなの? それはやだけど。なら、ちゃんと世話してあげないと。分かった、うん、そうする。自分がされて嫌なことは、人にはするなよ。分かってるよー。それから、人をあんまり当てにするなよ。あ、それはごめん、気をつける。うん、当てにして馬鹿をみるのは自分だからね。うんうん、分かってる。

家に帰り、いきなり大掃除を始める二人。友人から私が留守の間に小包が届いたのだ。友人の娘さんのお洋服などがいろいろ。だから、これまで着ていた服の幾つかを整理することにした。
ママ、こんな小さい服、出てきたよ。ははは、それはあなたが四歳くらいの時に着ていたシャツだね。これ、もったいないけど、もう着れないよね。うん、無理だぁね。じゃ、棄てちゃおう。うん、そうしな。
私は私で、今年一度も袖を通さなかった服を、片っ端から棄てていく。こういうときでもなければ、私はしまい込む一方の性格だから、ここぞとばかりに廃棄していく。
ついでに本棚も一部整理。ねぇ、この漫画、もう読まない? あ、それはもういいや。じゃぁ古本屋に行こう! でもさぁ、全然お金にならないんじゃん? まぁねぇ、そうなんだよねぇ。それは言えるけど。でも本屋さんには行きたい。じゃぁ行こう!
結局、古い漫画本は千円ちょっとにしかならなかった。迷った挙句、そのお金で娘が髪の毛を切ることになった。以前から切りたい切りたいと言っていたのだが、私がその勇気が出なかった。せっかく伸ばした髪を切っちゃうの?という具合に。
美容室に行くと、いつもの人が声を上げる。えぇぇぇ、切っちゃうの?! やっぱり言われた。いやぁ切っちゃうんだそうで。ねぇねぇ、本当にいいの? うん! って、漫画読んでないでさぁ、鏡見てよ。どのくらい切るの? このくらい。えぇぇぇ、そんなに切るの? うん! 母、いいの? うーん、どうなんだろう? 二人とも面倒くさがりだから、適度にまとめられる髪ではあった方がいい気がするんだけど。だよねぇだよねぇ。
結局、娘は肩より少し長いくらいで切り揃えた。彼女がこんなに髪の毛が短くなるのは、どのくらいぶりだろう。生まれて初めてかもしれない。

ねぇママ、誕生日ってどういう気分だった? ママ? うん。ママはそうだなぁ、わくわくどきどきしたときもあったし、逆の気分のときもあった。逆の気分って? あぁまだ何もこの年齢らしいことしていないのに、また年をとっちゃう、こんなんで年をとっちゃうなんて、みたいな気分。へぇぇ! そんなふうにお誕生日過ごしたりするんだ。あなたはどうなの? やっと年取れるって感じ。へぇぇ、そうなんだ。みんなもう十歳なのに、私だけ十歳じゃなくて、すごく嫌だった。あぁ、なるほどなぁ、そういう考え方があったか。ママはほら、六月だから、そういうこと思ったことなかったよ。いいなぁ、六月で。でも二月はばぁばとも一緒じゃん。うん、そうだ。
そう話しながら、私たちは布団の取り合いをしている。二つ布団がちゃんとあるのに、私たちは一つの布団で寝ている。だからこう、取り合いになるのだ。ねぇ、向こうの布団で寝ればいいじゃん! なんで? そうすれば広くなるよ。やだよ。なんで? やだからやだ。なんでよぉっ。
そうしてまた私たちは、布団の中くっついて、窮屈だというのにくっついて眠るのだ。

朝、ばばから電話が入る。お誕生日おめでとう。その言葉に娘の顔が崩れる。ありがとう! 今日ね、お友達からもらった服着て学校行くの。よかったじゃない。うん! 娘はばぁばと話している。私はその間に空をもう一度見上げる。雲ってはいるけれど。でも今日は本当にあたたかい。
登校班の集合場所まで、娘を自転車の後ろに乗せて走る。短い距離だけれども、それでも私たちはきゃぁきゃぁ言いながら走る。
じゃぁね、それじゃぁね、また後でね!
今朝は池の水までぬるい。しゃがみこんで、池の水と戯れる。池の水面には、薄い雲と新芽を湛えた枝々が映っている。イヤホンからはAdiemusの魂の歌が流れている。
なだらかな風が私の項に触れ、消えてゆく。私はまた自転車に跨り、ペダルを漕ぐ。
さぁ今日もまた一日が始まる。


2010年02月22日(月) 
テーブルの上のガーベラ。この花は一体いつまで生きていてくれるんだろう。もう三週間は経とうとしている。それだけこの部屋の温度が低いということなんだろうか。それともこの花が特別長生きしていてくれているのか。花びらをそっと撫でながら、これをくれた人のことを思う。彼女はどんな気持ちでこの花を選んでくれたのだろう。私が贈る側になったら、私は彼女にどんな花を贈るだろう。
昨日のうちに、薔薇のプランターに土を継ぎ足した。今の時代は便利になったもので、古い土を再生させるための土が売っている。それがどれほど役に立ってくれるのか分からないが、試しに使ってみることにした。それを継ぎ足しながら、次々薔薇の病気の新芽を摘んでゆく。どれほど気をつけていても足りないらしい。病葉はすぐに現れる。土を全取替えしなければならないだろうか。今それを悩んでいる。ひとつのプランターの中、ひとつの苗だけが病気、という具合。この樹だけが繰り返し、病葉を出してくる。他はほぼ滅したのだが。どうなんだろう、こういうときもやはり全部取り替えなければならないんだろうか。近いうちに母に尋ねてみよう。
マリリン・モンローの新芽が今一番勢いがいい。次にミミエデン、そしてベビーロマンティカ。パスカリはまぁまぁ、といった具合。赤子の手のような新芽が次々現れている。新芽を見つめていると、不思議と心が落ち着いてくる。しんとするのだ、心が。何故なんだろう。分からないけれども。
お湯を沸かし、茶葉を入れる。今朝も生姜茶を選ぶ。お茶を入れたところで足元を見ると、ゴロがちょうど回し車に乗ろうとしているところで。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女に分かるように、籠をこつこつと指で叩く。ゴロが鼻を引くつかせながら近づいてくる。今日はちょっと天気が怪しいよ。私はそんなことを彼女に向かって言ってみる。空が暗いんだよね、いや、今は闇の中なんだけれども、それでもなんかこう、雲が広がっていて、暗いんだよ。今日はお日様見れないかもしれないね。ゴロは首を傾げるような仕草を見せ、それから再び回し車へ戻ってゆく。

中学生の頃、そのバンドに傾倒した時期があった。レコードをわんさか持っている友人に頼んでテープにダビングしてもらい、それを学校の行き帰り、繰り返し聴いた。体育祭の団体競技にそのバンドの曲が使われたこともあった。そのくらい、当時流行っていた。
友人の誘いを受けて、来日したそのバンドのライブへ出掛ける。正直に言えば、そのバンドの音を生で聴くのは今回が初めてだったりする。長いことレコードの音、テープの音でしか、聴いたことがなかった。
大きな大きなホールは満席で、年配の方が多いかと思いきや、若い人も結構いるじゃないかと驚く。最近彼らの曲でそんなに流行した曲があっただろうかと不思議に思ったのだが、ライブが始まって分かった、若い人たちでも古い曲を当たり前に知っている。もうのっけから大勢の人が立って、体を揺らして聴いている。メンバーが次々音を重ね、紡いでゆく。私はその音が心地よくて、気づけば体をみんなのように揺らして聴いていた。

友人のところに生まれた女の子に、友人が私の娘と同じ名前をつけたという。それを聴いて、私はなんだか複雑な気分になってしまった。友人とは大学時代からのつきあいだ。喧嘩もしたしわいわいがやがや夜通し飲んだりしたこともあった。今も何かと連絡だけは取り合っている。
複雑な気分になったのは、理由なんて簡単なことで、私が遠い昔、彼に恋心を抱いていたことがあったからだ。今はもうお互い別々の道を往く者同士、あれやこれや言い合える仲になったが、そうなるまで長い道程があった気がする。
そんな彼が、よりにもよって、自分の娘にうちの娘と同じ名前をつけるか、と思ったら、なんだか笑えた。ふたりしてこれからは、互いの娘の名前を呼ぶとき、困るんだろうなと思うと、笑えた。漢字も一文字違い。まったくもって、変な縁。
娘に、同じ名前になったって、と話すと、ふぅんと流されてしまう。あれ、気にならないの? と尋ねると、なんで気になるの? 関係ないジャン、と素っ気無く返される。思わず私は噴き出してしまう。そうか、私が気にしすぎなのか、それもそうか、なるほど。同じ名前っていやなもんじゃないの? 別にぃ、そんなの、どうってことない。そういうもん? ママは結構嫌だったけど。なんで? うーん、なんでだろ? 別にいいじゃん、名前が同じっていったって、結局はその人はその人、自分は自分だもん。そ、そりゃ、そうなんだけど。関係ないジャン。そっか…。
娘に完全に負けている気がする。

「表面的な気づきはごく単純なものです―――ドアはそこにあります。しかし、「ドア」という言葉はドアそのものではありません。そして、その言葉の表現から感情的に影響を受けるとき、あなたにはドアが見えません」「言葉はけっしてそれが表す当のものではありません。そういう今も私たちは言葉で表現していますが―――そうしなければなりません―――言葉が表しているものとその言葉は別のものです」「木、鳥、ドアへの表面的な気づきがあり、そしてそれに対する反応―――思考、気分、感情―――があります」「それはひとつの動きであり、外側の気づきと内側の気づきがある、と言うのはまちがっています。心理的な影響を受けずに、木に視覚的に気づくとき、関係のなかに分離はありません。しかし、木に対して心理的な反応があるとき、この反応は条件付けられたもの、すなわち過去の記憶や経験からの反応であり、それが関係のなかに分離をもたらします。この反応によって、関係のなかに、いわゆる〈私〉と〈私でないもの〉が生まれるのです。これが世界との関係におけるあなたのあり方です。これが個人と社会がつくり出されるしくみです。世界は、記憶である〈私〉とのさまざまな関係において見られ、ありのままに見られることはありません。この分離が生活であり、「心理作用」と呼ばれるものの繁茂であり、ここから矛盾と分裂のすべてが起こるのです」「どのような判断もなく、木に気づき、観察できるでしょうか。また、どのような判断もなく、反応や反発を観察できるでしょうか。このように、私たちは木を見、同時に自分自身を見ることによって、分離の原則―――〈私〉と〈私でないもの〉の原則―――を根絶するのです」「事実を見ることのなかには、言葉である〈私〉はありません。どのような事実を見る場合にも〈私〉はありません。〈私〉があるか、それとも見ているかのどちらかです。それらは共存できません。〈私〉とは見ていない状態なのです。〈私〉は見ることができず、気づくことができません」「まず問わなければならないことは、「条件付けられた反応を超えても〈私〉はあるのか」ではなく、「あらゆる感情を宿している心が、過去である条件づけから自由になれるのか」です。過去が〈私〉なのです。現在に〈私〉はありません。心が過去のなかを動き回っているかぎり〈私〉があります。心とはこの過去にほかなりません。心がこの〈私〉なのです」「事実に対する実際の知覚…検証(constatation)」「木があり、木に対する言葉や反応があります。これが監視者、〈私〉であり、過去からきたものです。次に、「この一切の混乱と苦悩から逃れられるだろうか」という問いがあります。もし〈私〉がこの質問をしていれば、それは堂々めぐりになるのです。そこで、それに気づくと〈私〉はもう問わなくなります! そのすべてに気づき、それがわかったので、〈私〉は問うことができません。その罠を見るので、問うことがまったくないのす。さて、この気づきはすべて、表面的なものだということがわかりますか。それは、木を見る時と同じ気づきなのです」「気づきは私たちにその罠の性質を明らかにしました。それゆえ、すべての罠はなくなります―――ですから、今、心は空です。〈私〉や罠が空になっているのです。この心には異質の、異次元の気づきがあります。この気づきは、自分が気づいていることにすら気づきません」「あなたがしなければならないことは、途中で不注意にならずに、ただ終始気づいていることだけです。この、新しい質の気づきは〈注意深さ〉です。そしてこの〈注意深さ〉には、〈私〉によってつくられた限界がありません。この〈注意深さ〉は徳の最高の形であり、それゆえ、それは愛なのです。それは至高の英知ですが、あなたがこれらの人工的な罠の構造と性質とに敏感でなければ、この〈注意深さ〉はありえません」(クリシュナムルティ対話録「自己の変容」より)

じゃぁね、それじゃぁね、手を振り合って別れる。私は玄関の外へ、娘は今日学校が休みなのでお留守番。ちゃんと留守番できるのかちょっと心配だけれど、仕方ない。
以前、恩師から言われた言葉がこのところ頭の中を回っている。当たり前のことができない、そこをクリアできれば。先生はそう言っていたっけ。
それにしても。左手の指三本の腹が痛む。昨日鍋を熱していることを忘れて、取っ手じゃないところをがっしと掴んでしまったのだ。おかげで見事に火傷した。何をするにも煩わしいこの火傷。娘に言われて手袋をしてみたが、手袋で摺れるところが余計に痛い。自分のドジさ加減に、正直呆れてしまう。
電車が川を渡ってゆく。滔々と流れる川は暗く。でも川は止まることなく流れ続け。私は背筋を伸ばす。
さぁ今日もまた、一日が始まる。


2010年02月19日(金) 
ゴロがこちらを窺っている。そして前足を立て、後ろ足で立ちながら鼻をひくつかせている。おはようゴロ。私は彼女に声を掛ける。すると、その声に反応してミルクが巣から出てくる。まだ背中には木屑がくっついたまま。おはようミルク。私はこちらにも声を掛ける。私はまずゴロに手を伸ばし、手のひらに乗せてやる。この子は何故か、手のひらに乗せてしばらくすると糞をする。しかも三人の中で一番やわらかいうんち。私はそれを警戒しながら、彼女の背中を撫でてやる。次にミルク。彼女は小屋の扉を開けただけで、あとは自分で出てくる。出てきたところを手のひらで掬い上げてやると、手のひらの上、こちょこちょこちょこちょ、ひっきりなしに動き回る。この子のうんちが一番固い。だからころころしていて、うんちをされても、あまり害はない。しかし、おしっこをぴっとやるのがちょっと難点といえば難点かも。そんなことを思いながら、私は彼女の頭をこしこしと撫でてやる。
今朝もガーベラは変わらずに咲いており。紅色はますます濃い色に変わり。もう、暗い暗い紅色に。でも花は凛と咲いており。私はそっと指で花びらをなぞる。おまえはどこまで咲いていてくれるんだろう。そう問いかけながら。
窓を開けて外を見やる。ベランダの薔薇たちのプランターが少し乾き始めている。また水をやる頃かもしれない。今日帰ったら早速水をやろう。私はそう決める。イフェイオンは花芽を出す気配がない。けれどもうもうと茂っている。このまま花が咲かないで終わることもあり得るんだろうか、とふと思う。緑を茂らせるので精一杯で、花にまで気が回っていないのかもしれない、そんなことを思う。でもまぁ、それもそれ。肥料も何もほとんどやることなく、ここまで育ってくれているのだから。
顔を洗い鏡を覗くと、何となく顔が浮腫んでいるのに気づく。あちゃ、首の置き方が悪かったか。仕方なく、化粧水の後、丹念にマッサージをしてみる。それで浮腫みがすっきり解消されるわけではないが、それでもやらないよりはましだろう。
お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝もまた生姜茶。湯気に息を吹きかけ、はふはふしながら口をつける。生姜の味に、まろやかな甜茶の味が絡み合って、私にはとてもおいしいものに感じられる。
さぁ今朝は、六時には娘を起こすんだったな、と、思い出しながら椅子に座る。とりあえずやるのは朝のいつもの仕事。

その駅は、今住む場所からさほど離れているわけではない。一時間もあれば余裕で着く。でも。ひとりで私がその場所を訪れることはまず、ない。
知人にとある店を教えてもらい、もしかしたら展覧会が為せる場所かもしれないと言われて、行くことにしてみた。でも、ひとりでいくのはちょっと、できそうになかった。だから友人を誘った。友人は快く受けてくれた。
喫茶店で友人を待つ間、本を読んだり明日の授業のための準備をしたりして過ごす。その昔、この店がまだ改装する以前の話だが、ここでアルバイトをしていたことがあったっけ。そんなことを思い出す。そういえば、私はひとりで食事をする店に入ることがほとんどない。ひとりで外食したいと思うことがほとんどないからだ。ひとりで外にいるときはおなかがあまり空かない。だから珈琲があればそれで十分、というようなところがある。
だからというのも何だが、料理店でバイトすることよりも、珈琲屋でアルバイトする数の方が多かった。そもそも喫茶店という場所が好きなのだ。
食事には、私はあまり恵まれていなかった。母の料理をおいしいと思って食べるよりも、食べなければいけないと思って食べることの方がほとんどだった。そしてまた、過食嘔吐に至っては、食べ物は恐ろしいものであり、そして同時にとてつもない罪悪感を抱かずにはいられないものだった。
だからかもしれない。余計に、飲み物に対しての思い入れがある。お茶ひとつとっても、正直言えば、私にはご飯より重要だったりする。かぱかぱ飲んでいるときでも、料理よりお茶の味の方が私には伝わりやすい。それで満腹感を味わえるわけでも何でもないのに、それでも、お茶の方に私は重みを感じてしまう。
カフェオレを飲み終えた後、何を飲もうと考え、今度はロイヤルミルクティーにしてみる。そして飲みながら、もう一度教科書を広げる。少し前から、自己一致と無条件の受容についてが妙に自分の中でひっかかっている。もうだいぶ前にやったことなのに、それを学ぼうとすれば学ぼうとするほど、ひっかかってくる。無条件の受容はまだしも、自己一致が今ひとつ掴めない。
そんな状態で、クリシュナムルティの本を読んでいると、どんどん穴に嵌っていく気がする。気のせいだろうか。でも、何だろう、蟻地獄のような何かに、はまっていく、そんな気がしている。

友人と共に目的の店へ。そこは本当に小さな小さな空間で。ちょっとすると見落としてしまいそうなほど小さな空間で。静謐な空気が流れていた。椅子に座るとちょっと緊張して、お尻のあたりがむずむずする。私たちはランチのスープセットを注文する。手作りのパン二種類と、スープ二種類が運ばれて来る。私たちは小さな声でおしゃべりを続けながら、もぐもぐ食べる。
食べながらも、私は意識が、どこかに飛びそうな感覚を覚える。この地帯、この場所が、私に影響を与えている。怖いのだ。無性に怖いのだ。この場所にいるということが。この店が怖いのではない。この店の建つ、この辺りの場所が、私は怖いのだ。私のトラウマのひとつ。それはもうどうしようもなく、私の体を勝手にそうさせてゆく。
だから私は深呼吸してみる。もうあれは終わったこと、過去のこと、今ではない。今ここに在るものではない。自分にそう言い聞かせてみる。
あれからもう何年が経つのだろう。約二十五年? そんなにも時が経っているんだ。私は改めて呆然とする。なのにこのいがいがした感じは何だろう。落ち着かない感じは何だろう。そこまであの一連の出来事は、私に影響を及ぼしているのか。そのことに、愕然とする。
でも。もう終わったことなのだ。過去のことなのだ。今ではないのだ。そのことは、ありありと分かった。当たり前だ、今私の目の前にいるのは、今の私の友人であり、あの出来事に関連した人たちでは一切ないのだから。
その後、友人が自宅へ案内してくれる。彼女の家はとても整理整頓されていて、それはとても彼女らしくて居心地がいい。猫たちがそれぞれの形で出迎えてくれる。私はその中の、とても人懐っこい猫に手を差し出し、ぐるぐると頭を撫でてやる。
傾聴というものが、どれほど大変な作業であるかを、改めて彼女と話す。聞くというのが、耳と十四の心、と書くのは、偶然なのだろうか。心をそれほどに尽くして耳を傾けるのが、そもそも聴くということなのか。そのことを思う。
友人から、娘へのお土産をいただいて私はバスに乗る。バスに揺られながら、私は彼女と話し足りなかったことについてあれこれ思いを巡らす。バスはそうしている間に橋を渡りいくつかの町を越え、終点へ。日がだいぶ傾き始めている。朝雪が降っていたことが嘘のような陽射し。やさしい陽射し。傘を持って歩くのがちょっと、恥ずかしい。

「恐怖を理解するには、まず言葉に関してとても明晰でなければなりません。言葉が恐怖の実体ではないということを認識するのです。けれども、言葉が恐怖を引き起こします。それと知らぬうちに、物事の全構造が言葉で成り立っているのです」「私たちの中の無意識は、数々の思い出、経験、伝統、プロパガンダ、言葉などで形成されています。人は経験し、それに反応します。その反応は言葉に変えられます」「そしてこれらの言葉が残ります。こうした言葉をとおして日々の経験は自覚され、強められていくのです」「言葉は記憶と連想をはぐくみ、それらはすべて無意識の一部となりますが、言葉はさらに恐怖をも、もたらします」「言葉は私たちにとってとほうもなく重要です。そんな言葉や文が体系化されると、一定の方式にもとづき、ひとつの概念になります。そしてそれが私たちを縛るのです」「言葉は事実ではありません」「ところがひとつの言葉が、記憶や連想によって、人に恐怖や快楽をもたらすのです。私たちは言葉の奴隷なのです。ですから何かを完全に調べたり見たりするには、言葉から自由にならなければなりません」…。
「恐怖はつねに何かとのかかわりにおいて存在します。抽象的には存在しないのです」「恐怖は何かと関連して存在するのです」「相手をイメージする根拠はいくらでもあります。しかしそこには現実的な関係などまったくありません。関係があるということは、接触しているという意味です。イメージ同士がどうやって関係をもてるでしょう。イメージとは観念や記憶、回想や思い出なのです」「恐怖がやむのは、直接的な接触のあるときだけです」「もし私がどんな逃避もしないのなら事実を見ることができます」「とほうもない観察と探究と作業とを要します。死ぬという意味はいまから二十年後に死ぬことだけではなく、毎日死ななければいけないということです。技術的なこととはべつに、日々自分の知っているすべてに対してあなたは死ぬ―――無頓着になるのです」「もしあなたがそういうことにすっかり無頓着になるなら、恐怖は終わりを告げ、あらゆることが再生されるでしょう」。

ママ、Sちゃんにまたやられた。ん? 何やられたの? 私の上着の色が変だって。教室でいろんな子集めて、言うんだよ。あぁまたかぁ。なんかすごく嫌だった。上着、変な色じゃないよ、全然。ばぁばが買ってくれたんじゃない。うん。あなたはこの色嫌いなの? キライじゃない、好き。なら堂々としていればいいよ。気にすることはない。あのね、もしはっきり私の前で言うなら、私言い返すんだ。でもSちゃんてそうしないの、人の前でははっきり言わないの、そのくせ、裏でこそこそがつがつ言うの。うんうん、でもそれもいつものことじゃない? うん、分かってるけど。でもあなたはSちゃんと遊んだりもするんでしょう? うん、遊んだりする。仲がいいときはいいよ。Sちゃんのこと好き? わかんない。いいところも悪いところもあるもん。誰でもいいところも悪いところもあるもんだよ。ママだってそうでしょう? まあねぇ。ははは。そんなもんだよ、いいところだけの人間なんていない。ましてや、自分にとって都合のいいことばかりしてくれるっていう人もいない。わかってはいるんだけどねぇ、なんかねぇ、嫌だよ、こういうのって。そうだね、嫌だね。ママもそう思うよ。
娘にあれこれ返事をしながら、私も頭の中あれこれ考える。Sちゃんにあれやこれや小突かれながら、それでも遊ぶときは一緒に遊んでいたりする娘。どんな友達を作り、どんな友達との縁を育んでいくかは、もう君が決めることだ。自分で選び取ってゆけよ。そしてまた、自分にとって都合のいいことばかり言ってくれる人間ばかりがそばにいたら、それはそれで恐ろしいことだよ、娘よ。ああそういう人もいるのか、そういうこともあるのか、と、しなやかに生きてゆけよ、娘よ。葦のようにしなやかに。

じゃぁね、それじゃぁね、行ってきます、行ってらっしゃい。私は娘の声に押されながら玄関を出る。校庭はまだ濡れているけれども、今日の陽射しできっと乾くんだろう。そう思わせるような明るい日差しが辺りに溢れている。
バスに乗って駅へ。そして川を渡るとき、私はやっぱり立ち止まる。明るい日差しを受けて輝く川。街中の川だから、それは大きいわけでも何でもない。岸もコンクリートで固められている。それでも川は流れてゆく。止まることなく流れ続ける。
さぁ今日もまた一日が始まる。私は勢い良く次の一歩を踏み出す。


2010年02月18日(木) 
冷え込んだ部屋。妙な頭痛で目が覚める。こめかみから後頭部にかけて、孫悟空の輪で締め付けられているような、そんな痛み。これは薬を飲まないとやってられないかもしれない。そう思いながらも、しばらく我慢してみることにする。
軽いかららという音とがららという豪快な音とが聴こえてくる。ゴロとミルクだ。ふたりとも回し車で遊んでいる。おはようミルク、おはようゴロ。私は声を掛ける。ふたりが揃ってこちらを振り向く。そしてたたたっと入り口のところに駆け寄ってくる。私は指先でちょんちょんとそれぞれの籠を叩く。ごめんね、今日は頭痛いから、ちょっと相手できそうにないや。言い訳をしてみる。
お湯を沸かしながら窓に近寄る。と、雪だ。雪が舞っている。私は勢い良く窓を開ける。闇の中、ほんわりと雪が舞っているその光景は、こちらをうっとりとさせるようなそんな光景で。私はしばし見惚れる。北から南の方向へ、斜めに舞う雪。街灯の灯りの輪の中で、ふわふわふわふわ、舞い飛ぶ雪。娘が起きたらさぞ喜ぶだろう。私は窓をぴたりと閉め、とりあえず中に入る。
今朝もまず入れるのは生姜茶。この香りと味は一度飲んだら癖になるんじゃないだろうか。独特の甘みと刺激とが混ざり合っている。私はカップにたっぷりとお湯を注ぐ。
とりあえず椅子に座り、こめかみをぐりぐり指で刺激してみる。どうにもこうにも頭痛が去ってくれない。このままだと一日中頭痛に悩まされそうだ。私は結局薬を飲むことにする。

本の続き。「もし観念ではなく、あるがままのもの、つまり事実を見るなら、未来や明日についての観念や概念こそが、実際には恐怖を生み出していることに気づくでしょう。恐怖を作り出しているのは事実ではないのです」「過去が恐怖の影響をあなたに伝えるのか、それとも実際に起きている恐怖の影響にあなたが気づいているのか」「何かに依存するのは、それが私の虚しさを埋めてくれるからです」「依存は私の虚しさや孤独、満たされぬ思いを示し、それがまた私をあなたに依存させるのです」「つまり私は依存している……ということは私は、孤独にさいなまれることや虚しさを感じることを恐れているのです。そこで私は物や観念や人間たちでそれを埋めているわけです」「恐怖から離れようとすることがかえって恐怖を強めるという事実」「学ぶには好奇心が必要だが、過去からの抑圧があってはならない。そして恐怖について学ぶには恐怖から逃げてはならない、これが事実であり、真実です」「重要なのは、自分の内部で起きている恐怖の全過程を自覚し、観察し、それについて学ぶということです」「言葉は過去の経験に結びついて危機感を呼び起こし、恐怖を生み出します」「私たちはそういった言葉に支配されているのです」「言葉は過去や知識と結びついている」「すべての言葉をわきに置いたうえで自分自身を深く探求しなければならないということです」「実際に無垢な状態でいる、ということです。それは恐怖をもたないという意味であり、その結果精神は時の推移を経ずに、一瞬にして完璧に成熟するのです。そしてそれは全的な注意力、つまりすべての思考、すべての言葉、すべてのふるまいへの自覚があるときにかぎって可能なのです。精神は言葉という障碍物がないとき、解釈や正当化や非難がないときに注意深くいられるのです。そのような精神はそれ自身を照らし出す光りです。そしてそのような光りである精神だけが恐怖をもたないのです」。
読み進めるほど、正直、心がどきどきしてくる。それは、何かに唐突に出遭ったときのどきどきではなくて、もっとこう、淡々とした中でのどきどきだ。うまく表現できないのがもどかしいが。
クリシュナムルティの言葉を辿っていると、どうしても、自己一致と無条件の受容ということが浮かび上がってくる。私の中に。そして、私の心は深く沈みこむ。私の内奥に深く深く。

鶏肉が安かったのでまた鶏肉を買ってみる。さて、何を作ろう。お弁当のおかずだ、何がいいだろう。迷った挙句、鶏肉を衣を付けて揚げてみる。そこに甘辛のあんかけ。これでまぁ何とかなるんじゃないか? 半熟に茹でた卵をじぐざぐに切って半分に割り、お弁当に入れる。あとは野菜と苺。そして塩むすび。
作り終えたお弁当をテーブルに乗せ、私はお茶を入れる。何を飲もう。さっき見つけた桜緑茶なるものを飲んでみようか。私は早速カップにお湯を注ぐ。途端に辺りに広がる桜の香り。あぁこんなんなら、和菓子を買ってくるんだった。少々後悔。無性に餡子が食べたくなる香りだ。そして、同時に、春を思い出させるいい香り。
部屋に掃除機をかけていると、娘が帰ってくる。おかえり、ただいま。ねぇ聞いてよ。何? 今日テスト四枚もやったんだよ。ふぅん。先生ね、授業が遅れてるからテストも溜め込んでて、なのに明日も出張なんだよ。え? そうなの? だめじゃん。ほんとだめなんだよ、どうすんだろ、ほんとに。隣のクラスなんてもうずっと先にいってるのに。
彼女の話はひたすら続く。それでね、今日の国語の宿題が、だじゃれを三つ考えてくるって宿題なんだよ。はい? だじゃれ? だからさぁ、カエルがかえるだとか、イルカはいるかだとか、そういうの。あ、もう二つできた。ママの時代には、古典がこてん、ってのがあった。何それ? 古典がこてんと転ぶんじゃないの? 変なの! でもまぁいいや、これでもう三つできた。宿題終わり。わはははは。こんなんでほんとに宿題なの? 先生がいいっていうんだからいいんじゃないの? へぇぇ。なんかママ、よくわかんない。
用事があって私も駅まで出ることにする。一緒にバスに乗ると、娘はふんふんと鼻歌を歌い始める。世界でひとつだけの花、という歌らしい。この曲って誰の曲だっけ? Mの曲でしょ。えーーー、違うよ、Sの曲だよ。いや、違うよ、Sはその歌を歌ってるだけで、歌を作ったのはもともとMなんだよ。Sって自分で歌作らないの? うーん、知らないけど、少なくともこの曲はMの歌だよ。なんだぁ、つまんない。なんで? すごい曲だなぁって思ってたから。そうなんだ、どういうのがすごいの? だって、誰でも知ってるでしょ? ばぁばもじぃじも知ってる。教科書にも載ってる。なんかすごいなぁって思ってた。あぁ、ばぁばもじぃじも知ってるって或る意味すごいよね、あの人たちが知ってる歌謡曲なんてほとんどないもんね。だからさぁ、偉大な歌だなぁって思ってたんだ。偉大、かぁ、なるほどなぁ。自分の作った歌がいろんな人に歌われるんだよ? 想像しただけですごくない? なるほどなぁ、考えてもみなかったよ、ママ。ママって想像力なさすぎっ! え?! ママは本ばっかり読んでるからだめなんだよ。え?! もっと世界を見なくちゃ! …。
まさか娘にそんなことを言われるとは思わなかった。想像力が欠如は逆に、最近の子供たちの傾向なのかと私は思っていたのだが。いや、しかし、想像力という言葉を使う箇所が、微妙に違っているのかもしれない。でもまぁここで言い返しても、堂々巡りになりそうなので、私は口を噤む。いや、娘よ、ママにだって想像力はあるぞよ、と、心の内で言い返しながら。

家に帰り、ふと思いついて風呂にお湯をはる。髪を洗おう、そう思った。もう腰まで届くほど伸びた髪を、ふだんゆっくりいたわってやる暇がない。だからこういうとき、丹念にトリートメントでもしてやろう、そう思った。
入浴剤を入れて、心の内で娘にこっそりお風呂入ってごめんねと謝りながら、湯に浸かる。体があったまったせいだろうか、気づけばうとうとしてきている。私は慌てて湯から上がり、髪を洗い始める。
シャンプーは二度、そして集中トリートメント剤を髪につける。よく揉み込む。蒸しタオルを頭に巻いて再び入浴。十分くらい待てばちょうどいいだろう。
洗い立ての髪にドライヤーを当てながら、再び娘とのやりとりを私は思い出す。想像力の欠如ほど或る意味怖いものはないと思う。鏡の中映る顔は、少し疲れてはいるが、お風呂上りということもあって血色はいい。私はついでにクリームでマッサージもしてみることにする。たまにのことだ、ご褒美だ、娘に対して申し訳ない気持ちに言い訳をしながら。
起きてきた娘に雪だよと告げると、娘は窓を思い切り開けた。ほんとだ、雪だ! もう積もってるよ、ママ、ほら、屋根がみんな白いよっ。うんうん。雪って本当は虹色なんじゃないかって時々思うよ。へぇ、どうして? だってさぁ、雪ってわくわくするじゃん。うん。わくわくして、どきどきして、嬉しくなるじゃん。そういう色ってさぁ、ただ白ひとつなわけじゃなくて、いろんな綺麗な色が交じり合っているような気がする。なるほどぉ。そうかもしれないね、うん。
行ってらっしゃい。行ってきます。私は登校班を見送って、バス停へ。濡れたアスファルト、滑らぬよう気をつけながら歩く。
駅はだいぶ混雑しており、多くの人が首を竦めて歩いている。でも何故だろう、私は今朝それほど寒さを感じない。いや、確かに寒いのだが、でも昨日の午後の方が今日より寒かったような気がする。
各駅停車の電車に乗り、目的の駅へ。その駅はかつてさんざん、そうおなかが大きい頃、通った駅だ。久しぶりに降りる。店の名前は変わっていないけれども、店の中は大きく変わった。昔の面影はどこにもない。とりあえずロイヤルミルクティを飲もう。そう思いながら入る。
シクラメンが大きなテーブルの中央、飾られており。あぁ母の好きな花のひとつだ、と思い出す。母の病は、続いてはいるけれども、でも、旅行できないわけでもないだろう。早くお金を貯めて、温泉のひとつでもプレゼントしたい。そう思う。
さぁやることをやってしまわねば。まだ雪は降り続いている。


2010年02月17日(水) 
何やら騒々しい音で目が覚める。何だろう。小屋に近づいてみると、三人が三人とも外に出て、出入口の扉のところをがっしと掴んで待っている。ココアもミルクもがしがし、唯一ゴロだけが遠慮がちに、それでも扉のところで待っている。おはようゴロ、おはようミルク、おはようココア。どうしたの三人とも、一斉にそんなことされても、いっぺんにみんな手に乗っけるわけにはいかないんだから無理だよぉ。私は声を掛ける。それでもがしがしがし。扉の境目のところを齧っている。そしてこちらを見つめる円らな目。これで見つめられると、つい情がほだされるのだ。私はまずココアに手を差し出す。とんっと小さな音を立てて乗ってきたココアは、手のひらに乗った途端顔を洗い始める。私はそのおなかを人差し指でこにょこにょと撫でてやる。さて次はミルク。ミルクは扉を開ければ勝手に飛び出してくる。私が手のひらに乗せる暇もない。ちょっと待ってよと言いながら彼女の背中を掴んで手に乗せる。ちょっと興奮状態のミルクは、私の動作など全くお構いなしで、手のひらから二の腕まで一気に駆け上がってくる。私はそんなミルクの頭を撫でてから、一度ひっくり返しておなかを撫でて、それからそっと小屋に戻す。最後はゴロ。手のひらに乗せてやると、ぶるんと体を震わせ、そして動かなくなる。じっとしている。私は彼女の頭をこれもまた人差し指で撫でてやる。
お湯を沸かし、今朝は生姜茶を入れる。黒茶と生姜、それから最後に甜茶が加わったちょっと甘みのあるお茶だ。昨日見つけた。これからしばらくお世話になりそうな気配。おいしいのだ、とても。生姜の味もまろやかで、癖がない。プーアル茶にちょっと疲れていた私の口には、ちょうどいい。
カーテンを引いて窓を開けると、まだ夜の闇が辺りを包んでおり。点る灯りは四つ。どんよりとした雲が空全体を覆っている。今日も曇天なのかもしれない。思いながらじっと空を見上げる。でも何だろう、昨日よりはずっとあたたかい気がする。
ふぅふぅとお茶の湯気に息を吹きかけながらお茶を啜る。椅子に座って、私は朝の仕事に取り掛かる。

お弁当の具は何にしよう。とりあえず今冷蔵庫にある肉は豚と鶏。私は鶏肉を選んで、とりあえず唐揚げ粉をまぶす。簡単に簡単に。じゃぁ次はブロッコリーを茹でて、その後鶉卵を茹でて。お弁当用に安売りしていた小粒の苺を買ってきたからそれも詰めて。あっという間にお弁当はいっぱいになる。ご飯はいつものようにお握りを。
作り終えたお弁当をテーブルの上に置いて、私は復習を始める。家族療法のところだ。自分の体験も踏まえて、授業の内容を辿る。でも何だろう、たとえばうちの家族がそうであったように、どこまでも拒絶する家族だってある。少なくとも最初のうちは、拒絶するのが普通なんだろうな、なんて思ってしまう。それをどう解きほぐすことができるのか。世代を越えて連綿と続いてきた見えないルールを変更するというのが、その人たちにとってどれほど大変な作業になるか。
ノートを整理し終えたところにちょうど、娘が走って帰ってくる。もう最悪、いつまでたっても終わりの会が終わらないんだもん、これじゃぁ遅刻しちゃうよ! ほら、お弁当。うん、ありがとう。気をつけてね。うん、じゃぁまた後でね! 鞄に教科書やノートを突っ込んで、娘は再び玄関を飛び出してゆく。子供ってどうしてこんなに忙しいんだろう。いつも思う。こんなに忙しかったら、時間を味わっている暇なんて、ないんだろうな、と。もしかしたら私も昔はそうだったのかもしれない、いや、確かに私も忙しかった、でもその頃はそれが当たり前だと思っていたし、駆けずり回っていないと逆に心配というか不安にさえなるほど、忙しいことが当たり前だった。もう遠い昔だ。
娘がバスに乗るのをベランダから確かめ、私は部屋に戻り、本を開く。クリシュナムルティの「恐怖なしに生きる」という本だ。少し前から再び読み始めた。「恐怖を生みだす主な原因のひとつは、私たちが「あるがままの自分」と直面しようとしないことです」「確実なことから、不確実なことへの心の動きを、私は恐怖と呼んでいるのです」「思考というものはいつだって古いのです。なぜなら思考は記憶の反応であり、その記憶がそもそも古いのです。思考は時の流れの中で「怖い」という感覚を創りだしますが、それは実際に起こっていることではないのです」「私たちが恐れているものは、古いものの反復なのです。すなわち、未来へ向け投入されてきた思考を恐れているのです」「何かにじかに向かいあうとき恐怖はありません。恐怖があるのはそこに思考が入り込んだときだけです」「思考の作用のひとつは、始終何かを思いめぐらしているということです。私たちの多くは、心を絶えず何かでいっぱいにしておきたいのです。そうすれば、あるがままの自分を見なくてもすむからです。空っぽになることが怖いのです。自分の恐怖を直視するのが怖いのです」「あなたはあらゆることを恐れていますが、そこにはただひとつの恐怖があるだけです」「恐怖とはさまざまな形で表れる単一の動きなのだということ」「いかなる結論も出さずに、また恐怖に関して蓄積してきたどんな知識も介入させずに、恐怖を見つめる」「心が自分のさまざまな問題や不安についてああだこうだと自問自答している場合には、人の話していることに耳を傾けられません。それと同じで、恐怖を見つめることができるのは、心がほんとうに静かなときだけです」「観察者こそが恐怖そのものです」「自分は恐怖と分離したものではなく、その一部であり、自分が恐怖であることを理解するとき、恐怖に対してはもう何もできません。そのとき、恐怖は終わりを告げるのです」。

娘から短いメールがことりと届く。「ママ、お弁当忘れちゃったよ。悲しい!」。私は慌てて彼女の机を振り返る。そこには確かにお弁当が。あぁ、今頃おなかを空かせているんだろうなぁ、思いながら、私はメールの返事を打つ。「あぁ残念。じゃぁ帰ってきたら食べてね!」。友達がばくばくお弁当を食べているのを見ながら、彼女は今どんな思いをしているんだろう。かわいそうに。帰ってきたら、お弁当をあたため直してやろう。

押入れを整理していて、大量のカセットテープが出てくる。さて、これをどうしたものか。様々なアーティストのミュージックテープ。あの頃の私は、テープレコーダーしか持っていなくて、だから友人にいつも、カセットテープにダビングしてもらったものだった。懐かしい。それにしても、自分は、本当に雑食だったのだなぁと改めて思う。これというジャンルじゃなく、あっちこっちをつまみ食いしている。カセットテープをひとつひとつ眺めていて気づいた。このテープは誰それから、このテープは誰から、といちいち書いてある。そういえばこの人からよくダビングしてもらったっけ、と私は眺めながら笑う。もう昔の昔。制服を着ていた、懐かしい遠い昔。
結局まだ棄てられず。私はとりあえず元の場所にカセットテープを戻し、押入れを閉める。また時期が来たら、その時片付ければいい。今はもうしばらくここで、眠っていてもらおう。

娘が朝から、以前録画していた「地獄少女」を見ている。私はそれに対抗して、ASIAの曲をがんがん流している。すぐ近くにいるのに、全くそれぞれ別のことをして、朝のしばしの時間を過ごす。突然娘が言う。ママ、その曲、どんくらーって聴こえる。どんくら? どんだけ暗いわけ? 違うよぉ、ドントクライって言ってるんだよ。えー、どんくら、どんくら、俺は暗いぜーってヤケクソになってる感じ。…そういう解釈も、あるってことね、そういうのは初めて聴いた。どんくらって言ってるのに明るい曲だよね。だからぁ、これはドントクライって言ってるんであって、暗いって言ってるわけじゃないから。私は大笑いする。彼女はどんくらどんくらと言いながら腰を振って踊り出す。
じゃぁね、うんじゃぁね。娘の手のひらに乗ったココアのおなかを、私はもう一度人差し指でこにょこにょ撫でる。
玄関を出るとやはり曇天。重たげな雲が空を覆い隠している。階段を駆け下り、自転車に跨る。ちょうどやってきたバスと競争しながら走り、私は角を曲がる。
公園に立ち寄ると、やはり今日は氷が張っていない。たぷたぷとした水が小さい池の中、ゆったりと横たわっている。そこにはこちらに迫ってくるような雲と裸の枝々とが映り込んでいる。私はそれに向かって、小さな石を投げてみる。ぽちゃっと音を立てて沈んだ石の、波紋だけがふわわと池に広がる。
高架下を潜り、埋立地へ。プラタナスは綺麗に枝を払われ、風に身をちぢこませながらそこに立っている。
見上げれば曇天。でも。
それでもあの向こうには青空が広がっている。
私はもう一度思い切り足に力を込めて、ペダルを漕ぎ出す。


2010年02月16日(火) 
窓を開けると、ぐんと冷えた空気がそこに在った。雨がぽつりぽつり、降っている。その雨に手を差し出すと、空気よりあたたかくさえ感じられそうな大きな雨粒がぽつり。今日は雪になるかもしれないと、天気予報が言っていたっけ。空を見上げれば、暗闇の中でも分かる、一面雲が覆っている。今にもこちらに堕ちてきそうなほどくぐもった雲。
お湯を沸かし、紅茶を入れる。そこに檸檬を軽く絞ってみる。絞った手のひらを鼻に近づけると、ぷわんといい匂い。紅茶の色も、明るい色味に変わってゆく。
足元ではゴロが餌箱の中、ころりんと丸くなっている。おはようゴロ。私はいつものように声を掛ける。声に反応して、鼻をひくひくさせながら後ろ足で立つゴロ。私は人差し指の腹で、彼女の頭をこしこし撫でてやる。
テーブルの上、まだ捨てられないオールドローズ。もう萎れかけたその花びらを私は撫でてみる。はらり、また一枚、花びらが落ちる。それでもまだ生きているのだからと、私はまだ捨てられそうにない。ガーベラはまだぴんと花弁を伸ばして咲いている。濃い紅色が、台所の明かりを受けて静かに輝いている。
着替えながら、今朝も、暖房をつけようかどうしようかと悩む。もういい加減暖房を入れてもいい時期なんだと思うのだが、なかなかつけられないでいる。寒いのだから素直につければいいのに。そう思うのだが、スイッチに手が伸びていかない。
娘はまだまだ眠りの中。昨日夜、二人でじゃれあったせいで、布団が微妙に崩れている。私はそれをそっと整え、娘の首が冷えないように布団を掛け直す。

病院の日。いつもどおりに診察はあっけなく終わり、私は薬を受け取りに薬局へ。しばらく前から、分包をやめてもらうことにしたため、これまでよりは早い時間で薬が出てくる。私はそれを受け取って、待ち合わせの喫茶店へ。空からはぽつり、ぽつりと雨が降り出している。傘を持ってくればよかったかなぁと、空を見上げながら思う。
久しぶりに会った友人は、最近の出来事をいろいろ話して聞かせてくれる。娘さん二人との新しい生活、それにともなって生じる様々なやりとり。何となくだけれど、ベクトルが外に向いてきたのかも、といったことを彼女が話す。
ふと、無意識に人を傷つける、無知ゆえに人を傷つけるということの怖さについての話になる。意識あって人を傷つけるのであれば、それは加減もできるが、無知ゆえの、無意識によるものだとその加減さえできず。これほど怖いものはないね、と話し合う。本当にそうだと、つくづく思う。そして、また、侵入する、侵入されることについても話をする。侵入感のある人には、もうできるだけ近づきたくはないなぁと彼女が苦笑するのを、私は見守る。
こんなふうに穏やかに話ができるようになるまで、彼女とどのくらいの時間を経ただろう。知り合った最初はお互い高校生だった。でも多分その頃の私たちは、互いに侵し合っていた気がする。そして離れた。途中何度かすれ違いはするが、私たちはただすれ違うだけだった。
そうしてようやく再会して、今に至る。もし対等な親密さというものがあるのであれば、今の関係がそれに近いのかもしれないと思う。

娘の郵便を出しに郵便局へ。厚い手紙だ。一体何が書いてあるんだろう。郵便局で切手を買う折、局員さんにも言われる。厚い手紙ですねぇ。
ポストに落とすと、ことりと音がする。私はこの音が好きだ。この音の向こうには見えない扉があって、その扉をくぐると、まさにドラえもんのどこでもドアの如く、行きたい場所へ続いている、そんな気がする。
娘の手紙が無事に届きますように。そしてできるなら、相手から返事がちゃんと届きますように。私は祈りながら、郵便ポストから離れる。

お茶が瞬く間に冷めてゆく。それだけ冷えている。カップを持つと、ひんやりとした温度が指先を伝って背中まで走ってゆく。私は時計を見、娘に声を掛け、もう一度お湯を沸かす。今度は何にしよう、少し迷って、先日買い足した、アメリカの先住民に伝わるものだというハーブティーを入れる。
窓の外、徐々に徐々に、灰色の空が露になってきている。

ママ、ママ、この日、授業参観だよ。何の授業やるの? 二分の一成人式やるの! 何、それ? 成人式が二十歳でしょ、今私たち十歳だから、二分の一。なるほどぉ、じゃぁ行かなくちゃいけないね、何時間目? 多分五時間目だよ。なら大丈夫だ、その日午前中は病院だからね。うんうん。
そして娘は、見ていたドリフターズのDVDに合わせ、いきなり踊り始める。だから私は言ってみる。あのさぁ、あなた、お笑い芸人にでもなれば? なんで? だってそうやってるとき結構楽しそうだから。娘は私の声など聞いていないといったふうに、どんどん踊りに夢中になってゆく。そしてはたと気づいたように、立ち止まる。ねぇママ、お笑い芸人ってどうやったらなれるの?

実家に電話をする。おめでとう、と私が言うと、全然めでたくないわよ、と母が笑う。そして、検査結果を話し出す。
とりあえず今のところ大丈夫だということ。ただ四年間、三ヶ月ごとに検査を受けなければいけないこと。今ステージ2だから、できるならステージ3のうちに寿命を終えたいということ。その他諸々。
ステージ2、という言葉が、私の胸に刺さる。それはもうすでに分かっていたことなのだけれども、それでも痛い。母の肝臓は今頃、どんな色をしているんだろう。できることなら確かめて、そして塗り替えられるものなら塗り替えてしまいたい。

それじゃぁね。じゃぁね、あ、ママ、今日お弁当作ってね。了解、戻ったらすぐお弁当作っておくよ。うん。
私は娘に見送られながら玄関を出る。階段を駆け下りて自転車へ。しかし走り出してすぐ気づく。まだ雨が降っている。でももう走り出した後。今更戻るのもなんだかばかばかしい。私はそのまま走る。
公園の池には氷が張っている。私はその氷を爪先でつんつん突付いてみる。それなりに厚いらしい。簡単には割れないそれを、私はしばし見つめる。映るのは暗い灰色の空と裸の枝々。でもその桜の枝にはもう、新芽が膨らんでおり。固い固い新芽。いつ芽吹くのか、今はまだ分からないけれど。それでもここにこうして新芽は在り。
高架下を潜り、埋立地へ。ふと思う。ここにもし雪が積もったらどんな景色になるのだろう。真っ白に輝くこの街を一度見てみたい。
真っ直ぐ走り、美術館の脇へ自転車を止める。見上げれば、モミジフウの樹にはまだあの実がブラり、ぶらりとぶらさがっている。強い風を受けて揺れるその実は、黒褐色の塊。まるで今私の喉元にひっかかるもののようだ。私は見上げながらそんなことを思う。
海は低くざわめき。白い波さえもが灰色がかって見える。
このまま荒れ狂ってしまえばいいのに。そんなことを思う。荒れ狂い、猛り狂って、あらゆるものを呑み込んでしまえばいいのに。突然飛び上がった魚が、銀の腹を翻し、再び海に堕ちてゆく。あの海の中はあたたかいんだろうか。いっそのことここから飛び込んでしまいたい。そんなこと出来ない相談だと分かっていながら、私は想像してしまう。
海を後にし、川沿いに自転車を走らせる。しばらく行くと、鴎が首を竦めて、それでも風に向かってひっしと両足を踏ん張らせている。群れる鴎。私はその姿をただじっと見つめる。真っ白なその体躯が、灰色の世界の中、唯一輝いている。
「世界は、ですから、あなたの延長です。もしも一人の個人として、あなたが憎しみを滅ぼしたいと願うなら、そのときあなたは個人として憎むのをやめなければならないのです。憎しみを滅ぼすには、それがどんなかたちをとるものであれ、あらゆる憎しみから自分を切り離さなければなりません。それにとらわれているかぎり、あなたは無知と恐怖の世界の一部なのです。世界はあなたの延長であり、世界は複製され、増幅されたあなた自身なのです。世界は個人と離れて存在するものではありません」「あなたが無思慮で、無知と憎悪、貪欲にとらわれているかぎり、世界はあなたの延長なのです。しかし、あなたが真剣で、思慮深く、そして目覚めているとき、そこには苦痛と悲しみを生み出すこうした醜い原因からの分離があるだけでなく、その理解の中には、完全性、全体性があるのです」。(クリシュナムルティ)
心の中、繰り返し呟いてみる。そして私は、顔を上げて前を見つめる。またここからだ、ここから始めればいい。自分の中に渦巻くものはこうして棄てて、またここから始めればいい。
そう、今日という一日が、また、始まってゆくのだから。


2010年02月15日(月) 
ミルクの回し車の音を聴きながら眠った昨夜。今朝はもっと軽やかな音で目が覚める。あぁこれはゴロだ、そう思いながら体を起こす。籠に近寄って見てみると、やはりゴロが回し車を回している。彼女の音は本当に軽い。軽やかだ。下手をすると回し車の音がほとんど聴こえてこないくらいだ。おはようゴロ。私は声を掛ける。その声に反応したように、ゴロだけでなくミルクまでもが小屋から出てきてこちらを見上げる。おはようミルク。私はこちらにも声を掛ける。彼女たちは二人して前足を立てて後ろ足で立ちながら、籠の入り口で、開けて開けてとねだっている。私は苦笑しながら、また後でねと声を掛ける。
テーブルの上、オールドローズが最後の最後を迎えている。はらりと散り落ちた白い花弁は、もうだいぶ萎れており。それでも花瓶から花を取り出すことができずにいる私。それでもどうしてだろう、昔のように、時間を巻き戻したいとは思わなくなった。これはこれでひとつの儀式というような。そんな気がする。誰もがいずれ終わりを迎える。花も人も皆。その終わりはおのずと迎えられるべきもので、拒否するものではなく。自分も年をとったからかもしれない、そんなことを思う。
その傍らで、ガーベラはまだ一生懸命花を咲かせている。花瓶の水を取り替えながら、もう少し頑張れるかな、もうちょっと咲いていてくれるかな、と思わず声に出して呟く。もういつ終わってもおかしくない頃合。だのに、花の色は褪せるよりも濃くなっていっている気がする。目の覚めるような赤が、今では濃い紅色だ。
有元利夫のロンドがステレオから流れている。とてもやさしいハープシコードの音色。ひとつひとつの音が、何だろう、立ち上がってくるような、そんな気配。そうして天へ天へと昇ってゆく。そんな音。
お湯を沸かし、プーアル茶を入れる。濃い目に出したお茶を口に含みながら私は椅子に座る。窓の向こうはまだ闇の中。今朝点っている灯りは五つ。線で結んだら、ちょっと歪な星型ができる。

走るほど雪に覆われてゆく景色。でも自宅にいるときより寒さは感じられない。このくらい寒いのがちょうどいい。そんな感じ。それに思ったよりは雪が少ない。この地方の冬の雪はこのくらいなのか、と改めて眺める。
東京駅を出るとき、空は重くくぐもっていた。そして細かな雪がふわふわと降っていた。でもこちらへやってくると空は水色に広がり。その陽光は白い雪で乱反射する。目を瞑りたくなるほどの眩さ。
訪れた美術館は、雪の中、ひっそりと建っていた。朝早い時間で、まだ美術館を訪れる人は誰もいない。私は響く足音にちょっとどきどきしながらフロアを回る。フレスコ画を彷彿とさせる画面。淡々と描かれる人の輪。物語が自然に浮き出してくるようなその画風。若くして亡くなってしまった画家の軌跡を辿る。フロアに流れる音楽は、恐らく彼が作曲したロンドだろう。ハープシコードの音色に、時折リコーダーの音が重なる。その音がさらに、絵から流れ出る目に見えない耳には聴こえない音楽を、高みへ高みへとうねり昇らせてゆく。彼はあの時代にありながら、どうしてこの画風へ辿りついたのだろう。ふとそんな素朴な疑問が浮かぶ。彼の中に在ったのは何だろう。
風化してゆく画。風化するほどに降り積もってゆく画の生命。沈黙の旋律がもしこの世にあるのなら、まさにこの画の醸すものはそれだろう。こつ、こつ、と響く自分の足音さえ、その旋律に巻き取られてゆく気がする。
見終えて外へ出ると、眩い光の洪水。何処にも音などないというのに、先ほどまで聴いていたハープシコードの音色が、最大音量で耳の内奥に蘇る。

その昔、取材したことのある作家の展覧会へ。まだカタチやコトバになる以前の何かがそこに在る。彼の画を見ているとそのことを強く思う。フロアに降り積もるのはまるで、静かな雪の音のようで。彼の絵は何故こんなにも冬に似合うんだろう。
初期から現在までを辿る展示。モノクロの画面に徐々に徐々に色が現れ始める。そしてその色はどんどん余計なものを削ぎ落とされてゆく。この作家は何処までこうして、余計な着物を削ぎ落としてゆくのだろう、それを思うとちょっとどきどきする。生きていれば生きているほど、要らない着物まで着込みたくなるのが人の性。それを究極まで削ぎ落としたとき、そこには何が在るんだろう。
途中、ガラス絵のスペースがあった。そこに清宮先生の名を見つけ、何故だか私はほっとする。ガラス絵の描き方は清宮先生のそれと彼のそれとは異なるのだけれども、それでも、ここにこうして、別の形であっても引き継がれているものがあること、そのことに、ほっとする。

ねぇママ、ママはどうして写真作るの? え? 何が面白いの? うーん、何が面白いのか、まだよく分からないんだけれども、ママが表したいものがたまたま写真に在ったということかなぁ。絵とかじゃなかったわけ? そうだね、絵じゃなかった。切り絵でもなかった。これを外に出したい、今ここにママの胸の中にある何かを外に出したいと思ったとき、それが一番しっくりくるのが写真っていう術だった。ふぅん。絵描いている人とか写真撮ってる人って、みんなそうなの? そうなのって? みんな、これしかないと思ってやってるの? どうなんだろう、よく知らない。そういう人もいれば、気づいたらその術を選んでたという人もいるかもしれない。そうなんだぁ。ママはどうして色がいっぱいの写真は作らないの? そうだねぇ、ママにはまだ色はよく分からないからかもしれない。色が分からないってどういう意味? うーん、ママには、世界が白と黒にしか見えない時期があったんだよ。ええーー、変なの! ははは、そうだよねぇ、世界には色が溢れてるはずなんだから、白と黒だけなんて変だよねぇ。でもそうしか見えない時期があったんだよ。ふぅん、それで? ママの世界は今はだいぶ色が戻ってきたけれど、それでもやっぱり、色よりも輪郭の方が濃く見える。だからかな。ママの世界は色で構成されているわけじゃぁない、ってことなのかな。ふぅん、なんかよく分かんなくなってきた。ははは。
じゃぁさ、ママさ、もし写真にモノクロが無かったら、写真、やってなかったかもしれないの? あ、そうだねぇ、もしそういうのが無かったら、やってなかったかもしれないなぁ。へぇぇ、そうなんだぁ。ママ、モノクロあってよかったね。そうだね、それがなかったら、ママ、窒息してたかもしれないなぁ。なんで? 胸の中がこうぱんぱんになっちゃって、それで破裂しちゃってたかもしれない。破裂すんの? うん、してたかもしんない。ふぅーん。

…多分、もう破裂してしまうんじゃないか、という時期は、過ぎたと思う。今は、もうすでに写真が私のそばに在るし、それ以外の術でも、それなりに自分の中の何かを出す方法を見つけてきた。でも。
あの頃は、そう、あの頃は、もうどうしようもなかったんだ。どんどん膨らんでゆく自分の中の何か。言葉で辿るなんて、そんな時間はなかった。言葉に還元できるくらいなら、それをしていただろう。言葉に還元できないからこそ、私は困ったのだ。どんどん膨らんで膨らんで、破裂しそうなほど膨らんで。
もう駄目だ、と絶叫しかけたとき、写真という術を見つけた。
これだ、と思った。これしかない、と思った。そしていきなり私はカメラを持ち、いきなり引き伸ばし機にネガをセットし、いきなり印画紙を現像液に突っ込んだ。マニュアルもへったくれもなかった。全部無視だった。そんなもの読んでいる時間がなかった。
失敗を繰り返す、その作業さえ私には必要だった。失敗する中から自分の術を掴んでいった。この絞りで何秒、なんてルールは、私の中になかった。我武者羅という言葉を私の人生に添えるなら、多分あの時期なんだろうと思う。
この写真という術、どこまで続くんだろう。最近時折そう思うことがある。私は何処まで写真をもって歩いてゆくのだろう、と。

ママ、今日ばぁばの誕生日だね。あ、しまったぁ! どうしたの? 花、注文するの忘れたっ。あーあ、知らないよぉ。もう私、四つもプレゼントしたよ。あちゃぁ、やばいなぁ。あーあ、子供が親の誕生日忘れてどうすんの、だめだなぁ、ママ。今日までになんかしなくちゃだめだよ。そうだねぇ、ほんと。まずいまずい、ほんとにまずい。
私は玄関を出ながら、頭の中は今日どうするかでいっぱいになっていた。娘が差し出す手のひらの上のココアは、そんな私を見透かしたように、「心ここに在らずでしょ」といった顔でこちらを見ている。心の中で詫びながら、私は頭を撫でる。じゃぁね、行ってきます。行ってらっしゃーい。
灰色の空の下、傘を持っている人も何人かいる。バスに乗り、駅へ。月曜日の駅は何故だろうみんな、疲れて見える。日曜日という時間を過ごしたせいなんだろうか。何処か物憂げで。
ヘッドフォンからは、相変わらず有元利夫のロンドが流れている。しばらくこの曲をひたすら聴くことになりそうな気がする。
電車は川に差し掛かり。何処からも陽光は漏れてくることはなく、だから川は暗く重くひたすらに流れる。川の中ほどに、大きな流木。何処から流れついたのだろう。そしてまた、これから何処へ流されてゆくのだろう。
そして私も。
人の波に押し出されるようにして改札を出る。さぁ今日もまた一日が始まってゆく。


2010年02月12日(金) 
夢に押されて飛び起きた。何を夢見ていたのか飛び起きた瞬間に忘れたのだが、それでも、久しぶりにどっきり驚かされた、その感触は今も背中に残っている。不快な夢ではなかった。素直に驚いた。ただそれだけだったのだが。
顔を洗って化粧水を叩いていると、かさこそと音がする。小屋に近づいてみると、ゴロが今朝もやっぱりこちらをうかがっているところで。私はふと思いついて、昨日焼いたクリームチーズ入りのパンの欠片を差し出してみる。すると彼女は、ぱっと飛びついて、私の指先から欠片を取り、はぐはぐと食べ始めた。よしよし。私は嬉しくなる。昨日焼き立てのものをあげたら、ミルクは食べてくれたのだがココアには無視された。実はひそかにショックを受けていたのだが、こうしてゴロが食べてくれるのを見ると、まずいわけではないらしい。ほっとする。
お湯を沸かし、コーディアルティーを入れる。仄かな酸味と甘みが私の口の中に広がる。ただそれだけのことといえばそうなのだが、なんだか毎朝のこうした行為が、私をほっとさせる。
窓を開け、外を見やる。気持ちが締まるほどの冷気が私を包み込む。気持ちがいい。素直にそう思う。しっとりと湿り気を帯びたその冷気は、深呼吸する私の喉にすっと入り込む。天気予報では雪になると言っていたが、どうなのだろう。今のところまだ、雪では、ない。
昨日娘と、机の置いてある部屋を片付けた、そのゴミ袋が部屋の片隅、置いてある。豪勢に捨てたものだな、と思うが、たまにこれをやらないと、うちでは紙が溜まる一方になってしまう。どうも紙を捨てるのが私たちは下手らしい。また、娘が今回、三年生の時に使っていた塾のノートもごそっと捨てたものだから、ゴミ袋はたんまり膨らんでいる。ゴミを出せる土曜日までの我慢。
テーブルの上、もうとうとう、オールドローズが終わりを迎えたらしい。はらはらほろほろと花びらが散り落ちている。花にそっと触れると、残りの花びらもはらはらりと落ちていった。私は花びらをかき集め、そっとゴミ箱に捨てる。この瞬間がもう、どうしようもなく切ない。ありがとうという気持ちを込めて、そっとそっと、捨てる。ガーベラはまだ花びらを凛と伸ばし、咲いていてくれている。私は、もう少しの間咲いていておくれよ、と、祈るように思う。
朝の仕事を始める前に娘を起こさねば、と、声を掛けようとした瞬間、娘が起きた。おはよう、と声を掛けると、好きな曲じゃないから起きちゃった、と言う。ステレオからは日本の女性歌手の歌声が流れている。朝からバラードというのもどうかというところなのだろうか。私は彼女の好みの曲に切り替え、そして仕事に取り掛かる。

川を渡り、とりあえず百円ショップのすぐ近くのファミリーレストランに入る。そこで娘は勉強、私は仕事を少し為すことにする。
朝のファミリーレストランは、こんなにも酔っ払いが多いのか、と驚くほど。私たちは辟易しながら、できるだけ自分の仕事に没頭する。それでも娘が時折、メモを書いてよこす。あそこの席の人、またお酒注文してるよ。あそこの席の人、また店員さんに文句言ってるよ。私はそのたび苦笑する。どうも勉強より、娘は人間観察に気が行っているらしい。まぁ仕方がない。それもまたひとつの勉強。
すると、すぐ後ろの席のカップルが、喧嘩を始めた。罵倒の嵐である。こちらが首を竦めたくなるほどの甲高い声があちこちに響き渡る。娘は目を丸くしてそちらを凝視している。それが終わり、二人がそっぽを向き合いながら店を出て行くと、今度は外国人の集団が隣の席へ。もうこれでもかというほどの大きな笑い声を響かせる。本当にもう、落ち着く暇がない。
もう少しだ、もう少しで店が開く、と呪文のように娘に言い聞かせ、時間ぎりぎりまでそこで過ごす。そして時計を見、さぁ開店だ!と、店を飛び出す私たち。娘は三階分の階段を一気に駆け上がる。その時期を反映して、店内には、バレンタイングッズがこれでもかというほど並んでいる。
昨日ママがチョコ買ってくれたから、必要なのは包装紙とかだよね? うん、そうだね。どれがいいかなぁ、ハートの模様のにしようかなぁ、それともこっちの水色のにしようかなぁ。ピンクもあるよ? ピンクはキライなの。え? そうなの? うん。なんで? なんかぴらぴらしていて好きじゃない。ふーん、そうなんだ。
結局、お花の模様の包装紙と、それから黄色い包装紙を選んだ娘は、その他に筆記用具を籠に入れ、レジへ。貯めておいたお金を一気にここで使うつもりなんだろうか、と私は首を傾げる。でもまぁここは百円ショップ。彼女は自分で計算できるし、自分で何とかするだろう。私はただ後ろで見守っている。

家に戻ると、早速チョコレートを割る作業。一生懸命割りすぎたのか、彼女が持っていた袋が破けてチョコレートが部屋に飛び散る。呆気に取られる娘。まず最初の失敗。
その間に私はお湯を沸かし、鍋とボールを組み合わせて彼女に差し出す。ミルクチョコレートとホワイトチョコレート、それぞれボールに入れて、ゆっくりかき混ぜながら溶かしてゆく。最初、私に、手を出すなと言っていた娘だったが、ママ、やっぱり手伝って!と声がかかる。
買ってきたハート型の銀紙、星型の銀紙に、それぞれチョコレートを流し込んでゆく。少し固まり始めたところに、銀色の玉やスプレーのチョコレートなどを施してゆく。娘はもう、口もきかず、ひたすら作業に集中している。私はそんな娘の横顔を眺めながら、時折手を貸す。
娘が一段落したところで、私は私でパン作りを始める。何となく、クリームチーズ入りのパンを作りたいと思ったのだ。
分量を確かめながら、ドライイーストや砂糖、塩、バターなどを混ぜてゆく。今日はクリームチーズを混ぜるからバターは少なめに。はっきりいって教科書になるレシピはどこにもない。全部私の気分次第。というわけで、クリームチーズはたっぷりと使うことにする。そして、娘のチョコレート作りで余ったナッツ類を細かく砕いて、それもパンの生地に練り込む。
一体どんなふうに焼けるんだろう。一度もこんなレシピで作ったことはないし、全部目分量だから、二度と同じものは焼けないんだろう。そんなことを思いながら、私はパンが焼けるのを待っている。娘はその傍ら、一人ゲームに興じている。

夕飯の、久しぶりのカレーを食べながら、私たちはあれこれおしゃべりする。ねぇママ、ママは男の子にチョコレートあげたことある? あるよ。誰にあげたの? うーん、一番最初はね、近所に住んでた男の子。どうやってあげたの? 家がすぐ近くだったからね、家のポストに入れておいた。手紙とかつけて? うん、好きですって書いた手紙を添えてチョコあげたよ。何年生の時? うーん、あれは二年生の時だったかな? えー、二年生の時?! うん、そうだったと思うよ。それからそれから? うーん、ママはね、あんまりチョコってあげなかった。チョコあげるより、もらう方が多かったよ。え? どういうこと? 後輩の女の子とかからチョコレートもらうの。えーーー。変なのぉ! え、だって、あなただって友チョコっていうのあげるんでしょ、そういうのと一緒なんじゃない? えー、そうなの? ふーん。それにねぇ、チョコレートあげた男の子とはみんな、別れた。え、そうなの??? はははははは。そうだよ。みんな別れちゃった。ふられたの? ふられた、というか何というか。まぁ恋人にはなっても、結局しばらくして別れちゃったとかね、そういうふうだったよ。チョコレートあげると、だめってこと? うーん、どうなんだろう、わかんないけどさ、まぁママの場合、あんまりうまくいったためしが無いってことだよね。そうなんだぁ。うんうん。

眠る前、娘がぽつり、言う。ねぇママ、約束破るってどんな気持ちなんだろう。ん? だからさ、友達との約束破るって、よくないよね? うーん、まぁよくないなぁ。約束破られたら、友達やめていいの? え? 友達やめるの? うん。違うの? うーん、何で友達やめるの? だって約束破るんだもん、向こうが破ったら、友達やめていいんじゃないの? そんなことやってたら、何人友達いても足りなくなっちゃわない? うーん、そうなの? ママはそう思うけど。まぁでも、その約束の程度によるなぁ。自分から約束してきて、こうしようね、なんて言ってきてたのに、約束破られたら、嫌じゃないの、ママは? 嫌だけど。でもなぁ、それ一度きりで友達やめるっていうのは、ママはしないと思うよ。そもそも、その子はなんで約束破ったの? 知らない。そっかぁ、じゃぁ、ちょっとの間、様子見てればいいんじゃない? そうなの? だってさぁ、なんか事情があったのかもしれないよ、やむを得ない事情があって約束破らなくちゃならなかったのかもしれない。そうなのかなぁ? あなたにとってその約束はとても大切なものだったの? うん。そっかぁ、それじゃぁたまんないよなぁ。でも、だからってすぐ友達をやめるっていうのも、ママはどうなのかなぁって思うけど。分かった。じゃぁちょっと様子見てみることにする。うん、それがいいよ。しばらく様子見て、それでも駄目だったら、その時友達やめればいいじゃない。ね? うん、そうする。

玄関を出ると、雨が霙に変わっていた。念のために傘を持って出ることにする。
バスに乗り、駅へ。まず明日の仕事で使う切符を買う。これでよし。駅を横断し、そして私は川を渡る。
暗い暗い、重たげな色合いでもって、それでもとうとうと流れる川。あらゆるものを押し流して、それでも押し流せないものは脇に押しやって。流れ続ける。自ら止まろうとすることは決して、ない。
雲は裂け目ひとつ持たず、空を覆い隠している。それでも空は空で在り。霙が、見上げる私の頬を叩く。
さぁ今日も一日が始まる。しっかり歩いてゆかねば。私はそうして川を渡ってゆく。


2010年02月11日(木) 
腰の辺りに鈍痛を感じながら起き上がる。でもこのくらいなら何とかなる。体を起こしてから軽く、ゆっくりと腰を回してみる。大丈夫、これなら平気。
窓を開けると、しっとりとした冷気がゆったりと漂っている。夜のうちに雨が降ったらしい。そういえば夕方自転車で買い物に行くとき、ぱらぱらと雨が降っていたっけ。街路樹も街灯もみんな、濡れている。点る灯りまでもが何処か湿気を帯びて見える。静かな静かな朝。寒いといえば寒いけれど、でも、冬にしては暖かいともいえる。そんな大気。
テーブルの上の花たちは、暗闇の中、仄かに点っている。特にオールドローズの白は、闇の中浮き立つかのようだ。それに比してガーベラの赤は落ち着いた色味でもってそこに在る。残念ながら私にその香りはもう分からないけれども、でもきっと、それはとてもいい香り、やさしい香りなのだろうと思う。
それにしても。今朝は何だか変だ。ゴロもミルクもココアも全員が起きて、小屋の中をぐるぐると回っている。ぐるぐるぐるぐる、これでもかというほど駆けずり回っている。以前のミルクの発作を思い出す。まさか三人が三人ともこんな具合になるなんて。私は半ば呆然としながら彼女たちを見つめる。どうしよう、こういうときはどうしたらいいんだろう。その時ミルクが水飲みの管にがしがし噛み付いた。私はそれを見て、水を取り替えてあげるよ、とミルクに声を掛け、とりあえず動作を一度止めさせる。その間に私は彼女の水を取り替え、再び取り付けてやる。すると、きょとんとした顔のまま静止したミルクが、こちらをじっと見ている。その両脇の小屋の中では、ココアとゴロがまだぐるぐる回っている。
とりあえずミルクは止まったようだ。さて、ココアとゴロはどうしたものか。私がまだ術なく見つめていると、ココアが砂浴び場の砂に頭を突っ込む。でーんとひっくり返って砂浴びを始める。そして、止まる。あぁこちらも何とか止まった。じゃぁゴロは? ゴロはまだ落ち着かない様子で、回し車のところと入り口のあたりとを何度も往復している。私が試しに、コンコン、と扉を叩くと、彼女がぴたりと止まる。ようやく気がついたらしい。よし、もう一度。私はコンコン、コンコン、と扉を爪で叩く。彼女の鼻がひくひくと動き、ゆっくりとこちらに向きを変え、向かってくる。よぉし、これで大丈夫。私はほっと息をつく。
ようやくお湯を沸かし始める。今朝は何を飲もう。少し迷って、友人から頂いたハーブティの、最後の一杯を入れることにする。おいしくてたくさん飲んでしまって、あっという間になくなったハーブの茶葉。今度店で見つけたら、買い足そうと決める。
洗い立ての顔に化粧水を叩き込み、日焼け止めを塗る。そして口紅一本。さぁ朝の仕事を始めよう。私は時計を見、起こしてくれと言っていた娘に一声かけてから、仕事に取り掛かる。

友人が来るまでの時間、先週の授業の復習を為す。共依存症からの回復だ。そのプロセスのひとつはたとえば、一瞬間を置く、や、記録をつける、何もおきていない振りをしてしまうのをやめてちゃんと現実を直視する、など。救えない人を救おうとしない、というのも、ある。プロセスとしては十六項目だが、その十六項目について、共依存症者の持つ傾向の詳細も合わせてノートに書き記しておく。また、それがどの障害に当たるかも。
そうやって書き出しながら、改めて見直すと、この十六項目がどれほど有効であるのかが見てとれる。
ここで何か、質問はあるんだろうか。と考えてみるのだが。質問をする余地が、正直、ない。すべて納得できてしまう。納得できてしまう自分が、少々怖い気もするのだが、でも、どうしようもない。
今自分が為すべきなのは、過去にそういうことが在ったことを受け容れること、身近にそういう関係が多々あったことに気づくこと、だ。気づき、受け入れ、そして次に進むこと。過去に飲み込まれることなく、今を新しく生きること。
やってきた友人が、自らの過去にあった、共依存関係について話をしてくれる。今彼女は、その過去の関係が夢に多々出てくるのだそうだ。つい最近もそんな夢を見て、考え込んでしまったのだという。
ノートを間に挟んで、向き合った彼女に、授業で習ったことをできるだけそのまま、私は伝える。そして最後に、今そこに囚われすぎてはいけないことも、伝える。それは彼女の場合特に、過去であって、切り捨ててきた過去であって、今ではない。今の自分をこそ、彼女は大切にすべき。そのことを、伝える。

帰り道、友人に頼まれた材料を買って帰る。足りないものは明日買い足せばいいか、と思い帰宅すると、友人から連絡が。明日だめになったという。
娘にどう伝えようか悩んでいるところに、娘が駆け足で帰宅。さて、と思っている間に、彼女は塾へ出掛けてしまう。
とりあえず、彼女にお弁当は持たせた。今はそれで十分。私は、何となくだるい体を椅子に預け、しばし休憩することに決め込む。正直、あまり物を考えたくない気分。

「あなたはそれを見るのです。そして見ることはその観察に干渉する(それを妨害する)〈私〉という感覚が存在しないときにのみ可能なのです」「あるがままのものとは事実です」「人がなすべきことは何なのでしょう? なすべきことは事実の観察―――いかなる翻訳、解釈、非難、評価もなく観察すること―――ただ観察することだけです」。(クリシュナムルティ著「What are you doing with your life?」より)

このところ私の中に渦巻くものを見つめながら、この言葉を私はひたすら思い浮かべる。そしてまた、過去つきつけられた出来事を、ありありと思い出す。引きずられそうになる。が、それはあくまで過去であって、今ではない、というそのことも、あわせて思い浮かべてみる。
自分の余計な感情、批判、非難、解釈に、引きずられそうになるとき、心はきゅうきゅうと痛む。きりきりと痛む。それなのに、その感情がどんどん増大していって、私は飲み込まれそうになる。
しかしそれにとりつかれると、もうどうしようもなくなる、ということもまた、分かっている。
だから、必死に心に思い浮かべる。ただ事実を見よ、と。何の干渉もなしに、ただ事実だけを見よ、と。
時折、思う。感情というのはなんと恐ろしいものか、と。私を真っ黒にもするし、マグマのようにも、してしまう。

朝の一仕事を終えて、娘に声を掛ける。玄関を飛び出して、二人、自転車に乗る。まだまだ店が開く時間には早いけれども、その前にあちこち散歩しようということになったのだ。私たちはいつも通る道とは違う道を選んで走る。濡れた空気がしっとりと私たちの体を包み込む。
川を渡るところで、私たちはふと自転車を止める。私は流れをただじっと見つめる。隣で娘は今何を思っているのだろう。
突然娘が言う。ねぇママ、嘘はいやだよね。うん? どうしたの? 友達に嘘つかれた気がする。そうなんだ、そうだね、嘘はいやだね。うん、嫌だ。でも嘘をつくにはそれなりの理由があったのかもしれない。ママには分からないけれども。それでもすんごい嫌な気分がする。そうだね、嫌な気分がするね。じゃぁあなたが嘘をつかなければいい。そういうことになるの? うん、そんな気がするよ。自分がされて嫌なら、自分がしなければいい。そっかぁ。そうは言っても、嘘つかざるを得ないときもあるけどね。えー、そんなこと、あるの? うーん、まぁ、あるよ。きっとね。ふぅん。じゃぁもういいや。何が? 嘘つかれてても、もう知らない、いいや。そうなの? なんか、好きにすればいいじゃんって思った、今。そうだね、嘘を問い詰めたって仕方ないことの方が多いよね。ま、いいや! もう忘れる! そうだそうだ、忘れるのが一番いい。
私たちはそう言って笑い、再び自転車に跨る。川は浪々と流れ。ただひたすらに流れ。私たちはそんな川を渡ってゆく。
いつ雨が降り出してもおかしくはない朝。今日もまた、一日が、始まってゆく。


2010年02月10日(水) 
窓を開ける。昨日より冷えているとはいえ、まだまだぬるい。このぬるさが気持ちが悪い。冬なのだから、もっときぃんと音がなるほど冷えていてほしい。そのきぃんと鳴る空気の音が、たまらなく私は好きなのだ。どこか糸の緩んだようなこのぬくみはだから、どうしても心地が悪い。まるで闇の色までだれてきそうな、そんな気がする。空全体を雲が覆っているのが分かる。これでは今朝の朝焼けは見ることができないんだろう。空に手を伸ばしながら、雲の切れ間を探してはみるが、どこにも見当たらない。雨が降るんだろうか。そんな気配さえしてくる。
お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝入れたのはライチ紅茶。といっても、私にはこのライチの匂いがあまりよく感じられない。もっと感じられたら、味までも違ってくるんだろうに。そう思うと残念でならない。
娘はまだ寝床で寝息を立てている。真夜中起きたとき、彼女はまた布団からでーんとはみ出していた。慌てて彼女の体を引き寄せ、うつ伏せになって冷え切ったその背中をごしごしとさすって暖めてはみたのだが。またおなかが痛くなったりしないだろうか。熱を出したりしないだろうか。それが心配だ。あの時、熱を出し具合が悪くなったことに、彼女が一番ショックを受けていた。あの時の顔が、また脳裏にありありと浮かんでくる。あんな悲しげな辛そうな顔、そうそう見たくはない。
テーブルの上には、昨日短く切り揃え、それまで大きな花瓶に飾っていたのを小さな花瓶に生けなおしたオールドローズたち。ガーベラはまだまだ元気だ。オールドローズが、もうそろそろ終わりかもしれない。少しずつ萎れてきた花びらを、私は指でなぞる。それでもまだ、こうして咲いていてくれる花。少しでも長く、少しでも長く、ここで咲いていてほしい。そう祈る。

疲れ果てた友人の顔は、もしここに布団があったならすぐにでも倒れこみそうなほどで。できるなら少しでも早く、そうさせてあげたい、私は思った。お礼状の宛名を分担して書きながら、私はしばしば彼女の顔を見やる。虚ろな目が、どこかを漂っている。そんな感じがする。
だからこそ、私はしゃんとしていないとと思う。私も疲れてはいるが、でも、彼女ほどではない。そう思うから。せめてほんのすこしでも背筋を伸ばして、しゃんとしていたいと思う。彼女が倒れたときいつでも抱き起こせるように。
せっかく書いたお礼状なのだから、記念切手を貼って出したいよね、と、駅前の郵便局まで歩く。思ったより種類がなくて、私たちはその中から、花の絵の切手を選ぶ。投函すれば、これで作業は終わり。私たちは手を振って別れる。

ぎりぎりで娘が出掛ける時刻までに帰宅する。今日から彼女は、塾で新五年生の授業を受けることになる。これまでより一時間も帰宅が遅くなる。お弁当、作らなくていいの? うん、今日はいい。せめておにぎりだけでも持っていったら? いらない。
そうして彼女を送り出すと、程なくメールが届く。行って来るね! だから私も返事を返す。行ってらっしゃい!
残された私は、さて、何をしようと考える。とりあえず、先日安売りで買ったサツマイモを、どうにかしなければならない、というわけで、さつまいもを薄切りにしてみる。それを鍋でことこと煮る。砂糖はごくごく少量。ほんの僅かで十分。とろけてきたところに、クリームチーズを足す。そしてさらに煮込む。そうして私流の金団のできあがり。
昨日作ったパンと一緒に食べよう、と思ったところに、猛烈な発作。あぁこれはいけない、そう思ったが、衝動は止まらない。
気づいたら、もう便器で吐いていた。これでもかというほど過食した食べ物を、次々吐いていた。胃がひっくり返るほど吐いて。
鏡の中に映る自分の顔は、どうしようもなく疲れ果てており。私はげんなりする。一体自分は何をしているんだろう。つくづくそう思う。思い切り顔を洗い、今度は鏡を見ないようにしてそのまま化粧水を叩く。忘れよう、忘れてしまおう、今あったことは、もう終わってしまったこと、悔やんだって始まらない。忘れてしまおう。私はそう繰り返し自分に言い聞かせる。

過食嘔吐をすると、どうしてこう虚しくなるんだろう。虚しくなることが分かっているのにどうして、それを為してしまうんだろう。
考えても仕方が無いことが、どうしようもなくぐるぐると脳裏を巡る。
もういい加減止めなくては。そう思うのに。
娘のいないところで、こうしてこんなことを繰り返している自分が、何よりいやだ。どうしようもなくいやだ。泣きたいくらい、いや、だ。

共依存症からの回復について、復習をする。ノートに書き出したり、線を引いたりすればするほど、心の中に重く圧し掛かってくる何か。自分のかつての体験が私の心の中ぐるぐる回る。この回復の過程の十六項目は行動療法であり、クライアント自らその順番を決めて為していくものだというが、その順番をつけたとき、私だったら何が一番最初になり、何が一番最後になるんだろう。自分をうんと好きになる、という項目が、一番最後になってしまいそうな気がする。もし私だったら、の話だが。
そして今週は家族療法について学ぶことになっている。これについても私は痛い記憶がある。私が被害に遭い、PTSDに陥ったその時、私の主治医は両親に治療の協力を求めた。しかし彼らは即座に拒否した。間髪いれずに拒絶した。その時のことがありありと思い出される。今ならそんな彼女たちのことを私は受け容れることができるが、あの時は。あの時は本当に、たまらない思いがしたのだ。どうしてここまで、と。
思い出すと、今でもまだ、痛い。

夜十時少し前、ようやく娘が帰宅する。迎えに出ることができなかったことを詫び、彼女に夕食を出す。いつも以上に疲れた顔をしている娘。そりゃあそうだろう。100分の授業を二回、受けて帰って来たのだ。これで疲れていないわけがない。私は何も言わず、ただ彼女がご飯を食べるのを見つめている。彼女も何も言わず、ただひたすら、ご飯を食べている。部屋には「一人で生まれてきたのだから」という歌が、淡々と流れている。

ママ、今日は帰って来たときいる? うん、いるつもりだよ。それまでには何とか帰ってくるようにするよ。分かった。それじゃぁね、じゃぁね、またね。
玄関を出ると、いつ雨が降り出してもおかしくないような雲行き。それでも私は自転車に乗って出掛ける。今日は人と会う以外にも、小さな用事を細々片付けなくてはならない。明日の予習も、ひととおり済ませなければ。自転車を走らせながら、私は頭の中、予定を組み立ててみる。
背中ががちがちに強張っているのが運転していても分かる。まるで大きな文鎮を背中に背負っているかのようだ。この文鎮の正体は何だろう。それは多分。
紐解いていくと、ずるずると芋づる式に出てきそうで、正直怖い。でもそれは遅かれ早かれ私が向き合わなければならない問題なのだろう。それがよく分かる。
高架下を潜り、埋立地へ。何処までも続く灰色の空。地平との境さえ定かでないほどの灰色。
それでも今日はまた始まってゆく。私はペダルを漕ぐ足に力を込める。


2010年02月09日(火) 
習慣とは怖いものだ。今朝の仕事は夜にと予定を組み直したというのに、起き上がるとそそくさと支度を始める自分。顔を洗っているところでようやく、あぁ今朝はゆっくりしていてよかったんだと気がつく。でももう遅い。一度起き上がったら再び横になるのは私にはできない。諦めて、あれやこれや始めてみることにする。
まず、パンが焼けているかどうかの確認。友人にお礼をしなくては、と考え、結局レーズンパンを作ることにした。最高の出来、というわけではないが、でも一度目と二度目では、二度目の方がずっと形が整っているように見える。よって二度目に焼いたパンを包むことにする。
包んでいると、足元でかたりと音がする。見てみると、ゴロがこちらを見上げて鼻をひくつかせているところ。おはようゴロ。私は声を掛ける。毎日毎日同じ言葉を同じように声を掛ける。この癖は、高校の恩師から受け継いだものだ。先生が言ったのだ。必ずおはようと生徒に声を掛ける。毎日毎日同じ言葉できるだけ同じトーンで。相手も返事を返してくる。その時の声の調子で、そいつの調子がだいたい分かる。至極単純なことなのだが、本当にそうだと思う。実際、娘やゴロたちに毎日こうして同じ言葉をできるだけ同じ調子で掛けるのだが、彼女たちの反応はさまざまだ。或る日は元気良くおはようと返ってきたかと思うと、或る日はおはようございます、と、ぼそっと返ってきたりする。その微妙な変化は、私が彼女たちの調子を慮る尺度になる。
ゴロを肩に乗せ、私は沸かしたお湯でお茶を入れる。今朝はレモングラスとペパーミントのハーブティーを一番に入れてみる。お茶に口をつけながら、次の作業。四つに分けた花瓶の全部の水替え。元気がまだまだあってくれるのか、水のなくなり方が結構早い。まだまだ咲けよ、きれいに咲けよ、そう声を掛けながら私は水を替えてゆく。
窓を開けると、ぷわんとぬるい空気。一体どうしたんだ、先日までの寒さは一体何処へ行ってしまったんだ、そう思うほどにぬるい。これは一雨来るんじゃないか、そう思える。ぬるい風がびゅうびゅう吹いている。街路樹の間を音を立てて過ぎてゆく。そんな今朝、点っている灯りは五つ。闇の中のカンテラのように、その灯りは目印になる。
朝の仕事の時間に今日は何をしよう。考えて、六月の個展の案を練ることにする。内容を大きく変更しようと決めてから、頭にぐいぐい浮かんでくるものがある。そういう展示の仕方をあまりあの場所で見たことはないが、在っても悪くはないだろう。そう思いついて以来、もくもくと浮かんでくる案。あとは作品選びだ。今のところ揃っているものを、それぞれ分けてゆく。
そうしているうちにあっという間に午前六時。娘を起こしにかからなければ。私は肩に乗っているゴロを、娘の肩のあたりにそっと乗せ、声を掛ける。おはよう、時間だよ。ゴロの気配にはっとしたらしい、娘はぱっちりと目を開ける。

病院の日。ほぼ一ヶ月ぶりになるカウンセリングだ。しかし、私は正直疲れ果てていた。できるならそのまま横になっていたい気分だった。診察室に入り、椅子に座ったものの、一言も言葉が出てこない。そのくらい、私は疲れていた。
久しぶりのカウンセリングになりますが、何か変わったことはありませんでしたか。カウンセラーのその言葉にも、反応できない。すみません、疲れ果てていて、言葉が浮かびません。そう応えるのが精一杯。
カウンセラーがその後もいろいろ言葉を継いでくるのだが、私はほとんど反応できないまま。この喉元まで出かかった、すみません、今日はもう、何も話せませんという言葉。しかしそんな意志表示さえ、結局できぬまま、部屋を出る。
一体何しにここまで来たのだろう。我ながら思う。つくづく思う。しかしもう過ぎたこと。病院を出ると真っ青な空が広がっていた。目に沁みる青。

帰りがけ、レーズンとドライイーストを買って帰る。今日はパン作りをしよう、そう決めていた。小麦粉やバターは家にもうすでに用意してある。具を何にするか、最後まで迷っていた。友人がもしかしたらレーズンが好きかもしれない、そう思いついて、ドライフルーツの中からレーズンを選んだ。しかし帰りのバスの中で思い出す、娘はレーズンが嫌いだったこと。まぁ仕方がない。娘には我慢していただこう。
パン作りは待つ作業だと思う。あちこちで、たっぷりの時間を待って過ごさなければ出来上がらない。窓の外、燦々と降り注ぐ陽光。私はたまらなくなって窓を半分開ける。ベランダでは今、薔薇の新芽たちがこぞって顔を見せ始めている。まだ病気の片鱗を残しているものもいるから、油断はならない。でも、その中で、ミミエデンがちょっとずつ新芽を出してきてくれていることが、何よりも嬉しい。もうだめになってしまったかと思っていた。でも彼女は再びこうして芽を出してきてくれている。ここからだ、ここから花をつけるまで、私はしっかり見通してやらなければならない。そう思う。
生地にレーズンを練り込ませ、再び捏ね捏ね。砂糖は黒砂糖を使った。寝かせて、また捏ねて、捏ねて、また寝かせて。繰り返しの作業。その間に日は少しずつ西に傾いてゆく。

娘を歯医者に連れてゆく。健診だ。今のところ虫歯らしい虫歯はないものの、娘の歯は人とちょっと形が違っているらしい。窪み方が深いのだと言う。だから虫歯になりやすいのだと先生が説明してくれる。特に前歯の裏の窪み方はひどい。このままだと虫歯になってしまいますねぇ、どうしましょうか、窪みを埋めておきましょうか。はぁ、その方が虫歯にはなりにくいんですか? というより、ここ、もうちょっとすると虫歯になってしまいそうな気配がありますよ。そうですか、じゃぁ埋めておいてください。
二週間後に予約を取り、家に戻ると、ちょうどパンが焼けた頃。いい匂いが部屋に漂っている。パン、焼けたよ。何パン? ん? まぁ焼きたてだからさ、食べてごらんよ。えー、レーズン? まぁそうなんだけど。レーズンいらない。じゃぁレーズンがないところを選んで切ってあげるから、レーズンはママがもらってもいいし。じゃぁ食べる。味、どうよ? まぁまぁじゃない? 私は苦笑する。娘はまぁまぁじゃないと言いながら、むしゃむしゃ食べている。
やがて日は西の地平線にぴったりとくっつき。そしてあっという間に堕ちてゆく。日没だ。

郵便受を見ると、一通の葉書が届いている。先日展覧会にいらしてくださった方からだった。丁寧な毛筆の文字が連なっている。娘宛にも数行。娘に向かって、声を出して読んでやると、娘はちょっと照れくさそうな顔をする。私はその葉書を、箱の中にそっとしまう。また季節がきたら手紙を書こう。そう心に決めて。

ママ、バス、ちょうど行っちゃったよ。あ、次のバスにするよ。私はゴミをまとめながら返事をする。今日はゴミの日。土曜日に出すのを忘れてしまったから、今日はちゃんと出さないと。
そして今日は、娘の塾、新五年生の授業の始まりの日でもある。ママ、今日の塾、何時から? 始まる時間は前と同じみたいだよ。ただ終わる時間がね、遅くなるね。分かった。頑張ってくるよ。うん、頑張れ。ママも頑張る。うん、じゃぁ行ってらっしゃい。行ってきます。
玄関を出ると、ラヴェンダーが強風に揺れている。アメリカン・ブルーは、一本を除いてすっかり枯れてしまった。枯れてしまったことは分かっている。でもまだ、抜くことができないでいる。もういい加減、抜いてやらなければかわいそうかもしれない。
校庭の隅のプールは、今まさに陽光を燦々と受けて煌々と輝いている。風によって生まれる波紋は深く、次から次に生まれ出て。私はしばし目を奪われる。
ゴミを出して通りを渡ると、ちょうどバスがやって来た。私は飛び乗る。隣に座ってきた中学生らしき少年は、ゲームに熱中している。私はそんな彼の、指の動きを、ぼんやりと眺めている。
終点で降り、地下から地上へ出ると、ふわぁっと広がる光。見上げれば澄んだ水色。川は浪々と流れ、人々は足早に過ぎてゆく。
さぁ今日もまた一日が始まる。私は歩道橋を駆け下りて、横断歩道を渡る。


2010年02月08日(月) 
プリンターの音を聴きながら横になっている。かたかたかたかた。音は一晩中続いている。途中インクを交換したり、紙を足したりしながら、私はじっと過ごしている。展覧会も昨日で終了した。そのお礼状のプリントだ。これを投函し終えなければ、展覧会は本当の意味では終わらない。
お湯を沸かしている間に顔を洗う。何となく疲れた顔をしているなぁと我ながら思う。仕方ない、あまり眠っていない日が続いているのだから、こんな顔にもなるだろう。私は一度洗い終えた顔を、さらに冷水でばしゃばしゃ叩く。
今朝は久しぶりに、友人がくれたハーブティを入れてみる。草の香りがふんわりと私を包み込む。干草の匂いはもしかしたらこんな匂いなんじゃないだろうか、私は想像する。
窓を開ければ、昨日よりずっとぬるい空気。闇がとろんと横たわっている。今朝点っている灯りは四つ。ちょうど菱形を描くように点々とそこに在る。窓の向こうでは今どんな物語が語られているのだろう。地平の辺りに漂う雲は、微かに東へ流れてゆく。もしかしたら今朝はきれいな朝焼けが見られるかもしれない。
部屋に戻り、金魚の様子を確かめてから足元の籠を見ると、ココアが小屋から出てきてうろうろしている。おはようココア。私は声を掛ける。ココアは一瞬首を傾げてから、こちらを見上げる。時々私は、ココアは目が見えていないんじゃなかろうかと思うことがある。目に映るものよりも、彼女は気配により強く反応する。鼻をひくひくさせるときも、目はどこか他のところを向いている。一心に対象を見つめるミルクとは、そこが大きく違う。
しばしココアと遊んでいると、プリンターが紙切れのサインを点滅させている。私は急いで紙を補充する。あとどのくらいで終わるだろう。私は時計を見る。午前五時半。まだしばらく、かかるかもしれない。

展示を終えて、次の展示について考える。次の展示は「祈々花々」にしようと思っていたが、それを秋に延期し、別のものをやろうか、という考え。「祈々花々」は、ここの空間で、六月という季節にやるには重いかもしれない、そんなことを感じる。

久しぶりに父のがなる声を聴く。これもまた、仕方ない。いくら熱が下がったとはいえ、体調が万全ではない一人娘を置いて展覧会会場に向かっている私なのだから。黙ってその声を聴く。しかし。どうしてこの人はこうも、人を傷つける術を知っているのだろう、つくづく感心してしまう。
娘は娘で、私が早く帰るよと言うと怒り出す。どうしてそんなこと言うの、私一人でできるんだから帰ってこなくていい! これはこれで胸に痛い。
結局、私はパートナーに後を託し、夕方会場を引き上げる。それはそれでまた胸が痛い。結局何もかも中途半端。そんな自分が一番嫌だ。

プリンターはまだかたかたかたかた音を立てている。私は時折覗き込み、プリントに間違いがないことを確かめる。ハーブティは飲み終えてしまった。さて次は何にしよう。お湯を沸かし直し、今度はレモングラスとペパーミントのハーブティを入れることにする。

朝の仕事をしながら、もう半月後に迫った娘の誕生日について考える。母は、本当はミシンを贈りたかったらしい。それを、娘の注文で洋服になったのだという。娘は私にも、洋服でいいよ、と言っていた。洋服「で」というところが何ともいえない。本当は何がいいんだろう。考えてしまう。
五年生から使うアウト・リコーダーも、私のお古があったため、それを充てることにした。結局彼女の周辺は、お古ばかりで埋まっている。
唯一、彼女がぽろりとこぼした言葉は、机、だった。机、あるじゃない。私がそう言うと、この机はひどく使い辛いし、本を置く場所が少なすぎるのだという。今考えているのは、彼女の机の隣のスペース、今私が古いPCなどを置いているスペースを整理し、そこに本棚を置くという案だ。本棚といっても、要するに、安いカラーボックスになってしまうのだろうが、ないよりはある方がいいだろう。
じゃぁ今置いてあるものたちはどう片付けるか。それを先に考えなければならない。私は頭を抱えてしまう。

それにしても、ちょっと疲れた。休みが欲しい。ただぼぉっと何もせず、自分の居心地のいい場所で時間を過ごす、そんな日が欲しい。

夜、友人からメッセージが入る。展覧会お疲れ様。そうメッセージが入る。今回展示を見て、生の写真と機械でプリントアウトした写真とがずいぶん違うことを知ったよ、と。
私は煙草を吐き出しながら、思う。生の写真の、そのプリントの味を、一体いつまで味わっていられるのだろう。印画紙も現像液も、ずいぶんなくなってきた。フィルムの種類も本当に限られてきた。私は、写真を始めた当初から、同じフィルムしか使っていない。他のフィルムを使うことはもはや考えられない。このフィルムがなくなったら、私はデジタルに移行するしかないと思っている。でも。
この焼く楽しみがなくなったら。
それはどれほどのものを私から奪うだろう。それを考えると、少し恐ろしい気がする。ネガは楽譜、プリントは演奏。その言葉が私の中、りんりんと響き渡る。私にとってプリントは、とてもとても重要なのだ。それがなくなってしまうなんて―――考えられない。

今日は病院。正直少し憂鬱だ。行きたくない。体がそう言っている。できることなら行きたくない。でも、一度行かなくなったら、私は再び行くことができなくなる、そんな気がする。だから、行く。まだ私には、必要な場所だから。
バスに乗ろうと通りを渡ると、ちょうど太陽が建物の間からのぼってきたところで。陽光は四方へ広がってゆく。あたり一面、陽光の海だ。
電車に乗り換え、がたごと揺られ、川を渡るとき、ちょうど逆向きの電車とすれ違う。すれ違う窓の向こうに川が広がっている。一面きらきらと輝く川が。今それをしかと見ることができないそのことが、ひどくもったいない気がして、私は唇を軽く、噛む。
最寄の駅に降り立ち、私は空を見上げる。水彩絵の具の青と白を混ぜて、おおめの水で溶いて広げたなら、こんな色になるんじゃなかろうか。澄んだ水色が何処までも何処までも広がる空。
さぁ、うだうだしてはいられない。もう一日は始まっている。私は、階段を一段抜かしで駆け下り、病院へ向かう。


2010年02月07日(日) 
ふと足元を見ると、ゴロが立ち上がってこちらを見上げている。おはようゴロ。私は声を掛けながらしゃがみ込む。手を差し出すと、程なく彼女が乗ってくる。私は背中を撫でてやる。多分昨日娘がいなかったから、スキンシップが足りないんだろう。ここで昔一緒に暮らしていた猫ならば、ごろごろと喉を鳴らすんだろうが、ハムスターはそういうこともない。ただ黙って撫でられている。ひたすらじっとしているゴロ。私は彼女を手に乗せたまま、残った右手でお湯を沸かしにかかる。
紅茶葉にお湯を注いで、しばらく待つ間に窓を開ける。しんと止まった空気は冷えてはいるが、そう、風が吹いていないせいなんだろう、そこまでの寒さは感じられない。今朝は土の在る場所などは霜が降りているかもしれない。そんな気がする。私の住むこの場所はアスファルトにほとんど覆われ、土が見えないけれども。土があって霜が降りていたら、それを踏んで、さっくさっくと鳴る音を楽しめるのに。少し残念。
ゴロを籠に戻し、コーディアルのエキスを垂らしたカップを持って椅子に座る。背中が微妙に凝っている。肩をぐるぐる回しながら、私はPCのスイッチを入れる。

知人の知人、という方が展覧会にいらしてくださる。カラー写真をやっていたのだという。でも仕事でやるのとプライベートでやるのとの両立ができず、今充電している最中なのだとか。お話を続けてうかがっていると、彼女も被害者の一人であることが伝わってくる。私にとっては特別なことではないが、告白する側にとってはそれはいつだって躊躇われることなのだ。彼女の声が小さくなってゆく。私はただ、彼女のその声に耳を傾ける。
それからまた写真やらなにやら話は広がり、彼女が笑いながら、こういう話がしたかったのだと照れくさそうに話してくれる。こんな話でよかったらまたいつでも。そう言葉を交し合って別れる。
そう、彼女のように、病院に行くことさえ躊躇われることが、時折あるのだ。自分なんかが病院に行ってもいいのだろうか、自分より大変な人がいるんじゃないか、と。
でもそんなことをはかることができる物差しなど、何処にも、本当は、ないのだ。
今彼女は再び病院に通院し始めているのだという。それがいい方向に向かうといい。私は祈るように思う。

実家に電話を掛け、娘と話す。体調はどう? 大丈夫? そう尋ねると、もう、忘れてたのに、なんでそういうこと訊くかなぁ、と、彼女は笑って応える。あら、そうなの、じゃぁもう訊かない。私がそう言うと、彼女がさらに笑う。おやつも食べないで今勉強頑張ってたの。そうなの? おやつぐらい食べなさいよ。うん、食べるけどさ、もうちょっとやったらね。そう、分かった。
そして電話は母に代わり。軽く話して電話を切る。とりあえず娘は今のところ大丈夫なようだ。それが分かって私はぐんと肩の荷が軽くなるのを感じる。あの彼女の泣き顔がまだ頭から離れない。
友人が私に言う。彼女は、私と遊んでいる最中も、しょっちゅうあなたのこと目で追いかけてるよ。きっとね、多分ね、彼女は、お母さんがいなくなっちゃうってことがとてもとても怖いんだと思うよ。言われて気づく、そうかもしれない、と。
これって私がかつてやっていた盛大なリストカットなどの影響なんだろうか。私がぽつり言うと、友人が応える。それは分からないけれども。彼女がそれを覚えているかは定かではないけれども。でも、お母さんがこの世界からいなくなっちゃうことにとてつもない恐怖を感じてる、そんな気がする。
私は思う。私を置いていくのは逆に、あなたの方だろうに。私を置いていかなくちゃならないのはあなたの方だろうに。私があなたを置いていなくなるなんてこと、どうあってもありえないことなのに。それでも不安かい。それでも怖いかい。
でも多分それは、理屈なんかじゃないんだろう。言葉でどう償ったって、解消されるものじゃぁないんだろう。私が生きて、そう示すしかない。
店の外に出ると、空気はきんきんと音が鳴りそうなほど冷たく。闇は何処までも深く深く、沈んでいる。

今日は二人展最終日。ようやく最終日がやって来た。朝の仕事が終わったと思ったところに、パートナーから電話がかかってくる。今日の予定の調整だ。待ち合わせの場所と時間を決めて電話を切る。
さぁ心はもう、次へ向かっている。三月に今年の、あの場所からの撮影、六月に個展、とりあえずそれへ向けて動きだす時期。
がらんと空いたバスに乗り、駅へ。ちょうど電車は出たばかりで、ホームで十五分近く待つ。陽射しがあるからいいものの、これがなかったら。寒くて指がかじかんで、たまらない思いをしただろう。
陽光降り注ぐ車内で、瞼が重くなるのを感じる。このところ睡眠時間がいつもよりずっと短かった。その疲れが体にどっぷり溜まっている。展覧会が終わったらまずこの疲れを拭わないといけないかもしれない。
「死ぬことは愛することである。愛の美しさは過去の思い出や、明日のイメージの中にはない。愛は過去も未来ももたない。それをもつのは記憶であり、それは愛ではない。情熱をもつ愛は、あなたがその一部である社会の枠を超えている。死になさい。そうすればそれはそこにあるだろう。」「静寂の中から、見て、聴きなさい。」「静寂の中から、見、話なさい。真の無名性はこの静寂からやってくるもので、そこには他の謙虚さは存在しない。」「無垢だけが情熱的でありうる。無垢な人は悲しみを、苦しみをもたない。彼らが無数の経験をもつとしても。精神を腐敗させるのは経験ではない。それらが背後に残すもの、その残留物であり、傷であり、記憶である。これらは蓄積し、他の物の上にさらにあるものを積み上げ、そしてそこに悲しみが始まるのである。この悲しみは時間である。時間があるところ、無垢はない。パッションは悲しみからは生まれない。悲しみは経験、日々の経験、苦悩と流れ去る快楽、恐怖、確信である。あなたは経験から逃れることはできないが、経験が精神の土壌に根付く必要はない。これらの根が問題を、葛藤、絶え間ない苦闘をひきおこすのである。ここから逃れるすべはない。日々、つねに昨日に向かって死ぬ他には。明晰な精神だけが情熱的でありうる。情熱なくしては、あなたは木々の葉のそよぎや、水に照り映える陽光を見ることはできない。情熱がなければ愛はない。見ることは行なうことである。見ることと行なうことの間にある間隔はエネルギーの浪費である。」
読み途中の本に、線を引きながらすごしていると、あっという間に乗り換え駅に到着する。私は慌てて電車から降り、階段を上がる。休日のせいだろう、平日ならこれでもかというほど混み合うホームも、今日は閑散としている。
さぁ、最終日、もう泣いても笑ってもこれで終わり。私は空を見上げる。雲が一筋浮かんだ明るい水色の空が、そこには在った。
さぁまた今日も、一日が始まる。


2010年02月06日(土) 
気配で目を覚ます。娘の足が私の太腿にどかんと乗っている。私は彼女の足を持ち上げてそっとどかし、彼女の体に布団を掛け直す。大丈夫だろうか、熱は下がっているだろうか。気になるが、まだ彼女を起こすわけにはいかない。私は黙って起き上がる。
ゴロがまた砂浴び場で丸くなっている。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女はそれでもじっと、ただじっと砂の上丸くなっている。
テーブルの上、八重咲のチューリップから花粉がたくさん落ちている。それぞれの水を替えてやりながら、私は花を眺める。ぼんぼりのように咲いているオールドローズ。ぱっくりと開いて咲くガーベラ。それぞれがそれぞれの姿。色も違えば匂いも違う、立ち姿も違う。当たり前のことなのだけれども、その生命の不思議に、私はどうしようもなく惹かれてしまう。
窓を開けると、音がしそうなほど冷え込んだ空気。凛々と。私はぶるりと体を震わす。どうりで部屋の中も冷え込んでいるわけだ。私は納得する。でもこんな日の空が私は特に好きだ。張り詰めた細い細い糸によって織り出される空の色が、たまらなく好き。私はただじっと空を見つめる。地平辺りに漂う僅かな雲が、左へ左へと流れてゆく。微風が私の前髪を撫でてゆく。今朝点っている灯りは三つ。週末だからだろうか。小さなその灯りは線で結ぶとちょうど二等辺三角形を描くようで。ここから見ると地上の星座のようにさえ見える。
お湯を沸かし、今朝は中国茶を濃い目に入れる。大き目のカップにたっぷりと。私はそれを持って椅子に座り、とりあえず朝の仕事にとりかかる。娘はまだ寝息を立てている。

共依存からの回復。授業は淡々と進む。私にとっては身近な内容で、何の違和感もなく心にすとんと落ちてくる。自分自身の体験や、近しい友人たちの経験、それらが頭の中、くるくる回る。
対等な関係というものがどれほど貴重なものであるか、それを、こうした勉強を為せば為すほど感じる。そういう関係を今、自分が手元に持てていること、そのことに感謝せずにはいられなくなる。そこにいたるまでの道程がどれほどのものであったのか、そのこともまた、振り返る。
この勉強を為すということは、自らを省みるということに他ならないのだろう。自らを見つめ、受け容れ、その繰り返しなのだろう。

帰ろうとしたところに電話が鳴る。小学校からだ。どうしたのだろう。何かあったのか。慌てて電話に出ると、娘が今熱を出しおなかが痛いと言って保健室にいるという。私は驚く。何があった、一体どうした。バスに飛び乗り、私は学校へ向かう。
保健室に走っていく。私の顔を見たとたん娘が泣き出す。どうしたどうした、私が問いかけると、保健の先生が、保健室にいるのがたまらなく嫌みたいで、と苦笑する。おなかが痛くて泣いてるんじゃないの? ううん、もう痛いのはとれた。じゃ、どうした? するとまたべそをかく。涙がぽろぽろと頬を伝う。
家に帰り、熱をはかるとまだ八度ある。とりあえず布団に潜り込ませ、休ませることにする。食欲も全くないらしい。私はとにかく様子を見ることにする。
しばらくして、娘が突如言い出す。ママ、ごめんね。え、なにが? 学校行ってるときに熱出してごめんね。何言ってんの、ママこそすぐ飛んでこなくてごめんね。ううん、いいの…。そしてまた、娘は泣く。
彼女の好物を作ってみたものの、彼女は大根のお味噌汁にだけ箸をつけ、それ以上は食べられないと言う。私はそれをそのまま食卓から下げる。食卓に向き合って座っているときも、彼女はべそをかき、私の手を握ったままだった。
保健室で寝るって特別なことなんだよ。全然よくない、私、嫌だった。教室にいたかったの? うん、お友達とみんなで一緒にいたかった。そっかぁ、ママはよく具合悪くなって保健室で寝てたんだ。そうなの? うん。そうだった。あなたの年頃はまだ、ママはすぐ具合が悪くなって、でも保健室に行くのが嫌で机にしがみついて泣いて、でも先生におんぶされて保健室に連れて行かれて。そうなんだー。うん、そうだったよ。で、ママしょっちゅう早退してた。そうなんだ。そっかぁ。うん、そうだよ。
担任にも、副校長先生にも、聞かれたよ。何を? あのね、お友達と嫌なことあったからおなか痛くなったの、とか、お母さんと喧嘩したの、とか。あら、そうなの? おなか痛いから痛いっていうだけなのに、しつこく聞いてくるんだよ。そっかぁ。私は苦笑する。さすがいまどきの小学校だなぁと思う。娘が続けて言う。友達と嫌なことあったら、そこで嫌だっていうよ。そっかぁ、でもそれができなくておなか痛くなっちゃう子もいるんだよ。へぇ。うん、いるんだよ。でも私、違うよ。そっかぁ。
まだ熱にうかされた顔をしている娘に、布団に戻るように言う。娘はすごすごと布団に潜り込む。ねぇママ、テレビ見てもいい? 何見るの? ドリフのDVD。あ…。いい? はい、いいよ。私はまた苦笑する。それを見る気力は残っているのか、なら、とりあえず深刻な症状ではないらしい。明日の朝まで様子を見よう。

それにしても。彼女が熱を出すなりおなかが痛いというのはどのくらいぶりのことだろう。正直記憶がない。保育園の時熱を出したなり風邪をひいたなりのことはあったと思うのだが。そのくらい彼女は、元気な子だった。でも。
彼女の泣き顔をこうして見ていると、毎日毎日どれほど張り詰めて過ごしていたのかを、改めて思い知らされる。どれほど私に気を使い、私に気を配って彼女は過ごしてきたのだろう。私はそんな彼女の上に胡坐をかいて見過ごしていたのかもしれない。参った。どうしてこんなことにもっと早く気づかなかったんだろう。
ママ、ごめんね。そう言った彼女の声が、言葉が、どうしようもなく私の心の中ぐるぐる回っている。当分、忘れられそうに、ない。

起きてきた娘に、体温計を渡す。平熱。見事に平熱。どう? だるくない? うん、昨日首が痛かったけど、それだけ。そっか。おなかは? 空いてる。おにぎりあるよ。焼きおにぎりにして。わかった、お醤油、それとも味噌? お醤油。
小さめのおにぎり二つ分、醤油を塗って焼いてみる。軽く焦げ目がついた頃には、部屋中お醤油の匂い。ミルクやココアまで起きてきた。
そして今朝もまた、昨日の続きのドリフのDVD。娘の年代で、ドリフのこんなDVDを見ている子は他にいるのだろうか。私は首を傾げる。そして娘は、昨日の表情とは打って変わって、けらけらと明るい声で笑っている。
そろそろ出よう。バス、28分にあるよ。それなら走らないと。私たちは玄関を飛び出し、階段を駆け下りる。ちょうどバスが信号の向こうから走ってくるところで。
娘が突然、私に尋ねてくる。ねぇママ、もし私が熱が今日もあったら、ママどうしてた? え? どうしてた? うーん、とりあえず病院連れてく。仕事は? 仕事はキャンセルだなぁ。そうしたらうちもっと貧乏になるよね? まぁそうだけど、それはそれでしょう? 死ぬわけじゃぁない。まぁそうだけどさぁ。元気になってよかったよ。うん、もうおなかも痛くないしね。
話しているうちにバスは駅に到着する。私たちは降りて改札口へ向かう。そして娘は右へ、私は左へ。ママ、メールちょうだいね。分かった、ママにもメールちょうだいね。うん。それじゃぁね、じゃぁね! 手を振って別れる私たち。しばしの別れ。
彼女の姿が消えるまで、私は柱の陰で見送る。私の携帯電話にすぐ、メールが届く。じゃぁね、行ってきます。それだけ書いてある。だから私は返事を返す。しっかり休んでしっかり食べてしっかり寝るんだよ。何かあったらいつでも連絡して。ママも連絡するからね。しばらくしてただ一言、返事が返ってくる。うん!
電車は土曜日のためかいつもより空いており。私は窓際に立って外を眺める。ちょうどイヤホンからは電車という歌が流れ出し。
忘れないでおこうと思う。覚えておこうと思う。彼女の昨日の涙を。べそをかいたあの表情を。彼女があんな表情を常に背中に隠して笑っていることを。しかと覚えておこうと思う。
乗り換え駅は次。ゆっくりとホームに滑り込んだ電車が止まる。私は背筋を伸ばし、次のホームへと駆け出す。


2010年02月05日(金) 
何度も我が家に泊まりに来たことのある友人が言う。あなたは本当に寝返りというものをうつことがないね。そうなのだ、私は寝ている間、ほとんど動くことがない。そのせいなんだろう、朝起きると体ががちがちになっている。今朝もまたそうだった。娘の足に自分の足を添わせるようにして眠ったのだが、その形のまま起きた。さすがに腰が鈍く痛む。腰を庇いながらゆっくり起き上がる。ちょっと痛みが酷く、私は早々にサポーターを巻いてみる。
今朝は誰も起きていない。みんな巣の中。その巣に向かってだから、小さな声で言ってみる。おはようミルク、おはようココア、おはようゴロ。
テーブルには、昨日また水切りをしてちょっと小さくなったオールドローズとガーベラたちが並んでいる。深めに水切りをしたおかげなのか、昨日あやしくなっていたオールドローズの何輪かも、元気を取り戻してくれた。開き出した八重咲のチューリップだけ、花粉がぽとぽと落ちてくるのでちょっと離れた場所に飾ってある。花びらは開いてしまっているものの、それでも元気元気。私はなんだかほっとする。
お湯を沸かしている間に窓を開ける。ぐんと冷たい冷気が私を一気に包み込む。吐く息が真っ白だ。闇は凛々と音を立てんばかりに張り詰めてそこに在る。今朝点っている灯りは四つ。街灯の灯りとは別に白く煌々と輝いているその灯り。闇の中の目印。
お湯を大き目のカップに注ぎ、コーディアルティーを作る。今日は匂いが全く分からない。お茶に鼻を近づけてみるのだが、湯気を感じるばかりで、匂いが感じられない。そういう体調なんだろう。私は諦めてお茶を口に含む。匂いのない、味とぬくみだけが、私の口の中、体の中、広がってゆく。
我が家は暖房というものがない。エアコンもヒーターもありはするのだが、今のところ全くといっていいほど使っていない。ヒーターは去年、私が転寝して低温火傷を負ってしまったこともあり、まだ押入れの中に入ったままだ。今朝も、どうしようか一瞬悩んだものの、点けぬまま。そのせいだろう、部屋もひんやりとしているから、窓が曇ることがあまりない。そんな窓の向こう、まだ闇がたっぷりと横たわっている。

印刷し終えたポストカードを包み、急いで駅へ。友人が待っている。その友人にポストカードを手渡した後、店で用紙を買い足して再び家へ戻る。残りの数枚をプリントアウトし、今度は郵便局へ。昨日注文頂いた分を早速郵送。無事に届きますように。
切手を貼るとか、ポストに投函するというこの行為。いつも私はどきどきする。無事に届くかな、ちゃんと届くかな、そう思って。いや、今では届くことが当たり前になってはいるが、それでも人の手が為すこと、間違いがあったっておかしくはないのだ。そんなことを思ってしまうから、いつだってどきどきする。
朝友人に見せた絵葉書を、私はもう一度鞄から取り出して眺める。展覧会にいらしてくださった方がわざわざ送ってくださったのだ。丁寧に一字一字書かれた文字を目でなぞる。多分これは初日に、私が店を出るのとすれ違いにいらしてくださった方なのだろう。そんな気がする。嬉しい。本当に嬉しい。「次の写真展も楽しみにしております」。その言葉が何より嬉しい。頑張ろう、そう思う。
この葉書が私の手元に届くまで、葉書はどんな旅をしてきたのだろう。どんな人の手を介して、ここまで届いたのだろう。葉書を書いて切手を貼って投函してくれた人、これを運んで無事に届けてくれた人、そのすべてに感謝していたい。

先週の授業の復習。共依存症について。共依存症者の五つの障害を書き出していて、自分にも幾つも当てはまることがあることを改めて認識する。そしてまたそこから生じる五つの症状行動も。自分に置き換えると、かなり胸に痛い。
でもこれらが生じるにはやはり原因があるわけで。その原因をしかと理解しなければならない。そして、今と過去とをそれぞれに受け容れることだ。それが大切なんだと改めて思う。
自分の周囲を見回しても、依存症なり共依存症なりの傾向を全く持ち合わせていないという人の方が珍しい。みんなそれぞれに、どこかしらにその傾向を持ち合わせている。それとどうつきあい、それをどう克服・回復していくか、なんだろう。
次は共依存症の回復を勉強することになっている。今はそれをとても知りたいと思う。

娘が帰宅する。ママ、遊びに行ってもいい? 今日、すんごい久しぶりに遊べる友達がいるの。ん? いいよ。何時までいい? 五時までだな。ありがとう! その後勉強しなくちゃいけないよ。いい? うん、分かってる、じゃぁ行ってくる! あ、自転車で行ってもいい? いいよ。行ってらっしゃい。
自転車で行ってもいい? ―――つい先日まで、彼女は自転車で出掛けることをとても嫌がっていた。私と一緒の時は別にして、自分ひとりのときは決して自転車で出掛けようとはしなかった。
それを先日、自転車で行ってらっしゃい、と私が敢えて言ったのだ。渋々自転車で出掛けた娘だったが、もしかしたらそれがよかったのかもしれない。私は自然、笑みが浮かんできているのを感じる。骨折して以来、自ら自転車に乗ることをしなかった彼女が、こうしてまた、自分から自転車に乗ることを始めた。よかった、本当によかった。
娘が帰ってくるまでの時間、私は復習を続けることにする。何度復習したって、足りない。覚えたいこと、覚えるべきことは山のようにある。

あっという間に夕飯の時刻。娘には唐揚げと言ってしまったものの、何となく油物を作る気がしない。迷った挙句、娘が好きだといった、白菜ときくらげと豚肉のあんかけ丼にすることに決める。白菜二分の一がちょうどスーパーで九十八円で売っていた。助かった、私はそれとトイレットペーパーを買い足して、早速準備に取り掛かる。
お味噌汁は大根のお味噌汁。昆布だしで作ることにする。大根はちょっと細めに切って、火が通りやすいように。ことことことこと。料理を始めると窓がうっすら白く曇る。
白菜をよく炒め、そこにきくらげと豚肉を足して、中華味のあんかけにする。きくらげはちょっと多めに。娘がまたばくばく食べてしまうだろうから。
少し迷った挙句、もう一品、高野豆腐を。少し多めに料理することにする。
ちょうどそこへ帰ってきた娘は、音読を始める。音読といっても、それは理科の教科書。先日調べたオリオン座の神話を、至極真面目な顔をして読んでいる。それが終わると次は計算。そして最後は漢字練習。
彼女が終わったところでちょうどご飯が炊けた。さぁご飯。私たちは小さなテーブルで、はぐはぐと熱い丼を食べる。

ママ、なんでこの人泣くの? え? だってさ、この人、自業自得なんじゃないの? うーん、いや、まぁそうかもしれないけど、悲しかったんじゃないの? うーん、でも自分が悪いんでしょ、泣くのおかしいじゃん。うん、まぁ、そうなんだけど。変なの、泣くのはずるいよ。え、泣くのはずるいの? うん、そう思う。どうして? だってさぁ、自分が悪いのに泣くって、ちゃんと謝らないで逃げるのと同じでしょ。なるほどぉ。そう考えるのか、確かにそれはそれで言えるかもしれないね。絶対そうだよ。なんかそういうこと、あったの? …。誰かに泣かれちゃったとか? いや、私は泣かれてないけど、友達が泣かれた。そうなんだ。うん、自分が悪いのにその子泣いちゃって、そのせいで、こっちが悪いみたいになって、すごく嫌だったよ。そうかそうか、そんなことがあったか。うん。私は絶対ああいうときは泣かない。そかそか。

ママ、そろそろ行く時間じゃないの? あ、そうかも。バス来ちゃうよ。うん、分かった。じゃぁ行ってくる。うん、それじゃぁまた後でね。
娘の手のひらに乗っているココアの背中をこにょこにょと撫で、私は玄関を出る。のぼり始めた朝日から、陽光が斜めに長く長く伸びて、辺りを照らし出している。校庭の隅にあるプールが、きらきらと輝き始める。
バスに乗り、駅へ。そして地下道を通り駅向こうへ。川は今日も浪々と流れ。私はしばし立ち止まる。こんなふうに昨日を洗い流し常に新しく新しく生きていけたらいい。
そして私は歩き出す。今日に向かって。


2010年02月04日(木) 
プリンターがようやく止まった。横にしていた体を起こす。紙もまさにちょうど在庫ぴったりで終わった。今日買い足せば何とかなる。よかった、本当によかった。私はほっとする。自分のものだけならどうってことはないが、パートナーの分が入っている。それがプリントアウトできないのではどうしようと一晩中気にかかっていた。体中の力が抜けて、私はちょっと笑ってしまう。
ベランダの外には、夜中焼いたプリントがひらひらとぶら下がっている。急いで焼いたわりには、今のところそれなりのでき具合かもしれない、なんて、思うのだが、でもそれは多分、今気分がいいからそう見えるだけで、はたと冷静に戻ったら、あぁこれはこうすればよかった、あれはああすればよかった、と出てくるに違いない。そんなものだ。
お湯を沸かしながら、テーブルを見やる。オールドローズはだいぶ花が開いてきた。元気のないものもちらほら見られるが、それでも、ここまで咲いてくれたことに感謝しよう。紅いガーベラは元気いっぱいに花弁を広げている。その傍ら、紅色の八重咲のチューリップが、散り落ちんばかりの勢いで咲いている。まだもうちょっとはもちそうだ。もってくれますよう。私は花弁をそっと撫でてみる。
コーディアルティーを入れ、椅子に座る。ゆっくりと煙草に火をつけ、吸い込む。窓を開けると冷気が一気に私を包み込む。ずいぶん冷え込んでいる。でも、空は美しい。闇色が凛々と横たわり、それは張りつめた一本の糸のよう。地平の辺りに漂う雲が、東へ東へと流れてゆく。
携帯電話を見て驚く。友人からメールが入っていた。彼女がこうしたメールをよこすのは何かあったからかもしれない。そう思ったらたまらない思いがした。昨日そのメールに気づけなかった自分を悔やんだ。せめて明るくなるまでは、このまま待つしかない。その時間が、たまらなく遅く感じられる。

高円寺で午後を過ごす。パートナーの母様と祖母様がいらっしゃる。彼女にとてもよく似た輪郭を見つめていると、あぁこうやって血は連綿と受け継がれてゆくのだなぁということを思う。
血が受け継がれることがいたたまれないこととしてしか受け止められない時期があった。自分が父母の血を受け継いでいることが、もうどうしようもなくいけないことのように思えた時期があった。私が継いではならない、私が継ぐべきではない。そうとしか考えられない時期があった。できることならこの体を作っているもの、思考を作っているものすべて、ぶち壊して消去したかった。そうできないのなら、せめて、徹底して彼女や彼にそっくりになりたかった。でも。
それはできない相談だった。確かに私の血は父母から受け継がれたもので。でも、それはこの世に私が生まれ堕ちた瞬間からもう、私のもので。
私を形作るものすべてを消去するには、私は死ぬしかない。けれど、この世に生まれ堕ちた瞬間からもう、私に関する記憶は私以外の糸にも絡み合っていた。そのすべてを断ち切って消去することは、とてもできそうになかった。
私を消去することはできても、私に関する記憶のすべてを消去することは。できないのだ。あの人の心の中に残っている私の記憶、その人の心の中に残っている私の記憶、それらすべてをもらって受け取って消去するのでなければ、私がしょっぱなからいなかったことには、できないのだ。
そして今ではもう、私の血は娘に受け継がれ。
とてもとても、私を消去することなど、できそうに、ない。
私は苦笑する。生まれ堕ちたからには、生きるべし。死がやってくるその日まで、ただひたすら、生きる。生きることはなんて、難しいんだろう。それでも、やっぱり私は、生きるんだろう。
友人の祖母様の静かな声、母様の少し強張った声音に耳を傾けながら、そうして時間を過ごす。あっという間に日が傾き始め。友人の母様祖母様が帰られる時刻。私は深々と頭を下げる。どうもありがとうございました。その思いを込めて。彼女を産んでくれたこと、彼女をここまで育ててくれたこと、そして今もなお彼女のそばで生きていてくれること、それらすべてに感謝して。

プリント作業をしながら、改めて、プリントの可能性について考える。私が提示したプリントから、私が思ってもみなかった視点を指摘され、それは嬉しい驚きで。だから今夜娘が寝静まってから、プリンターをがたごと稼動させたまま、こうして風呂場に篭っている。
ネガは楽譜、プリントは演奏。その言葉の意味をつくづくと噛み締める。また、この言葉を思い浮かべるとき、私は、ピアノを弾いていた頃のことを強く思い出す。
気持ちを込めて弾いてちょうだい、ここはどんな気持ちがこめられていると思う? ちゃんと考えて。この旋律ではどんな色が奏でられると思う? ちゃんと自分の頭で心で考えて。
私のピアノの先生は、よくそんなことを言った。あなたは器用になんでもすぐに弾きこなしてしまうけれども、そこに深みを厚みをもたせなければだめなのよ、あなたにだからこそ奏でられる音を生み出さなければだめなのよ。そんなことをよく言われた。ただ弾きこなすだけなら誰にでもできる、だからそこに、自分ならではの色をつけるのだ、と。
今振り返ると、あの先生たちに習っておいてよかったと、つくづく思う。自分がどんなことを今表現したいのか、それをどうやって伝えるのかを、私なりに考えるようになったのは、あの先生たちとの出会いが多分に影響している。
音を奏でる、鍵盤にタッチする、その時のことを思い出しながら私は写真を焼く。私はこのネガから何を引き出したいのか、このネガを使って何を伝えたいのか。

徐々に徐々に夜が明けてゆく。染まり始めた東南の空。じきに燃え始めるんだろう。空気は相変わらず冷え込んでいる。
娘がDVDを流しながらその曲に合わせて踊り出す。彼女が歌うとスリラーという言葉が、ティラーに聴こえるのは気のせいだろうか。まぁそれくらいの違い、どうってことはない。好きにやるのが一番だ。私が彼女の横に立ち、両手を振って見せると、一言言われる。ママ、似合わないからやめた方がいい。はい、すみませんでした。失礼しました。
じゃぁね、それじゃぁね、今日はいるでしょ? あなたが帰ってくる頃にはいるようにするよ。うん、それじゃぁね。
娘に手を振って別れる。
バス停でバスを待っていると、ちょうど日が建物の隙間から顔を見せ。私は目がじんじんしてしまうのも忘れそれに見入る。
あぁまた今日が始まろうとしている。そして朝日とともにやってきたバスに私は乗り込む。


2010年02月03日(水) 
目を覚ます午前五時。今朝は腰の具合が悪くない。そう感じながら起き上がる。一番に何をしようと思っているところにテーブルの上の花たちが目に飛び込んでくる。白のオールドローズの一本が、どうもおかしい。その一本には三つの花がついているのだが、くてんと首を折ってしまっている。水切りが足りなかったんだろうか。私は急いでその枝だけ抜き取り、できるだけ奥で切ってやる。小さな一輪挿しの花瓶に生けてはみたが、さてどうだろう。復活するんだろうか。心配だ。でも他のものたちは元気。赤のガーベラも昨日の水切りがよかったらしく、瑞々しい花びらをぴんと伸ばしている。八重咲のチューリップがかなり開いてきてしまった。もしかしたらこの一両日中に花びらが落ち始めるかもしれない。そうなったらちょっと寂しいかも。
花を眺めてあれこれ思っているところに、ゴロがからりと回し車を回す。あら、起きてたの? と声をかけると、彼女は鼻をひくひくさせ、後ろ足で立ってこちらを見ている。おはようゴロ。そう言って私は手のひらを差し出す。乗ってくるかな、どうかな、と思ったら、彼女は遠慮がちに前足を、お手をするように差し出した。そうかいそうかいと私は嬉しくなって、彼女を抱き上げる。といっても、軽い軽い体、ふわりと浮かびそうな重さ。手のひらの上で彼女は体をぷるぷるさせながら、でもじっとしている。私は背中をそっと指先で撫でてやる。鼻がひっきりなしにぴくぴく動いている。
お湯を沸かし、コーディアルティーを入れてみる。ほんのり甘いハーブの味が口いっぱいに広がる。朝の一杯というのは、どうしてこうも、全身にしみわたる感じがするのだろう。お茶一杯で、体全部の細胞が、いきなり動き出すかのようだ。
カップを持ったまま、窓を開ける。昨日よりぐんと冷え込みが厳しい。雪はもうすっかり消えてしまった。何処の屋根にも何も残っていない。そのせいなんだろう、闇が一段と深くなったかのように見える。大通りを行き交う人も車もまだほとんどないこの時間。ただ冷気だけがしんしんと、辺りに張り詰めている。

三駅分を自転車で走り、石の仕入れへ出掛ける。もうこの店もじき移転してしまう。行けない場所ではないのだが、今度行くためには電車を乗り継がなければならない。今日いい出会いがあるといいのだけれども。そう思いながら店の扉を開ける。しかし、何だろう、ぴんとくるものが、ない。きれいなだけの石はたくさんあるのだけれども、こう、どうしようもなく惹かれる石が、ない。店を何往復か回り、結局何も手にすることなく出る。
このまま帰るのももったいない気がして、いつも行く美容院に立ち寄り、前髪を切ることにする。いつも担当していただいている女性の、アシスタントをしている男の子の親御さんが、私と大して年が違わないことを知って驚愕する。あぁもうそんな年齢になったのか、私は、と改めて苦笑。
店を出ると、ぐんと気温が下がっており、私は慌ててコートの襟を合わせる。自転車に乗って再び三駅分。一つ目の川を渡り、二つ目の川のところで止まると、鴎たちがちょうど首をすくめ、風に向かって集っているところで。白い白い羽がモノトーンの景色に眩いほど輝いており。その美しさは不動のもののようで。私はしばし身動きができなくなる。

帰宅するなり、ママぁ、遊びに行ってもいい? 娘が叫ぶように言う。何処に行くの? 公園でみんな遊んでるから、そこに行ってくる。わかった、でも今日は注射の日だから、途中で待ち合わせしよう。分かった。じゃぁ五時にあそこの店の前で待ち合わせね。うん。ありがとう! 行ってくる! 行ってらっしゃい。
玄関を飛び出してゆく娘の後姿を見送りながら、これが本来の姿なのだろうなと私は想像する。週に三回も四回も、塾通いをし、塾がない日はその復習で潰れ、友達と遊ぶ暇がほとんどない娘。かわいそうに、と改めて思う。でもこれも彼女が選んだひとつの道。私はだから、今はただ応援することしか、できない。
カフェオレを飲みながら娘を待つ。窓の外、日が大きく傾いてゆく。あぁじきに日が堕ちる。東の空はもうたそがれ始めている。その両方をぐるりと見回しながら、私はじっと時間を過ごす。時間が一刻一刻過ぎるたび、娘の時間がなくなっていくようで、私は身動きがとれない。砂時計の砂が一粒、また一粒落ちてゆくのを感じる。あぁできることならこれをとめてしまいたい。とめることができないならせめて、落ちる速度を遅くしてやりたい。それができないことが分かりきっていながらも、そう祈らずにはいられないのだった。
待ち合わせの五時を十分過ぎたところで、私は仕方なく電話をかける。しばらくして娘が出る。もう今公園出るところだよ。元気良く娘が応える。あ、そうなの? うん、五時って約束したから、ちゃんと守ってるよ。そっか、じゃぁ待ち合わせ場所で会おう。うん。程なく電話は切れたが、私の心の中には切ない思いが滲み出す。またこうやって遊べる日が、今度はいつ来るんだろう。
私たちは待ち合わせ場所で合流し、耳鼻科へ。娘の腕にぷすっと注射針が刺さり、それで完了。インフルエンザの二度目の接種もこれで無事終了。
家に帰り、ブロッコリーとたらこのスパゲティを作る。スープと一緒にテーブルに並べ、いただきます。娘は久しぶりに外で遊んだせいか、食べる食べる、私の分も半分取り上げて食べてしまった。食欲があるのはいいことだ。こんなふうにいっぱい食べてくれる娘がいて、私はきっと幸せだ。

ちょうど朝焼けで南東の空が燃え始めた頃、私は玄関を出る。じゃぁね、行ってきます。行ってらっしゃーい。娘に見送られ、私はそのまま階段を降りる。大通りを渡り、バス停へ。小学校の向こうに広がる空には雲が次々と流れ飛び、今まさに日が雲間から顔を出した。あたり一面にさぁっと広がる陽光。さんさんと降り注がれ、アスファルトまでが輝き出す。やってきたバスに乗り、駅へ。
駅ではもうたくさんの人が行き交い。私はその人波に逆らわぬよう歩き出す。今日は二人展の会場、高円寺へ。
混み合う電車に乗ると、伸びてくる朝日で社内は照らされ。その光の中、誰もが黙々と電車に揺られている。余所見する人は誰もいない。手元の携帯に見入る人、本を開く人、一心に眠りを貪る人、誰もが、どこかちょっと疲れている。
電車が川を渡ってゆく。川には多くの鳥たちが集い。その点々とした姿が私の目の中流れてゆく。
もうじき駅だ。さぁ気合を入れて、次へ行くか。私はそうしてホームに降り立つ。


2010年02月02日(火) 
目を覚まして一番に窓を開ける。モノトーンの世界がそこに広がっていた。雪の白、濡れたアスファルトの黒。街灯の灯りだけが唯一、橙色に光り。思ったよりあたたかい空気に私はほっと息を吐く。瞬く間に白く流れ去るその息。雪が降るとどうしてこうわくわくするのだろう。
お湯を沸かし、コーディアルティーを入れる。切花の薔薇やガーベラはまだまだ元気。オールドローズ独特の花弁がほろり、綻んでいる。今日帰ってきたら一本は挿し木にしようと決めている。こんな時期にやったって無理なのかもしれないが、それでもやらないよりはましだろう。せっかく頂いた花束だもの、可能性があるならそれにかけたい。
今朝はゴロもミルクもココアもみんな、巣の中に入って眠っている。私はなんだかほっとする。だから小さな声で、声をかける。おはようゴロ、おはようミルク、おはようココア。今は夢の中なんだろうか。それが素敵な夢でありますよう。
それにしても昨日の雪の降り方は素敵だった。勢い良く右から左へ飛ぶように流れ降るその様は、私と娘の心を魅了した。風呂上がりだというのに二人ともそれを忘れ、開け放した窓辺に突っ立ってその様を眺めた。さらさらと降る雪ではなく、ぽてぽてと流れ降る雪だった。風に舞うその姿はどこか滑稽で、かわいらしかった。雪さん降うれ、雪さん降ぅれ。娘はそう歌い、私はただ黙って眺めていた。そういえば昔々、まだ父母とともに別荘へ季節ごとに通っていた頃。菅平で見る雪はさらさらさららという粉雪ばかりだった。どこまでも軽やかに軽やかに、それは降り積もった。かまくらを作ってみたり、雪だるまを作ってみたり。父に習うスキーはちょっとしんどかったけれども、それでも、一面真っ白な雪原という風景は、私の心を洗った。雪が降る中、とてんと横になり、雪が降り堕ちてくるのをただ眺める、それもまた楽しかった。こんなに美しい景色がこの世にあるのかとつくづく思った。自分の体を徐々に徐々に埋めてゆく雪に、いとおしささえ感じたものだった。
ねぇママ、明日もし雪の警報が出たら学校休みになるんだよ。えー、そうなの? うん。でも、学校あった方がいいな。どうして? だってみんなで雪で遊べるじゃん。そかそか。うん、そうだね。娘の心はもう、明日に向かっている。

病院。いつもとなんら変わらず。すたすたとぼとぼと診察室を出る。
友人とお茶を飲みながら話す。ようやくひとつ区切りがついたかな、といったことを彼女がぽろりと話す。寂寥感に苛まれていた最近、何故だろうって考えて気づいた、ずっとあの人のことが好きだったんだなって。でもそれがようやく終わったんだなって。それに気づいたら、あぁだったらこれほどに寂しくても不思議はないって思って。そう思ったら、なんか寂しさも薄れてきた。彼女が笑う。
彼女の生活はこの春大きく変わる。今はそのための心の準備期間といってもいいのかもしれない。彼女の話を聴きながら思う。ひとつずつやれることを積み重ねていけばいい。そう思う。
私はつと、愚痴を吐いてしまう。吐いて気づいた。こんなにも溜まっていたのか、と。次々出てくる私の膿に、自ら驚いてしまう。彼女が私を安心させるように、大丈夫、私から漏れることはないから、とにっこり笑う。それに乗じて私は湧き出るものを全部吐き出してしまう。でも吐き出してから、ちょっと罪悪感にかられる。私はこんなことを言える立場なんだろうか。言ってる私は、そんなにすごい人間なのか。こんなことを言えるような人間なのか。私は自問自答する。
でも何だろう、吐いたことで、心はずいぶん軽くなった。友人に感謝せずにはいられない。私の愚痴につきあってくれてありがとう。これでまた明日頑張れる気がする。うん、頑張るよ。

夕飯何? 何にしようか。私は冷蔵庫をのぞいて、コロッケに決める。野菜コロッケ。買い置きしておいたじゃがいもを茹でて潰し、下味をつけて、そこに細かくちぎった野菜をぱらぱらと。ママ、野菜たくさんがいい。分かった、じゃぁそうする。ママもその方がいいや。娘の声に私は調子に乗って、次々野菜を放り込む。
昨日の残りのスープを温め、次に油を温め。そっと丸めた生地を入れる。途端にふわぁっと音を立てる油。私はその音が結構好きだ。どきっとするのだけれども、さぁちゃんと出来上がるかなと、わくわくする。後始末は大変だけれども、この瞬間はとても好きだ。
ねぇコロッケとハンバーグとどっちが好き? 最近はハンバーグ。あれ? そうなの? うん、好きになった。あらまぁそうなんだ、じゃぁ今度作るよ。うん、卵入りのがいい。あぁ茹で卵入りね。分かった、じゃぁ今度作るよ。
揚げたてのコロッケをお皿に盛り、薄味の炊き込みご飯をよそい、私たちはいそいそと夕飯の支度。スープは最後に温めなおし、チーズを一切れ入れてできあがり。
ママ、いつ雪になるかな。うーん。早く雪にならないかなぁ。ママはちょっと困るよ。どうして? 明日出かけなくちゃいけないから。そんなのどうってことないじゃん。いやぁ、まぁそうだけど。雪降れ、雪降れ! …。
娘の心はもう、ご飯から雪へ移っている。私はそんな娘を眺めつつ、コロッケを頬張ってみる。

ママ、雪だ! その声がしたのは、私がちょうど風呂から上がろうとした時だった。早く、早く来てごらん! 娘が私を呼んでいる。バスタオルをぱっと巻いて窓に近寄る。さわさわと横殴りに降る雪。あぁ本当に雪だ。その勢い良く降る様は実に見事で。私たちはしばし見惚れてしまう。
娘が歌う。雪さん降ぅれ。雪さん降ぅれ!

眠る前、娘が突然言い出す。ママ、好きな人いる? へ? いないんだなぁこれが。えー、じゃぁ恋してないの?! うん、してないなぁ。だめじゃん!!!
娘に一刀両断され、呆気に取られる母。そして思い切り吹き出してしまう。だめじゃん、って、そりゃないよなぁ。なんで? 恋してなきゃだめなんだよ、女の子は。いやぁそれは、まぁ、あなたたちは恋してる方がいいと思うけど、ママはもう女の「子」じゃないからなぁ。えー、でもねぇ恋はしてなきゃだめなんだよ。なんで? 魅力的じゃなくなるから。…。
なるほど。確かにそうかもしれない。が、恋する相手をまず見つけないと。私が言い淀んでいると、娘がさらに一言。
ママ、ちゃんと恋しなさい。

じゃ、ママ行って来る。うん、それじゃぁね! そう言ってぐいと差し出す掌には、今朝はミルクが乗っている。はいはい、それじゃ、ミルク、行って来るね。
階段を駆け下り、自転車に跨る。今日は三駅分を走る。走り出すと吐く息が白く染まり瞬く間に後ろに流れ去る。でも今日はぬくい。走りながら思う。これじゃぁあっという間に雪は消えてなくなるんだろう。娘の残念がる顔が浮かぶ。
坂を上り、坂を下り、そうして川を渡り。雲はぐいぐいと流れ、表情を変えてゆく。私は少し上を向きながら走る。
地平に溜まる雲の向こう、陽光がまさに溢れんばかりに膨らんでいる。今か今かと、雲がどくのを待っている。
鞄の中には、昨日修理を終えたブレスレットやキーホルダーの封筒がごそごそ入っている。彼女たちに無事に届きますように。そしてこの石たちが、少しでも彼女の助けになりますように。
さぁ今日もまた、一日が始まってゆく。


2010年02月01日(月) 
いつ寝入ったのだろう。夜中に起きて、布団から完全にはみだしていた娘の体に布団を掛け直したことは覚えている。でも、いつ寝入ったかは覚えていない。前の日徹夜だった。だからとにかく早く横になりたかった。早く横になりたくて、布団の中本を読んでいる娘の隣に潜り込んだ。そこまでは覚えている。
できるならこのままもっと眠りたいという欲求を何とか抑えて起き上がる。先日展覧会のパーティで頂いた花束がふたつ、大きな花瓶と小さな花瓶それぞれに飾られている。部屋の明かりをつけていないのに、その辺りだけ仄かに明るく見えるから花というのは不思議だ。オールドローズの花束とガーベラの花束。赤系と白と。まさに紅白。ふくふくとそこに花は在って。なんだかとても、嬉しい。
窓を開けるとまだ丸い月が西の空に浮かんでおり。昨日よりずっと黄味がかって見える。光の加減、なのだろうが、この色の違い。私はしげしげと月を眺める。その月に覆いかぶさるようにして流れてゆく雲。闇はまだまだ濃く、横たわっている。
顔を洗って鏡を覗くと、目が腫れ上がっている。どうしたのだろう、何をしただろう、全然覚えていない。とりあえず指先でゆっくりマッサージしてみる。これで少しはましになってくれるといいのだが。
花瓶の水を替えてから、お湯を沸かす。檸檬を思い切り絞り、蜂蜜を二匙垂らしてレモネードを作ってみる。体がビタミンを欲しているような、そんな気がして。
ふと見れば、ゴロがまた、砂浴び場で丸くなっている。そしてその隣の籠でミルクががさごそと木屑を掘っている。おはようゴロ、おはようミルク。私は声を掛ける。

展覧会会場で午後を過ごす。斜めから射していた陽射しが翳る頃、娘から電話が掛かってくる。どうしたの? ごめんなさい。どうしたの? ママ、ごめんなさい、鍵持って出るの忘れた。え?! ごめんなさい。
今から展覧会会場を出ても、一時間半は余裕でかかる。その間何処で彼女を待たせておいたらいいだろう。これが夏なら外で過ごしていても大丈夫な時間かもしれないが、今は冬。この寒さ。じじばばの家から帰ってくるときはいつもごっそり着込まされて帰ってくるからそう寒くはないとしても、それでも約二時間、外に立たせておくわけにはいかない。
バス代、ある? ある。じゃぁバスに乗って本屋さんで待ってなさい。はい、ごめんなさい。分かった、じゃぁね、ママもう出るから。うん。
どうも娘は、こういううっかりミスが多い。忘れ物が多いとでもいうんだろうか。前の日ちゃんと準備していたはずなのに、直前になって、あ、何々忘れた、とか。それにしても、鍵を持って出るのを忘れるとは。私が鍵を持っていることに甘んじてしまっていたんだろう。自分が鍵っ子であることを彼女は週末になるとすっかり忘れてしまったりする。仕方ない。私は、乗り換えの駅をとにかく走って走って、先を急ぐ。
横浜に着いた頃には、とっぷり日も暮れており。でもそこは地下街。あたたかい。よかった。私は走って本屋へ向かう。本を立ち読みしている娘の、背後から近寄り、こつんと頭を叩く。こら。ごめんなさい。気をつけなさいよ。うん。来週はこういうわけにはいかないからね。分かってる? うん。
来週は搬出だ。夜遅くなる。そんな日に鍵を忘れられたらもうどうしようもない。今から手帳にメモしておこう。鍵。赤で二重丸でもつけておこうか。

家に帰り急いでスープを作る。具材はキャベツと人参とベーコン。それだけ。ざくざくとキャベツを切りながら娘を見やると、もうすっかり立ち直った様子。ママ、ミルクたちの小屋、掃除するよ。うん、してあげないとね。
まずハムスターをそれぞれの小さなケージに移し替える。それから一握りだけ残して木屑を取り替える。水を替え、砂浴びの砂を替え、回し車を洗い。うん、これで綺麗になった。娘は自分を褒めてやるかのように声に出してそう云い、まずミルクに声を掛ける。ほら、おうちが綺麗になったよ。ミルクは差し出された手に飛ぶように乗り移り、娘がその手を小屋に移すと、ぴょんと跳ねて飛び降りた。早速がさごそと木屑を動かし始める。ミルクはせっかく整えられた木屑を、これでもかというほどぐちゃぐちゃにするところがある。ココアはそういうところはない。小屋に入れてやると一番に砂浴び場へ行って、砂の上をころころと転がる。ゴロはといえば、そそくさと小屋に入ってじっとしている。三者三様。まさに言葉どおり。
さぁできた。ご飯にするよ。娘のリクエストで、もりだくさんのサンドウィッチにスープの夕飯。デザートには小さめの苺。

そういえば洗濯物が溜まっている。掃除もしなければ。そう思うのだが、体が動かない。すっかり疲れ果てている。展覧会最中はそんなものだ。今週娘が給食当番じゃなくてよかった。もし当番だったら割烹着を洗わなければならない。今はそれさえも、正直、苦だ。明日、そうだ、明日帰宅するのは多分夕方になってしまうんだろうが、それでも、明日はさすがに洗濯機を回さなければ。私はカレンダーに洗濯と小さく書いてみる。
檜の香りのアロマオイルを垂らし、スイッチを入れる。檜の香りがふわんと私の鼻をくすぐる。そういえばここしばらくこれさえ怠っていたんだなと気づく。自分を癒すことさえ忘れ、ばたばたしていた。でも、こういう時間は、たった十分だったとしてもとても大切なもの。一日十分でもいいから、そういう時間を持つよう、心がけておきたい。
煙草に火をつけながら、今日帰り際友人から受け取ったリストをチェックする。ポストカードで補充が必要なのはこれとこれと、これ。番号に丸をつける。明日早々にやってしまわなければ。あぁそう考えると、明日やらなければならないことが、結構たくさん。あっという間に一日が終わりそう。

朝の仕事をしながら、娘に声を掛ける。六時半だよ、ねぇ、もう六時半だよ。知らないよ、起きないと。時間だからね。
もぞもぞと動く布団。あとはもう放っておくことにして、私は仕事に専念する。
娘がお握りを口に頬張っているのを横目に見ながら、私は仕事をようやく切り上げ、出掛ける支度を始める。ママ、今日何時頃帰ってくる? うーん、四時頃には戻ってると思うよ。分かった。
じゃぁね、それじゃぁね。娘が手のひらに乗せたココアを差し出す。はいはい、といいながら私は彼女の背中をこにょこにょと撫でてやる。じゃ、行ってくるね。行ってらっしゃい。
階段を降りるとちょうどそこにバスが。私は慌てて走り出し、そのバスに飛び乗る。バスの中は南東から伸びてくる陽射しが燦々と溢れ。暖房とその陽射しとで、体がぽっぽしてくる。
電車に乗り、川を渡る。川はきらきらと陽光を受けて輝き流れ。私はその様を見つめながら思う。自分の中に溜まろうとするものをそうやって洗い流して洗い流して、また次へ。昨日は昨日、今日は今日。また新しく始まるもの。ちょうどウォークマンから中学時代に流行った歌が流れ出す。懐かしい歌。
さぁ今日はまず病院。電車は駅に着いた。私は人の波に揉まれながら、先へ進む。


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