あららのつぶやき
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2011年08月30日(火) |
ケータイ電話の暗証番号 |
Sが北海道へ旅行に行っている。 ケータイで状況やら「着いた〜」やらを連絡。 そこまでは良し・・・ いつもの事だし、 誰もがそのためのケータイだと思っている。
一回目はケータイへ連絡してきた。 家族割引で無料だもんネ。
2回目は家の電話へかかって来た。 おやッツと思った。 「暗証番号は・・・・やったナ〜」 人のまで知るか〜と思ったけど、 「古いのと新しいのと間違えて無い?」と言う。
旅行前に新規で新しいケータイを契約して、 手元にあるけれど、 旅行中に慣れないのでは使えなくなると困ると、 今までの(まだ9月中は継続している)を持って行った。
「DDCOショップに居るんだけどサ〜」 「電源が入らずピンコードを聞いてくる、 自分の・・・・または初期の0000を入れてもダメ ショップでは家族(TM名義なので)でないと設定出来ない」 困ったね〜TMは仕事中で電話連絡は入れられない職場だ。
連絡用に同行しているTNさんのケータイ番号を 調べて、その電話へ連絡させてもらうことにした。
TMが帰宅するのを待って「????」 「そうや、契約書!!!PINコード解除番号」 あった、あった、「これだ〜」
飛行機に乗るので電源を切った。 その後電源を入れた時、多分番号を入れ間違えて 3回入れ間違えるとロックがかかってしまう。 ロックがかかった状態でショップへ頼み込んだんだネ。
ヘ〜〜、ロックがかかった事がないので 私も知らなかったワ。 銀行のパスワードも3回入れ間違えると 使えなくなるもんネ。
それで契約書に3人分付箋を付けておいた。 家族が問い合わせて来た時調べにゃ〜いかんから お陰さまで学習したワ
もう一人分かりにくい人が居た。 一級年下でこいちゃんと親しくしているので 今回参加したとの事 「まめちゃんヨ・・・」それでアッと分った。
本名はI良子。小粒の意味の豆ちゃんが ニックネームだった。。
岐阜の金華山の麓の公園の近く その周囲にある住宅の一角に住んでいるって。 あら〜長良川ツーデーウォークで 2回とも金華山へ登ってからスタート 20kmを歩いた事があり、って話すと 彼女もいろいろ山歩きをしているらしい。
「夜叉ケ岳って良いよ」 「百々ケ峰で滑って・・・・」 あららも行ったヨ〜〜
山野草の名前をよく知っていた。 (霧ケ峰高原ではまめちゃんに花を教えてもらう) 鉢植え・寄せ植え・アートフラワー(自然の花で)を 手がけ、日本・・・協会の資格をとり、 講習会、大会の展示等をしている。
彼女もかなりの努力家だ。
2011年08月21日(日) |
様変わりしたみっちゃん |
8人の内2人を除いて「●○さん?」って 3分もかからずに判った。
分かりにくかった内の一人がこのみっちゃん 「色が白くぽっちゃりと可愛かった『みっちゃん』?」 思わず言ってしまった。 それじゃ〜今は何??。
貫禄が出て、すっかり頼もしい感じの○長さんだ。 話を聞いて納得した。
彼女は栄養士コースでは無かったので 凸凹施設へ就職、保母の資格も取り、 そこで看護士の資格も居るナと 今度は看護士の勉強をして資格を取る。
今はご主人が経営する施設を共に運営しているトカ ふ〜ん何て努力家なんだろう。
今回の東日本大震災にボランティアとして 20人程で16時間かけてバス、東北へ行って来たとか メンバーの衛生管理、体調管理として加わったのだが 作業は同じようにして来たのね
田畑の泥土を取り除く作業だった 泥土をスコップでとり、それを車に乗せては 積み場所へ運ぶんだ。とっても重いものでしょう。
最後に息子が一人 「高機能自閉症です〜」って宣言した。 自閉症って今はとっても多くいて、 対応を適切にしないとその子をダメにしていまう。 よく理解してその様に対処する必要ありって。
・・・・・・・・ 皆で自閉症・ダウン症についての話もした。 考えさせられる事ばかりだわ
元々は伊賀上野の出身 その為か関西弁がきつかった。 そして彫の深い少々日本人離れした感じの顔だった。
せっちゃん、とっちゃん、あららは 共に1年間同じ学生寮に住んでいた仲間。 この学生寮の生活も泣き笑いがいろいろあって・・・・
この時代、急に人数が増え (私達団塊の世代の宿命だね) 寮の定員は1部屋4人だったのが 6人入る事になった。 上級生とセットでね2年生2人、1年生4人。
それは兎も角としてこのとっちゃん 現在は亀山に住んでいるって、、エ〜そんな近くに 二人で思わず声をあげてしまったワ それに関西弁は随分と丸くなっている。 道で会っても分らなかっただろうネ。
熊谷組に勤務の8歳年上の彼とは 初めてのお見合いで決めたと・・・ 写真では「何このおじさん」 彼は彼で「何〜この顔余り感じ良くないな〜」と思いながら 決まってしまったって、、縁は異なもの味な物。
結婚して生活が少々落ちついた頃、 「看護学校で栄養学の講師を・・」と話が舞い込み 教えるガラではないと思ったけど 自分も勉強になると教え続けた。
その内、某介護施設で栄養士が居ない 助けて〜との声があり、 看護学校の仕事があるので無理だと断り続けるも 「とにかく現状を見に来て」との頼みに 施設を見に行くと 「放っておけない、絶対に栄養士がいる」と 週の半分をそちらに時間を割いた。
しかし、そんな二束のわらじは何時までも履き続けられなく 介護施設の栄養士に絞り60歳の定年まで来たとの事。
彼女もしっかり働き、しっかり勉強して来た仲間だ。
小柄の節っちゃんはアルトパートリーダーだった。 「一回のお見合いで今の人と結婚を決めた」と 言うと、「私も見合い」「私も最初の見合いで決めた」と 8人の内5人がお見合い結婚だった。
それが当たり前で少しも疑問を抱かなかった 又見合い話を持ち込む人、世話焼きの人が多かった。 そんな娘時代だったのだ。
節っちゃんの相手は旧国鉄の人 当然転勤はある、住宅も変わる 栄養士をしていたが子供が出来き、 又夫の希望もありで 仕事を止めて完全に家庭に入ったと。
子供が高校生になった時 「仕事に出たい」と主張して 近くの缶詰工場へ行って15年余り続いている。 自転車で通っているので 足腰が丈夫でとても健康との事。
口の悪い人が 「その自転車では足が足らんやろ〜」っていうので 「大丈夫、サドルをちゃんと下げてあるさかい」って 言い返せるんダヨ・・・前ならグスンって泣いていたのに そう〜そう〜たくましくなったのダ
最近の東日本震災に関連して 缶詰工場が忙しい、 「パンカンってしっている?」 パンの一次発酵すみの材料が入って居て そのまま加熱すると缶の中でパンが出来上がる品物 へ〜〜社会の先端を行っているじゃないの
先に話したワキちゃんと この鯉ちゃんが年賀状で相談して 「集まろう」って言いだしっぺになった。
卒業後ズーと工場の栄養士をして来た。 夫となった人 ある自動車販売会社に勤めていたが その社長が借金をして逃げてしまった。 つまり倒産!!
この社員達が比較的優秀かつ信用があったとか T自動車が丸ごと社員を引き受けてくれて 年金・保険もすべて継続としてくれたとの事。
ただし、倒産した会社の借金を 社員達が分散して支払って来たとの事。 毎月??万円ずつだ。 エー???信じられない様な社会だ。 そんな仕組みになっているの?
ご苦労だったね、 そんな社会の荒波にもまれた話を淡々とする彼女、 少しもやつれていないヨ なんだか自信に充ち溢れている様だ。
2011年08月14日(日) |
お寺の大黒さん、中ちゃん |
あららの結婚式に出席してもらった 合唱団の中唯一の人。 そして彼女の2回目の結婚式にあららは出席。
2代続きのお寺養子縁組の結婚だ。 それだけに1回目の結婚の破たんは 誰にも言えず、仲人さんにも理由が言えずに (友人の話では)元々痩せていた身体が ガリガリに、精神的にもノイローゼ気味だったとか
病院の栄養士を続けていてかえって良かったのかナ その縁組を何とかすっきりと清算してもらい 立ち直るのに4年かかったが
僧侶の今の彼と縁組が整った時、 あららは幼い娘二人を母の留守番に任せて 結婚式には出席した。本当に我が事の様に嬉しかったのを 今も鮮明に思い出す。
その後3人の男子に恵まれ、 其々の子供達はそれはそれは年配の人に 優しい子に育っているとの事。
その間、祖母・御両親が寝込み順番に見送ったのだが 子供達が成長する20年間 いつも誰かが家に病人として寝ていたとの事、
近所の人達に助けられ、 家族が出来ることは其々が分担し 乗り越えて来たとの事、
この7月に肺炎にかかり、2週間寝込んだそうだ。 今回のこの集まりも危なかったが何としてでも来たかったと、・・・
その2週間彼女の休息タイムだったのだね。 よくやって来たよ中ちゃん、 これから少しは自分の楽しみの時間を持ってね
言いだしっぺはやはり合唱団の指揮者ワキちゃん 信州飯田の出身だ。 今は塩尻に住んでいる
彼女はあららが東京住まいの時 社宅へ訪ねて来てくれた。 両親、親戚は遠かったから嬉しかったね
信州・松本へ旅行した際には こちらの家族全員で会っている。
彼女の独身時代ある事で 松阪の我が家へ2〜3日泊まりに来たこともあった。 (その事件は忘れて・・・・と) それ以降「あららには恩がある」と言い続けてきたフフフ。
中学校の教師になったが 本当は家政科出身なのになぜか 「音楽科をやれ」って言われたらしい。 それで武蔵野音大の講習を受けに行き 苦労したとの事、
先生どおしの結婚となり、退職。 3女の親となっている。 今回長女の「車ーノア」を運転して 霧ケ峰高原とガラスの里へ案内してくれた。
この車ー朝ご主人(K氏)がホテルまで届けてくれて 帰りは電車で帰ったんだと、 はずかしいからと、皆には顔をみせずにネ・・・ ありがとうございました。
学生時代のM女性合唱団?期生の集まりを 「Pの会」と仮の名前を付けて 集まろうじゃないの!!って呼びかけてくれた。 信州は諏訪湖のほとりのYホテル
塩尻駅に集合、そこからマイクロバスで移動 と連絡だ。塩尻駅改札口に8名が集まった 3人ほどは結婚式に出席したり 家族旅行に連絡して出会ったりしているが 43年ぶりの人が多い でもほとんどが2〜3分で誰とわかる (さすが〜ね)
年賀状だけのお付き合いの人 回って回ってメンバーの住所を探し当てた人もあり、 毎年「集まろう」と言いながら伸び伸びになっていた風もあり、 又家を空けられない時期が続いた事もあり、 やっと再会の時期が来たって事かな?
入浴も食事もなんのその延々と話は尽きない。 其々の人生、 仕事をしながら、 あるいは家庭に入ってのち仕事に復帰、 私たち団塊の世代 女性達も日本の成長期を支え、 社会の一員として生きて来た様子を話し合う 誰も充実していたのだネ〜 つくづくこの仲間を誇りに思えてきた。
少しづつ一人ひとりの事を書こうかな・・・
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