見つめる日々

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2006年01月27日(金) 
 今年もこの日が巡ってきた。今、いつもの椅子に座り、窓から外を見やれば、空は白光に溢れかえり、街の屋根屋根にその光が零れ落ちている。そのおかげか、つい昨日まで残っていた屋根の雪が消えていった。もうそこに、雪の痕は何も残っていない。
 ベランダのプランターで今、水仙が一番に蕾を開こうとしている。薄皮が剥け、そこからおずおずと顔を出す蕾たち。咲いてくれるのはあと何日後だろう。
 何の偶然か、あの時も27日が金曜日だった。金曜日だったからあの事件は起きたのかもしれない。そして今年、再び金曜日に巡ってきた27日。訳もなく、心がざわつく。

 去年一年は、考えてみるとさんざんだった。年明け早々高熱を出して寝込み、それが終わったと思ったら、心の不安定さが抜けずにふらふらし、気づけばリストカットをざくざくと始めていた。あまりに見事に、ざっくざっくと自分が切ってゆくので、私の中のもう一人の私が危険信号を出し、私はそれに従って、幼友達にSOSを出したのだった。実家の親に頭を下げ、娘を預かってもらい、私は自分と闘った。闘っても闘っても、何度も負けて、もういやだと全てを放り出したくなることもしばしばだった。そんな私が、結果的に、全てを放り出すことなく、今ここに在ることができるのは、ひとえに友人たちのおかげだ。ちょっと目を離すとざっくりと腕を切り刻み、傷は腕一面を覆い、床は血だらけ。そんな私に、根気強く友らがつきあってくれた。自分が為したことが分からず呆然としている私の横で、血だらけの床を拭いてくれた友。刃をかざして顔色一つ変えず次々切ってゆく私の手をぐいと握り、その手を離さず、私が自分を取り戻すまで必死につきあってくれた友。自分が為したことに呆然とし、思わず電話を掛ければこの部屋まで飛んできてくれて、病院につきあってくれた友。考えてみると、私はなんて友達に恵まれているのだろう。そして、親不孝ならぬ友達不孝を、私は一体どれほどしているんだろう。呆れて何も言う気がしない。彼らにはもう、ただただありがとうと、ごめんね、と、その言葉以外、何も思いつかない。しかも彼らは、そんなとんでもない状況を経ても、変わらずに今も私に接してくれるのだ。こんなありがたいことが他にあるだろうか。
 話を元に戻そう。それが一段落ついたかと思ったら、今度は突然の激痛に襲われ病院へ。原因不明の炎症反応だとかで入院通院を繰り返す日々。
 そして最後、私は、とんでもないことをしでかす。それは、直接的加害者との接見だった。一年の最後の月に、私はそれを為した。
 そして、半月ほどした年末、私は毎晩のように救急車にお世話になった。果ては、外出先で右腕までをも切り刻んだ。年末から年明け、一月中旬までそうして毎日のように病院通いが続いた。気づけば私の両腕は、もう何処にも傷をつけようがないほど、傷で埋まっていた。両腕をやってしまったから、娘を風呂にいれ髪の毛を洗ってやることもうまくできず、生活のあちこちに支障が生じた。それでも私の中の何かはどくんどくんと脈打って、何処までも暴走しようとしていた。それを何とか抑え込むことができているのは、これはもう、娘と幼友達の存在以外にないだろう。彼らにもまた、感謝するばかりだ。

 加害者と久方ぶりに会って、私は知った。加害者から謝罪の言葉を受けたなら、多少は自分は救われるかもしれないと甘い考えを持っていたが、それは間違いだったということを。
 加害者が頭を下げ、謝罪を繰り返す。私はその姿をこの目の前でまざまざと見つめたけれども。私は何も救われなかった。そして知った。こんなことをしても、何の解決にもならないのだ、ということを。
 それまでは、甘い考えを持っていたのだ。もし直接、加害者が頭を下げてくれたら、私は救われるかもしれない、少しでも楽になるかもしれない、と。しかし。
 謝罪の言葉など、いくらだって言えるのだ。頭を下げることなど、人間誰だってできるのだ。必要と在らば土下座だってできる。
 そんなことで、私は救われない。
 十数年という年月を経た加害者は、それなりに年をとっていた。私の前で涙を見せるその人を、私はただ、眺めていた。まるで、音声なしの芝居を、淡々と眺めているような心持ちだった。
 結局。私は自分自身でケリをつけるしかないのだなということを、思い知った日だった。PTSDとの闘いも、あの事件以来の日々にも、これらには、他人じゃぁない、自分自身でしかケリをつけることができないのだということを。

 今日、穏やかに晴れ渡っている。あの日も確か、そんな日だった。翌日もまた、晴れていた。今年もきっと、明日も明後日も、晴れ渡るのだろう。
 そんな空の下、私は生きている。今日も生き延びる。

 今私が言えることは何だろう。正直、よく、分からない。リストカットの嵐と幻聴・幻覚の波にあっぷあっぷしてきたこの一年を振り返っても、何だかもう遠い昔のように感じられる。過ぎた日々よりも、私には、未来の方が手ごわい。今日一日を乗り越えることこそが、私には大きな仕事だ。

 今、同じ被害の後遺症に苦しむ誰かがそこにいるなら。思い切りハグをして、ただ一言、こう言いたい。「共に生き延びよう」。

 それから。リストカットもオーバードーズも過食嘔吐も、するなとは私には言えない。なぜかと言えば今だって私もその衝動と闘っているからだ。が。
 唯一いえること。それは、元には戻らない、ということだ。特に、リストカット。
 私の腕は今、目をつぶって触っても、その異様さがありありと分かるほどになっている。皮膚は夥しい傷跡に覆われ、それは皺のようになって私の腕を覆い、深く切りすぎた場所たちは皮膚が盛り上がり垂れ下がり、これがあの滑らかな腕だったのかとはもう信じることはできないほどだ。これを勲章などと呼ぶことはできない。無残な代償に過ぎない。
 こんなに傷つけてしまってからではもう、戻れないのだ。だから、言いたい。切ってしまうそのことを責めるつもりも止めるつもりもない、そんな権利など私にはこれっぽっちもない。が、そうやって繰り返し切っていってしまったら、もうあなたの腕は元には戻らないのだよ、と。
 だから。大事にしてあげて、と。それだけは、伝えたい。
 自分を大事にできるのは、自分自身しかいないのだ。そのことをどうか、忘れないで。

 そして。最後になってしまったが。
 人は人によって傷つき、人は人によってこそ癒される、と。私はそう思う。
 今年一年で、私は大切な友人を数人失った。私のばかげた行為に呆れ、涙し、離れていった友たち。もう交わることができないことは哀しいけれど、改めて言いたい。そばにいてくれてありがとう、と。
 そして今、変わらず接してくれる数少ない友人たちに、私は声を大にして言いたい。ありがとう、と。これからもよろしく、と。

 十一年目最後の今日。空は晴れ渡り、風は穏やかだ。私は、マイナス的衝動と闘いながら、これを書いている。ここを越えればまた、明日が今日になる。今日が昨日になる。そうやって私は何処までだって生き延びる。死が私を迎えに来るまで、私は絶対に、自ら命を断つことだけはしない。
 生き延びる。生き残る。そのことに、意味がある。
 どんな荷物を抱えていようと、生き延びて欲しい。生き残って欲しい。その過程でこそ味わえる幸せが、必ずあるのだから。たとえば今日あなたと出会えたそのこと。それもひとつの嬉しい出来事。
 小さな嬉しいこと幸せなことが積み重なって、私は私の道を作っている。私が歩いてきた道をいつか振り返ったなら、一輪でも花が咲いていてくれるといいな、と思う。


2006年01月26日(木) 
 吹きすさぶ寒風がふいに止んだ水曜日。空は一面晴れ渡り、穏やかな日和。水仙の球根がひとつ、蕾をつけた。もうだいぶ膨らんできている。薄い皮から透けて見える蕾の数を数えると、今のところ五つ。次はいつ新しい蕾の姿が現れるのだろう。今日かな、明日かな、と、このところ気になり続けて、毎日プランターを覗き込んでいる。
 遅めに植えたアネモネや花韮は、遅かったということを実に正直に体現する、そんな姿で土にはいつくばっている。一応芽を出してくれただけよかったか、と、自分を慰めてみるものの、やっぱりもったいなかったなと後悔しきり。その隣で、最初に植えられたラナンキュラスやアネモネが、ぐいぐい葉を伸ばし、でろんと葉を垂らし、思い思いの姿で日差しに揺れている。人間みたいだ、と思う。早生まれ、遅生まれ、同じ学年になっても生まれた月日が如術に現れる、幼い頃。うちの娘は、と部屋を振り返れば、彼女は二月生まれにも関わらず、かなりご立派な体格。これは例外なんだろうか、それともどっちが? 心の中でちょっと苦笑しながら、一心に友達に手紙を書く彼女の項を眺める。後れ毛がふわふわと揺れて、それはまるでたんぽぽの綿毛のようで。或いは、春一番に芽吹く柔らかい柔らかい最初の芽のようで。多分今年の春、彼女はますますその色合いを濃くしながら入学式を迎えるのだろう。先日買ったランドセルは、今はじぃじとばぁばの家にしまってある。その日が来たら、ということで、大事にしまわれたそのランドセルのことを、彼女はしばらく自慢し続けていた。背中にぴったりくっついてね、ぴょんぴょんはねてもずれないんだから、気持ちいいんだよ。実際に跳ねながら私にそう報告する彼女のほっぺたが、思わず手を伸ばしたくなるほどぷっくらもちもちしていたことを思い出す。そうやってあっという間に親の手を離れていこうとするのだな、子供というものは、と、ふと寂しくなって、思い切り彼女の頭をぐりぐり撫でたのだった。もしかしたら、私にも親との間でこんなひと時があったのだろうか。私には全く記憶はないけれども。見えない昔、思い出せない昔の時間に、ふと、思いを馳せる。
 久しぶりにあの公園のお池に行ってみると、すっかり池は凍っていた。そばに落ちていた枝でかんかんと氷を叩いてみる。結構力を込めて叩いたり突いたりしてみるのに割れない。そんなに厚い氷なのかしら、と、ちょっと地面に耳をくっつけて様子を見る。そんなに厚そうには見えないのだけれども。私はもうしばらく、かん、かん、と飽きずに氷を叩いて過ごす。私の鳴らす氷の音と、烏や雀の囀声とが、絡み合って空に高く飛んでゆく。
 痛くて痛くて、自分の唾や水の一滴だって飲むことが苦しくなった自分の喉をさすりながら、内科へ、そして耳鼻咽喉科へ。そこで、吃驚仰天する。
 耳鼻咽喉科で撮った自分のレントゲン写真。ちょっと中心がずれたような頭蓋骨の、先生が言うところの鼻の器と思われる場所全てが、薄白く、埋まっているのだ。正常な場合の頭蓋骨のレントゲン写真と私のものとが並ぶとそれは一目瞭然で、笑ってしまうほど。「これじゃぁ呼吸はとても楽にはできない、もはや労働になってますよ」、院長先生が私の顔をまじまじと見つめる。よくここまで放置しましたねという味が含まれたような視線を受けながら、私は、はぁ、とひとつ返事をする。「睡眠薬を心療内科からいくら出されていても、これじゃぁ眠りが浅いわけですよ。眠るとき人間は鼻で呼吸をしようとするのですから、その鼻の空気の通り道が、こんな、米粒ほどしかなくなってしまっていたら、どうなりますか、呼吸できませんよね、いくら薬を飲んで眠ろうとしても、呼吸をするために身体は起きようとする。あなたがこの問診表でお答えになられている通り、薬の効果はこれじゃぁちっとも出ないで、ちっとも眠れないでしょう、当然ですよ」。私はもうひとつ、はぁ、と返事をする。院長先生が、何枚かのレントゲンや聴力検査の表を並べて私に事細かに説明してくれることを、私は、一言も漏らすまいと神経を尖らせ、ただひたすら、はぁ、と返事を繰り返した。頭の中で、いろんなことがぐるぐる回っていた。
 帰り道。歩きながら、医者から言われた言葉をひとつひとつ思い出す。聴力検査表の折れ線は、限界線辺りに引かれていた。もう少し放置したら、聴力にも異常をきたすところだったのかと思うと、ため息が出る。私はさんざんピアノをやってきた、そのとき、この聴力は自慢だったのだ、一度聞けばたいがいの旋律を再現できる耳、楽譜におこすことができる耳、だのに。「長い時間をかけて慢性の炎症が起こっているんです。一年や二年じゃぁないですよ、それは」。医者が説明していたその言葉が蘇る。そして私は指を折って数える。私がピアノから離れた年頃。何となく鼓膜に違和感を感じるようになった最初の頃の年頃。それはまるで、流れる水のように繫がっていて、私は呆然とする。また、学生の頃声楽をやっていた自分の声の幅が、妙に歪んできた年頃。それもまた、その流れの中に見事に組み込まれている。そして、拒食や過食嘔吐を繰り返すしかなかった時期も。全ては、あの事件を境に暴発し出したのだった。そのツケがもしかしてこの炎症なのか。
 いや、でも。そんなの錯覚かもしれない。偶然かもしれない。そう、単なる偶然かもしれない。が。だとしたらそれは、なんて絶妙な偶然だったんだろう。
 医者が言った「十年くらいは患ってきていたと思われますね」という言葉と、あと数日でやってくる十二年目のあの日が、私の中で重なる。もしこの想像が当たっているとしたら。PTSDとはなんて怖い病なんだろう。
 以前にも触れたことがあるが、歯が格段に悪くなり出したのもあの事件から数年後辺りからだった。常に緊張を強いられる私の身体が、その反応のひとつとして歯軋りとなり、それは、虫歯になっていない健康な歯の根を軋ませ膿ますものになった。同じ被害に遭った友人たちもみな、歯には困ったとよくぼやいていた。
 「この問診表で、ほら、あなたが、歩いていてよく眩暈がするとか、喉や耳に違和感を覚えるとか、よく頭痛になるというところで答えているでしょう? これは、精神的なものや他にもいろいろ原因は考えられると思いますけれども、でもね、この慢性的な炎症も原因の一つだったかもしれないと考えられるんですよ」。再び脳裏に浮かびくる先ほどの医者の言葉。私はそれを口の中で繰り返しながら、ふと空を見上げる。眩しくてまともに目を開けていられない。乱反射する白い空。何だか、訳もなくおかしくなってきて、私はぷっと吹き出してしまう。
 心が悲鳴を上げれば、身体も悲鳴を上げるんだ。身体が病めば、心も病むんだ。どちらも繫がっていて、決して単体では存在し得ない。それが人間という代物なんだ。
 そんな、しごく当たり前のことに突き当たって、私は笑ってしまう。そうだった、何も不思議なことなんかない、当たり前のことなんだろう、きっと。ただ人はたいがい、或る時は自分の心の音色を、或る時は自分の身体の悲鳴を、聞き逃してしまうから、こうやって、どうしようもなくなってからしか気づけないんだ。
 そんなことをつらつら考えながら仕事をしていたら、窓の外が白み始めていた。身体や心の音に気を配れと自分に言ったのはいつだったか、つい前夜のことじゃぁなかったのか。思いつつ、立ち上がり、大きく一つ伸びをする。母子家庭も楽じゃぁない。なぁんて、とりあえず、自分に言い訳してみる。身体も心も酷使しつつバランスを何とかとって生活していく、そういうものなんだろう。
 まずは私の場合、自転車に乗る力を呼び戻すところから始めなくちゃいけないらしい。抗生物質の効き目もあって痛みが抜け出した身体で、いつものように娘を後ろに乗せ自転車を漕ぎ始めたら、途端に眩暈。慌ててブレーキ。だめだこりゃ。母よ、しっかりせねば。見上げれば今日も、青白い空。


2006年01月22日(日) 
 明日は広い範囲で雪が降るでしょう、という天気予報の通りに、夜半頃からさやさやと雪が降り出す。闇の中、そのさやさやはうっすらと発光しながら、くるくると風や空と戯れていた。
 そうして今は朝の六時過ぎ。気づけば町の屋根はみなこんもりと雪に覆われ、空はうっとりするほど深い灰色の中にあった。
 昨日はそうして一日雪が降り続いた。私は雪が好きだ。世界の輪郭の中でも、特にきつく苦々しいものをすっぽり隠してしまう。だから、雪に覆われた世界の中にいると、自分までもが何処か柔らかく、やさしい存在になれたような錯覚を覚える。すると、空から舞い降りてくる雪が髪に触れ、肩に触れ、手のひらに触れ、ただそうしているだけでもう、充分な気がする。
 今はもう日曜の午後。ベランダから身を乗り出して外を見やれば、車の通りからはすっかり雪の姿は消えてしまった。でも、全ての屋根はまだ白く、沈黙に覆われている。雲に覆われた空も沈黙すれば、屋根という屋根もみな、沈黙している。
 省みると、先週は慌しい一週間だった。いや、年末からそうだったのかもしれない。怒涛のようにリストカットの嵐が襲って来、家と病院を毎日のように往復、金は飛ぶわ気力は萎えるわ、そうしている間に時間がどんどん過ぎていった。両腕が包帯に覆われていたのだけれども、眠っているとこの包帯を私は無意識にむしりとってしまうらしく、朝起きるといつでも、傷口がばっくりと目の前にあった。そして娘に包帯の先を押さえてもらい、えっちらおっちら腕に巻くのだった。
 そして。
 私は自分が少しずつ、緊張してきているのを感じ始めていた。そう、今年もその日が巡ってくるのだ。これで何回目? 何回目のその日? もう数えるのにも草臥れた。草臥れたけれども、それがその日だということは記憶から消去されない。身体が勝手に覚えており、私はそのせいで、背中ががちがちに凍るのだった。
 匂い、感触、そういったものを、身体が記憶している。意識が記憶しているのではない、身体が記憶しているのだ。そのために、意識では大丈夫だと思っているのに、身体が勝手に反応を示す。そして自分自身愕然とさせられるのだ。
 そんなあの日が近づいていて、身体が緊張しているせいなのかもしれないが、この頃、殆ど四六時中といっていいほどの度合いで、私の頭の中で勝手に声がする。たとえばTと話をしている。TとAについて話をしているのに、私の口は確かにAについて会話しているのに、同時に私の頭の中ではTとBについて話をしていることになっているのだ。私の中でTとBについての会話がどんどん進んでゆく。私の外でTとAについての会話がどんどん進んでゆく。気づくと私は、AとBとが混濁する川をあっぷあっぷしている状態になっており、思わず聴いてしまうのだ。ねぇ、今Bについて話してたんだよね?Bのこれって何のことだっけ?と。するとTは驚いて、「今話してたのはAについてでしょう? Bについてなんて一言も話してないよ」と言うのだった。
 こんな事態が、よほど親しい間柄で為されるだけならいい。たとえば営業先などでこういう事態に陥ると、とんでもないことになる。笑って誤魔化すなんて芸当は、通用しなくなることが多々ある。それでも、私はそういう自分とつきあっていかなければならない。そういう自分も抱えて、ぽりぽり頭をかいて、失礼しましたと苦笑しすたこらさっさとその場を後にするのだ。そして安全な自分の部屋に戻ってから、爆発しそうな心臓を撫でさすり、時に零れ落ちる涙をぐいと腕で吹き飛ばすのだ。
 娘と友と三人で少し、外を散歩する。歩きながら、えいやっと雪球を投げ合う。娘のお尻めがけてぽいっ。娘も負けじと友の胸元めがけてぽいっ。転ぶなよ、と声を掛け合いながら、きゃぁきゃぁひゃぁひゃぁ。脇の道では玄関先の雪をかくご老人。銭湯のおじさんがゆっくりした動作でのれんをかけている。もうじき夕方。
 数えようとは思わないのに、頭の何処かが勝手に数を数えている。あと何日。あの日まであと何日。
 私はもう、それを止める手を解き、好きにさせることにする。数えようと数えまいと、所詮その日はいずれやってくるのだし、その日になってみなければ、今の自分がどうなるかどんな反応が出てしまうのかなど分かるわけはないのだし。こうやって一歩一歩、歩いてゆくしか術はない。
 雪の上を一歩。きゅっ。私が踏みしめた雪が音を立てる。雪の上をもう一歩。ぎゅっ。また雪が私の足の下で音を立てる。きゅっ、ぎゅっ、きゅっ、ぎゅっ。転んだら転んだでいいさ、立ち上がればいいだけなのだから。
 振り向けば、娘の鼻の頭が丸く赤く染まってる。家に帰ったらあったかいお茶を入れよう。私はまた一歩、足を踏み出す。


2006年01月13日(金) 
 十二月二十六日から一月十日までという時間は、やはり長すぎた。長すぎたおかげで、その道中、私はばったばったと転倒した。もうそれは見事なほどに。一体何度救急車のお世話になっただろう。救急隊員の人に呆れられてからは何度深夜にタクシーを飛ばしただろう。その回数など、覚えていない。果ては、真昼間に右手首まで切り刻んで、私は自分で為したことながら、呆然としたのだった。
 新年一回目の診察、診察を終えて出てきた頃には、長い針がゆうに一周以上回っていた。そんなに時間が経った感覚は私には全くなかったけれど、それだけ時間がかかったのだろう。私は、受付の壁にかかった丸い平凡なその時計を、しばらくぼんやりと眺めていた。
 私は主治医が言うほどそんなにも疲れているのだろうか。私は主治医に言われるほどそんなにもぼろぼろに破けているのだろうか。
 分からない。分からないが、正直、もう、立っているのもやっとだった。処方箋を受け取りに薬局に立ち寄ったものの、一度ソファに座ったら立ち上がれなくなって、仕方なく、薬剤師に身体をどっこらしょと持ち上げてもらった。
 そこから急いで整形外科へ。ぐるぐる酔っ払ったような頭ながらも事前に何とか電話で遅刻する旨を伝えておいたおかげなのか、受付の方がスムーズに事を運んでくれる。左腕は感染症にもかからず何とか傷もくっつきそうだ。ただ、右手が、あれからさらに切り刻んだ傷のおかげで、ぱんぱんに腫れ上がっている。でも、これもまた傷と傷がくっつきすぎていて縫うことはならず、テープでぎしぎしと傷をくっつける。鈍い痛みが常に右腕につきまとう。処置を終えて頭を下げたと同時に身体がぐらりと揺らぎ、驚いた看護婦が私を支えてくれる。あなた、大丈夫なの? 尋ねられても答えられない。タクシーで帰りますからともう一度頭を下げて、手すりにつかまりながら病院を出る。
 そして。
 一度掛けかけた電話番号、私は直前に切る。切って、途方にくれ、切った自分の親指を見つめ、どうしようもなくなって、柱に寄りかかる。そして、最初に掛けたかった電話番号を避けて、私は別の電話番号を押した。
 久しぶりに泣いた。泣けた。泣き止もうと思ったけれど涙が止まらなかった。友人相手に、もういやだ、もうこんなのいやだ、全部放棄したいと吐露してしまった。全部、本音だった。嘘なんてもう、ついてる暇なんかなかった。もういやだ、もういやなんだこんなの、どこかにいってしまいたい、いなくなりたい、娘さえいなければと思ってしまうの、そういう自分がさらにいやなの、どうすればいいの、もういやだ。私は、まるでわがまま丸出しの餓鬼のように、自分の内奥を吐露し、泣いた。相手はただ、聴いてくれた。そして、私が最初に掛けられなかった電話番号の相手にも伝えておいた方がいいから、自分が伝えておくよと友が言う。私は何も返事ができなかった。
 タクシーに乗って、部屋に戻って、私は、改めて、一体何をしたらいいのか分からなくなった。とりあえず、薬を飲んだ。もう昔のように薬を大量に飲んでしまうことはもうない。そんなことをしたら娘を迎えに行けなくなるだろうし、私は仕事もできなくなるだろう。そうしたらこの生活は、あっけなく崩壊する。だから、もうしないし、もう、できない。
 床にへたり込むこともできず、私は椅子にとてんと座った。目は何処かを何かを映しているけれども、私にはもうそのとき何も見えていなかった。時計の音さえ、何処かに消えてしまっていた。
 それでも生きなければならない。私は生きなければならない。娘がいるから、だけじゃない。私はまだ、本当は死にたくなんてない。多分きっと、とことんのところで私は、本当は自分が生きていたいと思うから。そう、信じて。

 あれから何日経っただろう。よく覚えていない。私はひたすら今、モノを作っている。いずれ仕事に使う道具たちを、思いつくままにひたすら作っている。その作業に没頭していれば、何とかなる気がする。だから私は作る。作り続ける。

 今夜、娘がべったりと甘えてきた。久しぶりのことだ。あまりの甘えぶりに少々困ったが、彼女の一言で私の困惑など吹っ飛んだ。
 「ママが死んじゃったら、みう一人になっちゃうんだよ。だからね、お仕事いっぱいしていっぱいお金もらって、そうしたら楽になるかもしれないけど、でもね、お仕事しすぎてママが死んじゃったら、みうは一人になっちゃうんだよ」。
 彼女が言っているのは多分、仕事のことだけじゃぁない。何処かできっと、私の危機を感じ取っているに違いない。だからこそ彼女は、こうして、自分に出来得る限りの言葉でもって私に訴えているに違いない。
 「みう、大丈夫、ママはね、そんなにやわにはできてないから」「やわって何?」「やわっていうのはねぇ、うーん、そう、そんなに弱っちくできてないからってこと」「強いってこと?」「そう、ママは強い」「うん、ママは強いし、怒るとちょっと怖いよね」「ははははは」「でもね、怖くても、みうはママが好き、ママがいなくちゃいや」「そうだね、ママも、みうがいなくちゃいや。みうがいなくちゃママは生きていけない」「みうも」。
 そう言い交わして、私たちはこれでもかというほどハグをする。キスをする。笑い合ってじゃれあって、じゃぁしょうがないからママの背中におんぶする形で寝てていいよ、ということにする。
 二時間、彼女は私の背中にずっと張り付いていた。そして、ようやく規則正しい寝息。私の背中も肩も腕も、正直もうぱんぱんだったけれど、これも普段の私の行いのツケなんだろうなと思う。両腕の傷口が開いたりしないよう、何とかバランスをとって彼女を布団に運ぶ。そして、額にキスをする。おやすみ、みう。
 まだ、どうしていいのか分からないけれど、少なくとも、今放棄してはだめだ。どんなにみっともなくてもどんな醜態をさらしても、生き延びていかなきゃだめだ。そして、生き延びてゆく道々、彼女と私は笑い合い、じゃれあって、年を重ねていくんだ。
 あと一仕事終えたら、今夜はもう眠ろう。明日は朝一番からまた病院だ。

 みう。大丈夫だよ。ママはここにいる。いつ振り返っても、必ずあなたの見えるところにいる。


2006年01月06日(金) 
 眠れぬまままた朝が来る。みう、おはよう、朝だよ。大きな声で彼女に声をかける。今日はママ早く出掛けなくちゃいけないから協力して。そう言いながら私は彼女に下着や靴下を渡す。作っておいたおにぎりをほおばる彼女の髪の毛を、ぎりぎりまで三つ編にし、くるりと丸めてゴムで止める。それだけの行為なのだけれども、私は毎朝のこの、彼女の髪の毛を結うという行為が好きだ。この短い時間は何も考えていない。何も考えずただ彼女のつややかな髪の毛を見つめ、分け、編む。それが済むと、私は保育園の先生との連絡ノートに二、三行記し、お弁当とタオルとコップと一緒にリュックに詰め込む。
 自転車を飛ばすと風が容赦なく私たちの頬を凍てつかせる。信号で止まった街路樹の足元を見れば、霜が降りていた。あぁ今年はそんな冬なのだな、と、私はそのことが少し嬉しかった。裸の街路樹を見上げれば、空は薄灰色の雲に覆われ、沈黙している。在るのはただ、風の過ぎる音だけ。
 朝一番に病院へ行き手続きをしたものの、結局処置が終わったのは十時をゆうに過ぎていた。再び自転車に乗り薬局と鍼灸院へ。その間、ぼんやりと、看護婦や医者の言葉を私は頭の中、反芻する。
 ひどいねこりゃ。どうしてこんなにしちゃうの、自分傷つけたって何にもならないでしょ、無意味な行為だよ。どうしてこんなにしちゃうの? 加害者が何だって? あぁ、そういうこと、でもね、だからって自分の腕をこんなにする意味が何処にあるの? ないじゃない。
 多少腹を立てているらしい医者が私に畳み掛ける。それを看護婦が何度かとりなそうとするのだけれども先生の腹立ちは収まらないらしい。看護婦と医者の声の下、私はもう何も言うまいと口を結んでいた。
 無意味な行為。自分の腕をこんなにする意味が何処にあるのか。私の頭の中、ぐるぐると医者の言葉が回る。私はだから、回るままに放置する。医者に、いや、他人に、理解してくれという方が無理なのだ。だから私は沈黙を選ぼうと思う。
 昼過ぎ、ようやく家に帰り着く。珍しく一通も郵便受けに書簡は入っておらず、私は鞄を肩にしょいなおし、階段を上る。
 仕事をしながら、気づくとまた、同じ事を考えている。無意味な行為。無意味な。
 今読んでいる本の著者は、堂々と言ってのける。無意味なことなど何もない、と。今この瞬間を生きているただそれだけでさえすでに意味があるのだ、と。
 意味のあること。一方で、無意味であるということ。
 私は、仕事を続けるのを諦めて、窓を開け、座り込む。目の前にはいつもの街路樹と街灯。そしてその背景は、朝よりずっと濃くなった鼠色の空。じきに夜闇の色も混じりだすだろう。そうしたらあっという間に、光はこの世界から消え失せる。明日の朝再び日が昇るその瞬間まで、自然の陽光は姿を消す。
 無意味、なのかもしれない。無意味だと、思う。一体何故私は腕を切り刻んでしまうのか、こんなにもざくざくと切り刻んでしまうのか、正直、もうよく分からなくなってきた。だから、その行為に意味なんてないどころか、何処に意味があるのかと責められて当然の行為なのかもしれない。
 しかし、では、意味のある行為とは何なのだろう。今の私の立場、私がこれまで歩いてきた道々、鑑みた時、今の私にとって意味のある行為とは一体何なのか。生きているだけで充分だと言うのは傲慢なのだろうか。今ここに存在しているだけで自分には精一杯なのだともし私が言ったなら、私はやはり、責められるのだろうか。
 責められるのだろう。少なくとも、私は一人の娘の母親だ。母として私は、生活していかなければならない。彼女を守っていかなければならない。彼女を抱きしめるのは私なのだ。なのに、彼女を抱きしめるはずの両腕を、私はこうもざくざくと傷つけ続けている。それは恐らく、分別ある大人たちから責められるに値する行為だ。
 でもならば、どう生きたらいいのだろう。どうやって自分を存在させたらいいのだろう。私は自分を赦せないのだ。どうやっても。
 分かるだろうか。よく、セカンドレイプといわれる言葉や行為が在る。本当はもっと抵抗できたんじゃないのという露骨な言葉から始まり、あなたの初体験は何歳ですか、性行為の体験はどのくらいですか、というような言葉も耳にしたりする。そういった言葉の暴力を、セカンドレイプと呼ぶのだそうだ。が。
 私は思う。セカンドレイプなんて言葉、私には必要ないかもしれないな、と。何故なら、他の誰に言われるよりも、私は自分自身が一番自分を責めている他者なのだから。「私」を責める他者、その「他者」はしかし「私」自身。そこには、誰によっても何をもってしても埋めがたい溝が在る。乖離が在る。
 誰がどんなやさしい言葉を私にかけてくれ、慰めてくれ、頑張ってるよえらいよなんて言葉を幾つかけてくれたとしても、私はその場では照れ笑いしてへへへと応対しているけれども、同時に、これでもかというほど自分を苛んでいる。苛まずにはいられないのだ、赦すことができないのだ、もしもあの時、もしもあの時もっと私がこうしていれば、もっと私がああしていれば、あんな出来事は起きなくて済んだんじゃなかろうか、と。
 いや、そんなことはない、あれは不可抗力だったんだよ、あなたは何も悪くないんだよ、自分をそんなふうに責めたらだめだよ、自分を抱きしめてあげなよ。そういった言葉を受け取るとき、私は心の中、思い切り唇を噛み、涙を噛んでいる。そんな優しい言葉をかけてもらえることはとてもとても嬉しい。けれど同時に、私は思ってしまうのだ、そんな言葉を受け取れるような人間ではないのだ私は、と。
 冷静に考えれば、確かに不可抗力だった。私は可能な限り抗ったし、その後も穴から這い上がろうと生き延びようと必死に為してきた。これ以上努力しようがないくらい踏ん張ってもきた。けれど。
 それが何だというのだ。あの出来事が起こった、そのことになんら変わりはないのだ。そしてそれを、私が赦すことができないというそのことも。何も、変わりはしない。
 私の腕に消毒を施しながら、ひたすら私に説教をしてくれていた若い医者の、あれらの言葉はそのまま、私の言葉だ。かつて被害を受けた頃に警察や上司からずかずかと向けられた暴力的な言葉もあれもまた、そのまま私が私自身に向けている言葉だ。
 だから。
 だから、私はどうしたらいいのか分からない。これっぽっちでも、針の先ほどでもいい、自分を自分で赦すことができたなら、私はもしかしたら解けるかもしれない。けれど、私は赦すことができない。できるのは、赦すことができない自分とそれをじっと見つめ続けている自分と、その両方を同時に受け容れる、それだけだ。

 ドイツ強制収容所の体験記録を記した心理学者が、別の著書で繰り返す。無意味なことなど何処にもないのだ、と。何一つ無意味なことはないのだ、と。運命というものがなかったら、私たちはどうなっていたことでしょうか。運命にたたかれて鍛えられることがなかったら、運命に苦悩する白熱状態がなかったら、私たちの生は形成されえたでしょうか…運命はまさに、私たちの生の全体にそっくり属しています、と。そしてまたこうも記す、あるひとりの人の自伝を判断する基準は、その自伝を叙述した書物のページ数ではなく、もっぱらその書物が秘めている内容の豊かさだけなのです、と。私たちの死後もこの世にのこるのは、人生のなかで実現されたことです。それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです。私たちの人生は燃え尽き、のこされるのは、実現されたものがもっている効力だけです…私たちが世界の内に「放射している」もの、私たちの存在から放射されるさまざまな「波動」、それは、私たちが死んで私たちの存在そのものがとっくになくなってものこるものなのです、と。
 その心理学者の記す言葉の殆どに、私は見覚えがある。かつて自分が必死になってそう思い、自分を励まし、必死に生き残ろうとここに存在し続けようとするために編み出した事柄たちと殆ど同じだからだ。だからある意味、彼の言葉は私の中にとても親しい。
 しかし。
 私は、同時に全く相反することも思っているのだ。私の中には、同時に、相反するものが存在してしまうのだ。生きれば生きるほどに。
 私の目の中で、街路樹の枝が揺れる。風が吹いているのだ。私の髪も程なく肩の辺りで揺れる。
 季節は冬。全てのものがひっそりと、大地の奥底で眠り、春を待つ季節。命のバトンはこの冬も、あちこちで継がれてゆく。
 私は、同時に相反するものを内包している。今はまだ、いい。でも、このそれぞれの者たちの隔たりが、溝が、乖離が、もうどうにも埋めようがなくなってしまったとき。
 私はどうなるのだろう。
 私のバトンは、誰が継ぐのだろう。できるならば、いつだって私自身でありたい。ありたいけれど。

 気づけば、街路樹の枝は闇に溶け、今、街灯がふっと灯った。そろそろ娘を迎えにいく時間だ。


2006年01月04日(水) 
 耳を澄ますと、小さく遠くりんりんと音が鳴りそうな街の中、コートの襟を合わせ首を竦め背中を丸めて歩く人たちの群れ。誰も彼もが僅かに視線を落とし、それだけで少しでも冷気を避けられるのではないかと思っているかのような様子で、みな一心に歩いている。私はその人の群れの中で、ぼんやりと、そしてのっそりと動いている。
 人と会う日。それだけははっきりと分かっていた。楽しみにもしていた。女同士三人揃って、心の奥に言葉には表現しきれないような経験を抱いて、そうして笑ったり突っ込んだりできるのってどんなに楽しいだろうと、そう思ってた。だから、早め早めに時間をやりくりしていた。
 ふと鞄を覗いたら、ノートがなかった。いつも持ち歩いているノート。筆箱は持っていたけれどもノートがない。私は急に焦りを覚え、エスカレーターを駆け上がり、文具店で適当なノートを購入した。それで安心したはずだった。けれど。私は、無意識のうちに、ノートだけじゃない、カッターにも手を伸ばしていた。
 そろそろ待ち合わせ時間だよな、そう思いながら公衆トイレに入る。鍵がしまるかちゃりという音がした、それが合図だった。そこからの私の行動はあっという間だった。
 ノートでもない、万年筆でもない、一直線にカッターに手を伸ばし、私はその書いたてのカッターで右手首をざくざく切り刻んでいた。右手首を、だ。右手首は約束したはずだ。主治医と長いこと約束していたはずだった。左腕はもう仕方がない、切ってもいい、でも、左腕以外は絶対に切らないこと。私は主治医とそう約束を交わしたのだった。それは永遠に守られるはずだった。
 頭の半分が、やめろやめろと叫んでる。もう半分は妙に冷静に冷酷に、床にぼたぼたと垂れる血を嘲笑うかのように見下ろし、さぁどうやってもっとぱっくりとざっくりと切ってやろうかと考えているのだった。
 真っ二つに分かれた脳味噌の真ん中で私は、必死に手を伸ばした。携帯電話に手を伸ばし、待ち合わせをしている友人に伝わるかどうか分からないままにありのままを伝えた。ここまで来たんだから、頑張って、と彼女はそう言った。そうだ、ここまで来たんだ、ここまで必死に彼女たちに会いに来たのだ、片腕が血だらけになっていようと何だろうと、私は彼女たちに会いたい。そのためにここに来た。
 自分の左手に握り締めたカッターを取り上げるのが、正直一番しんどかった。とれないのだ、外れないのだ、解けないのだ、指を一本一本広げようとするのだけれども、解こうとする私の右手の力よりも、握り締める左手の力の方が何倍も上回っていた。そうしているうちに自分で自分に腹が立ってきて、壁にカッターを投げつけた。そして私はトイレを飛び出した。
 昨晩また救急車に世話になった折、もうこちらじゃ世話を見切れませんから、とはっきり言われた。長年かかってるという主治医に相談してください、と。でもその主治医は体調を崩し、10日まで一切連絡がとれない。その間、私はどうしたらいいのだろう。一応病院に電話を入れてはみる、が、予想通りの答えが返ってくるばかりで、私は結局途方に暮れる。
 結局、友人に付き添われ、病院へ。整形外科では長く長く待たされ、その挙句、傷口がくっつきあいすぎているから縫うことが不可能なのでテープで止めて何とか処置しましょうとのこと。さて。困ったのは、これからの日常生活。娘の食事を作るにも、頭を洗うにも何をするにも、両手を使う。濡らしてはいけません、といわれたって、どう頑張っても濡れるだろう。どうするのかなぁなんて他人事のように思いながら、私は、友人たちが待つ珈琲屋に駆けつける。
 窓の外広がる風景は、だだっぴろい空き地と、無造作に建ち並ぶ高層マンション。昔ここは空き地だった。だだっぴろいだけの単なる空き地だった。雨が降れば泥だらけになり、その泥地を選んで飛んで歩き、みんなで相手を押し倒して遊んだりもした。今はもう、そんな風景は、かけらも見ることはできないけれども。
 あっという間に時は過ぎ、彼女らと別れる時間がやってきた。またね、また会おうねと手を振り合って、右と左にそれぞれ分かれてゆく。そのとき遠くで、汽笛が鳴った。
 早く10日になってほしい。いや、実際10日になったからとて、私が主治医に何を話せるとも思えないのだけれども、少なくとも、この人はここにいて必ずここにいて、私がはなしだすことを待ってくれるのだ、と。

 寝付いた娘の寝相の大胆さを見ていると、よくもまぁこんなに動くものだと感心してしまう。一晩ビデオカメラでも設置して、大きくなったら彼女にプレゼントでもしおうかしらん。
 そう、大丈夫、明日もやってくる。必ずやってくる。そして朝が来て昼が過ぎ夕方を向かえ、そしてまた、次の朝を待つのだ。さをり、がんばれ。


2006年01月03日(火) 
 2006年は、私にとって八方塞がりの年だそうで。そんな言葉を占い本でちらりと見て以来、「八方塞がり」という言葉が時々、私の頭の中をぐるぐる回る。
 でも、よく考えたら、八方塞がりはこれまでも四六時中そうだったわけで、だとしたら、たいしたことないのかもな、なんて、無責任に笑ってみたりしている。世の占い師の方々がせっかく出してくれた代物でも、私にかかりゃまぁどうでもいいや、といったところか。
 年末年始、体調が崩れた。体調、といより心調というべきかもしれない。

 ベランダのラナンキュラスが、ぐいぐいぐいぐい元気になってゆく。この方たちは、寒さというものを知らないのだろうか。それとも、私と同じく寒さが大好きなのだろうか。寒い朝になればなるほど、びょんと葉の背を伸ばし、一番に朝陽を浴びるのだという勢いでプランターの中はわさわさしている。それに比べてアネモネはマイペースだ。もともと茎が細く、水をやればくにゃりと茎を曲げてしまうくらいに軽い代物だから、私は水をやり終えると必ず、彼らを一本一本立たせてやる。はいはい、頑張って立ってくださいよ、お日様いっぱい浴びてくださいよ、そんなことを言って一本一本立たせている。その脇のプランターの中の水仙は、全く我関せず。私は自分で育ちますので、水さえ適当にやっといてくれれば充分なんですよ、なんて顔をしている。だから私も、はいはい、お水ね、と、彼らの真っ直ぐに伸びる葉たちの上から、しゃらしゃらと水をやる。
 もしかしたら、薔薇の樹の一つが、枯れるかもしれない。そんな気配がする。水をまめにやっても、新芽の手入れをやってみても、一度弱ってしまった樹は、哀しげに項垂れる。大丈夫、まだ大丈夫よ、春はもうすぐ、それまでずっと私がここにいるから。そんなふうに話しかけながら、一生懸命樹を撫でる。もし枯れてしまったとしても、彼と同じ時期に挿し木して増やした樹は他にも何本もある。けれど。一本一本が唯一のものなのだ。私にとって。神のみぞ知る、とはこういうことか。私は神様がいるなんてことは殆ど信じていないけれども、こういうときは、自然の神よ、もうしばしこの子の命を守っていくださいと、祈らずにはいられない。

 意識半分は冷静に、もう半分は混乱の極みに、それぞれ真っ二つに割れた私の意識は、半分が意図しないことを、もう半分が平然とやってのける。そうしているうちに、まっぷたつに分かれた狭間で、私はどんどん途方にくれる。足掻こうにも全身楔で打ち付けられたように身動き一つならず、私は、右と左の勝手気ままな行動に振り回されるばかり。一体私をどうしようというのか。だんだんと抗うのにも疲れた私は、傍観者のように彼らを見つめる。刃を振るう右手と、お茶を入れようとする左手と、そして刃も湯飲みもいっぺんに床に落ち、音を立てて飛散するのだ。そして私の左手はどんどんと疵に覆われ、あれほど主治医と約束した右手だけは、左手以外は決して傷つけないと約束したその約束をあっけなく破り、右手首から肘へと血が滴るのだった。
 救急病院にとあちこちに連絡をとっても、診察を断られれるところばかり。どうにか診察をしてもらえたと思ったら、紹介状を差し出され、これ以降は他のところで診てもらってください、こちらでは責任負えません、と淡々と言い渡される。帰り道、とぼとぼとタクシーを捜しながら歩く私は、この先に何が待っているのだろうとぼんやりと思う。
 それでも。
 それでも朝は来るのだ。どんなにはちゃめちゃな夜がやってきても、必ず朝は来る。私は朝を頼りに、冷気忍び寄る窓際に張り付いて空の色が変わるのを待つ。その間に、そういえば包丁を研ぐと精神統一になるんだよと昔私に話してくれた友人の声を思い出し、試みてみる。が、逆効果で、私はその包丁でもって思い切り腕を斜めに切ってしまう。あらまぁ思ったよりも血が出ないのね、と思った途端、ぶわっと血が噴出してきて、私は慌てて雑巾やらタオルやら、そこらへんにあるものを畳みの上に山積みにする。あらまぁこんなに血がでるなら、最初から言ってよね、なんて、変に冷静になった私は、まぁ放っておけば血も固まるし、どうにかなるわと、もう一度窓の外に視線を戻し、空が変わってゆくのをじっと見つめる。
 縫える箇所は二箇所のみ。他は、疵と疵がくっつきすぎていてとてもじゃないが縫うことができない、この包帯は外さないで下さい、絶対に外さないで、そして、近くの病院を探してみてもらってください、そこで抜糸もしてもらってください。医者が次々に喋っている。私の頭の半分はそれを聴いているのだが、もう半分は、へらへら笑って全く聴く耳を持とうとしない。その狭間で、私は、だんだん日本語が分からなくなってゆく。

 私はぼんやり考える。いや、考えようとしなくても、脳裏に浮かんでくる。もうじきだ、もうじきあの日がやってくる。1月27日。忘れるわけがない。他の誰が忘れても、私は忘れることはできない。
 でも、今年だってきっと、その日を乗り越えるのだ。乗り越えてしまえばどうってことないのだ。きっと。乗り越えるまでがしんどいだけで、乗り越えればまた次の道が生まれる。私はその道を、自ら作りながら、歩いてゆけばいい。

 大丈夫。私には友達がいる。私がとちくるっている間、必死に遠距離電話で私をひきとめてくれた友達、自分が具合が悪いにも関わらずタイミングを見計らって電話をかけてくれる友人、そして、仕事が佳境だというのに時間を何とか作って私の部屋にやってきて「寝ろ!寝ろ!」と言い、私が意識をぶっとばして刃を片手にとって振り下ろそうとした途端、ほっぺたを思い切りつねってくれた友人。他にもいっぱい。
 生きてりゃ何とかなる。生きてればこんなに嬉しいことだってある。私は一人じゃなくて、確かに一人なのだけれども独りじゃぁなくて、こうしてここに生きている。
 ねぇ娘よ、ダメ母があなた教えて上げられることがもしひとつあるとしたら、それは、心から繋がれる友達を、それがたった一人出会っても、人生の中で見つけることだという、そのことに尽きる。

 明日はやることが山積みだ。まず保険証の再発行の手続き、それから世話になった病院に行って清算、それからそれから…。仕事だ。仕事仕事。
 その間にもラナンキュラスはベランダで歌を歌うだろうし、アネモネはひょろひょろとダンスを踊るだろうし、水仙は知らん顔でぴんと立っているだろうし。私は私で、ふらふらしながらも生きてゆく。
 八方塞がり。今年は八方塞がりの一年だそうだ。じゃぁ笑い飛ばしてやろうじゃないか。もうこれまでだってさんざん八方塞がりの日々を過ごしてきた。その私が八方塞がりの日々を乗り越えるってことは、どんな具合になるのか。観客をお笑いさせてやるくらいにどたばたと喜劇を催してやろう。

 そして今日も朝はやってきた。私は今日もこうして、一日を越えてゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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