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2001年05月30日(水) |
雨を触媒に、膨れあがる、我が思い。 |
今日は貴重な完全OFFだった。 貴重だ、と、働きづめだった昨日までは思っていたのに、当日になると、やるべきことを何ひとつしなかった。たとえば、銀行でなすべきことや、ちょっとした買い物や。 これまでの不眠を取り返すかのように11時まで眠り、起きて洗濯をしたとたん雨が降りだしたところで、何やら出鼻をくじかれた。急にぼうっとしてしまい、一度も家を出なかった。煙草がなくなっても、買いに行く気にならなかった。 自分が思っている以上に疲労していたことと、ちょっとした心の迷いがあったことと。
雨というのは、時としてとんでもない触媒になって、我が心身の状態を悪変させる。
我が迷いのことを書こう。 今、舞台に慣れない俳優と毎日のように自主稽古をしている。稽古時間中には、もちろん、演出家や音楽家や、様々な人が導いているのだが、それがなかなか実を結ばない。 人を導いていくには、心を伝えるために方法を伝えるために、どうしても「ことば」に頼る。どんな風に話せば伝わるか、どんなことばを使えば理解してもらえるか、様々な直球やら変化球を使ってことばを投げかける。 一人の人を複数の人間が指導していると、それはそれはたくさんのことばが飛び交うことになる。それぞれの「ことば」に対するアプローチは違うから、それぞれの口から様々なことばが生まれてくる。どれも、ある人を良い方向に導いていきたいという純粋な心から生まれたものであるのに、「ことば」たちは、どうも一人歩きして、相手の心を乱し始める。そして「ことば」を発するわたし自身は、ことばを弄しているような気がして、自分の饒舌に嫌悪を覚え始めるのだ。 即興で生まれ出て、死んでいく、わたしのことばたち。それは、ちゃんと機能すれば、我が現在の輝かしい証にもなるのだろうが、そんなことばはきっと数少ない。 結果が出ないから迷っているのではない。 たくさんの口から、コントロールされない「ことば」が大量生産されることに、ちょっと疲れているだけだ。乱れ飛ぶことばの風景の鬱陶しさに、つい我が身を省みてしまうだけだ。 もうひとつの迷い。これも時々わたしを襲うもの。 商業演劇をやっているからとは言え、どうしてこんなに無駄なお金を使うのだろう、ということ。 予算を下回る上回る、といった次元の問題ではなく、「芸術」の名の下に浪費されるお金のことが、わたしは気になって仕方ないのだ。 そんなのは無駄に使われていく税金や、世にまかり通る黒いお金のことを考えれば、比較にもならない金額なのだろう。しかし、文化や芸術が人の心に及ぼす善と、その代価の相関関係が狂っているのではないかと、時折、疑問に思ってしまう。
わたしはいい歳をして、実に「金」のことにウブなのだ。欲がない。ギャンブルなど、考えも及ばないつまらない人間で、働いたら働いた分もらえればいいと思っている。たまに働いた分もらえないことがあっても、また働けばいいと思ってしまうほど。その代わり、不正にはことごとく腹をたてる。金の魅力で動いてしまう人間にも同様だ。 まったく、お金というものを前にすると、19世紀を生きたラスコーリニコフのように、わたしは人生に迷ってしまう。
こういう時、わたしは母に電話をかける。お金のことが分からなくなると、必ずそうする。 母は先日も書いた通り、父の失敗の借金を倍にして、現在の商売を開業した人だ。 若い元気な頃は、船に乗って離れ島にお得意さんを開拓しにいった。大洪水で島自体が機能しなくなった時、ほぼ未収だった売り上げを簡単に諦めた。取り立てもしなかった。 たくさんの売り上げを盗まれた時、警察沙汰にはせず、一人で説得を続けた。結局かえってきた金額は半分そこそこだったが、母はわたしに「盗人にも三分の利って言うからな」と笑っていた。 母には、お金に苦労してきたからこその鷹揚さがある。また、苦労してきたのに、お金に心を振り回されたことがないから、嘘をついたことがないから、「そんなことは人生の重要事ではないのだよ」といつも気楽でいられる。 21世紀を生きる、頭でっかちの、ラスコーリニコフ的な一途さを持つ、このわたしは、いつまでたっても母にはかなわない。
とまあ、ぼんやりと、そんなこんなを考えながら部屋の中でほろほろしていると、あっという間に1日は終わってしまった。 もちろん、今はめちゃくちゃ後悔している。 なんでこんな貴重な1日を、もっと有意義に過ごさないんだよ!って。
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