2004年11月29日(月) |
あっという間に時が過ぎてゆく。銀杏並木を見上げると、すっかり全身黄色く色づいている者、その隣で全身殆ど裸になっている者、混在している。去年もこんな様子だったろうか。この場所に限らず、あちこちで樹を見上げ思うのだけれども、今年の樹の色づき方、葉の落ち方、私には気にかかる。 或る朝娘を送った後自転車で海辺を走る。日差しを照り返す波が銀色の波紋を幾重にも描くその海の上を、真っ白な鴎がすうっと美しい線を引くように飛び交う。思わず自転車を止め、その場に立ち尽くす。深く息を吸うと、冷たい空気に一瞬、ひゅるると喉が鳴る。 そしてまた或る朝、うまく寝入ることができないまま迎えた夜明け、娘を起こさないように玄関を潜る。そこに広がるのは東の空。徐々に徐々に地平線付近の空が薄赤く脹らんでゆく。その様をただじっと見つめる。一瞬たりとて同じ空はない。赤みが脹らんで脹らんで、そしてぱつんと、聞こえない音を立てて空が割れ、そこに、太陽が現れる。夜明けの太陽はとてもとても静かだ。沈んでゆく時の太陽は燃え滾っているけれど、こうやって東の空から再び姿を現すとき、彼女(彼)は、凛と静かにすべての音という音を飲み込んでしんしんと燃えている。そこに言葉はない。けれど、太陽を迎える空が、風が、街が、荘厳な讃歌を歌っている、そんなふうに私には見える。 水をきちんと遣っていた筈なのに、20センチほど背丈を伸ばした葡萄が或る朝突然鉢の中で倒れ込んでいる。何がいけなかったのだろう。外に出しっぱなしにしていたのが若い彼をこんなふうにしてしまったのか、それとももっと何か別の理由があったのか。せっかく種からここまで育った彼の、つい昨日まですっくと天に向けてつるを伸ばしていた姿はもう今はない。 一方で、アネモネはくいくいと土から顔を出し、その葉を広げてゆく。自ら葉を広げておきながら、それが重くて耐えられないというふうにくてんと倒れ、倒れながらもさらに大きくなろうとする彼女らは、見つめる私の目の中で、水彩画のように瑞々しい光を放つ。
いつだって世界は動いている。その只中にあって、私にできることは、ただこの世界を在るがままにじっと見つめること。動いてゆく世界を、同時に微動だにしない世界を、じっと見つめること。目をそらすことなく。 そしてその時に、決して一点だけを見つめるのでなく、この目だけを使って一点を見つめるのではなく、私の目を耳を鼻を肌を、全身で世界を感じること。全身で、世界を掴むこと。 それは、断片的に生きやすい自分には多分、難しいことだけれども、でも、やってできないことじゃぁないだろう、私がこの心を解放(開放)してやれば、それでいいのだ。
幾重にも重なる傷痕も、それがどんなに生々しく赤く今は爛れていようとも、必ず癒える時がやってくるのだ。私の左手はそのことをよく知っている。 今はただ見つめよう。私のいるこの世界を。そして、私は私の歌を歌おう。多分そこに、彼女もいる、彼女も、彼女も、彼女も、そこに、在る。私の愛する人たちへ、いつの日か届くよう。
久しぶりに熱を出した娘の体が、私の隣で燃えている。抱きしめると、私の体に彼女の熱がじんじんと伝わって来る。目を閉じると、熱が広がってゆくその音が聞こえるかのようだ。 さぁそろそろ、また明日がやってくる。たった一つしかない新しい明日という一日が。そして私はその新しい一日を、ゆっくりと呼吸するのだ。 そう、明日は誰の上にも、平等にやってくる。 |
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