見つめる日々

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2005年02月28日(月) 
 自転車で坂を上る。先ほどの下り坂で少し勢いをつけておいたから、その勢いを使えばこのくらいの坂だったら二人乗りでも上れる。毎朝通るこの道。日に日に娘の体が重くなるのを感じる。もう二十キロ目前の彼女。私がこうやって後ろに乗せて走ることができるのは、そう長くはないんだろうなと思う。
 右に切り上がった土手のてっぺんで今日も梅の花が揺れている。白い花だから、日差しによって花の色が空に溶けてしまって、目を凝らさないと見えないときもあるのだが、今朝はとてもくっきりと花の色が浮かび上がっていた。娘は私の後ろで、保育園で覚えてきたひなまつりの歌を歌っている。四番まであるうちの三番までを覚え、一番から三番までを延々繰り返している。おもしろいのは、二番からとか三番からとか、途中から歌うことができないというところ。彼女の頭の中には一番から三番までワンセットで刻まれているらしい。だから、途中でつっかえると、一番最初から歌い直す。聞いているうちに、私もずいぶん覚えた。いや、思い出してきた、とでも言うべきか。昔よく歌っていた童謡が記憶の彼方に埋もれ、自分だけでは思い出せなかったりするのを、彼女が口ずさんでくれることで思い出すことができたりする。
 今日もいつものように病院へ。強烈な眠気を覚え、誰もいない受付で鞄を枕に少し横になる。ようやく名前を呼ばれ、診察室へ入る。
「先生、すみません、私今、何もなくても笑い出しそうなんです」
「あら」
「テンション高いらしくて、ぷ」
「…」
「どんどん耳から入ってきちゃうんです、周りの音。人の声、物の音、特に人の声がどしゃどしゃ入ってきちゃう。で、それが深刻な話であればあるほど、笑い出しそうになっちゃうんです」
「…」
「先生、ほら、今、別の診察室でどなたかが話してるでしょう? 私、今こうやって喋りながらも向こうの声がどどどって入ってきちゃって。深刻な内容なのに、わかってるのに、駄目なの、先生、笑っちゃう、どうしよう」
「ははは」
「今何しても私笑えますよ、ほんとに。もういやになっちゃう」
「…」
「記憶ぶっ飛んじゃうし。もうぶつぶつ切れてます、記憶。日記つけてるけど、読み返すの恐いです。そんなんだから、娘にがんがん注意されるし」
「緊張がずっと続いているようだし、かなり過敏になってるわねぇ」
「これって過敏なんでしょうか、緊張、それもよく分かりませんけど、とにもかくにもへへへって感じなんです。自分で言ってて馬鹿じゃないのって思うけど、それ以外に表現のしようがなくて」
「…」
「今なんて、とりあえずこうやって喋り続けてないと、多分私、へへへへへってひたすら笑っちゃいます」
「…止めようがないわねぇ、ともかく来週までがんばって」
「はい、ぷぷぷ」
「ははは」
「はい、また来週来ます」
 処方箋を受け取り、できるだけ早足で薬局へ向かう。できるだけ誰とも会いたくない。誰ともすれ違いたくない。こんな状況で誰かと会ったら、とんでもないことになる。私はとにかく下を向いて、突然自分が笑い出したりしないよう、必死に唇を噛む。
 そんな時に限って、会ってしまうものなのだ。顔見知りになった同じ病院に通う彼女が私に話しかけて来る。唇が勝手に緩んだりしないよう、一生懸命に抑える。彼女は何度でも同じ話を私にしてくる。今日もそうだ。もう何十回と聞いている話を彼女はまるで初めてのように私に話し始める。薬に頼り過ぎてしまう彼女の呂律は今日もふらふらと揺らいでおり、ちょっと声を聞いているだけだと、薬中毒者のようにさえ聞こえてしまう。いや、それどころか、だんだん宇宙人のように見えてきた。宇宙人が宇宙語を喋ってる。ぴぃぴぃきゃらきゃら、ぴいきゃらきゃらぴぃ、どうしよう、私に分からない言語が飛び交ってる。いや、本当は分かるはずなのに、訳のわからない音声になって私の耳に突き刺さって来る。私の頭の中でぐるぐると映像が回り歪み出す。そうしているうちに世界はすっかり歪んで、何もかもがぐねぐねと蠢くお化けのようになっていく。困った。どうしよう。とにかく逃げ出そう。そう思って、私は彼女のそばから無理矢理走り出す。心の中でごめんねを言いながら、とにかく走る。
 病院の後に用事をいれていたのだけれども、急遽キャンセルし、私はひたすら家路を急ぐ。不用意に笑ってしまわないように、唇を噛んで噛んで噛んで、もう唇に痛みを感じないほどになる。ようやく家に辿り着くと、私はどっと疲れている自分に気づく。もういやだ。しばらく横になろう。笑い出したい自分と、それを猛烈に拒絶する自分とに引っ張られ、ぎりぎりと音を立てそうなちっぽけな自分なんて扱い兼ねるばかりだ。玄関から四つん這いで布団まで辿り着く。もう何も考えるもんか。潜り込んだ布団の中で、私はひたすら目をつぶる。
 少しずつ、少しずつ、波が引いてゆく。私は短い間だけれども、うとうとする。私は夢を見る。恐いほどに鮮やかに色づいた、短い夢を。最後の場面、全身に氷水を浴びせられたような感覚で私は目を覚ます。もうどうにでもなれという言葉は、こんなときにこそぴったりなのかもしれない。

 いつのまにか色づいてきた西の空をぼんやりと眺めながら、私はプランターに水をやる。アネモネの葉を少し持ち上げて、驚く。蕾が。こんなところに蕾がある。私は思わずその場にしゃがみこみ、じっと見つめる。葉の根元に首を丸くしている蕾が、幾つも幾つも。私は初めてアネモネを育てているから全く気づかなかったのだ。彼らは伸ばした枝葉の先に蕾をつけるのではなくて、蕾だけを新たに産まれさせるのだ。こんもりとプランターいっぱいに茂っているアネモネの葉を、端から順に持ち上げてみる。ここにも、ここにも、そこにも、あっちにも。蕾は首を丸め、時が来るのをじっと待っている。私は呆然と、その場に座り込み、しばらくその蕾の姿と自分の心の中とを行ったり来たりする。
 アネモネの蕾の姿に心をすっかり奪われたまま、私は残ったプランターにも水をやる。そうしている間もずっと、私の心は蕾の姿でいっぱい。ベランダと水場とを十数往復し、ようやく全てのプランターに水をやり終えた後、私は再びアネモネのプランターの前にしゃがみこむ。そしてそっと葉を持ち上げる。夥しいほどの蕾の数々。
 知らなかった。気づかなかった。昨日だって一昨日だってアネモネのプランターはここに在たのだ。ここに在て、私の知らぬ間に土を持ち上げて蕾が姿を現していたのだ。
 土を持ち上げるときの気持ちはどんなだろう。土から顔を出し外気に初めて触れたときの気持ちはどんなだろう。そしてぷっくらと脹らんだ蕾を守るように首を丸めて、こうやって控えているときの気持ちは。
 いや、分かっている。植物に心などないのだろうということは。それでも考えてしまう。思い巡らしてしまう。決して知ることはできないと分かっているけれども。
 気づくと私はぺたんとベランダに座り込んでいた。そして、私の中でここ数日狂いに狂っていたバランスが、徐々に徐々に戻ろうとする音を、微かに聴いた気が、した。
 大丈夫。世界ハイツダッテ、開カレテ、イル。

 蕾をひとつずつ、撫でてみる。緑の温度は暖かいわけではないけれども冷たいというわけでもなく、私の指先にしっとりと伝わる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…。じきに数を数えるのが面倒になってしまうくらいの蕾たち。撫でながら、がんばって花を咲かせてちょうだいね、と、心の中で思う。撫でるたび、私の中で音が鳴る。鈴の音色を思い出させるような、ちろりんとやさしい音が、やがて幾つも重なり合って、私の体に溶け出してゆく。

 そう、大丈夫。世界はいつだってここに在る。私が手を伸ばしさえすれば、彼はいつだって手を差し伸べ返してくれる。ほら。

 気がつけば太陽はもう沈みかけており。私はもう大丈夫だと思う。プランターの前から立ち上がると、すっかり足が痺れていて私は苦笑する。もう大丈夫。見上げた空に米粒のような飛行機の姿。その後ろにはまっすぐ、筋の雲が描かれてゆく。まっすぐに、まっすぐに、描かれてゆく。
 さぁそろそろ娘のお迎えの時間だ。振り向いた西の空に今、飛行機の粒が溶けてゆく。


2005年02月27日(日) 
 娘と二人、ほぼ同じ時刻に目が覚める。でも正直、起き上がりたくない気分。布団の中でもぞもぞしていると、娘の大きな声が。「ママ! 外明るいよ!」。あまりのその大きな声にずるずると布団から這い出し、カーテンを開ける。「あらほんと、とっても明るい」「ね? 言ったでしょ?」「今日は晴れだね」「ようやっと天気予報も当たったね」。雪が降ったり止んだりしていた昨日の天気は、もう地平線の彼方へ飛び去っていったのかもしれない。見上げる空に雲はほとんどなく、澄み切った水色がすかんと広がっている。
 洗濯物や軽い掃除を終え、娘と手を繋いで玄関を開ける。ママ、今日は何処行く? まだみうは鼻水垂れ子だからちゃっちゃと撮って終わりにしないと。だからほら、あの広場に行こうよ。うーん、どの広場? あの広場。
 それはお寺の隣にある。滑り台ひとつとブランコ、鉄棒、小さな砂場、それだけの空間。二階屋のようになっていて、二階の空間には背の低いバスケットゴールがひとつ、ぽつねんと在るだけ。あたたかい季節には、この空間がゲートボール場になったりする。
 常緑樹が何本かベンチの周りに植わっている。この寒い季節にもずっと枝にくっついたままの葉々たちは、もうずいぶんくたびれて、指で触れると跡がつくほど。分厚い葉は指で挟むとぷりんとしている。
 ねぇママ、遊んで来てもいい? いいよ。私の返事が届く間も惜しむように、彼女は走り出す。私はカメラにフィルムを入れる。
 娘の写真をモノクロで撮る時、私は彼女を自分の娘と思っていない。そこにいる子供の一人、くらいにしか考えていない。おかしな言い方かもしれないが、娘を娘と思って撮るならば、デジタルカメラやカラーフィルムの方が合っている気がする。だから実際、普段彼女のスナップを撮る時、私はデジタルカメラで撮る。でも今日は、彼女のスナップを撮ろうと思っているわけではない。私の写真を作るために、彼女につきあってもらっている。
 ブランコに乗ったり砂場で山を作ってみたり。彼女は好き勝手、自由自在に一人遊びを楽しんでいる。二つのカメラにフィルムを入れ終えた私は、さぁ撮るか、という気持ちになる。彼女から少し離れた場所から適当にカメラを構えてみる。とりあえず一枚。シャッターの音が小さく響く。後はもう、なるようになれ、というところ。
 娘がいきなり走り出した。上の空間に行くつもりらしい。私も小走りで彼女の後を追う。彼女は私なんて存在はまったく無視して、歌を歌いながら走って行く。
 明るい日差し。昨日の寒さが嘘のようだ。じっとしていてもこの日差しの中にいるとずいぶん暖かい。そう思って後方を振り返ると、娘はさっさと上着を脱いでいる。上着を脱いで、次は何をするんだろう。眺めていると、彼女は足元の砂をかき集め始めた。私は私で、動き回る彼女に関係なく、好き勝手にシャッターを切る。時々、これじゃ逆光だよなと思うこともあるものの、まぁそれはそれだと割り切って撮り続ける。
 娘は一心に砂の山を作っている。その奥では少年が二人ボールを投げ合っている。風に乗って時折彼らの声が届くものの、何を喋っているのかまでは聞き取れない。まだ声変わりする前の澄んだ声。
 餌をねだりに来たのかもしれない鳩が私の足元に舞い降りる。私は素っ気無く彼らに背中を向け、シャッターを切る。しばらくクウクウ足元を歩き回っていた鳩も諦めたらしく、しばらくするとまた何処かへ飛んでゆく。あの方向だと、多分米屋さんに行くんだろうな。思いながら見送る。
 「できたっ!」。娘が声を上げ、私を振り返る。私は目だけ彼女に向ける。「ママ、これはね、パパのお墓なんだよ」。えっ?! あまりの言葉に私は呆然とし、彼女のそばにゆく。「お墓?」「うん、お墓。みうのパパのお墓」「…そうなんだぁ」「うん。きれいにできたでしょ?」「うん…」。娘はそれだけ言うとさっさと走ってゆく。今度は何をするんだろうと思っていると、枯枝を拾い集め、それでお墓を飾ってゆく。私はちょっと心がざわめくのを感じながら、それを奥にしまい込んでまたシャッターを切る。
 娘は確かに私の娘だけれども、今の私は、母と娘の関係を自分の写真として作りたいわけではない。いつかそういう日も来るのかもしれないが、今のところはそうではない。たとえばこれが近所のK子ちゃんであってもR子ちゃんであっても、多分いいのかもしれないとさえ思う。ただ、K子ちゃんやR子ちゃんの写真を撮っていちいちこれは公開してもいいですかと了解を求めるのが面倒だし、そもそも今の荒れ果てたご時世、他人の子供をばしゃばしゃ写真に撮ることは躊躇われる。その点、自分の娘ならば私と娘の判断でどうにでもなる。かなりご都合主義かもしれないが、できるだけ余計な面倒を写真に持ち込みたくはない。そういったものが入れば入るほど、写真は私から遠のいてゆく、そんな気がする。私の心象風景の中に何かしら人のカタチが必要なとき、ちょうどよくそこに娘が入り込んでくれれば。私はでき得る限りそういった位置でシャッターを切る。
 「うわぁ、お日様が眩しいよぉ!」。私が一心にシャッターを切っていると、向こうから娘の声。空に手を伸ばす娘。最後の一枚、シャッターを切る。娘が振り返る。「ママ、何してんの?」「あ、すみません、下から写真撮ってました」「そんなところに寝っ転がってたらお洋服が汚れるじゃないの」「すみません、汚れました。背中、払ってくれる?」「もう、ママはしょうがないんだから」「はいはい」。写真を撮り終えた私たちは、あっという間に普段の母娘に戻ってゆく。
 自転車で線路沿いを走る。壁に描かれたどぎつい色彩の絵というか模様が、視界の半分を占める。娘と二人、もうちょっときれいな色を使ってくれればいいのにねぇと言いながら走り続ける。モミジフウのある場所へ自転車を止め、二人で手を繋いで樹を見上げる。なんか真っ黒クロスケみたいだねぇ、と娘が言う。確かにそんな感じかもしれない。モミジフウの実はすっかり黒褐色になり、時々海からの強い風にぶらんぶらんと揺れる。
 季節になれば赤ん坊の手のような葉々がいっせいに揺れる銀杏並木も、今はみんな裸ん坊。天に向かって伸びた枝々は一身に太陽の光を浴びている。枝から枝へ飛び回る小鳥を、娘があっちこっちと追いかける。休日にしては、いつもよりも人影が少ない埋立地。私たちはぐんぐん自転車で走り回る。飛行機がまっすぐ空に線を描く。その傍らにまるで綿菓子のような雲が浮かんでいる。傾いた日の光は少しずつ、色づいてゆく。

 そろそろ帰ろうか、寒くなる前に。うん。


2005年02月26日(土) 
 何処までも続く鼠色の雲。空を見上げていた私の首筋を冷たい風がするりと通りぬけ、私は思わず首をすくめる。大気の温度がどんどん下がってきている。と、その時、はらはらと雪が。
 母の庭では、こんな季節にも関わらず、幾つかの草木が花をつけている。すみれ、パンジー、桜草、デルヒニウム、他にも名前の知らない花々が、鮮やかな明るい色を見せる。ムスカリやエリカの美しい花の色の後ろには、沈丁花が控えており、ずいぶんと脹らんだ蕾がみっしりとついている。指でそっと挟むと、意外にもやわらかな感触。その奥の紫陽花は、全ての葉が落ちて裸ん坊ではあるものの、どの枝先にも新芽がついている。黒に近い赤紫色のその芽。日当たりの良い場所の芽はもう緑色に変化している。その芽の上に、咲き誇る花々の上に、雪はちらりちらりと舞い降りる。
 雪は一日中、降ったり止んだりを繰り返す。そのたびに娘が嬌声を上げる。ねぇ雪だるま作れそう? うーん、これじゃぁ作れそうにないねぇ。雪、もっと降れ、もっと降れぇぇぇ。娘の声が、父母と私の間に響き渡る。

 父母が娘の遊び相手になってくれている間、私は久しぶりに本を開く。ここしばらく、浮き沈みが激しくて活字を追うことが殆どできないでいた。心がざわめいているときは、どうやっても言葉が上滑りしてゆく。ちゃんと掴んで私の血肉にするところにまで至ることがとてもできない。だからどんなに活字を欲していても、読むことができないのだ。
 時折窓の外で雪が舞うその姿を目で追いながら、私はようやく久しぶりに、本を辿る。

「人類はなぜ誤ちを犯すのか、なぜ堕落していくのか、なぜ淫らにふるまうのか、なぜ攻撃的で暴力的で狡猾なのか、あなたは不思議に思ったことはないだろうか? 環境や、文化や、親たちを責めるのはよくない。私たちはこの退廃の責任を、他人やなにかの出来事のせいにしたがる。説明したり原因をあげつらうことは安易な逃げ道にすぎない。古代のインド人は、それを業(カルマ)と呼んだ。自分で種を蒔いたものは自分で刈り取るということだ。心理学者たちは問題を親からの影響ということに置きかえてしまう。いわゆる宗教的な人々は、自分たちの教義や信仰にもとづいてあれこれ言う。しかし問題は依然として解決されない。
 また一方では生まれつき心が寛くて、やさしく、責任感の強い人たちがいる。そういう人たちは、環境によっても、どんな圧力を受けても変わらない。どんな喧騒のなかにあっても同じだ。なぜだろう?
 どんな説明もたいした意味をもたない。説明はすべて逃げであり、存在のリアリティを避けることだ。ここが肝心な点だ。説明したり原因をさがすことに浪費されるエネルギーをもってすれば、そのなにかを完全に変革することができる。愛は、時間のなかにも分析のなかにもない。後悔したり、互いに責め合うような泥試合のなかにもない。金銭や地位への欲望がなくなり、自分をずるく偽らないようになったとき、愛はそこに在る。」

「あの子たちは自分たちの傷や悲しみを忘れるのだろうか、それとも逃避や抵抗の手段をこしらえるのだろうか? どうやら、こうした傷を忘れずに持ちつづけることが人間の特徴らしい。そのため、人間の行為が歪められてしまう。人間の心は、害われず、傷つかないままでいることができるだろうか? 害われないこと、それが無垢ということだ。もし害われなければ、あなたは自然に、他人を傷つけないようになるだろう。だが、これは可能だろうか? 私たちが生きている文化は、実に深く精神や心を傷つける。騒音と汚染、攻撃と競争、暴力と教育------、これらすべてが苦悩をもたらすのだ。それでも私たちは、この野蛮な障害だらけの世界で生きなければならない。私たちが世界であり、世界は私たちだ。害われるのは、いったいなんだろうか? みなそれぞれがつくりあげた自分自身のイメージ、それが害われるのだ。奇妙なことに、こうしたイメージは多少の違いはあるが、世界中どこでも同じものだ。あなたが抱いているセルフ・イメージ、その実体は、千マイルも離れた人がもつイメージと同じである。だから、あなたはあの男であり、あの女でもあるのだ。あなたの傷は他の何千という人々の傷だ。あなたは他者なのだ。
 害われないということは、可能だろうか? 傷のあるところ、愛はない。害われたところでは、愛は単なる楽しみにすぎない。もしあなたが害われていない美しさを自分で発見することができたら、そのとき初めて、過去に受けた傷は消えていく。現在が充実しきったとき、過去の重荷も消える。
 …この全体の動きを理解しなさい。ただ単に言葉だけではなく、内奥への洞察をもつことだ。なにひとつ保留することなく、構造の全体に気づきなさい。その真実を見ることによって、あなたはイメージをつくることをやめる。」

「思考の動きはどんなものであれ悲しみを深くする。さまざまな記憶、快楽と苦痛のイメージ、寂しさと涙、自己憐憫や自責の念、こうしたものをともなった思考が悲しみの土壌になっている。いま、語られていることに聴き入りなさい。ただ聴きなさい。過ぎ去ったものの谺(こだま)や圧倒的な悲しみ、そんな責め苦からいかに逃れるかと言うことではなく、あなたの心と全存在で、いま語られていることに聴き入りなさい。あなたの依存心や執着が、悲しみの土壌を用意してきた。自己究明を怠り、それがもたらす美を無視してきたために悲しみが助長されたのだ。一切の自己中心的な行動が、あなたを悲しみの方へ連れてきたのだ。語られていることに、ただ聴き入りなさい。共に留まりなさい。迷い出てはいけない。どのような動きであれ、思考が動けば悲しみを強める。思考は愛ではない。愛は悲しみをもたない。」

(by クリシュナムルティ)

 私がいまだに拘ってしまう幾つかの傷痕を、私はできるならいずれ解放したい。赦して受け容れて、その上で過ぎてきた道端に転がる小石のように、そういえばそんなことがあったね、と、手放してやりたい。そうなるために、私に何が必要なのだろう。そのことを、私はずっと考えている。

 夜、腕の中で眠りかけている娘の体を何とか支えながら自宅に戻り、布団に横たえる。たった一日誰もいなかっただけで、部屋はこんなにも寒々と凍えてしまうのか。少し驚きながら私はストーブをつける。珍しく、寒い寒いと瞼を閉じたまま繰り返す娘の体を、毛布でしっかりくるんでやる。湯たんぽも後で入れてやった方がいいかもしれない。
 窓の外には、しんしんと夜が横たわっている。濃密な闇が何処までも続き、幾つかの街灯が小さな点々になって街を彩る。星も月も見えない夜。すぐ目の前に立つ街灯の橙色の光が、街路樹を灰褐色に浮かび上がらせ、その足元からは黒々とした影が伸びている。遠くでは今夜もまたサイレンの音が響いている。
 夜は、更けゆく。


2005年02月25日(金) 
 昨夜中、ふと窓の外を見ると、雨が雪に変わる瞬間だった。いつこの瞬間に居合わせても不思議に思う。雨から雪へ、雪から雨へ変わる瞬間というのは、どうしてこうも鮮やかに見事にふわりと変化するのだろう。決してとどまることのない川の流れのように、雨から雪へ、雪から雨へ、何の躊躇いもなくすっと変化する。私はしばし、見惚れてしまう。でき得るなら、あの雪の舞い降りて来る真中に座って、ただひたすら上を見上げていたい。そうしてやがて私の足や手が雪に埋もれていく、その感覚はどんなだろう、味わってみたい、そんなことを思う。
 気温がどんどん下がってゆくのが肌を通して感じられる。私は開けている窓を半分だけに閉める。そして、眠っている娘の顔を見に布団へ近づく。
 眠るまでぽろぽろと泣いていた目はぷくりと腫れている。そっと指先で触れる。かわいそうに。そう思うけれども、思ったからとて彼女の腫れた瞼を私が元に戻してやれるわけでもない。彼女の頭を何度か撫でて、私はまた、窓の近くの椅子に座る。

 その日、娘が持って帰って来た保育園の先生との連絡帖には、いつもの倍以上の先生からの言葉が記されていた。何かあったんだなと思いながらそれを読む。読み終えて、私はもう一度読み直す。四度ほど読み直し、私は、着替えている娘に目をやる。
 ねぇみう、ちょっと来て。みうが私のそばにやってくる。ねぇ、みう、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。なぁに?

 娘が帰った後、お友達の一人が茶封筒を持っていることに保育園の先生が気づいた。見るとそこには、みうちゃんへSより、と書いてあり、そのお友達とは関係のないものだということが分かった。先生はお友達に尋ねる。これ、どうしたの? みうちゃんのじゃないの? するとお友達が答えた。みうちゃんがいらないからあげるって言った。その翌日、先生がみうにそのことを尋ねてみると、だっていらないんだもん、と答えたという。なのに、娘はいろんなお友達に、みうにお手紙書いてきてくれた? と尋ねて回っている。手紙をくれ、と言うのに、手紙をもらうといらないと誰かにあげてしまう。これじゃぁ手紙を書いたお友達が悲しむ。先生は娘に注意し、娘も先生ともうしないという約束をした、そのように連絡帳には記してあった。
 ねぇみう、先生がね、こういうことを書いてきてるのだけれども、本当なの?
 …。
 先生とどんなふうにお話したか、ママに教えてくれる?
 覚えてないよ。
 覚えてないの? 何にも?
 うん、覚えてない。
 じゃぁ、ママが聞くから、どうだったか教えて。いい?
 うん。
 Sちゃんがみうにお手紙くれたんだって?
 うん。
 そのお手紙、もらってその後どうしたの?
 …
 そのお手紙がね、ここにあるんだけど、どうしてもらったみうが持っていなくて、お手紙がここにあるのかな?
 …あげちゃった。
 あげちゃったの? 誰に?
 Yちゃん
 おかしいなぁ、だってこのお手紙は、みうちゃんへって書いてある。Yちゃんへって書いてないよ。みうへのお手紙でしょう?
 うん。でも、いらないんだもん。
 どうしていらないの?
 いらないから。
 …。じゃぁみう、みうがたとえばKちゃんにお手紙書いて、そのお手紙をKちゃんがいらないって誰かにあげちゃったら、みうはどう思う?
 かなしい。
 かなしいよねぇ、ママもそう思う。でも、みうはSちゃんからのお手紙をいらないからってYちゃんにあげちゃったんだよね。このことをSちゃんが知ったら、どう思う?
 かなしくなる。
 うん、かなしくなるね。
 …。
 自分がされたら悲しくなることを、お友達にしちゃぁいけないよ。ママはそう思うんだけど、みうはどう思う?
 …しちゃだめ。
 でも、みうはそれをしちゃったんだよね。だとしたら、どうすればいい?
 ごめんなさい。
 ママにごめんなさいって言ってもしょうがないよね。お友達に言わなくちゃ。
 ごめんなさい。
 ママにごめんなさいって言わなくてもいいのよ。ねぇみう、この間ママ話したよね? みうのお誕生日にお友達がプレゼントをくれたでしょ、あれは、お友達だからプレゼントをくれたんだよね、そういうお友達を大事にできないんじゃぁ、お友達いなくなっちゃうよね。違う?
 うん。
 みうは、お友達いらないの?
 お友達、いる。
 じゃぁ、みう、お友達は大事にしなくちゃいけないよね。ママなんてさあ、お友達からもらったお手紙、ずっととってあるよ、今もいっぱい残ってる。そういうの、大事だなぁって思うよ。
 ママ、ごめんなさい。
 うん。じゃぁ、みう、お手紙書こうか。
 うん。
 Sちゃんと、それから今日お手紙くれたTちゃんに、お返事書こうね。
 うん、今書く。
 うん、そうしな。ご飯食べるのはそれからでいいや。
 うん。

 そうして娘はお友達二人にお手紙を書いた。封筒にはいっぱいシールを貼って、明日これ渡すから忘れないようにと、テーブルの真中に置いた。ようやく夕飯の時間になったけれども、のびきったスパゲティはおいしくなくて、二人とも残してしまった。でも二人とも、もう笑っていた。

 話途中から彼女はぽろぽろと泣いていた。泣き出した顔を見て、私は何度も、もういいよと抱きしめたくなったことか。でも、ちゃんと最後まで彼女と話したかった。いや、彼女に話したかった。お友達は大切にして欲しいということ。
 眠る前に、彼女はまた思い出して、ぽろぽろと泣いていた。だから私は何度も頭を撫でた。
 このことは、もしかしたらすぐに忘れられてしまうことかもしれない。まだ幼い彼女の記憶には、殆ど残らないかもしれない。それならそれでいい、そのたびに私は彼女に伝えていきたいと思う。友達は大切にしようね、ということを。だって、私がここに今在るのは、親でも恋人でもない、友達こそが私をずっと支え続けてくれたあの日々のおかげだから。
 ようやく眠り始めた彼女の頭を撫でながら、小さい声で話しかけてみる。ねぇみう、みうがじきにママなんか嫌いとか言い始めて、私のもとを飛び出してどっかへ行っちゃう日が来ると思うけど、そうなったとき何があなたを支えてくれるかといったら、あなたが心通わせられるお友達なんだよ、だからね、大事にしようね、ね。
 それにね、みう、そうやってあなたがお友達を大切にしたとして。それでもね、たとえばこれから先、みうがお友達に裏切られること、傷つけられることはいっぱいあるんだろうと思う。もしそうだとしても、傷つけられたから傷つけ返すとか、裏切られたから裏切り返すなんて、そんなことはやめよう。何の意味もない。相手にこうされたから自分もこうする、なんて構図はいらない。自分はこうしたいからこうする、と、その自分自身の意志をこそ、大事にしてほしい。そんな生き方は、いいことばっかりじゃぁないと思うけど、それでもね、そこから得るものはいっぱいあるんだよ。

 今朝、二人とも寝坊した。娘の瞼は腫れていて、いつものきれいな二重は奥二重のようになってしまっていた。私も寝不足で、顔が何となく浮腫んでいる。
 急いで仕度をして、急いで玄関を出る。
 ママ! お手紙かばんにいれてくれた?
 ちゃんと入ってるよ!
 そう言って、二人で階段を駆け下りる。自転車のペダルを思いきり漕ぐ。私たちを取り囲む家々の屋根には、うっすらと雪が積もっている。すれ違う人の息はみんな白く、その背中はちょっと丸い。私たちはその人たちの間を歌を歌いながら自転車で走り過ぎる。ゴミの集積所には今日もまた烏が群がっている。それを避けるように少しハンドルを傾けると同時に、娘の声が響く。からすー! むこうへいきなさーいっ! ごみちらかしたらいけないんだよー! 先を歩いていた老婦人が驚いて振り返り、娘の顔を見てぷっと笑う。私も吹き出しそうになりながら、その老婦人に軽く会釈をして通り過ぎる。坂の右側の崖には雪がほんのりと、まだら模様に積もっている。
 抱きしめあってキスをして、彼女は保育園の階段をとんとんと駆け上がっていく。先生に毎朝の挨拶をして、私は保育園のドアを飛び出す。
 一日がまた、そうして始まる。

 雨も雪もやんだ街は、重たげな鼠色の雲を抱き、どこまでもどこまでも、重暗く続いている。下がり続けているのだろう気温が、窓の隙間からじわじわと流れ込んで来る。それらを適当にあしらいながら、私は仕事を為す。幾つかの電話を受け取り、営業口調で喋ったり、べらんめぇ調で悪態をついたり、そうやってあっという間に時計は夕刻に近づいてゆく。
 そして、時々娘のことを思い出す。そして、思う。娘にあれこれ言うことは簡単だ、でも、いくら言ったって本当には伝わらない。伝えられる何かがあるとすればそれは、私が彼女のそばで体現し続けることなんだろう。
 発送しなければいけない荷物をたたみ込み、紐をかける。勢いよく結んだ結び目が、かたくかたくひとつの玉を形作っている。再び窓の外を見やると、いつ雨か雪かが落ちてきてもおかしくないような重たげな雲。折り重なるようにして立ち並ぶ家屋の屋根も、じっと沈黙している。もう今日はこの空も雲も割れることはないんだろう。でもきっと、向こうには、太陽が今日も昇っているはず。
 そうだ、しっかり立たねば。この世界が今ここに在るのも、私がここに在るから。私が今ここに在るのも、この世界がいつだってここに在ってくれるから。
 さぁ時間だ。娘を迎えにゆこう。


2005年02月24日(木) 
 窓の外で雄鶏の鳴き声が今夜も聞こえ始める。いい加減に横にならないと。そう思い、窓を閉め椅子から立ち上がる。娘の横にそっと滑り込む。そっと滑り込んだつもりだったのに、娘がぐるんと寝返りを打つ。半分だけぼんやりと開いた目をこちらにむけて、にぃっと笑う。「ママ、起きててね、みうが寝るまで起きててね」。それだけ言って、またすぅっと眠りに戻ってゆく。寝息のリズムで、娘が確かに眠りに落ちたことを確かめて、私はようやくほっとする。少しだけでも眠ろう。そう思って瞼を閉じる。
 おはよう。声をかけながら娘を揺り起こす。すると、ぴょんと飛び起きて、何かを探し始める。「あ、あった!」。そう言って娘が抱えたのは、昨日贈られたプレゼントたち。私は思わず苦笑してしまう。「なくなっちゃってたらどうしようって思ったの。ちゃんとあったよ、ママ」「よかったねえ」「うん」。
 そして朝の仕度をあれこれ片付けてゆく。その最中に、娘が突然思ってもみないことを口にした。「ねぇママ、このおうちにもう一人誰かいればいいのにね、男の人が」。あまりに突然の言葉だった。私は驚いて、どう返答していいのか一瞬迷う。迷った末、苦し紛れに言ってみる。「どうしてそう思うの?」「その方が楽しいと思う」「うーん、でも、楽しいことばっかりとは限らないよ、その男の人が怒ったりしたらどうするの?」「でもねぇ、ママ、かんぱーいとかおめでとうとか、二人でやるより三人の方が楽しいよ」「…そうだねぇ、うーん」「男の人、誰かここで一緒にいたらいいのになぁ」「…」。これ以上、彼女に何か言葉をかけることは、躊躇われた。下手な言葉をかけたって、彼女のそういった思いは消えないだろう。そう思ったら、私の口は自然に閉じた。しばらく間を置いて彼女に再び声をかける。「ごはん、できたよ」。

 家に戻りあれやこれや家事をこなす。ガスコンロの掃除もしてみる。押入れの中を片付けてみる。でも、朝、娘が呟いていた言葉が、私の頭から離れてくれない。娘がそんなことを思っていたということをまざまざと知った私の心の中は、ざわざわと波立っている。これが片親の持つ憂鬱なのだろうか、ひとり親だったら誰でも一度は通るだろう場所なのだろうか。そんなことをあれこれ思い巡らせて気持ちを切り替えようと思うのだけれども、何をしてもどうしても朝の彼女の言葉に戻ってきてしまう。誰かもう一人、男の人がこのおうちにいてくれたらいいのにね。彼女の中からその言葉は、自然に零れ落ちたように感じられた。だから余計に、私は引っかかっているのだろう。
 でもじゃぁ、一体何ができるだろう。
 何も、できることはないのだ。
 本当に何もないのか? たとえば私が好きな人を見つけるとか、パパになってくれそうな人を見つけるとか? 或いは、みうを大切にしてくれるだろう人を探し出すとか?
 違う。そんなのは問題をすりかえているだけだ。そもそも私が好きになるかもしれない人と娘が望む人とは当然違うだろう。かといって、娘が望むだろう人を私が確実に愛することができるかといったらそれもまた違う。そんなふうな考え方、選択は、どうにも間違っている。
 娘がこれでもかというほど満足できるように私が精一杯彼女を愛すればいい? 今だって私は精一杯やってる。もちろんそれは彼女を満足させていないかもしれない。でも、私がいくら頑張ってみたって、パパという像の欠落を、パパではない私が埋められるものじゃぁない。
 そうやってあれこれ考えているうちに、私は苦笑してしまった。
 一体私は何をあれこれ悩んでいるのだろう。これっぽっちのことで動揺してあれこれ悩んで、一体そこから何が生まれ何が解決するというのか。私にできることは、彼女のそういう思いを受け止めること、そして、精一杯愛すること、それに尽きる。それ以上でもそれ以下でもない。彼女がこれから何度そういった言葉を口にしたとしても、二度と揺るがないほどに強く在りたい。強固な大地を自分の足元にしかと作りたい。
 自分が置かれている状況に100パーセント満足する人間なんて、殆どいないだろう。何かしら小さな不満を誰もが抱いているに違いない。でも、その状況を受け容れ、そういった現実を受け容れ、自分がその中でどうやって生きてゆくか、そして一歩でも自分の望む高みへ近づいてゆけるか、そうやって一歩一歩歩いて生きてゆく。

 いつの間にか日は西に傾き始めている。空を見上げながらも私は手を動かし続ける。とにかくひとつひとつこなしてゆくことだ。ひとっとびに高みへ飛びあがることなんてできないのだから。こうあるといいな、あああるといいな、そう思うのならば、一歩でもそこに近づくために、自分の目の前にある障害物を、ひとつひとつ自分の手で片付けてゆくことだ。それに、変にひとつのことにこだわり過ぎて、世界の全体を眺めることを忘れてはいけない。こうやって深呼吸しながらぐるりと街景を見回せば、それだけで心の中に生じたしこりは小さくなるものだ。見回した街景がたとえ、薄い灰色にくぐもっていて、大通りからは排気ガスが漂ってきそうな場所だったとしても、この街全体の中で、私が住むこの部屋の窓はきっと、小さなかけら一つ分くらいだろう。そこで暮らす私なんて、もしかしたら米粒ほどかもしれない。そしてそんな私の中に生じたしこりは、多分、針の先ほどに過ぎない。
 昨日歩いた道々を心の中に思い浮かべてみる。知らない道を私は右へ左へ歩いていた。道とは思えないような場所をくぐりぬけたりもした。それでもちゃんと、私は家に戻って来れた。
 大丈夫。これっぽっちのこと、どうってことはない。今度娘が似通ったことを言ったなら、かかかと笑って受け流せるくらいになっていよう。そうだね、誰かいい人いないかなぁ、なんて言いながら。


2005年02月23日(水) 
 娘と共に明るい朝の光の中を自転車に乗って走る。いつもと違うのは煽られそうな強い風が渦を巻いて吹いていること。思わず二人とも声が出てしまう。ひゅぅぅ、ひゅぅぅ。歌うように声を出しながら、私たちは自転車に乗る。今が二月だなんて、この明るくぬるい日差しの元では信じられない。
 地図を持たずに歩くのが好きだ。特に車では通ることのできない細いうねうね道を、こっちでもないあっちでもないとめちゃくちゃに歩きながら散歩するのが私は大好きだ。今日はカメラを携えながら、そんな道を右に左にと歩いてみる。
 自分の家を出発点として歩き始めたものの、二十分も経たないうちに私は迷子になる。右も左も分からない。電信柱に書かれた町名も殆ど覚えがない。ここは何処かしら、一体私は何処を歩いているのかしら、そう思いながら次々角を曲がる。
 古い家屋と新しい家屋とがごちゃまぜに立ち並ぶこの辺り。道も、行き止まりなのかそれとも他人の庭なのかよく分からないような所があちこちに点在する。どうみても人の庭或いは玄関先だろうに、と思うのだけれど、そこを通って向こう側に道が続いていたりする。恐る恐る足を踏み入れ、失礼します、と言いながらその前を通る。街灯も、昔祖母の家の周囲にあったような細く小さな街灯ばかり。昔は栄えていたのかもしれない商店会(商店街ではない)には、これは商売しているのだろうかと不思議になるような梅干屋があったりする。幾つもの瓶の中に詰めこまれた梅干は、もう半ば溶けているのではないだろうかと思うような代物で、これは一体どうやって食べるのだろうとどぎまぎしてしまう。八百屋の前を通りながら店をちらちらと眺めると、奥の丸椅子に座って煙草をゆっくりとふかすおじいさんの姿。店の中に立つ二人の老婦人は、買い物に来たというよりもおしゃべりに来たという雰囲気。その先には、もう何年も前に店じまいしたのだろう豆腐屋の看板。とうふのふの字の点が欠けている。
 坂を上り坂を下り。私はあちこちを歩き回る。その最中も春一番は吹き荒れて、後ろに束ねた私の髪の毛にじゃれつく。ふと見ると日向ぼっこをしている老犬。私がしゃがみこんで少し離れたところから声を掛けると、ゆっくりとした動作で首をこちらに向けてくれる。しかし、今僕は眠いのですよ、という表情を浮かべ、よたりよたりとすぐにまた元の位置に戻ってゆく。
 どうもここは谷底らしいというようなところにいつのまにか辿り着く。瓦葺の屋根の上に黒猫一匹。瓦の上、大きく欠伸をしてごろんと横になる。その家より少し先に砂利道があるのを見つけ、私はそこに入ってみる。すると、一体廃墟となってどのくらい経つのだろうと思えるような一階屋の姿。
 恐る恐る私は足を進める。玄関だったのだろう引き戸も縁側ももうぼろぼろ。扉はどれもこれも破れている。破れた穴の向こうにはこれもまた破れた障子が四つ五つ重ねられ放置されている。周囲を見まわして、私はこっそり玄関だったのだろう場所から部屋の中に入ってみる。ふっと色味の気配がして左を向くと、押入れの隣の壁に大きなポスター。これは松田聖子のデビュー当時の顔じゃぁなかろうかと、色あせたそのポスターを眺める。そのポスターの下に放られた埃だらけのコミック一冊。そして、かつて水場だったのだろう一角の天井からは、蔦が幾筋も垂れ下がって、電球はない。私が足を動かすたびにみしっみしっと音を立てる床。雑草が床のあちこちから生えて、好き勝手な姿を晒している。その時ふっと背後に気配を感じ振り向くと、三毛猫がじっとこちらを見ていた。その猫の目に促されるようにして、私は廃墟から外に出る。もう一度廃墟を振り返る。廃墟はただ黙ってそこに在る。
 私は再び歩き始める。程なくして、やけに新しいマンションの群れに行き当たる。その手前に申し訳程度に作られた公園のベンチに腰を下ろし、私は煙草に火をつける。
 私の目の奥で交差する映像。この真新しい白い壁とつい今しがた見てきた崩れ果てた家屋の姿。あまりにも違い過ぎるその光景。それらがいっしょくたになっているこの町。地図には一体どんなふうに描かれているのだろう。
 私はそれが何処かも分からないまま、再び歩き出す。気がつくと見覚えのある路地。どうもいつのまにか戻って来ていたらしい。後ろを振りかえると、幾重にも重なるように立ち並ぶ家屋の群れ。私は多分またここに来るだろう。そんなことを思いながら家路を急ぐ。

 23日、今日は娘の誕生日。わざわざ祝いに来てくれたMと三人で軽い夕飯の後にケーキを囲みハッピィバースディの歌を歌い始める。そこにピンポーンと呼び鈴が鳴る。出てみると、大きな荷物を二つ抱えた配達のおじさん。びっくりしながら受け取ると、それらは全部娘宛。今娘はMからのプレゼントを開けている最中だから、こちらはまだ隠しておくことにする。
 Mが帰っていった後、二つのプレゼントを見せると、娘の目はいっそう輝く。嬉しいな、嬉しいな、でもどうしてみんなプレゼントくれるの? うーん、どうしてだろう、みんな最初はママのお友達だったけど、今はもうみうのお友達でもあるからじゃないの? そっかぁ、嬉しいなぁ、嬉しいなぁ。丸いほっぺたを桃色に染めて、娘はプレゼントを抱きかかえる。母である私が買えないようなかわいい品々が畳の上に並ぶ。大事に遊ぼうね。ちゃんと片付けるんだよ。うん、分かってる、ちゃんと片付ける。約束だよ。うん、約束。娘の小さな小指と私の大きな小指とを結びつけて、約束を交わす。
 そうやって届いたプレゼントたちに胸がいっぱいになったのだろう娘は、楽しい気持ちを抱えたまま眠り始める。眠る直前、私は彼女に言う。
 ねぇみう、お友達ってね、とっても大切なものなのよ。こうやって今日プレゼントが届いたのだって、お友達だからでしょう? みう、お友達いっぱい作りなさい、お友達を大事にするのよ。
 彼女の脳裏にその言葉がどうやって刻まれるのか私にはわからないけれども、でもこのことは、折々に彼女に伝えていきたいと私が思っていることのひとつだ。私はこれでもかってほど実感している。この私の十年を支えてくれたのは、間違いなく私の友人たちだ。彼らがいなかったら、私は今ここに存在していない。
 寝息を立て始めた娘の隣で、こっそり呟く。ねぇみう、今あなたがここで生きているのだって、もしかしたら友人たちのおかげかもしれないのよ。彼らがいなかったら、私は今ここにいないだろうし、あなたもきっと今ここにはいない。
 だからね。自分が心を通わせられる友達を作りなさい。そして大切にしなさい。これから歳を重ねていくほどに、きっと友達の存在は大きくなるだろうから。ね。

 気づいたら時計はもう真夜中をとうに過ぎている。開け放した窓の外はやけに静かだ。昼間あれほど吹き荒れていた風は一体何処に消えたのだろう。今耳を澄ましても、風の音はこれっぽっちも聞こえてはこない。
 ベランダに出て、空を見上げる。真ん丸い月が、まっすぐ空に浮かんでいる。高く高く。
 ありがとう。
 私は心の中で呟く。


2005年02月22日(火) 
 目を覚ましたらいつもより明るい窓の外。慌てて時計を確かめると、いつも起きる時間より一時間も寝過ごしていた。急いで娘に着替えをさせ、ご飯を食べさせる。出発、という掛け声と共に自転車を漕ぐ。もう慣れた坂道をのぼる。娘は後ろで、ママ頑張れー、と掛け声をかけてくれる。すれ違う通行人のみんながくすくす笑っているような気がして、私はちょっと恥ずかしい。
 天気予報で今日は寒くなると言っていたはずなのに、日差しはとてもあたたかく風もゆるい。駆け込んだ車両の隅の席が空いており、私はそこに座る。幾つものビルの群れを抜け川を越え、いつのまにか私は眠ってしまう。眠りの中で、幾つもの場面がフラッシュバックする。眩暈を覚えて慌ててトイレに駆け込む。私の隣で手を洗うのは制服を着た小さな女の子。目があったので微笑むと、彼女も向日葵のような笑顔を返してくれる。それだけのことなのだけれども、なんだか心がほっとして、体の強張りが少し緩む。
 用事を済ませた帰り道。家に最寄の駅を越え、しばらく前から行こうと思っていた場所へ向かう。駅から歩いて程なくして、川沿いにずらりと建ち並ぶ小屋が見えてくる。その入り口辺りに立つのは警察官。私はそれを避けて、川の向こう側へと渡る。そして川沿いに備えられた手すりに寄りかかり、川の向こうをじっと眺める。
 今年に入って警察がこの一帯を一掃するために動き出した。ここは、性を売る女性たちが集う場所。その殆どが外国人女性、特に不法滞在の外国人女性たちで占められている。川沿いに立ち並ぶ小屋の中には必ず女性が待っている。男性の姿を見つけると、朝だろうと昼だろうとやわらかい白い手が手招きする。胸の谷間を露にし、量感のある太腿を見せつけるぴったりした短い服をまとった彼女たちは、何とも言えぬ笑みを浮かべ、客を探し続ける。小屋から彼女たちが出てくることは全くといっていいほどあり得ない。彼女はその入り口に立って手招きするだけ。そして男性は、その入り口に呑み込まれてゆく。
 突然、右方向から罵声が響く。警察が昼夜を問わず立つようになったおかげで商売あがったりの彼女たちが、必死の抵抗を試みる。けれど、捕まれば、彼女たちはこの場所に居ることさえもできなくなる。耳をつんざくような悲鳴が私の耳に突き刺さる。これ以上見ているのが憚られて、私は扉をぴったり閉めた小屋の群れの方に視線を泳がす。
 女性たちやその女性を動かす奴らも必死なら、警察も必死だ。今までも何度かこの場所に手入れは入っていたけれども、こんなにも真剣に警察が動くのは、多分私が知る限りで初めてのことだ。本気で一掃しようとしているのだなということがこちらにも伝わって来る。でも。
 本当に、ここを一掃すればそれで事が解決するのだろうか。
 確かに。この辺りの風紀が良いものだなんてことは冗談でも言えない。けれど、そういったものたちが共存して、この街はここまで育ってきた。この場所は、或る意味、必要な場所と言っても過言ではなかった。女が女の性を売り、男は暴発しそうな或いは鬱屈した日々の欲望をここで吐き捨てる。ここはそんなふうに、男の欲望と女の事情とが、金を間にして均衡を保っている場所でもあった。
 もしこの場所を駆除したとして。ここで消費されていた男の欲望は、暴力は、今度は何処に吐き捨てられることになるのだろう。男の欲求が思ってもみないところで暴発する可能性を、誰も考えないのだろうか。私は。私は考えてしまう。その為に、これまであり得ないと信じていた女たちの身の上に、強姦という代物が突然落下する、そういったことは、果たして決してあり得ないと誰が言えるだろう。
 そしてまた、この立ち並ぶ小屋の中には、自分の体を売ったお金で家族を養う女もいるのだ。以前、親しくなった一人の女性からこんなことを聞いた。私の母親より少し若いくらいの女性だった。「私はね、何の才能もないからさ、だから、私が唯一持ってるこの体で稼ぐしかなかったんだよね。この体売って稼いだ金で娘を学校にも行かせたし、塾にも通わせた。もちろんね、娘は私を毛嫌いしてるよ、こんな金いらないなんて生意気言ったりもするさ、でもね、これが現実なんだよ、私のこの体で稼いだ金でここまでやってこれたんだ。私はそれを恥ずかしいなんて思っちゃいないよ。これがあたしの現実なんだ」。私をまっすぐに見、そう言い終えた後で彼女はにっと笑った。あの笑顔、私は今も鮮やかに覚えている。彼女のような事情を抱えた女性たちは、ここがなくなったら、何処へゆくのだろう。何処へゆけばいいのだろう。
 確かに、世間から見ればこういう場所は駆逐されるべき場所なのかもしれない。けれど、こういった場所にも営みがある。生活がある。現実がある。ただ一掃すればそれで全て解決、なんてことは、あり得ない。
 ついこの間まで女が立って手招きしていたはずの小屋の入り口は、ぴたりと閉ざされて、今耳を澄ましても、何の物音も聞こえてはこない。そして向こうには、警官がうろうろしている。彼らに尋ねてみたい。もし今までここに通うことで見ず知らずの女性を強姦しないで済んでたような男たちは、今度は何処へゆくのでしょう、その時、私たちは無事でいられるのでしょうか、そんな私たちをあなた方は、ちゃんと守ってくれるのでしょうか。そしてもうひとつ、ここにいることでようやく成り立っていた誰かの生活は、ここがなくなった後も守られるのでしょうか。
 誰も、答えてはくれない。私は、手すりを掴んでいてすっかり冷たくなった手をこすり合わせながら歩き出す。胸の中に広がる憂鬱を噛み締めながら。そして見上げれば、川沿いの桜の枝々には固い固い芽の気配。この固くつぼまった先が綻ぶ頃、この場所はどうなっているのだろう。枝の向こうに広がる空は、切なくなるほど白い。


2005年02月21日(月) 
 日曜日、娘と二人で散歩する。本当ならカメラを持って出る予定だったのだけれども、私がつい忘れてしまった。もったいないことをした。だから彼女に申し込む。「ねぇ来週の日曜日、ママの写真につきあってくれる?」「えー、やだ」「え? 何で何で?」「未海お留守番してる」「えー、どうして! ママにつきあってよ」「んー」「じゃ、写真が終わったら、未海の好きなもの食べていいから、どう?」「しょうがないわね、ママは。未海が一緒じゃないと写真撮れないの?」「…いいじゃんよー、未海のお写真ママ撮りたいんだもの、つきあって」「しょうがないわね、つきあってあげる」。五歳になる娘にもしっかり自分の意志というものができてきたのだろうか、と思う反面、食べ物にのってくるところなどはまだまだ五歳だな、と可笑しくなる。
 別に何処に行くという明確な目的を持っていたわけでもなく、二人でてこてこ歩く。車があまり通らない坂道で、よーいどん。私が彼女に合わせて走っていると、彼女は私を先に行かせまいと私の前に出てくる。なによぉ、なんてちょっと文句を言ってみると、彼女は大喜びして余計に邪魔してくる。右に左に行ったり来たり、じぐざぐに走る母娘。ふと見上げるとスズカケの木。枝にはまだ、ぶらんぶらんと実がぶらさがっている。
 ついこの間までそこにあった壁のひび割れた建物は、もう影も形も見当たらない。空き地もきれいに均されてしまっている。あのひび割れ具合が何とも懐かしい匂いを漂わせていたのにな、と少し寂しい気持ちになる。次の角を曲がると橙色の実を夥しく枝に抱えた木の影。古いアパートの庭の中でしんと立っている。風もない夕方。実の色と葉の色とが鮮やかに、夕焼けに映えている。次の角を反対に曲がると防具屋さん。三人の男子学生があれやこれや竹刀を選んでいる。みなきれいに背筋の伸びた少年。その向かい側にあった豆腐屋は扉を閉めたきり。もうここにあの老夫妻は住んでいないのだろうか。何の気配も感じられない。おからください、と、何度ここに通っただろう、もう豆の匂いさえしてこない通りを、娘と二人で歩く。
 そろそろ帰ろうか、と、小学校に沿った道を歩いていたら、いきなりごつんという音が響いた。びっくりして娘を振り返ると、娘が口を歪めている。その直後、大きな声で泣き出す。どうも彼女は前を見て歩いてはいたけれど、何か他のことを考えていたらしい、目の前に立っている電柱に全く気づかずに歩を進めていたのだ。そして電柱に激突。咄嗟に抱き上げるけれどももう泣くのは止まらない。でも。娘を抱きながら、こっそり私は笑っていた。なんでこんなところがそっくりなんだろう。目の前に何かあることは分かっていても何も見えてなくてその障害物に激突するというのは私の得意技だ。そのおかげで生傷が絶えない。そんなところ、似なくてもいいのに。娘の頭を撫でながら、私は笑いを堪える。娘よ、こんな母の元に産まれてしまったのだから諦めてくれ。
 あれ以来、私は娘と一緒には眠らないようにしている。時として誘惑にかられるけれども、我慢我慢と思って身を起こす。そのおかげなのか分からないけれども、眠るまでの間に彼女に私の激情をぶつけるようなことはなくなった。今夜もそうして寝息を立て始めた娘の横に座り、あれやこれや話しかける。もちろん娘は眠っていて聞こえているとは思えないけれども、今日話し忘れたこと、思い出したこと、あれやこれや、小さい声で彼女に話しかける。私の中に潜んでいる激情の塊が溶けてゆくまでは、こうやって、こっそり彼女に話しかけることで自分を満足させる。

 翌日。いつものように病院へ。朝一番の病院は受付も空いている。私は込み合った場所が恐い。この待合室がもし人でいっぱいだったら、私は悲鳴を上げてしまうだろう。心の壁がひどく薄いために、周囲の人の声がどくどくと私の内に流れ込んできてしまうのだ。そんな状態で診察を受けると、診察室に入って安心した途端パニックを起こす。自分の心の状態を話したいのに、ついさっき待合室で流れ込んできた他人の心の悲鳴のことを話すので精一杯になってしまう。だから私の診察は、いつもできるかぎり朝一番になる。
 「先生、先週はよほど途中でここに来ようかと思いました」
「どうしたの?」
「娘に対してめちゃくちゃなことをしてしまいそうで、いえ、実際にそうしてしまった日もあるんです」
「…」
「だから、娘と一緒に眠ることはやめることにしました。私、横になるとだめみたいなんです、普段押さえてるものが知らないうちに流れ出てしまうみたいで」
「…」
「できるなら、毎日毎日ずっと、布団の中にとじこもっていたいです」
「鬱がひどい感じ? もう何もしたくない?」
「…いえ、そこまでは。鬱かどうか分かりません。むしろ、波が激しいように感じる。上がったり下がったりあまりに激しくて、自分がついていっていない、みたいな。何もしたくないというより、もうここに隠れていたいって感じです。ずっとこの布団の中に隠れていたい、みたいな」
「…」
「洗い物とかも、出来なくなっちゃうんです、しなくちゃしなくちゃと思うのにできない。お風呂もまだ恐い。でも、もちろん入るんですけれども、結局洗い物も自分でするしかないからするんですが、そこに辿り着くまでがしんどくてたまらないです」
「…疲れてるわねぇ」
「疲れてるんでしょうか、それもよくわからないです」
「最近は眠れてる?」
「…眠れてるっていえば眠れてるときもあるのかもしれないんですけど、先生、横になるのが恐いです。横になる決心をするまでにすごく時間がかかってしまって、結局夜明けになってることも多々あります」
「まだ恐いのね」
「恐いです。横になったら、自分の力全て奪われてしまう気がする。いえ、それだけじゃぁないんですけど、恐いです、無条件に恐い、あの時のことがちらちらする」
「…」
「今も、なんかちょっと変なんです。私、この診察室出たら、ぴょーんってテンション上がっちゃって、けらけら笑っちゃうような気がする」
「なんかそんな感じね」
「うまく言えなくてすみません」
「とにかく一日一日生き延びることよ、今は。混乱してる状態が続いているから疲れてしまうだろうけれど、疲れて当たり前の状態なのだから自分を責めたりしないでね。パニックを起こしても自分を責めないで。いつパニックになってもおかしくない状態なんだから。ね。生き延びて来週もまた会いましょう」
「…はい」
 そうして私は診察室を出て、薬局へ行き、処方箋を受け取る。狭い交差点、信号機に寄りかかってみる。日の光がやけに明るく感じられ、私は目を上げられない。目を上げられないほど眩しいはずはないのに、私にはそれが眩し過ぎると思えてならない。そうして私は俯いたまま家路を急ぐ。

 気がつけば夕方。西の空に目をやると、地平線沿いにほんのりと茜色。裸ん坊の街路樹が路上に長い影を落としている。ふと時計を見ればもうお迎えの時間。慌てて自転車を走らせる。こんな時間になっているとは全く気づかなかった、いつの間に日がこんなにものびていたのだろうと、自転車に乗りながら西の空をもう一度見やる。ついこの間まで、娘のお迎えの時間には辺りがすっかり暗くなっていたのに。考えてみれば今年ももう二ヶ月が過ぎようとしている、日が経つその速度に、私は何となく追いついていけない。
 娘と一緒の時間が慌しく過ぎる。そして今はもう、彼女は穏やかな寝息を立てながら眠っている。窓を半分ほど開けると、小さな風に乗って通りの音が流れ込んで来る。バスの停まる音、遠くを行き過ぎるサイレン、首をすくめて歩くサラリーマンの足音。どれもこれも、毎日のように耳にしている音たち。そこには何の特別なものも付加されてはいない。毎日の当たり前の風景。
 なのに今夜の私の心の中は少し波立っている。止めよう止めようと思うのに、波はいつまでも繰り返し寄せては引いて引いては寄せる。試しに目を閉じて深呼吸。ゆっくりと吐き出す息に乗って、不安も私の外に出てくれたらいいのにと思う。特定の理由のない、漠然とした不安ほど扱いづらいものはないなぁなどという思いが一瞬心を掠める。それを振り払うため、私は軽く首を振る。
 今日一日を乗り切ればまた明日がやってくる。明日は今日になり、今日は昨日になり、そうやって私は生き延びる。一日一日を、越えてゆける。
 娘の保育園からの帰り道に見つけたあの月は、今頃何処に浮かんでいるのだろう。そう思って見上げた空、私の真上にぼんやりと、月が浮かんでいる。娘の言葉を思い出す。ママ、お月様はいいことを連れてきてくれるんだよ、魔法もかけられるんだよ、すごいでしょ。一体誰にそんなことを教わってきたのだろう、彼女の言葉を反芻しながら私は尚も月を見上げる。お月様、魔法がかけられるって本当ですか、いいことを連れてきてくれるって本当ですか。小さい声で心の中尋ねてみる。もちろん答えなんて何処からも帰ってこない。
 部屋の中に戻り、規則正しい娘の寝息を確かめて、私はお湯を沸かす。大丈夫、明日を必ず今日にする。私はちゃんと、越えてゆける。


2005年02月20日(日) 
 娘を寝かしつけてからずいぶん長い間、窓を開けて外を眺めていた。左へ左へと傾いて落ちてくる雨の筋を心をからっぽにして眺める。雨にまつわる様々な記憶はきれいにしまいこんで、ただ今目の前の雨を眺める。
 やがて雨筋が短くなり、その中に細かな粒が混じり始め、そしてまるで魔法をかけたかのようにさらっと、雨と雪とが入れ替わる。その見事なまでの変化に、私の目はますます引き寄せられる。現れた白い粉は、風に乗り、時折渦を巻くようにして街の中舞い踊る。街灯の橙色の光の下に現れるその粉が描く模様は、一時たりともとどまってはいない。私は椅子から立ち上がりベランダに出て街を見下ろす。アスファルトは先ほどまでの雨ですっかり濡れており、白い粉は次々に、その濡道へと吸い込まれてゆく。あっという間の命。もう一度街灯の灯りの輪の中へと視線を戻す。パウダーのような粉雪は、さやさやと軽やかに踊り続けている。

 朝、出かけようとして玄関を開けたところに宅急便が届く。未海宛の荷物。Mが誕生日に間に合うようにと届けてくれたプレゼントだ。娘が宛名に気づく前に私は奥の部屋へとその荷物を隠す。誕生日のその日に渡してやろう。
 娘と二人駅へと。毎週の行事の実家行き。電車の中でにょろにょろを為す。今日の娘はGacktに想いを寄せる女の子になりきっているらしい。おもちゃの携帯電話を出して「見せてあげるわ、ほら、Gacktと一緒に撮った写真なの」「あら、これは何処で撮ったの?」「Gacktのお部屋に遊びに行った時に撮ったのよ」「えー、Gacktの部屋に行ったの?」「うん、素敵でしょ」「…あ、はい」「K先生との写真もあるのよ」「ねぇ、GacktはK先生と未海とどっちを好きなの?」「うーん…どっちも」「そうなんだ、じゃぁGacktは誰と結婚するの?」「二人と結婚するの」「えっ!一夫多妻かい…」「あぁ、Gacktさまぁ」。手を合わせて目を閉じてうっとりした表情を浮かべる娘に、母はただひたすら呆然と。でも実は娘はGacktの映像を家のテレビなどで見たことはない。保育園の担任のK先生がGacktのファンで、先生からあれやこれやGacktの話を仕入れてくるのだ。それで今、Gacktに想いを寄せる女の子を演じきっている。娘よ、君は自分の思いつき一つでその役になりきるところは天下一品。女優さんの道でも歩むといいかもしれない。

 お茶の時間。決してカタカナでもローマ字でもない、ひたすら平仮名の「はっぴばすでぃとぅゆぅぅ」の歌をじじばばと四人で大きな声で歌う。二月は母と娘の誕生月。今日はそのお祝い。そういえば、いつからだったろう、じじばばと四人で娘の誕生祝をするようになったのは。思い出そうとするけれどもうまく思い出せない。最後にあの部屋で祝った時、娘も私も髪が短かった。まだ肩につくかつかないかの頃だった記憶が浮かぶ。あれからあっという間に時間が経った。今祝うのは母六十四歳、娘五歳。五本の蝋燭の火が娘の息でふぅっと消える。
 当たり前のようにこうして私たちは実家に集い、お祝いをし、笑い声を響かせる。何処の屋根の下でもあるだろう日常の風景。でも私は、それが当たり前に感じられれば感じられるほど、不思議になるのだ。あれは何だったのだろう、と。
 いつの頃からか、両親に期待されていることを私は強く感じて育った。その期待に応えなければと思い、幼いながら必死だった。父母に誉められたい、父母に愛してもらいたい、ただその一心で、私は毎日をがむしゃらに生きていた。時々悲しくて泣きたくなる時があり、そんな時は唇を噛み締めながらひたすら父母に好いてもらうための行為を為し続けた。信じていたのだ、その頃はまだ。そうやって頑張れば、私はきっと父母にいっぱいいっぱい愛してもらえるはずだ、と。愛して欲しいから、愛されてると確信したいから、私は必死だった。
 けれど。少しずつ少しずつ私は知ってゆくのだ。父母の思う通りの人間になどなれやしないということを。
 それを味わうたび、私は少しずつ少しずつ、ずれていった。すれていった。愛されているという確信など、どれだけ努力しても私は得ることができなかった。それはやがて、私は両親に愛されていないのだという形になり、それは同時に、自分は両親から愛される価値もないどうでもいい存在なのだという思いを形作った。
 気づけばもう、どうしようもなくすれ違っていた、父母と。家の中はいつだって緊迫していた。ほんのちょっと間違って足を余計に進めたら爆発する、そんな状態にやがて家の中はすっかり支配されてしまった。私は家の中にいることが息苦しくて息苦しくてたまらなかった。耐えられなかった、自分を愛してくれない両親と共に生活することに耐えられなかった。なのに私は、父母に愛してもらいたいという一心不乱の願望を捨て去ることができず、両方に引き裂かれるようにして毎日声なき悲鳴を上げていた。どうにかして父母の期待通りの子供になりたい、父母の期待を具現化したような子供になりたい、そんな思いがぐるぐると空回りしてた。もうこれ以上この人たちの傍にいたら私は死んでしまうという私の絶叫が、家を飛び出すという形になって現れたとき、私は両親との緒を切り落とした。その後私の身にふりかかったあの事件も、私たちを近づけるどころか、私たちのその在り方に拍車をかけた。もう、私たちは、交叉できないところに来てしまったと、その頃一体何度思っただろう。
 それが今、私たちはひとつ屋根の下にこうして集い、歌を歌っている。こうやって笑い合って歌い合うことは当たり前のことであり、何の不思議もない、というように。だから私はふとした折に戸惑うのだ。あれは何だったのだろう、と。
 いや、もう知ってる。未海という共通項が今ここに在るからだということを。痛いほど感じている。私も父も母も。「未海が再び結びつけてくれた、未海が産まれてくれたことにいくら感謝しても感謝したりないよ」と、父がぽつりと言ったことがあった。それが、私たちのすべてを言い表しているように思う。
 はっぴばすでぃとぅゆぅぅ。私の耳の中でみんなの声が木霊する。本当にそうだ、産まれてくれてありがとう、娘よ。君は唯一無二の存在。君がこの世に産まれてくれたおかげで私たちは再会することができた。そして私は、自分が愛されていない存在なのではなく、どんな時も彼らに愛されていたのだということをようやく受け容れることができた。愛は得るものではなく、ただそこに在るものだということに、気づくことができた。すべて、君のおかげ。

 いつの間にか冷たい雨はやみ、夜の闇はただじっと横たわる。昨日あの街灯の明かりの下舞い踊っていた粉雪はまるで夢のように消え去り、今夜は明かりもじっと沈黙している。今ここから眺められる街景の中に明かりの点る窓はなく、恐らくはどの屋根の下でも、穏やかな寝息が繰り返されていることだろう。もしかしたら夢にうなされている誰かの寝息もあるかもしれない。
 その誰もが唯一無二の存在。産まれてくれてありがとう、と、その言葉を受け取るべき存在。ここに在てくれてありがとう、と、抱きしめられる存在。
 人はもしかしたら、愛を営む為に在るのかもしれない、なんて言葉が私の脳裏をすっと過る。声に出して呟いてみる。産まれてくれてありがとう、ここに在てくれてありがとう。娘へ、そして街の全てへ。小さい小さい、小さい声で。

 やがて夜が明ける。


2005年02月18日(金) 
 ここから出なくてはと目の前の扉のノブに手をかけたところで目を覚ます。まだ夢を引きずっている頭を片手で押さえながらカーテンを開けると、世界は少しずつ夜が明けてゆくところ。洗面台の蛇口をひねり、冷たい水を掌に乗せる。この季節の水道水はどうしてこんなに冷たいのだろう。昔、祖母の家にあった井戸の水は、夏は冷たく冬はぬるかった。だから顔を洗っていると少しずつ少しずつ目が覚めてくる、肌に水が染み込んで来る感じがしたが、水道水だと目がいきなり覚める代わりに、何度洗っても肌の膜に水が弾かれてゆく感じを覚える。何となく物足りない。
 あれやこれやと用事をこなしながら、ふと窓の外に目をやる。あのベランダにかかったシーツ二枚、昨日からあのままなことに気づく。水色と桃色のシーツ。その脇にフェイスタオルがこれもまた二枚。仲良く並んで朝の風に揺られている。あそこで夜を越えるのはこの季節では大変だったろうに、シーツは気持ち良さそうに風に身を任せている。
 昨日から冷蔵庫と電話の横のボードとに、新しい絵が加わった。いや、娘は保育園で毎日何かしらの絵を描いて来る、それを私はいつも壁に貼り付けるのだけれども、昨日のはいつもの絵じゃぁなかった。写し絵。保育園で教えてもらったらしい。アニメのキャラクターの絵を写したのだろう薄い紙を何枚も丁寧に折りたたんで、はい、ママにプレゼントよ、と渡してくれた。ずいぶん正確に丁寧に引いたのだろう鉛筆の線が、時折ぷるぷると震えていて、きっとこの線を描いた時の彼女は息を止めてただひたすらこの線を引くことに集中していたのだろうなと私は想像してみる。そういえば私には、小さい頃から変な癖があった。何事かに集中してくると息を止めてしまうのだ。歯を食いしばって息を止めて、ひたすらその作業に熱中する。一段落つくまで新しく息を吸うことを忘れてしまう。だから、気がつくと顔が真っ赤になっていたものだった。もしかしたら娘にもそんなところがあるのかもしれない。少し可笑しくなる。
 おはよう、と声を掛けながら娘を起こす。起き抜けだというのに娘はいきなり「変なおじさん」と言いながら物真似をしてみせる。変なおじさんになった娘の顔を両側からぷしゅっと掌で包んで、キスをする。吹き出しそうになるのを我慢しながら。こんな娘と私と、一体何処が似ているのだろう? 娘の方が私よりずっと練れてる気がする、生き方上手という気もする。でも、他人から見ると私たちは年を重ねるごとにどんどんそっくりになっているらしい。母娘というのは面白い。


 「頑張ったり、てんぱったり、そういう時って、差こそあれ非常事態じゃないですか。そんな時って気づかないうちに、自分の本当のとこ見失ってたり、自信なくしたり…だから、近くにいる人が、「いつもの貴方」をいつも通りに見守ってあげる。 それが一番いいことなのかな、って。そんなこと思ってます。自分には見えない、自分の背中を見守るというような。…誉めるというよりも、そのままじゃあないでしょうか、相手に対して鏡になってあげる、そんな感じ」。
 とある人に手紙を出したら、そんな返事が返って来た。何度も繰り返し言葉を噛みしめる。あぁ、そうか、誉めるというのではない、鏡、なのだな、と、納得する。そして、鏡になる、という表現を用いた彼女を心で思い浮かべながら、なんて素敵な言葉なのだろうな、と思う。
 誉めるというのは、人や物事を高く評価して言う時に用いる言葉だ。でも、その人はわざわざ何かしらを高く評価するのではなく、ごくごく自然に当たり前に、相手が持っている美点を大切に指摘する。そんな彼女の表現は、誉める、のではなくて、まさに相手に対して鏡になるのだ。
 人は追い詰まっている時、つい自分を見失う。これもだめだ、あれもだめだ、じゃぁきっとこれもあれも全部だめだ、と、本当はそうではない時でもどんどん自分を追い込んで自分で自分の首を締めてしまったりすることがある。そんな時、彼女のように、相手の前でただまっさらになって相手の姿をありありとそのまま映し出す鏡になる、それは、どれほど相手を励ますことだろう。いや、彼女は別に励ますためにあえて鏡になって指摘するのではないのだ、相手がふっと振り返った時に、いつもと変わらぬ位置に立ちいつもと変わらぬ笑顔でもって相手を受け止めようとする。その彼女の在り方に、相手はきっと、安堵する。あぁ大丈夫だ、まだやれる、と気づくきっかけを掴めたりするのではなかろうか。
 美しいな、と思う。そして私は自分を省みる。私に足りない何かをあれこれ思い浮かべる。と同時に、私のこの十年、ずっと変わらずに見守ってきてくれた友人たちの顔を幾つか思い浮かべる。あぁ私は、彼らにどれほど支えられていたことだろう。そうして、自分の背筋が自然に伸びてゆく気配を感じる。

 午前中、一瞬だけ雲間から光がまっすぐに舞い降りた。突然世界が明るくなったその気配に、私はベランダへと飛び出す。希望を形にしたら、もしかしたらこんな光かもしれない。そんなことを思う。一瞬のことだったけれども、その一瞬は、私の中にしっかりと刻まれた。

 美しい人になりたい。昔、そう思ったことがあった。それはひどく漠然とした思いだったし、もうずいぶん昔のことだから、もしかしたらもうすっかり擦り切れてしまっていたかもしれない。でも最近、自分にとって大切な誰かのことをあれこれ思い浮かべるたび、思うのだ。あぁもっと美しい人になりたい、と。
 美しい人。それはどんな人だろう。一口に心美しい人と言い換えてしまうこともできるのかもしれないが、確かにそれはそうなのだろうが、もっとこう、何か…。美しく生きる、それは…。
 これだ、と限定してしまうことさえ憚られる。だから、下手に言葉に還元したくない、そんな思いもある。言葉に還元することなんて、死ぬ間際でも充分間に合うだろうから、今は、毎日を重ねてゆくだけ。自分の大切なものをまっすぐに愛し、慈しみながら。

 窓の外、まだシーツが揺れている。ひらり、ひらり、ゆら、ゆらり。


2005年02月16日(水) 
 鴎が集まる信号機を右に見上げながら、駅までの道を急ぐ。海へと注ぐ川面はさざなみだって、黒々とその姿を横たわらせている。時折声を上げながら飛び交う鴎。一羽がこちらにやってきて、二羽がぐわんと曲線を描きながら海の方へ飛んでゆく。
 込み合う電車の中、いつもなら活字に逃げるのだけれども、今日はあまり本を広げる気がしない。隅の席が空いたので座り、窓にもたれかかりながら目を閉じてみる。電車の振動が今日はやけに心地いい。
 そうやって外出し、家に戻る頃には、日はすっかり傾いており。でも玄関を開けて滑り込んだ部屋の中は暖かい。多分日差しが部屋の中を暖めていてくれたのだろう。部屋が暖まるほどに、もう日差しはぬくみを取り戻しているのか。窓を開けて、外の空気をひとつ、深呼吸する。

 お風呂から上がり、着替えを済ませ、娘の好きなビデオを30分だけ見て横になる。昼間ずっと思っていた。今日は一緒に寝ない。彼女が眠りにつくまで、彼女に呼ばれれば彼女の隣に横にはなるけれど、それ以外は彼女から離れて過ごす。そう決めていた。「ママ、足が痛い」。また成長痛らしい。彼女の右足をさする。「ママ、背中がかゆい」。クリームは塗ったはずだけれどと思いながら、彼女の背中を軽くかいてやる。「ママ、やっぱり足が痛い」。はいはい、じゃぁ足をさすりましょうか。
 途中でいつものにょろにょろが始まる。「ママ、にょろにょろやって」。にょろにょろというのは、私の左人差し指を使ってのお話のことだ。この人差し指を動かす仕草が、何となくにょろにょろという言葉を想像させるので、私と娘はいつも、にょろにょろと言う。それで通じる。「えー、だって今日はもうにょろにょろやらないって言ったじゃん」「でもにょろにょろやって」。仕方なく、適当に頭の中で考えた即興話を、にょろにょろを使って話してやる。「はい、終わり。さぁ今度こそ寝てちょうだい」。「ママ、足が痛い」「はいはい」。そうやってひたすら彼女の足をさする。
 気づいたら、彼女は眠っていた。毛布から飛び出した手足を、そっと抱えて、布団の中にいれてやる。そして私は、自分の為に紅茶を入れる。
 ただそれだけのこと。

 ただそれだけのこと。でも。
 私はとても嬉しかった。彼女が眠ってくれたことが嬉しかった。眠るまでの間に彼女に辛い思いをさせないですんだだろう今夜が、とても嬉しかった。それをこの自分が為せたことが嬉しかった。思わず友人にメールする。あのね、未海、眠ったよ。友人から返信が届く。よかったね、あなたも休むんだよ。ありがとう、と返事を書き、私はメールソフトを閉じる。
 紅茶を飲みながら、口元が自然に緩んでいる自分に気づく。こんなにも嬉しかったのかと思って、一人恥ずかしくなる。たったこれだけのことで、こんなにも嬉しいということを、一体どうやって表現すればいいのだろう。よく、分からない。
 そして、彼女を今夜無事に眠らせることができた、そのことが、私の奥底で、小さな自信になって芽吹いてくるのを、私は感じる。
 ただそれだけのことなのに。

 離婚後まもなくのこと、再婚話が持ちあがった。今付き合いのある友人の中で一番古い友人の一人が、プロポーズしてくれた。とても嬉しかった。でも私は、いろんな事情から、最後の最後、断った。そうして今日が在る。
 様々な事情が絡み合って、私が最後自分で結論を出したことだけれども、結論を出してから少しの間、揺れる思いがあった。これを逃したらもう、こんな機会はないんじゃないだろうか、と思った。自分から手放してしまって本当によかったんだろうか、と。でも、何度そう思っても、結論を変えることは、私にはできなかった。
 今も、あのことを思い出すと、ちょっともったいないことしたなぁなんてことを思う。けれど、あれでよかった、と、納得している自分が、何よりも何よりもここにいる。
 あの時もし、あのまま再婚を選んでいたら、私はきっと、自分で立つことを見失ったまま、誰かによりかかってしか生きることができない人間になっていただろう、そう思うのだ。
 事件が起きる前、私は自信に満ち溢れた人間だった。どんな時も、自分の力を信じて疑わない、そんな傲慢なところがあった。いい意味でも悪い意味でも。いや、正確に言うと、事件よりもっと前、最初に入学した高校を辞めることになるまで、私はそんな人間だった。だから、自分ができて他人ができないということを、何処かさげずむようなところがあったと思う。こんなこと、どうしてできないの、こんなに簡単にできることじゃないの、と。周りの大人たちに何度言われたことだろう。「もっと周りの人にやさしくならないと、いつか自分の命取りになるよ」「自分ができるからって他人もできるとは限らないんだよ」。恥ずかしいが、私はそんなことを言われるたび、頭では聞いていたけれども、心では聞いていなかった気がする。本当の意味で、理解していなかったんだろう。今はそう思う。できないその人が悪いとぐらいに、考えてしまっていたのかもしれない。
 そして、少しずつ少しずつ足場が崩れ、最後、あの事件を契機に、今まで生きてきたことの地盤全てが崩壊したとき、私は、それまで生きてきて得てきた自信というものを丸ごと、失った。
 自信を失い、自分の地べたを失い、初めて、それがどんなに恐ろしいものだか、私は知った。

 自信を失ったまま、私はこの十年を生きてきた。一度失った自信を再び得ることが、こんなにも困難なことだとは知らなかった。何をしても自分は駄目な人間だと思える。穢れた人間だと思ってしまう。自分になど生きる価値はない、存在価値は何処にもない、そう思えてしまう。
 だから、いつだって誰かの影に隠れて、こっそり生きるしか術がなかった。もう世界とまともに顔を合わせる自信もなければ、誰かと向き合う自信も私にはなかった。できるなら一生涯、何かに隠れていたかった。恐ろしかったから。もう二度と、同じ思いはしたくない。同じヴィジョンは見たくない。だからもう、誰かの影に隠れているしか、術はなかった。
 これだけのことできるのだから自信を持ちなさい、自分の力を認めてあげなさいと、一体何度、友人や医者に言われたことだろう。言われても言われても、私には届かなかった。一体この私がどうやって自信を持てるというのか、そんな簡単に言わないでくれ、一体私の何処に価値があるんだ、こんなんで自信を持てって言われたって無理だよ、と、そうやって私は全ての声に耳を塞いだ。

 離婚することで、私は、世界に、社会に、現実に対して、自分自身がちゃんと向き合い、付き合っていかなければならない立場になった。離婚を決意するときに一番私が苦しんだのはそのことだった。一体こんなになった私にそれができるんだろうか。それが一番不安だった。できそうにないやと、尻尾を巻いて逃げることばかり考えた。でも、離婚を選ぶしか術がないという答えを自分で自分につきつけたとき、もうどうやっても、逃げ道はなかった。
 恐い。恐い。恐い。その思いが何度も私を呑みこんだ。耳を塞ぎ目を閉じて、この世界からもう逃げ出してしまいたかった。でも。
 その私のすぐ横に、娘がいた。娘は何の迷いもなくにっこりと笑っていた。彼女のその笑みを見、私はもう、逃げられないところに自分がいることを、思い知った。そうだ、私には守らなくてはならない存在が在る。こんなことしてる場合じゃぁない。
 おっかなびっくり、立ち上がろうと動き始めた私を、一生懸命支えてくれたのは多分、誰よりも、あの両親だ。一緒に暮らしていたころ、あれほど争い傷つけ合うことしかできなかった両親が、ここに来て私を支えてくれた。事件に纏わる出来事の中で敵対し、もう二度とお互いに交わることはないだろうと縁を切ったはずの両親だった。彼らは、離婚しようと決意した私に対し、私に直接何かをするというのではなく、私の娘をひたすら受け容れる、愛してゆく、という形で私を支えてくれた。そんな両親の愛の形に、私はどれほど安堵しただろう。安堵して、そして、今ここで立たなきゃ一生私は立てないということを私は同時に悟った。もう逃げ場はないという現実が、私の背中を押した。

 今だって、私はおっかなびっくりだ。何かあると体が勝手に強張ってびくっと震えてしまう。人が恐い。もしかしたらこの人も突然あの加害者のように掌を翻して私に襲いかかるかもしれない。そう思うともう、何もかも投げ捨てて絶叫したくなる。でも多分、その程度のことは私に限ったことじゃぁないだろう。また、何かの折に映像がフラッシュバックして、吐き気を覚え、トイレに駆け込むことは確かにある。が、それだって何も、私に限ったことじゃぁない。私と同じ体験を経た人たちなら、多分誰もが似通った症状を抱えているだろう。このくらい、どうってことない。共に生きていこうと思えば背負えない荷物じゃぁない。
 それよりも。
 もし私があのまま世界に目を閉じ耳を塞ぎ、一生誰かの影にかくれて生きてゆく、そんな姿を娘に晒し続けていたら、もしかしたら彼女は世界を信じることができなくなるかもしれない。そのことが、私を戦慄させたのだ。そんなバカなことってあるか。そう思った。そんなこと、絶対に厭だった。
 だって。本当は世界はいつだって誰にだって開かれているんだ。
 彼女に一番多く接するのは私だ。私という大人を通して彼女はきっと世界を見つめる。もちろん彼女が年頃になれば、彼女は自分の判断で自分の歩みを始める。そうなったら私なんてあまり関係ないかもしれない。でもそれまでは、間違いなく彼女は私を、一番近しい一人の人間として、私を通して世界を見るに違いない。だとしたら。その私が世界に怯え慄いていたならば、彼女はきっと、世界を恐ろしいもの、とても恐いものとして捉えてしまうのではないだろうか。そんなことは、いやだ。

 ただそれだけのこと。今夜彼女を穏やかに眠りにつかせることができたのは、まさに、ただそれだけのこと。けれど、それは今の、自信というものをすっかり失った後の私には、とてつもなく大きなことに思えた。こんな私にもできることがあるのか、と私が実感できた、そのことは、とてもとても大きなことだった。
 そうか、こんなずたぼろの存在価値も殆どないだろう私にも、やろうと思えばできることがあるのか。紅茶を飲みながら、私は自分に言ってみる。よかったじゃん、やればできるじゃない、私も。

 今日、外では雨が降り続けている。時折白いものが混じる。窓を開けていると、足元にじわじわと冷気が手を伸ばす。椅子から立ち上がり、私はベランダから外を眺める。通りに並ぶ街路樹はすっかり濡れて、その樹皮は黒々と滑っている。目を閉じると車の行き交う音が耳に響く。遠くからサイレンの音。何処かで火事でもあったのだろうか。消防車が二台行き過ぎる。
 空には鼠色の雲がずっしりと横たわり、当分流れてゆきそうにない。雲が垂れ込める夜の闇は、何となく白くけぶっている。今晩もきっと、闇は淡いままだろう。多分それは、今の私の心持ちと似ている。
 どんなことをしても得られなかった感覚。自信に満ち溢れてそれが当たり前と思って生きていた頃には決して味わうことのなかったこの感覚。何なんだろう、これは。不思議でしょうがない。
 ひとかけらの自信。ひとつのことを自分の力で為すことができたという自信。それは他人からみたらこれっぽっちのことかもしれない。もし私が誰かに話しても私のこの嬉しさなんて伝わらないかもしれない。一体何をあなたは話してるのと苦笑されるだけかもしれない。自分でも、ただこれっぽっちのことで何をこんなに嬉しくなっているのだろうと恥ずかしくなる。
 でも、そんなものなのかもしれない。たったこれっぽっち。これっぽっちの積み重ねが、もしかしたら少しずつ少しずつ大きくなっていって、私の大地をもう一度、耕してくれるのかもしれない。もし私があの事件にも遭わず、他にもいろいろな紆余曲折を経てこなかったら、自信というものが一体どんなものであるかなんて知ることもなければ、省みることもなかっただろう。今は思う、自信というものは、人が生きる為に必要な、とても大切なものなのだなということを。

 今夜娘は、眠る前に何曲も何曲も歌を歌ってくれた。もういい加減眠ってくれよと心の中で思うと同時に、さて何処まで自分はこの子の寝る前の儀式に付き合って笑っていられるかな、と、可笑しくなっている自分もいた。そんなふうに、私も少しずつ練れてゆくのかもしれない。
 気づいたら、雨は止んでいた。今窓を開けていると、しんなりと湿った空気が私に触れてくる。それは冷たいというよりもぬくい指先。そのぬくもりはまるで、これからやって来るだろう季節の予感を孕んでいるかのよう。この雨の向こうに春が待っている。この雲の向こうには太陽が待っている。どんな未来であっても、きっとそれらは私たちを待っている。両手を広げて。
 そう、明日は誰にでも平等に、やってくる。


2005年02月15日(火) 
 真夜中、目が覚める。目を覚ました途端、フラッシュバックする幾つもの映像。その映像に愕然とし、私は途方に暮れる。隣に眠る娘を咄嗟に抱きしめようとして、体が凍る。今彼女へと腕を伸ばすことができない。私は布団から忍び出る。
 ベランダに出ると、夜闇は昨日よりもずっと濃く垂れ込めていて、そのあまりにも濃密な夜を見上げていると、鼻も口も塞がれていくような錯覚を覚える。息苦しくなって私は、足元に視線を落とす。
 ベランダの隅に、数ヶ月前誤って割ってしまった鏡があることを思い出す。私はその大きな、私の身長と同じだけある大きな割れた鏡に手を伸ばす。足元にそれを寝かせ、しばらく見つめる。私の姿がそこに映る。粉々の鏡の中、幾つもの私。気づいたら、その幾つもの破片を、一個一個、ばらばらにしている自分がいる。
 どうしてこうなってしまうのだろう。どうしてこうなってしまうのだろう。ただ安らかに共に眠りたいと思うだけなのに。
 眠りに誘われる時間帯は危険だ。意識があやふやになる。いつもなら意志で律している意識があやふやになる。あやふやになると、私はバランスを崩す。普段隠している怒りが、ほんの少しのきっかけで暴発する。そしてそれは、隣にいる娘に向けられる。いや、私はその時、それを娘と認識していないのだ。私の外に存在する者としてしか、意識できない。そうなると、すべての攻撃がその外の者に向かってしまう。
 今夜、そんな最中に繰り広げられたのだろう映像が、鏡を解体してゆく私の脳裏で激しく煌く。大好きよ、この世で一番あなたのことが大好きよと言って抱きしめるのと同じ腕で攻撃される娘の、心持ちは一体どんなだろう。以前も同じことがあった。その翌朝、私は彼女に話した。ママは心に傷を持っていて、時々こんなふうに崩れてしまうの、ごめんなさい。そう話すと、彼女は、にっこり笑って、大丈夫よママ、未海は分かっているから。彼女はそう言ってにっこり笑ってくれた。そんな彼女にまた、私は攻撃の刃を向けてしまったのか、今夜も。あまりに哀しくて情けなくて情けなくて、涙の一粒さえ出やしない。私は唇を噛み締めながら、目の前にある砕け散った鏡の破片を、ひとつひとつ、解体してゆく。ごめんなさい。ごめんね。繰り返しながら。
 暴発する怒りはたいてい、あの時あの事件を越えてゆく過程で発することのできなかった怒りや憎しみの残骸から発している。そしてそれは、私の意識があやふやになる時に、こうやって暴発する。それが分かっているなら、それを回避するべきだ。それが私の取るべき行動だ。
 分かっている。分かっているけれど。
 あのいとしい娘の隣で一緒に布団に入って、あれやこれや話しをしながら眠りにつきたい。そんな甘い夢を私はどうしても捨てられない。そのせいで、今夜もまた、私は過ちを繰り返した。
 娘と一緒におしゃべりしながら眠りたい、と思うことは、そんなにも突飛な願いだろうか。そんなにも特別な願いなのだろうか。叶わない夢なのだろうか。そんなはずはない。ごくごく当たり前な、他愛ない願いのはずだ。何も特別なことなどひとつもない、どうってことのない願いのはずだ。それが悔しい。
 ふっと指先を見ると、いつの間に皮膚が破けたのだろう、私の指の腹で血の珠がぷくぷくと脹らんで、じきに垂れてゆく。ぽたりと足元に一粒、血の珠が落ちる。それでも手を動かすことを止めたくなくて、私は鏡を解体し続ける。幾粒かの血の珠が、鏡の破片に落ちてゆく。そうして汚れた鏡の破片も、私は一つずつ、解体してゆく。こんなちっぽけな傷なんて、痛みさえ感じない。
 そうやってひたすら手を動かしていた私の耳に、友の声が届く。大丈夫、大丈夫だよ。友の声が届く。落ち込み過ぎちゃだめだ、今度どうするかを考えるんだ。そんな友の声が、私の耳の奥で木霊する。
 そうだ、落ち込んだってどうしようもない、今度どうするかを考えるんだ。響く友の声に私は呟く。
 真っ暗な、穴蔵のような夜闇の中で、私は呟く。

 橙色の光を放つ街灯は、今夜もすぐそこに立っている。まるで何事もなかったかのように。光に照らされた街路樹の樹皮は今夜も乾いた匂いを放っている。私はいつのまにか、鏡一枚をすっかり解体している。
 その時、娘の寝言が私の耳に届く。咄嗟に部屋に駆け込み、娘の額を撫でる。すると娘は私の方に向き直り、目を閉じたまま私の腕に絡んでくる。思わず私は彼女を抱きしめる。ごめんね、ごめんね、ごめんね。すると彼女がうんうん、と眠ったまま頭を揺らす。ごめんね、ごめんね。
 そうだ。私はこんなにも心弱い人間だ。どうやっても自分ではコントロールできないことを幾つも抱えてる。それでも、私は生きていく。
 そうだ。落ち込み過ぎちゃだめだ、今度どうするかを考えるんだ。

 いつのまにか指先を汚す血は乾いており。私はようやくその血を洗う。ごしごしと指先から腕まで、力をこめて洗う。窓の外から、鶏の声が響いて来る。もうそんな時間なのか。あと一時間、二時間もすれば、夜が明ける。そしてまた一日が始まる。
 大丈夫、もう同じことは繰り返さない。コントロールがとれなくなることが分かっているなら、そうした危険が高まる場面を回避すればいい。それだけのことだ。それが本当なら他愛ない願いだろうとごく当たり前の願いだろうと、私には叶わないことと割りきって、危険を回避するんだ。自分に与えられたものはそういうものだったと割りきって。それだけのことだ。ただそれだけのこと。
 ベランダに足を半分出して座り、私は煙草に火をつける。吐き出した煙は、垂れ込める夜闇に吸い込まれてゆく。通りを過ぎる車の音が途切れ途切れに響く。この闇もじきに割れる。朝に吸い込まれてゆく。さっきまであった割れた鏡も、もうすっかり小さな欠片の群集になってごみ袋の中に消えた。
 大丈夫、大丈夫だよ。落ち込み過ぎちゃだめだ、今度どうするかを考えるんだ。
 友の声が、私の耳の奥で木霊する。

 じきに、夜が明ける。


2005年02月14日(月) 
 ふと見上げた西の夜空に、くっきりと月が浮かんでいる。じっと見上げていると、なんだかそれは空の口のようで、空が月を借りてにいっと笑っているように見えて来る。あのあたりにこんな感じで目を描いたら、悪餓鬼風のどら猫の顔になるんじゃなかろうか、そんなことを思う。娘に教えたら、あれは猫の口じゃぁない、トトロの口だと言う。空にぽっかり浮かぶトトロの口。なるほど、確かにそうかもしれない。
 朝から淡々と時間が過ぎてゆく。いつものように洗濯機を回し、いつものように布団を干し、いつものようにプランターに水をやる。ただそれだけのことが、なんだかやけにいとおしく感じられる。幾つもの棒で掻き回されていたバケツの水が、ゆっくりゆっくりと、穏やかな表情を見せてゆくときのような、そんな速度と一日と。それがこんなにも、今は心地いい。
 娘は大好きなぬりえをせっせと為している。一ページ、きちんと塗り終わると、私に尋ねにやってくる。「次のページにいってもいい?」「どれどれ、おおー、きれいに塗れたね。じゃ、次のにいっていいよ」。ただそれだけのやりとりなのだけれども、こうしたやりとりは一体あとどのくらい繰り返すことができるものなのだろうとふと思う。じきに娘はきっと、自分の判断であれこれのことをこなしてゆくようになるに違いない。もしかしたら明日にもそうなるかもしれない。だとしたら、今交わした言葉は、最後のやりとりになるのかもしれない。そう思うと、ちょっと胸が切なくなる。あんまりにも早足で過ぎてゆく時間の肩を掴んで、もう少しゆっくり歩いてくれと、訴えたくなる、そんな気持ち。
 薔薇の紅い紅い新芽が、少しずつ、ほんの少しずつだけれども大きくなってゆく。毎日の速度はこの目では捉えきれない程のものだけれども、それでも確実に、春へと向かっている。誰に教えられるわけでもなく、彼らはおのずから信じるべきものを信じ、一歩一歩確かに歩み続ける。
 自分の頭の中は1+1=2なんだ、と先日友人が手紙をくれた。1+1=2。それじゃぁだめなのだろうか。いや、そもそも私の頭はどんなふうにできているのだろう。そう自分に問うてみて、私ははたと困った。1+1=2、確かにそうなのだけれども、1+1=11だとか、田んぼの田だとか、そういうのになったらやっぱり楽しいよなぁなんて余計なことをついつい考えてしまう。さて、11にするにはどうしたらいいんだろう、田んぼの田にするにはどうやったらいいんだろう、なんてことを、わくわくしながら考えてしまう。だから、私から見たら、1+1=2なんだ、と、確固たる自信を持って答えられる人の方に、逆にちょっぴり憧れてしまったりする。そうだったら、きっと私の大地はとてもしっかりとしたものになり得るのではないだろうか、と。
 そして、つい笑ってしまう。人は一体何処までないものねだりを繰り返す生き物なのだろう。隣の誰かの持ち物にばかり目がいって、自分の内奥にある豊かな草原には気づきもしなかったりする。自分の持ち物をこそ大切に愛することができたら、きっと人はもっと、生きやすくなるに違いない。

 眠る前、娘と何度も抱擁を繰り返す。ママ大好き。ママもみう大好き。抱擁の合間に繰り返すキスは、時に甘かったり時に切なかったり、時にイライラした味だったり。この抱擁も、彼女がお年頃になればなくなってしまうのかもしれないと思うと、つい抱きしめる腕にも力がこもってしまう。今のうちにめいいっぱい味わっておこう、今のこの瞬間のぬくもりを思いきり深呼吸しておこう、そんなことを思うから、どんどんどんどん腕の力が強くなってしまう。いつもなら体をくねらせて笑いながら逃げ出す娘が、何故だろう、今夜はじっとしている。それどころか、私の首に回す腕に力をこめてくる。
 いつのまにか月が地平線の向こうに姿を消した。もういい加減眠らないとね、と、娘を布団に入れる。でも、さんざん抱きしめ合ってキスを繰り返しているというのに、まだまだ彼女には足りないらしい。布団からこっそり這い出してきては、私にキスの雨を降らせる。もうこれでもかというほど布団と私の間を往復し、ようやく彼女は、寝息を立て始める。
 窓の外には橙色の光を放つ街燈。いつもの場所、いつもの光。見慣れ過ぎた風景。けれど、この風景をじっと見つめるとき、それはいつだって初めてのものになる。
 今私が持つ持ち物は多いのだろうか。それとも少ないのだろうか。比べてみたことがあまりないから、よく分からない。その中には、幸か不幸か、誰かが羨んでくれる品々も少なからずあるらしい。でも。周囲にばかり気を取られて私が私の内奥に目を向けなければ、いつかその豊かな草原も、枯れてなくなってしまうに違いない。
 自分に肥しを施せるのは自分自身だ。そして、そんな私の姿を娘はきっと見ている。自分を大切にしなくちゃね、なんていくら口で言ってみたって伝わらないだろう。もし伝わることがあるとしたなら、それは、私が実際に生きるその姿からだ。
 このささやかな生活を大切にしたい。このささやかな幸せを大切にしたい。そう思うのならば、まずは自分を大切にすることだ。愛することだ。そして、私が大切にしたい幾つかのものを、思う存分愛し慈しむことだ。

 薬缶からしゅんしゅんと音が零れる。濃い紅茶でも入れようか。そうだな、できるなら、自分が失ったものや得ることができなかったものたちを羨むのではなく、今自分がこうやって持つことができたものへこそ、想いを向けていたいと思う。
 そして傍らには、紅茶の湯気と娘の寝息。夜はたんたんとふけてゆく。


2005年02月13日(日) 
 窓の外、闇色にすっかり覆われた街が静かに眠っている。耳を澄ましても、通りをゆく車の音が時折過ぎてゆくばかり。すっかり葉を落とし全身乾いた幹色の街路樹も今は、しんしんと、ただ立ち尽くしている。
 さぁもう横になろうかと思った時、不意に電話のベルが鳴る。受話器を上げると、母の声。こんな時間に電話をかけてくるなんて一体どうしたのだろう。そう思いながら受話器を握っていると、それは、母からのSOSの電話だった。
 母の古くからの友人Kさんが、突然電話をしてきた。午前一時過ぎ。ここそこの駅にいるので迎えに来て欲しい、という。
 Kさんは、約一週間前から行方知れずになっていた。二月いっぱい契約していたマンションの大家が、今すぐにでも出ていけと言うから仕方なく荷物を持って家を出たのだ、と、先日電話があった。しかし、Kさんの姪っ子さんからの話によると、大家さんのところに荷物を持って突然挨拶に来たのはKさんの方で、大家さんは逆に、そんなKさんを心配し、姪っ子さんのところへ連絡を入れていた。つまり、大家さんから追い出されるという構図は、Kさんの頭の中でだけ描かれたものであり、極度の被害妄想に陥ったKさんが勝手に出ていったというのが現実だった。
 数年前から気配はあった。どうもおかしい。そういう徴はすでにあった。真夜中タクシーを飛ばして数万円もの金をかけて、布団と一緒に「ここに置いてくれ」と突然訪ねて来たり、「姪たちに精神病院に閉じ込められて私は殺されてしまう」と電話をかけてきたり。母にとって大切だったKさんという友人に、母はそのたび振りまわされていた。
 SOSが入ったのは。
 突然訪ねてきたKさんが支離滅裂な、父や母にはどうにも理解の出来ない話や言葉を延々と繰り返す、そのことから、私ならKさんと話ができるんじゃないかと、そういう次第で私が呼ばれた。
 まだパラノイアに陥る前のKさんは、仏様のような穏やかな顔をしたふっくらした女性だった。自分のことはいつでも後回しで、周囲の人たちの世話をやき、ひたすら「誰かの為に」生きてきた人だった。しかし。
 今、目の前にいるのは、これでもかというほどに尖った表情をしたKさんであり、一週間も放浪していた彼女は、むっとするような臭気を体中から放っていた。
 自分の周囲のすべての人が、彼女を精神病院に閉じ込めて彼女を殺してしまおうとしている。そんな妄想にすっかりとりつかれてしまった彼女が喋る言葉はだから、あっちへいったりこっちへいったり、どうやってもまっすぐには立てない言葉たちばかりで。
 母はそれでも、大切な友人を、精神病院に入れるなんてことに荷担できないと、必死に抵抗した。しかし。
 現実はそんな生易しいものじゃぁない。

 Kさんが行方知れずになってからすぐ、心当たりの場所を探し回っている甥っ子さんから連絡が入っていた。もしそちらに行くようなことがあったらすぐに電話をください、迎えに行きますと言う。姪っ子さんからは、もうどうにもできない、今度見つけ出したらその時は、精神病院に入院させて二度と退院させないと泣き声の電話もあった。
 結局、今朝、迎えに来た甥っ子さんに腕を支えられ、Kさんは甥っ子さんとタクシーに乗っていった。Kさんの最後の姿を見るのは辛過ぎると、母はそれより先に、家を出ていた。今頃母はどんな思いを抱きながら街を歩いているのだろう。Kさんを見送りながら、私はそんなことを思った。
 人が壊れてゆく。そのきっかけというのは、何も特別な出来事によってばかり生じるわけではない。ごくごく当たり前の日常の中から、少しずつ少しずつずれてゆく。そういう壊れ方もある。Kさんは何年もの時間をかけて、ここまで来てしまった。もう誰も彼女の崩壊を止められる者はいない。
 Kさんを見送った後、私たちは娘のお遊戯会へと出掛ける。精一杯今日までの成果を舞台で披露する娘の姿を見守りながら、私たちはそれぞれに、自分の心の中に今渦巻く何かを、じっと味わっている。
「今はあんなになってしまったけど、それでもね、Kちゃんは、誰かの世話をしているときはとんでもなく正気なのよ。てきぱきと何でもこなして、生き生きしてる。なのにどうして…」
「そういうものだよ、多分。自分の為に生きるということを忘れてしまって、何処までも何処までも誰かの為に生きてしまっていると、その誰かが不在になったとき、途方に暮れるんだよね。迷子になってしまう。どうやって生きたらいいのか、それが分からなくなってしまう」
「同じ歳をとるでも、あんなふうに晩年を迎えるのは、辛過ぎるなあ」
「どんなときも自分をしっかり持っていないとだめなんだろうな」
「それにしたって、人間あんなにも表情が変わるものなんだろうか。今もまだ信じられない、信じたくない」
「変わるよ。心持ち一つで、人の顔はいくらでも変わる。人の顔も人の心も」
「あのとき言った通りになっちゃった。もうこれ以上誰かの為に生きるんじゃぁなくて、自分の為に生きないとって、あの時言ったのよ、彼女に。もう三十年は前になるけど」
「もしそっちの道を選んでいたなら。もっと別の生き方があり得たのかもしれないね。今そんなこと言ってももうどうにもならないけれども」
 そして三人とも、沈黙した。父母は今、何を思っているのだろう。私には、別れ間際のKさんの射るような目が、鮮明に思い出される。

 今日という一日。娘の成長とKさんの崩壊。明と暗。まさに右と左。私たちは今、同時にそれを掌に載せている。私たちはこの先、どちらに転がるのだろう。私や父や母に、Kさんのような状態に陥ることがあり得ないなんて誰に言い切ることができよう。いつだってそれは背中合わせなのだ。日常は強固な大地に打ち立てられているものと考えやすいが、それはきっと違う。下手すれば幅数センチの綱渡り。いつその綱から足を踏み外して地面に叩きつけられるか知れたものじゃない。だから必死なのだ、生きることはいつでも。
 夕方。父母を見送るとき、ふと呟いてしまう。どうか丈夫でいてください。私も娘も、あなたたちを愛している。いついかなるときも。それを忘れないで。

 もうじきこの長い一日が終わろうとしている。充血した目で眺める夜闇は深く、延々と広がっている。寝息を立て始めた娘の傍らからそっと立ちあがりベランダに出ると、私は目をそっと閉じてアネモネの葉に触れてみる。柔らかい柔らかいその感触。撫でる私の掌をやさしくくすぐる。ねぇKさん、覚えていますか、以前お会いした折、山の野草を摘みながら笑い合って歩いたよね、あの山道。あの時の草木の匂い、私はまだ覚えています。
 一度崩壊してしまったものを元通りに復元することは、それが物であれば不可能ではないこともある。けれど、それが人間であったときは。
 そして私は、心の中に浮かんだ幾つもの顔に感謝する。粉々に砕け散った私の心をこうやってここまで引っ張りあげてくれたのは、いつだって友だった。友の存在だった。もしあのときあの友がいなかったら、もしあのときあの友が私の傍らに黙ってついていてくれなかったら。今日会ったKさんはそのまま、私だったかもしれない。
 人間という字はヒトのアイダと書く。その意味を、私は今夜もまた噛み締める。ヒトのアイダ。私たちは人間として生まれた。そしてできるならば、人間として死にたい。私たちはヒトのアイダにいてこそ人間なんだ。だからこそ。
 一陣の風が吹き過ぎてゆく。季節は冬。人のぬくもりが恋しい、そんな季節。


2005年02月12日(土) 
 明日はとても寒くなるでしょう、という天気予報を裏切って、今朝は少しぬるい風が吹く。明日の娘のお遊戯会のために、衣装を大切に洗濯する。毎日毎日保育園で練習しているその成果が、ちゃんと明日舞台の上で出せるといいなぁと思いながらベランダに干す。風が、衣装をひらりと揺らす。
 何となく体調が思わしくなく、怒る娘に頭を下げて横になる。横になっているうちにどうもうとうとしていたらしい。電話の音で飛び起きる。電話の主は実家の母。開口一番、「あなたは一体何やってるの!」と怒っている。どうしたのかと尋ねると、どうも私が転寝している最中に娘がこっそり実家に電話をしたらしい。そして「今ひとりぼっちなの。ママはお仕事行っちゃったからお留守番してるの」と言ったらしい。幼い子供を一人置き去りにして何をやってるんだと怒り心頭の父母は、もう少しで実家を飛び出してこちらに向かうところだったと言う。どうにかこうにか誤解を晴らすが、すると今度は娘がほっぺたを膨らましている。「どうしてばぁばはママに言っちゃうの、秘密だったのに」。そしてぽろんと零れる涙。これはもう慰めようがない。ばぁばも孫が泣いたことではっと気づいたらしく、一生懸命電話口で孫を慰めようとするのだが、娘はもうぽろぽろと。そうか、君は、ひとりでお留守番してえらいでしょ、ということを伝えたかっただけなのだな、と、その姿を眺めながらしみじみ、成長し続ける娘を想う。

 幸せか不幸せか、と問われたら、私は間違いなく即答する。幸せだ、と。
 そういえば思春期の頃、すべてが不幸に見えたことがあった。何もかもが不幸、自分の世界丸ごと不幸、そんなふうに。思えばあの頃は、幸せというのは何か特別なものだと私は信じていたのだ。特別な出来事の中に、特別な状況の中にこそ幸せは在るに違いない、と。
 けれど、それは違った。
 幸せというものは、とても当たり前のものの中に潜んでいるのだ。そのことに気づいたのは、日常生活を当たり前に送ることができなくなってからだった。それまで非日常であったことが自分の日常になり、周囲から隔絶されているように感じるばかりになってしまったとき、あぁ、昨日まで当たり前にここにあったものこそが、幸せだったのだな、と。そう気づいた。
 人間は贅沢だから、当たり前にそこに在るものに気づけなかったりする。当たり前にいつもそこに在るから、もう目が慣れてしまって、肌が感覚が慣れてしまって、気づけないのだ。毎日の風景は自分の目にとても馴染んでいるから、まさかその中に自分が捜し求めている幸せが存在するなんて、思ってもみなくて素通りしてしまうのだ。
 けれど。
 幸せはいつでも、ありきたりな場所に隠れてる。いつだってこっそりと、見慣れた場所に隠れてる。ここにいるよ、私はここにいるのよ、なんて声の一つも立てることなく、ただひたすらにひっそりと、こっそりと。
 だから私たちは素通りする。あまりに慣れ親しんだ物の間にこっそり隠れている幸せには気づけずに。そうやって毎日が過ぎていき、なんて退屈な毎日なんだろうなんてことを思ってしまったりする。
 それが、或る時、哀しくて辛くてどうしようもなくてへなへなとしゃがみこんだ足の隙間から、ふっと気づく。あそこに在るものは何?
 そうやって目を凝らすと、ようやく見えて来る。あぁ、これが幸せだったのか、と。こんなところに幸せが転がっていたのか、と。過ぎてしまってからようやく、私たちは気づくのだ。あぁこれが幸せだったのか、と。
 決して声高に自分の存在を主張したりしない。そこにひっそりと隠れている。当たり前の風景の中にこそ隠れている、幸せというもの。毎日を淡々と過ごせるときほど、毎日の合間合間に隠れている。幸せというもの。
 頑張り過ぎて前ばかり見ていても見つからない。強張って背筋を伸ばしてばかりいても見つからない。だって幸せは、こっそりと隠れているから。
 どうやっても頑張れないなら、そんなときは無理して頑張らなくたっていい。もう疲れたなら疲れたよと言って一粒くらい涙零せばいい。そしてふっと目を上げたとき、視界をすっと過るのだ。幸せの色が。そして気づくのだ、あぁこんなところに幸せは隠れていたのか、と。
 だから愛することを忘れたくない。当たり前の毎日を。淡々と過ぎてゆく毎日を。そうやって過ごせるそのこと自体に、幸せが潜んでいることを。

 夕暮れた空を渡ってゆく鳥たちの姿。彼らを追いかけるように闇が街を包み始める。夕飯はあたたかいものにしよう。体がほっくりと、あたたまるように。


2005年02月08日(火) 
 朝から小さな雨が降る。しとしとしと。しとしとしと。小さな小さな雨が降る。ささらささら。ささささら。
 娘の小さな手を握って歩き出す。二人とも片手には傘を持って。行き交う人の殆どはもう傘を開いているのだけれども、それは分かっているのだけれども、娘と二人、傘をささずにてくてく歩く。ママ、これは雪にはならないの? うん、雪にはなりそうにないねぇ。雪になればいいのに、そしたら雪だるま作れるのに。そうだよねぇ、雪にならないかなぁ。空に顔を向けて歩く私たちは、次々後ろから来る人たちに追い抜かれてゆく。それでも二人とも、まだ空を見上げている。この頬を撫でる小さな雨が、小さな雪に変わるといいななんて願いながら。

「先生、突然変なこと言い出すようですけど、私、お風呂に入るのが恐くなってしまいました」
「あら」
「お風呂に入るでしょう? 水面を見ると、びっしりと垢が浮かんでいるように見える、しかもそれはあの加害者の垢なんです」
「…」
「多分目の錯覚だって自分に何度も言い聞かせるんですけれども、だって娘も私もちゃんと頭も体も洗っているのだから垢がこんなにびっしり水面を埋め尽くすわけがないって頭では分かるんですけれども、どうやっても私にはそう見えてしまうんです、水面びっしり、加害者の垢で埋まってるんです」
「…」
「その垢が私に触れてくる、もう反吐がでそうなほどいやなんです。気持ち悪いなんて言葉じゃぁ収まりがつかない。もう絶叫したくなるくらいの恐怖なんです」
「…」
「でも、私はまだしも、育ち盛りの娘にお風呂を我慢させることはできないし、そもそも娘はお風呂が大好きな子だからお風呂に入れないわけにはいかない。でも、でも、恐ろしいんです、恐怖なんです、おぞましいんです、あんなお湯の中に自分が入る、娘が入る、そのことに耐えられない。毎回お湯を変えても、垢が消えてくれないんです、どうやっても」
「少し前から寝る前の処方を少し変えたでしょう? 眠れるようになった?」
「…少しは眠れると思うんですけれども」
「でも?」
「寝ると必ず夢を見てしまう、夢にも出てくるんです、あの加害者が。しかも、夢の中で私に話しかけてくるんです」
「…」
「始まりはいつも違ってて、そこにはまだあの加害者はいないんです。何かの拍子に私が振り返ると、すぐそこに加害者が立っていて、私を見てるんです」
「最近また何かあった?」
「いえ、思い当たらないんです、別に加害者に関することやあの事件に関わるような何かが最近あったとは思い当たらない」
「…」
「思い当たらないけど、夢にもお風呂にも、ふとしたところに加害者がばっと現れるんです」
「…」
「自分でも、いやになります。いい加減、自分も疲れてるなって思う」
「自分で疲れてるって感じるの?」
「はい、疲れてるなって思う。疲れてるから休みたいとも思う。でも、休めないんです」
「…」
「休もうと思っても体が言うことをきかない。何かしら理由をくっつけて、とにもかくにも動き回っていないとだめな気がする」
「ひたすら動いてしまうのね」
「はい。で、場面場面で、へらへら笑ってる自分がいる」
「なんだかそんな感じがするわね」
「はい。自分でももうそういうのにも嫌気がさしてるんです、でも、どんどんちぐはぐになっていく」
「…。今はとにかく、一週間一週間生き延びること考えて頂戴ね。それ以外、考えなくてもいいから」
「どうしてこんなふうになっているんでしょう、全然分からない」
「…何かが引き金になってひどく混乱しているのか、それとも、思い出しても大丈夫な何かがあなたの中にできてきて、だからあれやこれやと事件に関わることを思い出してしまっているのか…」
「思い出しても大丈夫な何か…?」
「そういう可能性もあるかもしれないわね。まだ分からないけれども…」
「…」
「ともかくも生き延びること。他のことは考えなくてもいいから」
「…はい」
「生き延びて、来週もまた会いましょう」
「…はい」

 思い出しても大丈夫な何か。それは何だろう。砦みたいなものだろうか。それとも、別に何の障壁もない、けれど頑強な大地のようなものだろうか。私にはまだ分からない。そもそも、そんなものはまだ私の中には皆無で、ただ単に混乱している、或いは私の記憶の奥に実は引き金となった出来事は隠れてしまっていて、そのためにこんなふうに加害者の姿をあらゆる場面で思い出してしまうのか、定かなことは何もない。
 帰りのホームに立つ。しばらく待っても電車が来ない。電光掲示板を見上げると、人身事故によりダイヤが乱れています、という表示。人身事故。それは事故なのだろうか、それとも自殺なのだろうか。ふとそんなことを考える。昔、私の肩にぶつかりながら線路に身を投げた友人の後姿が、私の脳裏を過ってゆく。人身事故というその言葉は日常に溢れているはずなのに、私はその言葉にいちいちこうやって立ち止まってしまう。そんな自分が頼りなくて、私は小さく溜息をつく。そして直後、小さく苦笑する。分かってる、こんなふうであっても私は生き延びることを選んでいる。溜息をついても何をしても、私は最後必ず、生き延びることを選ぶのだ。それが今の私なのだ、と。

 雨。雨。小さな雨。降り続くその気配を窓の外に感じながら、指を動かし目を動かし、仕事を済ましてゆく。この分ならきっと、今日中に終わる筈。


2005年02月02日(水) 
 明け方目が覚める。まだカーテンの向こうは薄暗い。いつものように私は、隣の娘の寝顔と寝息を確かめる。彼女がまだ赤子だった頃、私は、眠る彼女の傍らで、何度も何度も彼女の寝息を確かめていた。恐かったのだ。この寝息がもし突然に止まってしまうなんていう現実があり得ることが。そんな様子の私に呆れた夫が、いい加減にしなさいと言うほど、私は何度でも、彼女の寝息を確かめていた。自分がこの世から消去されることには殆ど恐怖を感じない私なのに、彼女の命が消去されてしまう、そのことは、ほんのひとかけらでも想像することが、何よりも恐かった。そんな現実があり得ませんように、あり得ませんようにと、毎日毎瞬、そう願っていた。今思うと、少し、自分でも笑ってしまうけれども。
 そんな娘も今月末には五歳になる。20キロもある体を私は今日も自転車の後ろに乗せて、坂を下り、坂を上る。今日はことのほか冷気が頬に染みる。ひゅー、冷たいよー、と、自然に声が出てしまう。娘も私を真似て、ひゅーひゅーと声を上げる。北の国では今日も、雪が降っている。天気予報でちらりと見た映像が頭に浮かぶ。絶え間なく降り続く雪の粉。容赦なく積もる雪の山。きっと今何処かの街の片隅では、必死に雪かきをする人の姿があるに違いない。顔を少し上げると目の前に広がる空、この街の空はこんなに明るいけれども、同じこの空の何処かには雲がたまって冷気がたまって、雪を生み出し続けている。同じこの星の上の出来事。
 仕事がぽっくり空いた今日。掃除をしようと思っていたのだけれど遅々として進まず。それじゃぁせめて、と、ベランダの薔薇たちに水をやる。
 とくとくとく。如雨露から零れ落ちる水が、渇いた土にごくんごくんと呑み込まれてゆく。プランターの下から水が零れ落ちるのを確かめて、私は次のプランターに移る。そうやって何度も何度も、ベランダと水場を往復する。
 秋に植えたアネモネは、驚くほどに緑の葉を茂らせている。こんな冬の真っ只中だというのに、彼らはどっさり手を広げている。でも、上にはなかなか伸びてはこない。これ以上大きくならないものなのだろうか。私はアネモネを植えるのは初めてだから、何も分からない。もう少し君たちは大きくならないのですか。尋ねてみる。何の返事もない。葉っぱはこんなに茂っているのに、大きくはならないんですか。何の返事もない。でも、ぽつり、ほっといてよ、と言われている気がした。錯覚だろうか。私はちょっと笑ってしまう。はい、分かりました、私は君たちにお水をやっていればいいんですよね。時々眺めながら。アネモネから返事はないけれど、こっそり笑いながら、私はそんなことを思う。手をかけなくてもだめだけれど、手をかけすぎても植物は育たない。適当に眺めて世話をして、適当に放っておくほうが、好き勝手に育ってくれる。アネモネも、きっと、過剰な世話はいらないわ、と思っているに違いない。
 薔薇の樹は今、新芽の嵐。硬い硬い赤い芽が、枝のあちこちに潜んでいる。ここにも、あそこにも、ああ、こんなところにも。ベランダを冷風がひゅるりっと過ぎてゆく。こんな冷風に晒されていても、彼らはじっとしている。そんな新芽を眺めているとき、私は、春がやがて来ることを確信する。どんな冬であっても終わりは来る。どんな寒さであっても終わりは来る。そしてこの赤い芽が、次々に開き、次々に伸びて、暖かい日差しを一身に浴びるときがくる。彼らを見ていると、私は、彼らの命の丈夫さを、信じないではいられない。彼らの命、私たちの命。きっと、思っている以上に儚くて、同時に、思っている以上に丈夫なのだ。しぶといのだ。命というものはきっと。
 ベランダの手すりにもたれて、街を眺める。街路樹は裸ん坊。樹皮の褐色はすっかり渇いている。こうして眺める街に、今、緑はひとかけらさえ見当たらない。けれど、今このときも、彼らは生きていて、春を待っている。信じている。もしかしたら明日、この街が崩れ落ち、命を落とすかもしれないのに、その時に自分たちの命が絶えるかもしれないのに、決して信じることをやめようとはしない。死ぬその瞬間まで、彼らは自分たちが生きることを信じている。いや、そもそもそんなこと、考えてなんて生きていないのだろう。余計な理屈をこねてあれやこれや論じるのは人間ばかりだ。彼らはただ、この世に生まれたからには死ぬその日まで生きてゆくのだという、そのことを、至極当然にまっとうする、それだけなのだ。
 時々考えることがある。娘が年頃になって、自ら死にたい死んでしまいたいと考えることがあり得たとき。私は彼女に何を伝えられるだろう。
 時々考えることがある。彼女の身の上に私と同じ出来事があり得てしまったとき。私は彼女に何を伝えられるだろう。
 答えは、まだ、ない。

 突然、カーテンの向こうから眩しいほどの白い日差しが部屋に差し込む。カーテンを開けてみる。もうずいぶんと西に傾いた太陽が目の前に現れ、私は視界を一瞬奪われる。全ての視界が真っ白に染まる。
 地平線近くを雲が流れている。薄灰色の雲。流れてゆくというよりも、そこに溜まっているというような姿。街中が今、白く染まり、からからに渇いた白色に染まり、ようやく視力の戻った目で、私はただそれを眺めている。

 答えはきっと、永遠に出ない。その場に立たされたとき、私がどう行動するだろうかというそのことは、想像できるけれども、正解なんてものは、きっと、何処にもないんだろう。
 うろたえることなく、惑うこともなく、ただまっすぐに、そんな彼女を受け止めて、受け止めることがもしできたなら、おのずと答えは出てくるだろうし、私はおのずと行為するだろう。その時に、きっと。

 冬風がまた大きく街を横切ってゆく。私はカーテンを閉める。カーテンはもちろん風に揺れ、窓の外にふわりふわりと泳いでゆく。そんな窓の隣で、私は文字を記してゆく。台所では薬缶から湯気がしゅんしゅんと音を立てている。濃い紅茶でもいれようか。私はノートを閉じて、お気に入りのコップに手を伸ばす。
 それは多分、何処にでもあるだろう、毎日の風景。私はそんな平凡な毎日を、多分とても、愛している。


遠藤みちる HOMEMAIL

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