タマの禁煙日記
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2001年11月30日(金) ゆっくりとした自殺

ゆっくりとした自殺
先日ちとこのフレーズを書いたのでその事について、一考察。
自殺は文字通り自らでもって身体を死の状態に持っていくことである。
いろいろな自殺方法があり、ネットでも最近話題になった自殺幇助のホームページもあるようだ。しかし、たばこは、本人が意識的にそうしているのだが、それに気づかずに続けている自殺行為である。まさか、自殺しようと思ってたばこ吸ってる人はいない。
実際は自殺行為であるのに、自殺だと思わせないテクニックがたばこにはあるのである。まず、死まではかなりの時間を要する。これがもっとも最大の罠である。
次に、必ずしもたばこが原因で死に至るとは言えない。これもたばこの罠である。
因果関係がどうこういっている間に人々はたばこに害されて、JTは利益にありつけるのである。JT職員の家族の生活の為にも、たばこ吸って突然死なれたらこまるのである。生かさず、殺さずの薬物、最終的には死に至るであろう薬物、これがたばこである。
喫煙者は、ゆっくりと、確実に、終焉に向けて今日も煙りをはき出すのである。


2001年11月29日(木) 心からたばこを追い出す

以前にも書きましたが、たばこはリラックスさせてもくれなければ、安心感を与えてもくれません。価値などないのです。頭の中ではこのことはすぐ理解できます。
しかし、心が理解するのはむつかしい。潜在意識というものは、否定的な事は理解できないようなので「だめ」とか「止める」は、なかなか受け入れてくれらいそうです。
では、どうするか、ここが問題。
もう。イメージですれど、たばこ吸ってなかった頃を思いだしてみましょう。
吸ってなかった時、吸ってる人の事どうおもっていたか。
吸ってなかった時、身体と心は、どうだったか。
よいイメージがいっぱい出てくるのではないですか。


2001年11月28日(水) おとな?こども?

皆何かに依存して生きている。という考え方。たばこという薬物に依存していた言い換えれば、たばこに頼っていた、たばこに助けてもらっていた、と思いこんでいる自分が、たばこから卒業するというか、たばこの庇護から離れて自立するとでも言ったらよいかな。もう、子供じゃないや。てな感じかな。いつまでも煙り吸い込んでガキやってんじゃないよ。てな感じかな。
もう、おとな。皆大人。自立しましょう。たばこから。


2001年11月27日(火) そもそもたばこって何?

さてさて、たばこって一体何の為にあったのだろう。
人が止めれなくなるほど依存性があるものって、人間に必要だったのだろうか。
心を静めるなんてまるっきり嘘で、これだけ脈拍の乱高下するものなんて、普通摂取するものには見あたらない。こんなものが堂々と売られている不思議が理解できない。
たばこの存在理由。それは、危ない覚醒剤の前段階として、注意を促すものだったのかもしれない。人が自分の意志でコントロールできなくなる薬物の危険を身近に感じるためだけに存在しているのかもしれない。
実際たばこでさえ、こんだけ止めるのに苦労するのに、覚醒剤なんてとんでもないって思う。ただ、単にたばこを吸うことのみに心を奪われる人生なんて、生まれてきた価値を否定しているような気がする。覚醒剤だったら、もっとそう思うだろう。思っても止められないのが薬物である。しかし、ニコチンという薬物はホントに都合よくできてるなぁと感心する。薬物依存をおこし常習性あるが、悲惨な禁断症状や犯罪にまではならないという政府にとってこれほど都合のいい薬物があるだろうか。しっかり税収入を確保できて、値上げしても、それほど売上が減らない、それほど身体に悪影響を与えずに(実際は、とんでもない悪影響がある。ゆっくりとした自殺とも言われる)しっかりと心をとりこにして、買い続けなければならなくなる恐ろしい薬物がたばこである。
国を挙げて、この薬物の販売を行ってきたのだから、今さら止めれないのだろうな。
と考えると今まで、JTに踊らされて、洗脳され続けてきた一般人は、もうそろそろ目を覚まして、心と体をたばこから解放しなければならない時期にきた。それが文明人として、後生に残す大事な事の一つである。
悪を未来に持ち越してはならない。そのためには、まず、自分がたばこの束縛から脱出し、自由な心を手に入れるのが始まりである。


2001年11月26日(月) かっこいい

先日義理の母の話
うちに来る業者さんの中で若い子がたばこ昨日から止めてるんです。
業者「僕、昨日からたばこ止めてるんです。」
義母「へー。娘の旦那も止めれたみたい。今まで、周りの人にどれだけ迷惑掛けて   たかよくわかった。と言ってたよ。」
業者「へーーー、かっこいいですね。僕もそんな事が言えるようになりたい。」

この話を聞いた時は、別にどうも思わなかったのだが、夜、ふと考えてみると
かっこいいってなんだろう。と思ってしまった。
たばこを吸う事がかっこいい、大人のあかし、ちょっと不良っぽい。
と思っていた部分があったのだが、昨日の会話を聞いて、たばこを止めた人はかっこいい。止めて、今まで他人に迷惑掛けてたと心から反省できるのは、もっとかっこいい。
ということが、わかった。すると不思議、たばこって不必要なものだとわかった。
まあ、これがいつまで続くかわからないけど、かっこいいを払拭できた出来事でした。


2001年11月25日(日) 復煙の理由

普通、禁煙して、しばらくたつとたばこが欲しくなります。
その時の自己弁護は誠にすばらしい、たばこは、人間をここまで姑息にしてしまうのかと思うくらいです。そのいくつかを紹介。
 今はストレスが多すぎた、ストレスのない時にしよう。→ストレスのない時って、いつ?
 コツはつかんだから、年が明けてから禁煙しよう→来年も同じ事いうのかな?
 誰それが先に吸ったから→じゃ、誰それが死ねば、あなたも死ぬの?
 家族(同僚)に吸ってくれと言われたから→そう言わせるように振る舞ったのはあなた                     では?
 止めようと思えば脂汗流してでも止めるよ。俺ってそういう人間。→じゃ、今止めてみ                                て。
まあ、あの手、この手で言い訳つくるものでんなぁ。


2001年11月24日(土) 小話 その一

小話 その一
今日は、ちと趣向を変えまして現役喫煙者とたばこ止めた人の掛け合いをひとつ。

現役喫煙者  「どうやってたばこ止めたの?」
たばこ止めた人「どうやってというよりも、なぜ、たばこ吸ってるの?」
現役喫煙者  「おいしいからだよ。」
たばこ止めた人「初めて吸った時、おしいしかった?」
現役喫煙者  「いや、とてもまずかった。」
たばこ止めた人「でも今は、おいしいと思ってるんだね。最初まずいのに練習しておいし        くなるたばこって、もともとの味なんて、まずいものなんでしょ。まず        い味がわからなくなってるの?」
現役喫煙者  「今は、うまいまずいよりもただ単に止められないだけかもね。」
たばこ止めた人「止められないと思いこんでるだけじゃないの?」
現役喫煙者  「簡単に止められたら世話ないよ。自分にはたばこが必要なんだと思う。」
たばこ止めた人「この世にたばこが必要なんて人はいません。そう思いこんでいるだけだ        よ。」
現役喫煙者  「できる事なら止めたいけどね。」
たばこ止めた人「本当に止めるつもりなら、協力するよ。」
現役喫煙者  「まあ、その時になったらね。」

おそまつ


2001年11月23日(金) 禁煙の方法

昨日の続きみたいですが、禁煙の各種方法って、すごい数のようだけど、何通りかにわけられるとおもいます。
大きくわけて 禁煙補助剤使用と補助剤未使用
禁煙補助剤使用
 この定義はすごく広いと思うのです。
 ニコチネル(パッチ)
 ニコレット(ガム)
 が主流ですが、ニコチンは入ってないがザイバン等もこの部類にはいるのかなぁ。
 その言い出すと、ネオシーダ(たばこ同じ使用感の喉の薬)や、ひいてはフリスクやガ ムまでなってしまいそう。
補助剤未使用
 ひたすら我慢、意志の強さが頼り
 意識改革してたばこは不要と知る
 病気等でたばこを吸いたくなくなる

この分類ってやはり変だなぁ。
たばこを止める為に(安心できるように)いつも持ち歩いてる人って、いるのですが、この人ってどの部類にはいるのだろうか。

結局、人の数ほど禁煙方法があってもいいのかも。まとまりなくてすいません。


2001年11月22日(木) 禁煙補助剤

ニコレットやニコダームに対してかなり違和感というか、嫌悪感をもってる人は多いと思います。そういうものなしで止めた人と、現在喫煙者の方々です。
自分がなしで止めたからといって、どうして人をさげすむのか理解できない。
方法はどうであれ、止めるという大目標を達成するのが大事なのだから、なんでもありだと思うのです。あの方法は邪道だとか言う人がいますが正邪をあなたに判断してもらう必要ないって言いたい。最初の強烈な離脱症状が恐ろしくて禁煙に踏み切れない人がいると思うと、禁煙を始める為だけに禁煙補助剤があってもよいはずです。
しかし、この薬は、ご存じのようにあの憎むべきニコチンが入っています。
止めれなくなった人もあるようです。
最終的にものを言うのは、本人の意思、決意なのでこの薬はあくまで補助なのですよね。
禁煙を絶対に成功させる為のひとつのアイテムと考えたほうがいいでしょう。
この薬使ったからといって、たばこ止めれるわけではありません。
私も、ニコチンパッチで禁煙始めましたが、悲壮な気持ちで始めたのではなく、これってどんなんだろう。というワクワクした気持ちではじめたのがよかったみたいです。


2001年11月20日(火) なぜ、禁煙日記に

まだまだ6ケ月そこそこの禁煙初心者がなぜこの日誌を書き始めたかというと、一番は、やはり自分の為です。6ケ月たつと禁煙に対して新鮮味がなくなってきます。まだまだ、渇望感はあるのに、周りは、たばこ止めれた人として認識しつつあります。
そうなると誰も禁煙の事は言わなくなります。つまらないのです。これが何年も経てば状況の中で生活できるのだろうけど、まだまだ禁煙ひよっこです。禁煙を意識するためにも何かをしようと思いたったのです。インターネットでは沢山の方達が禁煙について意見を述べられてます。皆さんすばらしい意見ですし、また禁煙の掲示板では皆が励まし合いながら頑張っているのを見ると大変心強く思えてきます。
その中の一つとしてのこの日記です。特別変わった内容ではありませんし、高慢な内容もありましょうがどうか一つお見知り置き下さい。


2001年11月19日(月) 卒煙はいつ

禁煙という言葉自体不自然だという意見もあるようですが、どうもこの言葉のほうが一般的なのでしかたないと思うのです。断煙とか、終煙とか、卒煙とかなかには止煙など使う人もあるようです。そういえば、昔、禁煙した時、壁に止煙て貼ったような記憶が・・・
止煙て紫煙のもじりみたいで、やっですけどね。では禁煙の終わりはいつか。
あえて言うなら卒煙というのはかえって意識する必要はないのではないでしょうか。
禁煙を決意した時点で卒煙、これが一番楽、そうならない場合は時間の経過に伴い忘れてていく。といくのがいいですけね。私の場合、この6ケ月の間、たばこを忘れていた時はほとんどありません。常に意識してました。このままでいいんだろうかと帰って怖かったです。意識しすぎて、プレッシャーで吸ってしまうのではないかと不安がありました。
でも考えようによっては、意識しているおかげで油断することもなくここまで来れたのだと、かって解釈してます。


2001年11月18日(日) 必ず止めれます

必ず止めれます。なぜなら、私のような意志薄弱で根性のない人間が止めてるのですから、止めれないわけがない。「意志が強いなぁ」といわれる事はありますが、「止めるのは意志ではないよ」と言ってます。人間の意志なんてたかがしれてます。時間とともに風化していきます。それよりも禁煙の決意と行動は、自分の歴史の中に燦然と輝きます。
生涯輝き続けます。禁断症状も渇望感も、後になっては、なんだったのだろうと思える日はそう遠くなくやってきます。そうすれば、ノンスモーカーとしての人生を謳歌できるのです。煙りで誰にも迷惑かけない人生ってかっこいいと思いませんか。


2001年11月17日(土) 成功するまでは練習

こんな事、今書く必要はないのですが、禁煙失敗は日常茶飯事、はいて捨てるほどあります。何年止めていようとも、吸ってしまったらそれは、失敗です。何年止めたは、全く自慢になりません。それよりも、今、禁煙努力してる人のほうが立派です。
失敗しても、成功するまでは練習なんだと割り切りましょう。
かといって、今回失敗してもいいという意味ではありませんよ。
実際、吸ってた人間にしかわからない、あのカァ〜〜と来る衝動は、手強いのですよね。
周りの人もその事を理解して頂けると大変ありがたいとおもうのですが。
禁煙したと聞くと必ずいる「1本どう?」という人。お茶目なのか可哀想なのか、喫煙仲間が減るのが悲しいのか。


2001年11月16日(金) 止める為の理由

先日の続きです。
では止める為にはどういう心構えで臨めばよいか。
まさに、エベレストに登るような悲痛な決意が必要なのか、いえいえ、そんなもの必要ありません。止める気になりさえすればいいのです。
ただ、動機が弱いとついつい挫折しそうになります。
ちなみに家族の健康の為という理由は、動機としては強くも弱くもなります。
家族が健康な事によって、自分も喜べる心の状態を思う浮かべられるなら強い動機となりますが、家族の健康は自分として望むのは当たり前的発想では長続きしないでしょう。
なぜなら、健康な状態に心は慣れてしまっているため有りがたさが実感できないためです。
ですから、病気になった途端、それも重篤な場合は、瞬時に禁煙の動機付けから終煙となるのです。この場合は、禁断症状はありません。しかし、病気との闘いが始まります。
私たちは、まだそこまで言っていません。たぶん。ですから今か、もしくは、今に一番近い時に止めるべきです。
誰の為でもありません。あなた自身の為に、たばこによって奪われていたあなたの自由と自尊心を取り戻す為に決意しましょう。人間は絶対に薬物の奴隷になってはいけません。健康とか、お金とかは、後から付いてくるものです、まず、自分を解放しましょう。
そのためには、何年たっても揺るがない普遍的な動機付けが必要になります。


2001年11月14日(水) 意志ではなく決意

たばこを止めるには強い意志が必要かというとこれはイエスというほかないでしょう。
意志なくして、行動はできませんから。
しかし、意志の強さのみで禁煙は続きません。禁煙を続けるのと始めるのは同意語かもしれませんが、強い決意のみによって達成されます。
決意があるところには、迷いも不安もましてや禁断症状などあり得ません。
と書くとなんか、潜在能力セミナーみたいすですけど、実際そうなのです。
私なども、まだまだ決意が足りないと反省しきりですが、ホントに決意した場合はその瞬間からノンスモーカーになります。
しかし、我々凡人は決意の仕方がわからなくて、ついつい意志の強さで禁煙せざるを得ないのが現状です。
ですから意志に頼りながらも、意識改革と努力によって禁煙を勝ち取る方法が一番てっとり早く、一般的だと思います。あきらめずに、気負いすぎずに行きましょう。


2001年11月13日(火) 真実の見える瞬間

前日の「禁煙セラピー」の続きです。
この本の中で著者アレン・カーは、たばこを止めて3週間以内に真実の見える瞬間が訪れると書いてあります。それは、一瞬でおとずれ、たばこの洗脳が解ける時だそうです。
私の場合、最初この瞬間は小さい波でときどきありました。
不思議と、たばこを吸わなくてもいいんだとい漠然とした感覚でしたが、
ニコチンパッチがはずれて10日ほどたった頃、あるインターネットの記事を読んでいたとき、とんでもない真実の瞬間が訪れました。後でこの記事を何度読み直してもこの瞬間は来なかったのでその時の感情なり意識なりで違うのでしょう。
真実の見える瞬間とは、これは気持ちのいいものです。一種の恍惚感です。
たばこに関してだけなのですが、吸わなくてもよくなったという絶対的安心感、頭の中のチャンネルが完全に非喫煙者として切り替わったと実感できます。
麻薬をやった事はありませんが、こんな感じなのかなぁと思うほどの多幸感です。
ランナーズハイと似ている部分もあるかもしれません。
しかし、私はこの感覚が不思議でならなかったので、禁煙ハイとの違い等いろいろ検証しているうちにこのすばらしい感覚は無くなりました。やく1日つづきました。
でも、今考えると、ずっとこの感覚だつたら頭おかしくなってしまうかもしれません。
妙の心の中がハイになりますので、こわいですね。
で今とはというと、まだ、ときどき渇望感はあります。吸おうとはおもいませんが。


2001年11月12日(月) 禁煙セラピー

「禁煙セラピー」この本ほど、禁煙者のバイブルとして定着している本はないでしょう。
かくいう私もこの本にはお世話になりました。といっても、この本を読んで止めれたわけではないので効果の程はわかりません。洗脳本という人もいれば、意識改革の為の本だという人もいます。現にこの本だけで禁煙に成功した人もいるようです。
とどのつまりは、本人のたばこに対する価値観が変わらなければ止められないのでしょう。この本をよんで、瞬間的に価値観が変わった人は幸せでしょう。そうなったら、たばこなんて必要ないものになってしまうのですから、禁断症状なんてものはありません。
禁断症状は、たばこを吸える状況の時、その欲望が達せられない場合にのみ現れます。
たばこ要らない人は、この症状とは無縁です。


2001年11月11日(日) 意識改革

たばこを止める上で一番大事な事は、たばこに対して意識改革をすることです。
たばこを吸うと落ち着くとか、リラックスできるとか、ストレス解消になるとか思いこんでいる人は、まず、これが勘違いであることを認識しなければなりません。
たばこを吸ったところで、何も解決しないし、これだけ脈が乱高下するものがリラックスさせてくれるわけは、ないのです。この作用は、間違いなくニコチンという薬物による薬理作用にほかならないのです。薬物で心をごまかすのは正しいこととはいえません。
止めることができないのは、すでにこの薬物のとりこになっているのです。
病気を引き起こし、周りに迷惑を掛け、部屋を汚し、お金のかかるたばこ、こんなもの身体に取り込んでいるのは、世の中で人間だけです。どんな動物も煙りは吸い込みません。明らかに毒だという事がわかっているからです。煙りは、身体からも心からも追い出しましょう。


2001年11月10日(土) ニコチン離脱症状

ニコチンが身体から出ていく時、ほとんどの人に離脱症状があらわれます。
これは、ただたばこが吸いたいという感覚になるだけで、どっかが痛くなったりするわけではありません。しかし、これがやっかい。人によっては、ヘロイン並の症状の場合もあるそうです。しかし、考えてみてください。ニコチンが身体から抜けてしまうのに3週間あればいいのです。しかし、何ヶ月たつても今だに吸いたいと思うのは、離脱症状でなくて、行動記憶によるものです。特定の場所、時間、環境になった時たばこを吸っていたという記憶はなくならないので、いつまでもこの感覚にまどわされます。約3ケ月たつとこの記憶も薄れてくるようですが、完全にはなくなりません。
つまり、たばこに対して郷愁とか未練があればあるほど、この行動記憶は消えてくれないのです。おいしいものを取り上げられた。という感覚をもっているかぎりたばこの呪縛からは逃れられません。
実は、昨日、デパートにてふと考えてしまいました。「そういえば、今朝から何時間たばこ吸ってないのだろう」???何を思っているやら、止めて6ヶ月もたってるのにね。行動記憶とはおそろしいものです。
渇望感はあっても、たばこを吸おうとは思いませんので、ご安心下さい。


2001年11月09日(金) たばこを吸う理由

昨日書いたようにたばこを吸うのは「ただ単にやめられない」ということですが、
なぜ、止められないのか。
たばこを吸うとわずか7秒でニコチンは、肺から脳に達します。
そして、快楽を与えるのです。これこそ薬物依存ですね。
ニコチンは煙りと一緒に身体に入ります。一日20回多い人では100回これを繰り返します。すると、ニコチンというよりも喫煙行為そのものが快楽を与えてくれると勘違いしてしまいます。パブロフの犬状態ですね。また、7秒ほどで脳に到達するこのスピードにも騙されてしまいます。
たばこを吸うと言うことは、ニコチン切れを補っている行為なので、ニコチンを絶たないかぎり永遠に続きます。禁煙はニコチンを絶つという意志を持たなければ、始まりません。


2001年11月08日(木) たばこを吸う意義


たばこは、何の為に吸っているか。
人それぞれいろんな言い訳はあるでしょうが、とどのつまりは、「止められない」の一言につきると思います。「止められない」と思いこんでいる。といったほうが正確かもしれません。ニコチンという薬物に脳が冒されているのですから、自分の意志ではなかなか太刀打ちできないのもあたりまえです。吸う意義などありません。病気なのです。
ニコチンから自分を解放するのが恐ろしくて出来ないという病気です。いってみれば喫煙病とでもいいましょうか。ですから、たばこを止めるという事は、治療をすることになると思います。皆さんが早く病気に気づいて治療を始められることを願ってやみません。


2001年11月07日(水) 代用品

たばこを止める時、代用品を使うのはさけられないと思う。
思いつく代用品としては
水(とびきり冷えたやつ)
お茶(火傷しそうな程熱いやつ)
飴(ノンシュガーに限る)
ガム(同上)
氷(とびきり冷えた氷ってない?)
スルメイカ
フリスク
パイポ
ストロー
つまようじ
歯ブラシ

まあ、数え上げればきりがないです。
肝心なのは、いつこの代用品を止めるかとい事。
ちなみに、私は最初フリスクかじって喉が痛くなり、次に飴舐めて舌が痛くなり、その後2ケ月飴止めたけどもう大丈夫とおもって同じ飴舐めたら、すぐ一袋いってしまい、即座に止めました。代用品として、お菓子を使うとお菓子本来のおいしさはなくなるようです。
お菓子に対しても失礼ですね。


2001年11月06日(火) 暗示

たばこを止める為(?)の暗示ってかなりいろいろ、人それぞれという感じがする。
苦しくなったら、皆さんいろいろと自分に言い聞かせているようです。
たとえば、
 たばこを吸ったら気持ち悪くなる
 たばこは、必要ない
 たばこは嫌い
 たばこ、がまん、がまん
 
ほとんどが、たばこと否定的な言葉をひっつけてできている。
逆の発想ではどうか。
 ノンスモーカーになる。
 たばこを吸わないと呼吸が楽だ
 たばこが必要ない毎日はすばらしい
 たばこから自由になった
 たばこから解放された

けっこうポジティブじゃないでしょうか。
肯定的な言葉は潜在意識も理解しやすいようですよ。


2001年11月05日(月)

たばこを吸う夢って、喫煙中は全く見た記憶がない。
たばこを止めてから頻繁に見るようになった。
禁煙して1ケ月頃から見るようになったと思う。
この夢が、かなりリアル。
本当に吸ってしまったと思うから困ったものだ。
何故、見るのだろうか。
夢というのは、現実で整理できなかったものを整理しているという。
つまり、夢を見ることによって、たばこを吸わなかった事を整理して
いるという事、言い換えれば現実のかわりに吸っている。
これって、良いことなのかどうかわからないなぁ。
ちなみに、妊娠してつわりがひどいとか、重い病気になったとかで、吸いたくなくなった場合、また、チャンネルが切り替わるように、たばこを必要としなくなった場合は、全く夢にはたばこは出てこないらしい。
ということは、夢で見るたばこは、まだまだ、心の中では容認されている存在なのだろう。


2001年11月04日(日) 禁煙してみよう

2001年4月末、風邪の後、咳が止まらなくなって医者に行った。
レントゲンを撮ったが異常なし。医者に「たばこをやめろ。」と言われ、ニコチンパッチを処方してもらった。医者に言われるのを待ってたのかもしれない。
これまで自分にとってたばこは必要なもの、一生吸い続けるだろうと思っていた。
なぜなら、禁煙による「いらいら」「眠気」「喪失感」「一日中たばこが吸いたいと思う」等、とうてい自分には我慢できないと思いこんでいた。結局、悪いと思っていながら、いや、知っていながら止める勇気がなかった。
 「一日何箱吸う?」と聞かれても「2箱くらいかな」と自分をごまかす言い方。
正確な数を知りたくなかった。今なら言える。「3箱いってたよ」。
止める前日、数えてみた。3箱に2本足りなかった。その2本を吸いパッチを張って禁煙に突入。「さんざん吸ったし、もういいや。」という感じで始まったのが平成13年5月2日午前0時。
 しかし、考えてみると、自分にとって本当にたばこは必要な物だったのか。
たばこなしでは生きていけないのか。生きていけないとしたら、他の非喫煙者はどうして平気なのか。自分は、ただ単にニコチンの中毒になってしまって、もう抜け出せないのか。アレン・カー著「禁煙セラピー」を再度読み返してみた。
18年前に禁煙した時は、18日間。祖父が病気で吸えなくなったので、これを機会にと思ったわけだか、動機が不純であった。自分より祖父のほうが長く吸っていたから大変だろう。自分のほうがまだ、楽だ。という多少優越感で止めたがあえなくダウン。
吸った理由も、「祖父が吸ったから」という責任転嫁。それ以来、禁煙していないと思ったがよくよく考えると何回か行っていた。自分で禁煙したのは一回。記憶に定かではないが2〜3日だったろうと思う。あとは、必要に迫られて。入院と研修。
入院時の禁煙は最初の1日で終わったが研修は3日間、とてもつらくて、一日中寝ていた。しかし、不思議な事に吸いたくてどうしようもないのに、どうしても吸えない状況下ではある時点でチャンネルが変わるように吸うのをあきらめてしまう。すると全く苦痛もなく止めている自分がそこにいるのである。そのまま止めればよかったのに、この時は禁煙しようと思ったわけではないので、吸える状況になると「吸ってみようかな」てな感じでまたヘビースモーカーに戻ってしった。このチャンネルが切り替わる感覚は今までに2回経験している。いずれもたばこを吸いたくてたまらない時だった。
私はパッチのおかげで今まで来れたと思う。「止めた翌朝、吸わずにいれたら頑張ろう。」と思っていたが難なくクリアしてしまった。その翌日が一番つらかった禁煙2日目である。仕事でどうにもイライラして「もう。吸うぞ。」と会社に帰って来ると皆がプカプカ吸っていた。それを見てなぜか無性に腹がたって吸う気持ちがどっか行ってしまった。以来続いている。

禁煙に至った理由
 医者に勧められた
 たばこに縛られるのがいやになった
 自分と家族の健康のため
 経済的にしんどい

いつ吸っていたか
 朝起き
 食事前
 食後
 仕事のストレス
 仕事の一区切り
 退屈時
 運転時
 入浴前
 入浴後
 テレビ観戦時
 常に一本では終わらない

禁煙をしてよかった事
 たばこに縛られない
 時間ができる
 咳が止まった
 呼吸が楽
 お金が減らない
 優越感

てな感じで禁煙日記始まりました。


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