2005年05月31日(火) |
雨が降り続く。横殴りの雨だ。街灯が照らす小さな明かりの輪の中で、雨筋がぎゅんぎゅんと音を立てる。裏返った葉たちがさらに強い風を呼ぶ。時折響く通りを走り抜ける車の音も、雨に叩かれている。弾かれる音と吹きつける音。何色もの音色を奏でる雨粒に、私はじっと耳を澄ます。 とりあえず今すぐの入院は免れた。先生が呆れたように私に尋ねる。またお友達が亡くなったの? はい、首吊ったそうです。そう。先生と私との間に沈黙が横たわる。その時突然ドアの開く音がして、私はひっと悲鳴を上げる。瞬間、振り向いたけれど、ドアはきちんと閉まっている。じゃぁ私が聞いた音は一体何だったの? 分からない。先生がどうしたのと尋ねるので、ドアが開いた気がして、と言うと、大丈夫、開いてないわよ、と。そしてじきに、焦点が合って来る。診察室に入るまでは、世界が二重三重に見えていたのが、ひとつに重なり合う。あぁ焦点が合った。ようやく先生の横顔がはっきり見える。ふと思った。乱視ってこんな感じなのかしら、モノが幾重にもぶれて見える状態。自分は乱視だと言っていた友人に昔尋ねたことがある。どんなふうに世界が見えるの? 全部ぶれて見えるよ。それが眼鏡で直るの? うん、そう。眼鏡かければ世界は一重。じゃぁ私も眼鏡をかければ世界が一重に見えるのかしら。もう連絡先も知らない昔の友人の言葉に、今更だけど問うてみる。でも多分、私のような人間に合う眼鏡は、この世にはないんだろう。違うのはそこだけだけれども。でも何だか、とても大きな隔たりを、私は感じてしまう。 家に戻り、仕事をしようと思ったのだけれどもまったく進まず。頭では分かっている、ここから始めればいいということが。でも、動かないのだ、体が。モニターを前にして私は呆然とする。それじゃぁ一体私に何をしろと? 問いだけが宙に浮く。当たり前だ、モニターが答えてくれるわけないじゃないか。 緩んだ包帯を巻き直そうとしていたら、不安が増大してゆくのを感じた。まずい、まただ、そう思った時にはもう遅く、包帯を解いた傷だらけの腕に向かって私はまたさらに刃を添えていた。 いや、だめだ、絶対だめだ、そう思うのに、私は刃を横に引く。一体幾つの傷痕を作れば私の気が済むのだろう。切りづらくなったナイフに腹を立て、私は玄関を出る。新しいものを手に入れなければ。それだけが頭の中を占領する。そんな必要ないじゃないか、切ったらだめだよ、お願いだよ、そんな私の小さな懇願はあっけなく無視されて、私は新しい刃を鞄に入れ、ふらふらと自宅に戻る。そしてまた始まるのだ。切り刻むという行為が。 こんなばかばかしいループから抜け出さなければ。そう思うのに体が勝手に動く。でも、もうすでに隙間なくでこぼこになった皮膚は思うように割れてはくれず、ということは、思うように血が流れることもなく。私は余計に腹を立てる。そんな私を私はじっと見ている。 そうだ、頓服があった。私の体は勝手に動き、勝手に薬を口に放りこむ。これでもだめなら病院に電話をかけよう、そう思ったけれども、瞬時にそれを否定する。余計なことを言って即入院なんかになったら。それだけは勘弁。だから私は受話器に伸ばしかけた手を即座に引っ込める。 いいのか悪いのかそれは知らないが、私は二回目の頓服を口に放る。苦いだけの液体が口中に広がる。そしてすでに切れてしまっている傷口をぎゅうぎゅう絞る。こんなことして何になるのだろう。何にもなりやしないじゃないか、そう思いながら、私は腕を絞る。自分が赦せなくて。自分が赦せなくて、私は自分の腕を絞る。溢れて来る血の粒が、腕を伝って畳の上に落ちてゆく。知らない、知らない、もう知らない、何も知らない、何も見てない、何も見えない、私はすべてを否定或いは拒絶したくなり、世界に目をつぶる。 そこに電話が鳴る。しわがれた声で「はい」と出ると、娘だった。しまったと思った時にはもう遅く、娘が開口一番こう言う。「ママ、大丈夫? ママ、具合悪い?」。だから返事をする。「あぁごめんね、みう、今ね、ママ、ちょっとお仕事がうまくいかなくて唸ってたの」「そっか、よかった」「みうは元気?」「うん、でも、ママがいなくてサミシイ」「みう。ママもさみしいよ。でももう少し待っててね、ママ、早く元気になるから」「でも、さみしいよ、ママ、ママも一緒がいいよ」「うん、ママもみうと一緒がいい。だからもう少し待っててね、ごめんね、みう」「うん、じゃぁばぁばに代わるね」「うん、みう、またね」「うん」。母は電話に出ると、あなた今休んでたの?と尋ねて来る。いや、仕事しようと思ってやってるんだけどうまくいかなくて。仕事は元気になってからいくらでもできるでしょうが、早く休みなさい。うん、まぁ、そうなんだけど、でもまったく仕事がなくなっちゃうのは、後でやっぱり困ると思うし。みうがどんな思いでいると思ってるの? 困るっていうなら早く元気になることよ、休みなさい。…はい。じゃ、またね。それじゃ。 分かってる分かってる分かってる。 分かってるんだけど。私の中で何かがちぐはぐになっている。もしかしたらすべてがちぐはぐになっているのかもしれないけれども、それもよく分からない。でも多分、何処かがずれて、それが全てに歪みを生じさせている、そんな気がする。 でも、そんな架空の歪みを恨んでみたって何も始まらない。さぁどうしよう。そして私は、毛布の中に体を突っ込む。寝てしまえ。そうすればきっとまた明日が来る。明日が今日になる。そうやってでも今日を迎えれば、私は生き延びたことになる。 いつの間に眠っていたのか。夢の中で私は花を摘む少女を見た。私は彼女から少し離れた位置に立っており、花を摘む少女の仕草をぼんやりと眺めている。少女は次から次に花を摘み、多分その顔は笑んでいる。と思っていたら、彼女の横顔が私の目の中を過る。泣いている。あぁ、彼女は泣いていたのか、泣きながら花を摘んでいたのか。私は愕然とする。まさか、あなたはみう? それとも私の心の中で傷んだ少女? そして目が覚める。夢はぼんやりと、私の中に残り、私がそれを直視しようとすると胸をぎゅぅと掴むのだ、その夢が。たまらなくなって、私は冷水をコップに一杯、ぐいと飲み干す。 自分のパターンをまずは把握しなくては。夕方に近づくと徐々に崩れ始める私のバランス。私の世界。そしてそれを正そうとして幾重にも左腕に刃を引くこの右腕。この無限のループから私は抜け出さなければ。 それを考え始めた時、電話が鳴る。どうして通夜に来なかったの、と、電話の向こうで知人が尋ねて来る。私、今具合が悪くて、ごめんね、行けなかったの。立て続けに葬式なんてごめんだからね。知人が低い声でそう言う。あぁごめん、そんなことは絶対にあり得ないから大丈夫だよ、私は苦笑しながら応える。ならいいけど、じゃ、明日も来ないの? そうだね、多分行かない。あんたってさ、薄情だよね。…。それじゃ、ね。 薄情。そうなのかもしれない。でも私は死にたくない。まだ死にたくない。今のままじゃ死に切れない。もう電話の切れた受話器を握り締める右手を見つめ、私は思う。そう、今のままじゃ死に切れやしない。 結局私はこれを書く前に、リストカットを施した。珍しくぽたぽたと垂れる血滴にじっと見入った。おかしな言い方になってしまうかもしれないが、その血滴はまるで、真珠のように見えた。そしてようやく我に返り、慌てて腕を洗い、包帯を巻く。 包帯を取るとき、そして夕方になってゆく時間。これが多分、今の私の危険地帯なのだ。気をつけよう。包帯と夕方。包帯と夕方。私はぶつぶつと、そう呟き続ける。 窓の外、風と雨は止むことなく降りつけ続けている。窓の明かりはもう、街景の中にはない。街灯がぽつりぽつり、あるだけだ。私は多分、このまま朝まで起きているのだろう。せっかくだから写真でも焼こうか。昔よくしたように。リストカットから逃れるためによくプリント作業をしていたあの頃のように。そうだ、生きる為であるなら、それが生き延びるための行為であるなら、私は何だってやってやる。こんな私なのに、まだ私を求めてくれる人がこの世には在る。それらの存在が私を今大きく支えてくれている。 信じよう、自分を。信じよう、世界を。 陽光はまだ、この街の何処にもさし込んできてはくれないけれど。 |
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