子供達にサッカーを教えながらいろいろ考えてました。
「どうして日本のサッカーは、今、あんななのか?」 日本=日本代表な訳ですけど。
今日は子供達にゲーム形式の練習をシコタマやらせました。 俺は常々子供達に「サッカーはボールをゴールに入れるスポーツ」と教えています。 技術は個人差がありますが、やることは同じです。 オトナだろうがコドモだろうが、サッカーってそういうモンです。
そのプロセス(=点を取るまでの過程)が、ジーコの考えでは「ポゼッション+個人の閃き」で得られるという事になっています。 ポゼッションって言うのは簡単に言うと「自分たち(=味方)でボールをキープして有利なところにボールを置くこと」ですが、そんなことはサッカーやってる、それこそ幼稚園児でも考えます、というか教えなくてやります。
そりゃそうです。 相手のゴール前にボールがあった方が点は取りやすいですし、相手に点を取られにくいですから。
個人の閃きは、他の人が感じることが出来なければ、タダの独り善がり、自分勝手なプレイになります。
個による難局の打開、ということもありますが(例えば凄いドリブル突破や直接FKとか)そんなものは90分のゲームでは、ほんの1,2分といったところじゃないかな?と。
個人の閃きをチームとしてシンクロさせるにはどうするのか? コミュニケーションしかないわけです。 コミュニケーションを深めるためには、時間と深度が関係してくるわけですが、俺のチームの子供達の様に、学校が一緒とかだと一緒に居る時間が長いので、そう苦労はしないです。 しかし、寄せ集め状態の日本代表では、そうはいかないんじゃないの?と思うわけです。
共通体験が少ない以上は、共通認識を持つ=ある程度のパターン化というものはやはり必要なのだろうと。
トルシエのやった「フラット3」は、共通認識の上に個人の閃きを乗せた、一つの正解だったと思う。 ただし、ベースの部分が否定(=相手がシステム自体を無効化させる戦術を採る)された場合、かなりやばい。 個人の閃きは、フィールドプレイヤー10人が各々発揮すれば、その数は無限に近いでしょうね。
堂々巡りになりそうですが、個人の閃きを十二分に発揮するためには、最低限の約束事が必要だ、ということが言いたいのか、俺は。
ジーコ自身が選手だった、82年スペインW杯。 イタリアに負けるまでのブラジルは、自由奔放「の様に見えた」黄金の四人(ジーコ・ソクラテス・ファルカン・トニーニョ=セレーゾ)が縦横無尽に動き回った「様に見せて」素晴らしい攻撃をしていた。
実際には約束事があって 1.ファルカンとトニーニョ=セレーゾは絶対に一緒に上がらない 2.ジーコの左サイドにはSBが上がるためのスペースを空けておく 3.FWはソクラテスの邪魔にならないようにスペースを空ける 4.CBは絶対に上がらない ということだったらしい。
今の日本の「黄金の四人」(中田英寿・中村俊輔・小野伸二・稲本潤一)は、本当に縦横無尽に走り回り、カウンターの餌食になることが全くないわけではないし、SBの上がった裏に簡単にボールを出されてピンチになったりしている。
もの凄い才能・経験のあった、ジーコ率いる「黄金の四人」ですら、守備に約束事があったにも関わらず、試合にあまり出ていないのが二人も入った、日本の「黄金の四人」で、果たして一次予選後の日本は大丈夫なのか?
いつも言っているけども、中村と稲本は外して、藤田と遠藤を入れると凄く良くなると思う。
興味の無い人には全く理解不能でしょうが、東京ヴェルディ1969の森本には注目しておいて損はないですよ、と最後に情報を。
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