世の中には少し面白い組み合わせがあるとつくづく思う 今回は食べ物の話しなんだけど… 今日友達と話してて昨日の某TV番組でやってたらしいがマヨネーズをカップ麺やケーキにかける人がいるらしい ちょっと待て! カップ麺にマヨネーズはまだいいとして、ケーキにマヨネーズつけたらどんな味になるんだ? ダイドには想像できない世界でございます 確かにダイドの友達にはカレーにマヨネーズを混ぜて食べるヤツはいる そりゃさ、ケーキにマヨネーズつけるのは個人の自由だし悪い事じゃない それがその人の好みならまぁ、いいんじゃない? そんで友達に 「じゃぁ、スイカに塩ってかける?」 と聞いてみたら 「かけるよ。常識でしょ?」 Σ( ̄ロ ̄lll) そんなの常識じゃないんじゃぁ…(汗) ダイドが知らないだけで結構一般的かもしれない スイカに塩… だけどどうもダイドの性には合わない だってスイカはもともと甘いわけでそれ以上甘くしてどうすんの? 塩のしょっぱさの後に来る本来以上の甘さをどうしてそんなに求めるワケ? スイカはスイカで食やいいじゃん いやぁ、別にいいけどさ〜 そんなの自由だし自分に合わなければしなきゃいいだけの話 なんか意味もなく悩んでしまったダイドでした
昨日のダイドの日記に対してある人からメールがきた それを読みながら「確かにそうだなぁ」とつくづく思ってみたり… その人がいうには「セクシャリティを自分の全てだと思われたくない」という事 確かにその通り! 人にはそれぞれ趣味や嗜好、性格やセクシャリティを持っていてそれは十人十色 ダイドなんかもよくあるんだけど何かを好きだと言うとそれが“普通”の人と違うだけで人格自体を疑われたり決めつけられたりする セクシャリティなんかは余計そういう傾向があるよね 週刊誌とかで例えば誰か(Aとしよう)が不倫をしたという記事が出ているとしよう 仮にAが同性愛者だとする そうすると記事の内容と言うかタイトルから何からすっかりそれ一色になってしまう “普通”の人がしたら不倫というのがメインに記事は構成されるのにそれに“同性愛”と言うキーワードがつくだけでメインが変わってくる いかにも“同性愛者だから悪い”といいたげに全面的にセクシャリティが表に出てくるのだ 書き方一つでまるで世間一般に同性愛者はみんな悪い事をするという風にとらえさせてしまう “同性愛者だからそうなった”ように書かれてしまうのはかなり問題だと思う その人のほんの一部分でしかないセクシャリティによってその人自身の人格すら否定されてしまう 確かに“同性愛”というキーワードを持ってくることによって読む人の興味は増大するだろう “普通”の人がする不倫より“同性愛者”のする不倫の方が目をひくのは仕方ない だから週刊誌等のメディアは“同性愛”を用いる事によって人の興味を自在に操っているのだ しかしそれによって世間の認識が悪い方へ悪い方へと知らず知らずに導かれてしまう マイノリティをそこまでバッシングする必要があるのだろうか? なぜセクシャリティをその人の全てだといい、人格そのものまで否定しなければいけないのか? それまで築き上げた信頼や地位、人格はセクシャルマイノリティによって全て打ち砕かれる 今まで尊敬したりしていた人を同性愛だったりGIDだったりするだけで卑下しなければいけないのか 人格も性格も価値観も人間性自体もそんな事では変わるはずがないのに… ほんの一部分でしかないモノがその人の全てを否定する要素にはならないのが分からないのかなぁ? どうしてそれだけでその人への見る目が変わったり付き合い方が変わってしまうのか 結局そういう輩は世の中全てを自分の物差しだけでしか計る事のできない器の小さな人なんだろう 可愛そうだね、そういう人達は… それだけで大切な人や友達を失ってしまうのを気付かずにいるんだもんさ 大事な人を傷付けて遠ざけているのを知らないで… 自ら自分の首をしめている可愛そうな人達が世の中にはいっぱいいるんだね
|