見つめる日々

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2005年03月31日(木) 
 目を閉じていても分かる。上に向けた顔に降り注ぐ日の光。細く開けた瞼の間から見えるのは、あまりに光溢れすぎて青というよりも白くけぶった空の姿。そして私は瞼を開ける。自転車に乗っていることを忘れてしまった一瞬に慌てて、私はハンドルをくいっと回す。
 駅へ向かう道筋に桜が幾本か植わっている。そのうちの一つの早咲きの桜が、もう満開になってしまった。他の桜は蕾をぱんぱんに膨らませてはいるものの、あと数日は開くまでにかかるかもしれない。そんな中でこうして咲いて舞い散る花びらは、何だかとても尊い春からの贈り物に思える。
 ふと寄り道がしたくなって、私は裏道に入る。三つ四つ角を曲がればそこは、亀が山ほど住む神社の小さなお池。池を覗きこむ必要もないほどに、あたり一面、亀、亀、亀。このあたたかな陽光に誘われて池の真中に置いてある石によじ登り、甲羅を日干ししている亀は、一匹の上に一匹が乗り、さらに一匹が乗り、と、段々重ねになっている。
 行き止まりの道、張られた柵の手前の日溜りでは、猫が身体を伸ばして寝っ転がっている。私がすぐそばを通るというのに、微動だにしない。一瞬、迷惑そうな顔をこちらにちらりと向けただけ。猫らしい仕草といえばあまりに猫らしい。ちょっと子憎たらしくて、それが逆にこちらの気持ちをそそる。
 小学校の前を通る。この学校では大道芸のクラブがあると以前ニュースで聞いた。校庭の片隅で何人かの小学生が輪を回したり一輪車にまたがって自由自在に踊っている。もしかしたらこれが、大道芸クラブなのかもしれない。私は自転車を止めて、金網越しに彼らを眺める。そういえばもう、大道芸の季節なのだなと思い出す。四月下旬、この一帯で大道芸の大会が催される。その二日間は、世界中のあちこちから集まってきた大道芸人とそれを見ようと集まる人たちで、この辺りは溢れかえる。雑踏に揉まれるのはしんどいけれども、今年も娘を連れて見に行くつもりだ。
 再び私は自転車を走らせる。もう少し行くと上り坂だ。私は漕ぐ足に力をこめる。

 目の前で映像が繰り広げられる。目の前に三人いる人間の一番左端、男の口が動く。はい、その犯罪は私が犯しました。そう言ったその舌の根が乾かぬうちに、男は翻る。確かに自分はそういう行為をしましたが、あれは合意の上でした。恐らく私の目だろうその目の前で、男は俯いてそう言う。
 しばらくの間があって、二人目の、真中の男性が口を開く。私たちの預かり知らぬところでおきた出来事でした。責任を感じています。でも、私たちは二人が恋人同士だと信じていました。時々爪を噛みながら、その男性が言う。そして三人目、私と同年代の女性が言う。そんな出来事が起こっていたなんて全く知りませんでした。だって彼女はその事件があったといった日以降も、普通に勤務していましたから。
 そして私の目の前に広がる空間は、沈黙する。三人の姿が少しずつ少しずつぼやけてくる。何故私は何も言わないの? この映像を目の前で見ているだろう眼は多分、私のはずなのに、その目は一言も声を発しない。映像だけが流れてゆく。だから私は何とか声をだそうと試みる。しかし、たった一言さえも声が出ない。私の中で反発や拒絶がもくもくと増殖し、それは耳を劈くような悲鳴に変わる。
 と、思った瞬間に目が覚めた。目覚めた私は、ここが何処だか分からなくなる。時間はすっかりあの当時に巻き戻されていて、私は思いきり彼らの言葉に反論したくなる。どうしてそんなことを言うの、何故そんな嘘をつくの、本当のことを言ってよ、誰か一人でもいいから本当のことを言ってよ! 私の心はそう叫ぶ。叫ぼうとして、はっとする。これは、夢だ。現実じゃない。夢なんだ、もうあの言葉を否定することも、思いきり反論することも、私にとっての真実をとことん主張することも、何一つすることはできない。もう終わってしまった。全て終わってしまった。今更私がいくら反論したって、何も変わらない。そのことに気づいたとき、私の目から涙が一粒零れていた。自分が涙を零したというそのことを認識するのに、しばらく時間がかかった。時計の針を逆回しすることはいくらでもできる。けれど、一旦進んでしまった時間を戻すことは、決してできない。不可能なのだ。そのことを、痛感する。悲しいも悔しいも何もかもが、ぼんやりとしてくる。私が今更怒ったって悔しくて身を捩ったって、もう何も変わらないのだ。変えられないのだ。夢の中でいくら何度も繰り返されても、夢は所詮夢。過去は決して元には戻らない。

 家に辿り着き、私は上着を着たままベランダに出る。日がさんさんと降り注ぐベランダ、アネモネのプランターを眺める。次々に頭を持ち上げてくる蕾たち。一重の花が小さな風に揺れる。藍色と一口に言っても、青に近い藍もあれば、紫に近い藍もある。白も、真っ白もあれば乳白色も。私は花をひとつずつ、指先でぽろんと撫でる。アネモネがもし、喋ることができたなら、今私に向かって何を言うのだろう。
 今朝方に見た夢が、急に思い出される。思い出しても仕方ないと頭を振るけれど、頭の芯に残像が残る。もう終わったことだ。すべて終わってしまったことだ。無理矢理に事実を捻じ曲げられ、被害者だった自分がまるで悪人のように扱われ、なのに最後、金をよこした。あの金は何だったのだろう。その問いは、これまでにもう何度も何度も、私の中で繰り返されている。でも、いくら繰り返したって、何も変わらない。そのことはもう充分過ぎるほど、私も思い知っている。
 立ち上がり、私はまた空を見上げる。ベランダの柵に背中を押し付けて、ぐいっと反らす。体中に陽光が降り落ちて来る。そんなことを考えても何もならないだろう、前を見よ、前を。おまえは今を生きているはず。まるで太陽が、そう耳元で言っているような気がした。
 私は目を見開いて、まだ空を見上げ続ける。陽光に次々突き刺さられて、私の視界はどんどんぼやけてくる。そして伸びを、ひとつ。
 さぁ、切り替えよう、自分の中のスイッチを切り替えよう。こんなこと考えていても何にもならない。私は今を生きなくちゃいけない。そう、今をこそ。
 じゃぁその今にやるべきことは何だろう、できることは何だろう、まずは掃除。それから本棚の整理。それから写真の整理。それから…。やることはいくらでもある。部屋に戻りながら、私は、やるぞっと声に出して言ってみる。大丈夫、このくらいどうってことはない。私は今をこそ呼吸しよう。
 遠くでサイレンの音が、延々と鳴り響いている。そんな、午後。


2005年03月30日(水) 
 さぁ今日こそは。そんな気持ちでカーテンを引き、窓を勢いよく開ける。窓から滑り込む風は滑らかであたたかい。いや、正確にはあたたかいとは言わないのかもしれない。が、つい二ヶ月くらい前なら鳥肌がたっただろう朝の風が、いつのまにかこんなにも緩み、私の肌を撫でてゆく。気持ちのいい朝。
 娘は顔がすっかりむくんでいる。それもそうだろう、昨夜、午前三時頃突然目を覚まし、約二時間、ぐずって泣いて過ごした。あれだけ泣けば瞼も腫れて当たり前。私が顔を洗っていると、娘がやってきて、珍しく自分から顔を洗うと言い出す。髪の毛を抑えてやると、小さい手でごしごし顔を洗っている。私は心の中でぷっと吹き出す。昔一緒に暮らしていた猫の顔洗いの仕草にそっくり。
 娘を保育園に送り届けた私は、そのまま元来た道を戻る。今日は何の予定もない貴重な日。明日は外に出掛けなければならない。その為にも、今日は家で静かに過ごして体調を整えなければと思う。
 園からの自転車での帰り道、ゆるい坂道を上ったり下ったりしながら、私は右に左にと余所見する。郵便局を通り過ぎてすぐの空き地、その角っこにはハナビシソウがもう蕾をつけている。ここのハナビシソウは確か橙色の花びらだった。以前別の場所で種を取ったのだけれども、あれやこれややっているうちにうちのプランターからは姿を消してしまったのだった。もう少し坂を下ると左に現れるのがスノードロップ。毎日毎日眺めているけれども、今まさに花盛りといった具合。風に揺れると花からちろりんちろりんと音が聞こえてきそうな気がする。そこを通り過ぎてしばらく行くと、毎朝この坂の両側に並ぶ街路樹に水遣りをやっているおじいさんのプランター群が現れる。そこは歩道の一角で、決して私有地ではないはずなのだけれども、そこに山ほどのプランターを並べて、季節毎におじいさんが種を植えている。そのプランターの中で、今、スイートピーの苗がぐんぐん育っている。私も小さい頃、何度かスイートピーを育てた記憶がある。ひらひらと曲線を描く薄い花びらが何ともいえず愛らしくて、いくら眺めても飽き足りない、そんな花だ。もう早々と蔓を伸ばしている。風が吹くごとに揺れるその姿は、なんだかゆったりとダンスしているようにも見える。そしてその反対側には、早咲きの桜。
 私は家に戻り、部屋中の窓を開ける。通りに面した窓からぐんぐん風は流れ込み、玄関側にある風呂場の小窓からまた外へ流れ出てゆく。私はその風を思いきり深呼吸し、とりあえず目についたものから片付け始める。
 街のあちこちで春が芽吹いている。空も風も光も雲も、みんな春一色。片付けながら私は時々ベランダに出て伸びをする。ふと南の空を見上げると、白銀の腹を輝かせながら飛んでゆく飛行機。
 昨夜娘が起きる直前まで焼いていたプリントは今、部屋の中、風鈴のようにひらひら揺れている。そっと触ってみると、すっかり乾いている。私は止め具を外し、プリントをひとまとめに重ねる。
 写真という言葉は、真実を写す、と書く。この真実或いは真(まこと)という意味は、一体どういう意味だろうと思う。事実なのか、それとも真実なのか。事実はともかく、真実というのはそれを持つ人の数だけ存在すると私は思っている。幼い頃は、事実も真実もひとつだと信じていた。でも、あの事件に絡んで弁護士をはさみあれやこれややっていくうちに体験したことから、私は、真実は人の数だけ存在するのだなと学んだ。いや、私はこう書いているけれども、それはまさしく私の真実であって、他の誰かのものではない。だから、他の誰かからみたら、私の言うことは真実でも何でもなく、もしかしたら嘘にさえ受け止められてしまうかもしれない。それを承知の上で敢えて言葉にするならば、真実はそれを持つ人の数だけ存在する、真実と事実とは大きな隔たりを持っている、私はそう、強く思っている。
 私の写真は多分、写す、のではないんだと思う。敢えて言うならば、私の写真は、作るもの、なのだと思う。私の中にある真実を、ネガという版を使って再構築し、それを印画紙に焼きつける。そういう代物だと、思う。でもそうしたものは、世間一般では何と称されるのだろう。先日遊びに行った写真工房のプリンターさんとは、写真は真実を写すものじゃぁないという方向でいつも一致をみるのだが、そのプリンターさんが、「今度君が個展やるときは、写真展じゃぁなくて作品展にした方がいいね、その方が世間には伝わりやすいかも」と話していた。「ネガの中から余計な情報をどんどん削除して、削って削って削り落として、本当に必要なものだけを印画紙に残していきたいと最近特に思うんですよ、もうどっさりばっさり殺ぎ落としちゃえ、みたいな」と私が笑うと、最近の画見てれば一目瞭然だと笑っていた。あぁ少なくともここに一人、画から感じて受け止めてくれる人がいるんだなぁと思うと、もっとどんどん作っていきたいとつくづく思う。

 昨夜あれほど寝不足だったろう娘は、でも、今夜もなかなか眠れないらしい。そんな娘を見つめる私の心の半分に、もういい加減さっさと寝なさいよ、と娘を急かす気持ちが充満し、でも、もう半分には、変なところが遺伝しちゃったみたいだねぇという申し訳ない気持ちが存在する。娘が最後「ママ、お歌歌って」と言い出す。半分苛々と、半分ごめんねと思いながら、私はとりあえず歌い出す。娘は一生懸命目をつぶろうとするのだけれども、すぐに瞼は開いて、あちこちをきょろきょろする。だから私が歌いながら瞼に手を伸ばすと、娘は再度目を閉じる。が、閉じた瞼がぴくぴく動いている。一体何度それらの行為を繰り返しただろう。もういい加減歌える歌がないなぁと思う頃、ようやく彼女は寝息を立て始めた。私はほっとする。ようやく解放されたかという思いが一瞬私の心をよぎる。けれど、それと殆ど同時に、今思ったことをなぎ倒す勢いで申し訳なさが増殖する。急かしてごめんね、無理矢理寝かしてごめんね。もっとやさしくできなくてごめんね、と。
 眠れないのは誰のせいでもない。誰のせいでもないし、もちろん、娘のせいなんかじゃない。なのに、眠れない娘を見ては苛々し、せっついて、彼女に苦しげで悲しげな顔をさせてしまう。そういう自分が多分、一番嫌いだ。彼女がようやっと眠ってその寝顔を見つめていると、明日こそ、と思うのに、それができない。いつだって、苛々と申し訳なさとが私の中に同居する。こんな両極端な思い、一体どうやって拭い去ったらいいんだろう。
 私は今、いつもの椅子に座っている。開けた窓からはぬるい風が時折滑り込んで来る。日記帳にこうして黙々と字を連ねながら、私は自分の中の矛盾する気持ちを、あれこれ幾つも思い浮かべ眺めてみる。どっちにもいけない、こっちとそっち、まさに振り子のように左右する。私の軸は何処にあるんだろう。
 そして見上げる空は街は、濃闇に覆われて。今夜も夜闇は淡々とそこに在る。誰に何に惑うことなく、ただここに、黙々と。


2005年03月29日(火) 
 きっと澄み渡る空を見ることができるはず、と思い込んで目を覚ました朝。カーテンがどんより垂れ下がっている。もしや、と思い窓際に駆け寄りカーテンを引くと、雲はまるで街に支えられているような暗さと低さ。一気に私の心がしゅぅぅぅっと音を立てて萎む。これじゃあきっと娘もがっかりするだろうなと思いながら娘を起こすと、やっぱり彼女は下を向く。つまんない。その一言がすべてなんだろう。二人してがっかりしながら、朝の仕度をする。せめてアネモネの花の色を見て元気になろうかとベランダを覗くが、日の光が殆ど降り落ちてこない天気では、アネモネもみな花びらを閉じている。
 そんな憂鬱加減を吹き飛ばすかのように、娘が自転車の後ろで歌い出す。歌は「手のひらを太陽に」。太陽は出ていないけれども、娘のあまりの大きな歌声に、多分太陽もびっくりして、雲の向こう、苦笑してるんじゃぁなかろうか。途中から私も彼女に合わせて歌う。
 久しぶりにMと会う。この半年というもの、次々置かれている環境が変化し続けている彼女だが、疲れたなどという素振りは一切見せない。いつ会っても彼女は若竹のようにびんとし、場合によってはすぱんときれいな切り口でもって割れてみせてくれる。だから彼女と話すと自然にこちらにも力が漲ってくる。それは決して押しつけがましいものではなく、自然にこちらに伝染してくるような具合だから、なおさらに心地いい。
 鴎ってさ、遠くから見るのがいいよね。どうして? だってさ、近づいて顔を露骨に見ちゃうとあんまりかわいくないじゃん。わはははは、確かにそうだけど。こうやって離れて見てると、あの白い翼も身体も美しいわぁなんて思って見惚れてられるけど。でも私、鴎は鴎で結構好きだけどなぁ。いや、嫌いって言ってるんじゃないよ、何せ海猫だしね。あ、ほら、あっち、セキレイだ。セキレイってお尻がかわいいよねえ。ぷりぷり振って歩くんだよねぇ。ねぇ、あのモクレンの枝に止まってるのってもしかしてメジロじゃないの? えー、こんな街中にはメジロはいないんじゃない? でもほら見て、メジロだよ、やっぱり。うわー、本当だ。この辺りの鳩って肉付きいいよねぇ、餌がたくさんあるんだろうな。自然の餌はないけど、みんな自分のパン屑とかあげちゃうんだよね、でも私、鳩は苦手。私はどうでもいい、わはははは。話が途切れない。何処までも続く。どうでもいいような内容が殆どなのだろうけれども、そういった話をしながら、私たちはお互いに、相手の声音に聞き耳を立てている。ちょっとでも様子がおかしいと、どちらともなく突っ込み合う。そんな関係。
 今自分の周りにいてくれる女友達を省みるとき、私はいつも、自分を幸せ者だなと思う。彼女らはみんな、私がパニックを起こそうと記憶を飛ばそうとリストカットを繰り返そうと、微塵も動じずにそばにい続けてくれた友人たちばかりだ。MにしろAにしろSにしろ…。事件を経てPTSDを抱え込むようになってから、離れていった友人がどれほどいたことか。その中に、私が当時大切にしたいと思っていた友人たちもたくさん含まれていた。この人とは生涯友達でいたいと、その当時は思っていたから、だから、彼女らが離れていったとき、私は絶望に近い気持ちを味わった。けれど、ほんの僅かではあるけれども、私のそばに残ってくれた友達がこうして存在する。幾つもの篩を潜り抜けて、最後の最後まで超然と存在し続けてくれた彼女たち。どれほど感謝しても足りない。そして、そういった友人を私が今持つことができているということを振り返ると、あの事件やPTSDも、捨てたもんじゃないなと思うことができる。ああした経験を経たからこそ、今こうして彼女らと思いきり馬鹿を言ったりやったりできる。私のどうしようもないところも含めてしっかり私を見続けていてくれる友達だからこそ、私は安心してそばにいることができる。そしてまた、彼女らに負けないくらいかっこいい女になりたいなぁとも思う。
 おかしなことを言うようだけれども。私は、今はまだ、男性の為に美しくなる、というのは怖い。恐怖を感じる。事件に遭う前、私は自分が女であることをとても誇りにしていた。女に生まれてよかったと心底思っていたし、自分の女性性を磨くことに対して躊躇いなどこれっぽっちも感じなかった。けれど、事件を経、PTSDに翻弄されるようになって、私は、男性の為に美しくなることに恐怖を感じるようになった。自分の女性性を磨きなどしたら、また同じ種類の事件に遭うんじゃないかと思えた。実際はそんなこと、犯罪に遭う遭わないなどには無関係なのだろうけれども、それでも、ほんのちょっとでも可能性があることならば、私はそれを否定したかった。
 今もまだ、恐怖はある。だから、仕事の都合で一対一で男性とやりとりするときなど、私は口紅の一つさえ引くことができないほど緊張する。この歳にもなったら化粧は女の礼儀のひとつだと思ったりもするのだけれども、恐怖や緊張の方が上回り、私は結局、顔色が悪くてもすっぴんを晒してしまう。自分はこの程度の女だから襲ったりしないでね、そんな魅力もないでしょ、とまるで露骨に示したいかのように。
 でも最近、ようやく、自分の周りにいてくれるかっこいい女友達たちのおかげで、ちょっときれいにしなくちゃな、と思うことができるようになった。異性の為にきれいになろうとすることにはいまだ強い拒絶を示してしまうけれども、ちょっと方向を変えて、周りにいてくれる女友達や娘の為に、そして何よりも自分自身の為に、ほんのちょっとくらいきれいになろうとしてみてもいいんじゃないかと、僅かながら思うようになった。だから、ついこの間も、娘にとって恥ずかしいお母さんじゃぁいけないよな、と、口紅を引いてみたりした。まだそれを日常的に用いることはできないけれども、少しずつ少しずつ、自分の中に余力が出てきたんじゃなかろうかと思う。
 いきなりひとっとびに、二つ三つ上の階段に飛び乗ることはできないけれども、一歩ずつ、いや、半歩ずつでも、前に進むことができるなら。やってみる価値はある。そうやって僅かずつでも、自分の世界を広げてゆくことができるなら。
 今日も寝つきが悪くなかなか眠ることができなくて、最後泣き出した娘の身体にそっと手を回しながら、私は歌を歌う。ゆっくりめに歌う。娘が鼻水をすすりながら聞いている。やがて鼻水をすする音が途絶え、かわいい寝息が聞こえて来る。私は眠り始めた娘の頬に、軽くキスをする。
 おやすみ。また明日ね。
 そして私はいつもの椅子に座る。窓の外、夜闇が色濃く垂れ込めている。そんな、夜。


2005年03月28日(月) 
 目を覚まし、窓の方を見やる。日差しが明るい日なら、部屋の橙色のカーテンは向こう側から光をいっぱいに受け、明るく燃えている。でも今日のような日は、しんと静まり返り、カーテンは少し、重たげに見える。私が窓に近づき、思いきり音を立ててカーテンを引くと、街は一面、薄灰色に染まっていた。見上げる必要がないほど空は街に近く下りており、私はその低さに窮屈さを覚え、ぶるっと身震いをする。
 娘を揺り起こす。そして二人で窓辺に立つと、娘が言った。「ママ、雨降るね」「うん、降るね」「今きっとね、空がいっぱい雨玉をおなかにいれてるんだよ。空のおなかはきっと、たぬきみたいにぱんぱんになってるよ」。空とたぬきとぱんぱんのおなかの絵面を想像して、私は思わず吹き出してしまう。「みうのおなかもぱんぱんよね」「ううん、ぱんぱんじゃないよ、ほらっ!」。そう言って娘ががばっと寝巻きをまくりあげ、思いきり凹ましたおなかを私に見せてくれる。
 娘と家を出る頃に、雨は降り出した。私たちは傘をさして歩く。水色の大きな傘とピンクの小さな傘。傘をさしながら手を繋ぐと、繋いだところに雨が傘からぽたぽた落ちて来る。ママ、雨、冷たくないね。うん、もう冷たくない、春だからね。春になると雨もあったかくなるの? そうねぇ、あったかくなるねぇ。じゃぁ夏になったら暑くなるの? え? いや、暑くはならないんだけど…。暑い雨が降って、みんなあっちっちーってなるの? いや、そうはならないんだけど、えーと、ほら、あっつい雨が降ったら大変でしょ? みんな外歩けなくなっちゃうし、夏はそれだけで暑いから、逆に、みんな涼しくなりましょうって言って雨が降るんじゃないの? そうなの? …多分、きっと。ふーん…変なのぉぉ。うまく彼女に説明できなくて、私はしどろもどろ。苦笑しながら、彼女の横顔を見やる。前を向いていてもきょろきょろ左右に動く瞳。今あの瞳には、何が映っているんだろう。
 病院から家に戻り、再び窓の際に立つ。街中が雨でけぶっている。私はぼんやり、ただその景色を見つめる。雨の一粒一粒が、まるで生き物のように見える。一粒一粒があれやこれや耳打ちし合いながら空から落ちて来る。そんなふうに。
 降りしきる雨をこうやって眺めていると、雨はとてもやさしげに見える。乾いた街をしとしとしとしとと濡らし、それは決して雨の無理強いではなく、街の方から雨に近づくように誘い、そしてじきに街中が濡れてゆく。湿ってゆく。雨が止んだ後の街はだから、何処までも輪郭がやわらかい。乾いている最中では尖るばかりだった線も、雨を吸って思いきり伸びをする。特にこれからの、新緑の季節に降る雨は、降る毎に土から精気を呼び起こす。土がこれほど少なくなった街の中でさえそれが感じられる。私は目を閉じ、しばらく記憶の片隅を辿る。裏の小学校に生えるプラタナスの樹々、埋立地の広い道沿いに並ぶ銀杏の樹、港へ真っ直ぐ降りてゆく急坂の途中で連なる壁を埋め尽くすように絡み合う蔦、様々な緑が、雨が降る毎に色濃くなってゆく様。それらの緑のそばで深呼吸すると、胸の中まで緑色に染まるような錯覚を覚える。今年もまた、そんな季節がじきにやってくる。冬が去ってしまったことは寂しいけれども、そんな季節が近づいている、そのことを思うと、今から緑を呼吸することが楽しみでならなくなる。今年の緑はどんな色合いだろう。どんな匂いがするだろう。

 娘と夕ご飯を食べながら眺める天気予報。気象予報士が各地の桜の開花についてのニュースを流す合間に、この雨は催花雨と呼ばれる類の雨だと話す。催花雨。桜の開花を促す雨であるなら、催よりも誘の方がより合っている気がする。そんなことを思いながらふと隣の娘を見やると、娘は大きな口を開けてめかぶの皿に食らいついていた。めかぶや酢の物、納豆が好きな幼子というのも、ちょっと笑える。
 降り続く雨。娘は眠れなくて、椅子に座る私と寝床を何度も往復する。少し苛々しながら、私はふと思う。催花雨じゃぁなくて、今だけでも催眠雨になってくれないものだろうか。娘の眠りと、それから、できるなら私の眠りも。
 ふと左向こうの柱を見やると、昨日娘と生けたアネモネと黄色い野草。壁掛用の細い花瓶の中で、みんな花びらを閉じて眠っている。きっと今頃、ベランダのプランターの中、薔薇の樹もアネモネも眠っているに違いない。身体中で日差しを浴びることを夢見ながら。
 布団に横になってから約二時間、ようやく娘の寝息が聞こえてきた。忍び足で布団に近づいてみると、私が横になる場所にありったけのぬいぐるみを並べて、自分は布団の端っこで毛布を思いきり蹴飛ばして眠っている。彼女のおなかに、私は薄いタオルを掛け直す。そして彼女の足元にしゃがみ、思い出す。私もベッドの大半をぬいぐるみで埋め尽くし、自分はいつ落ちてもおかしくないような端っこの位置でよく眠っていたな、と。今振り返ればそれはもう、懐かしい思い出。
 さぁおやすみ。明日君が目が覚める頃には、この雨もすっかり、上がっているに違いない。


2005年03月27日(日) 
 夜中何度も娘が目を覚ます。左肘の内側がかゆいらしい。暑がりな娘は布団を思いきり蹴飛ばしてぐずっている。ママ、かゆい、ママ、暑い、その繰り返し。皮膚を傷つけないように肘を薄いタオルで包んで掻いてやるのだが、それだと足りないらしい。何度も何度も半泣きになる。ほぼ二時間おきに目を覚ます娘は、だんだん目が冴えてきてしまったらしく、最後、本を読んでもいいかと言い出す始末。仕方ないので、午前四時半の布団の中、二人で本を読む。そしてもう一度、眠るために歌を歌う。「大きな古時計」に「花」、そして「砂山」に「おぼろ月夜」。なかなか眠れない娘の為に、私は三回ぐるりと歌い続ける。
 日曜日。私が洗濯物を片付けている間、娘は一心にぬりえを為している。このところサインペンでしゃしゃしゃっと塗っていたのに、今日は再び色鉛筆に戻っている。昨日ばぁばに「色鉛筆の方がやわらかい色合いになってきれいよね」と言われたせいだろうか。私は黙って、作業の合間合間に彼女の為すことを見つめている。三センチ四方の透明な鉛筆削りの使い方を彼女に先日教えたところ、最初は戸惑っていたものの、今日はもう、上手に使いこなしている。ママ、見て、みうできるようになったよ。そう言って動作を見せてくれる。そのおかげか、箱の中に並んだ娘の色鉛筆の先が、今日はみんなきれいに尖っている。
 私は一通り洗濯物を終えるとプランターに水遣りを始める。一番最初にアネモネに水をやろうとして気づく。違う種類の花が咲いている。
 昨日までに花開いたものはみな、一重咲きだった。しかし今日、新しく頭を持ち上げて蕾を開いたものは、白の八重咲き。一重咲きは儚げだけれども、この八重咲きは妙に賑やかに、そして強そうに見える。一番外側の花びらは一重咲きのものとよく似ているが、内側がぎざぎざとギャザーが寄っていて、同じアネモネとは思えない。しばらくじっと見つめてから娘を呼ぶ。花を見るなり、娘が言う。「これは何の花?」。やっぱり娘の目にも、全く違う代物に見えたらしい。「これはねぇ、多分、八重咲きのアネモネなんだと思うのよ」「八重咲きって何?」「八重咲きっていうのはねぇ…」。白と藍色とそのグラデーションと。そして一重咲きと八重咲きと。こんなにいろんな種類がひとつのプランターに収まっている様子は、まるで大勢の子供たちの食卓のようだ。みんながみんなそれぞれの個性を持ちながら、笑い合っている。風に揺れると、その笑い声が鈴の音のように辺りに響く。
 薔薇の樹も負けじと次々に新芽を吹き出している。大輪の薔薇の樹は健康そのものなのだけれども、ミニ薔薇の樹がどうもおかしい。先日からずっと、うどんこ病を患っている。あれこれ対処し、その直後はいいのだけれども、数日するとまた、病気が露骨に現れてくる。今日は病葉をひとつひとつ摘んでみる。そして水をやり終えた後、消毒液を吹きかける。早く治ってくれるといいのだけれども。
 せっかくこんなにいい天気なのだから、と、娘を誘って散歩に出る。本当は中華街辺りまで自転車で出かけようかと思っていたのだけれども、それはまたこの次にして、今日は家の近所をぐるぐると。この辺りは人しか通れないような小道がたくさん入り組んでいる。だから私たちは、適当に曲がったり何したりしながら、あちこち歩く。歩いてる途中で、アスファルトの小さな割れ目に根をおろし花を咲かせた蒲公英を見つける。ママ、こんなところで狭くないのかなぁ。狭いかもしれないけどすごいよね、こんな場所で花咲かせちゃって。きっとこの蒲公英は元気なんだよ、えいやってここの間に入っちゃったんだよ。なるほどぉ、それでここに咲いてるんだ。うん、きっとそうだよ。
 歩いているうちに、あちこちのアスファルトの隙間から芽吹いている雑草たちに出会う。私たちはそのたびに立ち止まり、この草はねぇ、と話す。娘は次々あれやこれやの理由を見つけて私に教えてくれる。それがたとえ彼女の創造の産物であっても楽しい。そして私たちは最後、名も知らぬ黄色い花を幾つか手折る。日が陰るとあっという間に花びらを閉じてしまうその花が、強い風にぶるんぶるんと揺れる。
 家に戻り花瓶に差してみると、これだけじゃちょっと寂しいということで、一番最初に花開いたアネモネを一本、切ることにした。白と藍のグラデーション、一重咲き。黄色い花の間にそのアネモネがささると、一挙に花瓶が賑やかになる。かわいいねぇ、きれいだねぇ。私たちはおやつを食べながら、その花たちのことをあれこれ話す。
 休日はあっという間に過ぎてゆく。どうってことのない一日。何のイベントもなく、淡々と過ぎただけの一日。けれど、その淡々としたリズムが、私の張り詰めた神経をそっと撫でてくれる。そして、そんな一日の中で幾つ、娘と二人で素敵なことを見つけられたか。そのことが、私の心をうきうきさせる。
 肥料は何も、特別なものである必要はないのだ。わざわざ買った、専門の肥料も、確かにプランターの中にまかれている。でも、固まろうとする土を解し、その中に米屋で分けてもらったぬかを混ぜることでだって、樹々や花々は充分に美しく咲く。私も多分きっと、特別な何かなどでではなく、当たり前の毎日の中でこそ、自分が休まるのかもしれない。そんなことを、ふと、思う。


2005年03月26日(土) 
 一週間ぶりに訪れた母の庭、梅の花はもう殆ど散り落ちて紅色の芯が枝に残るばかりになっていた。その代わり、金木犀や蔓薔薇などから新芽が次々と顔を出している。気の早いテッセンなど、新芽だけではなく蕾まで。紫陽花の樹々は庭のあちこちで芽を開き、真新しい黄緑色がつやつやと輝いている。日陰に植えられた草たちも、日の光を少しでも多く得ようと必死になって体を日溜りの方へと伸ばす。それらを庭の真中にしゃがみこんでじっと見つめていると、まるで命の畑の真中にいるような気持ちになってくる。あれこれ頭で考えて悩み込んで立ち止まってしまいがちな人間とは違って、植物は本当に正直だなと思う。風と太陽と水と土と。巡りくる季節に従って、あるがままに成長を続ける。
 娘は大好きなばぁばと遊んでいる。時々じぃじがその様子を見にやって来るのだが、娘はわざとじぃじをいじめて喜んでいる。じぃじ、見ないで。じぃじ、こっちに来ちゃだめ! じぃじ、そこはばぁばの場所なのよ、じぃじは座っちゃだめっ! よくもまぁここまでいじめられるものだと笑い出したくなるような、小さな理由で次々じぃじをやっつける。我が子にはこれでもかと冷たく当たった父が、今、こうやって目の前で孫である私の娘にやっつけられる姿は、滑稽としか言いようがないのだが、もうひとつ、あぁこの人は子供にどういうふうに接したらいいのか全く知らない人なのだなぁと気づく。私や弟に対して、あれほどつれない態度をとり続けた父。今孫にいじめられてもいじめられてもめげずにちょっかいを出しにやってくる様子を見ると、こっそり吹き出してしまうのだけれども、同時に思うのだ、こんな不器用な人、他に知らない、と。そして、自分の過去を思い出し、私は心の中、父を赦してしまうのだ。いろいろあったけれど、もういい、と。今こうして孫を囲んで笑い合える幸せをこそ、大切にしたいな、と。つくづく思う。
 省みれば、寂しい子供時代だった。私も弟も、父母からの愛に飢えていた。飢えて飢えて、からからになって、だから私たち二人は、二人きりで必死に円を作り、その中でお互いを支え続けた。そうやって大人になった。けれど、父も母も多分、愛情が足りない人ではなかったんだろう。愛情が足りないのではなく、溢れ出る愛情をどうやって表現し相手に伝えたらいいのか、それがわからなかったのではなかろうか。二人ともそれぞれに、不器用な人だったのだな、と、今更だけれども、私は気づく。
 久しぶりに父と話をする。大叔母の死やごく最近あった私の友人の自殺の話から始まり、果ては私の身の上に起きたあの出来事についても。こんな話を父と私が長々と話をしたのは、多分初めてなのではなかろうか。以前は、私が自分の抱え込んでいる症状について語り合うことなど、絶対にできなかった。それが、みうという私の娘が産まれ、そして私が離婚を経たことによって、再び結びついた親子の緒が、今は、そういった話を交わすことを助けてくれている。話があの事件に及び、私がふと、
「私にとって何より耐えられないのは、もし未海が私と同じ事件に遭遇してしまったら、という、そのことに尽きるなぁ」
と言うと、父はしばらく黙って、そしてこう言った。
「運が、あるんだろうな。親だからといって何処まで子供を守れるか、多分そういう事件からずっと守り続けることなんて、誰にもできないのだから」
 そして父が続ける。
「こんなことを言うのは無責任だと思うが、ああいう事件に遭ってしまったことによっておまえには失うものもたくさんあっただろうと思う、でも、あの事件を経たからこそ、得られたものもまた、在るんだと信じるよ、俺は。ああした事件を経なければ得ることができなかったものが、おまえにはきっと備わってる、それはきっと、形によってはおまえをとても強くしてくれると俺は思っている」
 まさか父からそんな言葉が出るとは思わなかった私は、しばらく沈黙した。そして、応える。
「うん、あんな事件に遭わないで済むなら遭わないで生きていける方がずっといいと思うけど。でも、遭っちゃったんだからもうしょうがない、あとは自分とあれこれ折り合いをつけて生きていくほかないよね」
「大丈夫だ、おまえには未海もいるんだから。未海が産まれたことで、おまえはどれほど自分が強くなったか、分からないだろうなぁ。でも俺や母さんから見てるとな、このニ、三年でおまえがどれほど変わってきたか、とてもよく分かる。だからいつも母さんと言うんだ、未海が産まれてくれた、そのことに感謝だなって。おまえには俺たち、どれほど苦労させられたか、でも、おまえが未海を産んだ、ただその一事で、何もかもちゃらになった、それほどに、未海の存在は大きい。俺は未海に多分、ずっと感謝していくと思う」
「うん、私も…」

 父母の家を後にし、私たちは家路につく。家に辿り着くと、娘はあっという間に眠ってしまった。そして私はひとり、いつものように椅子に座り、いつものように開けた窓から外を眺めている。
 日記を書きながら、ここ数日に記した頁をめくってみて、苦笑する。自分の具合の悪さにばかり目がいって、私はちっとも外を向いていなかったなと気づく。余裕のなさが、ありありと出ている記述ばかりで埋まっている。これじゃぁ自分で自分の落とし穴を深く深く掘っているようなものだ。
 今日は今日、明日は明日、別に私一人が疲労にまみれているわけじゃない。誰だって多少の荷物は背負っているものだ。穴掘りはもうやめた。明日はこの穴の中でーんと寝転がって、青い空でも見上げて歌でも歌おう。
 大の字になっている娘に布団を掛け直し、私は耳を澄ます。規則正しい寝息が私の耳に届く。私をほっとさせるその寝息。そして私は再び窓際に戻り椅子に座る。
 目を閉じれば浮かんで来る、今日歩いた道筋に咲いていたオオイヌノフグリの澄んだ青色や目が覚めるような濃いピンク色の花を咲かせるエリカの樹。世界はいつだって、誰にだって平等に開かれている。そこに手を伸ばすのは自分自身だ。ただそれだけ。
 もうしばらくしたら今日は横になろう。そして明日は、娘といっぱい遊ぼう。見上げる夜空に黄身色の丸い月と星が三つ、ちらちらと私の視界の中で今、瞬いている。


2005年03月25日(金) 
 相変わらず込み合う電車の中。乗り合う人々にはまだ冬の装いが残っている。これが冬だからまだいい。夏、直接肌と肌が触れ合うようになってしまうと、私はこんな込み合う電車の中では立ち続けていることができなくなる。どう身を縮ませて乗り込んでみても、電車が揺れるたびに誰かの肌が自分の身体に触れる。しかも、電車は一度駅を出てしまったら逃げ場がない。次の駅に着くまでひたすら辛抱しなければならない。その際にぺたっと誰かの肌が私に直接触れてしまうと、私はもうそれだけで、金縛りにあったような状態に陥る。必死の思いで次の駅まで自分を保ったとしても、駅に降りたらそのままトイレへ直行。こみ上げる吐き気に任せて、しばらくトイレに篭っていなければならなくなったりする。それでも、ずいぶん以前よりはましになったと思う。トイレに駆け込まなければならない回数が、僅かずつとはいえど、減っている。こうやって慣れていけたらいい。
 昔はこんなではなかった。中学生以降、片道二時間通学だった。人が乗れないほど込み合う電車の中で立ち続けていることは、難しいことなどではなかった。確かに、直接誰かの肌に触れれば、それはあまり気持ちのいいものではなかったけれども、それでも、吐くようなことはあり得なかった。
 それもこれも、PTSDを抱え込んでからの症状だ。いったん抱え込んでしまったこの症状を克服するのに、あとどのくらいかかるのだろう。一度失ってしまったものは、なかなか元には戻らない。割れた鏡だって、いくら欠片が全部揃っていても、元のまっさらな状態には戻れないように。一度壊れたものをいくら復元してみても、それはやはり、壊れたという過程を経て再度組み立てられたものでしか、ない。
 ようやく辿り着いた駅。降りて改札をくぐり、階段を上がれば、そこに花屋がある。この花屋の存在は、私にとってとても大きい。花が在る。たとえそれが根を切り落とされた代物であっても、そこに花が在るというそのことが、私を助けてくれる。買うわけでもないのに花屋の前に立って、しばらく花を眺めて過ごす。スイートピーの桃色、トルコキキョウの白と紫、ガーベラの橙色。私の目の中でゆっくりそれらの色が溶けてゆく。そして私はようやく、深呼吸をする。
 道々、何度も立ち止まり呼吸を整えて、また歩き出す。その繰り返し。調子のいいときはどうってことのない道程でも、体調が悪いと、一体何処まで歩けば着くのだろうと途方に暮れる。強い風が私の髪の毛を煽る。下ろしていた髪の毛を一つに結わき、私はてくてくと歩き続ける。ビルの影から抜け出て日溜りに出ると、途端に体があたたまる。日向と日陰のこの温度差。空を見上げてみる。立ち並ぶ背の高いビルに囲まれて、見上げる空は小さく切り取られているかのように見える。薄く雲が立ち込めているのか、それとも空気が濁っているのか分からない。私は眩しくて再び下を向く。
 ようやくの帰り道、空いた隅っこの席に座る。電車は小さく揺れながら走り続ける。もう少し行くと川を渡る。その川の姿を捉えられるように、私は体を少し捻る。かつて住んでいた街。通い慣れた駅を列車は素通りしてゆく。そして川が現れる。
 水量が少ないと川の端のあちこちに泥の山が現れる。一時期より水質が良くなったというようなニュースをテレビで見たけれども、あまり変わっていないようにしか見えない。今はまだ川の両岸は薄茶色だけれども、季節になれば緑で敷き詰められる。コンクリートの間から生えて来る蒲公英、泥山に立つように揺れる薄、そういえば一度、まだよちよち歩きだった娘とここへ来て、クローバーの腕輪を作った記憶がある。花が少なかったから、殆ど葉っぱで作った。娘はその腕輪をはめて走りだし、そしてあの辺りで転んだのだった。
 私があれこれ思い出している間に、電車はあっという間に川を渡り、次の駅へと向かっている。体の向きを元に戻し、私は鞄から本を出しかける。出しかけて、戻す。本を読みたいという気持ちはあるのだけれども、今活字を追う気持ちになれない。私は眺めるでもなく窓の外をぼんやりと見やる。窓の外、次々流れ去ってゆく景色。こんなふうに、全ての記憶が後ろに流れ去ってしまえばいいのに。そんなことを、ふと、思う。
 いつものように自転車を漕ぐ気力が足りなくて、私は歩いて娘を迎えにゆく。娘と手を繋ぎ、坂を上り、坂を下り。ちょっとママ具合が悪いの、と言った私に、彼女はあれこれ世話を焼いてくれる。ママ、お荷物持ってあげようか。ママ、みうが引っ張ってあげようか。じゃぁママ、みうがお歌を歌ってあげる。
 食事の折も、いただきますと一緒に言ったものの、物を食べることができないでいる私に、娘が言う。ママ、ママの分みうが食べてあげるからね、だから残していいよ、苺だけ食べれば? そして彼女は、私の前にあった皿を自分の方に引き寄せ、必死に全部食べようとする。みう、そんなに食べたらおなかがぱんぱんになってはちきれちゃうから、それは残していいよ。ううん、食べる。いいよいいよ、じゃぁみう、その残ったのでお握りを作っておこう、そしたら明日の朝食べられるでしょ? うん、じゃぁお握りにしよう。ラップでご飯を包み、適当に握って作るお握り。娘が空いた皿にそれを載せてくれる。テーブルの真中にちょっと大きなお握り一つ。もうすっかり冷めたご飯なのに、何となくあったかそうに見える。
 娘が眠る前、せめて歌だけでもいつものように枕元で歌おうと思ったのだけれども、みうがすかさず言う。ママ、今日はみうがお歌を歌ってあげるから。そうして彼女が歌い出したのは、やっぱり「花」と「大きな古時計」。そして今日はもう一つ、「砂山」が加わった。海は荒海、向こうは佐渡よ、すずめ鳴け鳴け もう日は暮れる、みんな呼べ呼べ、お星様出たぞ。懐かしい歌。
 娘が眠った後、私はいつものように椅子に座る。そして、「砂山」の歌詞をひらがなですべて書き記してみる。これでもう大丈夫だろう。明日娘に渡そう。そうすれば、言葉に詰まったときもすぐにこれを見て辿ることができる。まだ譜面の読めない彼女は、すべてを耳で覚えてゆく。もちろん、覚えたといっても、すぐにあちこち旋律が崩れてしまうのだけれども。
 私はこれらの歌が示すような、日本語で記された昔の歌がとても好きだ。日本語独特のやわらかさ、しなやかさが歌のあちこちに漂っていて、声に出して歌うのはもちろん、ただ目で歌詞を追うだけであっても心地いい。いつか、これらの歌が似合わなくなるような未来がやってきて、これらの歌を授業や何かで教わっても、もうその景色や匂いなどこれっぽっちも思い出せなくなるときがくるのかもしれない。今だって、たとえば戦争にいった父親を母と二人で待つ歌「里の秋」などを自分が歌うと、実感としては分からない。分からないけれども、歌詞の中に映像があって、私はそれを辿る。でも、そんな映像は、自分の中で重なる何かがあるから思い描けるのであって、そうでなければ、歌詞はきっと人の心を素通りしていってしまうのだろう。そう思うと、少し寂しい。娘にとってどうなんだろうか。まだ意味を知らずに、歌うことが楽しくて歌っているだけのこともあるだろうが、できるなら、彼女の中にも、何らかの方法で映像を残してゆくことができたならと思う。
 窓から滑り込む風が、昨日より冷たく感じられる。じんわりと染みてくるような冷たさ。私は構わずベランダに出て空を見上げる。白く輝く丸い月。そして数えるほどだけれども闇の中瞬く小さな小さな星屑。吐く息がまだ、僅かに白い。この白さももうじき、溶けて消えてゆく。ベランダの手すりに手を置くと、冷たさがまっすぐに伝わってくる。私はさらに強く握り締めてみる。今のうちに名残惜しんでおこう。冬はもうじき、遠くへいってしまうのだから。


2005年03月24日(木) 
 写真をあれこれいじっていたら、あっという間に夜が明けた。もうすっかり空が明るくなってからそのことに気がついて、私は慌てて布団に潜り込む。ぽかぽかにぬくんでいる娘の体をぎゅぅっと抱きしめて、好きだよぉ、なんて言いながら瞼を閉じる。眠れるわけではないけれど、こうやって娘と同じ布団で寝られるのもあと僅かだろうなと思うと、一晩に一度は布団に潜ってこうやって抱きしめたい。そして、好きだよぉとか愛してるよぉと声に出して言いたい。言わないと、もったいない気がする。でも、そうやって気持ちいい思いをする代償のように、時々痛い思いもさせられる。今朝も、大きく寝返りを打つ娘の腕に思いきり顔面をぶたれ、閉じた瞼の下で火花が散った。
 娘を後ろに乗せて走る自転車。日差しがあたたかくて、私たちは今冬初めて、上着を着ずに自転車に乗る。坂を下り、次は上ってまた下り。その間中、娘が後ろで歌っている。今朝は「花」。最近の彼女のお気に入りは、「大きな古時計」と「花」だ。「花」なんて、どうしてこんな渋い歌を彼女が気に入ったのか、つくづく不思議でならない。もちろん私自身はとても好きで、だから彼女の枕元でよく歌うのだけれども、近頃は彼女の方からリクエストしてくる。そして、私が歌い出すと彼女も声高らかに歌い出す。眠ってもらうために歌を歌っているというのにこれでいいんだろうかと思わないわけじゃぁないけれど、あまりに機嫌よく歌ってくれるので、止めるわけにもいかず。子守唄、ではなくて、まるで合唱。毎晩そんな具合に夜が更ける。
 込み合う電車に目をつぶって乗り込む。それはまさにおしくらまんじゅう。私は揺られている間中、坂道に咲いているスノードロップの花を心に思い描く。風にゆらゆら揺れながら咲いていたスノードロップ。美しい艶やかな緑の葉の間々に白い小さな花がぽゆりと揺れて。いつもあの花のそばを通るとき思うのだ、一輪でもいいから持って帰りたいなぁと。思うのだけれども、花を折ることが結局できなくて、そのまま通り過ぎる。
 ようやく駅に着き、開いた扉から客が溢れ出す。目を開けて私も歩き出す。誰かの体にこれ以上触れるのは恐いし、転ぶのも恐いから、ひたすら足元をじっと見て歩く。とにかく駅を出てしまえば何とかなる、そんな思いで。

 昼前に部屋に戻り、作業を始める。たいした仕事じゃないといえば確かにたいした仕事ではない。けれど、もしこれを、家の外、たとえば会社という場所でやろうとすると、私は仕事をするということ以外のことにも神経を使わなくてはならなくなってしまう。後ろに人が立つだけで硬直する体、ふいにパンクしそうになる呼吸、見たくない映像、そういった諸々の症状と戦いながら仕事をするよりも、家で仕事をする方がどれほど楽か知れない。家で為す仕事を得ることは思った以上にしんどくて、割に合わないものが殆どだったりする。それでも、人前或いは街中で突然ばったりと倒れてしまうよりも、この方がいい。
 合間にベランダに出て、アネモネを眺める。ひとつ花が咲き出すとあっという間なのだなと思う。次から次に蕾が顔を上げ、日差しを浴びて開いてゆく。白ではあまり分からないけれども、藍色の花たちをこうやって眺めると、花のひとつひとつが全て違う色をしていることがありありと分かる。何処かの流行歌で、確か、ナンバーワンじゃなくてオンリーワンだというような意味の歌詞があった。本当にそうだよなと思う。たとえば梅でも沈丁花でも、まるで全て同じように見えるひとつひとつの花だけれども、あれもみんな違う。めしべの位置、おしべの位置、花びらの付き方、そして、私の鼻では区別がつかないけれども、多分、匂いもひとつひとつ違うのではないかと思う。強い風が吹けば大きく左右に揺れ、そよ風には小さく揺れる。風が止めば元の位置に戻り、そしてまた、太陽を追ってゆっくりゆっくりと左から右に向きを変える花。なんてしなやかなのだろう。こんなしなやかさを私も持つことができたら。もしかしたら、もしかしたら時間を超えてゆくことも、もっと楽になれるかもしれない。

 作業も終わりに近づいた頃、突如時計がじりりと鳴り出す。娘を迎えに行く時間の少し前にアラームを合わせておいたのだった。合わせたことなどすっかり忘れていた私は驚いて、思わず持っていた辞書を足の上に落としてしまう。その一瞬、友人が私を越えて電車に飛び込んだ、あの時の映像がフラッシュバックする。心臓が凍り付き、私は足の痛みも忘れ呆然と立ち尽くす。あっという間に呼吸が浅くなり、苦しくなり、私の胸の辺りはぱんぱんに膨れ上がる。破裂する、そう思った直後、私の耳に電話の音が突き刺さる。金縛りにあったように硬直している体を何とか動かして受話器を握ると、心友の声が。途端に私の体はがくがくと崩れ、畳の上に崩れ落ちる。助かった。そう思った。今のこの状況を知らない心友の声に、私は心底ほっとする。
 いつもの道、いつもの風、いつもの並木道、いつもの坂、いつもの。私たちの日常はどれも、たくさんの「いつもの」何かで支えられている。いつもの何かはそこらじゅうにいくらでもあって、挙げ出したら多分、きりがない。そんな、日常を当たり前に支えているものたち。でもそれは、本当に当たり前なんだろうか。いや、当たり前は当たり前なのだ、でも。
 あれこれ考えているうちに、私は可笑しくなって笑ってしまう。一体何をやっているのだろう、自分は。そんなふうにいちいち立ち止まっていたら、きっと群れから逸れてしまうに違いない。私は、心の中で、羊の群れを思い描く。群れて暮らす羊たち。その群れからすっかり逸れてしまい、ひとり森をさ迷う幼い羊。そして、あの木陰には狼が隠れているんだ。今まさに目の前の獲物に飛びかかろうと身構える狼が。
 ふと私が日記帳から顔を上げた瞬間に、窓の向こう、雷鳴が轟く。少しくぐもっていながらも、地の底から響いて来るような音。強まる雨足。あぁ、この雷雨、もう春のものだ。私は理由もなくそう思う。もう春だ。冬ではない。雨の向こう、冬が手渡したバトンを持って、春が走り出す姿が見えるような気がする。じきに街中の樹々の枝からは次々と新芽が芽吹き、足元では色とりどりの花が咲く。その花が散り落ち、やがて目を射るような日差しで燃える夏が来る。季節はそうやって巡ってゆく。決して止まることはなく。


2005年03月23日(水) 
 せっかくアネモネが咲き始めたというのに、街はどんよりと濁っている。降り続く細かな雨。空から雲が降りてきている、そんな錯覚を起こしそうなほどに、雲は低く垂れ込めている。まるでこの街を丸ごと飲み込んでしまいそうな。
 昨日。いつものように病院へ行く。予約の時間ぎりぎりに着いた受付、私の他に誰もいない。なんとなくほっとする。椅子に座り、荷物を横に置き、私はその荷物を枕代わりに少し横になる。
「先生、夢が現実とごっちゃになってしまうんです」
「…」
「目が覚めても、今ここが何処だか分からなくなる。夢が示す時間の方が強烈で、時間軸が一体何処にあるのか分からなくなる。もし今隣に娘が寝ていなかったら、私は多分、夢の時間軸に引きずられて、一日をずれたまま過ごしてしまうと思う」
「どんな夢を見るの?」
「言いにくいんですけど…私もこの歳になれば、過去にいろんな人とつきあってきて、セックスもしてるわけですよね」
「…」
「そういった人たちが次々に出てくる」
「…」
「一番最初は加害者でした。あの人。場所は何処だか分からないんですが、後ろ向きに出てきて、逃げなきゃと思う、でも体が動かなくて、気がつくとその人が振り向こうとしてる、あぁ振り向いてしまう、逃げなくてはと、そう思った瞬間私は絶叫しそうになるんですが、そこで目が覚める。目が覚めても、体のあちこちに感触が残ってるんです、あのときの感触が。感触だけじゃない、匂いも残ってる、だから私、分からなくなっちゃうんです、現実と夢とがごっちゃになる、私が今いるのは、まさにあの場面だと思えてしまう、だから私、パニックになるんです、何が何だかわからなくなって」
「…」
「それだけならまだいい、でも違うんです、それだけじゃなくて、過去私がセックスしたことのある人たちが、セックスしたことのあるっていえばもちろん私が自分でお付き合いした人たちなんですけれども、そういう人たちが次々に出てくる、そして、私はどんどん吐き気を覚える、眩暈がして、頭の中がぐるぐるになって、もう何がなんだかわからなくなってしまう」
「…」
「全てを引き裂きたくなるんです、何もかもを。赦せなくて。そしてその矛先は、全部自分に向くんです。何が赦せないって、自分が一番赦せない、だから自分の体も心も全部、めったくそに引き裂きたくなる、もうその衝動が止まらないんです」
「…」
「自分が、きたならしいもの、けがらわしいもの以外の何者でもありえないって思える。もうとてもじゃないけど赦せない、もう木っ端微塵にしてしまいたい、自分を。その衝動を抑えるのがどんどん難しくなっていく」
「怒りが表出し始めているのね」
「分かりません。これが怒りというものなのか、それ自体分からない。夢の中で何度も強姦されている、そんな気分に陥る。セックスのシーンなんて出てこないんですよ、ただその人がそこにいる、それだけなのに、そう思えてしまう、そして、ありとあらゆる、それらにまつわる全てが、とめどなく私に押し寄せてきて、私は呑み込まれる、そして私は、自分を抹殺したくなる。体が勝手にそう動いてしまいそうになる」
「…」
「…もしも今、娘が隣にいなかったら、私は間違いなく自分を切り裂いてる」
「そうね、きっとそうなってしまうわね。でも、現実には未海ちゃんがそこにいる」
「そうなんです。娘がいる。だから私は、どんなに自分を引き裂きたくても我慢しなくちゃいけない、耐えなくちゃいけない。その両極があまりにそっちとこっち、正反対で、だから私はその両方にに引っ張られて、自分が真っ二つに裂けてしまうんじゃないかと思えて仕方がなくなります」
「それは夢なのよ。夢と現実を間違えたらだめよ。そして何よりも、あなたは何も悪くない」
「…私は、何もかもが自分が悪いとしか思えない。悪いっていうか、自分が穢れた塊としか思えなくなる。だから木っ端微塵にしてしまいたくなる、自分を」
「夢なの。夢と現実は違うのよ。あなたは何も悪くないの、それを忘れないで」
「…」
「でも先生。私、何より赦せないのは、多分、あの事件の後、加害者に何度も強要されて、自分もそれに従ってしまったというその事実だと思う。誰も味方がいなくて、なのに仕事していかなくちゃいけなくて、仕事を教えることと引き換えに強要された、それがたとえ強要されたものであったとしても、私が、この自分が、それに従ってしまった、その事実がある。それは消えない。私はそれが何より耐え難い、耐えられない…」
「でも、そうしなければ、あなたはあの状況を生き延びてくることはできなかったのよ。あなたは生き延びるために、必死にその状況を越えてきた、それは間違いなんかじゃないわ。よく頑張って生き延びてきたと私は思うわよ」
「…」
「そうでしょう? 自分がどれほどの思いをしてここまで生き延びてきたか、あなたのその思いがなければここまで生き延びてくることなんて、とてもできなかったと思うわ。そういう自分をちゃんと認めてあげなくちゃ。あなたはこれっぽっちも悪くない、穢れてもいない」
「…」
「…」
「私は、私自身を何よりも赦せないんだと思う。あの時もっと抗っていれば、もっともっと何とかしていれば、あんな事件、起きなかった、そう思えてしまう。そうすれば、あの事件の後の一連の出来事も、何も起こらずに済んだ、そう思える」
「…」
「過去、何人かの人たちと付き合った、そしてセックスをした、それは穢れたものでも何でもない、自然の営みだった、その筈なのに、そう思えなくなる、相手のことを穢れたものだなんてことは思わないんですよ、相手は別、私と、セックスにまつわるすべてが、もうとてつもなく穢らわしくて汚らわしくてたまらない。もうそういった何もかもを、そして何よりこの自分を、木っ端微塵にしたい、抹殺したい、そうとしかもう、思えない」
「いい? 夢と現実とをごちゃごちゃにしちゃだめよ」
「…」
「怒りが表出し始めているんだと思うわ。前に言っていたでしょ? 今の生活にほっとするって。未海ちゃんとあなただけの生活、異性がそこにはいなくて、ということは、セックスをする必要もないという今の状況、その状況にあなたは今、とてもほっとしてるんだと思うわ。だから、今まで必死になって抑えてきた怒りが、表出し始めているんだと思うわよ」
「…」
「安心できたから、ようやっと怒りが表出してきてるのよ」
「…」
「それからね、自分に怒りや憎しみの矛先が全部向いてしまう、自分を赦せなくなるというのは、明らかに、PTSDの症状の一つなの。ね?」
「…」
「だから、それに巻き込まれないで。今のあなたには、未海ちゃんがいるのよ」
「…未海がいるから、私は自分を引き裂くことなんてできない」
「そうよ」
「もし今未海がいなかったら、私は間違いなく、自分をめっちゃめちゃに引き裂いてたんでしょうね」
「そうね、私もそう思うわ。でも現実には、未海ちゃんがいる。そうでしょ?」
「…はい」
「ね?」
「…はい」

 主治医に話したことが功を奏したのか、家に戻って私はどっと疲労を感じた。今は何もしたくない、そう思い、ただ椅子に座って何時間も過ごした。張り詰めて、もう切れるんじゃないかと思っていた精神の糸が、ふっと、突然ふっと、緩んだ、そんな感じだった。娘を迎えにいくまでの時間、私はそうして、ただぼぉっとして過ごした。
 そして今日、娘を保育園に送り出し、私は布団に突っ伏した。今なら眠れるかもしれない。
 そしてふっと目が覚める。一瞬自分が何処にいるのか分からなくなり怯える。大丈夫、自分の部屋だ、私はさっき横になったのだ、今目が覚めたのだ、そのことを自分に必死に言い聞かせる。そっと布団から起き出し、窓を開けて外を見る。大丈夫、いつもの風景だ、私は安全な場所にいる、自分の中でそれを確認し、ほっとする。今目の前にある街景には鼠色の雲が垂れ込め、その雲から絶え間なく落ちて来る雨粒。ベランダから身を乗り出して、空に顔を向ける。口を開けて体を仰け反らせていると、雨粒が顔を打ち、口の中に数粒、雨粒が落ちて来る。何の味もしないけれど、雨粒を食べたというそのことに、私は何故かほっとする。
 そういえば、昨日は夕飯も吐いてしまったんだった、と思い出す。朝も何も食べていない。何か食べようか、そう思って冷蔵庫を覗く。娘の為にとこのところいつも常備している苺を見つけ、少し迷ったものの食べてみる。三つほど食べたところで吐き気を覚える。でもこれを吐いたら多分、夕飯も吐いてしまうだろう、そう思って、襲って来る吐き気を何とか操縦しようと試みる。胸を叩いたりお茶を飲んでみたり。なかなか去ってくれない吐き気。私は必死で抑えている。
 もし娘がここにいなかったら。今もし私がここにひとりきりだったら。
 私は間違いなく、自分を引き裂いていただろう。私は久しぶりに、自分の左腕を見やる。傷痕で埋め尽された左腕。少しずつ薄れ始めている傷痕。よくもまぁこんなにもたくさんの傷痕をつけたものだと我ながら思う。でももし今、娘が私の隣にいなかったら、私はこの傷痕以上に、自分自身を切り刻んでしまうだろう。主治医の言うように、もし今、私の中の怒りが表出したりすることがあり得ているとしたら、それはもう間違いなく、私は自分を粉々になるまで切り刻んでいただろう。
 でも。
 思うのだ。そんなふうに私に、私の心の拠り所にされてしまっている娘は、重たくないのだろうか、と。そんな私の思いが重くて、息切れしていやしないだろうか、と。
 今はまだいいかもしれない。でもいつか…。
 私は猛烈に嫌悪感に襲われる。そんなことだけはいやだ、絶対にいやだ。娘にそんな足枷をはめたくはない。
 だとしたら、私は、私自身でこういった衝動と向き合っていかなくちゃぁいけない。娘がいるから生き延びていける、という構図は崩さなくちゃいけない。娘は娘、私は私、そうやって、私は私自身でこの先生き延びていけるようにならなくちゃいけない。
 そう思うものの、その術が今は、これっぽっちも見つからない。そのことが、悔しい。何よりも悔しい。情けなくて情けなくて、私は唇を噛む。じっと唇を噛む。唇はやがて痛みを越えて、痺れ始める。
 自分で立つということが、どんなに難しいものだか、痛感する。けれど、そうやって人は立ってゆくのだ。私はそうやって、立ってゆかなくちゃいけない。私が娘の重荷になるなんて、絶対にしちゃいけない、したくない。
 降りしきる雨。細かくて細かくて糸のように細い雨が、隙間なく降り続く。鼠色の雲はぴくりとも動く気配はない。通りを行き交う車の音が、下から這い上がって来る。私はただ、それらを見つめている。


2005年03月21日(月) 
 「ママ、朝だよ」。娘の声で目を覚ます。明け方になって少し多めに薬を飲み横になった私は、休日をいいことに目覚まし時計を掛け忘れたらしい。「ママ、明るいよ。いい天気だよ」。熱がすっかり引いたのか、いつもの桃色の頬をした娘が私の顔を覗き込んでいる。おはよう。そう言って、手を引っ張る娘について窓際に立つ。あぁ本当にいい天気だ。そして一番に思い出したのは、アネモネの蕾。もしかして、もしかしたら、今日花が開くかもしれない。そう思いベランダに出る。日の陽光をいっぱいに浴びて気持ち良さそうにそよ風に揺れる葉々。その間から五センチ前後上に伸びた蕾が今、三つ、開こうとしている。みう、お花が咲くよ。娘が飛んで来る。ほら、見てご覧。開き始めてるでしょう? ほんとだー、今日開くの? そうみたいだね、お日様が呼んでるんだよ。開いていいよって? うん、きっと。娘と二人プランターの前にしゃがみこみ、じぃっと揺れる蕾を見つめる。白い花と藍の花。そしてもう一つ、白と藍のグラデーション。きっとね、お昼ご飯を食べた後くらいに見たら、花びらがぱあっと開いてるよ。かわいいね、お花。うん、かわいいね。娘の小さな指が、花びらに触れる。私も真似をして、そっと触ってみる。やわらかくて少しひんやりした花びら。できるなら頬擦りしたくなるような。ねぇママ。なぁに? お花が開いたってことはもう春ってこと? そうね、春だね。お花は春しか咲かないの? ううん、春に咲く花もあるし秋に咲く花もあるよ。この花は春に咲くの? うん、そう。ふぅん、今は春なんだぁ。春だねぇ。
 洗濯物をしながら、お店屋さんごっこをしている娘の相手をする。お店屋さんですよ、お店屋さんですよー、いらっしゃいませー。娘が大きな声で繰り返す。あのー、お店屋さん、配達はできますか? 配達って何? 配達っていうのは、お店の人が品物をおうちまで運んでくれること。ピザ屋さんとか、おうちまで運んでくれるでしょ? あれよ、あれ。ああ、分かった。いいですよー、配達しますよー。じゃぁおにぎりとソフトクリーム、配達してくださぁい。はぁい分かりましたー。そして作る真似事をする娘。あっという間にできあがり、洗濯機の前にいる私のところに届けてくれる。おいくらですか? 100円ですぅ。はい、じゃぁ100円、ありがとうございました。はい失礼しますぅ。娘はそういってお辞儀をし、また居間に駆けてゆく。
 昼過ぎ、娘を自転車に乗せて埋立地の方へ。小さな踏みきりを越えると、真っ直ぐに海へ続く広い道。道に沿って銀杏の樹やプラタナスが並ぶ。距離をおいて見るとよく分かる。樹の枝々が薄赤くけぶっている。それは新芽の気配。ゆっくりと走りながら、私は一本一本、樹々を見上げる。
 ねぇみう、もう少しすると樹に葉っぱがいっぱい生えて来るよ。葉っぱ? うん、多分綺麗な萌黄色だよ。もえぎいろって何? あ、えぇとね、黄緑色に似てる。ふぅん。ここの樹は銀杏っていう樹だからね、おててみたいな葉っぱが出てくるんだよ。えー、おてて? 気持ち悪いよー。ははは、そんなことないよ、かわいいよ、葉っぱがいっせいに揺れるときなんて、おててがわぁーって笑って手を振ってるみたいに見えるんだよ。ふうーん、あ、ママ、空に線ができてるよ。あぁ、飛行機のお尻から真っ直ぐ伸びてるね。いいなー、みう、あの雲の上歩きたい。いいねぇ、気持ち良さそう!
 家に戻り、私たちはベランダに出る。ママ、開いてる! やっぱり開いてる。ママ、かわいいねぇっ! ふわふわしてるよっ。これがアネモネっていうお花なんだよ。うん。
 
 今でも覚えている。忘れるはずがない。後ろから抑え込まれたときの感触。倒れ込みながら私の目を射った蛍光灯の光。でもその後のことは、殆ど記憶を辿れない。何がどうなって、そうして自分はどうやって家に辿り着いたのか。でも、残っているその一瞬の記憶は、色も匂いも感触も、全てが生々しく、今この瞬間にもまるで現在進行形で成り立つような鮮やかさでもって、いつだって私に襲いかかる。
 たかが夢。されど夢。夢でそれらが再現される時も、匂いや感触がまざまざと蘇る。それが何より辛い。目を覚ましても自分の肌の上にその感触が残っているのだ。鼻にも、今ここにはないはずの匂いが蘇り、そして、私の呼吸を塞ぐ。
 夢を見ないで済む薬なんてない。たとえ夢を殺しても、それは夢に出る筈だった分、何処かで必ず噴き出してくる。現実世界の、僅かな裂け目を見つけて、必ず。それらを避ける方法など、何処にもありはしない。
 ママ、夢見たらみうのこと起こしていいよ。みうが撫で撫でしてあげる。この間みうがそう言っていた。私はその言葉を、眠り始めた娘の横で呟いてみる。もちろん、夢に魘されたからって娘を起こすことはあり得ないけれど。でも。
 夢に魘される私を、受け止めようとしてくれる誰かがいる。その存在に、私はきっと救われている。だから眠ろう。いや、結局眠れなかったとしても横になろう。きっと、大丈夫。そう信じて。


2005年03月20日(日) 
 見覚えのある後姿。私はこの人を知っている。そう思った瞬間、逃げろ、という言葉が脳裏で点滅する。逃げろ、逃げろ。点滅はどんどんと速度を速め、私の心臓はばくばくと音を立てる。ここは何処なんだろう、列車の中? それとも建物の中? 分からない。分からないけれど、逃げなきゃいけない。私は足を動かして椅子から立ち上がり、全速力で逃げ出そうと試みるのだけれども、足がびくとも動かない。動かさねば、一歩でもいい、動かなくては、そう思うのに、全く動かない。まるで地面に足の先が溶けてくっついてしまったかのよう。せめて目を逸らさなくては、そう思う。そう思うのに、私の目はその後姿にはりついて動こうとしない。後姿の、肩の辺りがゆっくりと動き出す。あぁこの人は今振り向こうとしている、だめだ、見てはだめだ、目を逸らさなくては、ここから逃げなければ。私の内奥で、誰かが必死に私に呼びかけている。逃げて、ほら、早く逃げて! その人が振り向く前にここから逃げて! まるで銅像か何かになってしまったかのよう、私の体はもう、ぴくりとも動かない。そして目の前で、後姿がくるりとこちらを向く。ゆっくりと、ゆっくり、と。
 絶叫しかけて、私は目を覚ます。全身が強張っている。心臓だけがばくばくと音をたて、私は唇が震えているのを感じる。それが夢だとわかるまで、しばらく時間がかかった。夢だということを認識してからも、私の中心は痺れ、まっすぐに立ちあがることは、とても難しかった。
 あぁ、知っているどころじゃない、あの後姿は、あの後姿はあの加害者のものだ。私はふらつく体を必死に腕で支え、激しい眩暈が去るのをじっと待つ。夢はあまりに鮮明に、私の中に刻まれて、目を覚ましてもそれは、まるで今目の前にあるかのように鮮やかに蘇る。その映像から目を逸らしたくて、私は瞼を閉じる。けれど、余計に像が鮮やかになるばかり。
 ベランダに出る。夜明け近くに眠って、まだ一時間と少ししか経っていない。けれど、外はもうすっかり明るくて、街は輪郭を取り戻していた。夜の間闇にまぎれて見えなかったものたちが、今、陽光を浴びてくっきりと浮かび上がる。何が見たいわけでもなく、また、何を見るでもなく、私はぼんやりとベランダに立つ。ベランダの手すりに手を乗せると、冷え切った手すりが私の掌をべろんと舐める。私はただ、ぼんやりと立つ。
 何となく足元を見やると、そこにはアネモネのプランター。一昨日よりも昨日よりも、ずっとたくさんの蕾が頭を持ち上げている。白と藍。適当に交じり合って風に揺れる。花びらの色がはっきりするにつれて、蕾は楕円に膨らんでゆく。如雨露から水をやると、蕾の上で、葉の上で、ぽろんぽろんと水粒が転がる。プランターの底から水が零れだし、やがてそれは川のように集まって、ベランダの端の排水口へと流れ落ちてゆく。音もなく。私はその流れゆく様を、ぼんやりと、見ている。
 ふと思う。加害者は夢を見るのだろうか。あの事件にまつわる夢を見るのだろうか。もし見るとしたら一体どんな夢だというのだろう。いややっぱり、そんな夢、加害者は見ないで済むのだろうか。じゃぁどうして、被害者ばかりが繰り返し、あの事件を記憶から引っ張り出さざるを得ないような夢を見るのだろう。
 その間にも、太陽は少しずつ真上へとのぼり、私の髪は、風に煽られてゆく。
 止めよう。いくら考えても答えは出ない。私が求めているような答えは、決してそこには存在しない。考えるほどにきっと、しんどくなるだけだ。
 私は、如雨露にもう一度水を汲み、薔薇やミヤマホタルカヅラにも水をやる。やがてベランダには大きな川ができ、水は絶え間なく流れ落ちてゆく。

 あれだけ心配した娘の熱は、ぐんと下がり、顔色も熱に浮かされた赤い顔からいつもの肌色へ戻り出す。お握りが食べたいと言うのでゆかりを混ぜてお握りを二つ作る。食べたい気持ちはあるものの、いっぺんには食べられないようで、何度かに分けて彼女はお握りを口にする。
 ねぇママ、いい天気だよ。そうだね、気持ちいいね。公園行かないの? 今日はやめようよ、お熱でたばっかりだもん。うん、分かった。できれば横になってて欲しいんだけど、今日は。えー、みうはぬりえやりたい。ぬりえ? うーん、じゃぁちょっとだけね。あのね、ママ、次はお店屋さんごっこしたい。ママ、パズルもやりたい。ママ、テレビ見たい。少し熱が引いて楽になったのか、彼女の何々したいは延々と続く。私はそれに全部付き合う。時々眩暈に襲われ、私は何度か体を立て直す。
 ママ。彼女が突然真顔になって私に尋ねる。なぁに? ママもみうが大きくなったら死んじゃうの? うん、いつかね。でもみう、ママに死んでほしくないの。うん、ママもね、みうが先に死んじゃったらやだ。じゃぁ、みうが大きくならなければママは死なないの? ははははは。なるほど、そうきたか。みうね、ママが死んじゃったりしたら、ひとりぼっちになるのよ。ひとりぼっちじゃぁないよ、ママは死んだっていつでもみうのそばにいるし、その頃にはみうも結婚してるかもしれないよ、素敵な人と。ママ、死んだらどうなるの? 天国っていうのがあるらしいよ。じゃぁママは天国にいくの? うーん、ママは多分、天国にはいかないで、みうのそばでうろうろしてるよ。だから、みうが心の中でママって呼べば、いつでもママはそこにいるのよ。ふぅん、そうなんだ。じゃ、死んでも悲しくないの? そうね、みうの心の中にはいつだってママがいるからね、悲しくないかもしれないよ。ふぅん。じゃぁママが死んでもみうとママは仲良し? そう、仲良し。
 大叔母の葬儀に行ってからというもの、時折こうした会話が為される。みうに比べたらずいぶん人の死に慣れているはずの自分でも具合が悪くなったりするのだから、彼女の中ではきっと、死というものが大型台風のようになって荒れ狂っているのではなかろうか。もちろんそれは、四六時中そうであるというのではなく、ふとしたときに、彼女が死というものを思い出し、それを受け容れるために彼女なりにいろんな方法で取り組んでいる、そんな気がする。
 どういうふうにそれが落ち着いて、着地するのか。私はそばで、じっと見つめていたい。

 夜。もう微熱程度にまで熱が引いた娘の寝息は、昨日とは比べものにならないほど落ち着いて、ひゅるひゅる鳴っていた喉も今夜は静かだ。私は窓を開け、いつもの椅子に座っている。窓から忍び込んで来る風は少し冷たく、私は娘が貸してくれた膝掛けをして、ぼんやりと煙草を吸う。さっきから迷っている。娘も眠ったことだし私も久しぶりに早く横になろうか、そう思うのだけれども、眠りたくないという気持ちも同じくらいあって。私は煙草を吸っている。
 あんな夢を見るくらいなら、眠らない方がいい。今夜もまたあんな夢を見るくらいなら、このままこうしてぼうっと闇を眺めていたい。私の中で、そういった思いが交錯する。そしてふと思う。幸せな夢って、どんな夢だろう。見たくなるような夢ってあるんだろうか。そう思って、私は苦笑する。想像できないからだ、幸せな夢、というものが。
 煙草の煙は、広がる闇にこくんこくんと吸い込まれてゆく。風はまた冷たさを増す。私はまだ、椅子から立ち上がれないでいる。


2005年03月19日(土) 
 目を覚ますと、すぐそばに娘の顔。起こさないようにそっと寝床を抜け出す。カーテンを持ち上げると、朝陽がさんさんと街中に降り注いでいる。窓を開けると、昨日よりもぐんとあたたかい風がやわらかく滑り込む。アネモネのプランターをのぞけば、次々に頭を持ち上げ始めている蕾たち。白と藍とが入り混じり、この優しげな風にふんわりとそよぐ。
 娘と手を繋いで歩き出す坂道。影を踏みながら歩く。伸び縮みする影を追いかけて、二人して逃げたりくっついたり。そんなふうに左右に揺れながら歩く私たちの上で、空は澄み渡り、風が遊んでいる。
 母の庭で、梅の花が終わりを迎えている。庭中に散り落ちた薄桃色の花びら。ほんの僅かな風にもひらりふわりと揺れて舞い落ちる。花を渡り歩く蜜蜂やメジロ。その合間に、私と娘は花に顔をくっつけて思いきり深呼吸。梅の儚げな香りを胸一杯に吸い込む。梅の花の匂い、水仙の花の匂い、沈丁花の花の匂い。そこら中でそれぞれの花の香りが漂っている。ねぇママ、梅干の花はどうして梅干の色じゃないの? どうしてだろうなぁ、梅の花が咲いて、それが実になって。梅干になるまでにはいっぱい色が変わるのよ。梅はたくさんの色を持ってるの。へぇ、そうなの? うん、そう。
 夕方、ふと娘の顔を見るとほっぺたが赤い。おかしいなと額に手を当てると、知らぬ間に上がっていたのだろう熱が。慌てて寝巻きに着替えさせ、毛布で娘の体を包む。徐々に徐々に上がりゆく熱。やがて寒いと言い出す娘。水枕を作ったけれども、冷たいのはいや、と、娘が避けてしまう。仕方ないので、ずっと彼女が言うままに抱いて過ごす。
 風邪なのか、それとももっと他の原因があって熱が出ているのか分からない。けれど。
 熱くらい出てもおかしくないよな、と思う。毎日毎日何処かしら変化をし続ける娘の日常。それを必死に泳いで渡る娘。この小さな体に一体どのくらいの疲労が貯まっていただろう。それを思うと、今私の腕の中で燃えている彼女の体がひどくいとおしくなる。夜に近づくほど息遣いが荒くなってゆく娘の体。それとともに涙もろくなって、ひとつトイレに行くそれだけのことで、彼女は涙ぐむ。
 ねぇママ、ママ、何処にいるの?
 ここにちゃんといるよ。
 何度も何度も、そのやりとりが繰り返される。私の体に彼女は腕を絡ませているのだから、私がここにいるのは充分に分かっているはずなのに、彼女はいちいち確かめる。だから私も何度も応える。ここにいるよ。そして彼女は言う。ママ、またお歌歌って。だから私は小さい声で歌う。
 そういえば、私は子供の頃、娘とは比較にならないくらい、四六時中熱を出していた。熱を出して早退をして戻って来る私は、自分の部屋でひとり、横になっている。熱で頭がぼうっとしているけれど眠れない。だから私は頭の中で、いくつもいくつもお話を作った。布団の横に並んだぬいぐるみのどれかを主人公にして、あれやこれや、好き勝手に話を作り、時々ぬいぐるみを動かして人形劇のようにして遊んでいた。少し元気になると、横になったままリコーダーを吹いた。すぐに息苦しくなるのだけれども、ひとりぼっちで眠れずに横になっているよりもずっとましだった。そして時々、母が私の様子を覗きに来る。ご飯を食べれない私に、林檎をすったものをおわんに入れて持ってきてくれるときもあった。それをスプーンですくって、私は一口一口食べた。すった林檎はすぐに変色してゆく。それが悲しくて、私は必死になって食べるのだけれども、私が食べる速度よりいつだって変色の速度の方が速くて、私は余計に悲しくなるのだった。そんな日々も、今思い返せばただ、懐かしい。
 人は、自分が経てきたことも次々に忘れてゆく。忘れるという術は多分、人間が生き延びるために必要な能力のひとつなのだと思う。重過ぎる荷物を背負って歩き続けることは困難だから。でも、そんな私たちに、子供は過去を思い出させる。あぁこんなことがあった、あんなこともあった。それらはいいことも悪いこともあるだろう。けれど、長い時間を隔てて思い出すことで、人はたいていそれらを、懐かしく切なく思い出すことができる。そして、もし当時受け容れることができなかった事柄でも、長い時間を隔てたことによって浄化され、すんなりと受け容れることができるようになっていたりする。私たちはそうやって、おのずと自分の過去を慈しむことができるようになる。
 人の命はそんなふうに、繋がれてゆくのだな、と思う。
 寄り添って抱きしめる娘の体は、私の腕の中で熱くなる一方。彼女の寝息はひゅるひゅると喉を行き来している。早くよくなるといい。心の中で願いながら彼女の髪を撫で続ける私は、まだ歌を歌っている。


2005年03月18日(金) 
 まるでもう四月か五月かと思えるような日差しと風。私は埋立地の端っこ、真新しいベンチに座って、しばし顔を上げ目を閉じる。肌に触れる風の掌は冷たさのひとかけらさえ持ってはいなくて、私の頬はやわらかくぬるむ。睫に今、誰か触った。いや、誰かじゃなくてそれは風だと分かってる。でも、ついこの間までそばにいた風とは全く異なる。それは何処までもやわらかな指先。
 瞼を閉じていても分かる。風が踊るたびに樹の枝が揺れている。閉じた瞼を通して、樹影が揺れるのが伝わって来る。ベンチの前後、行き交う人たちのお喋りの声。幼い子供たちがじゃれ合う笑い声。冬の縛りから解放され、全ての人たちの足音が軽やかに響く。
 突然、風の匂いが変わる。私は閉じていた瞼を開け、そのまま空を見上げる。さっきまであれほど澄み渡っていた空をあっという間に覆い尽くす薄墨色の雲。私はベンチから立ち上がり、道端に止めていた自転車にまたがる。
 部屋に戻っても、雲は流れ去る様子も見せず留まっている。雷雨でも来そうな気配。私はベランダに出て再び空を眺める。すると、西の空の端っこにほんの僅かな雲の切れ目。その切れ目から、光がまっすぐに降りている。それはまるで降臨の一場面のような静謐さを秘めており、私は思わず背筋を伸ばす。ひたすらまっすぐに降り堕ちる光の筋。それはもう、耳を澄ましたら祈りの音色が聞こえてきそうなほどに。私は呼吸をするのも忘れて、ただその光を見つめている。
 雲は去らない。そして風が変わる。さっきまであんなに穏やかに歌を歌っていた風が突然変貌する。私の髪をなぶり、嘲るような声を上げて吹き荒ぶ。私は部屋に戻ろうとして足元を見やる。
 そこにはアネモネ。さっきまでの日差しのおかげで首を持ち上がり始めていた蕾たちが、今、風にぶるんぶるんと揺れている。だからといって彼らはここから自分で動く術はない。足を持たない彼らは、ただひたすらここで耐え忍ぶしかない。私の目の中で絶え間なく左右に大きく震える蕾。手を伸ばしかけて、止める。多分彼らは、私の手を必要とはしていない。きっと自分で耐え抜くに違いない。私は立ち上がり、部屋に戻る。

 最近、テレビを見ている最中に、娘が何度も私に尋ねてくる。この人が悪いことしたの? この人が死んじゃったの? 何で死んじゃったの? どうして? 大叔母の葬儀を見て以来、彼女はそう尋ねてくるようになった。だから私もひとつずつ答える。うん、死んじゃったんだね、悪い人に刺されて死んじゃったの。ううん、この人は怪我したの、きっと今病院で治してもらってるんだよ。その人はね、人を刺しちゃったんだって、だから警察に捕まったの。この人はね、大叔母ちゃんと一緒の病気で死んじゃったのよ。
 娘はそのつど、ふぅんと言いながらじっと画面を見ている。彼女の中で今、どんなことが起こっているのだろう。知りたくてたまらない。私の今の説明で足りてるのか足りていないのか、それとももっと違う答え方をした方がいいのかどうか。私には分からない。だから時々心配が嵩じて胸がぎゅっと痛くなる。痛くなって、ちょっと自分が情けなくなる。もっと自分に自信を持てればいいのに、と。

 そして夜、娘を寝かしつけた私はひとり、椅子に座っている。窓の外では風が吹き荒れている。開けている窓の隙間を行き来する風が、びゅるりるると音を立てる。当分止みそうにはない。
 娘が寝つく前、唐突にパニックを起こした私はしばし正気を失っていた。はたと我に返り隣の娘の顔を見やると、娘はただじっと、私の顔を見つめていた。ごめんね、ママちょっと…。そう言いかけた私に、娘が応じる。うん、分かってるよ、ママ。その言葉にぐっと喉が詰まる。だからもう一度、具合悪くてごめんね、と言う。娘が私をじっと見つめたまま応える。ママ、みうがお話してあげようか。お話? うん。そして娘が絵本を開く。たどたどしくも、ひらがなを辿って彼女がお話をしてくれる。それはたぬきとおさるさんのお話。木登りができなくてみんなにからかわれてたおさるさんが、最後、たぬきを喜ばそうと必死になって木に登る。それは森中で一番高い木で、おさるさんは必死の思いでてっぺんまで登る。それを見ていたみんなが、手を叩いて喜び合う。そんなお話。
 お話してくれてありがとね、と言うと、彼女がようやくにいっと笑う。昨日はママがお話してくれたから、今日はみうがお話してあげたの。うん、そうだね、ありがとう。じゃ、そろそろ寝ようか。うん。あ、あのね、ママ。なあに? 恐い夢とか見たら、みうのこと起こしていいよ。え? そしたらみうが撫で撫でしてあげるから。じゃ、みうも恐い夢とか見たらママのこと起こしてね、そしたらママが撫で撫でするから。うん。約束。
 今、娘の寝顔を眺めながら思う。共感する力というのは、一体何処で人は覚えてゆくのだろう。娘はどうやって覚えたのだろう。まだこんなにも幼いというのに。
 窓の外、また風がびゅるると唸っている。私は何を眺めるでもなく眺めながら、くわえた煙草に火をつける。
 まだまだこれからだ。こんなことで落ち込んでなんかいられない。明日は明日、今日は今日。今日転んだなら、明日転ばないように気をつければいい。それでも転んでしまったら、明後日こそは転ばないように努めればいい。一歩一歩。歩いてゆくしか、ない。
 風はまだ、唸っている。


2005年03月17日(木) 
 午前四時過ぎ。なかなか訪れてくれない眠気に痺れを切らして、せめて横にくらいはなっておこうかと、規則正しく寝息を立てている娘の隣に滑り込む。そっと体を抱くと、彼女は少し汗ばんでいて、私は枕元に置いてあるタオルで彼女の額を拭う。小さな背中に顔をくっつけ、思いきり深呼吸。もうミルクの匂いは何処にもない。母乳を飲んでいた頃していたあの匂い。少し懐かしい。同時にちょっぴり驚きもある。ついこの間産んだばかりのはずの娘なのに、もうミルクの匂いを卒業し、一人でトイレに行くし箸も使う。あっという間に過ぎ去ってゆく時間たち。娘の成長を思うとき、時間という河の前で、その河の流れの速さに呆然と立ち尽くしているのが、この自分のような気がしてならない。
 いつのまにか降り出した雨。リュックから折りたたみの傘を取り出して開く。街中に傘の花が溢れる。鮮やかな色、くすんだ色、花柄もあれば水玉模様の傘も。私はそんな傘の花をひとつひとつ眺めながら、歩道橋の下、しばらく立ち止まる。
 知らない町を仕事や用事で訪れるとき、いつも小さな地図を持つ。行きはその地図でひとつひとつ確認しながら目的地へ歩いてゆく。でも帰りは。地図はポケットの中にしまいこみ、私は好き勝手に歩く。もちろん調子が悪ければ私は一目散に家に逃げ帰るのだけれども、ちょっと心に余裕があるときは、そうやってぶらぶらと右に左にと歩いてみる。目に付いた店先で立ち止まってはちょこっと中を覗いたり、この道は何処に続いているのだろうと知らない街角を適当に曲がる。間違えて行き止まりの道を歩いてしまい、すごすごと後戻りするのもよくある。もし地図の上、私が歩く道を色で塗ったなら、きっとじぐざぐに、下手すれば二重三重に描かれるに違いない。でもそうやって、ひとりで歩くことが私は好きだ。下駄を売る店、皮細工を扱う店、サンドイッチマンが立つ角、猫が集まる酒屋、濃い醤油の匂いが流れ出て来る裏口。店先で井戸端会議をしているおばさんたちの声に耳をそばだてると、その土地にしかない独特なアクセントがあったりして、それを聞くことができたというだけでちょっと得した気分になれる。今日歩いた商店街は、何処か懐かしい人の匂いのする通りだった。私は何となく去りがたくて、まだ歩道橋の下から離れられない。雨は降る。私は、ぽたぽたと落ちてくる重たげな雨粒を掌に乗せ、ころころと転がす。

 家に戻り窓を開ける。止みかけている雨空を見上げ、私は息を深く吸い込む。そして足元のプランターを振り返って、思わず声を上げる。
 昨日まで若苗色をしていた蕾が色づいている。一つは卯花色、そしてもう一つは藍色。葉の茂みから、にょきっと顔を出している二つの蕾が風に揺れる。もしかしたら他の蕾も…、そう思って私はしゃがみこみ、手でそっと葉を分けてみる。葉の中にまだ埋もれている蕾の首をつまんで覗きこむ。これは藍色、これも藍色、こちらは卯花色。私は心臓がどきどき鳴り出すのを感じる。昨日までは何ともなかったのに。いきなりこんなにたくさんの蕾が色づき始めるなんて。私は不思議で不思議でたまらない。そもそもこの色は一体何処からやってきたのだろう。何処から生まれ出てきたのだろう。若苗色から藍色へのグラデーション、同じく卯花色へのグラデーション、たったこれっぽっちの蕾に描かれるこの色の帯。最初に植物にこんな色をもたらしたのは、一体誰だったのだろう。私はひとつひとつ、蕾を指先でそっと撫でてみる。娘が帰って来たら一番に見せてやろう。私は、わくわくする気持ちを胸いっぱいに抱えて立ち上がる。空を見上げると、もう雨は針の先のような細かな細かな粒に。じきにこの雨も止む。


2005年03月16日(水) 
 仕事に呼ばれ出掛けてきたものの、胸の辺りがもやもやしてたまらない。椅子に座っているのが辛くなってきたので、これはもう逃げ出してしまおうと、無理矢理な理由をくっつけて逃走する。川沿いの道、自転車で一目散に走る。走りながら、何となく見上げた桜の樹には提灯が下がっている。もうそんな季節なのだと思った瞬間、目に飛び込んだ薄桃色。思いきりブレーキをかけたせいで、自転車の後輪がびょんっと跳ね上がる。何とか自転車から投げ出されずに済んだ私は、思いきり首を曲げて樹の枝を凝視する。
 あぁ、咲いている。川沿いの桜がぽつりと、まだほんの少しだけれども咲いている。私はいっぺんに嬉しくなる。さっきまで逃走することしか頭になかった私の胸に、花びらの色がすんなりと染みてくる。自転車は柵に立てかけて、私はさらに凝視する。嘘じゃない、錯覚じゃない、確かに咲いているんだ。思わずわぁと声が漏れる。別に私は桜の花を好んでいるわけではない。花の中で何が一番好きかと尋ねられたら、迷わず白百合と応える。でも。こうやって、たった一輪でもそれが季節の標になってくれるものとの出会いは、ただそれだけで心が弾む。新しい季節。とうとうこの街にも舞い降りた。
 不思議なのは、そういった出会いは私の視界をいっぺんに広げ同時に視力まで増させてしまうというところだ。ほんの数輪の桜の花に気づいた私の目は、次々にいろんなものに気づきだす。道端に咲く色とりどりのパンジー、樹の根元に群れて咲く花韮、誰かが玄関先に飾る鉢植えの水仙、まだ青いチューリップの蕾。自転車を漕ぐのも忘れ、私は教会の前に座り込む。そして見上げた空には、内緒話をする雲たちがくすくすと笑いながら浮かんでいる。

 心がバランスを欠いている時はすぐ分かる。たとえば誰かが私の後ろに立つ。ただそれだけで恐い。いや、この感じを恐いという言葉で表現していいのかどうか分からないが、頭が真空になるのだ。まるで時間がぱっくりと割れたかのように、私の全てが止まってしまう。
 共通言語であるはずの言葉が単なる音声になり、やがては弦を無理矢理こするときに漏れる金属音に似た何かになり。私は、言葉が理解できなくなる。向き合った人の口がぱくぱくと動く。音も確かに聞こえる。けれどそれはもはや言語として認識されず、私はまるで、早回しでモノクロ映画を見せられているような状態に陥る。目の前にいる人は人間の形をしていながら異星人の如く、いや、多分周囲から見たら私が異星人になっているのではないかと思うが、要するに、私と世界とが分厚いガラスの層によって遮られるのだ。そのガラスは磨きぬかれた代物で、向こう側になった世界もすっかり見渡せる。見渡せるのだが、手を伸ばしても決してその世界に届くことはなく。私の手は、虚しく宙を彷徨うばかり。後はもう、ただただ呆然と、そこに立ち尽くすばかり。

 教会入り口の階段に座り込んで、どのくらい時間が経ったのだろう。もしかしたらたった四、五分のことだったのかもしれない。もしかしたら一時間、二時間は経過していたかもしれない。少しずつ世界が緩んでゆき、それとともに世界は僅かずつだけれども色を取り戻す。私の視界が徐々に徐々に明るくなる。色とりどりの世界が、再び現れる。そしてそこにはもう、分厚いガラスの塀は、ない。そして突然噎せかえる。どうやら私は長いこと息を止めていたらしい。こんなとき、私はよく呼吸をすることを忘れてしまう。だから、敢えて呼吸をしなければと意識しないと、私は息をすることをすっかり忘れ、突如ばたんと倒れる。倒れてからようやく気づく。私は咄嗟にリュックからお茶を取り出し、体の中に流し込む。そしてようやく、深呼吸を一つ、する。
 多分、もう大丈夫だろう。今私の目に捉えられる世界は、今通り過ぎた見知らぬ誰かが見ている世界と、多分、重なり合ってくれるだろう。そして私は立ち上がる。すっかりお尻が冷えてしまった。道端に止めたままになっていた自転車を起こして、私は再び走り出す。
 家に戻ったらまずプランターを覗こう。アネモネの蕾は今どうしているだろう。プランターに水をやったら、さっさと仕事にかかろう。娘を迎えにゆくまでに全部終わらせて、今夜は娘と遊ぼう。自転車を漕ぐ足に力をこめる。もうじき上り坂。その坂を越えれば、家はすぐそこ。もうちょっとだ。


2005年03月15日(火) 
 すっきりと晴れ上がった空。鴎が渡ってゆく。歩きながら何度も立ち止まり、私は空を見上げる。見上げたからといって何かがあるわけじゃぁない。あるわけじゃぁないけれど、私は何度も立ち止まり、空を見上げる。どうして空はこんなにも高いのだろう。どうして空はこんなにも空(クウ)を孕んでいるのだろう、どうして空はこんなにも。見上げるほど、はてなが心に浮かぶ。思わず手を伸ばしそうになって、私はきょろきょろと周囲を見まわす。今更人目を気にしたって仕方がないのに、唐突に恥ずかしいという感情が心に浮かんで、私はちょっとうろたえる。そして苦笑する。今更何を。そしてまた、空を見上げる。
 飛行機の跡に生まれる白い筋。私の足元に舞い降りた千鳥が、ちょんちょんと飛び跳ねて、ふっとこちらを見やる。あれは目が合ったと言うのだろうか。それとも彼の目に私は景色の一部として映っただろうか。ほんの一瞬動きが止まり、そして彼はまた飛び立ってゆく。
 ビルの影に止めておいた自転車にまたがる。ペダルを漕ぐ足はほとんど適当で、だから自転車もひょろひょろと走る。走る道筋、あちこちで工事が為されている。かつて和菓子屋だった公園のすぐそばの土地にも、とうとうマンションが建つらしい。足場が組まれ、トラックが何台も道筋に止まっている。この街はそうやって、常に何処かが変化する。地図を描こうとしても、きっと、正しい地図なんて一枚も描く暇がないに違いない。次から次に赤が入る。なんだか少し、寂しい。

 保育園へ娘を迎えにゆくと、娘が笑いながら出てきた。私を見ても笑っている。笑いが止まらないという具合らしい。何か楽しいことでもあったの、と尋ねると、さらにイヒヒと笑っている。教えてよ、どんな楽しいことがあったの、と重ねて尋ねると、いきなり、和尚さんハイグレ!と、ポーズを取る。呆気に取られ、直後、私は吹き出してしまう。子供というのは、訳のわからないことを次々思いつく生き物らしい。しかも、どんなささやかなことにも笑いを産み出す。自転車に娘を乗せて坂道をえっちらおっちらのぼる私に、娘が後ろから何度も、ハイグレハイグレ、ママガンバレー、と声を掛けてくる。なんでハイグレなんだよ、と思うけれども、坂が急で、気を抜くと自転車が止まってしまうので、私は必死に漕いでゆく。すれ違う人たちがみんな娘の声に笑っている。時々呆れた顔をしている人もいるけれど、まあそれは見なかったことにして、私は何とか坂をのぼりきる。
 お風呂上り、娘の腰まで届く長い髪をバスタオルで拭く。彼女の頭をごしごしやりながら、ふと、こうやって頭を拭いてやれるのは、あとどのくらいだろう、と思う。一緒に入るお風呂も、お風呂上りにこうやって髪の毛を拭くのも、きっとあっという間に終わってしまうのだろう。そう思いながら、私は指先に少し力をこめる。今のうちに存分に味わっておかないと。拭き終えた髪の毛を櫛でとく。娘はその間、ずっと、私が毎晩歌う「大きな古時計」を歌っている。
 ねぇママ、どうしてママはスカートはかないの?
 うーん、そうだねぇどうしてだろう。
 スカート、かわいいと思うよ。
 みうはスカート大好きだもんね。
 うん。だからね、ママもスカートはきなよ。
 うーん、でも、ほら、スカートはいてると、自転車漕げないでしょ?
 あ、そうか。じゃぁね、みうが大きくなったらスカート買ってあげるよ。
 え? あ、ははは、そっか、じゃぁ買ってね、かわいいやつ。
 うん、みうとおそろいね。
 うん、楽しみにしてるよ。
 あのね、今日遠足でお弁当食べてたらね、先生が味見させてって言うんだよ。
 へー、先生何食べたの?
 あの白いふわふわ。
 あ、高野豆腐ね。
 きゅうりも。
 浅漬けね。
 だからね、みう、急いで食べたの。お握り。先生に食べられないように。
 わはははは。だって三つも作って持ってたから大丈夫だったでしょ。
 うん、でも、すぐ食べちゃった。
 お弁当、からっぽだったもんね。
 うん、ほら、見て、おなか。
 娘はそうして、おなかをいっぱいに膨らます。私がぽんぽんと叩くと、娘がけらけらと笑う。みうのおなかはいっぱい膨らむの、だからいっぱい入るの、と、説明してくれる。実際、私よりもずっと多い量を食べるときもある娘のおなかは、ぽーんと張っていて、ぽんぽんといい音がする。こんなおなかも、じきにすっきり細くなっちゃうんだろうなぁと思うと、私はまた、ぽんぽんと叩きたくなる。ついでにこちょこちょとくすぐって、ひとしきり娘と二人、布団の中でくすぐりごっこをして遊ぶ。
 今、半分開けた窓の外はすっかり闇色。右から左へ、左から右へ、景色をじっと見つめるけれども、何処の窓にも明かりはついていない。どうしてこの街は、ちゃんと窓の明かりが消えるのだろうと不思議になる。みんなそんなにちゃんと眠れているのだろうか。私は膝に頬杖をしながら、さらに街景を眺めて探す。でも、やっぱり何処の窓も明かりはついていない。何処からか風に乗り、サイレンの音が小さく響いてくる。そしてすぐ目の前に在る街灯は、今夜も暗橙色の光を放つ。
 何処かに、明かりは消したけれども布団の中眠れずにいる人がいるかもしれない。また何処かには、部屋の隅で膝を抱えてぼんやり闇を眺めている人がいるかもしれない。確かにこの闇の中、明かりのついた部屋は何処にも見当たらないけれど、でもこの同じ空の下、何処かにきっと、そんな人がいる。
 明日はいい天気になると天気予報が言っていた。今夜は眠れず朝を迎えても、きっとその朝は、きれいに晴れあがってくれるだろう。うつむいて歩く人の肩にも、目を腫らしたまま歩く誰かの背中にも、等しく、日差しをさんさんと降らせてくれるに違いない。
 いつものように、街の隅から雄鶏の声が聞こえてくる。もうじき夜明けだ。娘にも私にもそして誰かにも、等しく朝がやってくる。美しい朝が。


2005年03月14日(月) 
 空は透き通るような勿忘草色。見上げるほど自分まで透明になってゆくような気がする。雲はゆっくりと、時折太陽を隠しながら流れてゆく。その宙に浮かぶ塊とは別に、地平線辺りにぷかぷかと浮かぶ雲は細切れに、綿菓子を散らかしたようにほっこりと浮かぶ。この目に映るすべてが穏やかで、清々しかった。まだ裸のままでいる樹木も、まるで羽が生えたように生き生きと見えた。
 いつものように病院へ。分けられるようにしないとね、と言った主治医の言葉が、私の脳裏にぽつんと刻まれている。一体どうやって分けたらいいのだろう。その術が、見当たらない。
 この数日で改めて痛感したこと、それは、怒りにしろ憎しみにしろ痛みにしろ、そういった衝動全てが、私の場合、自分に向いてしまうということ。たとえば誰かに対する憤りや悲しみは、最初はあくまで誰かに対して抱いた感情や衝動であるのに、気がつくと、それら全てが、自分への刃に変貌している。だから、そういった衝動を消化しようとすると、私はおのずと、自分を切り刻むという方向へ走ってしまう。
 頭の何処かでは分かっているのだ、これは違う、自分に対して向ける類のものではない、と。分かっているのだけども、私はそれらの矛先を外へ向けることができない。自分へ自分へと向かう、その回路しか、私の中に存在しない。でも、そんなふうに不必要に自分を苛んでも、何の益もない。益がないどころか、私の爆発の仕方如何では、私の周囲にいる人たちが私を思ってくれる気持ちを傷つけ、疲弊させかねないのだ。
 だからこそ、分けられるようにしないとね。あなたは、あなたが何も悪くないところでまで自分をどんどん追い詰めてしまう、自分を切り刻もうとしてしまう、だから、分けられるようにならないとね。主治医が言う。私も、黙ったまま、頷く。頷くけれど、その術が、わからない。
 こういった症状は、PTSDによる症状の一つなのだと、昔、主治医から教えられ、私自身文献でも読んだ。実際、事件後、加害者たちに怒りや憎しみをぶつけておかしくないような状況下でも自分を責めることしかできず、どんどん自分で穴を掘ってゆく、そんな自分をもうさんざん見てきた。そのたび、何とか軌道修正できないものかと自分なりに試みた。試みるけれど、どうしても刃は外へ向いてくれない。意識して向けようと試みても、刃が勝手にぐいっと私へと向き直ってしまうのだ。その力はとんでもなく強く、しかも私の意志なぞとは無関係に働いてしまう。PTSDを抱え込むようになって十年は経った。なのにいまだにその力は、弱まる気配がない。
 分けられるようにしないとね。主治医の言葉が頭の中で反響する。自分へ向けるべき刃と、自分へ向けるべきではない刃と、それらを私の中で上手に分ける術は、どこにあるんだろう。どうやったら分けられるのだろう。私には、いまだ、その術が掴めない。

 少しずつ傾き始めた太陽。ちょうど雲が漂っている辺りに太陽は隠れ、私はそれを見上げる。視界がじんじんと侵蝕されてゆく。耐えられなくなって私が地平線に視線を落とすと、そこにはいつのまにか新たに生まれた雲塊がどんよりと横たわる。勿忘草色の空が、少しずつその雲に食べられてゆく。気づけば空は、すっかり薄鼠色の雲に覆われ、あんなに美しかった空の色はもう、何処にもない。雨でも降るのだろうか。それとも空の気分だろうか。雲の向こうに小さく小さく白い点。太陽の、痕。その痕さえ消えるかと思った瞬間、雲の僅かな裂け目からまっすぐに落ちてくる陽光。私の目を射ぬくかのように。
 そう、どんなに雲が空を覆っても、どんなに空が暗く澱んでも、その向こうには必ず太陽が在る。それは決して、失われることは、ない。


2005年03月13日(日) 
 目を覚まして時計を見たとき、呆然とした。こんなに眠ってしまったのはどのくらいぶりだろう。それでもまだ、体は眠りを欲している、私は、布団にさらに沈み込もうとする体を無理矢理引き剥がして起きあがる。済ませなければならないことがたくさんある。一口パンを齧り、薬を飲む。またパニックでも起こして済ませるべき用事を忘れてしまわないように、一応紙に書いて、冷蔵庫に貼りつけておく。
 溜まっていた洗濯物を干しながら、私は足元のプランターを何度も覗き込む。アネモネの葉の群れの中から、二つの蕾が、懸命に伸びてこようとしている。生まれたての頃の蕾の大きさからはだいたい三倍くらいに脹らんで、それでもまだ下を向きながら、茂る葉の高さまで背伸び。どきどきする。わくわくする。何色の花が咲くのだろう。この蕾は何処まで背を伸ばすのだろう。いつ咲くのだろう。その時花は、空を向くのだろうか。
 薔薇の樹を覆う夥しい新芽の先が、徐々に徐々に綻びゆく。洗濯物が風に揺れて、薔薇の樹の棘にひっかかる。私はそれを、ひとつひとつ外して、洗濯物と薔薇の樹との距離を作る。
 実家から電話が入る。電話に出た娘は「ママ、あのね、床をお掃除して、テーブルもお掃除して、お皿も洗って、きれいにしたら、おやつ食べていいよ」と言う。一体何を言い出すんだかと大笑いする。電話の向こうで両親が笑っている声も聞こえる。あんた、娘に何言われてるのよ、情けない母親ねえ、と電話を代わった母が笑いながら言う。はいはい、情けない母ですよ、私は、と私も言い返す。電話を切った後、おやつ食べていいよって言われても、おやつになるような代物が何もないじゃないの、と気づく。まぁこんなもんだ。私は用事を片付けてゆく。
 途中、リストカットした友人からメールが入る。昨日彼女が言った。毎日メールする。あなたが私を忘れちゃっても私はあなたが好きだからメールする、絶対に元気になる、もう信じてもらえないかもしれないけど、私、頑張るから、元気になるから、だから待ってて、と。そんな彼女からのメールは、たった一行、こっちは今日いい天気だよ。だから私は返事を書く。何能天気なこと言ってんだよっ、アタシは昨日ずっと泣いてたから顔がぐしゃぐしゃだよ、まったくよー、誰のせいだと思ってんだよー。返事なんて書いてやんないっ! それだけ書いて、送信する。
 ふとお線香に手が伸びる。そうだ、もう一人の友人の為に。私は線香に火をつける。線香からヒバの香りがあっという間に広がる。ちりちりと燃えゆく線香の先を私はしばらくじっと見つめる。まだあなたに、かける言葉は見つからない。そして私は再び立ち上がり、娘に言われたとおり、床磨きを始める。
 体を動かすことは、とても大切なことなのだな、と思う。昨夜、自分の手首を切り刻む代わりに私は大根を買い込んで大根をばっさばっさと切り刻んだ。料理をするときのように大根に手を添えて切るわけじゃなく、まな板に横たえた大根に勢いよく包丁を振り下ろすものだから、切れた欠片は部屋のあちこちに飛んでゆく。それでも構わず切り続ける。そうやって何本の大根を切ったんだろう。よく覚えていないけれども、そうして切り刻んで、私は、少し落ち着いてゆく自分を感じた。その後少し横になり、目が覚めたとき、或る友人の言葉を思い出した。踏み台昇降。ちょうどいい、踏み台昇降でもやろうか、そう思って、私はやり始めた。ただひたすら踏み台昇降。いち、に、いち、に…。それだけのこと。でも、気づいたら一時間近く時間は経っており。動きを止めた私の体は、ふわふわしていた。あぁもういいや、いいよ、もういいよ、そんな思いが浮かんだ。何がいいのかそんなことは分からないけれども、でももう、いいや、と、そう思った。
 あれほど自分を切り刻んでしまいたかった衝動は、そうして何処かへ消えていった。私の中に残ったのは、友人たちを懐かしむ思いだけだった。
 お互いがお互いに事件に遭った、その後で出会い、同じ病名を与えられながらもそれぞれに違う症状にそれぞれが苦しみ、泣いたり笑ったり、時には相手を平手打ちしたこともあったっけ、そんなことも思い出す。そうやって必死になって生き延びて来た。私たちは、生き延びて来た。
 友人の一人は命を断ち、友人の一人は手首を切り刻んでしまったものの生き延びて。そして私は。
 多分、誰よりもしぶとく、生き残る。
 こんなことで負けてなるものかと思う。私は絶対に幸せになってやる。そう思う。泣いたまま、怯えたままで死ぬなんていやだ、絶対にいやだ、思いきり笑って、思いきりの笑顔で死んでやる、そう思う。それが私にできる、復讐。復讐という言葉を用いると聞こえが悪いけれども、でも、それが私にできる、最大の営み。そう信じる。
 加害者はのうのうと生き延びて、法によって人権まで守られて、ましてや心の病気などという病名とは無縁に生き延びて、今だって多分、世界の何処かで呼吸している。そんな現実に負けたら、私は多分、死んでも死にきれない。
 一方で、被害者はいつまでも小さくなって生きなければならないなんて、そんなのはおかしい。事件の後必死に生き延びて、その間も心の病気と闘って、何度も何度も死と生の間を行き来し。ある者は絶望して自ら命を断つことだってあるというのに。
 でも私は、絶対に自分で自分の命を断つことだけは、しない。私は自分の左腕に残る夥しい傷痕をじっと見つめる。そして思う。生き延びてやる。何処までだって生き残ってやる。そして大きな声で思いきり笑ってやる。世界中に響くくらいに、心の底から笑って、この世界を愛しているって言い切ってみせる。
 今私を取り囲む、大切な人たちを何処までも信じ愛し、抱きしめながら、私はたとえもしその時泣いていても怒っていても、それでも私は愛しているよと、私を取り囲むこの世界全てを愛していると、歌い続けていたい。
 心の内で、私は強く、強く強くそう思う。床を拭きながら、漂ってくるヒバの線香の香りを深く吸い込んで、私は雑巾を持つ手にさらに力をこめる。絶対に、私は負けない。

 気がつけば、もう太陽は地平線の向こう、沈んでおり。西の空にほんのりと残る橙色は、徐々に徐々に闇色に溶けてゆく。
 そろそろ娘が帰ってくる。帰って来たらもちろん、娘の唇にキス。そして心の中、私の愛する人たち全てへ、くちづけを。


2005年03月12日(土) 
 母の庭でかいだ沈丁花の香りが頭の中をぐるぐる回る。沈丁花の香りに押されて梅の花は儚さばかりが漂っていた。樹から離れ木陰に隠れていると、梅の樹にメジロがつがいで飛んでくる。梅の樹の横に置いた鉢植えの金柑を、きょろきょろしながら啄ばんでいる。ヒヨドリがそれを邪魔しに来る。何度も邪魔され、金柑の実の殆どをヒヨドリに横取られ、でもメジロハまだ諦めない。私が足音でヒヨドリを追い払うと、それを待ってましたとばかりに舞い戻ってきて、一生懸命実を啄ばむ。彼らが飛び去った後には、紙のように薄い皮だけがほっこり残っている。
 沈丁花の香りが私の頭の中でぐるぐる回る。止めようと思っても止まらない。ぐるぐるぐるぐる。今日はばぁばの家に泊まると言う娘を置いて、私だけ列車に乗る。実家を出た直後、電話が入る。連続して入った電話の内容に、私は脳天を一突きされる。切れた電話をポケットに押し込んで、ふらふらと歩きながら、私はひとりきり、頭の中で沈丁花。あぁもうだめだ、この衝動を止められない、そう思った瞬間、友人たちの顔が浮かぶ。だめだ、そんなことをしたら彼らにあわせる顔がない。そう思って私は必死に唇を噛む。衝動を抑え込もうと必死に唇を噛む。けど。
 一体どうやってこれを扱ったらいいんだろう。暴発しそうになる衝動を、私はもう抑えかねていた。でも目の前に浮かぶ友の顔。顔。顔。
 思いきって私は電話をかけた。繋がらない電話。あぁもう諦めてしまおうか、暴発するならするままに、放っておこうか。そう思った時、もう一人の友人の顔が浮かぶ。私の中の、必死に制御しようとする部分が、私に電話をかけさせる。すると繋がった電話。私は、全身を包んでいた衝動が、ぐらりと揺れるのを感じる。空席の方が目立つ車内、私は扉にぴったりと体をくっつけ、繋がった電話を握り締める。
 あのね、友達が死んだの。もう一人の友達は手首を切って十七針も縫ったって。今重なるようにして連絡があったの。私もう頭がどうにかなりそうで。必死の思いで友人に私はそう話す。友人はすぐに、私の状態が危ういことを察し、必死に電話を繋いでくれる。列車がトンネルに入れば容易に切れてしまう電波。そのたびに彼女は私に掛け直してくれる。二人とも、私と同じ頃に事件に遭って、それで生き延びてきた友達なの。二人ともそんな状態なのに私だけ今こんなに元気になってる。なんかおかしいよ。おかしすぎるよ。それに、どうして加害者はのうのうと生き延びているのに、被害者だけが今もまだこんなふうに傷つかなきゃいけないの、どうしてなの。もう私、どうにかなりそうだ。必死に声にする私に、彼女はしっかりしろと繰り返す。あなただけが元気になったとかそういうんじゃなくて、あなたはあなた、彼女たちは彼女たちなんだから、そんなことで自分を責めるのはおかしいでしょ、しっかりしなくちゃ。彼女の声が聞こえる。でも私は止められない。ふっとすると、自分をめちゃくちゃにぶった切りたい衝動に駆られるのよ、どうしたらいいのか分からない。どうしてこんな思いばかりしなくちゃならないの。涙が止まらなくて、切れ切れになりながら私が言う。そんな私のどうしようもない言葉に、友人は一生懸命応えてくれる。だめ、そんなのだめ、絶対しちゃだめだよ、あなたはあなた、友達は友達。あなたは必死に頑張ってきたでしょう? ここまで頑張ってきたでしょう? 今自分をずたずたに切り裂いても、何の意味もないよ、そんなことしちゃだめだよ、しっかりして、それにあなたにはみうがいるんだよ、みうが。
 列車の中、私は泣いた。左耳に携帯電話をぴったりとくっつけながら、私は泣いた。友人が必死に私に語り掛けてくれる言葉を聞きながら、私は泣いた。
 悲しいとか辛いとか、そんなんじゃない。私は痛かった。一人の友人が死に、一人の友人が自分の手首をざくざくと切った。それを思うと、体がぎしぎし音を鳴らすほど痛かった。痛くて痛くて、どうしようもなかった。その痛みをぶち壊したくて、私は自分をめちゃくちゃにしてやりたかった。自分を切り刻むことで、私に襲いかかる何かをぶち壊したかった。でも。
 そんなことして何になる。何にもならない。そのことが、私にはいやというほど分かってる。分かってるから、余計に腹が立つ。腸が煮え繰り返って、今ここで絶叫して世界を崩壊させてやりたいくらいに。でも、そんなこと、叶わないのだ。どんなに私が全身で叫んだって、世界は変わらない。状況は変わらない。私が自分を切り刻んだとしたって、そんなもので世界は変わらない。何も変わらない。私の傷が、私の血が、虚しく地を這うだけだ。
 そして何よりも。みうはどうなる? 自分で自分を切り刻む母を目の前にしたら、彼女はどんな思いをするだろう。そんな思いを、今自分が味わっているような思いを、娘にさせていいのか。いいわけがない。いいわけがないんだ。
 私が黙っている間も、友人はゆっくりと、私に話しかけ続けてる。しっかりして、ショックなのは分かる、でも、それだからって自分を傷つけるのは違うよ、それは違うよ、あなたはここまで必死に歩いてきたでしょう? 生き延びてきたでしょう? 無駄にしちゃいけないよ、だめだよ、そんなの。
 受話器の向こう、繰り返される彼女の声に応じるように、私の中の衝動が、少しずつ少しずつ引いてゆく。それは本当に少しずつだけれども、それでも、引いてゆくのが分かる。そして心の中、浮かぶ。今自分がこんなにもショックを受けている、それと同じようなショックを友人や娘に与えていいのか、いいわけがない、そうだ、いいわけがない、私はしっかりしなくっちゃ。負けちゃだめだ、この衝動に負けたらだめだ。
 ありがと、もしかしたら今夜、また似通った衝動に襲われたら、私、電話しちゃうかもしれない、いいかな。いいよ、いつでも電話してきて、遠慮なんかしないでいいから、いつでも電話かけて、待ってるからね。ありがと。
 気づいたら降りる駅に着いていた。私は階段を下り、トイレに入って顔を洗う。泣いて目が赤いけれど、でも大丈夫、大丈夫だ。自分にそう言い聞かす。大丈夫、さぁ早く家に帰ろう。
 急な坂をのぼりながら、私の心の中、死んだ友人と傷ついた友人、そして電話を繋いでくれた友人の顔が交互に浮かぶ。やがて向こうから、娘の顔が近づいてくる。
 ママ。ママ、好き。そう言ってキスをしてくれる娘の顔が。


2005年03月11日(金) 
 音もなく雨が降り出す。少しずつ薄れてゆく闇。夜は終わりを告げ、新しい朝が始まる。けれど空一面に広がった雨雲は切れることなく、何処までも続いている。じぃっと膝を抱き、開け放した窓辺にうずくまる。耳を澄まして、耳を澄まして、じっとしていると、微かに音が零れて来る。しゃやしゃやしゃや。雨の音。春の雨。しゃやしゃやしゃや。何処までもしなやかに響く。
 時間が経つにつれ、雨はしっとりと街中を包む。晴れることのない空を見上げると、霧のような雨のシャワーが私を濡らす。
 何もする気力がなくて、娘を送り出した後の部屋にひとりへたり込む。足の裏を指で触ってみるとあっけなく痛みが走る。痛いところをゆっくり揉む。時間をかけて揉むのだが、全然解れる気配がない。じきに指の方が先に痛くなってきてしまい、私は足を投げ出す。あれと思って腰の辺りを触ると、そこにも痛みがあるのを見つける。足と腰と背中と。触っておかしいところに次々薬を貼る。自分の体の痛みに鈍感なのは分かっているけれども、こんなにがたがたになっていたのかと我ながら呆れてしまう。主治医にさんざん指摘されていることなのに、いまだに私は自分の体の痛みが分からない。体の痛みを感じ取るアンテナというものがどうも狂っている。へたり込むくらいになってようやく、おかしいなぁと触ってみるような具合じゃぁどうしようもないのかもしれない。自分に呆れ苦笑しつつ、薬を貼った箇所を、その上から撫でてみる。

 娘は時々、寝る直前に私を呼んで横にさせ、歌を歌ってくれとせがむ。昨夜もそんな具合だった。歌う歌は適当に私が選び、私が好きに歌う。大きな古時計、花、この道、おぼろ月夜、里の秋、小さい秋みつけた、砂山、夕焼け小焼け、紅葉…。考えてみると、子守唄らしい歌はあまり私は歌っていない。五木の子守唄は母が歌ってくれた覚えのある数少ない歌のひとつで、だから歌うことはできるのだけれども、何故だか私は歌っていると悲しくなる。だからあまり歌わない。結局、自分の好きな童謡ばかりになる。
 娘が眠るまで歌い続けるのだから、だんだん歌える歌が少なくなって来る。一番だけなら覚えていても、二番三番を続けて歌えない歌が多くなる。仕方がないから一番を二回三回と続けて歌うと、娘がすかさず「さっき歌ったよ」と突っ込んでくる。だから私は、適当に頭の中で歌詞を創作し、歌い続ける。
 歌いながら、布団の横にあるCDやビデオの棚をぼんやり見上げる。そういえば、思春期の頃はここにある歌たちをさんざん歌った。歌詞なんて簡単に覚えてしまえたから、迷いなく歌っていた。でも。今これらの棚の中の歌を歌おうと思っても、何も思い出せない。そんな歌があったなぁというくらいなら思い出せるけれども、それを歌おうと思っても、もう私には歌えない。なのに、どうして童謡の類はこんなにも次々思い出すのだろう。そりゃぁ一番しか覚えていないというものばかりといえばそうだけれども、それでも、娘に歌ってとせがまれて歌う歌は、いつだって童謡だ。
 娘の瞼が半分、閉じかけている。私は歌を繋ぐ。大きな古時計からもう一度、繰り返す。眠りに入りかけた娘はもう、同じ歌だよとは突っ込んでこない。うとうとしながら歌を聴いている。だから私は、彼女の頭を撫でながら、もう一度覚えている歌を歌い繋ぐ。
 多分。歌が体の中に染み込んでいるのだろうなと思う。誰の中にもあるだろう旋律、誰の中にでも覚えがあるだろう歌詞の一シーン。自分のことを限定して歌った歌ではないのだけれども、まるで呼吸するように、歌が体に染み込んでいる。だから、幾つになっても思い出すのは、童謡なんだろうと思う。
 やがて娘は静かな寝息を立て始める。私はそっと彼女から体を離し、布団の外に出る。窓を半分だけ開けて、私はベランダに出る。そして、闇の中に沈んでいる薔薇の新芽にそっと指で触れる。やわらかい芽。その芽と同じくらいしなやかな雨。そして雨の後に広がるのは輪郭を暈すうっすらとした霧。春はきっともう、すぐそこまで来ている。


2005年03月10日(木) 
 込み合う電車、扉に体をぴったりくっつけて電車が自分の降りる駅に着くのをひたすら待つ。扉のガラス部分がうっすらと曇っている。列車内の暖房は容赦なく私の上から降り注ぐ。体を小さく丸めながら、私は上着を脱ぎ、胸に抱きしめる。窓の外、見慣れた風景が通り過ぎてゆく。私の目は何処に焦点を合わせるわけでもなく、身動きひとつせずにじっとしている。苦しい。息がしたい。そう思いながら、私はじっと息を潜めている。ようやく窓の外に野っ原が現れる。見事に何もない、ひたすら雑草の生い茂る野っ原。この野っ原が現れると、束の間だけれども私はほっとする。何もない、ただの野っ原。でもその何もないというそのことが、私をほっとさせる。あともう少し我慢すれば駅に着く。自分にそう言い聞かせ、私は扉に体をさらにぴったりくっつけて、時間が過ぎるのを待つ。
 考えてみればもう何年、この街に通っているだろう。初めて就職したその頃から、いや、大学時代、いや、高校時代から、何だかんだとこの街のあちこちを歩いてきた。でも、何故だろう、いまだ慣れることがない。東京という街は、どうしても私の肩を背中を強張らせる。一時期東京に住んだことがあった。その街は下町風情がまだ残っていて、地元住民がわんさか集まる祭りもあった。そういうものはとても好きだったけれど、私はどうしても、余所者の意識が抜けなかった。好きなのと慣れるのとは違うのだなと、その時知った。好きだったけれど、どうしても馴染めなかった街。東京はいまだに、私にとってそういう場所だ。
 早々に用事を済ませ、受け取った荷物をぎゅっと握り締めながら私は帰り道を急ぐ。電車が横浜に着くまでじっと、ただじっと空席の目立つ座席に座って過ごす。横浜に着くと、私はようやくほっとする。あぁ帰って来た、そんな気持ちがする。自然、肩の力が抜けて、呼吸も楽になる。東京と横浜。何が違うと明確に言うことができないのだけれども、私の体は明らかに異なる反応を示す。ただそれだけのことといえばそれだけのことなのだけれども。
 坂道だらけの街をうねうねと自転車で走る。歩くことは嫌いではないが、自転車が好きだ。自転車で走りながらあれやこれや思い巡らす。いいこともいやなこともいっしょくたに。海からの風が私の髪の毛をぐしゃぐしゃにして通り過ぎる。雀の親子が突然茂みから飛び出して来る。あっちもこっちもマンション建設の最中で、工事の車両が車道にはみ出している。それらをくいっくいっと避けながら、私は自転車を走らせる。
 「あら、いらっしゃい」。そう言って迎えてくれるのは、前に住んでいた家の近くにある駄菓子屋さん。体を横にしないと通れない、つまりは子供の体サイズしか開いていない通路の片側に、品物があれこれ並んでいる。みんな百円以内で買える品物。私はシャボン玉を二袋、おばあちゃんに渡す。「今日はお嬢ちゃんは?」「保育園です」「あ、そうだったわね。じゃ、これお土産ね」「いつもありがとうございますぅ」「また来てね」「はぁい」。それだけのやりとりだけれども、私の心はぽっと明るくなる。奥ではおじいさんが新聞を広げながらテレビを眺めている。おばあちゃんに手を振って、軽く会釈して店を出る。何をお土産にくれたのだろう、袋の中を覗いてみる。すると、チョークが一本入っていた。前回娘と来た折に、娘が欲しそうに眺めていたピンクのチョーク。一本二十円なのだから買ってもよかったのだが、これを使って遊べる場所がないなと思って私は買わなかった。おばあちゃん、それを覚えていてくれたのだ。自転車に乗りながら、おばあちゃんありがとねぇと呟いて、私は坂を上る。
 マンションの入り口に自転車を停めていると、入り口脇にある美容院からいつものお姉さんが出てきた。あらこんにちは。いい天気ですねぇ。ほんとほんと、こんな天気に仕事してるなんてもったいないわねぇ。ははは、じきにお花見の季節ですよね。もちろんお花見するわよ、今から楽しみにしてるんだから、私。気が早いなぁ、と言う私も同じですけど。何処にでもあるような会話、何処にでもあるような会釈、でも、そんな何処にでもあるものが当たり前に在る、それが、強張る私の背中を柔らかくしてくれる。
 それまで当たり前であったことが、常識であったことが、根こそぎ覆される、そういう体験を経てしまうと、それまで当たり前であったことはもう二度と当たり前には戻らない。ひとつひとつが、すべて、特別なものになってしまう。たとえば誰かが手を差し伸べてくれる、誰かが声をかけてくれる、誰かが笑んでくれる、私もそれに笑みを返す、そんな、今まで当たり前にあった仕草、やりとり、営み、すべて、実はいつ崩れてもおかしくない代物だったんだと、思い知らされるのだ。そして、今の今まで私のすぐ隣にいてくれたはずの人が、掌を返してくるりと背を向けて立ち去ってゆく、そのことの方が、当たり前になってしまう。色のあった世界が、あらゆる色を失って崩壊してゆく。地面も地平線も空も何もかもが、ついさっきまで当たり前にあった世界が、くるりと反転して、誰とも共有できない世界へと変貌する。そして私は、もう、そこの住人になるしか、術はない。
 でも、望むなら、きっと、再び世界を建て直せるはずなんだ、と、そう思い至るまで、どれほど長い時間を要しただろう。今だってまだ途中だ。ちょっと油断すれば、私は足を踏み外し、階段を幾つも転げ落ちるだろう。のぼりかけた坂道を、あっけなく転がり落ちるだろう。だからどうしても、恐がりになってしまう。目を伏せてしまう。
 そんな自分をいやというほど感じているから、私は多分、敢えて空を見上げようと、意識するのだ。そうしないと何処までも私は下を向いて歩いていってしまうかもしれないから。そんな姿を見ていたら、娘はきっと、上を向くことが悪いことか何かのように思ってしまうかもしれない。前を向くこと、上を向くこと、世界を眺めること、世界を呼吸すること、世界に手を伸ばすこと、そういったことすべては、本当は決して恐いものでも何でもなく、当たり前に為して不思議ではないことなのだから。
 娘を寝かしつけながら、私はいつも彼女に囁く。みう大好きだよぉ、と。それは、ずっとずっと、私が母に言ってほしかった言葉だ。母に、好きだよ、愛しているよ、と、私はずっと言ってほしかった。別にあんたが何もできなくても、何もしなくても、私はあなたを愛してるんだよ、と、そんなたった一言を、私はずっとずっと欲していた。今もまだ、もしかしたら、私は心の何処かで、それを求めているのかもしれない。もうそんなことを、表に出すほど子供ではなくなってしまったけれども。だから私は娘に言う。大好きだよぉ、と。そして抱きしめる。好きだよぉ、と言いながら。娘に、ママ痛いよぉ、と体をくねくねされながらも、笑い合いながら好きよと言う。ただ思ってるだけでも伝わるものでしょ、と、親子の間でよく言うけれど、思ってるだけじゃぁ伝わらないことだってある、当たり前のことだからこそ、声に出してちゃんと伝えたいことが、ある。
 静かな寝息を立て始めた娘の横から這い出して、私はいつもの椅子に座る。開けた窓から流れ込む風は、今日はなんだか生暖かい。まだもう少し、冬のままでいてもいいのにな、なんて思う自分に苦笑する。過ぎてしまってから恋しがる、人はそんなわがままな生き物。
 さぁ残りの仕事を仕上げてしまおう。椅子の向きを変えて、私は背筋を伸ばす。首筋をすっと、夜風が通り過ぎてゆく。


2005年03月09日(水) 
 日が傾くにつれ空を覆う雲が多くなってゆく。この分だと夕日を見ることは叶わないかもしれない。仕事先で眩暈を覚え、早めに家に戻る道々、空を見上げながらそんなことを考えていた。
 いつものようにプランターに水をやり、私はテーブルに座る。うちのテーブルはやたらに大きい。大きいものを私があえて選んだ。家族が個室に篭るんじゃなく、このテーブルに集まってあれやこれや為せるようにとそんな理由で。今娘と私しかいないこの家で、この大きさのテーブルはどう考えても大きすぎるけれども、でもだからといって取り換える気持ちにはなれない。大きすぎるけれども、この上で、この下で、娘があれやこれや作業している。それを眺めてぼんやり過ごす時間が、私はとても好きだ。彼女が机の上で作業しているときは、ママに誉めてもらいたい何かを作業しているとき。机の下での作業は、ママには教えてあげない何かを作業するとき。彼女のそんな使い分けに私は気づいてはいるけれども、彼女の前ではあえて何も気づかぬふりをする。
 テーブルに座り、私は筒状に丸まった代物を広げる。グラシンだ。本好きの私にはこのグラシンは欠かせない。私にとって本をカバーするものは、グラシン以外に考えられない。これは、大学時代からの癖。
 大学時代、小さな出版社でアルバイトをした。翻訳物や詩集を編集発行する出版社で、たった二人できりもりしていた。そこでアルバイトをした折、返品される品々を磨く作業があったのだが、その作業で、汚れたグラシンをはがしては再度きれいなグラシンでカバーするという作業があった。とあるシリーズが、当時はグラシンのカバー付きの装丁だったからだ。汚れたグラシンはあっけなく捨てられる。それを見て、私が社長にこれ欲しいんですがと言ったところ、好きなだけ持ってけ、と言われた。だから私は、持てる限りのグラシンを毎日のように持って帰った。
 そのグラシンは山のように私の本棚の前に積まれ、以来、私の本のカバーになっていった。一体何枚持って帰ったのだろうと自分でも呆れるほど、グラシンは山のようにあった。あれから十五年。一枚、一枚、使われ続けたグラシンの山が、先日とうとうなくなった。そして私は、初めてグラシンをお金を出して買った。
 今、広げたグラシンは真新しくて、汚れてるところも破けているところもない。新品なのだからそれが当たり前だ。でも、なんだか不思議な気がする。私が長年使い続けてきたグラシンは、本を踏んだ誰かの足跡がついていたり、誰かが本を棚に戻す際にひっかけたのだろう破れ箇所があるのが当たり前だったのだ。こんな、真新しいグラシンなんて、あり得なかった。
 私はそおっとそおっと、グラシンを切り分ける。適当な大きさに切っておいた方が使いやすいだろうから切り分けようと思ったのだけれども、定規を当てる指先が緊張してぷるぷる震える。これなら中古のグラシンの方がずっと扱いやすい、なんてことを考えて苦笑する。何度も深呼吸しながら、私はようやく作業を終える。
 本屋さんでカバーは必ずしてもらえるけれども、正直私はそれがあまり好きではない。本の中身が見えないからだ。でもグラシンなら、カバーをかけていたってすぐに見て取れる。それが何より心地よい。本棚は、あの本を、と思いついたときに、すぐ探せる、そういう状態にしておきたい。
 そして切り分けた後は、ひたすら単純作業だ。本のカバーをグラシンで包み、本に着せる。それだけのことをひたすら繰り返す。山積みになったカバーなしの本に、次々洋服を着せてゆく。私は何にも考えず、ただひたすら、その作業に没頭する。
 心が何処かざわめいているとき、さざなみだっているとき、澱んでいるとき、こういった単純作業が一番いい。何も考えず、心を空っぽにして、ただ手だけを動かし続ける。気がつけばあっという間に時間はゆき過ぎて、私の心の中に広がっていた憂鬱という霧が、おのずと消えてゆくのが分かる。
 多分、先週から、心が強張っていたんだろう。主治医に言われたとおり、私は体も心もかちかちになるくらいに緊張していたのかもしれない。私は一通りカバーを着せ終えて、あたたかくなった本を、本棚に入れてゆく。本。それは私にとって、かけがえのない存在。この本の中身ももちろんだけれども、この本をこの世界の誰かが作った、誰かが見つけ出して本という形にしてくれて、そうして私の手元に届いた、そのことが、私の気持ちをほっくりさせてくれる。もう二度と私自身が関わることはできない領域だけれども、その領域への恋しさは、いまだに変わることはない。

 窓の外、烏が二羽、横切ってゆく。やっぱり今日は夕日が見られなかった。地平線のすぐ上、雲を通して茜色の太陽の半分がうっすらとこちらを見ている。そろそろ娘を迎えに行こう。帰って来たら、何をして遊ぼう。
 上着を羽織り、私は部屋を出る。風はまだ少し、冷たい。


2005年03月08日(火) 
 保育園の入り口、娘とたくさんのキスをして別れる。私は自転車に乗って川沿いを走る。この川沿いには何本もの桜の樹が植わっている。季節になれば水面が埋め尽されるほどの花びらが舞う。少し自転車の速度を落とし、桜の枝々に視線をやる。小さい小さいとんがりだけれども、蕾は確かにそこに在り。あっという間にきっと、桜の季節はやってくる。花びらは日差しを全身に浴びて、ちらちらと揺れるのだ。水面もきっと、花びらに合わせて光を揺らがせ、ちらちらと流れるのだ。もうじきその季節。
 うまく寝つけなかったこともあって、昨夜は夜明け近くまでタイプを打っていた。走り書きのような書類とにらめっこしながら、当てはまるだろう言葉を記憶から引っ張り出して仕上げる。それだけのことなのだけれども、その走り書きのような字は見事に歪んでおり、正確に読み取るのには神経を使う。毎度のことながら、もう少しきれいな字を書いてもらえないものだろうかなんて、文句のひとつも言いたくなってしまう。そのせいにしてはいけないと思いつつ、仕事場でついうとうとしてしまう。かくんと首が落ちて私は目を覚まし、慌てて手を動かす。
 早めに家に戻り、プランターに水をやる。今アネモネのプランターに水をやるのがとても楽しい。毎日のように茂った葉をそっと分けて、根元をじっと観察する。また今日も新しく蕾が土から頭を持ち上げている。何色の花が咲くのだろう。どんなふうに風に揺れるのだろう。想像するだけで胸がどきどきする。
 薔薇の樹からは紅く固い芽が次々現れ出ている。まだしぶとく枝にくっついている古い葉々を撫でると、とても固い感触が指に伝わる。固くて乾いた感触。もうじき君たちの役目も終わるんだね、撫でながら話しかける。そして君たちの後には、やわらかい葉が次々現れるんだ。
 ミヤマホタルカヅラは、根元の方がまた木質化してきている。もう少しあたたかくなったら、また挿し木をして増やそう。手間隙かけても、大きな花が咲くわけではない。とても小さな、けれど深い深い藍色の花をつけるミヤマホタルカヅラ。私はその色がとても好きだ。じっと見つめていると、深い海を想像させる。いや、海よりももっと透明な何かを、私の心の中に産み出す。そんな色。
 サンダーソニアは今年は芽を出すだろうか。球根を入れっぱなしにしてしまった。もしかしたらもうだめかもしれない。でももしかしたら、もしかしたら今年も、ちょこねんとあのまっすぐな芽を出してくれるかもしれない。多分この辺りだろう土に指で触れてみる。とんとんとん。ノックしてみる。返事はない。一方的に話しかけてみる。生きてたらまた会えるね。会いたいよ。芽、出して欲しいな。
 そうしている間にあっという間に西に傾く太陽。薄い橙色に染まり始める。ベランダの手すりに寄りかかりながら、私は西の空を眺める。太陽を見ていると目の奥がじんじんしてきて、やがて視界が全部ぼやけてゆく。もう目を開けていられなくなって、私は瞼を閉じる。そして思い出す。大叔母は今頃、どの辺りを歩いているのだろう。
 あの世への旅路はずいぶん険しいと聞く。大丈夫だろうか。怪我をしたり迷ったりしていないだろうか。でも、きっと大丈夫。祖母がきっと大叔母を励ましているに違いない。こっちだよと手招きして迷子になんてならないようにしてくれるに違いない。目を閉じた私の心の奥に、大叔母の死に顔がぼんやりと浮かぶ。胸がきゅっと痛くなる。でも。
 そうしてじっとしていると、大叔母の死に顔はゆっくりと薄れてゆき、その後には、元気だった頃の大叔母の顔が浮かぶのだ。さをり、さをり、と私の名を呼んでくれた、あの大叔母の声も一緒に蘇る。耳を澄ませば、すぐ隣で、大叔母が私を呼んでいるような気がする。
 大叔母がいなくなった、そのことに、私はきっといつか慣れてゆく。今はまだ、この空洞をどうしたらいいのかわからないけれども、きっといつか、慣れてゆく。そして、受け容れるのだ。大叔母の死を。
 思うのだが、私より娘の方が、もしかしたらずっと早く、大叔母の死を受け容れてゆくような気がしてならない。大叔母との思い出が私よりも格段に少ないから? いや、それだけじゃぁないだろう。彼女は彼女なりの形で大叔母がいなくなったことによる空洞や大叔母の死を見つめ、彼女なりにそれを昇華しようとしている。いや、昇華しようなんてことをわざわざ意識にのぼらせることなく、ありのままに、そのままに、受け止めているんじゃぁなかろうか。娘の後姿を眺めながら、昨日、そんなことを思った。私よりずっと幼いけれども、彼女はもしかしたら私よりずっと強いのかもしれない。変に言葉に還元してしまう私の方が脆く、なおかつ理屈にばかり頼って実際の行為から遠のいている、そんな気がするのだ。
 言葉って結局何だろう。言葉がなければお互いにお互いの意志を確かめ合うことができない。そういう意味で、言葉は必要なものだ。けれど、言葉でもってそのものを無理に表そうとすれば、そのものは逃げてゆく。言葉などでは決して言い表せない、でもそれを私たちは無理矢理言葉に押し込めようとする。気がつけば、言葉を使う私たちの方が、言葉に振りまわされてしまう、或いは言葉に操られていたり、する。
 辞書がずらりと並ぶ机の棚を、私はぼんやり眺める。こんなにたくさんある辞書にさえ、多分、収まりきらないものがある。そう思うとき、言葉に頼り過ぎてはならないことを、思い知らされる。
 もう一度空を仰ぐ。太陽はもう地平線に沈む直前。一日があっという間に過ぎてゆく。誰かがこの世界から姿を消しても、この世界は続いてゆく。その中にぽつねんと、私も、在る。


2005年03月07日(月) 
 瞬く間に月曜日がやってくる。一体この一週間、私は何をしていたのだろう。ぼんやりした頭を軽く左右に振りながらカーテンを開ける。カーテンを開けるたびに、日に日に太陽が昇る時刻が早くなることを感じる。東からまっすぐに伸びる日差しの手が、昨日はあのあたりまで、今日はもっと奥の街の外れまで届いている。娘を起こし、いつものように朝の仕度。いつものように家を出て、いつものように電車に乗る。大叔母がこの世界からいなくなっても、私の日常はそうやって繰り返されてゆく。積み重なってゆく。
 病院に着き、ドアを開ける。待合室にはまだ誰もいない。私はほっとして、肩から荷物を下ろし、それを枕にしてしばらくの間目を閉じる。外界から自分を閉ざして、自分の中にだけ閉じこもる。正直に言うと、この時間が、たとえほんの短い時間であっても、私はとてもほっとする。
 名前を呼ばれ、診察室に入る。
「先生、大叔母が亡くなったんです」
「…大変だったわね」
「先生、これでもう、いなくなっちゃいました。親とのこと、話ができる相手、理解してくれる相手が、もうこの世界にはいなくなっちゃった」
「…そうね、しんどくなるね」
「言葉がうまく見つからないんですけど…巧妙でしょう? うちの親と子の関係って。それを理解するのは、他の人には大変だと思う」
「そうね、私もそう思うわ」
「大叔母は私が何も言う前から、理解してくれてた。その人が、いなくなっちゃった」
「…」
「正直、まだ受け止めかねているんだと思います、私。頭の芯がぼーっとしてる」
「それが当たり前よ。何もおかしくなんてないわ」
「…」
「でも、至極冷静に受け止めてる部分もあるんです。その両極に引き裂かれる感じがする。娘に対してとか、第三者がそばにいるときとか。そういうときは気味が悪いほど自分が冷静に対処している。中間が、ないんです。両極にぱっくり割れている、その中間が、皆無なんです」
「…」
「それから、毎晩のように夢を見るんですけど、そこに女の子が出てくるんです、みんな違う顔してて、でもそれは必ず私なんです。そしてその女の子が」
「女の子が?」
「…女の子が、みんな違う顔してるのに全部私で、その女の子は必ず、夢の中で強姦されるんです」
「…」
「加害者はいつだって笑ってる。なんかもう、どうでもよくなってきた、そんな感じです」
「まだまだ緊張状態が続いてるのね」
「緊張してるつもりはないんですけど。よく分かりません」
「そうね」
「それに、たとえば今ここに娘がいたなら、私はきっとしっかり母親になるんです。自分でも呆れるほど、その役目を私は果たそうとする。自分の気持ちは棚上げしてでも、私はきっとそうなる」
「…」
「私がたまらないのは、それが全部、繋がらないことです。欠片ごとに全部あっちこっちに離れて散らばっていて、私が繋がらない、それがしんどいです」
「そうね。でも、不安定になって当たり前の状況だってこと、忘れないでね、そんなことで自分を責めたりしないこと」
「はい…」
「自傷行為したりしてない?」
「あぁ、それなんですけど。したくなるんです、猛烈に。どうしようもなく切り刻みたくなる、これでもかってほど切り刻んでやりたくなる、自分を」
「それだけは止めましょうね、今やったら絶対に止まらなくなるから」
「…」
「いい? 自分を切り刻むことだけはやめて。他は何をしてもいいから。ね?」
「…」
「今またそれをしたら、もう止まらなくなると思うから。だから、それだけはやめて」
「…はい」
「来週また会いましょう、ね?」
「はい」
「何かあったら、いつでも来ていいから、とにかく乗りきりましょう、一週間。ね?」
「…はい」
 診察室を出、私はぼうっとする頭を抱えながら、処方箋を受け取る。日差しが眩しい。今空はどんな色をしているのだろう。気になるけれども、顔を上げるのが億劫で、私は下を向いたまま歩き続ける。そんな私の隣を、明るい色のコートを着た女性が、颯爽と通り過ぎる。

 仕事場に行かなければと思いながら、私の足は横道にそれる。気がついたらモミジフウの樹の下に座っていた。耳たぶに触れる風の手がほのかにあたたかい。幹によりかかりながら、私は空を見上げてみる。淡黄色の日差しが私の目を射る。咄嗟に瞼を閉じて、私は深呼吸する。耳を澄ますと、樹の傍らを行き交う人の足音が鼓膜を震わせる。
 大丈夫。抱え込んでいる不安の大部分は、診察室の中に置いてきた。為そうと思えば、今すぐにでも笑って仕事をこなすことができるだろう。両極に引き裂かれようとどんな残酷な映像を私が抱えていようと、そんなことは関係無く日常は営まれるもの。たとえば今娘が私の隣にいたなら、私は間違いなく、それなりにしっかりと母親を営むのだ。また、今自分が仕事場にいたならば、どうでもいい冗談なんかを誰かとやりとりしながら、仕事をこなしてゆくに違いない。
 私はもう一度、モミジフウの樹によりかかりながら、深く深く深呼吸をする。閉じたままの瞼だけれども、瞼を通り越して、明るい光が私の目に届く。大丈夫、どんな状況に陥ろうと、私がこうやって手を伸ばせば、世界はすぐそこにある。私さえ顔を上げてみたならば、空だってきっとこの目で見ることは叶う。私は瞼を暖める日差しも一緒に胸に吸い込んで、樹の根元から立ち上がる。
 さぁ、そろそろ行かなければ。日常が私を待っている。


2005年03月06日(日) 
 まるでそれは予め決められていたことのように、雪が降る、雪が、降る。一途に空から舞い降りて来る雪の中、大叔母は眠っている。余計なものは全て排除したような白い景色の中、私たちは大叔母の元に集う。
 真新しいクリーム色の家の周りを、枝葉をすっかり落とした裸の樹々が取り囲んでいる。新しいこの家で、大叔母と大叔父とH兄夫婦はこれから暮らすはずだった。でも、この家が建ち、大叔母はこの家に荷物を運び込んだものの、たった数日しかいることはできなかった。自分の部屋に入ったのはただの一度、あとは、このベッドの上で過ごし、そして、最期の入院をしたのだった。
 今、窓の外、雪は降り続く。この雪のせいか、鳥の姿は何処にもなく、ここに在るのはただひたすら、静寂という厚いヴェール。
 戒名も位牌もない。大叔母と大叔父が選んだのは、この世の名をあの世でも持ち続けること。そして、この名のまま生まれ変わり、再び出会うこと。大叔父は、ベッドに横たわり眠る大叔母の横で淡々とそう話した。再び出会い、再び結ばれるためにも、迷子になったりしないよう、この名前をずっと通そうと二人で決めたのだと。
 葬儀に参加していつも感じるのは、葬儀というのはこの世に遺された人の為にあるものなのだな、というそのことだ。ひとつ屋根の下に集った人々が、みなそれぞれに大叔母の思い出話をしている。大叔母と大叔父が選んだのは家族葬という形で、だからここに集っているのはみな、身内だ。長いこと会っていなかった顔もあれば、折々に顔を合わせている者たちも、今はみな一緒にここに在る。
 ベッドの上横たわる大叔母の傍に座ると、それだけで何だろう、想いが喉元まであっという間にこみ上げてきてしまう。気がつけばほろほろと、涙が零れてしまう。どうにかして涙を止めたいと思うのだけれども、止める術がみつからない。いや、止めようがない。ここに座る、大叔母と向き合う、ただそれだけでもう、私は否応なく知らされるのだ。大叔母と私との間に深い深い川が流れていることを。生と死とを隔てる深い深い細い川が。それはとても細いのに、とてつもなく深く深く、決して今ここを私が渡ることはできない、そんな川が。
 話したいことは山ほどある。山ほど在る、はずなのだけれども、私はもう何も言えない。言葉にならない。ただひとこと、おばちゃん、と、声にするのが精一杯なのだ。もうその呼び名しか、声にならない。
 私がぽろぽろと涙を零し、声もなく座っているところに、娘がやってきた。ママ泣いてるの? …うん、おばちゃんが死んじゃったからね、そのことを思って悲しくなったの。娘はさっき大叔父から教えてもらったとおり、お線香を立て、手を合わせる。ママ、どうしておばちゃんはお顔隠してるの? うん、死んじゃったからだよ。みう、おばちゃんの顔見たい。…じゃ、見てごらん、その白いハンカチを持ち上げるんだよ。娘は言われた通り、そっとハンカチを持ち上げる。
 そこに在るのは、透き通るような大叔母の顔。十数年前の祖母の死に顔とあまりにそれは似通っていて、私はそれだけで喉が詰まる。ママ、おばちゃん、透き通ってるね。そうだね、きれいだね、これからお化粧もするんだよ。お化粧するの? うん、きれいにするんだよ。
 そうだ、私は泣いてばかりいられない。ここにくる前に決めたのだ。大叔母の死を娘にしっかり見せること。彼女が人の死をちゃんと受け容れられるように導くこと。大叔母の死に顔を見た瞬間、それを思い出す。そうだ、おばちゃん、私はしっかりしなくちゃいけないね、おばちゃんの死を私はちゃんと娘に教えるよ。ハンカチを元に戻し、私は背筋を伸ばす。みう、いつかね、ママもばぁばもみうも、みんなこうやって死んでゆくんだよ。生きてる人はみんな、いつか死ぬの。娘は黙って私の言葉を聞いている。だからね、ちゃんとお見送りしようね、おばちゃんがちゃんと死んでゆけるように。それが、ここに今も生きてるママやみうの務めなんだよ。務め? うーんとね、役目ってこと。うん、わかった。
 やがて死化粧や死に装束を施され、納棺の儀を済ませられた大叔母は、さらに透明度を増した表情で棺の中に横たわる。娘は、誰に教えられたわけでもないのに、お線香が絶えそうになるとさっと次を立てにゆく。誰かが思い出に声を詰まらせると、その人の傍にいってにこっと笑ってみせる。今ここに集う人々の中で一番幼い娘は、その人たちから見たら多分、一番天使に近い存在なのだろう。娘ににこっとされた人はみな涙を拭い、娘を抱き上げて、思い出話の続きを話し始める。その頃にはみんな、思い出のいとおしさから生まれる笑みを、顔一面に浮かべている。
 その間にも、花が次々に届く。花が大好きだった大叔母は、あっという間に花々に囲まれてゆく。今花の中央に飾られている大叔母の写真は、少し浮腫んだ顔をして帽子を被っている。長いこと病を患った大叔母は、途中髪の毛が全て抜けてしまったことがあった、その頃から、大叔母は常に帽子を被るようになった。あまりに長いこと闘病生活を続けていたので、いざアルバムをめくってみても、帽子を被っていない写真は全くといっていいほど無くて、結局この写真になったのだという。
 棺に収まった大叔母の顔を、兄たちがかわるがわるやってきては両手で包んでゆく。その姿を見つめていた娘が、兄たちを真似て大叔母の頬や額に手を乗せる。乗せてしばらくして娘が私を振り返る。小走りに私のところへやってきて、私の耳に囁く。ママ、おばちゃん、冷たいよ。そうだよ、人は死んでしまうと冷たくなるの。だから、今ママの手やみうの手があったかいのは生きているからなんだよ。…ふぅん。そして娘はもう一度大叔母の傍らに行き、すっかり削げた大叔母の頬に、そっと手を添える。そうして大叔母に手を合わせる娘の姿を、私はじっと、見守っている。

 娘を寝かしつけようと娘の傍らに私が横になると、娘が尋ねてくる。ママ、おばちゃんはこの後どうなるの? うんとね、明日みんなで火葬場っていうところに行ってね、そこでおばちゃんは焼かれて骨だけになるの、それをみんなで拾うんだよ。骨だけになっちゃうの? うん、そうだね。体はもうなくなっちゃうの。おばちゃんは何処にいっちゃうの? おばちゃんの魂はあの世にいくの。あの世って何? 死んだ人が住む世界。ママとみうは今何処にいるの? 生きている人が住む世界。…ママ、おばちゃんかわいそうだよ。みう、やだ、ママもばぁばもみんな死んじゃうの? いつかね。いつかみんな死んじゃうよ。それが自然なことなの。ママも死んじゃうの? いつかそういう日がきたらね。ばぁばも? うん、そう。だからね、みう、今生きてるってことを大事にしようね。
 夜中、娘の泣き声がしてそばに飛んでゆくと、娘は私の首に抱きついてきた。ママ、やだよ、やだよー。死んじゃうのやだよー。そう言って泣いている。だから彼女を抱きしめながら言う。大丈夫だよ、ママはちゃんと生きてるでしょう? でもいつか死んじゃうんでしょ? うん、いつかね。でも今は死なないよ。みうのそばにちゃんといるでしょ? みう、ひとりぼっちになっちゃうのやだよー。うん、大丈夫、ママが今ここにいるでしょ? わーん。ずっと一緒じゃなきゃやだ。やだよー。
 私がいくら言葉で説明したって足りないことは覚悟の上だ。多分娘は、じぃじとばぁばにも尋ねるだろう。じぃじとばぁばに尋ねたなら、じぃじとばぁばはきっと、孫を思いやってやさしい言葉をかけてくれるに違いない。でももしその直後、事故か何かでじぃじやばぁばが死んでしまったら。その時彼女は何と思ってしまうだろう。死なないって言ったのにどうしてじぃじやばぁばは死んじゃったの、と、余計に納得がいかなくて、彼らの死を受け容れることなどできなくなってしまうに違いない。だから私は繰り返す。容赦なく繰り返す。誰もがみな、いつかは死ぬんだよ、と。五歳になったばかりの子供に、それは酷な現実だと知りつつも。
 ようやく再び眠りに落ちた娘の体を私は布団に横たえる。お姉さん、と後ろから声がかかる。振り返ると、はとこの一人がそこにいる。みうちゃんの横に寝ることになってるんだ、僕。あらまぁ。寝返りとかうったら潰れちゃうよねぇ? わはははは。いいよいいよ、気にしないで。それよりみうに蹴飛ばされないように。いや、こっちは大丈夫。それにしても今日は災難だね、みうと一緒にお風呂に入らされた上に隣に寝るなんて。いや、歳の離れた妹が出来たみたいで、妹ってこんな感じなのかなーって…。わはははは、よろしくね。

 夜中を過ぎても雪は降り続ける。しんしんとしんしんと降り続ける。もしかしたらもうこのまま雪は止まないのではないかと思うくらい、ただひたすらに降り続く。この家の周りには、街灯のひとつさえ見当たらない。周囲から切り離された空間で、ここに集う皆が同じ空気を吸っている。大叔母の死という同じただひとつのことを胸に抱き、集っている。
 酔っ払った人、話し疲れ居眠りをする人、思い出をひたすら話し続ける人、みなそれぞれに、この夜を過ごす。明日になったら大叔母はその姿形を失い骨になってしまう。その前に、大叔母の傍らで、大叔母への想いを思いきり吐露してしまいたいと、誰も彼もがそれぞれの形でもって大叔母の死へ想いを馳せている。
 気がつくと私は、人の輪の中にいながらその声がすっかり遠のいたところに座っていた。いや、すぐ右にも左にも実際には人は座っている。人の間に座っていながら、私の鼓膜は現実には閉ざされて、私は自分の内奥にいつのまにか沈み込んでいる。
 内奥に沈みこむと、そこにはもう十数年前に亡くなった祖母の顔があった。だから私は話しかける。ねぇおばあちゃん、おばちゃんがそっちにいくよ、そろそろいくよ。途中まで迎えにきてあげてよ、おばちゃんが道に迷わないように。おばちゃんと思い出話でもしてるうちに、多分今度は私の番になって、私もそっちにいくし。そしたらみんなでいろんな話しよう。だから待ってて。

 翌日。夜明け近くまで降り続いていた雪は嘘のように止み、日差しがさんさんと降り注ぐ。私たちは火葬場へゆく。大叔父と兄たちとが大叔母と最期の対面を済ますと、大叔母の体は、棺は、所定の場所へ運ばれ、そして火が大叔母を包み込む。
 大叔父や兄たちが、もう耐えられないという様子で声を殺して泣いている。すると、私の手を離れ、娘が大叔父や兄たちのところへ駆け寄る。兄が娘に気づいて、兄たちを見上げる娘を抱きとめる。娘もぎゅっと兄たちを抱く。私と母は、その様子を遠く後ろから見守っている。
 大叔母の骨は、思った以上にたくさんあった。私は祖母の骨を思い出す。祖母の骨は今の大叔母の三分の一もなかった。同じ癌という病で亡くなった祖母と大叔母だけれども、同じ癌でも二人、大きく違っていた。そのことを改めて私は思い知る。でも、頭蓋骨には、祖母と同じように、大叔母のものにも赤や紫の染みががあった。その染みが、私の目を射るように突き刺さり、私はつい視線を逸らしてしまう。癌はもう治る病気になったのだと医者が言っていたのを聞いたことがあるけれど、本当にそうなのだろうか。こんなふうに骨に染みを作るほどの病気には変わりないんじゃなかろうか。それともこの染みたちは、彼女らを死に追いこんだ病とは無関係のものなのだろうか。私には、分からない。
 林の中に建つ家に戻り、大叔母の遺骨が花々の間に置かれる。大叔父が深々と頭をさげる。私たちも頭を下げる。順番に大叔母に線香をあげ、そして長い一日がようやく終わる。いや、最期の一日が、もう終わってしまう。
 娘は、骨壷に納められた大叔母を、どんなふうに受け止めたのだろう。もう慣れた手つきで大叔母に線香を上げ手を合わせる娘は、今何を思っているのだろう。私はただじっと、彼女のそうした姿を離れた場所から見つめている。

 ようやく家に戻り、私と娘は早々に横になる。疲れ果てたのだろう、娘はあっという間に寝息を立て始める。私はそんな娘の傍らで、息を潜め、娘をじっと見つめる。通夜から告別式へ、妻であり母であった大叔母を思い涙する大叔父や兄たちの姿、思い出話にふける様々な大人たちの姿、幼い娘の相手をいやがらずに為してくれるはとこたちの姿、娘にはどんなふうに映っただろう。どんなふうに彼女の心に刻まれるだろう。帰り道、娘は母に一生懸命尋ねていた。ねぇばぁば、ばぁばも死んじゃうの? あらやだ、まだまだ死なないわよ、ばぁばは元気でしょう? …うん、でも。大丈夫、ばぁばはまだまだ死なないわよ、みうが大人になってみうの結婚式見るまで、じぃじもばぁばも元気でいなくちゃ。だからね、死なないわよ、大丈夫よ。…うん、そうなんだ。そうよ。ふぅん。
 母は娘とのそのやりとりの後、私の顔をじっと見て言った。本当にこれでよかったのかしら、みうには刺激が強過ぎたんじゃないの? と。そう言った。だから返事をする。そうかもしれない、でも私はこれでよかったと思ってるから。この後は私の仕事だよ、彼女がどう人の死を受け容れてゆくか、幼いなりにもちゃんと受け容れて欲しいと私は思うから。母親のあなたがそこまで言うなら私は何も言わないけど…。大丈夫、心配しないで。…。
 夜中、私は一人目を覚ます。娘は大の字になって眠っている。布団を掛け直し、私はそっと布団から出る。
 そして、窓を細めに開けて、線香に火をつける。煙がするすると窓の外へ、高い空へとのぼってゆく。私はじっと、それを見つめる。

 私はじっと、それを見つめている。


2005年03月02日(水) 
 橙色のカーテンがふんわりと明るく脹らんでいる。さっと引くと、空から淡黄色の日差しが降り注いでいる。いつものように娘と朝の仕度。一通り終わったところに電話のベルが鳴る。少し緊張したような母の声が聞こえて来る。「これから行ってくるわ」。少し間を置いて、私は母に答える。「うん、いってらっしゃい。気をつけて」「それだけなんだけど…」「わかってるよ。いってらっしゃい」。
 娘を送ってそのまま私は仕事に出掛ける。そういえば今年は一度も手袋をしなかった。自転車に乗りながらそんなことを思い出す。今も素手で、寒いといえば寒いけれども、指先が凍えるほどではない。そうだ、自転車といえば。
 大叔母の家に遊びに行った折、K兄が私と弟を、カゴと荷台とに乗せて自転車であっちこっちにつれていってくれた。家を出るとき大叔母が、三人乗った自転車を見ながら笑って、気をつけてよ、と大きな声を掛けてくれた。私たちは坂を下るたびジェットコースターに乗っているような気持ちになって、大きな声を上げて笑った。日が傾きかけてやっと家に戻ると、大叔母がおやつを用意して待っていてくれたんだった。

 手元ではキーボードやマウスを細かく操作しながら、私は心の中で、様々なことを思い出していた。
 こんなこともあった。父母の教育方針と、それにどんどん怯え縮こまってゆくばかりの私と弟を救ってくれたのも、大叔母と大叔父だった。大阪から一体何度うちまでやってきてくれたことだろう。私と弟を心配し、一時期など毎週のようにやってきてくれた。父母と激しく口論になることも少なくなかった。そういう親の態度が子供にどんな影響を与えているか、君たちは考えようとしていないじゃないか、と怒鳴った大叔父と大叔母の背中を、私は今もありありと思い出すことができる。それでも横を向き続ける父母に落胆し、大叔母と大叔父は、ごめんな、何にも役に立てないでごめんな、と言って帰ってゆくのだった。あの時、心の中で何度叫んだだろう。おじちゃん、おばちゃん、帰らないで、私たちを連れていって、と。私と弟が、あの家の中でそれから後も長いこと耐えてゆけたのは、そんな大叔母、大叔父の存在があったからだ。父母と分かり合えなくても、大叔母大叔父は私たちのことを分かってくれてる、愛してくれてる、と、その想いが、私たちをどれほど強く支えていてくれたことだったろう。
 思い出は尽きることなく、私の中から次々に浮かび上がって来る。自然、口元は緩む。時々目元も緩むから、手にはハンカチを握り締めておく。
「どうかしました?」
「は? いいえ、何も」
「じゃぁ何かいいことあったんですか?」
「え? なんで?」
「だって。さっきから顔が笑ってますよ」
「えーーっ、いやぁそんな、別にいいことがあったわけじゃないんですけど」
 PCをいじり続ける私の背中を、仕事先の人が軽く小突いてくる。
 本当に、別にいいことがあったわけじゃない。それどころか、大叔母の命の火は今この時にも消えてしまうかもしれない。そんな状況だ。けれど。
 大叔母との思い出がこんなにもたくさん、私の中に積もっている、そのことが、私にはとても、嬉しい。

 昨夕母と電話した折、母が言った。
「あなたが一緒に行きたいって言う気持ちもわかるけど、でも、私はね、あなたにはもう姉さんに会って欲しくないの」
「…どうして?」
「姉さんのね、あんな姿を、あなたの中に残してしまいたくない。あなたの中には、いつも元気で笑っていたときの姉さんのことだけ、覚えていて欲しいから」
「…」
「姉さんね、この間私と父さんが会いに行ったとき、何度も言ってた。こんな姿、義子に見せたくなかった、って。泣きそうな声で言ってた。私はね、そんなこと全然構わないのにって思ったけど、家に戻ってきてからね、父さんが言ったの。俺は、姉さんのあんな姿、見たくなかった、会うべきじゃなかったって。父さん、よほどショックだったのね」
「…」
「だからね、あなたが今の姉さんに会ったら、あなたの中にはきっと今の姉さんの姿が強く残ってしまうと思うのよ。それがね、いやなの。できるなら、元気なときの、いつもの姉さんのことを、あなたには覚えていて欲しいのよ。きっと姉さんもそう思ってると思うの」
「…」
「だからね、明日、私が一人で行ってくる」
「分かった」
 会いたいという気持ちはもちろん私の中に在る。いまだって在る。けれど。何だろう、母がそう望む気持ちも、とてもよく分かる気がするのだ。
 タイプを打つ指を止め、私はちょっと席を立つ。部屋を出て、煙草に火をつける。
 何人かの友人の死に、かつて私は立ち会った。そんな場面に立ち会うつもりなんてなかった、それどころか、それを止めたくて止めたくて、なんとか彼らに生き延びて欲しくて、私はその場所に駆け付けたはずだった。なのに。
 目の前で落ちてきた彼女の体は木っ端微塵になり、私の足元にまで彼女の脳味噌が飛び散った。目の前で線路に飛び込んだ彼女の体は見るも無残にずたずたになり、片付けられた後も耳たぶだけが残っていた、線路の端。そういった、幾つもの友人たちの最期の姿が、ありありとまた私の中に蘇って来る。彼らの死にその都度立ち会い、それからどれだけの間、私はその映像に憑りつかれていたことだろう。彼らのことを、彼らとの楽しい日々を思い出そうと思っても思い出せないのだ。その映像があまりに鮮やかに浮かび上がってきて邪魔をするから。長い時間を経て、私はようやく、彼らの死の映像から抜け出すことができて、今では彼らとの楽しい記憶をぱっと思い出すことができる。こんなこともあった、あんなこともあった、私が死んであの世で再会するときは、思い出話に花を咲かせようね、と、そんなふうに心の中で語り掛けることもできる。けれど。
 そうなるまでに、長い時間がかかった。
 そのことを思うと、母の気持ちが伝わるのだ。今の大叔母の姿を私に見て欲しくないというその気持ちが。大叔母がどう思っているかは私には分からないけれども、もしかしたら大叔母にしてきてもらったことを考えたら私は今すぐにでもここを発って大叔母のそばに駆けつけるべきなのかもしれないけれども。それでも。
 私の中には、元気なときの大叔母の姿だけを残しておいてほしい。
 私が母の立場だったら、同じことを言ったかもしれないな、と。

 あっという間に時間は過ぎて、私は今日の仕事場を慌しく後にする。自転車を漕ぎながら、家に戻ったらしなければならないことをあれこれ頭に列挙する。
 ねぇおばちゃん、おばちゃんに手を繋いでもらってよくあちこち歩いたよね、今はね、その私が娘の手を引いて歩くのよ。笑っちゃうでしょう? 信じられない光景だよね。心の中でそんなことを思う。

 大叔母は今、どのあたりを彷徨っているのだろう。


2005年03月01日(火) 
 夜、ようやく布団に入ってみたものの、どうしても目が冴えて眠れない。ずいぶん長いこと娘の隣で娘の体をそっと抱くように横になってはみたが、私は諦めてもう一度起き上がることにする。
 そっと窓を開ける。見上げれば一面に闇色が広がっている。それは決して黒などという一色ではなく、何色も何色も藍を重ね合わせた末に出来あがる濃紫に近い闇の色。私は手すりの上に頬杖をついて、しばらくぼんやり眺める。殆ど風はなく、街灯も街路樹もしんと佇む街景。今見渡せるこの街の何処にも、部屋の明かりは見えない。あるのは街灯の明かりばかり。もうみんな眠っているのだろうか。そう思って耳を澄ます。直後、雄鶏の鳴き声が響き渡る。今夜もまた、彼の鳴き声の時間になってしまった。
 どうしてだろう、私は今夜久しぶりに、大叔母のことを思い出していた。もう全身癌に侵されて、生きて再び会うことはないのだろう大叔母。私の記憶の中にある大叔母は、いつもにこにこ笑っていたあの笑顔のままだ。すらりと伸びた立ち姿とあの笑みは、そばにいる人の気持ちをそれだけで和らげる、そんな不思議な魅力を持っていた。耳の中で木霊する大叔母の声。私の名前を呼ぶその大叔母の声は、小川のせせらぎのように澄んでいた。だから私は彼女に名前を呼ばれることが、とても心地よかった。
 ある時、初恋を失ってべそをかいていた私の手を握り、風にでも当たろうか、と、部屋から連れ出してくれたのも大叔母だった。そんなに好きだったのねぇ、そう言った大叔母は、やわらかく笑んでいた。私がぽろぽろと涙を流すと、今のうちにいっぱい泣いてしまいなさいな、と肩を抱いてくれた。心の中をいつも打ち明けていた祖母が危篤状態に陥っていたその頃、確か季節は冬だった。ぽろぽろ涙を零しながら歩く私の手を握る大叔母のその手は、ちょっと皺がかっていたけれどもほんのりあたたかくて、何よりも柔らかかった。
 私はふと思いついて、自分の名前を声に出してみる。そして、苦笑する。やっぱり無理だな、と苦笑する。いくら大叔母の真似をして名前を口にしてみても、あの大叔母の声には届かない。
 今頃、大叔母はどうしているだろう。病院のベッドの上で何を思っているのだろう。見上げる空が少しずつ夜明けに近づいてゆく。じきにまた太陽は昇り、この街をありありと照らすのだろう。私は何となく、空に手を伸ばす。
 と、その時。電話のベルが鳴った。こんな時間に一体誰からだろう。不信に思って私は黙って受話器を取り上げる。一体誰が。私は沈黙して、電話の向こうを窺う。
「Kだけども…」
「あ、お兄ちゃん」
「寝てたか? こんな時間に悪いな」
「あ、平気。起きてたから」
「なんだ、寝なきゃだめじゃないか」
「それより、何? どうしたの?」
「うん…」
「おばちゃんの具合はどう?」
「それなんだが…」
「何かあったの?」
「昨日の夜にな、医者から、今のうちに家族を呼んでおけって言われてな、今俺も病院に着いたんだが…」
「…そう、か」
「ん…」
「あ、うちの実家には電話した?」
「いや、それで電話したんだけど、出ないんだ、留守か?」
「あー、違う、留守じゃない、あのね、うちの親、この時間電話出ないの」
「一応いるのか」
「うん、いるんだけどね、出ないんだ、朝の七時半を過ぎないと電話出ない」
「そうかぁ…」
「その時間になったら、もう一度電話してくれると繋がると思うんだけど…」
「分かった。じゃ、悪かったな、こんな時間に」
「ううん、全然」
「それじゃ、また連絡するよ」
「うん、分かった、それじゃ」
 私は、受話器を置いて、しばらく動けなかった。あぁとうとう、そういう時がやってきたのか、という思いが、じわじわと地の底から這い上がって来る、そんな感じだった。
 その時、再び電話が鳴った。慌てて受話器を上げる。
「はい」
「あ、私だけど」
「お母さん!どうしたの?」
「いや、今、うちに電話した?」
「あ、私じゃなくて、K兄だよ、K兄」
「あ…」
「あのね、おばちゃんが危ないって。それで母さんのとこにも電話したけど繋がらないからってうちに連絡あったの」
「ああ、やっぱりそうなのね…」
「こんな時間にお母さんが電話なんて、どうしたの、眠れなかったの?」
「いや、眠ってたらね、おばちゃんの夢を見てね…」
「…」
「そうか、分かった」
「あ、お母さん、K兄の携帯電話番号知ってるの?」
「知ってると思うんだけど…」
「いいや、私今番号言うから、メモして」
「あ、いいわ。向こうから連絡が来るのを待つわ」
「どうして?」
「こういう時はね、もうそれだけで大変なのよ。電話なんて本当なら構っていられないくらいに。何かあればきっとまた向こうから電話が来るから。私はここで待ってる」
「…」
「一番辛いのは当然病気の本人だけれど、家族もね、辛いのよ」
「…そうだね。分かった」
「悪かったわね、こんな時間に電話しちゃって」
「あ、こっちは全然構わないから。あ、昼間はちょっと仕事で出てるから、何かあったら携帯に電話してね」
「うん、分かったわ、それじゃあね」
「うん、じゃぁね」

 何の偶然だろう。私は大叔母を思い出していて、母は母で大叔母の夢を見ていたという。そして普段なら必ず無視されるはずの電話のベルに母が敏感に反応し、うちに電話をかけてくるなんて、こんなこと、あり得ないはずだった。
 でも。
 大叔母が、何かを届けに来たのかもしれない。ふと、そんなことを思う。
 気がつけば外はもう明るい。私は何となく、人恋しくなって、布団の中にいる娘の体を抱っこしにいく。もぞもぞと布団に潜り込み、娘のあたたかい体をそっと抱いてみる。娘は全く気づかない様子で、すぅすぅと規則正しい寝息をたてている。
 ねぇみう、おばちゃんがね、危ないんだって。心の中で言ってみる。
 でも、みうはおばちゃんのことなんて、全然覚えてないよね。会ったのはほんのニ回ほど。覚えてなくて当たり前。でも。
 あなたが覚えていないということは、私はもう、あなたとおばちゃんの話でお喋りできないってことだよね? そう思ったら、突然喉が苦しくなった。
 あぁこうやって、人は去ってゆくのだな、と、思った。
 或る意味、世代交代のように。大叔母は刻一刻死に近づき、娘は思いきり生を呼吸する。それは或る意味、とても自然なこと。自然な成り行き。
 私もやがて、死んでゆくんだ。

 あれもしたかった、これもしたかった、大叔母ともっとこんな話もしたかった。そうやって考え出したらきりがない。多分、何処までも際限なく続く。
 だから、私はそう考える心の扉をぴたっと閉める。これはできなかったかもしれないけど、あれは一緒にできたよね、これもできなかったけど、代わりにあれは一緒に笑ったよね。出来なかったことを思い出すのは止めて、一緒に出来たこと、一緒に笑ったことを私は思い出す。ねぇおばちゃん、こんなこともしたよね、あんなこともしたよね。こんなことで怒られたり笑われたり。いろいろやったよね。
 おばちゃんの声、おばちゃんの笑顔、ほら、私の中に、こんなに残ってるよ。

 何も知らない娘を起こす。おはよう、ほら、朝だよ、起きなさい。娘は大きく伸びをする。朝ご飯を食べながら、着替えながら、私は娘の隣で大叔母のことをあれこれ思い出している。生に溢れた娘の向こう側に、死にゆく大叔母の笑顔がうっすらと重なる。
 二十一年前、祖母が亡くなった。その命日に呼ばれるようにして、今、祖母の妹である大叔母がこの世を去ろうとしている。
 そして生きている私はここに在て、何も変わらないかのような顔をして、今日を営む。いずれそんな私にも死が迎えにやってくる。それが自然の営み。生を受けた者の務め。

 ああ、太陽が、眩しい。


遠藤みちる HOMEMAIL

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