2005年02月28日(月) |
自転車で坂を上る。先ほどの下り坂で少し勢いをつけておいたから、その勢いを使えばこのくらいの坂だったら二人乗りでも上れる。毎朝通るこの道。日に日に娘の体が重くなるのを感じる。もう二十キロ目前の彼女。私がこうやって後ろに乗せて走ることができるのは、そう長くはないんだろうなと思う。 右に切り上がった土手のてっぺんで今日も梅の花が揺れている。白い花だから、日差しによって花の色が空に溶けてしまって、目を凝らさないと見えないときもあるのだが、今朝はとてもくっきりと花の色が浮かび上がっていた。娘は私の後ろで、保育園で覚えてきたひなまつりの歌を歌っている。四番まであるうちの三番までを覚え、一番から三番までを延々繰り返している。おもしろいのは、二番からとか三番からとか、途中から歌うことができないというところ。彼女の頭の中には一番から三番までワンセットで刻まれているらしい。だから、途中でつっかえると、一番最初から歌い直す。聞いているうちに、私もずいぶん覚えた。いや、思い出してきた、とでも言うべきか。昔よく歌っていた童謡が記憶の彼方に埋もれ、自分だけでは思い出せなかったりするのを、彼女が口ずさんでくれることで思い出すことができたりする。 今日もいつものように病院へ。強烈な眠気を覚え、誰もいない受付で鞄を枕に少し横になる。ようやく名前を呼ばれ、診察室へ入る。 「先生、すみません、私今、何もなくても笑い出しそうなんです」 「あら」 「テンション高いらしくて、ぷ」 「…」 「どんどん耳から入ってきちゃうんです、周りの音。人の声、物の音、特に人の声がどしゃどしゃ入ってきちゃう。で、それが深刻な話であればあるほど、笑い出しそうになっちゃうんです」 「…」 「先生、ほら、今、別の診察室でどなたかが話してるでしょう? 私、今こうやって喋りながらも向こうの声がどどどって入ってきちゃって。深刻な内容なのに、わかってるのに、駄目なの、先生、笑っちゃう、どうしよう」 「ははは」 「今何しても私笑えますよ、ほんとに。もういやになっちゃう」 「…」 「記憶ぶっ飛んじゃうし。もうぶつぶつ切れてます、記憶。日記つけてるけど、読み返すの恐いです。そんなんだから、娘にがんがん注意されるし」 「緊張がずっと続いているようだし、かなり過敏になってるわねぇ」 「これって過敏なんでしょうか、緊張、それもよく分かりませんけど、とにもかくにもへへへって感じなんです。自分で言ってて馬鹿じゃないのって思うけど、それ以外に表現のしようがなくて」 「…」 「今なんて、とりあえずこうやって喋り続けてないと、多分私、へへへへへってひたすら笑っちゃいます」 「…止めようがないわねぇ、ともかく来週までがんばって」 「はい、ぷぷぷ」 「ははは」 「はい、また来週来ます」 処方箋を受け取り、できるだけ早足で薬局へ向かう。できるだけ誰とも会いたくない。誰ともすれ違いたくない。こんな状況で誰かと会ったら、とんでもないことになる。私はとにかく下を向いて、突然自分が笑い出したりしないよう、必死に唇を噛む。 そんな時に限って、会ってしまうものなのだ。顔見知りになった同じ病院に通う彼女が私に話しかけて来る。唇が勝手に緩んだりしないよう、一生懸命に抑える。彼女は何度でも同じ話を私にしてくる。今日もそうだ。もう何十回と聞いている話を彼女はまるで初めてのように私に話し始める。薬に頼り過ぎてしまう彼女の呂律は今日もふらふらと揺らいでおり、ちょっと声を聞いているだけだと、薬中毒者のようにさえ聞こえてしまう。いや、それどころか、だんだん宇宙人のように見えてきた。宇宙人が宇宙語を喋ってる。ぴぃぴぃきゃらきゃら、ぴいきゃらきゃらぴぃ、どうしよう、私に分からない言語が飛び交ってる。いや、本当は分かるはずなのに、訳のわからない音声になって私の耳に突き刺さって来る。私の頭の中でぐるぐると映像が回り歪み出す。そうしているうちに世界はすっかり歪んで、何もかもがぐねぐねと蠢くお化けのようになっていく。困った。どうしよう。とにかく逃げ出そう。そう思って、私は彼女のそばから無理矢理走り出す。心の中でごめんねを言いながら、とにかく走る。 病院の後に用事をいれていたのだけれども、急遽キャンセルし、私はひたすら家路を急ぐ。不用意に笑ってしまわないように、唇を噛んで噛んで噛んで、もう唇に痛みを感じないほどになる。ようやく家に辿り着くと、私はどっと疲れている自分に気づく。もういやだ。しばらく横になろう。笑い出したい自分と、それを猛烈に拒絶する自分とに引っ張られ、ぎりぎりと音を立てそうなちっぽけな自分なんて扱い兼ねるばかりだ。玄関から四つん這いで布団まで辿り着く。もう何も考えるもんか。潜り込んだ布団の中で、私はひたすら目をつぶる。 少しずつ、少しずつ、波が引いてゆく。私は短い間だけれども、うとうとする。私は夢を見る。恐いほどに鮮やかに色づいた、短い夢を。最後の場面、全身に氷水を浴びせられたような感覚で私は目を覚ます。もうどうにでもなれという言葉は、こんなときにこそぴったりなのかもしれない。
いつのまにか色づいてきた西の空をぼんやりと眺めながら、私はプランターに水をやる。アネモネの葉を少し持ち上げて、驚く。蕾が。こんなところに蕾がある。私は思わずその場にしゃがみこみ、じっと見つめる。葉の根元に首を丸くしている蕾が、幾つも幾つも。私は初めてアネモネを育てているから全く気づかなかったのだ。彼らは伸ばした枝葉の先に蕾をつけるのではなくて、蕾だけを新たに産まれさせるのだ。こんもりとプランターいっぱいに茂っているアネモネの葉を、端から順に持ち上げてみる。ここにも、ここにも、そこにも、あっちにも。蕾は首を丸め、時が来るのをじっと待っている。私は呆然と、その場に座り込み、しばらくその蕾の姿と自分の心の中とを行ったり来たりする。 アネモネの蕾の姿に心をすっかり奪われたまま、私は残ったプランターにも水をやる。そうしている間もずっと、私の心は蕾の姿でいっぱい。ベランダと水場とを十数往復し、ようやく全てのプランターに水をやり終えた後、私は再びアネモネのプランターの前にしゃがみこむ。そしてそっと葉を持ち上げる。夥しいほどの蕾の数々。 知らなかった。気づかなかった。昨日だって一昨日だってアネモネのプランターはここに在たのだ。ここに在て、私の知らぬ間に土を持ち上げて蕾が姿を現していたのだ。 土を持ち上げるときの気持ちはどんなだろう。土から顔を出し外気に初めて触れたときの気持ちはどんなだろう。そしてぷっくらと脹らんだ蕾を守るように首を丸めて、こうやって控えているときの気持ちは。 いや、分かっている。植物に心などないのだろうということは。それでも考えてしまう。思い巡らしてしまう。決して知ることはできないと分かっているけれども。 気づくと私はぺたんとベランダに座り込んでいた。そして、私の中でここ数日狂いに狂っていたバランスが、徐々に徐々に戻ろうとする音を、微かに聴いた気が、した。 大丈夫。世界ハイツダッテ、開カレテ、イル。
蕾をひとつずつ、撫でてみる。緑の温度は暖かいわけではないけれども冷たいというわけでもなく、私の指先にしっとりと伝わる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…。じきに数を数えるのが面倒になってしまうくらいの蕾たち。撫でながら、がんばって花を咲かせてちょうだいね、と、心の中で思う。撫でるたび、私の中で音が鳴る。鈴の音色を思い出させるような、ちろりんとやさしい音が、やがて幾つも重なり合って、私の体に溶け出してゆく。
そう、大丈夫。世界はいつだってここに在る。私が手を伸ばしさえすれば、彼はいつだって手を差し伸べ返してくれる。ほら。
気がつけば太陽はもう沈みかけており。私はもう大丈夫だと思う。プランターの前から立ち上がると、すっかり足が痺れていて私は苦笑する。もう大丈夫。見上げた空に米粒のような飛行機の姿。その後ろにはまっすぐ、筋の雲が描かれてゆく。まっすぐに、まっすぐに、描かれてゆく。 さぁそろそろ娘のお迎えの時間だ。振り向いた西の空に今、飛行機の粒が溶けてゆく。 |
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