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2001年06月01日(金) 他人(ひと)はわたしの鏡。わたしは他人の鏡。

 仕事場は、るつぼみたいな場所だと、ふと思う。
 明日の電車賃さえままならないような売れない俳優から、「いったいどれくらい稼いでるの?」と、我々には想像できないほどのギャラを1ステージで得てしまう大スターまで、同じ場所で暮らしていく。同じ平面に立って仕事をする。時には、稼ぎの多少に関わらず、役が逆転してしまうことだってある。
 今は聾唖の女優だっているし、なぜここまでお嬢さんで生きてこられたのかと疑ってしまうアイドルもいる。
 家庭を持っている人。家庭が壊れかけている人。家庭を持ちたいと思う人。
 そうなるべく演劇に関わっている才能ある人から、やめちゃった方が幸せだろうにと誰もが思ってしまう、才能のない人。そして、努力する人。努力しない人。年齢に関わらず、大人な人、子供な人。
 そりゃあ様々な人が一緒にひとつのことを目指していて、もちろん、人が集まる限りどんな場所でも同じなのだろうが、演劇という総合芸術の形態は、普通の社会より鮮明に、それらの図式を暴いてしまう。
 人間を描き、虚構としての世界を描く場所だから。
 シェイクスピアが言うように、まさに演劇は人生の鏡であるから。
 
 自分の揺れる現在を抱えながら、すべての人に目を配っていくというのは、至難の業で、もちろん完璧にそんな仕事を為せるわけがない。
 せめて、他人を簡単に否定しないようにしたいと思う。常々思う。今、この場所で輝けない人でも、生きている輝きは確かにあるわけで、ただこの場に向いていないだけかもしれない、と思う。
 人を嫌ったり否定するのは簡単だ。真剣に向かいあって、駄目なら駄目できっちりと批判し叱責し、その上で、存在を愛していなければ、と思う。
 そういうことが、なかなかできない。特に、努力しない人、怠慢な人、言い訳をする人などは現場では愛しにくく、イライラしたあと、ふと思い直したりする。
 
 わたしはチビなので、若い頃から痴漢の被害によくあった。例えば、いい年をしたおじさんにやられたりすると、「うーん、でも、この人だって、自分の娘は愛しているだろうし、娘にとってはいい父親なのかもしれない」と思って心底怒れないし、若い男の子にやられると、「たまってるんだなあ、とか、吐け口がないんだなあ」とか思って、やっぱり怒れない。たとえば、そういうこと。

 これは、思いやりとかそういうものではない。わたしはそういう思考回路の女だというだけのこと。他人に接すると、自分の知らないその人のことを想像するように出来ている。
 だから、こうして人に囲まれて、たくさんの人に言葉や行為を為す仕事をしていると、1日の終わりにいろいろいろいろ考えてしまうことになるのだ。

 一生懸命働いて、気も遣うだけ遣って、日付けが変わってから、明日はもっとよりよく、なんて考えている。
 惑わない歳に近くなっても、まだまだそんなこんなの自分に、時々あきれかえるが、人に見せぬだけで、誰だってそうなのかもしれぬ。また、誰だってそうだったら、幸せだなあと思う。様々な暴力に満ちあふれた現在を生きていると。


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