見つめる日々

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2009年12月31日(木) 
午前五時、アラームの音で目が覚める。アラーム音の向こうで、回し車の音がする。からら、から、からら。あれは誰だろう。立ち上がって近づいてみると、ココアがちょうど回し車に乗っているところだった。おはよう、ココア。声をかけながら私は窓に近づく。カーテンを開けて外へ。まだ辺りは闇の中。街も沈黙している。そんな中、点る灯りは二つ。点在する街灯の灯りとは異なる色合いが、私の眼の中で揺れる。
闇の中、ぼうっと浮かび上がる白いホワイトクリスマスの蕾。ぱつんぱつんに膨らんで、それでもまだ開かない蕾。私は正直少し心配になっている。いくら寒いからとはいえ、こんなにも長いこと蕾が開かない、そのことが心配でならない。株がどうにかなってしまった、というのでなければよいのだけれども。でも蕾は生き生きとして、ぱつんぱつんに張っている。
その隣のベビーロマンティカの蕾が濃い煉瓦色を見せ始めたのが数日前。昨日の天気のおかげでそれは一層姿を露にし。今は闇に溶け込むようにしてしんしんと黙っている。
雲がなんとなしに空にかかっている。今朝朝焼けは見えるだろうか。私は空をじっと見つめている。

顔を洗い髪を梳かし。そうして私は、今度巣から出てきたゴロを手に乗せ、布団の方へ。そして娘のほっぺたの上にゴロを乗せる。さて娘はどうするんだろう。
ゴロの、遠慮がちに歩く仕草に娘はすぐに気づき、ゴロを手のひらへ。でもまだ瞼は開いていない。私は放っておくことにする。しばらくすると、ゴロ、ゴロ、と名前を呼ぶ娘の声がする。起きたらしい。私は朝の仕事に取り掛かりながら、その声を聴いている。
ママ、今度からこうやって起こして! 娘が言う。ええー、それは気分次第ってことで。私が返事をする。娘はゴロに、ママってけちんぼだよねぇ、と言っている。私はちょっと笑いながら、お構いなしに仕事を続ける。
今朝一番に入れたお茶はレモングラスとペパーミントのハーブティ。そして二杯目はジンジャーミルクティ。ちょっとだけお砂糖を入れて甘くしてみた。たまにはこういうのもいい。
二杯目のお茶を飲みきったところで、私は朝の仕事をさっと切り上げる。こういう日はさっさと行動するに越したことはない。私はミルクと遊んでいる娘に声をかけ、大掃除を始める。
布団を上げ、シーツを洗濯機に放り込む。娘の枕からカバーを引き剥がし、これも洗濯機へ。タオル関係を全部洗濯機へ放り込み、スイッチを入れる。洗濯機が回っている間に、本棚の掃除。もう娘が読まなくなった、小さい頃の冊子を全部よけて、そこに娘の新しく買った本を入れるように伝える。彼女がその作業をしている間に、私はテーブルを片付ける。改めて見てみると、要らないものがある、ある、ある。私はここぞとばかり、遠慮なく捨ててゆく。
そして気づく。数年前友人が送ってくれた荷物の大きな箱。それは、私がまだ多少なりの或る活動をしていた頃だった。その活動の足しになればと、友人が送ってくれたのだった。私は懐かしく、それを順繰りに眺める。友人はどうしているだろう。私がその活動から身を引いて久しく会っていない。今彼女はもしかしたら裁判の真っ最中かもしれない。そう、そんな身の上にもかかわらず、彼女は荷物を送ってくれたのだった。あぁ、これらをどうしよう。私は深く迷う。私の家で個人的に使ってしまうにはあまりにも。そう思い、私と同じく生活を切り詰めている友人一人に電話をしてみる。
結局、幾つかを手放すことにした。そして、それまでテーブルの下、横たわっていたダンボール箱を、私は折り畳む。今まで本当にありがとう。心の中で何度も言いながら、私はそれを折り畳む。
娘が片付けた机の下や畳の上をぐいぐい箒で掃いて、仕上げに掃除機をかける。少しでも要らないと思えるものは次々ゴミ袋へ。娘もだんだん乗ってきて、ゴミ袋はあっという間にいっぱいになる。ついでだからと、娘のぬいぐるみも整理してもらうことにした。溜まる一方だったぬいぐるみ。こちらにも、今までありがとうと一声かける。娘の遊び相手になってくれてありがとう。そうして私たちは、一通り大掃除を終える。時間はあっという間に昼前。ようやく一息つけると、煙草に火をつけた私は、一杯の珈琲を入れる。

昨夕、久方ぶりの友人との再会。北海道から出てきた友人は、出てきてからの数日間、走りっぱなしだったらしい。疲れたぁと言いながら、ごくごくとお茶を飲み干す。私はその様子を少し笑いながら見守る。
思いつくことを思いつくままに語り合う時間。あっという間に過ぎてゆく。友人と知り合ったのはもうどのくらい前だったか。お互い写真を撮っている、ということから、縁が生まれた。お互い撮り焼いたものを見せ合ったり、催した展覧会に足を運んでみたり。そうしてもう何年もの時間を重ねている。その間に友人は、東京から北海道へ引っ越した。その前後に彼の写真もまた変化していった。環境や心境の変化がそのまま写真に現れた。でも何だろう、彼の写真は大勢並んでいる写真の中からも、彼のものだということはこちらに伝わってくるもので。だから私は彼の作品が好きなのだった。
再会を誓って別れる。またすぐ会えるだろう。そう、きっと。

帰宅してすぐ、私は、展覧会のお礼状作りにかかる。いらしてくださった方の中で、ノートに名前を残してくださった方へ、年明けにでも送ろう。そう決める。写真を一点添えたいと、選び始めたのだが、一瞬迷う。でもやっぱり。結局、モノクロの、街景の写真にした。地味かもしれないが、これが多分、ここ最近の私をよく映し出している。そんな気がする。
そうしている間に娘が帰ってくる。娘が帰宅するなり、いっそう騒がしくなった三つの小屋。娘は会いたかったよぉと言いながら、ミルク、ココア、ゴロに挨拶をする。

娘がテレビに見入っている。何を見ているのかと思えば、動物たちの出産、子育ての番組だった。キリンが立ったまま必死に痛みと戦い、そして産み落とす赤んぼう。ママもこんなふうに産んだの? うん、そうだよ、あぁでも、あの膜みたいなのがあるでしょ、あれがね、破れちゃったんだよね。え? うん、まだ破れる時期じゃないのに破れちゃったの、それが分かって、慌てて入院したら、陣痛が来たの。へぇ…。ねぇママ、象の赤ちゃん、120キロだって。でかくない?! そりゃ大きいでしょう。あなたは2890グラムだったよ。覚えてるの? そりゃ覚えてるでしょう。ふぅん、そういうものなんだぁ…。
朝方空に大きくかかっていた雲はだいぶ散っていったものの、まだ北西の空に溜まっており。でも私たちはそんな空を見上げながら自転車に跨る。学校の脇を通り、小さな教会を通り過ぎ、埋立地の方へ。大掃除が無事に終わったら映画を見に行こうかと約束していた。その約束を果たさなければ。
私は所々で自転車を止め、娘を待つ。娘は、骨折してから自転車の乗り方がひどくゆっくりになった。昔は待つ必要など殆どなかったのだが、今はこうして時折止まって待たないと、走る速度が違いすぎて、離れ過ぎてしまう。
高架下を潜り抜けると埋立地へ。明るく弾けるような陽射しが辺りに降り注いでいる。その陽光を受けながら私たちは走る。今日は風が強い。びゅうびゅうとビルの間を吹いてくる風に押されながら、私たちは自転車を漕ぐ。
街を行き交う人の表情はみな軽く柔らかで。今日でこの一年も終わる。そう、もう半日もしないうちに今年は終わるのだ。なんて早い一年だったろう。あっという間だった。その間になんとたくさんのことがあっただろう。私は自転車を漕ぎながらそれらが走馬灯のように脳裏を過ぎってゆくのを見やる。でも多分、いい年だった。いい一年だった。
ママー! 後ろから声がする。振り向けば、必死になって自転車を漕ぐ娘。どうしたの? 私が立ち止まって尋ねると、なんでもないよぉ、って、ほら、抜かした! 娘が嬉々として走ってゆく。私は苦笑しながらそれを追いかける。
ちょうど信号が青に変わった。空の色と交差するその色。私たちは勢いよく横断歩道を駆け抜けてゆく。


2009年12月30日(水) 
体の微妙な痛みで目が覚める。体自体は、まだ起きたくない、そんなふうに言っている感じがするが、習慣とは怖いもので、起き上がらないと気が済まない。でもその前に、半身だけ起こして少しだけ目を閉じて、体の声に耳を傾けてみる。だるい。何処が? 背中が。あと目も重だるい。首の周りがひどく凝っていて、肩甲骨の上あたりがぱきぱきと痛む。私は痛んだりだるかったりする場所を心の中で撫でてみる。そうして納得する。このところずっと走りっぱなしだった。身体を労わってやる隙間などなかった。だから悲鳴を上げているのだ。私はだから心の中でもう一度彼らを撫でてやる。大丈夫、私はここに在る。あなたたちがそこに在ることをちゃんと知っている。
そうして私は起き上がり、お茶の支度をする。お湯を沸かしている間に足元を見れば、巣から早速出てきたミルクががしがしと籠を噛んでいる。おはよう、ミルク。籠から出して抱き上げてやると、ひっきりなしに私の掌の上動き回る。そして私のシャツをがしがしと噛む。
紅茶のカップに柚子紅茶の葉を入れ、お湯を注ぐ。香りなど一切分からなくなった時期があった。あの頃に比べたら私の嗅覚はだいぶ戻ってきた。でも、残念ながら入れた瞬間の香り以上には、私の鼻は香りを感じてはくれなかった。少し悲しくなる。が、そんなことを思ってみても仕方がない。いつかまたちゃんと香りが分かる日が来ることを信じてみるだけだ。紅茶は明るい色味で透明なカップの中広がっている。私はそれを、一口一口、ゆっくりと啜る。

国立の書簡集でひとときを過ごす。午前中ずっと空を覆っていた雲たちも、やがて散ってゆき、私が窓際の席に座っていると、窓から燦々と陽光が降り注ぐ。その陽光にあたためられて、私は時間を過ごす。
友人が娘さんと会場にやって来てくれた。この写真が一番好き! 娘さんがその写真を指さす。モノクロの写真たち。私のこれまで作ってきた写真の中では、多分この写真たちは白でも黒でもなくグレーで。振れ幅が少ない色調なのだと思う。無邪気に写真を見つめてくれている娘さんに、この写真の成り立ちを話す。それに合わせるように、友人が、私も性犯罪被害者なんだよ、と、娘さんに告白する。驚いた娘さんが、え、え、と声を上げている。私はその様子をただ見守る。
いつか娘が大きくなって、そういう機会があったらカミングアウトしようかなとは以前から友人が言っていた。それが、この場所で、今このときであったことに、私はある種の責任を感じる。責任、という言葉が合っているのかどうか、正直よく分からない。でも、それに似た何かを、感じる。この写真たち、この場がなかったら、彼女は今ここでカミングアウトすることはなかったのだろう。それを思うと、私の中に様々な思いがよぎる。この写真を生み出すにあたって名乗り出てくれた友人たち、そして実際に撮る撮られるという行為、その後には文字に記すという行為があった。彼女らにとってそれは、どれほどしんどい作業だったろう。それでもそれに付き合ってくれた。寄り添ってくれた。だからこそ今ここにこの写真たちは在る。そして、彼女たちのそんな姿があったからこそ、今友人は、ここでカミングアウトしている。

日が堕ち始める。丸く丸く、燃える太陽が、西の空、徐々に徐々に、そして最後はすとん、と、地平線に堕ちてゆく。私はそれを、じっと心で見つめている。

普段寮にいる娘さんは、ひっきりなしに言葉を繋げていた。いくら言葉を繋げてみても自分の気持ちを言い表すには足りないといったふうに、次から次に、ただひたすらに、言葉を繋げていた。紡ぐ、のではない、まさに繋いでいた。溢れ出てくる彼女の思いが、私たちの周りで、まるでシャボン玉のように次々生まれては弾けていった。
友人はそんな娘さんを、時に見つめ、時に流し、淡々とそこに居た。時折彼女の顔に疲れが見え隠れするのが私は気にかかり。多分、このテンポに、彼女は少し疲れているのだろうと思った。それでも、彼女の、娘さんを見つめる柔らかな目は、最後まで変わらなかった。私はそんな彼女を見つめていた。

私は娘に夜電話をかける。娘はちょうど横になったところであるらしく、でも、電話だとじじばばが告げると起きてきて、私に言う。久しぶりに家に帰れるね! うん、そうだね。でも大掃除だよ。うん、分かってるよ。さっさと終わらせちゃおうね! うん、そうだね。そして、じじばばに聴こえないように、小さな声で彼女が囁く。早く生ハムたちに会いたいよ。うんうん、そうだね。ミルクもココアもゴロも、みんな帰りを待ってるよ。

朝、友人から連絡が入る。年賀状を書いているところだという。来年結婚十周年を迎える彼女たち夫婦。その道程というのはどんなものだったのだろう。短い結婚生活しか送っていない私には計り知れない。
私は朝の仕事を切り上げてベランダに出る。ホワイトクリスマスの蕾は、太りに太っているものの、まだ割れる兆しを見せない。どこまで膨らむつもりなんだろう。もうまん丸に太っている。その隣のベビーロマンティカの蕾たちは、ようやく色を見せ始めた。濃いレンガ色のその色。三つ。ホワイトクリスマスと並んで咲いたら、それはもう美しいコントラストを描くのだろう。
プランターがみな乾いている。そろそろ水を遣ってもいいかもしれない。今日帰ってきたら水を遣ろう。そう決めて、私は玄関を出る。出る時も、ミルクががしがしと籠を噛んでいる。ごめん、帰ってきたらまた出してあげるからね、私は声を掛ける。
学校の樹木は大きく枝を掃われ。その様子は校庭が一回り大きくなったんじゃないかというほどの空間を作っており。その隅っこで、プールがしんしんと水を湛えている。その水は、東から伸びる陽光を受け、きらきらと輝きを放つ。
自転車に跨り、まずは近くの公園まで。公園の木々はみなもうすっかり裸になり、あたりは沈黙に包まれている。その木々と空とを、池一面に張った薄い氷が映し出す。脈々と伸びる枝、雲の少ない輝く空、あたりを渡ってゆく風、すべてがしんと静まり。氷の上の画は、まさに静止して、そこにただ在る。私はベンチに座り、それをじっと見つめる。そうして振り返れば遊具の集まる方にひとつだけ、時を刻み続け動き続ける時計。今このときもそれは、時を刻み続けている。
広い横断歩道を二つ渡り、高架を潜り抜ければ、裸の銀杏並木。まだその足元には落ち葉が残っており。すっかり色褪せた落ち葉たちは、じっと、樹の足元を守りあたためている。そうして美術館の脇にはモミジフウが待っており。枝々に残る実は空の明るさを受けて影絵のよう、ぽつりぽつりと浮かんでいる。
海に出ると今まさに陽光が海に乱反射しているところで。だから海はまるで鏡のようにそこに在り。私はあまりの眩しさに思わず目を閉じる。そして耳を澄ませば、波の描く繰り返される模様が木霊する。
一人の老人がベンチに座り、鳩に餌をやっている。鳩たちは待っていましたとの如く、次々群がって来、餌を奪い合う。
私はもう少し走ることにする。海と川を繋ぐ場所から川を遡る。少しゆくと、鴎の集まる場所に辿り着く。風がやってくる方向を向きながら、じっと立つその姿は、彫像のように美しく。
街がやがて動き出す。今橋を渡る人と車とに、鴎が一斉に飛び立った。


2009年12月29日(火) 
体が凍えてなかなか寝付けなかった。何度も寝返りを打ち、そのたび布団を掛け直した。それでも体はあたたまらず。やっぱり人間湯たんぽの娘がいないと、こういう時困るんだなぁと実感する真夜中過ぎ。そうして眼を覚ませば、午前三時になっていた。
もう眠ることを諦めて起き出す。まだまだ真夜中なんだろうこの時間帯、何をして過ごそう。とりあえず私はお湯を沸かす。ハーブティを入れて一口一口ゆっくりと啜る。ようやく体の奥がぬくんでゆく気配。私は心底ほっとする。
丹念に顔を洗う。水道水の冷たさが気持ちいい。さっぱりした顔に化粧水を叩き込み、日焼け止めを塗る。そうして口紅を引く。ただそれだけの作業なのだが、毎日毎日それは新しくて。一度として同じ顔はなく。私は今朝も鏡を覗き込む。少し浮腫んだ瞼が気になるが、まぁそれは寝不足なのだ、仕方がない。諦めることにする。それなりに年を取って、皺もシミも現れ始めた。それをどうこうする気はあまりなく。あるがままにさせておく。それが私の顔なのだと思う。
早々に朝の仕事の準備は終わってしまった。それなら何をしようかと考える。そうして写真をスキャニングすることにする。一枚、一枚、仕上げたプリントは、モノクロの街景。港町を中心に撮った代物。一番お気に入りなのは、白茶けた壁に映った雑草の影を撮った写真だ。本当はもっと影を濃いものにしたかったのだが、それは叶わなかった。それでも、この二十数枚の中では一番気に入っている。私にとっての余計なものが何も無く。だから余白がたっぷりあって、そこに何が込められるのかは見る人次第で。私とってそういう写真が今は心地よい。
作業をしているとあっという間に時間は過ぎ。気づけば五時半。私はもう一杯お茶を入れようと立ち上がるが、少し迷い、珍しく珈琲にする。私は珈琲の酸味が苦手だ。何処までも苦味の強いものが好きだ。今手元にある粉はちょうどそれに叶っており。私はそれをゆっくりゆっくり入れる。そうしてその珈琲をお気に入りのカップに入れ、それと共に朝の仕事を始める。

病院の日だった。カウンセリングの日。しかし、予約についての押し問答でその大半が過ぎてしまう。何のためのカウンセリングだったのだろう、そう思いながら席を立つ。結局殆ど何も話さず、今日もこの部屋を出る。
そうしてその後短い診察を受ける。薬が足りない為に急遽診察を入れてもらったのだ。昼間の薬を三日分、足してもらう。
でもそれ以上のことを、あまり思い出せない。受付は混み合っており。私にとっては人があまりに多く居すぎて。それを見るだけでしんどかった。それだけは覚えている。出入り口の扉がやけに重たくて。開けるのに難儀した。そのくらいしか、記憶に残っていない。
友人が、私が探していたアルバムを見つけ出してくれており、それをプレゼントされる。こそばゆいような恥ずかしいような妙な気分。でも嬉しかった。その中の一曲をどうしてもどうしても聴き直したかったからだ。昔、まだ制服を着ていた頃、よく混み合う電車の中で聴いた曲。小さい声で、周りに聴こえないように歌いながら、その混雑をやり過ごしたものだった。
友人が言う。子供は産まれたその瞬間から親を超えている、と。その言葉が妙に引っかかる。超えている、というのは、どういうことなんだろう。人を超える、超えないって、どういうことなんだろう。それを改めて思った。
子供がもう、産まれた瞬間から自分とは別物だという感覚は、私にもあった。でも、超えている、というのがよく分からない。そもそも人は人を超えてゆくようなものなのか? それが引っかかって、妙に頭の中にその言葉が残る。
あれこれと話しながら、ふとした拍子に、子供に侵入はしたくないという話になる。子供の世界を侵したくはない、侵入したくはない。それは、私も友人も、散々侵入されすぎて、自分の世界が壊れかかって育ってきたという記憶があるから、尚更に思うことなのだろう。あんなことを自分の子供にはしたくはない、そういう思いがあるからなんだろう。
でも、侵入はしたくはないが、参加はできるよね、というような話になる。その話をしながら、私は娘と自分の関係を改めて思い浮かべる。娘は今頃何をしているだろう。どうしているだろう。

夕方、埋立地の喫茶店へ。ちょうど日が堕ちるところで。西から伸びる陽光が、乱立するビルに反射する。そしてそれはそのまま私の眼を射る。燃えるような橙色がやがて沈んだ紅色に変わり。日は最後、ひとつのビルの窓を煌々と照らして、堕ちた。
堕ちてからの空の変容がまた美しく。私はしばしその色合いに見入ってしまう。紅色が膨らんで濃紺を生み出してゆくその様。次々に生まれ出ずる新たな色。空はまさに水彩絵の具のパレットのようで。それは決してひとところにとどまることなく何処までも伸びやかに広がってゆき。
そうして空のざわめきはやがて静かになる。濃紺色が辺りを包み込み。雑音はその色の中に溶け込んでゆき。街はしんと静まり返る。

朝の仕事を早々に切り上げ、私はバスに乗る。がらがらに空いたバスの中、私は珍しく座席に座り、駅へ向かう。電車に乗ってしばらくすると、幅の広い広い川へ。その瞬間、私は広げかけた本を思わず閉じた。
空には一面厚い雲が垂れ込めており。しかしその雲の割れ目から零れ出ずる陽光のなんという眩しさ。神々しさ。そして地平線の辺りに溜まる雲が橙色に燃え上がっているのがありありと見てとれる。
川はそんな轟々とざわめく空の下、浪々と流れており。それはまさに、一枚の画だった。これを人の手で再現することは決して不可能だろうと思える、そんな光景だった。
川を過ぎ、乱立するビル群で地平線も見えなくなり。それでも車窓から見える空の表情はなんと豊かで凄まじいことだろう。私は一心にそれを見つめた。一瞬も逃したくなかった。それほどに見事だった。

長い電車の中、娘にメールを打つ。おはよう。今朝ミルクはいつものようにがしがし籠を齧っていました。ココアは眠っていましたが、ゴロは回し車の辺りをちょこちょこ歩いていました。みんなあなたの帰りを待っています。
しばらくすると一言だけ娘から返事が届く。ありがとう。ただ一言。
そうして私は再び空を見上げる。何処までも何処までも空に垂れ込める雲。しかしその割れ目から漏れ出ずる陽光はやはり輝いており。
今日は一日この雲は晴れることはないのかもしれない。けれど、この雲の向こうでは燃える日が輝いており。燦々と輝いており。私はそれを思うだけで、体に力が漲るのを感じるのだ。
降り立った駅前。灰色の世界。葉をもう一枚も残してはいない桜の樹の枝先には、小さな小さな芽の粒がすでに宿っており。
横断歩道が今青に変わる。そして私は今日もまた歩き出す。


2009年12月28日(月) 
しっとりとした冷気の中目が覚める。天気予報の言っていた通り、昨夜は雨が降っていたらしい。いつの間にか寝入ってしまったために全く気づかなかった。窓を開け、街景を見やる。濡れたアスファルトが街灯の明かりに照らし出されている。艶やかなその色味。今朝点いている街灯は二つ。しんしんと闇の中沈んでいる。
雨のせいなんだろうか、朝の冷気はいつもよりずっとぬるく感じられる。午前四時半。まだ夜といってもいい時刻。それでも、薄いシャツ一枚でじっと佇んでいられるほど。私は窓を半分開けたままお湯を沸かす。昨日見つけた柚子の紅茶葉をカップに入れお湯を注ぐ。ふんわりと漂う柚子の香り。一口啜り、それから蜂蜜を一匙入れてみる。途端に濃厚になるその味を、私は一口、一口啜りながら、朝の準備を始める。

あの朝焼け、あれはなんて美しかったのだろう。徐々に闇色がぬるみ始め、そうして現れ出た地平線沿いの紅色。沈黙の中で燃え立つ火の鳥のような、そんな色合いだった。それが徐々に徐々に膨らみ、そうして一点、黄金色に燃え上がる炎。炎は徐々に徐々に膨らんで膨らんで、そうして昇ってくる太陽は、轟々と音を立てていた。聴こえない音、でも見える音。その音が林を呑み込み、大地を呑み込み、そしてぱんっという音と共に地平線が弾けた。太陽が生まれ出た瞬間。
私は眼がばらばらになってゆくのも構わず、ただじっと見つめていた。
あの光景は当分忘れられないだろう。新たに日が生まれ出ずる瞬間。その瞬間を讃える歌が浪々と大地に流れていた。雪を被った大地までもが嬉々として歌っていた。あの声を。

窓を半分開けカーテンも開け放したまま、朝の仕事を始める。ミルク、ココア、ゴロたちは静かにまだ眠っている。娘がいないのを多分分かっているのだろう。昨夜私が餌をやった時も、何となく不思議な顔をして、私を見上げていた。ミルクはそれでも籠を噛んで抱いてくれる手を催促していたが、私が手を伸ばすと、匂いを確かめて、ひょいと身をかわした。だから話しかけてやった。30日か31日には帰ってくるからね。それまでちょっと我慢してね、と。
から、からり、と回し車の音がした。あれは多分ゴロだろう。私はタイプを打つ手を止めてしばし耳を澄ます。からり、からからり。まるで機を織るかのような音だ。まだまだ体の小さなゴロの、あの小さな小さな手が思い出される。私は一口また、紅茶を啜る。

気持ちががくんと堕ちたのはいつだったか。はっきり覚えていない。その瞬間、あ、堕ちた、と思った。堕ちた、ということを受け取ってから、どうしたいかを自分に尋ねる間もなく、これはいやだな、と思った。一月は自分が被害を受けた月でもあり、毎年必ず具合が悪くなる。その一月を目の前にして、今気持ちが堕ちたら、救いようがなくなる、そんな気がした。じゃぁ足掻いてみるか。そう思った。
ちょうど娘の留守。私はバスに乗り駅へ向かい、電車に飛び乗る。行き先なんて決めていない。とにかく乗った。手元の手帳のメモを確かめてみる。行きたい美術館の殆どは年末年始の休暇に入ってしまう頃合。じゃぁどうするか。
雪だ。雪を見よう。
電車に揺られ揺られ。とにかく北へ。別に雪がどっさり降っている場所じゃなくていい。そこまで行ったら自分が帰ってこれる自信はない。逆に誘われて、雪の中にどんどん入っていってしまうかもしれない。それじゃぁ足掻きの意味がない。
ちゃんと自分が帰ってくる、帰ってこれる、そんな場所。何処だろう。
そうしているうちに、気づいたら電車を降りていた。歩き出す。知らない街。知らない通り。
でもそこには、空が在った。雲が在った。木々が在った。土が在った。水が傍らを流れ、時折鳥が空を渡った。私はその間を、ただ淡々と歩いた。
大きな石を見つけ、その上に腰を下ろしてみた。そして眼を閉じ、自分に尋ねてみた。内奥に沈んでみた。
眼を閉じ、一番最初に見えたのは、大きなしこりだった。背中から喉を貫くような、しこりだった。私はそのしこりを撫でてみた。いつの間に、こんなに大きなしこりが私の中に刺さっていたんだろう。育っていたんだろう。気がつかなかった、全く気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。気づいたらその後始末が大変で、気づかなければ何とかなるかもしれない、そんなふうに思っていたのかもしれない。
だから尋ねてみた。いつ頃からここに居たの? 返事はない。何を食べてこんなに大きくなったの? まだ返事はない。
眼を閉じていると、ありとあらゆる音が耳に雪崩れ込んでくるようだった。草のそよぐ音、空を渡る鳥の声、風に揺れてこすれる木々の枝の音。人の気配は。何処にも、なかった。はるか遠く、彼方だった。
日々、私の気づかぬところで、私の痛みや垢を食べて育ったこのしこりは。私に訴えていた。しんどいんだよ、と。
だから、しんどいんだね、と言ってみた。しんどかったね、と声をかけてみた。そうしたらはらり、一本糸が解れた。
気づいてほしかっただけなんだね。毎日毎日強張って、緊張して、過ごしていた自分のことを。たまには声をかけてほしかっただけだったんだね、たまには止まって、ただ単に呼吸してほしい、と。
そういえばこのところ毎日頭痛だらけだった。喉には何かが絡みつき、背中にはどっしり何かが圧し掛かっている、そんな感じだった。薬を飲んでもそれは解れることはなく、いつまでも何処までも私に憑りついていた。
限界が近かったのかもしれない。そうして私は眼を開ける。どっと私の眼に雪崩れ込んでくる世界。あぁ、世界はこんなにも明るかった。色を持っていた。そのことを改めて思い出す。いつの間にか私はまた、モノクロの世界を歩むところだったのかもしれない。
そうして私は顔を空に向ける。飛行機雲が二つ、真っ青な空に浮かんでいる。きーんと耳に響く鳥の声。世界は一時も、とどまることなく流れ続けている。そんな中漂う私は、今ようやく、久しぶりに深呼吸をする。

今日は病院の日。確かカウンセリングの日だった。そう思いながら手元を動かしていると、友人から知らせが。ようやく本を読めるまでになった、もう電話も大丈夫になった、だから、いつ電話を鳴らしてくれても大丈夫だよ、とそこには記してあった。あぁそうか、よかったねぇ、よかったねぇ、私は思わず声をかける。結局今年彼女との再会は叶わなかったが、また来年がある。来年の春までには、きっと私たちは再会していることだろう。この世界の何処かで。
私が、自分がここで生きて在ることが多分、目印になる。そんなことを、ふと、思う。

バスに揺られながら、私は娘におはようのメールを打つ。今日の朝の散歩では何を見つけた? どんなものに会った? こっちの街の池は今朝も氷が張っていたよ。でも今朝は比較的あたたかいね。ママはこれから病院です。数行のメール。娘はそれをいつ読むだろう。
いつもなら混み合う朝の電車も、今朝はゆるやかで。私はほっくりと窓に身を寄せながら流れゆく街景を見やる。そうして、現れる川は。ちょうど切れた雲間から、漏れてくる陽光に真っ白く輝き。そうしてただ流れゆく。何処までも何処までも。私はそれをただじっと、見つめている。


2009年12月26日(土) 
午前四時半。自然に目が覚める。隣の娘は布団をがばっと剥いで大の字になって眠っている。よく寒くないものだと思いつつ、私は彼女に布団を掛け直す。起き上がれば冷たい板の間。足の裏から上ってくる冷気を確かめながら私は窓を開けにゆく。
開け放した窓の向こうに広がる街景は、闇の中に沈み、しんしんとそこに在る。今朝点っている窓の明かりは三つ。街灯の色とは異なる、白い光が煌々と。私はその窓を順繰り見つめる。そしてそのまま目を空へ。雲がかかっているのだろう、闇はどんよりとしている。じぃっと見つめていると、蠢くような雲が、厚く垂れ込めているのが分かる。この分だと今朝の朝焼けは期待できそうにない。
私は部屋に戻り、お湯を沸かす。ハーブティをと思いかけて、やめる。今朝は何となくレモネードが飲みたい。私はレモンを半分絞り、そこに蜂蜜を一匙入れる。あぁ今度は柚子を買っておこう。レモネードに口をつけながらそう思った。柚子を絞って蜂蜜を入れて飲んだらとてもおいしいだろう。そう思う。
早めに朝の仕事にとりかかる。ステレオのスイッチを入れると、ジョシュ・グローバンの甘く何処まで広がってゆくような声が響いてくる。その声に耳を傾けながら、私はタイプを打ち続ける。

授業でフォーカシングを勉強する。二冊の本からだいたいのことを掴んではいたものの、改めて授業でやると発見がいくつもある。授業の終わりに、実際にフォーカシングの時間がもたれた。約三十分のフォーカシング。これまで自分で十分から二十分程度のフォーカシングしかしたことのない私にとって、三十分は長かった。いや、フォーカシングをやっているときには長いとは感じられない。しかし、内に沈み込みすぎたせいか、最中に貧血を起こす。終わった時にはふらふらしており。うまく体が現実に乗っていかない。そんな感じだった。
振り返りをすると、多くの人が、深い発見をしたという。私はといえば、そんな深い、内奥の発見をしたというわけではなく。挨拶し、受け入れ、共感し、そうしてまた挨拶をし、という、その過程を経るだけで三十分はあっという間に終わってしまったというところ。こんなにも人によって違うのかと改めて思わさせられる。
人間が普通言語化できる体験の度合いは、たったの七パーセントなのだという。最大限でも二十五パーセント。なんと少ないことか。たったそれだけの範囲内で、私たちは言葉を交わしているのだ。フォーカシングは、その言語化の範囲を拡大させてゆく作業。それでも、言語化されるまでに、どれだけの時間を必要とするか。自分を省みて、改めて、その不思議を思う。
帰りがけ、同じ授業を受けている方たちと、ちらほら話をする。こんな曖昧なものどうやって信じればいいのかと思っていた、と或る人が言う。あぁそれは私もそうです、こんな胡散臭いものって思っていましたと返事をする。でも、曖昧でも胡散臭くもないんですねぇ、ちゃんとした理論の上に立っているんですねぇ、驚きました、とその人が言う。そうですねぇ、私も本を読んでみて、そして今日の授業を受けてみて、改めて、人によって必要な作業なんだと思いました、と返事をする。
これから夏まで、そうやって私たちは勉強を続けることになる。一体どれだけの発見があるだろう。

重たいかばんを抱えながらえっちらおっちら帰宅すると、娘がテーブルに向かって何かしている。何してるの? 勉強だよ。えー? ほら、もう終わったの、今、丸つけしているところ。頑張るねぇ。じゃぁママも勉強しようかな。うん。
私たちはしばし、机に噛り付く。娘は算数の勉強を、私は今日の復習を、それぞれに為す。午後の日はやわらかく明るく窓から降り注ぎ。私たちの体を暖めてゆく。区切りのよいところで私は立ち上がると、ベランダに出る。ホワイトクリスマスの花びらの縁が、ほのかに紅色に染まっている。昨日までそんな色はなかった。一日のうちにしてこんなにもはっきりと、鮮やかに染まるものなのか。私は縁の紅色を指でなぞる。週末天気が崩れると天気予報が言っていたが、この蕾は大丈夫だろうか。少し心配だ。ここまで立派に膨らんで、まさに咲かんとしているところで崩れてしまったら悲しい。ベビーロマンティカの蕾はまだ緑色。でも、小ぶりの花のはずだから、もう八割方膨らんできているはず。あともう少し、もう少しで、花びらの色も現れ出てくるだろう。
振り返って、パスカリたちのプランターを見つめる。病葉が幾つも見つかる。私はもうだんだん面倒臭くなってきて、また枝を切り詰めたい衝動に駆られる。でも、それはさすがにできない。だからやっぱり、摘んでゆく。摘んで摘んで摘んで。白い病気の粉が下に落ちないようにビニール袋に包んで捨てる。
不意に風が吹き。イフェイオンの葉が揺れる。ホワイトクリスマスの葉も揺れる。さわ、さわわ。まるで葉が歌っているようだ。

娘が勉強を終えたのを合図に、私たちはケーキの準備をする。娘には秘密で、私は苺も買っておいた。だから、ケーキ皿に、苺を山盛りにしてやる。大喜びで苺に食いつく娘。私は、チョコレートケーキと苺の一欠片を一緒に口に入れる。濃厚なチョコレートの味と爽やかな苺の味とが、口の中で踊り出す。おいしいね、うん、おいしいね。私たちはそれだけ言葉を交わす。あとはもう、ひたすら、ケーキと苺を味わう。
酸味のない、苦い珈琲に、私は口をつける。ふわんと広がる珈琲の香り。ほっとする。

古い友人から電話を受け、急遽、夕食を一緒にすることにした。娘はその友人が大好きで、出掛ける前からわくわくしている様子が見てとれる。仕事が忙しいはずだろうに、それでも時間を割いてくれる友人に感謝しながら、私は箸を伸ばす。友人はビールを飲んでいる。娘はサラダを頬張っている。穏やかな時間。
どうしても一緒に新しいゲームをやるんだと、友人を我が家に引っ張って帰る娘。そうして私がまた仕事をしている横で、二人はゲームに興じる。私がいつも自分の机で焚くアロマはレモングラスの香り。その香りが私の鼻をくすぐってゆく。二人は嬌声を上げながら、ゲームに夢中だ。サンタからのプレゼントが、そうやって役に立つなら、それでいい。二人の様子を時折振り返りながら、私は仕事を続ける。
ふと思う。私たちも年をとったものだ。いつのまにかもうすぐ十歳になる娘がここにいて。二十代の頃からの私と友人の縁。私があの事件を経ながらも残ってきた、本当に数少ない縁のひとつ。結局友人は、娘が寝付くまで隣に寄り添っていてくれた。きっと娘は夢の中でもまだ、友人と一緒に遊んでいるに違いない。

今日から娘はしばらくじじばばの家にお世話になる。数枚の着替えを荷物に入れて、私たちは玄関を出る。それじゃ、また31日にね。うん、帰ってきたら大掃除だよ。うん、分かってるって。それじゃぁね。じゃぁね!
娘はバスへ乗り込み、私は自転車に跨ってそれぞれの方向へ。バスが通りを曲がるまで、私は手を振り続ける。
途中の公園の池に立ち寄る。今朝も一面、池には氷が張っており。私はそれを爪先で割ってゆく。さく、さくさく、割れる音がしんとした池に響き渡る。まるでこれは空を映し出す鏡だ。覗き込めば、一面、空。曇天の空。手前には、裸になった桜の枝が脈々と伸びており。それは私の頭の真上。誰もいない公園。そよりとも吹かぬ風。何もかもがしんと、そこに佇んでおり。私はしばしその静寂を味わう。
突然舞い降りてきたのは雀たち。四、五羽はいるだろう、ちゅんちゅんと、囀りながら、辺りをうろうろしている。それを見つけた猫が、何処からかやってきて、私の後方、躑躅の陰からじっと雀を見つめている。雀はやがてぱらぱらと去ってゆく。振り返れば猫ももう、そこにはいなかった。
高架下を潜り、線路を渡り。埋立地へ。すっかり葉を落とした銀杏の樹はなおもまっすぐに天に向かって伸びており。私はその樹の姿を見ると、自分も背筋を伸ばさねばと思うのだ。
長らく工事中だったビルも、もう出来上がったのだろう。中の明かりがいくつか点っている。このビルが建つ前、この空き地には薄がたくさん茂っていた。もはやその薄の姿は影さえもない。美しく整えられた土地に変わった。
乱立するビルの間を縫って走り、私はいつもの場所へ。その前に海へちょっと立ち寄ろう。そう決めて自転車をその方向に走らせる。重たげな雲をそのまま映すかのように、海は濃灰色をしている。寄せて割れる白い飛沫は、いっそうその色を際立たせ。この海は何処へ続いてゆくのだろう。地図を見ればそれは分かる。が、そうじゃない、地図なんかには描かれない場所、その場所を、私は、知りたい。

今鴎が啼いた。何処かで啼いた。その声が、まるで木霊するように海の上、響いてゆく。


2009年12月25日(金) 
目を覚ます。午前四時半。私は慌てて体を起こす。今日はクリスマス、娘が起き出す前にプレゼントを用意しなくては。私は買っておいた彼女へのプレゼントを大きな赤い靴下の袋に入れる。そして彼女の枕元に置く。と、その直後、娘ががばっと体を起こす。どうしたの? ママ、サンタさん、来た? どうだろう? プレゼントは? ん? あ、あった。え、これだけ?!
娘の「これだけ?!」という言葉が私の胸にぐさりと突き刺さる。ちょっと待った、そのプレゼントは君がサンタに注文したものだろうが。思うけれど口には勿論出さない。我慢する。そして彼女が靴下からプレゼントを出す。じっと見ている。もしかして私はプレゼントを何か間違えたんだろうか。自信がない。彼女はサンタにゲームを注文した。ゲームに疎い私にはそんなタイトル分かるわけもなく。調べて買ってみたものの、それで正しかったのか、正直自信はない。
何、プレゼント、違ってたの? ううん、違ってないけど。じゃぁどうしたの? うーん、これだけかぁと思って。
がっくり。やっぱり質より量なのか? 私は喉元まで出かかる言葉を必死に呑み込む。嬉しくないの? いや、嬉しくないわけじゃないけど。じゃぁいいじゃない。だってぇ、友達は、五つも六つもプレゼントもらってるはずなんだよ。ふぅん。まぁそれはそれなんじゃないの? ふぅん。まぁいいや。
私は調子が狂いっぱなしで、何だか視界がちかちかしてくる。立ち上がり、深呼吸してお湯を沸かす。こういうときはいつもの段取りを順に踏むのがいい。私はハーブティを入れ、できるだけゆっくり飲んでみる。
カーテンを開ければ、闇に沈む街景が目の前に広がる。今朝はたったのひとつも窓に明かりが点っていない。みんなクリスマスを迎えるために眠っているのだろうか。ひとつもついていない街景はしんしんとそこに佇んでいる。静かな、静かな朝。街灯だけが煌々と浮かんでいる。窓の明かりがないせいか、その街灯の明かりの色は、いつもより白っぽく私の目に映る。
なんだかんだ文句を言いながらも、娘は結局五時前に起き上がり、そのゲームをやり始める。私はそれを横目で見ながら、仕事に取り掛かる。
徐々にぬるみはじめた地平線を見、思う。あぁ今朝は曇りだったのだ。地平線のぬるみ方が全く異なる。いつもの朝焼けから来る燃えるような赤い稜線が見られない。闇色に半分染まったような、そんな重暗い橙色が僅かに地平線を染めてゆく。その暗橙色の帯はそのまま闇色に溶け込み。いつも見られる白い帯は今朝現れることはなく。そうして明けてゆく夜。生まれ出る朝。
とうとうホワイトクリスマスの蕾はクリスマスには間に合わなかった。あと少し、もう少しだったのだが。私は蕾を撫でてやる。大輪咲きのホワイトクリスマス。どんな姿を現してくれるのだろう。それが今から楽しみでならない。そして隣のベビーロマンティカも、どんな色を見せてくれるのだろう。こちらも私は指で撫でてやる。ホワイトクリスマスの蕾より滑らかな触り心地。滑るような感触。風が私の髪を揺らしてゆく。イフェイオンの長い葉がふわりと揺れる。

フォーカシングに関する本を二冊、だいたい読み終える。次に何を読もう。そう思って目を閉じ、本棚に手を伸ばす。そして最初に触れたのが、クリシュナムルティの「生と出会う」だった。ならこれを読もう。一度もうすでに読んだことはあるが、私はそれを手に取り、ぱらぱらと頁を捲る。まだ線は引いていない本。今度は線を引きながら読んでみようか。
台所を片付けていると、娘が勢いよく帰ってくる。私は早速、用意していた、私からのプレゼントを渡す。はい、これはママからのクリスマスプレゼント。なになに? さぁ、中を見てごらん。
プレゼントしたのは、図書カードだ。添えたカードには「漫画は一冊買ってもいいです。あとは好きな本を選んで買ってください」と書いた。たいていにおいて今まで私が選んできた本を読んでいる娘。もうそろそろ、自分で選んでもいい頃だ。そう思ったから図書カードにした。宿題が早く終わったら本屋さん連れていってあげる。ほんと? うん。じゃぁ早くやる!
娘が算数の宿題をしている間に、私は風呂を洗い、娘が今持って帰ってきた白衣と体操着とを洗濯機に放り込む。がたがた言いながら洗濯機が回り出す。その音に合わせて、私は手を動かしてスポンジで浴槽を洗う。
ねぇママ、またケーキ食べたい。うーん、考えとく。うん。そんな言葉を交わしながら、時間が過ぎてゆく。ママ、終わったよ! その声に合わせて私たちは部屋を出る。ママ、その荷物、何? 額縁。本屋さん行くついでに、額装もしようと思って。ふぅん。
そうしてバスに乗って大きな本屋へ。娘に一通り売り場の説明をし、別れる。私は画材売り場へ。
いつもなら即日で仕上げてくれていたのが、売り場が狭くなった都合で今後は翌日以降の仕上げなのだと言われる。売り場の店員も、以前の店員がいなくなり、みんな戸惑っている様子。私はじっと待つ。四枚の半切の写真。来年書簡集に展示しておいてもらう分だ。今回は樹の中を駆け回る娘を追いかけて撮ったものを選んだ。あの空間に合うといいのだけれども。
娘と待ち合わせた場所で私は本を広げる。「それはそこにある。」「それが、私たちのすべての問題に答を与えてくれるであろう唯一のものである。いや、答ではない。というのも、そのときそこに問題はなくなっているからである。」「あなたが静まっていて」「強烈さをもって沈黙の中にとどまっているなら、そのときたぶんそれはあなたのもとにやってくるだろう。」「それがやってきたとき、それにしがみついてはならない。それを経験として有難がってはならない。ひとたびそれがあなたに触れるや、あなたは再び同じになることは決してない。それが働くにまかせなさい。」「ひとりになりなさい。そしてもしもあなたが幸運なら、それはあなたのもとにやってくるかも知れない。落ち葉の上から、あるいは何もない野原にひっそりと立つ遠くの木から。」
私は「ひとりになりなさい」という言葉を、幾度か胸の中繰り返し呟いてみる。ひとりになりなさい。ひとりになりなさい。

その夜娘と囲んだのは、娘からのリクエストの煮込みうどん。先日友人が来た折に作った、大根おろしをたっぷり入れた、とろみのある汁がいいと言われ、私はその通りに作ってやる。ママの二倍は食べるからね。彼女の言葉を受けて、私は三人分のうどんを茹でる。そこに、揚げておいた鶏肉を添えて、娘に出してやる。我が家では、野菜は山ほど出るが肉はあまり出ない。だから娘が嬌声を上げて肉にかぶりつく。ママの分も頂戴。いいよ、ほら。娘はもぐもぐと勢い込んで食べてゆく。

徐々に徐々に薄く垂れ込めていた雲が散ってゆき。明るい日差しが辺りを照らし出す。昨日よりずっと暖かな朝。私は二杯目のお茶を入れる。今度はピーチジンジャーティ。ほんの一匙、お砂糖を入れて。ピーチの甘い香りが、ふわんと部屋に広がってゆく。
カップを持ったまま、私は玄関を開ける。そしてアメリカン・ブルーとラヴェンダーのプランターの脇に座り込む。少し前から、何本か挿してあるうちの一本の様子がおかしい。葉の縁が茶色がかってきている。単に枯れてきたせいならばいいのだけれども。私はじっと見つめる。ラヴェンダーは根元に小さな小さな、吹けば飛んでしまいそうなほど小さな新芽をつけてそこに在る。こんな季節にもかかわらず新芽を出してくれることに、私は胸の中で感謝する。
振り向けば、東の空は今まさに白く白く燃えているところで。私は眩しくて目を細める。校庭の隅、プールの水面はその陽光を一身に受け輝き出す。通りの端を、足早に行く人影。目を閉じて耳を澄ませば、何処かの木に集っているのだろう、雀の啼き声。
じゃぁね、ママ、そろそろ行くよ。うん、あ、ちょっと待って。そうして娘は今朝はココアを掌に乗せて来る。はいはい、ココアも大変だねぇ、起こされて。私が笑いながらそう言うと、娘が怒ったような顔をして、せっかくママに挨拶しに来たのに、と言う。ごめんごめん、そうだったね、じゃぁママ、いってくるよ。うん、それじゃぁね、勉強頑張ってね。うん。
階段を駆け下り、通りを渡ると、バスが二台連なってやってくるところ。一台目のバスに揺られながら、私は駅へ。駅にはもう人が溢れており。私はぶつからないよう人の間を縫って俯きながら歩いてゆく。東口から西口へ。そうして少しゆけば川が現れる。
川の中ほどで立ち止まり、私は川面を見つめる。輝き流れる川。いっときもとどまることはなく。浪々と流れてゆく。見上げれば空は薄い水色に染まっており。
そうして今日がまた、始まってゆく。


2009年12月24日(木) 
午前五時。まだ少しだるさの残る身体を起こす。昨夜娘は何時に眠ったのだろう。覚えていない。私より多分遅かったはず。そんなことを考えながら窓を開ける。濃い闇色の中、浮かぶ灯は四つ。凛と張り詰めた冷気の中、その灯たちは煌々と白く輝いている。そんな中、街燈はまた異なる色合い、暗橙色の仄かな円を描いて闇に漂う。
私はお湯を沸かしながら茶葉を用意する。レモングラスとペパーミントの茶葉をカップに入れお湯を注ぐ。乾ききった葉が瞬く間に濡れて、澄んだレモン色がふわりとカップの中広がる。
椅子に座りながら、あぁ、クリスマスなのだなぁと思う。娘へのカードをまだ書いていない。サンタからのプレゼントも私からのプレゼントもようやく用意した。今夜彼女が寝入ったら枕元に置く。私が置いたことが分かってしまわないように、今夜は仕事があると言って彼女より遅く寝よう。そう決める。
私はベランダに出、ホワイトクリスマスの蕾を見つめる。クリスマスにはちょっと間に合わなかったが、でも、もうすぐ、開こうとしているこの蕾。白く白く膨らんで、真っ直ぐに天に向かっている。白の花びらの付け根の方には薄い緑色の脈が残っており。その色合いが何とも言えない美しさを醸し出している。
ホワイトクリスマスの隣でベビーロマンティカが三つの蕾をつけ、佇んでいる。こちらもまたそれぞれに膨らんできており。でもまだ花の色は現われていない。今年初めて咲く花。どんな色を見せてくれるだろう。今から胸がどきどきする。
パスカリたちのプランターには病葉が見られ。私は一枚一枚、摘んでゆく。新芽がやはりこぞって病気に冒されている。ちょっと水をやるとこうだ。しかし、水を全くやらないわけにもいかない。加減が大切なのだろう。でもその加減というのが、一番難しい。
そうしている間に、少しずつ少しずつ緩み始める地平線。徐々に徐々に変化してゆく色合いを、私はベランダからじっと見つめている。

親しい友人たちと盃を酌み交わす夜。娘は、流れる音楽に合わせ身体を大きく揺らして、私たちの笑いを誘う。食べるより飲む。そんな雰囲気がテーブルに流れており。遅れてきた友人も次々盃を空けてゆく。
私が娘を連れていることを気遣ってくれる友人たちと、必要なものを買い込んで我が家へ。散らかってると断りはしたものの、本当に部屋は散らかっており。友人たちはそれぞれ場所を作って座る。
何を喋るというわけでもなく。でもおしゃべりはつらつらと続き。娘はとうに寝入った後、私たちは喋り続け。気づけば夜中をとうに越えており。
また会おうという約束をして別れる。時計は午前二時半。あっという間の一日だった。
私が横になったのは午前四時、そして一時間後には起きて仕事。我が家に泊まった友人と娘が眠っているその傍ら、私は支度をする。何となく二人の寝顔を見つめる。頭が二つ。布団に埋まるようにして在る。こんな風景もいいなぁなんて思う。

朝の仕事をしていると、ようやく娘が起きてくる。今日はサンドウィッチもできるよ、おにぎりとサンドウィッチとどっちにする? サンドウィッチ。じゃ、ちょっと待ってて。私は台所で、昨日のうちに用意していた具材をパンに挟み、娘に差し出す。一口食べた娘が、これ、味が薄くない?と言う。私は十分だと思ったのだが、一味足りなかったらしい。まだまだだな、と思う。味と匂いをちゃんと取り戻せるようになるには、まだもう少し時間がかかるらしい。私はそんなことを思いながら、娘がパンをはぐはぐ食べる様子を見守る。
穏やかな休日の朝。淡々と時間が流れる。まだ友人は眠っている。ケーキを買いに出掛けるぎりぎりの時間までそっとしておこう。私と娘はそれぞれにやりたいことをやりながら、時間を過ごす。
そうして午後にはプレゼント交換とケーキ。楽しい時間は本当にあっという間に過ぎる。別れの時間はそうしてやって来て。私たちは手を振り合って別れる。またすぐ会える。それが分かっていても、何となく寂しい。

フォーカシングの本を読みながら、自分がまずやれることを書き抜く。
1)今日はどのやり方にするか(自分で意識的に選んだことを取り上げる方法、または、今注意を求めているものが出てくるのを待つ方法)
ゆったりと座り、深呼吸をする。
2)からだの内側で感じています。(足から順に体の中央部へと意識を上らせてゆく)
3)何が今私の注意を求めているんだろう、或いは、あの問題について私はどう感じているんだろう(フォーカシングは、感情を含んでいるが、感情の中に入り込むことではない。悲しいと感じたら、からだのどこにその悲しさがあるか感じること)
4)ここに在るものに「こんにちは」と挨拶する(「こんにちは、そこに在るのが分かったよ」挨拶することは、それがただあるがままでいるのを認めることになる。慌てず時間をかけて、フェルトセンスに挨拶をすること。遠すぎず近すぎず、ちょうどいい感じで挨拶ができる距離から声をかけること)
5)それをどう描写するのが一番ぴったりか探しています(頑張りすぎないこと。むしろ優しく「これは何だろう」と不思議がっている方がいい。フェルトセンスを理解するより慈しむことの方が大切。そして、からだの内側で感じている感じに触れ続けることが大切。)
6)からだに戻して確かめています(言葉でも文章でもイメージでも考えでも、フェルトセンスから出てきたものは何でも、フェルトセンスにもう一度戻して、それでいいかと確かめる必要がある。)
7)今ここでただこれと共にいてもいいでしょうか
8)興味と好奇心をもって、それのそばに座っています(その感情の中に入り込んでいるのではなく、その感情のそばにいることが大切。セッションを通じて、そのときどきに出てきている感じが、フェルトセンスにぴったり合っているかどうかを確認しながら感じ続けること。そしてフェルトセンスに気づくたびに、その描写について、「これでいいかな」と繰り返し尋ねること。フェルトセンスから何か新しいことが出てきたら、いつでも身体に戻してあげること。そうすることで、体の内側にしっかりとそれがとどまることができる。)
9)その観点からはどんな感じを感じていますか
10)それに感情的な質感があるかどうか尋ねています
11)〜と問いかけています(「何がそんなに〜なの?」「それに何が必要なの?」大丈夫になったらどんな感じか教えて欲しいとからだに頼んでみること。)
12)そろそろ終わりにしてもいいかどうか確かめています
13)また戻ってくるからね、と言う
14)つきあってくれた部分とわたしの身体に感謝する
書き抜きながら、私は、自分のからだをゆっくりゆっくり辿る。まず最初に出会うのは、重だるい張り詰めた脹脛。でも、重くてだるくて張り詰めている、ということを意識しただけで、少し軽くなる。次に立ち止まったのは背中と肩。がちがちに凝り固まって、しんどいと言っている。私はしんどいね、と返す。それだけで、すっとしんどさが半減してゆくのを感じる。胸や胃などの中央部までは行き着けなかったので、私は、今見つけたものたちに改めて挨拶をする。そして、尋ねてみる。何がそんなにしんどいの、何に対してそんなに張り詰めているの。それぞれの答えが、時間を置いて返ってくる。あぁ、そうだったのか、私は納得する。言われてみれば、思い当たることが山ほど。そうか、そうだったのか。私は納得する。あなたたちはそういうことで悲鳴を上げていたんだね、と返す。そして少し、その感じを味わってみる。辿り続けてみる。彼らがそれぞれに泣いたり訴えたりするのを、そのままにして、私はただ耳を傾けている。これ以上やると自分の解釈や批判を付け加えてしまいそうになる危険性を感じ、私は、そろそろ今日は終わりにしてもいいかどうかを彼らに尋ねる。そして、また戻ってくるね、その時もっと話をしようね、と約束をする。ありがとう、また会おうね。そう言ってさよならをする。
もしかしたらまたすぐ戻ってくるかもしれないけれども、それでも、この作業の間に、私のしんどさ、だるさは半減した。
あるがままのものをあるがままに受け容れることは寄り添うことは難しいけれども、それができるだけで、ほんのちょっとでもできるだけで、身体は慰まり、ほっと一息つけるのだということを、改めて実感する。

夜明け頃、地平に溜まっていた雲はいつの間にかいなくなり。水色に晴れ渡る空。通りの向かい側に立つ建物の天辺で、鴉が二羽、戯れている。艶めいた大きな羽根が、陽光を受けさらに輝く。
自転車に跨り、池のある公園へ。池は前面凍っており。私は足先でそっとその氷を踏む。踏んで踏んで踏みしだいて。池の中央へ伸びる大きな石に座り、私はまだまだ張っている氷を見つめる。空を映し出す氷の鏡。張り伸びた木々の枝がその手前に広がって。まさにこの街の冬という景色が、今目の前の氷の中、広がっている。
霜柱を踏みしだきながら、私は再び自転車に近寄り、跨る。今日やることを頭の中反芻しながら走り出す。冷気が裸の指先に突き刺さる。凍える指先。それでも手袋はできるならしたくない。この冷気を、間近で感じていたい。
裸の銀杏たちが規則正しく並んでいるその横を、私は走り抜ける。今日は比較的ゆったり過ごせるはずの日。済ませなければならない事柄は確かに多いけれど、まぁそれはそれ。これはこれ。
やれることを一つずつ、積み重ねていこう。やれることを一つずつ。
空は澄み渡り、今一筋の雲が空を彩る。海の方が微かにけぶっている。私はそれを見つめながら、じっと、じっと見つめながら、再び自転車のペダルを踏み込む。


2009年12月22日(火) 
誰かしらの回し車の音で目を覚ます。から、から、からら。途切れ途切れに聴こえるその音。近づいてみると、ゴロがこそこそと回し車を回している。それは本当にこっそりした仕草で。私を見つけると、途端にぴたりと止まる。でもまだ回りたい気持ちはあるらしく、から、からら、からら、と回ってみせる。おはよう、ゴロ。私は声を掛ける。隣のココアは小屋の中、その小屋の入り口には、昨日のうちにまた集めたのだろう木屑が、山盛りになっている。そしてそのまた隣がミルク。ミルクは、ゴロの回し車で起きたのか、それとも私の気配で起きたのか、小屋からぴょんと出てきて、いつものようにがっしと籠に噛み付いている。おはようミルク。私は彼女にも声を掛ける。
金魚にも挨拶をしてからカーテンを開け、そして窓を開ける。まだまだ闇の中の街景。今朝は六つの窓の明かりが点っている。街燈の橙色の明かりがぼんやりと、辺りを照らしている。もう殆ど葉を落とした街路樹が、その明かりを受けながらしんしんとそそり立っている。
体が凍えてくるのも構わず、じっと、じっと東の方を見つめていると、やがてぬるんでくる地平線。濃紺の帳がほんの僅かに揺らぎ、そうして現われる、橙色の輝く光帯。そして濃紺と橙色を結ぶのは白い帯。そうした僅かな空の変化を、私はじっと固唾を呑んで見守っている。
薔薇のプランターの土はもうすっかり乾いている。今日くらい、もういい加減に水を遣ってもいいかもしれない。帰ってきたら水を遣ろう。そう決める。病葉はどうだろう。私はそれぞれの樹をじっと見つめる。今朝はとりあえず一枚もないようだ。そして蕾。ホワイトクリスマスの蕾は、まさにクリスマスに咲かんばかりの様子、もう真っ白い花びらの色が零れている。その隣にはベビーロマンティカの三つの蕾が。こちらはまだ閉じているが、もうずいぶん膨らんできた。今年中にはその姿を見られるかもしれない。
ようやく部屋に入り、お湯を沸かす。ハーブティを用意し、お湯をカップに入れる。カップにお湯を入れる瞬間が好きだ。茶葉がぱたぱたと暴れ出すその瞬間がたまらなく好きだ。蒸らしている間に私は顔を洗い、髪を梳く。静電気でふわふわと漂う髪を、後ろ一本に結わく。

病院、診察の日。いつもと変わりなく、淡々とした診察は五分で終わる。袋一杯の薬を受け取り、次は国立へ。
前期も見に来てくれた友人と待ち合わせ。彼女の歩く後姿を見ながら、日に日に足が細くなってゆくなぁと私は思う。彼女の足は真っ直ぐで美しい。形がとても整っている。だから実は私は、彼女が歩いている、その後姿を眺めるのが好きだったりする。彼女には秘密だが。
寒風に巻かれながら、辿り着いた書簡集。彼女はホットサンドと紅茶を、私はカレーとフレンチブレンドを頼む。ゆっくりと流れてゆく時間。
彼女は、撮影には参加しなかったが、立ち会ってくれた一人だ。撮影の間中、みんなの荷物を守ってくれていた。あの寒い中、ずっとひとところにいることは大変だったろう。それでも何も言わず、じっと私たちを見守っていてくれた。
あと少しで展覧会も終わる。二ヶ月。それは長いようで短い。始まってしまうと、まさにあっという間だ。それまでに一体何人の人が足を止めてくれるだろう。
その彼女が帰る頃、別のお客さんがやってくる。初めて会う人だ。アクリルで絵を描いているのだという。身近にDVの被害者や加害者、その他性犯罪被害の知人がいるのだという。ひとしきり彼女の話に私は耳を傾ける。彼女の話は止むことなく続き。私は、まだまだこんなにもこうした被害は続いているのだという現実を、改めて噛み締める。

私が出会ってきた、そうした被害者たちは、本当に、ほんの一握りだ。でもそれがたとえほんの一握りであろうと何であろうと、それは事実であり。まごうことなき事実であり。今この瞬間もも暴力から脅迫から逃げ続ける人間は存在している。
その現実を、一人でも多くの人に伝えたい。
同時に、そんな彼女らの素晴らしい笑顔も、私は伝えていきたい。そんなことがあったにもかかわらず、彼女らはたいがい笑っている。泣きながら笑っている。そんな彼女らの姿を私は捉え、写真という手段で伝え残していきたい。

この試みが、何処まで続けられるか分からない。分からないが、可能な限り、続けていきたい。私はそう思っている。

そして、これが終われば、来年一月末からは、二人展が始まる。パステルで絵を描く友人との二人展だ。これが二回目になる。今の展示が終わったらすぐさま準備に入らなければならない。正月気分に浸っている暇は、多分、ない。
そして、一月は私にとって、しんどい月でもある。被害に遭ったのが一月末。以来、この一月という月は、私にとって一年で一番越えるのがしんどい月になった。どうしてもフラッシュバックが多く起きる。あらゆるところで起きる。夢は悪夢に変わり、一日一日が終わることを知らず続いてゆく。
でも。
だからこそ、あえて、呼吸していたいと思う。必ず越えていきたいと思う。一日一日を、噛み締めて、越えていきたいと、そう思う。

気づけば夜は明けて。今日も空は晴れ渡る。昨日より多い雲が、ぽつぽつ、ぽつぽつと空に浮かび、漂っている。玄関を出ると、アメリカン・ブルーとラヴェンダーが迎えてくれる。こちらも今日帰ったら水を遣ろう。土がだいぶ乾いている。
じゃ、そろそろママ行くね。うん、あ、ミルクに挨拶して! 今朝はミルクなの? うん。はいはい、じゃぁね、ミルク、行ってくるね。じゃねー、気をつけてねぇ!
娘に見送られ、出掛ける朝。私は自転車に跨り、坂を駆け下りる。ふと思いついて公園に立ち寄る。きっと、きっと。そう思って池に近づけば、一面氷が張っている。あぁやっぱり。思ったとおりだ。私は嬉しくなる。急に胸がわくわくしてくる。子供じゃないんだからと思いつつも、足で氷をちょんちょん触ってしまう。結構厚く張ったらしく、軽く踏んだだけでは割れない。私は割るのが楽しくて、池を一回りしてしまう。池の周りには霜柱がぐいぐいと頭を持ち上げており。私はそちらも踏みしだく。なんだか子供の頃に帰ったようで、とても楽しい。
そうしてまた自転車に乗り、私は埋立地の方へ。銀杏並木はすっかり裸になり。空に向かって枝を一心に広げている。明るい陽射しの中、私は走る。
雀が今、私の視界を横切った。まだこの街にも雀がいてくれる。それが嬉しい。
さぁ今日もまた新しい一日が始まる。私は一層力を込めて、自転車のペダルを漕いでゆく。


2009年12月21日(月) 
午前四時。娘のアラームで起こされる。午前四時に起きて何がしたかったのだろう。その娘は微動だにせず。試しに揺すってはみるものの、これも一向に効果はなく。まだ早過ぎるだろうと声はかけずにおく。カーテンを開けると、昨日よりも一層濃い闇色が横たわっており。私はその闇色を眺めながらお湯を沸かす。紅茶葉入れに、昨日買い足したレモングラスとペパーミントを入れ、スプーンでかき回す。適度に茶葉が混ざったところを一匙すくって、カップに入れる。
紅茶を蒸らしている間に顔を洗う。そうして再び台所へ向かい。入れたての紅茶を一口啜る。ようやく体が起きてくる。私はカップを持ってそのままベランダへ。今朝今の時間に明かりの点っている窓は三つ。その窓を結ぶと、ちょうど直角三角形になる。私はその三角形をゆっくり目でなぞる。
私はようやく机に座り、昨日届いた本を紐解く。フォーカシングやカウンセリングに関する書二冊。ぱらぱらと頁を捲り、どちらから読むか選んでみる。どちらもそう厚くはない、どちらかといったら薄い本だけれども、読むのは大変そうだ。一冊選び、今読みかけの書と共に鞄に入れる。
から、という音が微かにしたので台所へ行ってみると、昨日新しくやってきた家族の一員が、回し車を回している。私に気づいて止まり、回し車の真ん中でちょこねんと立っている。おはよう。私は声をかけてみる。すると、その声に反応したのか、ミルクがさっと小屋から出てくる。こちらは私の姿を確認すると途端にいつものようにがっしと籠に齧りつく。おはよう、もうちょっと待っててね。私はこちらにも声をかける。ココアは真ん中の籠でじっと、小屋の中で眠っているようだ。
徐々に徐々にぬるみはじめる東方の地平線。闇色が日に日に濃くなっているせいだろう、グラデーションはまだまだ短く。地平線の間際が橙色に、そして闇色と地平を結ぶ辺りが仄かに白く染まっているのみ。でもじっと見つめていると、その橙色と白との帯が少しずつ少しずつ膨らんでゆき。闇を溶かし始める。
夜明けの、始まりだ。

友人に連れられて行ったライブは、今まで私が観たことのない類のものだった。この聴衆の団結力のようなものは一体何処から沸いてくるのだろう。ライブがまだ始まる前から、その様子は明らかで。私は初めて見るその様子に、しばし息を呑む。歌い手の歌に合わせて手拍子を取る、身体を揺らすは当たり前なのだけれども、決して誰も、歌を邪魔しようとする者がいない。歌の間に声を張り上げる者が誰もいない。もちろん間奏の間は大勢の声が舞台の歌い手に飛んでゆく。しかし、歌い手の声を遮る声は最初から最後まで一声もそこにはなく。誰もが、今一緒にこの会場にいる隣人を気遣い、気遣いながら耳は目は舞台に。その緊張感、一体感はたまらなく心地よかった。私は歌い手の歌と共にその会場の雰囲気を深く味わっていた。

頼まれ仕事でとある街を走り回る。その街はかつてさんざん仕事で走り回った街でもあり。だからどうしても今と過去とが重なり合い。私の心を鷲掴みにする。時折眩暈を起こし、私は立ち止まる。が、今立ち止まったらたちどころに動けなくなる気がして。私はすぐに動き出す。過去に呑み込まれまいとして、懸命に動き続ける。
ようやく終えた頃には全身ががちがちに強張っており。膝が抜けるような感覚に襲われる。涙が出そうになる。この場所はまだ私には早い。改めてそう思う。

いつもより早い時間に娘と待ち合わせる。じじばばにつけさせられたのだろう、マスクを被った娘が人ごみを駆け抜けてやって来る。私はその手を取って、さらに二人で走る。
クリスマス色一色に染まった街の片隅。私たちはペットショップへ。もう一ヶ月も前から、娘が私と知人とに頼み事をしていた。それが今日叶う。
娘はもう目を皿のようにして、ガラスケースを見つめている。でも店員に何も訊けないでもじもじしている。ねぇ、知りたいことはちゃんと自分で訊いておかないと後で後悔しちゃうよ。私が声を掛ける。それでもまだもじもじ。私は隣にやってきた店員に声を掛ける。そして娘に、訊きたいことを言ってごらんと促す。
最初種類の違うハムスターを選ぼうとしていた娘。でもそれはとてもすばしっこい性質らしく。観賞用ですね、という店員の言葉に、やっぱり今までと同じ種類の中で選ぶ、と判断する。そうして改めてガラスケースを見つめ始める。私は隣にいると口出ししたくなってくる自分に気づき、慌ててその場を離れる。少しずつ自分から店員に何かを訊き始める娘の様子を確かめ、話の聞こえないところでじっと待つ。
ママ、私、この子にする。そうなの? うん。どうしてかって言うとね、この子が一番元気で体が大きかったから。そうなんだ。本に書いてあったの、同じ時期に生まれた子で選ぶ時は体が大きくて元気な子がいいんだって。そうかそうか、それならそうするといいんじゃない? うん、この子にする。契約書にも娘に自分で名前を書いてもらう。知人はそんな私と娘の様子を黙って眺めている。
小さな段ボール箱に入れられた新しい家族を、娘は大事に抱きかかえる。知人がそれをからかって段ボールを突付くと、娘がひゃぁっと泣きそうな声を上げる。知人が尋ねる。名前は決めたの? うん! なんて名前? ゴロ! 私と知人は顔を見合わせる。女の子だよ? いいんだよ、もう決めたの。
ゴロ。それは、知人の渾名からとった名前だった。知人はそんな娘を改めて見つめ、ぷっと吹き出す。私もそれにつられて笑い出す。ゴロかぁ、ゴロちゃんね。そうして三人、荷物を抱えながら、店を後にする。午後の陽射しが、目に眩しい。

ねぇママ、ゴロちゃんって噛まないよ。え、もう抱いてるの? だって手を出したら乗ってくるんだもん。二、三日はせめてそっとしておいてあげた方がいいんじゃないの? んー、だって自分から乗ってくるんだよ。ふぅん。やっぱり私はつい口出ししたくなる性質らしい。懸命に次の言葉を呑み込む。この子たちの世話は全部娘に任せるのだから、私が口出しすることじゃぁない。
それにしても。同じハムスター、色違いではあるものの種類も同じ、だというのに、この三者三様、性格の違いは何だろう。私は改めて生命の不思議を感じる。同じ手に乗せるという動作でも、ミルクは四六時中歩き回り、ココアはぺたんと掌にくっつき、そしてゴロは丸くなる。撫でられる時の様子も全く異なる。ミルクが頭を持ち上げてくるとしたらココアはぺったんこ、ゴロはじっとそのまま。
似通った顔をしている筈なのに、声を出すわけでもない彼女たちなのに、それでも三匹ともそれぞれに全く違う表情。遠い昔に父母に連れられて観た映画「キタキツネ物語」を思い出す。生まれ出た子供らの、それぞれの表情。それぞれの仕草。癖。性格。生命にはひとつとして同じものは在り得ないのだと、それは当たり前のことだと頭では分かっているけれども、改めてその不思議に私は思いを馳せる。

いつの間にか夜がすっかり明けている。空は白く白く輝き、その空気は凛と張り詰めており。こうした冬の空気の色合いが私は好きだ。たまらなく好きだ。自分の背筋もぴんと伸びてくる気がする。
ママ、そろそろバスが来るよ。うん、分かってる。もう出る。そう、今日は病院の日。そしてその後国立へ足を運ぶ予定。それじゃぁね、行って来るね。あ、ママ、ココアに挨拶して。はいはい、じゃぁ行ってくるね。うん、気をつけてね。
私はココアと娘とに見送られ、玄関を飛び出す。階段を駆け下り通りを渡れば、丁度やって来るバス。混み合うそのバスに揺られながら駅へ。
慌しく過ぎた週末。さぁまた新しい一日が始まる。ちょうど電車は川にさしかかり。私は晴れ渡る空とりゅうりゅうと流れるその川面を見やる。
三羽の野鳥が今、目の前を横切ってゆく。


2009年12月19日(土) 
目を覚ますと午前四時半。娘は昨日もまた私に絡み付いて寝入った。おかげで私は、ぐっすり眠ったという気がしない。しないものの、娘はかわいい。そうやって構ってくれとやってくれば、面倒なときもあるけれども、それでも、それもあと僅かの時間と思うと、いとおしさは募る。そうもう僅か。あと数年もすれば、娘はもう私など振り向きもしないだろう。彼女の世界は日毎広がってゆくばかり。
窓を開ける。外はまだまだ闇色に沈んでいる。今朝点いている明かりは八つ。週末ということもあるんだろうか、先日より数が多い。あの窓の中、今誰がどんなふうに過ごしているのだろう。私はひとつひとつ窓を眺めながら思う。
闇の中、ほんのりと浮かび上がる街燈。橙色に少し紺色を足したならあんな色になるのだろうか。いつ見ても不思議な色合いだと思う。夜明けの街燈。車も人も通らないだだっぴろいアスファルトの通りを煌々と照らしている。
何となく甘いものが飲みたくて、ミルクを温め、そこに紅茶葉を入れる。少し煮詰めシナモンを振りいれ、砂糖を一匙入れて出来上がり。
お茶を飲んでいると、がしがしと籠を噛む音がする。あの音はミルクだ。思いながら籠に近づけば、やはりミルクが、がっしと籠にしがみついている。籠を開けるとミルクは上手に自分で籠から出てくる。ココアにはできない芸当。体の大きさのせいなんだろうか。ミルクには籠の入り口の高さは余裕で手が届くらしい。私は頭を数度撫でてやり、娘が起きるまで待っててねと声をかけ、再び籠に彼女を戻す。
コンピューターの調子がおかしくて、なかなか朝の仕事が進まない。結局一時間もして諦めることにする。今日はこのコンピューターは機嫌が悪いんだ。そう思うことにする。音楽をかければ魂の歌が一曲目に流れてくる。その音楽を聴きながら、私は玄関を開ける。アメリカン・ブルーとラヴェンダーが、ぬるみはじめた空をじっと見上げている。私は彼らの脇に座り込み、彼らと同じ高さで空を見上げる。あぁこうしてしゃがみこんで見る空は立って見る空と全然違うのだと、改めて思う。校庭も何もここからは見えない。見えるのはただぽっかりと空いた空だけ。こうやって一日中、アメリカン・ブルーとラヴェンダーは空を見つめているのか。私は横の彼らを改めて見つめる。恋する相手は空か。そんなことを思う。

実践授業の日。しかし朝具合が悪くて飲んだ薬がいけなかった。実践授業だというのに椅子に座っているとこっくりこっくり来てしまう。
他の人のミニカウンセリングを見ていて、気づく。自分を空っぽにして鏡の役目をすることがどれほど難しいかということ。観客役のときでも学ぶことはどれほど多いことか。それぞれたった十分のミニカウンセリング。でも、それは今の私にはまだまだ十分に長い。意識がふらふらする中、それでも順番は回ってくるわけで。でもその時気づいた。集中しよう集中しようと努力を自分に強いるより、ふわりとそこに降り立った方がずっと、気持ちをすかんと抜けさせられるということ。あとはどれだけ耳を傾けられるか心を傾けられるかなのだが、それはやはり、まだまだ難しい。
ひとつの言葉に集中しすぎると、全体を捉えられない。全体を捉えようとしすぎると今度はひとつひとつのキーワードになりそうな言葉をすり抜けさせてしまう。あぁまだまだだな、そう思う。
帰りがけ、次回の授業に繋がりそうな本を二冊見つける。フォーカシングに関する本だ。とりあえず買って読んでみることにする。

ふと、これから先のことが心配になる。今やっている仕事が終わったら、途切れたら、そこから私はどうしようか。いつ途切れてもおかしくはない類の今の仕事。私が死ぬのでもない限り、仕事が途切れても私の時間はそこに在るわけで。さて、どうしたものか。
悩んでも何も始まらないことは分かっている。分かっているが、やはり私の肩に重く、その現実は圧し掛かる。

もし今日クライアント役が回ってきたら。私は何を話したのだろう。何を話せただろう。話せることが今殆どない。私は今、誰かに打ち明けられるような話は、ない。打ち明けたい話も、ない。
唯一浮かんだのは、あの事件のことを手放したいと思っている自分がいるということだった。あの事件のことをもういい加減手放したいと思っている自分がいる。しばらく前からそのことが意識に浮かんできている。
先日仕事の関係で訪れた美術館に、自分がかつて関わっていたあの本が並べられていた。不意打ちだった。いつもなら、自分が普段行く範囲の本屋ならば、その本が並べられている棚は何処かなど、全部覚えてしまっている。だから私は避けて通る。見たくないからだ。見れば複雑な、なんとも言えない気持ちにさせられるからだ。
久しぶりにその本を目の前にし、私は戸惑った。ひどく戸惑った。これを今私に見ろと言うのだろうか。見てどうしろというのだろうか。事件があった場所なのだ。この本を出しているところは。何をどうひっくり返しても、その事実は変わらない。
私に思い出せと言っているのだろうか。でも思い出してそれで何になるのだろう。思い出して、自分をかわいそうだと思えとでも言うのだろうか。冗談じゃない。そんなこと、私はこれっぽっちも望んじゃいない。私はかわいそうなんかじゃない。遭ったことは悲惨だったが、でも、かわいそうなんかじゃない。
なんだかもう、こんなこと、ばかばかしくなってきた。私はこの先もずっと、この本から逃げ続けていくのだろうか。逃げて逃げて、何処まで逃げるつもりなんだろうか。そう思ったら、自分が惨めに思えてきた。何故私はこのたった一冊の本から、逃げ続けなければいけないんだろう。
痛いのだ。まだあの当時のメンバーの何人かが残っている。その編集部に残っている。そのことが痛いのだ。たまらないのだ。何故あなたたちは残っていて、被害を受けた私が辞めなければならなかったのだろう。その思いが今もあるからだ。
だから、見るのが嫌なのだ。今もあの場所に、あのことを知る人間が残っている。そのことがたまらなく、嫌なのだ。
何故。どうして。
その思いが、いまだ私の中から消えないのだ。消えてくれない。
それでも本は目の前にあった。私の思いが消えないのと同じように、本は消えてなくなってなんかくれなかった。何処までもいつまでも、私の目の前に横たわっていた。
本を取り上げてみる。やはり編集長はあの当時のまま。残っている。他のメンバーの名前を確認する勇気はもうなかった。ぱらぱらと頁を捲り、そして私はその本を再び置いた。これ以上見ている必要は私にはない。そう思った。
それでも。私は本当は解放されたいのだ。あの事件からもういい加減、解放されたいのだ。解き放たれて自由になりたい。でも、まるで刺青のようにその痕は私の身体に残っており。私の記憶に刻印されており。
あの日のことを思い出すと今でも体が震える。一体何が自分に起こったのか、今でもよく分からない。分からないけれど、起きたことは事実なのだ。事実を曲げようは、ない。
――でも。
そんなことをここで話してどうする?
体験をしたことのない人にとって、想像もしたことのなに人にとって、こんな話、重いだけだ。そして下手をすれば、話をしたことによって私は偏見を持たれる。それはさらに私を苦しめる。
結局、幸か不幸か、クライアント役は私には回ってこなかった。おかげで何を話すこともなくその場を過ごすことができた。私は心底ほっとしていた。誰にも聴こえないよう、心の中、よかった、と呟いたことを、今も覚えている。

深く深く、芯まで突き刺さったこの刃を、抜き去る術が、まだ私には、ない。

本当にこの勉強を始めてよかったのかしらぁん、と思わず声を上げてしまったところで、娘が起きた。何のこと? ん、勉強のこと。どうしてそんなこと思うの? んー、ママは自分の疵を直視できるのかなぁと思って。どういう疵? 言われて私は言葉に詰まる。まだ話すのには早い。いつかまた聴かれるときが来たら、その時話すかもしれないが、今はまだ、早い。私は黙り込む。
こんなキズ! と声を上げて彼女に飛び掛る。わぁ、何すんのよぉ! 娘が声を上げる。なかなか起きない罰だよぉ、私はそう言って、彼女をくすぐる。熱いといってもいいくらいあたたかい彼女の体が、私の体の下、ひゃっひゃっと声を上げながら転がる。さぁ起きて。準備して! ひとしきりくすぐり終えた後、私は彼女に声をかける。
じじばばがね、朝ごはん、いい加減過ぎるんじゃないのって言ってたよ。ん? そう? うん。サラダも何も食べないの?って。んー、じゃぁサラダ作ろうか? 食べられる? 朝からそんなに食べたくない。スープあるよ、食べる? いつものおにぎりで十分だよ。そう言って娘はおにぎりにかぶりつく。確かにじじばばの細やかな食卓に比べたら、うちの朝食はいい加減の極みなんだろう。よく自覚しています、じじばばよ。でもまぁ、当分これがうちの朝食です。赦してください。

バスに乗り駅へ。そして私たちは別れる。じゃぁね、日曜日にまたね。手を振り合って別れる。私は左へ、娘は右へ。それぞれの方向へ。
空は今、すこんと抜けている。実に穏やかな空色を広げ、そこに在る。花屋は十時開店にも関わらず、もうこの時間から準備を始めている。冬の花屋には薔薇が多い。何種類もの薔薇が新聞紙に包まれて、置いてある。それを店員がひとつひとつ解いてゆく。私はその脇をそっとすり抜ける。
一日はもう、始まっている。


2009年12月18日(金) 
このところ「自分の場所」を作ってそこで眠っていた娘が、ママの布団をあっためてあげるとやってきて、結局そのまま私に抱きついて眠ってしまった。本を読もうと思っていたのだが、娘の頭越し読むのも憚られ、私も早々に眠ることにした昨夜。途中何度か目を覚まし、悶々としたものの、娘の足は私の足に絡みついたまま。身動きとれず朝まで。大き目の布団でよかった。そうでなければどちらかが凍えていたに違いない。それでもやっぱり絡み付いている足に、どうしようかと思ってうとうとしていると、友人から電話が。旅先で過呼吸を起こしてなかなか眠れなかったらしい。でも声に張りがある。きっと一人旅が楽しいに違いない。そう思いながらしばしおしゃべりをする。
顔を洗い、いつものようにお湯を沸かす。さぁ今日もハーブティをと思ったところで地震が起きる。結構長い。どうしようか、このままここに立っていて大丈夫なんだろうか、と思っていると、娘が起き出す。ママ、地震だ。うん、地震だね。そう言い終えたところで地震が終わる。娘は早速寝床に戻っていく。私は窓を開け空を見上げる。
うっすらと空と街と全体にかかる薄雲。それでも今日は晴れるのだろう。気配がそう私に伝えてくる。明け始めた東の空の色が、奇妙に茜がかっているのが少し気に懸かる。そして西の空は。まだまだ濃紺の中。くっきりと西と東、分かれる空の色。
ようやくハーブティをいれ、私は一本煙草を吸う。音楽のスイッチを入れると、シークレットガーデンのRaise Your Vicesが一番に流れてくる。ちょうど昨日から私の心の中で繰り返し流れていた曲。私はメロディに併せて小さい声で口ずさむ。美しい旋律とハーモニーが、冷たい部屋の中、こんこんと、まるで水流のように流れてゆく。

白く弾ける波を、どのくらい見つめていただろう。何匹もの魚が飛び跳ねては戻ってゆく。灰藍色の海。私はいい加減体が冷えてきたことに気づき、その場を離れる。そして行きつけの喫茶店へ。たっぷりミルクの入った、濃い目のカフェオレを啜る。
「私たちは現在との関係の中でのみ、自分自身を理解することができます。そしてその関係そのものが導師なのであって、導師は私たちの外部にいるのではないのです。もし私たちがその関係を理解していなければ、導師の言うことはすべて無益なのです。なぜなら、もし私が関係――私と所有物や他人や観念との関係――を理解しなければ、一体誰が私の心の中の葛藤を解決することができるでしょうか。この葛藤を解決するためには、それを自分で理解しなければなりません。」「あなたが自他の関係の中であなた自身を注意深く観察する時、自己認識が生まれてくるのです。生きることは互いに関係していることなのです。」「関係というものは恐れのない親交と、お互いを理解し、直接に話し合う自由を意味しています。関係は相手の人と親しく交わるという意味なのです。」「愛の中には関係というものがないのではないでしょうか。あなたが何かを愛していて、その愛の報酬を期待しているときに初めて関係が生じるのです。あなたが愛している時、つまりあなた自身をあるものに、完全に全体として委ねた時には関係は存在しないのです。」「愛の中には摩擦もなく、自他もなく、完璧な一致があるのです。それは統合の状態であり、完全なのです。完全な愛と共感があるとき、幸福で喜びに満ちた稀有な瞬間が訪れるのです。」「関係を理解するためには、まず初めにあるがままのものと、私たちの生活の中で種々様々に微妙な形をとりながら実際に起こっていることを理解することが大切であり、また関係とはどういう意味であるかを理解することが重要なのです。私たちの関係は自己啓示なのです。私たちが安逸の中に浸っているのは、私たちのあるがままの姿を暴露されたくないからです。そのとき私たちの関係は、そこに潜んでいる驚くべき深遠と意義と美を失ってしまうのです。愛があるときにのみ、真の関係が存在するのです。しかし愛は満足の追求ではありません。愛は無私との完全な共感――それも少数の人間同士のものではなく、最も高いものとの共感――があるときにのみ存在するのです。そしてこの共感は、自己が忘れられてしまったときにだけ起こるものなのです。」(クリシュナムルティ「自我の終焉」より)

娘が帰宅するのと入れ替わりに、私は娘の学校へと向かう。今日は面談の日。教室の前へゆくと、天井から何枚もの木版画が垂れ下がっている。その中に娘のものを見つける。ペンギンを木版で彫ったらしい。九枚の紙にそれぞれ刷り、それを繋げて大きな一枚にしている。色とりどりの木版画。拙い掘りでありながらも、それらは実に生き生きとしており。私はしばし見惚れる。中には、絵を繋げることを前提にして、繋ぎ目にうまく絵を組み入れている子供もいる。二摺、三摺し、絵の具にはない色合いを出している子供もいる。彼らにとっては生まれて初めての木版画。見ているのがとても楽しい。
順番が回ってきて、担任と向き合う。いろいろご迷惑おかけし申し訳ございませんでした、と切り出す担任。もう過ぎたことはやめましょう、と笑う私。最近学校ではどうでしょう、と訊ねる。こんなにも行動的な子供だったのかと、今更ですが感じています、一学期の骨折はだから、とてもとても我慢していたんですね、と、担任。私は返事をせずただ聴いている。それから各教科のことなどもぽつぽつと話す。だいたい予想していたことなので、私もその範囲内で言葉を継ぐ。
無事に時間は終了し。見送られながら教室を去る。教室を出る時、ふわり風が何処からか吹き込み、垂れ下がっていた絵が一斉に揺れる。

先週末からずっと、じじばばにクリスマスプレゼントを買いに100円ショップへ行きたいと言っていた娘。勉強が早く終わったら行こうかと声をかける。途端に顔が華やぎ、娘は一心に漢字練習に取り組み始める。算数と理科はもう私が学校にでかけているうちに終えたらしい。
もう日も堕ちる頃、私たちは自転車を走らせる。坂を上り、坂を下り、そうして隣町の100円ショップへ。私は娘を解き放ち、好きに選んでおいでと見送る。娘は売り場を行ったり来たりしながら選んでいる。じじにはこれ、ばばにはこれ。それからここでは買えないけど、苺大福と大福をそれぞれ欲しいって言ってたからそれも。娘はぶつぶつ呟きながら、一生懸命品物を選んでいる。
一方私は、娘へのプレゼント用の包装紙をこっそり買う。あとはクリアファイルを。娘のプリント整理用に買っておくことにする。
帰り道、そのまま帰ってもよかったのだが。「最近アイスとか食べてないよね」と言う娘のリクエストに応え、店に立ち寄る。ソフトクリームを乗せたメロンソーダを、おいしそうに食べる娘。どんなに寒くても、おいしいらしい。氷までがじがじと齧って食べている。窓の外見やれば、もうすっかり暮れた空。私は娘に声をかけ、立ち上がる。そして帰り道を急ぐ。
納豆と刻んだ葱を、これでもかというほどといで。酢を少し入れると、粘りは一層強くなるから、途中で酢をぽとり入れ。その間に大鍋では極太うどんを茹でている。今日はひっぱりうどん。それと、昼間作っておいた白菜としいたけの中華スープを。
私たちは、はふはふ言いながら、納豆に絡めてうどんを啜る。途端に体がほくほくとあたたまる。冬の夜のひととき。

もうすっかり辺りは明るくなり。私はその空の下、薔薇の樹を見つめる。病葉はないか。やはりあった。ひとつ、ふたつ、みっつ。私は摘んでゆく。新芽の、一番奥の方がこぞって粉を噴いている。粉を落とさぬよう、気をつけながら、私は摘む。
アメリカン・ブルーとラヴェンダーは相変わらず。病気になることもなく、かといってぐいぐい育つわけでもなく。淡々と冬を味わっているかのよう。私は少量水を遣る。
ママ、もうそろそろ時間だよ。部屋から娘の声がする。今日は学校、実践授業の日だ。今日はまた何かしらの役割が回ってくる日。私は娘に、はーい、と返事をしながら校庭の隅っこのプールを見つめる。しんしんと佇むプール。陽光を受け今白く輝く水面。
そうして私は、最後の一口、ハーブティをこくりと飲み、コートを羽織る。じゃ、行って来るね。行ってらっしゃい。またあとでね。うん、あとでね。
息を吸うと鼻の奥がつんとする寒さ。でもそれはとても気持ちよくて。私は走ってバスに飛び乗る。そうして川を渡るとき、私は中ほどで一度立ち止まる。流々と流れる水は、この街中だというのにそれなりに澄んでおり。その時さぁっと陽光が水面に降り注ぎ。水たちは一斉にざわめく。ざわめきながらもなお、流れ続ける。決してひとところに、とどまることは、ない。
ジョシュ・グローバンのCanto Alla Vitaが耳元から流れ出す。


2009年12月17日(木) 
久しぶりに肩凝りも頭痛もなく目が覚める。すっきりとした意識の中、窓を開ければ一気に冷気が部屋に滑り込んでくる。眠っている間にようやくぬくんだ身体が、大きくぶるりと震える。それでも、この最初の冷気を浴びると、あぁ朝なのだという気がしてくるからやめられない。
今街景の中、点っている明かりは五つ。煌々と闇の中輝いている。まるで何かの目印のよう。私はつられて部屋の明かりを点す。そして今朝もまた、ハーブティを入れる。昨日店ですでにブレンドしてあるハーブティを買ったら全滅だった。とても私には飲める代物ではなく。だから今朝もやはり、自分でブレンドしたレモングラスとペパーミントのハーブティを選ぶ。すぅっと爽やかな香りが立ちのぼり。私の鼻をくすぐる。
夜はぬるま湯で丹念に、朝は水でばしゃばしゃと勢いよく顔を洗う習慣。今朝の水もこれまたいい具合に冷たくて、私の顔は一気に引き締まる。それが心地よい。朝鏡を見て一番に自分の顔を見たその印象は、下手をすると自分の一日を左右する。だからちょっと恐々と、同時に興味津々に鏡を覗く。寝不足のわりにはそれなりの顔色だ。私は嬉しくなる。そして勢いよく化粧水を叩き込む。
あっという間に空はぬるんできており。仄かに仄かにぬるんできており。私はその明かりを頼りに再びベランダに出、薔薇の樹を凝視する。四本の薔薇の樹にそれぞれ病葉を見つける。私は摘む。摘んで摘んで摘んで、落とさぬようビニール袋に棄てる。白い粉を土に落としたりすると、それが原因でまた病気が広がってしまう。だから握った拳はビニール袋の中で開く。そして葉を落とす。
ホワイトクリスマスの蕾はすっかり膨らんで、もう、ぷっくらという言葉がお似合いなほどになっている。ベビーロマンティカの蕾も一回り小さいながら、ぷくぷくと太ってきている。いつ咲くだろう、いつ咲くだろう。胸がどきどきする。どんな花が咲いてくれるだろう。
街路樹の葉は、僅かに木に残った者たちもすっかり黄色く乾いてきており。風が吹いたらいつ散り落ちてもおかしくはない。その街路樹の脇を、自転車に跨った老人が走ってゆく。老人が被った帽子の雪洞が、時折ぷるぷると震えながら、私の目の中を過ぎてゆく。

朝の一人の時間を過ごした後、K駅まで。友人がすでに待っていた。今日は一月末に催す二人展のDMを店に届けに行く。店が開くまで二時間ほど。私たちは駅前の喫茶店で時間を潰す。その間、私の視界を一体何羽の鳩が横切っただろう。この町にもずいぶん鳩が増えてきた。私は昔外国のとある街に滞在していた折、鳩に襲われたことがある。襲われたというとちょっと大袈裟かもしれないが、私が今まさに食べようとしているサンドウィッチめがけて鳩が空から突進してきたのだ。あまりのその勢いに私はサンドウィッチを放り出し逃げ出した。もちろん鳩は、地べたに落ちたサンドウィッチを勢いよく頬張り。とことん喰らい、そうして再び何処かへ飛んでいった。私はその様子をただじっと、物陰に隠れて見つめていた。あれ以来、鳩が怖い。
幼い幼い少年が、左手に握ったミニカーを走らせようといきなりしゃがみこむ。でもそこは車道でもあり。母親らしき女性がゆったりとした動作で彼に近づき、手を差し出す。彼はようやくそれに気づいて手を握り返す。とことこと歩き出した二人の後から、車がさぁっと走り過ぎる。
私たちが並んで座る目の前はガラス張りで。だから街の様子がありありと分かる。開店間際の店先、暖簾や看板を出す店員。マフラーで首をぐるぐる巻きにして、それでも首を竦めて歩くブーツを履いた若い女性。ゆっくりゆっくりと杖をつきながら歩くご主人に寄り添うように、ゆっくりゆっくりと共に歩く老婦人。昼間のひとときは、そうしてそれぞれの光景を繰り広げながら、重たげな曇天の下、やがては一枚の布に織り成されてゆく。

DMを届けた後、私たちはインドカレーを食べてみる。思った以上にそれは辛くて、自分が必要としている以上にナンを必要とするほどに辛くて。私たちは汗をかきながらそれを食べる。ようやく辛すぎるカレーを食べ終えた時にはおなかははちきれそうなほど膨らんでおり。そこで食の話になる。
彼女は起きた時からさぁ朝は何を食べよう、昼は何を食べよう、夜は何を食べよう、と、考えるという。おなかは定期的に空いて、だから食べることは必須なのだという。私はそれが自然だと思いながら自分を省み、自分がいかに食に対して執着がないのかを改めて実感する。食べたいと思うのはたとえばヨーグルトだったり、小豆だったり、そういったものは時折あるが、自分の為に、何を食べようかと思うということが殆どない。お茶に関しては、四六時中何かしらを口にしているのだから、執着があるのだろう。しかし、その飲むという行為の一方、食べるという行為に関しては、殆どうっちゃっていると言っても過言ではない。もし娘がいなかったら、私の食生活は本当にいい加減なものになっているだろう。自分が食べたいと思わなければ、どうしても腹が減って何かを必要としなければ、何処までも食べないで過ごしているかもしれない。そんな自分に気づき、ちょっと苦笑する。私のおなかは、もしかしたら無類のお茶好きなのかもしれない、なんて。

娘からメールが入っている。開くと、こちらがどきっとすることが書いてある。「ねぇママ、今日、サンタから二通目の手紙が来てたよ。でも全然違うんだよね、一通目と。二通目はサンタの洋服もトナカイの洋服も全部ピンクで、封筒もピンクなの。きらきら飾りがついてて。それで、今日は星がたくさん見えるはずだから、空を見上げてご覧って書いてある。地球は今病気で大変なんだとかも書いてある。なんかおかしいよね。サンタって二人いるわけ?」。私は返答に窮する。さて、これをどう切り抜けよう。実は、最初の一通目は友人が娘の為に出してくれた手紙で、二通目は私が注文したサンタからの手紙というエアメールで。でもそれを正直に言うわけにはいかない。さて、困った。
「この前サンタ会議ってテレビでやっていたでしょう? きっと何人かいるサンタの中から二人が手紙をそれぞれにくれたんじゃないのかな? よかったねぇ」。とりあえずそう返信する。あとはもう、彼女の解釈に任せよう。無責任なようだが、私はもうそうすることに決める。
そしてすかさず娘から再びメールが。「ねぇ、この前サンタに書いたプレゼントの手紙、出してくれたよね? サンタ、ちゃんとプレゼントくれるかな? ママは何くれるの?」。これにも私は窮する。サンタは我が家では私であり。私はサンタであり。でも娘はサンタと私を別々と思っており。だからプレゼントは二つもらえると信じている。さてこれを、どう切り抜けるか。今お財布は寂しい。二つ買っている余力は、ない。どうしたものか。クリスマスまで残りあと僅か。私は何かいい方法はないかと考える。

「内省の過程には解放がないのです。なぜならそれは、あるがままのものをそうでないものに変える過程であるからなのです。」「凝視はそれとは全く違ったものです。凝視は非難を伴わない観察なのです。凝視は理解をもたらします。なぜかと言いますと、凝視の中には避難や同一化というものがなく、無言の観察があるからです。」「ただ一つの事実を黙って観察しなければならないのです。そこには目的がなく、現実に起こっているすべてのものに対する凝視があるだけなのです。」「内省は自己改善であり、従って自己本位なのです。凝視は自己改善ではありません。その反対にそれは、他人と違った特徴や記憶や欲求の対象を持っている自我、すなわち「私」を終息させるものなのです。」「凝視の中には、非難も否定も容認も伴わない観察があるのです。」「凝視は外部のものを見ることから始まります。それは物や自然をじっと見つめ、それらと親しく接触することから始まるのです。初めに、私たちの周囲にある物の凝視があります。それは物や自然や人間に対して敏感であることであり、同時に自他の関係を意味しています。その次に観念に対する凝視があります。このような凝視――それは物、自然、人間、観念などに対して敏感であることです――は別々の過程から成り立っているのではなく、一つの統一した過程なのです。それはすべてのもの――あらゆる思考、感情、行為をそれが自分の心に生じるたびに絶え間なく観察することなのです。」「凝視は自我、すなわち「私」の働きを、人間や観念や物との関係の中で理解することなのです。」「観察の中には完全な共感が存在するのです。観察している人と観察されているものとの間に完璧な親交が生まれているのです。」(クリシュナムルティ「自我の終焉」より)

読んだ箇所がそのまますとんと私の中に落ちてくる。

娘と押しくらまんじゅうをしながら子供たちが集まるのを待つ。全員集まったところでいってらっしゃいと見送る。じゃぁね、またね。娘が列の間から手を振ってくる。私も手を振り返す。
自転車に乗って埋立地の方へ。走り出すのと同時に、さぁっと東の空から陽光が零れ出す。見れば、雲がもうもうと立ち上り。それは実に見事な燃え上がり方で。その裂け目裂け目から、陽光が零れ出しているのだ。私はじっとそれを見つめる。目の奥がじんじんと染みる。それでも私は目を逸らすことができずに見つめる。ただ見つめる。
やがて太陽は姿を現し。雲を頭一つ分抜け出て、辺りを煌々と照らし始める。私は勢いよくペダルを踏み込み、大通りを渡る。そして線路を抜け、銀杏並木へ。といってももう葉はすっかり散り落ち、下に溜まった落ち葉ももはやあの黄金色ではなく。乾いた淡黄色に変色し、かさかさと音を立てている。まっすぐに天に向かって伸びる枝ぶりに、私はしばし見惚れる。凛々、凛々、という音が、まるで聴こえてきそうな気がする。
モミジフウの脇を走りぬけ、海へ。濃灰紺色の海が、細かな波を立てながらそこに在る。まだ誰もいない。海沿いの公園。私は一本だけ、煙草を吸う。海を見つめながら。

今、魚が飛び上がり。きらり、陽光を受けて輝く。身体を翻し、再び海に戻ってゆく。


2009年12月16日(水) 
目を覚ますと午前四時半。いい頃合なのでがばっと起き上がる。途端に冷気が私の身体を包み込む。ぶるりと身体を大きく震わせてから思い切り窓を開ける。こんな時間に何処からか笑い声が響いてくる。通りを見れば、車も行き交わないこの時間、坂道を一生懸命二人乗りして上がってくる自転車。若い男の子と女の子が、もうちょっと、もうちょっとと、声を掛け合いながら坂を上っている。何処かで夜明かししたのだろうか。それにしたって自転車だ。寒いだろうに。そう思いながらも、でもきっと、あんなに楽しそうにしているのだもの、寒さも楽しいのうちだろう、と私も微笑む。ようやっと坂道を上り切った自転車は、信号を無視してそのまま今度は坂を下って見えなくなってゆく。早朝のほんの一コマ。
昨日久しぶりに水を遣ったイフェイオンとムスカリは、元気一杯に葉を伸ばしている。まるで鼻歌が聴こえてきそうな勢いだ。私はちょんちょんと、指先でイフェイオンの葉を突付く。さわさわわと揺れる葉たち。
薔薇のプランターも表面の土が乾いているのだけれども、水を遣るのはまだ躊躇われる。病葉が止まない今、そんなに水を遣るわけにもいかない。私はとりあえず朝の挨拶をして、一本一本の樹を見て回る。今のところ新しい病葉は見当たらない。挿し木の鉢にだけ少し水を遣る。あとはアメリカン・ブルーとラヴェンダーのプランターに。玄関に回ると、校庭はしんとそこに在り。夜が明けるのをじっと待っている。埋立地に立つ高層ビルの影が闇の中でも色濃く浮き立つ。ぽつりぽつり点った窓の明かり。あの窓の向こうでは今頃誰が何をしているのだろう。眠れずに一夜を過ごしたのだろうか。それとも私のように今こうやって外を眺めているのだろうか。
雲はどんよりと空に漂い。今日はもしかしたら一日こんな天気なのかもしれない。空を見上げていた目を、私はそのままプールへと落とす。街燈の僅かな光を受けて、それでもきらきらと輝く水面。微かにさざなみだって、でもそれは沈黙の中の声で。私はじっと水面を見つめる。冬のプール。いつも惹かれる。入りたくなる。とぽんと水の中、沈みたくなる。

三駅分を自転車で走り抜ける。裏道小道、脇道を行き放題。信号なんてそこには殆ど存在しない。だから私は左右をきょろきょろしながらペダルを漕ぐ。川沿いの道を選んで走る。もう不法投棄されている船などないと思っていたのに、そこには幾つかの船が漂っている。郵便受けをつけた小舟まである。誰かが今ここに住んでいるのだろうか。葉書にはどんな住所が書いてあるんだろう。郵便屋さんはどんなふうにしてあの郵便受けに葉書を届けるのだろう。
外国人も多く住むこの地帯。行き交う人もだから様々だ。でもみんな、この冬空の下、コートの前を掻き合わせ、足早に歩いてゆく。モノトーンの多くなるこの季節。空模様と一緒に街が少し重く、そして乾いている。
用事を済ませる前に一杯、私は珈琲を飲みに店に入る。凍え切った指先をちょっと休ませてやりたくて珈琲を手に取ったものの、あまりに痺れて温かさが遠い。でも、口の中広がるぬくみは、確かに私の身体をあたためてくれる。あっという間に冷えてゆく珈琲。ちょっと寂しい。
しばらくぶりにその場所を訪れると、変わらぬ笑みで迎えてくれる人。いつもと違う声音なので訊ねてみると、喘息なのだという。子供も喘息持ちで、最近ちょっと発作が起きてという話になる。子供がぜろぜろやっていると、もう心配で心配で。自分のことになるとどうでもいいというか放っておくというか、医者に行こうなんていう気はさらさらおきないんですけどね。彼女が言う。そうそう、この前ようやく新型インフルエンザの予防接種を受けることができたんですよ。もう何軒の医者に電話をかけてもだめで。あれってほんとタイミングですね、もうだめかぁと思っていたら、突然いいですよって、しかもかかりつけの医者が言ってくれて、安心でした。あぁ、うちもいい加減そろそろ受けないといけないのかしら。でも娘さん、半袖族でしたよね。今もそうなんですよねぇ、時々上着着てるんですけど。そんなに元気なら、わざわざ受けなくてもいいような気がしますけどねぇ。どうなんでしょう。副作用とか考えちゃいますよね。彼女との話はほとんど子供の話で進んでゆく。
いつ私は寝入ってしまったのだろう。彼女に、前髪切りますよぉと声を掛けられて気づいた。また寝てしまった、ごめんなさい、と謝って背中を伸ばす。でもやっぱり頭の中はまだ眠っており。気づいたときには、いつもよりさらに短い前髪になっていた。あちゃ、と心の中声をあげたが、もう遅い。笑って誤魔化す。まぁいずれ伸びるのだろうから。そう思うことにする。
それにしても鞄重いですねぇ。荷物を手渡そうとしてくれた彼女がしみじみ言う。あぁ、本が今日はいつもより多く入っているから。私は笑って返事をする。そう、私の鞄はいつも重い。自分でも、肩が曲がるんじゃないかと思う。特に今は、大きな本が二冊入っているから、余計に重い。
それじゃぁまた。彼女が見送ってくれる。私は手入れしたての髪をなびかせながら、また自転車を漕いでゆく。

昨日のうちに買っておいたプルーンを、俎板の上で細かく刻む。そして小鍋へ。とろ火でくつくつ煮る。その間私はハーブティをおかわりし、煙草を吸い、洗濯物を畳む。くつくつ、くつくつ。煮詰まってきたところで味を確かめる。あぁ、母に朝尋ねたとおり、プルーンはお砂糖など一切入れなくても十分甘いんだなと実感する。煮れば煮るほど甘くなっていく気がする。
十分煮詰まったところで火を止める。私はまだ湯気ののぼる小鍋をじっと見つめる。そうやってしばらく待っている。少し冷めたところでレモンを一個、絞り入れる。再び味見。あぁこれならヨーグルトにちょうどいい。初めての、プルーンジャムのできあがり。

娘の勉強している横で、私もノートを開く。ママ、今日はどんな勉強するの? 先週の復習するの。今何やってるの? うーん、実践授業。どんなことするの? それぞれ役目を実際に演じるんだよ。ふぅん。話しながら彼女は、漢字の練習をしている。私も話しながら、ノートの清書を続けている。
ねぇ今日は夕飯何? あ、まだ考えてない。ふぅん、でも私、もうじき勉強終わるよ? え、早くない? だって今得意なところだもん、早いよ。あとどのくらい? あと三十分もあれば終わっちゃうよ。
私は大慌てで台所に立つ。さて、何にしよう。豚肉の残りがあったはず。今日買ってきたのは椎茸と下仁田ネギとあと何だっけ。あぁ大根だ。じゃぁそれらを使って肉野菜炒めとスープを作ってしまおう。私は時間を計りながら音を立てて野菜を切り始める。料理というのは不思議だ。やり始めると、気持ちが集中してすぅっと周りの音が静かになる。余計なものは聴こえなくなって、でも、とんとんという包丁の音やくつくつという鍋の音が軽やかに耳に響いてくる。
終わった! 娘の大きな声が部屋に響く。ぎりぎりセーフ。ご飯もできた! 私は返事をする。

何処もかしこも街はクリスマス色。何となく胸が詰まる。特に、テレビで家族揃った映像などを見ると、娘が気になる。娘はもちろん何も言わない。父親のことなど尋ねもしない。けれど。私は気にしている。ほんの少しだけれど、気にしている。そして、彼女の背中を叩きたくなる。ママがその分頑張るから、いい?

朝の仕事がなかなか終わらず、結局いつもより遅い時間になってしまう。ママ、ねぇママ。娘に呼ばれて振り返ると、心細そうな顔をした娘がココアを手に乗せて立っている。どうしたの? ココアが全然餌食べてないの。どれ、見せてご覧。ひまわりの種は? 食べてない。それにほら、これ、見せても全然食べようとしないんだよ。娘は指先に挟んだひまわりの種一つを、私の掌に乗せる。ココアは確かに食べようとしない。匂いをちょっと嗅いだだけでそっぽを向く。どうしたんだろうねぇ、おなかすいてないのかなぁ。でも昨日の夜あげたご飯も殆ど食べてない。うーん。ちょっと静かにさせておいてあげようか。でも。調子が悪い時は誰にでもあるよ。…うん。
もし今ココアがいなくなったら。私は考える。娘はどんなに悲しむだろう。でも。生命あるもの、いつか必ず死がやってくる。それは私にもだよ。心の中、娘の背中を見つめながら私は呟く。いつか別れがやって来る。誰にでも。そこには早すぎる死もあるかもしれない。
じゃぁね、じゃぁまた夜にね! 私たちは駆け足で玄関を出、手を振り合って別れる。しばしの別れ。私はやってきたバスに飛び乗る。
空はやっぱりまだ曇天。誰もがコートの襟を立てて足早に行過ぎる。私はその間を縫って歩く。辺りを埋め尽くすクリスマス色が、少し目に、痛い。


2009年12月15日(火) 
娘のアラームで目が覚める。午前四時。私は時計を見ながら、娘はこんな時間に起きて果たして何をしようと思っていたのだろうと首を傾げる。試しに娘の身体を揺すってみる。びくともしない。もう一度揺する。ぴくりともしない。私は結局、六時までは彼女を放っておくことに決める。
布団から出て真っ先に思う。足元が冷たい。昨日などよりも一層冷たい。それでも私はやっぱり窓を開ける。雲の垂れ込める空。娘と同じくこちらも、全く動く気配がない。今日は曇天なんだろうか。空を見上げながら思う。街景はまだまだ街燈の仄明かりの下、こんこんと眠っている。通りを行き交う車も今は、ない。
顔を洗い、化粧水を叩き込み、そうして私はもう一度ベランダに出て髪を梳く。抜け落ちる髪の毛を、拾い集めてゴミ袋に入れる。入れながら、こんなに抜けるなら、ちょっと溜めておいて、針刺しでも作ろうかと思ってみたりする。
イフェイオンの葉がさやと揺れる。微風が私の頬を掠める。もう一度空を見上げる。でも雲の動く気配はまだなく。風だけが渡ってゆく。私はいつものように薔薇の樹たちをじっと見つめる。病葉はないか。まずそれを見つめる。見つめるうちに私の視界は徐々に広がって、ひとつひとつの葉の色や形、蕾の姿、そして樹全体の姿を映し出す。私のベランダの樹たちは多分歪だ。秋のうちにばっさりと刈り込んでしまったせいもあるが、マリリン・モンローやホワイトクリスマスは、株の半分が枯れている。だから、半分だけが茂り、半分が枯れている、という具合。形の整った薔薇の樹は、多分一本もない。それでも私にとって彼らはかわいい。どんなに歪だろうと美しい。凛として、何処までも凛としてそこに在る姿は、たまらなく私を惹きつけてやまない。

母の具合を聴こうと電話をすると、開口一番、言われる。何なの、この写真集は。私は吃驚する。何なのって、娘の写真集だけれども。何なの、この写真集、何なの、この表紙。こんなの見たくないわ。え? 私は絶句する。見たくないってどうして? こんな写真を表紙に持ってくるからよ。全然見たいと思わない。
私はしばらく、何も言えなかった。そうなのか、母と父にとっては、あの表紙の写真はとんでもない写真だったのか、と、しみじみ思う。母の言葉は続く。何が面白くてあれを開くっていうの、もっと考えたらどう? そうなんだ、よく分かった。
結局、母の具合を聴く暇もなく、電話は切れた。私は半ば呆気にとられながら、切れた電話をしばし見つめていた。

病院の日。今日はカウンセリングだ。と思ってみても、一ヶ月ぶりのカウンセリングで、前回自分が何を話したかも覚えていないし、今日自分が話したいことがあるかといえば殆どなく。私はそのまま部屋に入る。一ヶ月ぶりというのは長く時間が空きすぎていて、正直何も思いつきません。続きません。正直にそう告げる。いろいろカウンセラーは努力してくれていたのだと思うが、私は全く言葉が繋がらない。続かない。結局そうして空しく三十分が過ぎた。私は今日何しにここに来たのだろう、そういう感覚が強く残った。
何だろう、カウンセラーって何だろう。改めて思う。

友人と時間を過ごす。が、多分私はとても疲れた顔をしていただろう。そんな気がする。何故かとても疲れていた。せっかく友人と会っているのに、気持ちが集中できなかった。何故だろう何故だろう。
心がぽきんと折れたような。ぐっさりと何かが刺さったような。痛みは見えなかった。痛いとさえ感じられなかった。感じられたらむしろ、よかったんだと思う。感じられたら、悲鳴を上げられたら、楽だった気がする。私は痛みを痛みとして感じられず、それはあまりにこれまでも繰り返されてきたことだったから痛みとして認識できず。ただ、途方に暮れていた。

何故だろう何故だろう。それは至極簡単なことだった。私は、父母に受け止めてほしかったのだ。単純に、写真集ありがとうと言って欲しかったのだ。別に写真を褒めてもらいたいとまでは思わなかったけれども、孫の写真を見て父母が楽しんでくれたらと、私はそう願っていたのだ。それが、一蹴されてしまった。あんな写真見たくもないと言われてしまった。そのことが、私をいたく傷つけていた。
傷ついていたのだという自分に気づいて、ほっとした。あぁなんだ、私はそんなことでこんなにも疲れていたのだと分かった。こんなにも哀しかったんだと、分かった。
試しにちょっと泣いてみた。泣いてみたら一層楽になった。試しに声に出して言ってみた。私、傷ついたよ、と。言ってみた。そしたらさらに楽になった。
なんだ、こんなことだったのか。私は笑えて来た。傷ついたのにそれをそのままにしておいたから、私はへこんでいたのか、と。
私にとって父母の言葉は、殆どが刃だ。ぐさりと突き刺さる。でもそれを突き刺さったよとは言い返せない。いつも言い返せない。言い返せないまま、ぐさりと刺さったまま、私はそこに在る。
幼い頃からそうだった。父母の言葉に翻弄され、嬲られ、そして息の根を止められるほど深く、彼らの言葉は私を貫いた。幼い頃は言葉がなくて、見つからなくて、何も言い返せなかった。思春期になり、私は闇雲に言い返すようになった。それでさらに傷つけ合うことになった。
昔のことはもう変えられない。じゃぁ今私はどうするのか。なけなしの頭で考えてみた。まずは、受け止めよう。そう思った。そういう見方をする人もいるのだな、と、そう受け止めてみよう。
それでも、何かが残っている。そうだ、他の誰にそう言われようと構わないのに、父母には言われたくなかった、という気持ちが、私の中にあったのだ。父母だからこそ、そのままに受け止めてほしかったという私の傲慢な気持ちがあったのだ。そこに気づいた。気づいて、苦笑した。あぁ、そうだったのか、と。今更ながら思った。
私は母に電話を掛け直してみる。繋がらない。仕方ない、メールにしよう。私は母にメールを打つ。しばらくして返事が返ってくる。中身までよくないとは言ってないでしょう。一言そうあった。
それを見て、私は笑ってしまった。半分泣いて、半分笑った。どうしてそれを先に言ってくれなかったんだろう、母は。もしそれを一言でも言ってくれていれば、私はこんなに悩まなくても済んだのに。
そう思って、気づいた。あぁ結局私は、何処までも、父母に、受け容れてほしくて受け容れて欲しくて、そう願っている「子供」なのだなぁ、と。
私の中に、まだまだ「子供」が残ってる。父母を求めてやまなかった「子供の私」が残っている。そのことに改めて気づいた。
もう、いい加減、解放してやってもいいんじゃないか。どうやって手放したらいいのか、どうやって抱きしめたらいいのか、まだ私には分からないけれども。でも。もう、解放してやっていいんじゃないか。
少なくとも私たちは、分かり合えないということを理解している。それだけでも、ある意味救いだ。

私は入れたてのハーブティを啜りながら、思い返す。昨日のことはもう流してしまおう。今日は今日。昨日は昨日。もう終わったこと。終わったことを今日にまで引きずる必要は、ない。

少しずつ空が明るくなってゆく。雲間から漏れ出ずる僅かな陽光が、街を照らし始める。それまで闇に沈んでいた輪郭が、徐々に徐々に明らかになってゆく。
じゃ、ママ、そろそろ行くね。あ、ちょっと待って! 何? はい、ココア、挨拶して! ははは、じゃぁ、ちゅー。あーーー、ココアがいやだって言ってるよ、きゅうきゅう泣いてる。はっはっは。そんなにママのちゅーがいやなんだ。ママがぎゅーって握るからだよぉ。ははははは。それじゃぁね、また後でね!
三駅分、自転車で飛ばす。まだ陽光もまばらの灰色の街、背中を丸め俯いた人たちが忙しく行き交う。その合間を私は自転車ですり抜けて行く。
さぁ目的地はもう目の前。川沿いの道を走り抜ければその先に。

川は淡々と流れ。淡々と流れ。何もかもを浄化するかの如く淡々と。その川沿いの道、私は走る。


2009年12月14日(月) 
いつ寝入ったのだろう。何度か娘に、本を読むのか寝るのかどちらかにしたら、と言われたことを覚えている。疲れ果てていて、椅子に座っていることも辛く、横になったものの、もったいなくて本を広げた。広げたけれど。という具合だった覚えがある。そういう娘は一体いつ眠ったのだろう。私より遅かったに違いない。またやってしまったか。娘より先に寝入るのはやめようと思っていたはずなのに。そんなことを思いながら目を覚まし起き上がる朝。ミルクが早々に家から出てきて、籠に齧りついて待っている。
私はいつものようにハーブティを入れる。あたたかくなったカップを両手で抱きながら、ベランダに出る。いつ雨が降ったのだろう、覚えていない。でもアスファルトも街路樹もしっとりと濡れている。私はハーブティを啜りながら、冷気を吸い込む。
ちょっと目を離した隙に、ベビーロマンティカの蕾もホワイトクリスマスの蕾も共にまた膨らんできている。一層丸々と太り、さぁこれからだと言わんばかりの表情。そう、君たちはこれから。私は空を見上げる。雨雲がまだ残っているけれど、今日は晴れるのだろう。雲はゆっくりと地平線あたりに溜まってゆく。じきにそれも散り散りになるだろう。病葉はいないか、私はじっと新芽のあたりを見つめる。そこで幾つか見い出される病葉。私は一枚一枚爪の先で摘んでゆく。病葉と私の追いかけっこは、そうして何処までも続いていく。

娘がサンタクロースに手紙を書いたという。ママ、出しておいてね、と言うので受け取った。それを今こっそり開く。NEWスーパーマリオブラザーズというのは一体何のことだろう。後で調べなければ分からない。実に短い、簡潔な手紙だ。それが欲しい、ということが淡々と書かれている。そして最後に、風邪をひかないでください、と添えられている。そういえば今年のサンタクロースは、新型インフルエンザへの対策を会議で相談したそうだ。サンタクロースがマスクをするわけにもいかないだろうし、どんな対策が練られたのだろう。少し気になる。
できるだけ娘の願いに沿うよう、毎年こうして娘のサンタクロースへの手紙をこっそり覗くわけだが、やっぱりちょっと後ろめたさがある。私はこの手紙を何処宛に出せばいいんだろう、そう思いながら、こっそり覗く。中学生にでもなれば、もうクリスマスプレゼントなんて誰から受け取るか、決まりきったことになってしまう。それまでのほんの短い間、彼女がまだサンタクロースを信じている間は、できるだけできるだけ、彼女の願いを叶えてやりたい。そう思いながらも、私の頭の中は今、?マークが小躍りしている。世の中のそういったモノをあまり知らない親を持つと、子は苦労するな、と、ひとり、心の中苦笑する。

彼の仕事を見ていると、私は母の仕事を思い出す。母もよく、模写していた。エジプトの遺跡の模様などがよく母の画帖に描かれていたことが思い出される。母が描く花の画は実に細かく、実に正確で、私はそれを見るたび舌を巻いた。母の横で絵を描くと、だから私は緊張したものだった。いつ母の一喝が飛んでくるかと、母の指摘がなされるかと、ひやひやしながらいつも描いていた。母の指摘はいつでも正確で、実に的を得ていて、私はだから何も言えなかった。好きに描いていいのよ、と言いながら、ここは違うでしょとすかさず指摘してくる母に、私はしょっちゅう閉口した。
でも、こうして彼の仕事を見ていると、母の仕事がいかなるものだったかが伝わってくる。私は彼の画を仕事を一枚一枚辿りながら、多分そこに母の影を見ていた。この展覧会の図録は母の分も買って帰ろう、そう決める。

立ち寄った店で、「ケルトの木の知恵」という本を見つける。ぱらぱらと捲り、買おうと即決する。全頁カラーの本だ。読んでいると懐かしい風が心に吹いてくる。これは散歩しながら読むのにちょうどよい、そんな気がする。私がまだ持っていない妖精図鑑もあり、これも本当は購入したかったが、さすがに本を十冊持って歩くのは躊躇われ、また今度にする。
美術館を出ると、一面芝が広がっており。点在する彫刻。その間をゆったりと行き交う人々。日曜日だからだろう、幼い子供を連れた家族連れの姿も見られる。これほど広い空間があれば、ピクニックもどれほど楽しいだろう。私はその姿を、木立のこちら側からじっと見つめる。娘がもし隣にいたら。私たちは間違いなくこの野っ原を走り回って遊んでいたに違いない。今娘が隣にいないことが、至極残念でならない。彼女が休みになったら、またあの公園にピクニックにでかけようか。寒いかもしれないが、それでも、弁当を持って水筒を持って出掛ければ楽しいに違いない。そして私はカメラを持って。
そういえば今年私は父母に、一冊の作品集をプレゼントした。今年撮った娘の写真たちを集めた一冊だ。そしたら一言、足が写ってる写真なんて見たくない、と言われた。私はそれを娘から電話で聞き、大笑いしてしまった。なんと父母らしい言葉だろう。あぁまだ父母の心は健在だ、それが分かって。こんちくしょうと思うと同時に、嬉しかった。そういう憎まれ口を、いくらでも叩いてほしい。私が言い返したくなるような言葉を、死ぬまで吐き続けて欲しい。それがあなたたちだから。それが私とあなたたちの関係だから。

体調が少し思わしくないのかもしれない。帰りの電車の中、何度も吐き気に襲われる。かといって、ここで吐くわけにもいかない。ぐっと我慢する。我慢しながら、あれやこれや思い出す。過食嘔吐を繰り返していた頃があったこと。嘔吐するその白い便器の中に母の顔がいつも浮かんでいたこと。私が食べ物を食べることを拒絶するきっかけを作った母の言葉、それが吐かれた瞬間の場面の映像。ありありと浮かぶ。
過食嘔吐は何故あんなにも虚しく哀しいものなのだろう。それはきっと、本来、おいしいおいしいと食べられるはずのものたちが、味も何も感じられないまま内臓に押し込まれ、そして形もまだ殆ど崩れぬまま、そのままに便器に吐き出されるからなんだろう。吐き出されたものを目の前にして、いつも呆然としたものだった。自分は一体何をやっているのだろうと、毎回毎回思った。思ったが、止められなかった。そういう時期があった。
車窓を流れる山並み、刈り取られた後の田畑の風景はやがて、幾つも立ち並ぶ建物に変わり。私にはその建物たちが、怒涛のようにこちらに押し寄せてくる人波に思えてくる。頭を振ってその錯覚をかなぐり捨てる。
私にとってヒトガタはまだ恐ろしい。ヒトガタに押し寄せられると、吐き気がする。眩暈がする。立ち竦む。でも同時に私はそのヒトガタである人間が、どうしようもなく好きだ。これでもかというほど。
そういう自分を今は、受け止めるだけ。

娘がココアを頭に乗せながらテレビを観ている。その横で私は二杯目のハーブティを飲んでいる。ママ、今日病院だよね。うん。じゃぁ今日は私が帰ってきたときいない? うん、いないかも。わかった。そろそろバスの時間だよ、みんな並んでる、ほら。あぁじゃぁママもそろそろ行かなくいちゃ。
玄関先にもココアを頭に乗せてやってくる娘。ママもココアに挨拶してよ。はいはい。私はココアを手に乗せ、ぷしゅっと潰すような真似をしてココアを両手で挟んでやる。ココアはそこから這い出そうと、手足を動かす。その小さな手の、片手は四本指。でも彼女は元気だ。丸く艶々した目を輝かせ、娘の掌へと戻ってゆく。
じゃぁね、じゃあまたね。そういって手を振り合う私たち。
バスに乗り電車に乗り。電車が川を渡るところで私は顔を上げる。あぁ何という景色なのだろう。今東の空に残り少ない雨雲が固まって溜まっており。その裂け目裂け目から、陽光が漏れ出ずる。灰色の雲はその輪郭を燃え上がらせ、太陽の存在を讃えているかのよう。私はその光景をじっと、ただじっと見つめる。一瞬も逃したくなくて、ただ、見つめる。
そして川は流れてゆく。とどまることなく流れ続ける。誰の思惑も寄せ付けず、淡々と、流れ続ける。

空高く舞う鳥の影。旋回して今、東の空に消えてゆく。


2009年12月13日(日) 
腹部の重だるさで目が覚める。何ともいえない痛み。起き上がり、早々に薬を飲む。この週末はやることが山積みになっている。そんな時、痛みにのた打ち回っているわけにはいかない。
少しでも気分転換になればと湯を浴びることにする。丹念に顔を洗い、湯の中に身を沈める。今頃娘はばぁばとじぃじの間で夢の中にいるんだろうか。きっとそうだろう。聞けば家にいるときよりずっとじじばばの家での方がよく眠っているようだ。そしてあと一時間半もすれば、ばばと朝の散歩に出掛けるに違いない。今日はどんな木や動物たちと出会ってくるのだろう、彼女は。後で話を聴くのが楽しみだ。

以前にも一度来ている美術館。以前来たときは彼岸花が当たり一面に咲いていた。今はもうその花影はなく。柿の木が数個の実をぶら下げている姿に出会う。冬場はどうしてこんなに暖色系の木の実が多いのだろう。赤、橙、黄色。そんな色があちこちに見られる。木立が広がる斜面。この前来たときは多くの葉がまだ茂っており、向こう側を見渡すことはできなかった。今日は違う。殆どの葉が散り落ち、斜面の下の方まで見渡すことができる。何処もかしこも乾いた色が広がっている。
後期の展示でも、原稿用紙が山のように積まれている。一冊の絵本に対して一体何枚の原稿用紙、画用紙が使われてきたのだろう。万年筆や鉛筆で細かく描きこまれたその原稿をじっと見つめる。作り手の、世界をじっと見つめる目が、そのままそこに詰まっているかのようだ。ガラスケースの中にそっと仕舞われたそれらの原稿たちを、できるならこの指で撫でたい、そんな衝動にかられる。
彼の絵はとてもあたたかい。とがったところは決してなく。何処までも丸く丸く。おだやかに描かれる。色合いもきついものは一色たりともなく。淡く、けれど豊かに、彩られる。
私は彼の絵もそうだが彼の描く話も大好きだ。こちらに押し付けることなく淡々と語られてゆくその口調。だから何処までもゆったりと読み進めることができる。
週末だからだろうか、結構人が多い。家族連れもいる。小さな子供が、母親と父親に囲まれながらパズルを一生懸命作っている。ショップの方では年頃の女の子たちがどれにしようとポストカードを選んでいる。窓から燦々と降り注ぐ陽光は柔らかく、何処までも私たちを包んでくれる。

久しぶりにクッキーを焼くことにした。ふとしたことから作るきっかけは生まれた。思い立ったが吉日ということで、私は冷蔵庫を漁る。材料は、足りないものもないわけじゃないが、何とか一種類くらいは作ることができるだろう。ということで、早速とりかかる。バターを捏ねたり粉を捏ねたり。粉砂糖をまぶしたり。ちょうど焼きあがったところに娘が帰ってくる。ねぇ、食べてみる? 普段クッキーなど殆ど口にしない娘に声を掛ける。仕方ない、味見してあげようか、と娘が言うので、その口に一個、クッキーを投げ入れる。まぁまぁなんじゃない? そう? じゃぁこれでいいか。いいよ、うん。
クッキーを金網に載せて冷ましてゆく。そうしている間にカードを一枚書き。そうだ、娘にも書いてもらわねば。私は塾へ行く前の娘に再び頼みごとをする。
学校の帰りがけ、買ってきたお菓子たち。うちはあまりお菓子を買わないから、お店に行ってもどのお菓子がおいしいのか、よく分からない。仕方ないから、できるだけたくさん、お菓子の紹介文を添えてくれている店に出掛けてゆく。友人の二人の子供の顔を思い浮かべながら、どれがいいだろうと選んでみる。でも結局選んだのは。荷を広げてみて分かった、すっかり自分の好みになってしまっているじゃぁないか。ありゃりゃ、と思ったがもう遅い。苦笑しながら、そこに娘に書いてもらったカードを添えて、包装する。
もう一個、いつも果物を季節になると贈ってくれる友人に、クッキーを。棚の奥から空瓶を引っ張り出し、そこに焼いたクッキーを詰める。崩れないように気をつけながら。そうしてこちらも、カードを添えて包装する。
そんな二つの荷物と、もう一枚、連絡が届いた人への葉書を手に、郵便局へ。もう日も暮れた、雨の中の郵便局。入ってみれば大勢の人。でも、大丈夫、誰かに何かを贈ることができる、それはとても幸せなこと。私は人ごみが苦手なのにも拘わらず、少しどきどきしながら順番を待つ。雨はまだ降っている。

田畑が広がる風景というのはどうしてこうも人を穏やかにさせるのだろう。電車の窓に額をくっつけながら、私は外を見やる。この景色を夏も見た、秋も見てきた、そして今は冬。山々にはもう雪がちらほら積もっており。昨日の私の街に降っていた雨が嘘のよう。空は明るく、雲の描く模様が実に多様で。私は飽くことなく景色を眺めている。

こちらの美術館も訪れるのは二度目だ。前回は絵本の展示だった。今回は聖書の挿絵だ。鉛筆で描かれたデッサンと、水彩で彩られた画とが一セットになって展示されている。進んでゆけば、まるで聖書の中に入ったかのような空間になる。最後の展示の前で、ずっと佇んでいる老婦人。じっと一枚の画に見入っている。それはキリストが十字架を背負わされ歩いてゆく画。私はその老婦人の後ろから、その画をじっと見つめる。
小さな小さな美術館だ。蔵を改造して作られたのだという。でも、このくらいの大きさで美術館は十分な気がする。一日を費やさなければ回りきれない美術館より、ちょっと立ち寄って、その後ゆっくりお茶を楽しめる、そのくらいの方が、気持ちが安らぐ。

久しぶりに繋がった友人。声をかければ、ごめんなさいと彼女から返事が返ってくる。ずっと電話に出れなくてごめんなさい。彼女は言う。いいよぉ、そんなこと、と返事をすると、彼女からどんどん言葉が零れて来る。
怖くて怖くて。どうしようもなく怖くて。どうしてこうなっているんだろう、どうして今こんなふうになっているんだろうって考えたらたまらなくなって。うんうん。病院にも行くことができなくなってしまって。今、本当にどうしていいのか分からない。
彼女の言葉にずっと、じっと耳を傾ける。途中時々詰まる彼女の声。だから私は少し待って、先を促す。
どれだけ堪えていたのだろう、この人は。そう思うくらい、彼女は言葉を溜め込んでおり。それはどれほど重かったろう、そう思うと、私はただ、耳を傾けることしかできず。
気づけば一時間、二時間が経っていた。その間ずっと雨の音がしていた。叩きつけるよう降る雨。まるで彼女の涙の声のようだった。

大丈夫、聴こえているから。大丈夫、ちゃんと聴こえているから。

もう夜が明ける。緩んできた空が、それを私に知らせる。もう娘も起き出して、そろそろ朝の散歩にでかける時間のはず。
私は髪を梳かし、いつものように一つに結わく。さぁ今日も一日が始まる。


2009年12月12日(土) 
本を広げたまま寝入ってしまったらしい。手にはペンを握ったまま。私は今更ながら本を閉じ、鞄に仕舞い込む。おはようと声をかける間もなく、ミルクがこちらを見、がっしと籠に齧りついている。おはようミルク、おはようココア。
カーテンを開ければ、雨は何とか止んだらしい。アスファルトや街路樹はまだまだ濡れ坊主だけれども、雨の音はしない。いつ止んだのだろう。私は窓を開け、ベランダに出る。色濃く残っている雨の気配を、私は深く吸い込む。
闇色の中、私は手探りでお湯を沸かす。今朝はレモングラスとペパーミントにしようと昨日から決めていた。私は友人が去年プレゼントしてくれたカップを用意し、ハーブティを入れる。一口啜る。途端に口の中に広がるのは、さっぱりとした、実に爽やかな香りと味。
私は再びベランダに出、薔薇の葉をじっと見つめる。病葉はいないか。どこかにかくれていないか。そうして今朝もまた見つける。白く粉を噴いた病葉を。だから私は指先でぷつっと摘む。本当にぷつっという音がしたかどうか、知らない。でも私には、そう見える、そう聴こえる。生きた葉が最期上げる悲鳴のような。そんな小さな儚い音。
でも。雨上がりの薔薇の緑は実に美しい。日々葉に積もる塵芥がすっかり流れ落ち、ふっくらとつやつやした葉に蘇る。雨はそんなに好きではないが、雨上がりの世界を見つめるのは好きだ。街路樹の幹も枝々もまだ濡れており、街燈の仄明かりを受けて輝いている。世界の何処かしこもが、洗いたての洗濯物のようにつややかだ。
私は水槽をこんこんと叩き、金魚の様子を見る。水草はもう新しいものを用意してやらないといけない時期かもしれない。近いうちに買いに行こう。金魚たちはこちらに近づいて、口をぱくぱくさせている。餌をやるのは娘だから、娘が起きるまでもうしばらく待っていてね、と私は話しかける。それにしてもまた、だいぶ大きくなってきたものだ。尾鰭がふわりゆらりと、水の中漂っている様は、なんという美しさなんだろう。

実践授業の日。今日もまた二組に分かれてそれぞれ役割分担をし、ミニカウンセリングを始める。今日はまた先週と違う講師で、その講師のミニカウンセリングはこれまた先週のものと全く異なり。少しずつ私の中で、形が広がってゆく。広がって、そうして見えてくる。それまで雲を掴むような感覚だったものが、少しずつ少しずつ近づいてくる。
耳を傾けること、自分をまっさらにして耳を傾けることの難しさを、つくづく思う。それでも、その作業は私に生気を与えてくれる。何故こんなに心がとくとくと鳴るのだろう。生きている、そんな気がする。

様々なことがありすぎて、私は自分を木っ端微塵にしてきた。DVや強姦、幼少期の精神的虐待といったものから、PTSDは引き起こった。PTSDだと診断された時にはもう、すでに粉々だった。何をすることもできない、何をすることも叶わない、何もできない、全くの無力な自分がそこに在った。それはもう、吹けば飛ぶような、そんな代物だった。
「あんなに自信に満ちて生き生きしていた人がどうして」と、そんなことをよく言われた。言われ続けるしかできない時期があった。そんなもの、最初からなかったよ、いつだって怯えながら虚勢を張って何とかここまで生き延びてきたんだよ、と、その頃の私は心の中悲鳴を上げていた。声にならない声を上げていた。
そして気づけば、自ら自分を傷つける行為を、繰り返すしかできなくなっていた。いろいろなものを失った。匂いも、味も、分からなくなった。世界はいつも歪んで見えた。それどころか、色が失われ、私の視界はいつもモノクロームだった。赤い薔薇さえ、私にそれは赤ではなかった。赤なのだろう、と、想像するしか、記憶を辿るしか、術はなかった。黄色も茶色も、同じ色だった。同じ匂いだった。違うことさえ、認識できなくなっていった。
そんな自分が、再び何かをやろうと思うことができるなんて、そんなこと、夢のまた夢だった。何かをしようとすれば恐怖が襲ってくる、怒涛のように襲ってくる。それに打ち勝つには、私は弱りすぎていた。何をするにも自分を責めた。こんなことになったのは全て自分のせいなのだと、そうやって責めることでしか、私は生き延びてこれなかった。責めて責めて責め苛んで。そうすることでようやっと、私は生き延びてきた。
でもきっと、長い時間をかけて、私はそこから這い出してこようとしているのだろう。あぁなんという長い時間だっただろう。PTSDと診断されてからの時間だけを数えても、それは長すぎる。十年以上、もう二十年近くが過ぎる。それでも。
生き延びてきたことは、無駄じゃぁなかった。決して無駄なんかじゃなかった。今ならそう思う。
私はきっと、小さい頃から孔だらけだ。これでもかというほどの孔だらけだ。それを埋めるものはないかとずっと探してきた。でも。
埋めてくれるものなど、ないのだと分かった。埋められるのは誰かじゃない。何かじゃない。他の何かでも他の誰かでもない。私自身だったんだと。今なら、分かる。
それに、孔があれば、気づけることもある。孔があったおかげで、そこに風が吹けば音がした。雨が降ればそこはびしょ濡れになった。そして太陽が昇れば。
孔があったからこそ気づけたことが一体幾つあるだろう。孔だらけであることを恥じることしかできなかった。長いことずっと。でも、恥じる必要はないことを、今なら思う。それはそれなんだと、あるがままを受け容れればそれでよかったんだと、今なら分かる。
私は生き延びながら死んでいた。長いことずっと。でももう、私は生きていいのだと思う。生きたいと思う。生きていたいのだと。そう思う。

私の娘は、生の塊だ。何度も打たれ叩かれながらも、あの子はにっと笑って立ち上がる。そこにどんな思いが秘められているのか、私は知らない。想像も、できそうにない。恐ろしいほど奴は、生の塊で。私には眩しすぎて。
でも、その奴のおかげで、私は今ここに在る。そう言って過言ではない。だからいい加減、私は自分で生きたいと思う。奴のおかげでもなんでもなく、自ら生きたいとそう思う。

そろそろ出掛ける時間だ。私は娘の尻を叩き、ほら行くよと声を掛ける。娘はミルクとココアに挨拶の頬ずりをし、私はその間に靴を履く。
玄関を開ければ。ぐしょぬれの校庭。水溜りが幾つも、大きなもの小さなもの、幾つも幾つも。空はまだ使い古した雑巾のような色合い。傘、持たなくていいの? 雨降ったら濡れればいいんじゃないの? そうなんだぁ、じゃぁいっかぁ。娘が笑う。だから私も笑う。
バスに揺られながら駅へ。改札を抜ければ娘は右、私は左だ。手を振り合って別れる。じゃ、また日曜日ね、うん、日曜日にね。そう言い合って。

木っ端微塵になって、まだ今私はばらばらに広げられたジグソーパズルのようなものだ。でもそれを繋げるのは、他の誰でもない、私自身だ。そう思う。
でもだからこそ、そこから始められるものもあるんじゃないだろうか。

多分。きっと。


2009年12月11日(金) 
カーテンを開けて外を見やる。まだ雨は降っていない。天気予報は雨、降水確率は90パーセントだという。私は空を見上げる。まだ闇の中眠っている空。でも、どっしりと重たげな気配。いつ降り出してもおかしくはないんだろう。
何となくすぐには外に出たくなくて、そのままお湯を沸かす。何を飲もうと一瞬迷い、レモン&ジンジャーティに決める。もしかしたら起き抜けはレモングラスとペパーミントの方が合っていたかもしれない。でも、もう用意してしまった。私はそのままお湯を入れる。レモングラスのものよりも薄く明るいレモン色がカップの中広がってゆく。
どうしてだろう、昨日のことがよく辿れない。夢を見ることもなく眠った後だというのに、この倦怠感は何だろう。何となく厭な気分。それを拭うこともできず、私はお茶を啜る。
昨日、小さな事故が起きた。娘がミルクとココアをそれぞれの手に乗せて私に近づいてきて、私にそれを手渡す。私も右手にココア、左手にミルクを乗せていたのだが、ちょっと気を抜いた隙に、ミルクがココアの耳を噛み千切ってしまった。キキキッと叫び声を上げるココア。それにびっくりしたかのように身を縮めるミルク。娘もこれまた悲鳴を上げ、ココアを抱きしめる。耳からとくとくと垂れてくる血の粒。
血を見慣れている私は、あまり驚くこともできず、娘にミルクをとにかく籠に入れてくるように言う。そしてココアを受け取り、耳をちり紙で拭いてやる。ちょこ、ちょこっとちり紙にココアの耳の血が滲む。でもこのくらいなら大丈夫だろう。私はそう思った。しかし。
娘は。こんな小さなココアの体なんだからこれくらいの血が出ても死んでしまうと思ったらしい。もうぽろぽろと涙を零し、病院に行くんだと言い張る。この時間にやっている病院はないんだよ、それにこのくらいなら大丈夫だから、すぐに血も止まるから。でも、でも、もしミルクの口にたくさんの黴菌があって、そのせいでココアが死んじゃったらどうするの?! 大丈夫だから、ね? しばらく様子を見よう。病院に行ってもやることは殆ど同じだよ、きっと。
娘はまだ泣いている。そんな娘を私はじっと見守る。時計の音だけが、チッチと部屋に響いている。
もう一度ママにココアを見せてご覧? 娘がココアを差し出す。私はそっとちり紙でココアの耳を触ってみる。ほら、ちり紙に血なんてつかない。もう血は止まったんだよ。うん。そろそろミルクの様子を見てやったら?
ママ、ミルクがしょんぼりしてる。じっとしてる。ほら、ミルクも、悪いことしたっていうのは分かってるんだよ。ミルクは悪気があって噛んだわけじゃなくて、それが本能だから噛んだんだよ。娘は黙っている。そして、これからは一日にどちらかとしか遊ばない、と言い出す。でも、一週間は七日だから、一日どっちか多くなっちゃうよね。どうしようか。そしたらその日だけ交互に遊んであげたら? …うん。
娘はなかなか眠らなかった。何度も籠を覗きに行き、ココアが生きていることを確かめている。その気持ちは、何となく分かる。私は、娘がまだ生まれたばかりの頃、突然呼吸が止まってしまって何処かに行ってしまうんじゃないかと、しょっちゅう彼女の顔に手のひらを近づけて、彼女が呼吸していることを確かめていた。私の場合事故が実際に遭ったわけじゃない。そうじゃないのに、これから起きるかもしれない事故をとんでもなく恐れ、そして、慄いた。その頃いた夫が、何度私の行為をたしなめたか知れない。それでもそれは、なかなか止まらなかった。今、ココアを見守る娘の姿は、まさに、あの頃の私だった。だから私は、言えない。もうこんな遅い時間なんだからいい加減眠りなさい!とは、言うことができない。
結局、私が横になり電気を消しても、彼女は私に抱きついたまま、じっと息を潜めていた。寝入ったのは多分、かなり後だ。

昨日のことがうまく辿れない、というのは、何と頼りないことか。こうしてノートと向き合って、懸命に記憶を辿ろうとしても、霞んでぼやけて、まるでばらばらになったジグソーパズルのようだ。しかもそのピースはひとつずつやけに小さくて。どれが何処に嵌るのか、一向に掴めない。五十音表をばらばらに気って、ちらばしたかのようだ。それがたとえば「あ」という文字であることは掴めても、それがどれと繋がるのかが掴めない。

母に電話をする。水曜日は病院だったはず。今病院でどうこう治療がなされているわけではないことは知っているが、念のために電話する。出てきた母は、開口一番、まだマリリン・モンローは咲いているわよ、と言う。あれは形がなかなか崩れないのね、これだけ長い時間咲いていても中央の芯が見えてこないわ。あぁそういう品種なのよ。これはいいわねぇ。切花にしてもずいぶん長いこと楽しめて。でもその花は、特別色が違うのよ。確かに少し色が褪せてきたわね。いや、多分それが、もともとの色だと思う。ほんのりしたクリーム色がもとの色だから。ふぅん、そうなの。でもこのままの色もいいわよ。さて、今度そういう色が咲くかどうか。分からないなぁ。
病院のことを訊ねる。行ってきたわよ、でも、別に変わりなく、とにかく二月までは何も分からないから。途中経過はまぁまぁってことなのね? まぁそういうことね。分かった。とりあえず元気なら、それでいいわ。まぁそういうことね。はいはい。

突然呼び鈴が鳴る。何かと思い出てみれば、宅急便だという。そういえば本を注文していたんだと思ったが、それとは違うらしい。何だろう。受け取ると、友人からの包みだった。奥で勉強している娘が、誰から?と訊ねてくる。Aさんだよ、と言うと、何が入っているの、と途端に興味津々になる。二人で顔をくっつけて、袋の中を覗く。娘の分、私の分、それぞれ入っており。添えてあったカードを二人で読む。
娘は早速包みを開けて。わぁわぁと嬌声を上げている。私にはこういうところが足りない。彼女から届く包みを開くと、いつも思う。彼女が送ってくれる品々はいつも、人の心をほっくりさせ、喜ばせるものたちばかりなのだ。しかもしれは楽しい。
私には、入浴セットと、これは小さな枕なんだろうか。最後の包装紙を破ることができず、私はその外側からしげしげと中を見つめる。あぁ彼女らしい。そう思った。この前の電話で、私が疲れたと繰り返していたことを気に留めてくれたのだろう。これでゆっくりしろってことなんだろう。そう思ったら、なんだか嬉しくて、そしてちょっと笑えた。耳の内奥、彼女の声が蘇ってくるかのようだった。

夕方、本が四冊届く。それと発注していた作品集四冊も併せて届く。私はそちらを先に開ける。父母に一冊プレゼントしようと、二冊注文した。降り積もる記憶の今年版だ。モデルは娘。一年に一度、彼女を撮る。それは、いつもの私の撮る行為とはちょっと異なる。娘を撮るという行為は、少し照れくさく、でも同時に、娘は全くの別人であることを知ることになる。私から産まれたけれども、私が産んだけれども、でもそれはもう、すでに生まれた瞬間から、私とは別の人間なんだという、そのことを、再確認する作業、と言ってもいいかもしれない。カメラの前で走り回ったり、おかしな顔をしてみせたりする娘。私はそれを追いかける。裸足になることだけが条件といえば条件。あとは基本的に好きにしていいよ、と言ってある。だから、彼女はこれでもかというほど好き勝手に動き回る。カメラを持って追いかける私は、いつのまにか必死になり、娘を撮っていることを忘れる。そこにいるのは娘ではあるけれども同時に娘じゃぁない。まさに一個の被写体であり。彼女にはとても緑が似合う。土の匂いが似合う。私は彼女の名前に海という字をつけたけれども、実は海より森という字をつけたほうがよかったか、と思うほど、そのくらいに似合う。服が汚れるなんてことをこれっぽっちも考えていないのだろう。土の上、芝の上をごろごろごろごろ、転げ回る。冷たいよぉと言いながらも、裸足で走り回る。そう、今年撮影したのは秋だった。雨上がりの秋の朝だった。しっとりと濡れた芝も土も、だから裸足になると冷たさが一番に伝わってきた。でも、やがてそれはぬくもりに変わるのだ。
そうして撮影した作品たちを一冊にまとめたもの。それを、今年の父母へのクリスマスプレゼントにしようと思う。
あと残り二冊は。最近始めた、二人展のまとめだ。前回やったものと、来年一月にやるものを、それぞれまとめてみた。一点だけ気になる仕上がりのものがあったけれど、まぁだいたい合格点か。
そして注文した四冊は。すべてクリシュナムルティ関連の本。まだ私が持っていないものの中から、適当に選んでみた。これからじっくり読んでいきたいと思っている。

朝の仕事は、なんとなく気だるいまま過ぎた。何とかやり終えただけでもよしとするか、と思ったところで私は時計を見、慌てる。もう出る時間じゃないか。今日は学校だ。そしてこれまた実践授業の日。
そういえば娘は、今日はミルクのことしか抱いてこない。昨日決めたことを彼女は実行しようというのだろうか。それは、彼女の意志に任せる。彼女がそう決めたなら、そうしてみるといい。まずはそこから。
私は、娘が差し出したミルクを手でこにょこにょと触り、そのまま娘に返す。じゃぁ行って来ます。いってらっしゃーい。また後でねぇ。はーい。
外は雨。しとしとと、決して激しくはない雨が降っている。激しくはないけれど、冷たい雨だ。バスに乗り、駅を渡り、川を渡り。私はそこでいつものように立ち止まる。
ふと思い出す。「コップというものは、空のとき初めて役に立つのです」。クリシュナムルティの著書「自我の終焉」の中にあった言葉。私は、川面を見やりながら、その言葉を声に出して呟いてみる。コップというものは、空のとき初めて役に立つのです。
私のコップは、今どのくらい水が入っているんだろう。
川は流れてゆく。こんこんと、こんこんと流れ続けている。雨粒がその川面に落ちては小さな波紋を描き、そして消えてゆく。


2009年12月10日(木) 
カーテンを開けると、窓が曇っている。もうそういう時期なんだなぁと改めて思う。曇った箇所に指で日にちを書いてみる。くっきりと浮かぶ指文字。そこから覗く世界は、なんだかとても小さくて、でもいつもと違った魅力がある。多分覗いてるということがもたらすものなんだろう。胸が少しどきどきする。街路樹の一本、一本を、その指文字の跡から覗いてみる。まだ点いている街燈の光を受けて、仄かに橙色に染まった風景。
窓を開ければ一気に冷気が流れ込む。待ってましたといわんばかりの勢いで部屋の中に篭っていた熱が外に飛び出していく。まるで目に見えるかのような勢い。私は窓辺に立ち、しばらく街景を眺める。まだ闇色に包まれたその景色を。
ベビーロマンティカの、ひとつの蕾が白く粉を噴いている。参った、こんなところに白粉が。私は指でそれを拭い取る。粉を土の上に落とさぬよう、私はベランダの外にその粉を飛ばす。病気なのはもう明らかだ。でも。ここまで膨らんできた蕾を切り落とすなんてことはさすがにできない。これから毎日観察していかないと。そのたび拭ってやらないと。私は心に刻む。それにしてもだいぶ膨らんできた。どの蕾ももう、小指の半分ほどはある。ホワイトクリスマスの蕾はそれよりも一回り大きい。
パスカリなどのプランターを振り返って私は少し慌てる。こちらに病葉が。私は片っ端から摘んでゆく。何がいけなかったんだろう。水も少しずつしか遣っていないのに。今土は表面がもうすっかり乾いている。だというのにこれだ。一番奥の新芽の部分がどれもこれも粉を噴いている。私は指先で懸命に摘む。そんな薔薇をよそに、イフェイオンやムスカリは緑をこんこんと茂らせている。こちらは病気になるということを知らないんだろうか。そう思えてしまうほど本当に強い。
そうしているうちに少しずつ少しずつ空が緩み始める。夜明けの気配。さぁそろそろ娘を起こさなければ。

いつぽつりと雨粒が堕ちて来てもおかしくないような曇天の下、国立に向かう。あちこちの銀杏の樹が電飾で着飾られている。これを見るといつも思い出すことがある。昔々、新聞の、本当に小さな小さなスペースに書かれたこと。蓑虫が絶滅の危機にあると。ちょうど蓑虫たちが動き出す頃合に、木々が電飾で彩られる。それに火傷して、蓑虫が死んでしまうのだと。そう書いてあった。なんだか印象深くて、その小さな記事を切り取ってしばらく栞代わりに使っていたことを思い出す。蓑虫。成虫になったところの姿を私は知らない。あの、細い糸にぶらさがった、不思議な格好の蓑に包まって、時々ひょっこり顔を出して。そんな姿を、幼い頃よく木々の間に見つけた。ぶらありぶらありと枝にぶら下がっているその蓑虫は、退屈な時からかって遊ぶのにちょうどいい相手だった。そういえば、私は小学一、二年生の頃、学校へ行く折、玄関から出ないで裏口から出ていたんだと思い出す。そう、裏口から出て、お向かいの家の庭を通り抜けて通りに出ていたんだった、と。お向かいの家と私の家との間は垣根があったが、そこにぽっかり、通り穴があったのだった。そしてそこによく、蓑虫がぶら下がっていたのだった。私が三年生になる前、その町を私たち家族は離れた。あの穴はその後、どうなったのだろう。今はもうないのかもしれない。もう知る由も、ない。
潜る、という行為はまるで、とっておきの秘密の行為のような、そんな気配がした。ほんの数秒で潜り抜けられてしまうような場所でも、潜るというだけで、どきどきわくわくした。薄の生い茂った野っ原でかくれんぼをする時、私たちは薄の葉のトンネルをよく潜り抜けた。風が吹けば足音も隠れてしまうような、そんなとっておきの場所だった。そしてまた、竹林では、若竹同士を結び合わせて、トンネルを作った。そこはいわゆる基地だった。秘密基地。いや、覗こうと思えばいくらでも覗けるような、隙間だらけの場所だったのだが、それでも私たちはそこを基地と思っていた。いらなくなったおもちゃや本を持ち合って、見せっこして遊んだ。何時間でもそこで過ごせる、そんな気がした。
そこまで思い出して、はたと気づく。今娘に、潜る、という行為はあるのだろうか。そして私は途方に暮れる。

書簡集で待ち合わせをした。大学時代参加していたサークルで一緒だった仲間の一人が今年も展覧会に来てくれるという。
まさにくるりんときれいに剃りあげた頭で、彼は書簡集の秘密の扉を潜ってきた。変わらないなぁ。それが最初の印象だった。本当に変わらない。まっすぐ前を見つめる瞳を持つ人だった。それは昔からこれまで、全く変わることがない。
彼は去年の画のこともちゃんと覚えていてくれたのだろう。今年の作品を見ながら、去年の作品についても合わせて言葉を繋いでくれる。私は会場に置いている冊子を手渡す。今年は文章だけで参加してくれた人もいるのだということを話す。彼はそれを少し読みながら、珈琲に口をつける。その冊子は、紙にすれば数枚の、薄いものだ。でも。中に記されたものはみな、参加してくれた人たちの大切な大切な言葉たちだ。読んでみればそれがどれほどの重さか、彼になら何も言わずとも伝わるだろう。
私には、古い友達があまりいない。あの事件を境に、多くの人が離れていった。でもこうして、残っている緒もあるんだということを、改めて私は感じる。それはどれほどにありがたいことか。そのことを痛感する。誰それは今何をしてるの? 元気でいるの? 誰ちゃんは? そんな言葉がぽろぽろ零れる。
名前、どうやって決めたらいいのかなぁ、と、彼が突然言い出す。ん?と思い、訊ねれば、今奥様が第二子を宿してらっしゃるとのこと。なんと嬉しいニュース。書簡集の奥様も交じって、三人でがやがやと話が弾む。本当にこの場所は、なんて素敵な場所なんだろう。時間がゆったりと流れる。時計がもし今逆回りしても、不思議ではないくらいにゆったりと。それがとても心地いい。
まだ仕事の途中だという友人を見送りながら駅へ。それじゃぁまた、と手を振り合って別れる。

そのまま電車を乗り継いで。どうして急いでいる時に限って電車事故が多いのだろう。私は突然止まって動かなくなった電車の中、思いを馳せる。人身事故、と、その言葉が示すところをなぞってみる。思い出してももう仕方がないけれども、目の前で飛び込んでいった友人たちの姿が、はらはらと思い出される。私はそれをかき消すように頭を振り、私は今生きているのだからと自分に言い聞かせる。
久しぶりに会う友人は、ゆったりとした雰囲気をまとっており。留守にしていた間、こんなことがあった、あんなことがあったと話してくれる。そして、彼女が、こんな本があることを知ったからぜひ読んでみようと思って、と話してくれる。あぁ、彼女が自分から本を読んでみようということを話してくれるなんて。私は、本当に久しぶりにその言葉を彼女から聞いた気がする。とても嬉しい。どんな本であっても、彼女の琴線がひっかかったなら、きっと今の彼女に必要なことが詰まっているに違いない。
T駅の構内、小さな小さな喫茶店の片隅、私たちの時間はあっという間に流れてゆく。

娘と待ち合わせの場所に立ち、私は本の続きを読んでいる。「たとえあなたが醜くても美しくても、また意地悪で罪作りな人間であっても、そのあるがままの自分を理解することが、「徳」―真価―の始まりです。この「徳」こそ、私たちにとって欠くことができないものなのです。なぜならこの「徳」によって私たちは、自由を与えられるからです。あなたが心理を見い出し、本当の生活ができるのは、この「徳」の中だけです。しかもそれは、一般に「徳をつむ」というような意味でのつんだ徳では駄目なのです。そのような徳からは、いわゆる尊敬は生まれるでしょうが、理解と自由は決して出てこないのです。「徳」をもつことと、「徳」をつもうとすることとは違うのです。「徳」はあるがままのものを性格に理解することから生まれてくるのですが、「徳」をつもうとすることは、あるがままのものを理解することを先に引き延ばすことであり、あるがままのものを、こうありたいと思っているものによって糊塗しているだけのことなのです。従って、「徳」をつもうとしていて、実際はあるがままのものから直接に行動することを避けているのです。しかも理想に向かって努力することによって、あるがままのものを回避していること自体が「徳」であると一般には考えられているのです。しかし、もしあなたがそれを詳細に、じかに見るなら、それが本当の「徳」とは何の関係もないことが分かるはずです。理想を求めるということは、実は、あるがままのものに面と向かい合うのを引き延ばしているだけなのです。「徳」というのは、自分自身と違ったものになることではないのです。「徳」はあるがままのものを理解することであり、それによって同時にあるがままのものから自由になることなのです。現在のように急速に分解してゆく社会では、このような「徳」は欠かすことができないものなのです。古い世界からはっきり訣別した新しい世界や社会を創造するためには、「発見するための自由」がなければなりません。そして、自由が存在するためには、この「徳」がなければならないのです。というのは、「徳」がなければ自由もないからです」「真の実在というものは、あるがままのものを理解するときにのみ、発見できるのです。しかもあるがままのものを理解するには、あるがままのものに対する恐れから解放されていなければならないのです」…。(※クリシュナムルティ「自我の終焉―絶対自由への道」篠崎書林刊)
読みながら、自己一致と無条件の受容という言葉がぐるぐる私の頭の中を回っている。

ママ! 娘が走って飛んでくる。私たちはバス停までそのまま走り抜ける。クリスマスが近い地下街はこんな時間でも賑わっており。私たちはその人の隙間をぬって走る。娘はバスの中、長靴下のピッピを読み、私はさっきの続きで「自我の終焉」を読み続ける。

木曜日の朝は緑のおばさん役の当番の日。娘と共に家を出る。私は自転車を引き引き集合場所へ。陽射しが出ている分、少しあたたかい気がする。
「じゃ、いってらっしゃい!」「うん、じゃぁまた後でね!」。娘が手を振ってくれる。私は自転車を漕ぎ出す。途中公園に立ち寄る。池の周りの紅葉はもう今まさに紅色で。私より先にやってきていた老夫婦が、木のベンチに座り、じっとその紅葉を見つめている。私は邪魔をしないようにその場をそっと去る。
空全体、うっすらと雲ってはいるけれども。それでも陽射しがこうやって降り注いでくれることに、私は嬉しくなる。変わる直前の信号を突破し、私は通りを渡る。こんなところ、娘には見せられないなとひとり苦笑しながら。
モミジフウはいつもと変わらぬ姿でそこに在った。黒褐色のいがいがの実をまだたくさんぶら下げている。清掃員の方が教えてくれたっけ。季節になると小学校の先生などがよくこの実を取りにやってくるのだ、と。図工で使うのにちょうどいいらしい。お花の先生なども取りに来られると聞いた。リースに使えるからと拾っていく人もいるという。私はその大きな大きなモミジフウの樹をじっと見上げている。ただ見上げている。微風ではそよりとも揺れない実。手を伸ばしてひとつだけ摘む。娘にあげよう、そう決める。
聴こえるはずはないのに、耳を澄ますと波の音が聴こえてきそうで。私はやはり自転車を海の方向に向ける。今日の海は何色だろう。どんな波が立っているだろう。

どこからか、鴎の啼く声がする。


2009年12月09日(水) 
がらららら、がらがららら。ミルクの回し車の音が盛大に響いている。夢の中戦車に似たものが出てきてそんな音を立てていたが、あれはミルクの回し車の音だったかと笑ってしまう。私が起き上がって籠に近づくと間もなく、彼女は私の気配に気づき、後ろ足でひょっこりと立ち上がる。そうして次はがっしと籠に齧りつくのだった。
顔を洗い、鏡の中を覗く。唇が少し白っぽく乾いているのが目に付く。そういえば私の唇は色が悪い。とある国で数ヶ月暮した折、あまりの強烈な日差しに負けて炎症を起こして以来、どす黒い色になった。だから軽い色の口紅はひけない。そんな私の唇が珍しく乾いて白っぽい。その妙な色合いにつられ、思わず手を唇に当てる。当てたからといってどうこうなるわけでもないのだが。化粧水を叩き込みながら思いつく。普段あまり使わない美容液を唇に塗ってマッサージしてみる。具合が悪いわけでもないのに具合が悪くみえてしまうような顔色ではいたくない。悪足掻きかもしれないが、まぁとりあえずそういう時は、足掻いてみるのがよし。
そういえば娘が昨夜五時半に起こしてくれと言っていた。なんでそんなに早く起きたいのかは訊かなかった。声を掛けてみる。微動だにしない。おーい、耳元で声を上げる。全く動かない。仕方ない、こういう時はミルクに登場していただこう、私はミルクを籠から出してやる。そうして娘のほっぺたにほいっと乗せてやる。
途端に動き出す娘。はいー、と私にミルクをよこして再び眠ろうとする。だから私は、自分で籠にしまってちょうだいねーと返事をする。えー、おしっこしたらどうするのぉ、と娘。おしっこしたら布団ちゃんと洗濯してね、大変だよ布団洗濯するのは、と私。ようやく娘は諦めたように起き上がる。おはよう。おはよう。ねぇママ知ってた? 何? ミルクの手の指はちゃんと五本あるんだけど、ココアの手の指、片方は四本しかないんだよ。えぇ、そうなの? 気がつかなかった。怪我したのかなぁ? うーん、あの用心深いココアがそんな大きな怪我してるわけないと思うけど。もしかしたら生まれつきかもしれないよ。そうなのかなぁ、そうかなぁ、うーん。娘はまだ眠そうな目を擦りながら、ミルクを籠に戻す。
私は金魚の水槽をとんとんと叩きながらベランダに出る。まだ外は暗い。というより空全体に雲がかかっている。今日は曇天か、そんな気がする。空をそうして見上げながら私はいつものように髪を梳く。風は殆どない。街路樹の残り少ない葉たちも今はしんしんと沈黙している。まだ点いている街燈がほんのり橙色にアスファルトを照らし出す。まだ通りを行き交う車の数は少ない。バスもまだ、走ってはいない。
娘は早々におにぎりをあたためている。その横で私はお湯を沸かす。中国茶を用意しかけて、やっぱりと思い直しハーブティにする。お湯を入れれば途端にふわりとレモングラスの香りがする。匂いが分かるというのは本当に幸福なことだと私は思う。あの、匂いさえ認識できなくなった時期には、できるなら、もう戻りたくは、ない。

友人と電話。とりたてて何か用事があったわけでもないおしゃべりの時間。彼女は私の父母にも会ったことがある数少ない友人。そういえば父がこんなことを、と私が話すと、それならピコピコハンマーで頭叩いてあげなくちゃと彼女が返してくる。んなことしたらどうなるか、と私が慌てると、彼女は大きく笑って、今度ピコピコハンマー送ってあげるからと言う。そんなことを言い合って笑い合えるのも、彼女とならではだ。
彼女の声はファの音に似ている。ソプラノでもアルトでもない、その半ばを流れるような音。ファの音を少し乾かしたら、きっと彼女の声だ。そんな気がする。

クリシュナムルティの本を読み続けながら、授業の内容がすとんすとんと自分の中に落ちてくるのを感じる。あぁこんなことだったか、こういうことだったか。ひとつひとつが明快になる。気になる箇所に線を引きながら私はだから読み続ける。
もともと、私はクリシュナムルティの「最後の日記」から入ったのだったか。そんな記憶がある。最後の日記、というタイトルが私の目を最初に捉えた。最後に書くものとは一体どんな姿を色をしているんだろう。そう思って手に取った。あとは装丁がすっきりしていたから。ただそれだけで私は一冊目を手にした。読み始めて、心ががっしと捉まれてゆくのを感じた。読み終えるのがもったいなくて、一日一日、ゆっくりと読んだ。いや、ゆっくりとでなければその頃私にはその日記が読めなかった。日記の中に現われる風景は、読む私の中にありありと浮かんできた。知らない土地であるにも関わらず、世界はまるで目の前にあった。彼の日記を読みながらだから私は旅をした。日記と共に散歩をし、辺りを漂った。見つめた。じっと。
彼の日記と出会わなかったら、私の世界は多分大きく異なっていたと思う。こんなにも世界を感じたいとは思わなかっただろうし、こんなにも世界を見つめたいとも自分を見つめていたいとも思わなかっただろう。私がそれまで見つめていたその目線と、微妙に異なるものがそこに在った。それが私の心を鷲摑みにした。
あるべきもの、あってほしいもの、そういったものを心に描きながら私は多分自分を見つめていた。だからそこからかけ離れた自分の醜さを受け容れられなかった。受け容れなければとも思わなかった。だから焦っていた。この醜い自分を一体どうしたらあるべきものの姿にあってほしい姿にすることができるんだろう、と。
でも違った。私は、受け容れてほしかったんだと気づいた。嘘つきなら嘘つきである自分を、情けないなら情けない自分を、誰かに受け容れてほしかったんだ、と。
でも。自分で自分を愛することができないで、どうして他の誰かに愛してくれと言うことができるだろう。まず自分で自分を抱きしめることだ、受け容れることだ、そのことを、思った。あるべきものでもない、あってほしいものでもない、ただ、あるがままを自分が受け容れる。そのことだったのだ、と。
私にはまだまだ、受け容れられないでいる自分がいる。事件のこと。遠い昔の、父母との関係における自分のこと。私はまだまだ、それらを抱きしめてはやれない。一瞬、もういいだろう、と、自分を解き放ってしまえと、思い、抱きしめかけることはある。でも、それはまだ、続いてはゆかない。私はまだまだ過去に引きずられている。
そういう自分を私は、今、ありありと感じている。

私が漢字の練習をしていると、娘が吃驚したように振り返る。ママも漢字の練習するの?! するよぉ。えぇ、大人になっても漢字の練習ってあるの? あるよぉ、幾つになっても自分が勉強したいと思えば勉強するさ。そうなんだぁ、子供だけじゃないんだぁ。そうだよぉ。大人になったって勉強するんだよ、たとえそれが漢字であっても、自分がしたければするの。私、勉強したくないときあるよ。そりゃあるよね。ママもある? あるよ。したくない時はしたくないんだなぁって思う。それでどうするの。したくないけどしようかなぁって思えばするし、したくないからやっぱり今日はやめておこうと思えばしない。私はそういうわけにはいかないよ。だって塾あるもん。そうだよねぇ、大変だよねぇ、一日勉強しなかったら、その分だけ確実に遅れていっちゃうもんね。勉強したくないなら、いつ止めたっていいんだよ? やだ、やめない。なんで? 塾の先生好きだから。なんで好きなの? だって面白いもん。そうなんだぁ。じゃぁ学校の先生は? つまんない。そっかぁ。ははは。自分がしたいようにやってみればいいよ、うん。塾続けたいなら、ママも頑張るからさぁ。うん。
そうして娘も漢字の練習を始める。私はようやく終わった漢字の練習ノートを脇に寄せて、今度は心理学の勉強を始める。そう、大人になったって、自分がしたいと思えばいつだって勉強するもんだよ、娘。確かに学生の頃はさ、ママも、テスト前に無理矢理、苦手な科目を頭に詰め込んだりしたけれども、大人になったらそういう必要はない。自分がしたいことをすればいい。そのための基礎を、今君は作っているようなものだよ。きっとね。私は心の中、娘に話しかける。基礎がないと自分がいざ勉強したいと思った時にもできないままになってしまったりするから。だから、勉強したい気持ちが少しでもあるなら、頑張ってみよう。ママも、頑張る。

国立にようやく辿り着く頃、空はやっぱり一面灰色の雲に覆われており。並木道の銀杏たちはもうすっかり葉を落としている。代わりに、電飾だろう、天辺からケーブルをひっぱられ、着飾られている。夜になればここはきっと、賑やかな通りになるのだろう。
駅前を行き交う人たち。混み合う時間帯からだいぶ離れてきたせいか、ゆったりと歩く人の姿も見かけられる。足の悪いご老人が、杖をつきながら今ゆっくり横断歩道を渡ってゆく。
私の目の前には、今、葉を殆ど落とした桜の樹が立っている。葉を落としている最中の彼の枝先には、もうすでに、次開くのだろう息吹の塊がくっついている。それを抱いて、桜は冬を越えるのだろう。じっと、じっと抱いて、春を待つのだろう。
私はこの樹のように、冬を越えてゆけるのだろうか。こんなふうに凛と、しんと、立っていられるだろうか。

今鳩が、桜の樹に舞い降りた。


2009年12月08日(火) 
顔も洗う余力なく、横になった。とにかく横になりたかった。眠りたかった。そんなふうに思うのはどのくらいぶりだろう。疲れていた。自分で自分は疲れていると感じるほど疲れていた。頚部の痛みは酷くなる一方で、それは鎮痛剤を飲んでも無駄で。とにかくも横になってただ眠りたいと思った。
多分かくんと、堕ちるように眠りについたのだと思う。横になってからのことを何も覚えていない。仕事を続けることを諦め、顔を洗うことも放棄し、横になった。午前三時に一度目を覚ましたものの、時計を見、もう一度眠ることを選んだ。
そうして午前五時。いつものように目を覚ます。頚部の痛みは頭部全体にまで及び、頭が鉛のようだった。それでも、習慣とはおもしろいもので、私を起こさずにはいないのだ。顔を洗い髪を梳く。それだけでぱっちりと目が覚める。今朝の仕事を昨日キャンセルしたことを思い出す。あぁ、もっと眠っていてよかったんだと少し後悔。でも今更。身体はもう起きてしまった。さてどうしよう。
ミミエデンに今日も病葉は見当たらない。よかった、一段落ついたのかもしれない。油断は大敵だけれども、それでも嬉しい。蕾たちはそれぞれ順調に膨らんでいっている。他の薔薇たちも、各々新芽を出して真っ直ぐ天を向いている。この真っ直ぐ天を向く様を見るといつも、背筋を伸ばさなければと思う。つい俯いて、自分を守るため俯いて、背中を丸めて歩いてしまうけれど、でも守りたいならなおさら、上を向いて、まっすぐに天に手を伸ばしていたいと、そんなことを思う。イフェイオンとムスカリたちは水を一切やっていないというのに、緑を茂らせている。この強さはどうだろう。誰の手を煩わせることもなく、凛々と、生きてゆくこの様は。憧れてしまいそうだ。

病院の日、診察の日だった。といっても何も変わらず。いつものやりとりと違ったのはひとつだけ私から質問をしたということのみ。それだけ。
袋一杯の薬を受け取り、帰宅しようとして足を戻す。一通手紙を書いて投函してから、と思い直す。朝持って出た絵葉書一枚を本の間から取り出す。そして私は、彼女のことを思い浮かべながら手紙をしたためる。絵葉書だから、行にしたらほんの数行かもしれないが、彼女にそれが本当に届くかどうか。彼女の琴線に触れられるかどうか。そのことを思う。
街はすっかりクリスマス色一色に染まっており。緑と赤とが鮮やかに咲き乱れている。クリスマスは、特別な日であり、同時に、やさしい日常だったのだなと思い出す。クリスマスがたまらなく切ない一日であったことも。共に思い出す。ごたごたありながらも入籍したのがクリスマスなら、離婚を決意したのもその頃だった。クリスマスは、幾重にも様々な思いが重なり合う日だった。
でもそれは昔。今私には、娘がいる。娘はクリスマスを楽しみに待っている。まだ欲しいプレゼントは決まっていないらしい。娘と一緒にケーキを囲もう、ささやかな食事を楽しもう、そんなことを思い描いてみる。クリスマス当日は無理でも、その前に映画にでも出掛けられたらいいなぁ。そんなふうにあれこれ思い描いてみる。
子供の頃。クリスマスの前夜はいつも眠れなかった。どうにかしてサンタクロースを見てやろうと布団の中ごそごそやっていた。真夜中、誰かが部屋の扉を開ける。私は眠ったふりをして布団の中じっとしている。その人は私の部屋の出窓に、いつでもプレゼントを置いてゆく。そして足音を忍ばせて去ってゆくのだった。私はその人の気配が完全に消えたことを確かめてから、出窓に近づく。そこにはきれいに包装されたプレゼントが、必ず置いてあった。
サンタクロースが父と母であることは、だからもうずいぶん小さい頃から知っていた。それでも、やっぱり嬉しかった。プレゼントはいつだって自分の望んだものとは違って、父母の望むものが包まれていたけれども、それでも嬉しかった。中学生になるまでそれは続いた。クリスマスは小学生までの大切な行事だった。
今、娘にとって、クリスマスはどんな日なんだろう。今年もサンタクロースからの手紙が欲しいと私に言った娘だったが、彼女はサンタクロースをどんなふうに思っているんだろう。ねぇ娘。

塾の道すがら読む本を取ろうと本棚に手を伸ばした娘が、あっと声を上げる。そして。ママ、ママ、見つかったよ! ん? ほら! あーーー!!!
あったのだ、あの本が。彼女が先日なくしたはずの本が、あったのだ。私たちは声を上げて笑い合う。「そうだよ、前にママが机片付けなさいって言って、その時ここにしまったんだった」。娘が言う。私はもう言葉もない。「よかったぁ、あって。ママ、ほんとにごめんね」「うん、もういいよ、見つかったんだから。よかったよかった、見つかって」。じゃ、行ってきます! いってらっしゃい。頑張ってね。
彼女がなくしたのは、九巻あるうちの四巻目。私は本棚にその本をそっとしまう。九巻揃った姿を眺め、心底ほっとする。私にとってこの本は、自分にエネルギーを与えるための大事な場所なのだ。いつだって何かあると、この本を開いた。そしてこの本を読みながら泣き、笑い、泣き、そうしてエネルギーをもらった。まだやれる、まだ私はやれる、そう思った。一体何度読み返してきたか知れない。でも必ず、私のそばにこの本があった。そういう本だった。
娘よ、見つけてくれてありがとう。ママは嬉しい。

疲れていた。なんでこんなに疲れているのか分からない。分からないけれども、私は疲れていた。可能なら今すぐしゃがみこみたいほど疲れていた。でも。
私は今ここでしゃがみこむわけにはいかない。私がやらなければならないことがまだ山積みになっている。ここで今立ち止まるわけにはいかない。時間が止まってくれるわけでもないのだから、待ってくれるわけでもないのだから、私はやらなくちゃならない。
沿う思って、自分を叱咤激励し、歩いているけれど。
このままじゃ、私の糸が切れそうだ。
思いついて、娘が見つけてくれた本を、一巻からだっと、かぶりつくようにして読み始める。途中あふれ出す涙など放っておいて。流れるままに放って。ただ読む。何も考えずに、読む。読み耽る。
そうして私は再び思っていた。大丈夫、まだやれる。大丈夫、私はまだやれる。
そう、私はまだ、やれる。

身体はまだだるいけれども、何とかなる。私は寝巻きを脱ぎながら、それをぽいぽい娘の顔に投げてゆく。起きろー、ほれ、起きろー。着替え終わった頃娘が、いきなりただいまと言う。はい? あ、間違った、おはよう、だ。おはよう。金魚が餌まだかって待ってるよ。はいー。
昨晩ずっと、ミルクとココアの回し車の合唱が響いていた部屋。今は朝の陽光で明るく染まっている。娘がおにぎりをあたため始めるのを待って、私は昨夕作っておいた野菜スープに火を入れる。玉葱とブロッコリーの簡単な中華スープだ。コンソメ味より中華味を娘は好む。そこに卵を一個割りいれて、軽くかき混ぜる。ほら、スープもできたよ。娘に手渡す。
東から昇った太陽は瞬く間に辺りをあたため始め。さっきまで眠っていた街路樹も街も、みな目を覚ます。バスは十分おきにやってきては人を乗せてゆく。
じゃね、じゃぁね、またあとでね。娘の手にはミルク。私はミルクを撫でてやる。そして娘と手を振り合って別れる。
公園の桜の葉はほぼ落ちてしまった。木の足元には山ほどの枯葉。まだ先日の雨に濡れたままのものもある。池を覗き込めば、晴れ渡る空に裸の枝を伸ばす木々の姿が映っている。銀杏並木は昨日よりさらに裸になり。その枝の間からは青い空が広く見える。
さぁ行こう。今日も行こう。一日を越えよう。自転車を止め、立ち止まりながら私は空を見上げる。

空渡る鳥の影。今海の方へ。


2009年12月07日(月) 
目を覚ます午前三時。妙にぱっちりと目が覚める。布団の中で寝返りを打てば娘の頭が目の前に。そして動いた私の気配を察したのか、娘の腕がどしんと私の頭に。無防備だった私の頭にそれはあまりに強い衝撃で。私は一瞬目を回す。このままじゃ眠れそうにない。私は枕元、ペンライトをつけ本を広げる。クリシュナムルティの「あなたは世界だ」。線を引きながら、ゆっくり読む。
「私たちはいつも、他の人の灯で自分のランプをともしてもらいたがっているのです。私たちが自分自身の灯であることはけっしてありません。自分自身の灯であるためには、私たち自身の精神で見、観察し、学ぶことができるよう、あらゆる伝統、話してのそれをも含めたあらゆる権威から自由でなければならないのです」「重要なのはあなた自身について学ぶということなのです」「ご自身を実際に観察することによって学ぶということです。そうするなかであなたは、自分が世界なのだということを見いだされるでしょう」「クリアに見るということは、なんのイメージももたず、どんなシンボルやことばもなしに見るということです」「けっして他の人に追随しないことです。どのようにふるまい、どのように生きるかを、けっして他の人から見いだそうとしないこと。他の人があなたに言うことは、あなたの生ではないのですから」「なんの判断もせずに自分自身を見る」「私たちの関係というのはイメージ間のものなのです」「私は嫉妬が自分とは別のものであることを認めず、「私は嫉妬している」と言います。それは事実です。私はそれを避けません。そこから逃げだしませんし、それを抑圧しようとはしません。私のすることはなんであれ依然として嫉妬の一形態なのです。その結果、なにが起こるでしょう? 無活動が全活動です。観察されるものとしての観察者という立場からの、嫉妬に関する無活動、それが嫉妬の停止なのです」「重要なのはあなた自身について学ぶということなのです」「ご自身を実際に観察することによって学ぶということです。そうするなかであなたは、自分が世界なのだということを見いだされるでしょう」「私たちが暮す社会は、私たちの心の状態の結果です。社会は私たち自身です。世界は私たち自身なのです。世界というのは、私たちと別個にあるものではありません。私たちそのものが世界をつくっているのです」「私たちの責任というのは、まず最初に自分自身を理解することである、と私は思います。なぜなら私たちこそが世界だからです」。
以前読んだ際引いたのだろう線が、そういった箇所に引かれている。私はそれに惑わされぬよう、あらためて全体を読んでゆく。
気づけば午前五時。もう起き出す時間だ。私は顔を洗い化粧水をはたく。鏡を眺めながら、おはよう、と自分に言ってみる。少し浮腫んだ瞼。丹念に指でなぞる。窓を開けベランダへ。いつものように櫛で髪を梳かす。いつか透かし模様の櫛が欲しいと思いながらもう十数年。まだそんな櫛を作っている職人さんはいるのだろうか。いつかいつか、きっといつか。まだ私はそう思っている。

朝実家に電話をすると父が。今ばばと娘は朝の散歩に出掛けているという。そこできっとまた栗鼠や狸に出会っていることだろう。あの裏山はまだ健在だ。人に削られても削られても、それでもまだ。それが私は嬉しい。父に今日の予定を確かめる。今日はケーキパーティをやるのだとか。午前中は国語、午後早くに理科と社会を終えたら、三時にケーキパーティ。その後での帰宅になるという。電話を切ってから想像する。三人はそれぞれどんなケーキを食べるのだろう。娘はやっぱり苺のケーキだろうか。それともチョコレートケーキだろうか。母は多分モンブランだろう。父はさてさて。

久しぶりの、休日らしい休日。しかも天気は晴れ。私は溜まった洗濯物を片付けることにする。一回、二回、結局三回も洗濯機を回す。一回目は娘の洋服が殆ど。二回目は下着や靴下。三回目はタオル。あっという間にベランダは干された洗濯物でいっぱいになる。
一通り洗濯物が終わると、私は新しく買ってきた小さなプランターに土を用意する。そこに、これまであちこちに挿してきた挿し木を全部まとめることにする。そおっとそおっと、枝の根元を傷つけないよう掘り返す。まだ根など出ていない薔薇の枝たち。枝の根元にはじゃぁ何があるかといえば、白いぼこぼこ。無事に育てばここから根が出てくる。もうそれがどの薔薇の枝だったか私は覚えていない。途中枯れたものが何本もあった。今生き残っているのは八本。これが無事に冬を越えてくれるかどうか。
正直言うと、もう正式名称を忘れてしまった薔薇もある。大きなぼんぼりのような、薄い橙色の花を咲かせる樹、それから小さな桃色の、これもまたぼんぼりのような形の花をたくさんつける樹、それから最初は濃橙色の花だったのにいつのまにか接木した木の色が勝ってきて赤紫色の花を咲かせるようになってしまった薔薇の樹。これらの薔薇の名前は、これから先もずっと分からないままかもしれない。あえて人に訊ねようとも調べようとも思っていない自分だ。それでもかわいい樹たちに違いはない。

もう一体何年前になるんだろう。私の病気がまだまだ重たい頃だったと思う。その頃出会い共に音を奏でたことのある友人が、偶然にも書簡集の前を通り、そこにあった展覧会の看板を見たのだという。まさかそれで連絡をしてくれるとは思ってもみなかった。今も変わらずその友人は音を奏で続けているという。かつて私が聴いたことのある彼の音は、まるで空中を浮遊するきらきらとした光の粒のような、そんな音だった。今は一体どんな音を奏でているのだろう。どきどきしながら彼から届いた短い手紙を繰り返し読む。そして、当時のことがぶわっと私の中蘇ってくる。
一体どれほどの人を傷つけてきただろう。自分の波乱に他人をどれほど巻き込んできただろう。それを思うと、穴があったら入りたい気持ちになる。もう今更、だから私はもう、そうであったと認め受け止めるしか術はないのだが。嵐の中大波に揺られる小さな小舟のようだった。その揺れを、そばにいる人にまで及ぼさせた。私はそうやって、幾つもの関係を壊してきた。そう思う。今だから、そう思う。
今の私にできることは、何だろう。そのことを改めて、思う。

ねぇママ、私ね、ミルクの言葉がだいぶ分かるようになったよ。へぇ、どういう言葉持ってるの、ミルクは? あのね、籠の右の方を齧ってるときっていうのは、出して遊んでって言ってる時なんだよね、で、左の方を齧ってる時って、つまんないなぁって言ってるの。真ん中らへんの時は、おなかすいたよーって言ってるの。へぇ、そんな違いがあるんだ。ママ、全然知らなかった。へへーん、そりゃ、私がご飯あげてるからねぇ、ママにはわかんないこともあるんだよー。そりゃそうだ。ははは。それに、ミルクは噛むけど、もうそれにも慣れてきたよ。ええっ、噛まれても平気なの? うん! ママは全然平気じゃない。そりゃ、ママに噛むときと私に噛むときとじゃ、調子が違うからね! そうなんだ、ママにはじゃぁ強く噛んでるんだ。きっとそうだよ。うん。へぇ、違うんだねぇ。
そうして娘は、ミルクの、余分な背中の肉をつまんでひっぱって、ほら、モモンガだよーと笑っている。それはちょっと、どうかと思うんだけどと母は心の中思う。ミルクは、へんてこりんな顔をして、娘の笑い声を聞いている。

今日は病院の日。診察の日だ。私は早めに家を出る。娘がミルクを掌に乗せて見送ってくれる。じゃぁね、またあとでね、うん、いってらっしゃい。
バスに揺られ、電車に揺られ、私は本を読み続けている。ちょっと気持ちが揺れると途端にするすると逃げてゆく言葉たち。だから私はゆっくりと、噛み締めるようにして読み続ける。
ふと見上げれば、美しいうろこ雲が空に広がっている。おのずと生まれるその模様に、私はしばし魅せられる。最寄の駅で降りれば、そこには銀杏並木が真っ直ぐ続いている。私は立ち止まって見つめる。ここの銀杏ももう終わりだ。足元に絨毯のように積もった落ち葉。陽光を受け黄金色に輝くその落ち葉。樹は黙ってそれを見守っている。まるでそっと両腕を広げて抱いているかのような。そんな気配が伝わってくる。
さぁ、今日も一日が始まる。私は銀杏並木に背中を向けて、歩き出す。多くの人が行き来する駅前広場。かつかつ、こつこつという靴の音が響き合う。私はその音の中に紛れる自分の靴の音に耳を澄ましながら、歩いてゆく。


2009年12月06日(日) 
部屋の中に赤の他人が入り込んでいる。そんな気配の夢を見る。それはひどく不快な感覚で、私を脅かす。夢の中で叫んだのを覚えている。そうして結局二時間で、私の睡眠は終わる。その後全く眠れず。結局、私は起き上がり、娘が留守なのをいいことに写真を焼き始める。前回焼いたものの中から何点か選び出し、焼き込む。外は雨がまだ降り続いている。
気づいた時には四時半を回っており。窓に近づいてみれば、いつの間にか雨が止んでいる。私は早速、結わいた髪を解き、梳き始める。酢酸の匂いが何となく纏わりついている髪をばさばさと煽り、少しでも風が通るように。少しでもその匂いが消えるように。それと共に、あの夢の気配も一緒に消えてなくなるように。
朝の仕事をしていると、突然コンピューターがシャットダウンしてしまう。あまりの唐突な出来事に呆気に取られる。あり得ることだとは知りつつも、こうも見事に突然やってくると、信じられない思いがする。さっきまで書いていた原稿は何処へいったのか。もちろんそんなもの消えてなくなっているわけなのだけれども。もう一度同じものを書く気は到底起こらない。私は諦めて、別の題材に取り組むことにする。さっきのものはもはや後回し。
気分転換に煙草を吸いながら再びベランダへ。ぬるんできた空にぽっかり白く薄い月の影が浮かんでいる。西に傾き始めたその姿は、指で触れたらぱりんと割れてしまいそうなほどに薄く。私はしばしそれを見つめる。そうして振り返れば薔薇たち。私はまずミミエデンに病葉は見られないことを確かめる。大丈夫、今日もない。ほっとしながら土の状態を見、軽く水を遣ることにする。一つのプランターに如雨露半分の水を。ホワイトクリスマスの蕾はもうずいぶん太ってきた。これは天気によってはクリスマス前に咲いてしまうかもしれない。そう思いながら隣のベビーロマンティカを見やれば、二つ、三つの蕾。こちらはまだ小さめ。育て始めてすぐ虫がついた。三匹もの青虫が葉を食べていたっけ。虫に食われた葉はまだそのまま残っている。虫の姿はもちろんもうないけれど。
パスカリからも新芽が次々出始めている。この冬蕾がつくことはないだろうけれども、それでも赤い新芽を見ることができることはとても嬉しい。一方、赤紫色の薔薇が咲く樹の芽がちょっとあやしい。よくよく見れば病葉が。私は急いで摘んでやる。他はまぁだいたい大丈夫だろう。
玄関に回り、アメリカン・ブルーとラヴェンダーの鉢にも水を。こちらは病気にはなる気配が無い。やはりそれだけ強いんだろう。枝の先を指でぎゅっと挟み、揺らしてみる。根は大丈夫か。ぐっとした強い反動が私の指に返ってくる。これなら大丈夫。あの時全部、虫の幼虫は排除できたらしい。私は安堵する。そして挿し木したラヴェンダーの根元から、小さな新芽が出ている。かわいい新芽。まるで赤子がぱっと手を開いた時のような。そんな様。
そして今、日がぱっくりと昇り始める。東の空から一筋伸びてくる陽光。私の足元を照らしている。

娘を送り出してから一つ用事を済ませた後、街へ出る。私は正直、その街はできるだけ避けていたい。かつての知り合いが多くいるからだ。まだ会いたくない。私の中ではそう思っている。懐かしいとは、まだ言えない。
人目の少ない、地下の席がある店で人を待つ。土曜日ということもあるんだろうか、前回来たときより格段に人が少ない。私はほっとする。私は、買ってきた小さな花篭をもう一度眺める。気に入ってもらえるだろうか。その友人に赤子が生まれたのはもうだいぶ前。でも直接お祝いがその時できなかった。だから今日改めて、花篭を持ってきてみた。どうだろう。受け取ってくれるだろうか。
そうこうしているうちに友人がやって来る。仕事の合間ということもあり、スーツ姿で。話が私の以前居たHという編集部に及ぶ。どうして辞めたの。改めてそう聞かれ、私は咄嗟にごまかしていた。でも。
その編集部の上司に強姦されたんです。それが元でPTSDになりました、それで編集部を辞めざるをえなくなりました、とは、さすがに言えなかった。私は笑いながら、別のことを喋っていた。
確かにそういう気持ちは気持ちで、在った。全くなかったわけじゃない。でも。
もし私が事件にも遭わず、元気でいたなら、もっと編集部にいたかった。それが、私の本当の、正直な気持ちだった。
思い出すととりとめもなくなる。だからできるだけ人と会っている最中は思い出さないようにしている。が、私の脳裏では、あの時の映像がからからと回り続けていた。
友人は明るく、いろいろな話をしてくれる。私はそれに耳を傾ける。先日わざわざ仕事の合間を縫って国立まで足を運んでくれた友人。もうそれだけでありがたい。しかも書簡集を素敵な空間と気に入ってくれたことが、これまた嬉しい。あの場所はまるで隠れ家のようで。秘密の小部屋のようで。遠い場所だけれども、行けば、長い時間を過ごしたくなる、そういう場所だから。
私が手元に持っていた本の著者を、友人もこれまでにさんざん読み込んでおり。最後その話になる。友人の言葉をひとつひとつ追いながら、私は、私は気づけるんだろうか、とそのことを思う。自分自身を理解することが、受け容れることがまずできるんだろうか、と。自己一致。そのことが、頭にずっとひっかかっている。
友人と別れ、できるだけ足早にその街を離れる。やはり緊張していたんだろう。冷たい手なのに汗をかいている。その手を握り締めながら私は振り返る。いつかまた、ここを笑って歩くことができるんだろうか。そういう日ができるなら、早く来て欲しい。そう、祈る。

自分の街に戻り、娘に頼まれた買い物をしながら歩く。だんだんと暗く重く、こちらに迫ってくるように集まってくる雲。雨、降り出すな、と覚悟する。傘はもちろん持ってなんかいない。でもまぁ、それもいい。
娘が私に手渡したメモを握りながら、売り場を回る。途中、紙を買って帰りたい衝動に駆られるが、雨が降り出したらとんでもないことになると諦める。近いうちに買いに来なければ。ものはついでと、薔薇の肥料も買い込む。
店を出た途端、ぽつり、と来た。私は空を見上げる。頬にまたぽつり。あぁ降り出した。雲はもう、すぐこちらまで迫る形相。私はその下を歩き出す。自転車ならたった五分、十分の距離だけれども、歩けば二十分ほどはかかる。高架下をくぐり、横断歩道を何度か渡り。銭湯の裏道を選んで歩く。その頃にはもう、ぽつぽつぽつと雨は降っている。私のコートを雨粒が濡らしてゆく。
誰ともすれ違うことなく。私は裏道を抜け。最後の坂道をのぼる。これをのぼればもう家はすぐ目の前だ。プロテスタント教会の脇を抜け、もう閉店した鰹節店のところで曲がり。学校の校庭では、まだ野球チームが練習を続けている。それを何となく見やりながら、私は家に辿り着く。

いつものようにハーブティを入れようとして、止める。温かくて甘いミルクティが飲みたい。そんな気分だ。私はお湯を沸かし、用意する。適当な砂糖がないから、粉砂糖を一匙入れる。濃い目に入れたミルクティ。なんだかほっとする。私がお酒が好きならここで、砂糖やミルクではなくブランデーなど垂らしてみるのもいいんだろうけれども。
娘がいないせいか、食べる気がしない。そして、さっき買い物をしてきた袋を改めて覗いて愕然とする。間違えた。明太子を買ってくるつもりが、生たらこを買って来てしまった。なんというどじさ。私は舌打ちし、腕を組む。さて、この生たらこ、どうしよう。冷凍おにぎり用のご飯を炊きながら、私はなおも考える。考えて、塩漬けにしてしまうことにする。うまくいくか知らない。やったことなんかない。ないけど、それしか術はないだろう。とにかくやるだけやってみる。娘よ、ごめん。おまえの好きな明太子、またしばらく買ってくるには時間がかかりそうだ。赦せよ、娘。

夜、娘に電話をかけると、フィギュアスケートを見ている最中だという。私も早速テレビをつける。日本人選手が、ちょうどジャンプで手をついてしまった。あー!と私が叫べば、娘もあーーっ!と叫ぶ。娘がいけいけー!と言えば私もそうだ、いけーーー!と叫ぶ。結局、テレビが終わるまで娘との電話は繋がっている。
ねぇ明日何時頃迎えに来る? 早めに行けるけどそっちの予定は? うーん。じいじ次第。ははは。じゃぁまた連絡するよ。分かった、じゃぁまたね! はい、またね!

いつの間にか東の空は青空になり。西を振り向けばまだ、触れたら割れてしまいそうな薄い月がぽっかり浮かんでいる。私はそんな月が結構好きだ。もちろん夜煌々と輝く月も好きだけれど、何だろう、月に対して私が抱くイメージは、この、朝の薄い月により近い。自転車で走り出しながら、だから私は何度も後ろを振り返る。白ささえもが青空に溶けてしまいそうに脆く。でも、間違いなく月はあそこに在り。
雨に濡れた、散り落ちた銀杏はくたっとアスファルトに張りついている。もう樹に葉は殆ど残っていない。銀杏の季節もそう、もう終わりなんだ。次はモミジフウ。私にとっては、モミジフウの季節。あの黒褐色の、形が変わることはないあの実に出会える季節。
さぁ、今日はいい晴れ間だ。何処まで走ろう。まずは港まで。それから先は。またその時に考えれば、いい。
耳元ではジョシュ・グローバンの、To where you areが流れ始める。海風が私の、結わいた髪をくわんと揺らす。私は再び走り出す。きっとあの向こうには今、濃紺の海が、待っているはず。そう信じて。


2009年12月05日(土) 
テーブルの上、ほのかに橙色に染まったマリリン・モンローの花一輪。今まさにちょうどいい具合に花開いている。鼻を近づけ香りを嗅ぐ。少し強めの甘い匂い。何故だろう、薔薇の香水の匂いは一切駄目なのに、生の薔薇の香りは好きだ。それが多少強い香りであっても。見事なその咲きぶりに見惚れ、思いつく。今日ばばの家に行く娘に持たせよう。きっとばばが喜ぶに違いない。
昨日の夢はまるで劇場のような夢だった。風と共に去りぬをもっと悲惨にしたような、そんな映像。今もありありと思い出せる。ストーリーの半ばで私は激しく泣いた。眠りながら泣いた。私は観客の一人で、そのストーリーに参加しているわけではない。わけではないけれども、涙が出た。辛かった。哀しいとか切ないのとも違う、辛かったのだ。それ以上その映像を見たくない、でも見ていたい、そんな心持ちだった。結局夢は途切れることなく続き。私は最後まで見通した。まだその余韻が残っている。
友人からもらった中国茶は、あと一杯分の茶葉を残している。なかなか飲めない。最後の一杯はどうしてもいつも残る。覚えておきたい、いつかどうしてもという時に飲みたい、そう思うと、手が出せない。今朝も結局何度も迷いながら、プアール茶を入れる。
朝の仕事に取り掛かりながら、今日は友人の誕生日であることを思う。三日も一友人の誕生日だった。年上の、私がまだ学生の頃アルバイトしていた画廊で知り合った友人。彼女が結婚してからなかなか会うタイミングがなく今日に至る。今日誕生日を迎える友人にはメッセージを送った。彼女は今日という一日を、どんなふうに過ごすのだろう。素敵な時間だといい。

寝る前、あまりに私に絡み付いてくる娘を何とか放そうと、鼻くそつけちゃうぞ、と脅かす。それが高じて鼻くそ付け合いっこに発展。もうどうにでもなれという具合に布団の中暴れまくる二人。図体もでかい二人が取っ組み合いをすれば、布団なんてあっという間にぐちゃぐちゃになる。それでも止まらない。きゃー、いやー、やだー、やめてー、やめないよー。まさに何でもありといった具合。全く、夜もいい具合に更けてゆく頃に、二人して何をしてるんだか、と思う。でも、娘とこんなふうに取っ組み合いができるのは、この時間のみ。しばし付き合う。鼻くそはまぁ置いといて。
騒ぎに騒いで、気が済んだのか、娘はすとんと寝入る。私はなかなか寝入れず、冷たい足を娘の太腿につけてみたりする。それでもあたたまらない。そりゃそうだ、ぐしゃぐしゃになった布団のあっちこっちの隙間から風が入ってくるのだから。でも娘の身体はこれでもかというほど熱い。だから彼女はいつも、下着だけで寝入る。今日も同じ。

学校の日。実践授業だった。これから数回実践授業が続く。できるならどの役も回ってきませんようにと祈りながら教室に向かう。が、じゃんけんで決めた役割は、カウンセラー役で。しかも講師の直後にやらなければならず。
全身汗びっしょりになった。傾聴というのはこんなにも気持ちを張るものかと改めて思い知るほど、それはしんどかった。友人の話に耳を傾けるのとは訳が違う。緊張しているから口も思うように回らない。たった十分という時間がこれほど長いとは思わなかった。
そうして三組、それぞれにミニカウンセリングを終える。
確かに疲れた。これでもかというほど疲れた。しかし。やってみて、これまで自分が勉強してきたことがどういうことなのかを改めて知る。自分に何が欠けているかがありありと分かる。来談者中心療法というのがどういうものなのかがよく分かる。疲れたけれどもそれは、爽快な疲労で。
次回の実践授業は、今なら結構、楽しみだったりする。

帰りがけ、何となくクラスメイトとお茶をすることになる。すると彼女は、お茶できることがたまらなく嬉しいと言う。理由を訊ねると、初回の、他己紹介の折私は彼女と組んだのだが、その時私が、彼女を、芯の在る方と紹介したこと、それが、彼女はとてもとても嬉しくて、いつか一緒に話がしたいと思っていたのだと言う。私は吃驚して、しばらく何も言えずにいる。
今日の授業のこと、今日の授業を担当した講師のこと、自分がこの勉強を始めようと思ったきっかけ、などを、彼女が訥々と話してくれる。私はそれに耳を傾ける。そういえばあなたはノートを二冊作ってるんですね、と言われ、そうだと応える。学生の頃から、勉強をし終えるまでにノートが何冊にも増えていくことを話す。彼女は相槌を打ちながら、私の話を聴いている。
かかわり行動、かかわり技法についても話す。また、授業においてのフィードバックの重要性についても話が及ぶ。気づけば三時間近く。私たちは一杯のお茶をちょこちょこと舐めながら、話し続けている。
川を渡りながら、また時間を見つけてお茶しましょうと約束を交わし手を振り合って別れる。川はきらきらと輝き。ゆったりと流れ。私たちを見守っているようだった。

家に帰り、本棚を漁る。今読める本は何だろう、と探す。ふと手を伸ばした、もう何度も繰り返し読んでいる本の、帯を見て、私は愕然とする。まず自分自身を理解することからはじまる、そう書いてある。今日授業でやったことそのままじゃぁないか。私はその本を早速手に取る。これを今日は読もう。そう決める。クリシュナムルティの「あなたは世界だ」。もう何度も読んだはずだけれども、もしかしたら今だからこそ、気づけることが、あるんじゃないだろうか。そんな気がする。

バスに乗り遅れた私と娘は、仕方なく空を見上げる。おお、なんて美しい雲だろう。私は思わず声を上げる。ほら、見てご覧。空全体にうろこ雲が広がってる。すごいねぇ。きれいだねぇ。娘の右手には、私が用意したマリリン・モンローが一輪、握られている。寒風に晒され、でも薔薇は、気持ちよさそうだ。
ねぇママ、日曜日は何時ぐらいにお迎え来れるの? 早いと思うよ、今週は。分かった。じじばばに、テストの結果、いっぱい褒めてもらいなね。うん。ご褒美貰ってくる!
休日のバスはゆったりと駅へと走る。私たちは揺られながら、おしくらまんじゅうをこっそりやっている。
ママ、メール送るから! 分かった、それじゃぁね! うん、明日ね! 私たちは手を振って別れる。直後送られてきた彼女のメールには。車内で撮ったらしいアイドルの写真が添えてあり。かっこいいよねぇ!たまんない!と、メッセージが添えてある。ど、どこがかっこいいんだ。私には理解できない。まさか娘から、こういうアイドルの写真が送られてくるとは想像していなかった。油断した。私は笑ってしまう。
だから返事をする。ママは、この人より寺尾聡の方が好きです。即座に返事が返ってくる。げー、おじん好み! …そうですよ、すみませんね、ママはおじさんが好きなのです。私は笑いながらそう呟いて、メールを閉じる。
車窓から見る空にはもううろこ雲はなく。空全体が薄い雲に覆われており。あの、朝の光は何処へ行ったのか。私はちょっとがっかりする。でも。
今日私の身体にはエネルギーが漲っている。多少のことは越えられるだろう。そんな気がする。だから大丈夫。今日もきっと、いい日だ。

今空を渡る鳥が。二羽。交差するように飛んでゆく。


2009年12月04日(金) 
寝苦しくて目が覚める。午前三時。見ると娘の足が私の腹の上にあった。どうりで寝苦しいわけだ。私は娘の足を避ける。しかし娘はもう一方の足をどんと私にぶつけてくる。それも仕方なくどける。すると今度は頭突き。どうしたんだ今日は一体。そう思いながら、私は起き上がる。もう眠るのは諦めた。いっそのことだから起きて本を読んでしまおう。そう思い、机の灯りを点ける。外はまだまだ暗い。
虐待。タイトルどおり、書き手の幼い頃から受けてきた虐待の歴史が書かれている。ただ書かれた手記と違うのは、彼女が心理学に目覚め、それを通して自分を省みている点だ。要所要所に、これが心理学からいうとどういうことだったかということが説かれている。私は、もう何度か読んだ本の、その説明の箇所だけを選んでノートに書き出す。あっという間にノートは埋まってゆき。私の手は痺れるほどに強張る。
一息いれようと、お湯を沸かす。中国茶とハーブティとどちらにしようと一瞬迷ったが、気持ちが爛れているときはハーブティの方が私には合うと思いそれを選ぶ。先日ブレンドしたレモングラスとペパーミント。少し濃い目に入れる。カップから湯気が立ち昇る。それだけでもう、ほっとする。
午前四時半。顔を洗い化粧水をはたく。寝不足が顔に出ないよう、少し多めに叩き込む。そして窓を開け、髪を梳く。今日は雨上がりのせいなんだろうか、なんだか少しあたたかい。薄い寝巻を捲り上げて手を伸ばす。覚悟していたようには鳥肌が立たない。それほどあたたかいということなんだろう。私はそうして薔薇たちを見やる。嬉しいことに、今日はミミエデンに病葉が見当たらない。私はしゃがみこんで、もう一度凝視する。やっぱり見当たらない。大丈夫。あれだけ昨日雨が降っていたのに。私は心底ほっとする。ホワイトクリスマスやベビーロマンティカの蕾も元気だ。ちょうどクリスマスの辺りには、咲いてくれるんじゃないだろうか。そんな気がする。

雨の隙間、撮ってきたフィルムを取り出す。さっさと現像してしまおう、そう思い立ち、風呂場に暗幕を垂らす。東向きの小さな窓を丹念に閉じ込め、そうしてできた暗闇の中、私は作業する。
フィルムが乾くまでの間と思って始めた部屋の片づけ。しかし。娘の枕元を片付け始めて私は激怒する。私の大切な本が、ぬいぐるみの下、隠れるようにして散乱している。ページの折れも何もあったもんじゃない。何なんだこれは。私は一冊一冊それ以上壊れないように拾い上げる。拾い上げ、本棚にしまい。それを繰り返す。しかし。一冊足りない。どこをひっくり返しても見当たらない。私の怒りはさらに膨れ上がる。結局最後まで、一冊が見当たらない。
私は何とか怒りを収めようと、手持ちのフィルムを引っ張り出して次々焼いてみる。その作業をすれば少しは収まるかと思ったが、無駄だった。怒りは一向に収まらない。
私はどすんと椅子に腰を下ろし考えた。どうしよう。このまま怒りを娘にぶつけることになったらとんでもないことになる。そのくらい私の怒りは大きい。じゃぁどういう手立てがあるか。
手紙を書くことにした。一文字一文字、ゆっくり、言葉を噛み締めながら書く。どういうことがあったか。その結果私はどう思っているか。それを一枚の紙にしたためる。そして、娘の机の上に置く。
置き終えた途端、疲れがどっと私を襲う。もうこれ以上私にはできない。観念して、紅茶を入れる。ピーチジンジャーティ。甘いものは神経を和らげるという話を思い出し、せめてと私は蜂蜜を入れてみる。
元気よくいつものように帰宅する娘。さて、いつ机の上の手紙に気づくか、と私は黙って待っている。しばらくして。娘がじっとこちらを見ているのに気づく。何。これ。読んだの? うん。じゃぁ探してちょうだい。うん。
しかし。何処を探してもやっぱり見当たらない。そりゃそうだ、娘がひっくりかえす場所は殆ど私がすでに探している。部屋から持ち出したことはないと言う娘。それなら必ず部屋の中にあるのだから探しなさいと言う私。一時間経過。
結局。最後まで見つからなかった。一体この狭い部屋の何処に本は行ってしまったというのか。探すという作業を打ち切らせ、勉強の続きをやるように娘に伝えてから、私は本屋に電話をかけてみる。目的の本のタイトルを告げると、品切れ、ついでに重版予定はない、とのこと。それならと手持ちの古本屋リストから、めぼしい古本屋に次から次に電話をしてみる。そこでもやはりないと言われる。
もう電話をすることにも探すことにも疲れ、私は、写真の整理を始める。娘は後ろで黙って勉強をしている。しかし。娘からまだごめんなさいの一言を私は聞いていない。だから私は黙っている。黙って、ひたすら娘から言い出すのを待つ。
しばらくして。娘が私の隣に立ち。ごめんなさい。と言った。もういいよ。私は返事をする。ごめんなさい。ほんとにそうだよ、ママは本をなくされたりするのはとっても嫌いなの。前から言ってるよね? うん。ごめんなさい。わかった、もういい。
それまで我慢していたのだろう、娘がわーんと泣き出す。泣いて私に抱きついてくる。私はそれを、彼女がするがままにさせておく。
泣き止んだ彼女に尋ねる。さぁ、勉強何処まで終わったの。はい、これ。じゃぁ丸つけるから。うん。

ひっぱりうどんは父が好きなメニューだった。寒い時はこれに限ると、よく食べていた。至極簡単なものだ。太目のうどんをやわらかめに茹で、それを味を濃い目につけた納豆と葱に絡めて食べる。ただそれだけ。最後の残った納豆にはお湯を入れ、全部きれいに平らげる。
父が背中を丸め、椀を啜る様を思い出しながら、私はひっぱりうどんの用意をする。さすがにそれだけじゃ寂しいと思い、娘の好きな若布と卵のスープを添えて。うどんは極太、娘の腹具合を考えて四人分用意。納豆は粘り気が強くなるよう少し酢を入れてしつこくかき回す。
もうさっきのことは忘れたのか、わーいわーと喜びながらうどんに手を出す娘。娘は赤ん坊の頃からうどんが好きだった。うどんをてろんてろんになるほど茹で、半分潰してやると、生えかけの小さな歯でくちゃくちゃと噛みながらよく食べた。そういえば、食事で困ったことは私にはない。この食欲旺盛な娘のおかげだ。改めて娘の様子を私は見やる。気づいた時には、鍋にはもう殆どうどんが残っていない具合。私は慌てて自分の分をよそって食べる。
父が仕事の前線から退いて、母の為に料理するようになって。ひっぱりうどんはそのメニューに入っていないようだ。多分母がそういった料理をあまり好まないからかもしれない。いや、それ以上に、健康を気にし始めた父にとって、それだけの料理は料理とはいえなくなったのだろう。そういえば、ひっぱりうどんはないけれども、納豆スパゲティなるものを父は海外赴任の間に覚えてきた。納豆と鰹節と卵の黄身一個。もし冷蔵庫にあればちりめんじゃこも。そして全体の味付けは、お茶漬けの素で。というような具合。以前実家で食べさせられたことがあった。私は決しておいしいとは思わなかったが、父はおいしいおいしいと言って食べていた。海外にいる間、この味は父の、大切な味だったらしい。考えてみればどれもこれも日本を思い出す素材だ。毎月一度、母がその場所に飛んでいたとはいえ、海の向こうで五年十年、一人で戦い続けた父。その間に病を患い、それでもやり遂げるまではと働き続けた父。やっぱり父には、私は生涯かないそうにない。

写真をプリントしながら、そういえば、最近こういう画を撮っていなかったなと思い至る。人を撮ることができるようになってから今日まで、人の気配が欲しくて、どうしても画の中に人の気配が欲しくて、気づいたら人ばかりを撮っていた。
もう何十年も使い続けられた浮きやロープが散乱する港町。掘っ立て小屋のような家屋。新聞で目張りされた割れた窓。踏みしだかれた貝殻の山。私がこの町を訪れた時、人影は何処にも無かった。何処にも無く、そうして私は海に辿り着いた。そこに。
大勢の人がいた。日没を待っている人たちが。みな、砂浜のあちこちに座り、待っていた。こんなにもここに人がいたのかと私は唖然としながら、動けなくて、私もそこに立った。そうして向かえた日没。
黄金色の道がまっすぐにこちらに向かって伸びていた。海と空とが繋がる場所に太陽が堕ちて来たその時、黄金色の道は燃え上がった。一瞬の、そう一瞬の出来事だった。
今私の手元に、その一瞬の画は、ない。でも私の脳裏に、はっきりと、残っている。

じゃぁね、それじゃぁね。娘がココアを私の掌に乗せる。私はむぎゅむぎゅと軽く手を動かしココアを抱いてから娘にココアを返す。じゃ、またあとでね。うん。
私は川を渡る。東から伸びる陽光にきらめく川面。さぁ、また今日が始まる。私はそうして歩き出す。


2009年12月03日(木) 
からからという軽い乾いた音で目が覚める。ココアの回し車の音だ。これががらがらという重い音だったらミルク。それぞれに回し車の音さえも違う。今朝は何故かふたりとも起きており。ミルクはがしっと籠の入り口に齧りついて、人が来るのを待っている。娘が起きるまで待っててね、と私は声をかけ、窓を開ける。窓際の金魚たちも私を見つけて水面に浮かんできた。餌はまだだよ、と声をかける。
窓の外は雨。しとしと、しとしとと降っている。昨日のあの美しい月は何処へいったのか。あの空と月からは、今朝の雨など想像できなかった。澄んだ満月。それは月の裏側まで透けて見えるかと思うほどに。
晴れていたら。カメラを持って出ようと思っていた。雨のことを考えていなかった。どうしよう。私は髪を梳かしながら迷う。このまま雨は降り続くのだろうか。それとも止むのだろうか。空を見上げれば、一面どんよりと雲に覆われている。出掛けるまでに止んでいたら。カメラを持って出よう。私はそう決める。
ミミエデンの病葉はまだなくならない。そこ、ここ、あそこ、私はひとつずつ摘んでゆく。テーブルの上、一輪挿しに飾ったマリリン・モンローは、まだ固い色合い。それでも少し花は大きく広がったか。これがぱあっと広がった時。それが見たい。どんな様を見せてくれるだろう。想像するだけでどきどきする。

バスに乗り、電車を乗り換え、延々と。そうしてようやく国立に辿り着く。書簡集が開くまでの僅かな時間、私は駅前の喫茶店でカフェオレを飲む。肩甲骨の辺りから、頭と首の繋がるところまで、ごりごりと凝っている。私はそこに手を当てながら、薬を飲むかどうか考える。頭が重い、身体がしんどい。それはここ数日そうだった。今は鈍い痛みがどくどくと脈打っている。結局私は薬を飲むことにする。二錠。痛み止め。
痛み止めを飲む時、私は母を思い出す。母も偏頭痛持ちだった。ふと見ると、ベッドに横になり、うんうんと唸っていた。痛み止めを飲んだのかと聞くと、飲んだと返事が返ってくる。でも痛み止めが効いているふうではなく、母はいつもしんどそうだった。母の枕元にはだからいつも、陶製の枕があった。それは頭を乗せるところがすべていぼいぼになっている。母はたいていその枕に頭を乗せて、乗せるというよりそのいぼいぼにこめかみの辺りをいつもぎゅっと押し付けていた。この枕があるだけでずいぶん違う、母はそう言っていた。思春期になって私にも頭痛がたびたびやってくるようになった時、母のその枕をこっそり借りた。ひんやり冷たくて、でもごりごりとするその突起が痛い部分にちょうど当たって、頭痛が半減した。その枕に頭を押し付けながら、私はあまりの痛みにしょっちゅう涙していた記憶がある。陶製の枕では、涙は染み込まない。だから涙はシーツにまでとぽぽと落ちてゆき、そこに水溜りを作った。
一人暮らしを始める、その引越しの時、私は、母のこの枕をこっそり持って出た。これから一人になる、体調が悪くても何でも一人でやっていかなくちゃならない、そう思った時、この枕はどうしても持っていきたかった。でも母に言ったって譲ってもらえそうにはなく。だから私は、母の目を盗んでこっそり持って出た。たった一人で為した引越しだった。
枕のことを告白できたのはだから、それから十年以上経ってからだった。実は、と切り出すと、何を今更と、母は笑った。あれがなくて本当に困ったんだから、と。困っただろうと思う。その分私は枕に助けられた。何処を探してももう売っている気配は無い、陶製の、いぼいぼの枕。

書簡集でしばらく時間を過ごしていると、一人の女のお客さんが入ってきた。書簡集の奥さんが話してくれる、西荻窪でお店をやってらっしゃるのよ、と。その方は私の名前を覚えていてくださり。こういったテーマで写真を撮られる方がいるとは思ってもみなかったの、みなさんの手記、読ませていただいたわ、胸がいっぱいになって、でも、あぁこういう現実があるんだなぁってつくづく思い知らされたわ。その方は一気にそう話してくださった。私は写真ってまだよく分からないの。そもそもただ美しいだけの写真は、見流してしまうし。でも、何かが引っかかったの。そうしたらこの手記があって。読んで改めて見ていたら、本当に胸がいっぱいになったの。
私より二十も年上のその方が、そう話してくださる。私は深く頭を下げた。この言葉を撮影に参加してくれたみんなに伝えたい、そう思った。
その次にいらした年配のお客様も、私のことを覚えていてくださり。ありがたいやら恥ずかしいやら。それもこれもみんな、これらの写真を撮らせてくれた、みんなのおかげだ。いくら感謝しても足りない。
こういった人たちとの出会いは、私にエネルギーを与えてくれる。私をそれまで覆っていた倦怠感など、一気に吹っ飛んでしまう。あぁまた頑張ろう、そう思える。

ママ、ソーラーカーのハンドルをね、明日作るの。そうなの? それができあがって車に取り付けたらね、最初に校長先生が乗ることになってるの。へぇ、そうなんだ。校長先生、メタボなのに車に乗って大丈夫なのかなぁ。ははは、壊れちゃったりして。壊れたら最悪だよぉ。まぁ大丈夫じゃないの? んー、校長先生がお金出してくれたから、校長先生が一番最初に乗るって決まってるんだよね。じゃぁ頑張って作らないとね。うん。
ソーラーカーなんて、私は作ったことがない。一体どれくらい大きな車なんだろう。本当に走るんだろうか? 空を見上げながら思う。いい天気がしっかり続いてくれないと、あの校長先生を乗せて走るなんて、やっぱりちょっと無理かも、なんて思って笑ってしまう。

国立から横浜に帰ってくると、ちょうど娘からメールが入る。今から電車に乗るよ。メールにはそう書いてある。私は急いで電話する。今どこ? 何番線? 6番線。私は走る。間に合うかどうか。ママ、もう電車出ちゃうよ。どの辺りに乗ってるの? エレベーターのところ。エレベーター、いっぱいあるよ。今ママ、真ん中辺りまで来てるよ。顔出して。何処? 顔出してるよぉ。あぁもう出ちゃう。間に合わなかったかぁ…。
すれ違いで、電車は扉を閉め走り出してしまう。私は息を切らしながら、ホームの真ん中に立っている。娘が電話越し、泣声を出す。会えなかったよぉ。うん。でもまたすぐ会えるし。しょうがないよ。ね。うん。ほら、泣かないの。うん。じゃぁ頑張るんだよ。うん。
昔は携帯電話なんてなかった。もしあったとしても、私の両親が子供にそれを持たせたかどうか。だから、こんなふうにメールのやりとりをするなどあり得なかった。それが今、私と娘はどうだろう。忙しい娘とばたばた走り回る私との間を、メールは実によく繋いでくれる。そのおかげで、口には出さない娘の思いを、知ることができたりすることもある。メールも使いようなのだろうな、と、思う。
ホームを出てゆく電車を見送りながら、車内で泣きべそをかいている娘の顔を想像する。あの子は感情が激しいから。きっと本当に、下唇をつきだして、べそをかいているんだろう。でもママも一生懸命走って、それでもだめだったってことなんだから、諦めておくれ、娘よ。またすぐ会えるのだし。私は心の中でそう娘に語りかける。

僅かな雨の隙間を縫って、私は自転車で飛び出し、カメラを構える。今にも雨が再び降り出しそうな気配をひしひしと感じながら、これは帰り道はびしょぬれになるんだろうなと思いながら、私はシャッターを切る。娘には傘を持たせた。親の私がびしょぬれってどうなのかしらん、そんなことを思いつつ、それでも私はシャッターを切り続ける。
貨車の走る線路。埋立地のちょうど境目にそれは在り。私は踏み切りに立ち、しばらくそれを眺める。どう構えても、高層ビルが入ってしまう。でも入れたくない。なら線路だけを撮るしかない。私は余計なものを全て排除して、シャッターを切る。銀杏の木、池の水面、濡れた階段、寒さに凍えるポスト。あらゆるものが待っていてくれる街中。
そうして自転車を駐輪場に止める頃、再び雨が降り出す。あぁやっぱり。私は苦笑する。帰り道は濡れて帰るしか術は無い。大きなハンカチは鞄の中に入っているはず。それだけが救い。
友人から電話が入る。とあることについて知りたいという。私は了解し、また電話をくれるように頼む。遠距離電話ゆえ声は小さかったものの、ここしばらく聞けなかった、はきはきした彼女の声だった。私はほっとする。嬉しくなる。
雨だけど。自転車で出たのに雨降ってきちゃったけど。まぁいいこともあるサ。そう、きっと。私は空を見上げながら思う。
この雲の向こう側は、いつだって青い空が広がっている。


2009年12月02日(水) 
窓を思い切り開けて深呼吸する。冷気がぐうっと胸の中に入ってくる。そして息をゆっくり吐き出せば、白く白く、微風に揺れながら流れてゆく。
マリリン・モンローは三分の一ほど花開いた。あとは切花にして部屋の中で楽しむことにする。私は台所から鋏を持ってきて、長く伸びた枝をできるだけ短めに切ってやる。マリリン・モンローはその名前とは裏腹に、棘が大きく、また数が多い。枝を持つ時に位置に気をつけないと、その太い棘が指に刺さってしまう。一輪挿しに飾る時も、中程までの棘は全部とってやった。でないと細い花瓶に入らない。通常の色とは異なるこの花びら、何処まで楽しめるだろう。私はわくわくしながらその花瓶を窓辺に置く。
ミミエデンには今日もやはり病葉が。私は懲りずにまた摘む。摘んで摘んで、摘んで摘んで。これでおしまいかなと思ったところにまた一枚。それもあわせて摘む。今日の天気は多分いいだろう。その間に少しでも回復してくれることを祈るばかり。
パスカリなどの鉢はみな枝をつめてしまったから、心配なことは殆ど無い。水遣りを忘れないようにするだけ。
一通りベランダのことを片付けて、私は髪を梳く。寒いといえば寒いのだが、微風が心地よい。地平線の辺りに溜まっている雲も、流れが速く、ぐいぐいと動いてゆく。明るくなる頃にはきっとちりぢりになっていることだろう。大丈夫、今日は晴れる。

疲れが少し溜まってきているのかもしれない。頭痛や吐き気、眩暈にしばしば襲われる。娘が勉強するのと同時に私も勉強を始めたのだが、うまくいかない。頭がくらくらする。娘に頼んで、10分だけ横にならせてもらうことにする。
ママ、もう私の分、終わったよ。え?! ママ、疲れてるみたいだったから、一人でやった。そうなの? 起こしてくれればよかったのに。もう何分経った? うーん、10分はとうに過ぎてるなぁ。なんだよぉ。ははは。
私は急いで自分の勉強を始める。それを娘が見ている。ねぇママ、こっちのノートって、先生に提出するの? ううん、しないよ。じゃぁなんで書き直してるの? うん、書き直しながら、頭の中整理して、覚えてるの。書くと覚えるでしょう? ふーん。そうなんだ。
私は、先週のノートをひたすら作っていく。字が乱れすぎて読めない箇所があり、あぁここは、私が果てたときなんだな、と思う。二時間ぶっつづけの授業は、私にはまだ長くて、時折こうなる。今週行ったら先生にもう一度教えてもらわないと。私はメモにそう記す。忘れないように。
あっという間に時間は過ぎて、夕焼けももう何処かへ消え去り、闇色の空が広がっている。私はノートを閉じて慌てて夕飯を作り出す。今日はスパゲティにサラダ。簡単だが、仕方ない。娘の塾のある日は殆どとることのできない野菜をとにかくとりたい。そう思って作っていたら、サラダが山盛りになってしまう。まぁ仕方ない。二人で食べれば何とかなるだろう。スパゲティは、私が1としたら娘が2の量。ほら、ご飯できた、用意して! はいはーい。テーブルを拭いて箸を並べてドレッシングを用意して。さぁできた、いただきます。

その日あった友人は、なんだかとても疲れていた。いつも生き生きとした顔を見せてくれる人だからなおさら、そう思えたのかもしれない。生活リズムが大きくこの秋に変わって、そのリズムの中で足掻いているのかもしれない。私には何の手伝いもできない。そのことが歯がゆくて、やたらに私は喋ってしまう。あぁ本来ならあなたの話にこそ私は耳を傾けなくてはいけないのに、とそう思いながら。まったくもって、なってない。
また会おうと手を振って別れる。見上げた空は、からんとして少し寂しげだった。

母に電話をする。調子はどう? まぁまぁよ。うちのマリリン・モンローがね。マリリン・モンロー??? あ、薔薇のことよ。主語をちゃんと言いなさいよ。はいはい、薔薇の、マリリン・モンローって種類があるんだけど、その花がね、今までと全く異なる色の蕾をつけてるんだよ。あぁ、もしかして、接木して育てた? うん。もとの木の色が出てきちゃったのかしら? どうだろう。まだ分からないけれど。いつもならクリーム色の花びらなのに、ほんのりオレンジがかった色になってるんだよね、今。オレンジならいいじゃない、かわいくて。まぁそうだね。うどんこ病は相変わらずだよ。そっちは? うちは、うどんこ病は一段落ついたけれど、次に黒点病が出てきちゃったわよ。あー、しんどいねぇ。しつこいからねぇ、黒点病は。うちは大丈夫だよ、いつもうどんこ病だけ。羨ましいわ、まったく。
花の話が終わると、後はもう母からの小言がだーっと続く。離れているからこのくらいの小言は大丈夫。聞き流せる。私はうんうんと相槌をうちながらそれを聴いている。なかなか外に、思うように出ることのできない母だ、このくらいどうってことない、何もない方が心配だ。
それじゃ、また電話するわね、はいはい、それじゃぁね。
私は切った電話をしばらく眺めている。母との電話はあと何回あるんだろう。そんなことを考えてしまう。二月の検査結果がどうかいいものでありますよう。それを今はただ祈るばかり。

電車を乗り換えようとしたところで友人から電話が入る。久しぶりによく眠れたんだよ、と彼女が言うのを聴いて私は心底安心する。やっぱりちょっと疲れていたのかもしれない。そうだね。うんうん。今やることといったら煙草吸うくらいしかないけど、まぁゆっくり過ごすね。うんうん。またすぐ会えるよ。そうだね、うんうん。楽しみにしてるよ。
今日は書簡集に行く日。それにしても、道程が長い。混み合う電車を延々乗り継いで、ようやく国立に辿り着いた頃には、へとへとになっていた。とりあえず駅前の喫茶店に避難する。
目の前に広がる窓から見えるのは、ぐるりと回るバスターミナルと、それから右手に銀杏並木。この前見た時よりずっと色が輝いている。陽光はそちらから伸びてきており。だから銀杏の黄金色がいっそうきらきらと輝いて見える。
駅ターミナル。誰もが急ぎ足で過ぎてゆく。ひとところにとどまる人など誰もいない。誰もが行く先を持って、そこに一心に進んでゆく。私はそんな様子を、じっと見つめている。
そういえば、友人に言われた。あなたが頑張ってないなんて言うと、私なんかどうなっちゃうのかしらって思うよ、と。
言われて困った。本当に、大した事はやっていない。やれることを少しずつやっているだけの話。それでも周囲にはそう受け止められることが多い。あなたはいつも何かをやっている、頑張っている、と。いいもわるいも含めて。
でも、多分やっぱり、それは違う。私はまだまだ頑張れてない。まだまだ追いついていってない。やりたいこと、やらなくちゃいけないこと、そういったことがごちゃごちゃになってしまって、どこから取り掛かったらいいのかさえ分からなくなることが多々ある。ふと思った。私の身振り手振りが大きいから、大げさに受け止められてしまうのかしらん、と。それももしかしたらあるのかもしれない。本当に、みなが思うほど、私は頑張れてない人間なんだ。まだまだなんだ。自分でもどかしくなるほどに。そう叫び出しそうになって、私は慌てて口に手を当てる。言ったところで、何もならない。
早く、自分も納得できるくらい、何かをやっている自分になれたらいいなぁと思う。それにはまだまだ、時間がかかりそうだけれども。まぁ諦めなければきっといつか。そう信じて。
赤茶に染まった桜の葉が、ひらり、ひらりと、一枚ずつ風に揺れ落ちてゆく。
私も死ぬ時は、そんなふうに、ひらりふわり、落ちる枯葉のようであれたらいい。


2009年12月01日(火) 
マリリン・モンローの、これまでにないほど濃い色をしたその蕾がまっすぐに天を向いている。私は空を見上げる。今日は晴れる。そしてこれなら蕾は今日開くだろう。そんな予感がする。いつものクリーム色ではない、薄い橙色のその蕾。いつもよりひとまわりも大きいその蕾。どんなふうに開くのだろう。どきどきして仕方がない。
いつものようにミミエデンの病葉を摘む。でも今日は二枚きり。一段落ついたのだろうか。これでこのまま軽やかな天気が続いてくれれば。私は祈る。隣のベビーロマンティカの蕾やホワイトクリスマスの蕾がそれぞれ膨らんできていることを確かめ、そうして私は髪を梳く。空気が冷たい。本当に冷たい。全身凍ってしまいそうだ。
ミルクがいつものようにがしっと籠に齧りついている。彼女は昨日また娘の太腿で粗相をした。彼女が粗相をしたことを私に知られまいと娘はティッシュペーパーで必死に隠れて拭いていたが、そんなもの、一緒の部屋にいればすぐに気づくというもの。でも娘の努力も汲んでやらねばと、私は知らない振りをした。今朝はココアも起きている。なんだか忙しそうに回し車を回したり、小屋の辺りの木屑を持ち上げたりしている。
私は彼女らをちらちら見やりながらお湯を沸かす。一番に何を飲もう。やっぱりハーブティ。そう決めて、カップに茶葉を入れる。去年のクリスマス、友人が送ってくれたそのカップは、茶葉を入れる場所が予めあるカップで。だからとても便利。この時期重宝する一品。
朝一番に電話がかかってくる。早起きの友人から。これから数日の予定などをちょこちょこと話す。じゃぁいってきます。いってらっしゃい。そう言って電話は切れる。

いつもの場所で友人を待つ。友人は寒い寒いと言って現われる。傘を持ってこなかったのだけれど大丈夫かしら。あら、私は自転車で来ちゃったわよ。そう言い互いに笑い合う。数日後、誕生日を迎える友人。考えてみれば私たちは同い年だ。そう、ちょうど半年違いの同い年。来年はケーキを買って年齢の数だけ蝋燭を立ててあげるよと私は彼女をからかう。
少し疲れた顔をしている友人だった。疲れたというか緩んだというか。どちらでもあるのだろう。互いに母子家庭同士、でもその環境は全く異なる。その中で彼女がどんな荷物を背負っているのか、私は想像するしかできない。
ようやく愛情を解放することができるようになったと言う友人。最近はだから子供たちといることが楽しくて仕方がないと話す。まるで蜜月のようだとも。もうだいぶ大きい子供たちだ。巣立つまであと僅かな時間。大切に過ごしたいと彼女は話す。
私の娘はまだ九つ。それでも私は想像する。我が娘が巣立つ時を。彼女が巣立った後、私にはどのくらいの時間が残されるのだろう。その時間を私はどんなふうに過ごすのだろう。

救急外来がない医者にかかっている人は、こんな時一体どうしているんだろうと友人に問われて考える。私はいつも救急外来などない病院だった。それをどうやって越えてきたんだったか。考えてもうまく浮かばない。思い出せない。
ただ腕を切るしかなかった。薬を飲むしかなかった。ひとりばったりと倒れてやり過ごすしかなかった。同時に私には写真があった。もうどうにもならない時、私は写真を焼いた。これでもかというほど次々焼いて過ごした。気づけば夜は朝になり、夜明けの光が部屋に漏れており。私はほっとするのだった。そういうことの繰り返しだった。
写真があったから。私は越えてこれたのかもしれない。多分、きっと。
小さな小さなネガを震える指でセットする。震えながらピントを合わせ、あとは勢いだった。液の中に漬けた印画紙にほんのり浮かび上がってくる像は、もう何でもよかった。というより、それが何であるかはもはやその時の私には認識できず。ただ、焼いた。焼きまくった。その動作を繰り返した。息切れするほどに。
部屋には何十枚もの濡れた印画紙が垂れ下がっており。そこに朝陽が差し込むのだった。いつでも。長い夜はそうして終わりを告げ。新しい朝がやって来た。
血だらけの腕で為したこともあった。腕を切るしかなくて、でもこれ以上切りたくなくて、だから必死になって写真を焼いた。焼いて焼いて、焼いて焼いて、そうして神経が擦り切れ、千切れそうになる頃、朝が来た。
救急外来という避難場所は私にはなかった。代わりに、写真という避難場所があった。ただ、それだけだ。もしそれさえもなかったら。
それさえもなかったらなど、今、考えることは、できない。

朝のニュースで、つけ睫毛の話題が取り上げられている。それを見ながら娘が、気持ち悪いよぉと唸る。その様子を見ながら私が、もしあなたがこんなふうになったら、同じことやってあげるよ、と言ってみる。え? 同じこと? うん、ママもつけ睫毛たくさんつけるの。どう? 気持ち悪いからやめて。ははははは。とりあえず私の睫毛、ふさふさしてるから、これをカールするくらいで十分だよ。そういうふうに産んだの、ママだからね。わははははは。
それにしても。すごい。幾重にも重ねてつけるというつけ睫毛。あんなことを毎日毎朝繰り返している女子のエネルギーというのは、一体何処から出てくるんだろう。私には到底真似できない。決して真似しようとは思わないけれども、それでもそのエネルギーには頭が下がる。

アメリカン・ブルーとラヴェンダー、それぞれ挿したものを指で弾いてみる。ぴんっ。私の指は弾き返される。大丈夫、これなら根がまた食われているということはない。私は安心する。ゆっくりではあるけれども、少しずつではあるけれども、新芽を出して、育ってゆく枝葉。このままみんな元気に育ったら、半分を母に分ける約束になっている。どうか無事に育って欲しい。そしてこれらを手渡す頃も、母が元気であってほしい。

ママ、今度の週末ね、私、賞状貰えるんだよ。そうなの? うん、テストで頑張ったから。よかったじゃない。えへへ。だから御褒美ちょうだい! あ。くれないの? えぇっと、お金、今ないから、今度。えー。今度あなたが欲しいって言ってた本探して買ってあげるから。約束だよ。分かった、約束。
じゃぁね、じゃぁね、言い合って別れる。私は自転車に乗って、いつもと違う道を通ってみる。あえて公園の中を。池の側に立って驚く。紅葉だ。見事な紅葉。まるで脈打つ音が聞こえてきそうな紅色。私はしばしうっとりとそこに佇む。
桜の葉はもう大半が散り落ち、道端に山になっている。その上を鳩がかしゃかしゃという音を立てて歩く。私は鳩を驚かさないようにそっと自転車を動かす。
銀杏の黄金色は少しずつ少しずつ小さくなっており。海から伸びる陽光が雨上がりの黄金色をきらきらと照らす。もうこの樹たちの季節も終わりなんだ。じきに裸ん坊になって、あとは春を待つばかりになる。
自転車を走らせながら、数少なくなった空き地を見やる。今薄が揺れているけれど、多分来年には、この景色はなくなっているんだろう。この埋立地から、薄の姿は無くなるに違いない。次々に来る開発の波に呑まれ、薄はいなくなる。そう思ったら、私は自転車を止め、薄に手を伸ばしていた。柔らかいその穂。昔これで人形を作って遊んだ。今そういうことをする子供は、この町にいるんだろうか。
地平に漂っていた雲が少しずつ薄れ。すかんと抜けた空が広がり始める。大丈夫、これなら晴れる。彼女の上の空も、彼女の上の空も、きっと晴れてる。
私は再び自転車を走らせる。海へ向かって。真っ直ぐに。多分今日は濃紺の波を見ることができるだろう。そんな予感がする。

今鴎が、啼き声を上げながら空を渡る。


遠藤みちる HOMEMAIL

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