2006年01月27日(金) |
今年もこの日が巡ってきた。今、いつもの椅子に座り、窓から外を見やれば、空は白光に溢れかえり、街の屋根屋根にその光が零れ落ちている。そのおかげか、つい昨日まで残っていた屋根の雪が消えていった。もうそこに、雪の痕は何も残っていない。 ベランダのプランターで今、水仙が一番に蕾を開こうとしている。薄皮が剥け、そこからおずおずと顔を出す蕾たち。咲いてくれるのはあと何日後だろう。 何の偶然か、あの時も27日が金曜日だった。金曜日だったからあの事件は起きたのかもしれない。そして今年、再び金曜日に巡ってきた27日。訳もなく、心がざわつく。
去年一年は、考えてみるとさんざんだった。年明け早々高熱を出して寝込み、それが終わったと思ったら、心の不安定さが抜けずにふらふらし、気づけばリストカットをざくざくと始めていた。あまりに見事に、ざっくざっくと自分が切ってゆくので、私の中のもう一人の私が危険信号を出し、私はそれに従って、幼友達にSOSを出したのだった。実家の親に頭を下げ、娘を預かってもらい、私は自分と闘った。闘っても闘っても、何度も負けて、もういやだと全てを放り出したくなることもしばしばだった。そんな私が、結果的に、全てを放り出すことなく、今ここに在ることができるのは、ひとえに友人たちのおかげだ。ちょっと目を離すとざっくりと腕を切り刻み、傷は腕一面を覆い、床は血だらけ。そんな私に、根気強く友らがつきあってくれた。自分が為したことが分からず呆然としている私の横で、血だらけの床を拭いてくれた友。刃をかざして顔色一つ変えず次々切ってゆく私の手をぐいと握り、その手を離さず、私が自分を取り戻すまで必死につきあってくれた友。自分が為したことに呆然とし、思わず電話を掛ければこの部屋まで飛んできてくれて、病院につきあってくれた友。考えてみると、私はなんて友達に恵まれているのだろう。そして、親不孝ならぬ友達不孝を、私は一体どれほどしているんだろう。呆れて何も言う気がしない。彼らにはもう、ただただありがとうと、ごめんね、と、その言葉以外、何も思いつかない。しかも彼らは、そんなとんでもない状況を経ても、変わらずに今も私に接してくれるのだ。こんなありがたいことが他にあるだろうか。 話を元に戻そう。それが一段落ついたかと思ったら、今度は突然の激痛に襲われ病院へ。原因不明の炎症反応だとかで入院通院を繰り返す日々。 そして最後、私は、とんでもないことをしでかす。それは、直接的加害者との接見だった。一年の最後の月に、私はそれを為した。 そして、半月ほどした年末、私は毎晩のように救急車にお世話になった。果ては、外出先で右腕までをも切り刻んだ。年末から年明け、一月中旬までそうして毎日のように病院通いが続いた。気づけば私の両腕は、もう何処にも傷をつけようがないほど、傷で埋まっていた。両腕をやってしまったから、娘を風呂にいれ髪の毛を洗ってやることもうまくできず、生活のあちこちに支障が生じた。それでも私の中の何かはどくんどくんと脈打って、何処までも暴走しようとしていた。それを何とか抑え込むことができているのは、これはもう、娘と幼友達の存在以外にないだろう。彼らにもまた、感謝するばかりだ。
加害者と久方ぶりに会って、私は知った。加害者から謝罪の言葉を受けたなら、多少は自分は救われるかもしれないと甘い考えを持っていたが、それは間違いだったということを。 加害者が頭を下げ、謝罪を繰り返す。私はその姿をこの目の前でまざまざと見つめたけれども。私は何も救われなかった。そして知った。こんなことをしても、何の解決にもならないのだ、ということを。 それまでは、甘い考えを持っていたのだ。もし直接、加害者が頭を下げてくれたら、私は救われるかもしれない、少しでも楽になるかもしれない、と。しかし。 謝罪の言葉など、いくらだって言えるのだ。頭を下げることなど、人間誰だってできるのだ。必要と在らば土下座だってできる。 そんなことで、私は救われない。 十数年という年月を経た加害者は、それなりに年をとっていた。私の前で涙を見せるその人を、私はただ、眺めていた。まるで、音声なしの芝居を、淡々と眺めているような心持ちだった。 結局。私は自分自身でケリをつけるしかないのだなということを、思い知った日だった。PTSDとの闘いも、あの事件以来の日々にも、これらには、他人じゃぁない、自分自身でしかケリをつけることができないのだということを。
今日、穏やかに晴れ渡っている。あの日も確か、そんな日だった。翌日もまた、晴れていた。今年もきっと、明日も明後日も、晴れ渡るのだろう。 そんな空の下、私は生きている。今日も生き延びる。
今私が言えることは何だろう。正直、よく、分からない。リストカットの嵐と幻聴・幻覚の波にあっぷあっぷしてきたこの一年を振り返っても、何だかもう遠い昔のように感じられる。過ぎた日々よりも、私には、未来の方が手ごわい。今日一日を乗り越えることこそが、私には大きな仕事だ。
今、同じ被害の後遺症に苦しむ誰かがそこにいるなら。思い切りハグをして、ただ一言、こう言いたい。「共に生き延びよう」。
それから。リストカットもオーバードーズも過食嘔吐も、するなとは私には言えない。なぜかと言えば今だって私もその衝動と闘っているからだ。が。 唯一いえること。それは、元には戻らない、ということだ。特に、リストカット。 私の腕は今、目をつぶって触っても、その異様さがありありと分かるほどになっている。皮膚は夥しい傷跡に覆われ、それは皺のようになって私の腕を覆い、深く切りすぎた場所たちは皮膚が盛り上がり垂れ下がり、これがあの滑らかな腕だったのかとはもう信じることはできないほどだ。これを勲章などと呼ぶことはできない。無残な代償に過ぎない。 こんなに傷つけてしまってからではもう、戻れないのだ。だから、言いたい。切ってしまうそのことを責めるつもりも止めるつもりもない、そんな権利など私にはこれっぽっちもない。が、そうやって繰り返し切っていってしまったら、もうあなたの腕は元には戻らないのだよ、と。 だから。大事にしてあげて、と。それだけは、伝えたい。 自分を大事にできるのは、自分自身しかいないのだ。そのことをどうか、忘れないで。
そして。最後になってしまったが。 人は人によって傷つき、人は人によってこそ癒される、と。私はそう思う。 今年一年で、私は大切な友人を数人失った。私のばかげた行為に呆れ、涙し、離れていった友たち。もう交わることができないことは哀しいけれど、改めて言いたい。そばにいてくれてありがとう、と。 そして今、変わらず接してくれる数少ない友人たちに、私は声を大にして言いたい。ありがとう、と。これからもよろしく、と。
十一年目最後の今日。空は晴れ渡り、風は穏やかだ。私は、マイナス的衝動と闘いながら、これを書いている。ここを越えればまた、明日が今日になる。今日が昨日になる。そうやって私は何処までだって生き延びる。死が私を迎えに来るまで、私は絶対に、自ら命を断つことだけはしない。 生き延びる。生き残る。そのことに、意味がある。 どんな荷物を抱えていようと、生き延びて欲しい。生き残って欲しい。その過程でこそ味わえる幸せが、必ずあるのだから。たとえば今日あなたと出会えたそのこと。それもひとつの嬉しい出来事。 小さな嬉しいこと幸せなことが積み重なって、私は私の道を作っている。私が歩いてきた道をいつか振り返ったなら、一輪でも花が咲いていてくれるといいな、と思う。 |
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