| 2005年03月16日(水) |
徳島最後の日記である |
まだかたずけ終わらず。 そりゃそうだ、だって、まだパソコンつないでるモン。 で、最後の日記を書いて切ることにした。 今日は、かたずけおわっていないにもかかわらず、しかしけじめはつけたいと、シャワーを浴びてきがえて、お酒を1本もって、氏神さまの八幡様に参拝にいった。 朝は、女性の宮司さんがお勤めとお掃除をしておいでるのだが、昼間は誰もいない。しかし、あがることはできるので、お酒を御礼に奉献。 きっちりご挨拶をした。 行くときに、園瀬橋辺りで道間違いしそうになっているお遍路さんにあって、道をお教えして、ジュース代をお接待。 ご夫婦お遍路さんで、お泊まりは18番下の千葉だという。 時計は4時。 「あとどのくらいですか」 「たっぷり2時間ですね、がんばって歩いても・・。よかったら電車での近くまでは行けますけど」 「いいえ、歩きますんで・・」 そうですか・・・奥さんはしんどそうだった。 見送って歩きぶりをみていると・・・3時間はかかりそう・・・ お気をつけて。 最後の日に、お遍路さんに、道をお教えして、気持ちばかりだけどお接待できてなんだかうれしかった。 今日はとてもいい天気だった。 4月の陽気だ。 ・・・・・ ★昨夜電話があった。 「開眼供養、参加するよ。うちのかみさん、心配していたよ、ずいぶんお金がかかるでしょうに。お金持ちなんだな、っていっていた」 「お金持ちなんかじゃありませんよ、ないです、失業者だし。さんざん、放浪して遊んだし、ありませんよ。でも、しないと、安心して死ねないんですよ」 そう、お金のあるなしではなくて、しないといけない、ねばならない、という内なる声がするだけなのだ。 お陰様で沢山の方々に過分に協力いただいて、私の負担(これも口数として通帳に入れたが)は予定していたより少なくてすんだ。さらには、石屋さんも、工事をしてくれた業者さんも、自分の儲けを少な目でやって下さったので、これまたお陰様だった。 とにかく大満足。 今現在、頭のてっぺんになんか落ちてきて死んでも後悔はない。(ただ、このうち中の惨状を見ると死ねんけどね) ★昨夜メールがあった。 地主さんの許可をもらった時に、紙の契約書をとったかと。 じゃないと、代が変わって、勝手に建てたと壊されても文句が言えないだろうと。 理屈は分かるが、しかし・・・それはあまりにも違和感だ。 こんな返事を書いた。 別個に書いていると、メンドいので、一部抜粋。
「遍路は四国じゃヘンドともいいますし、蔑視の対象でもあったわけで、その人たちの道しるべや供養碑は江戸期以来たくさんあったでしょうが、土地の賃貸書や土地を買い上げてたてたとは思いません。だから、コワされたり、捨てられたり埋められたり・・といろいろであったでしょう。 基本的に「好意」です。宮崎さんはいつもこういわれますよ。 「好意」で、ご許可くださったわけです。 私も、ご許可をいただいて木を植えたわけですが、「遍路石と供養碑の間の土地が必要になったら、いつでも、樹を抜いて下さい」といってあります。 それでいいではありませんか。 この世に不変はありません。 こういった、好意で土地の隅を貸していただき、私はボランティアで走り回って、石や諸々を調達し(だから、さまざまな人がご協力下さった)、賛同者は、苦心してお経を書いてご浄財を下さるこの一連の流れに値打ちがあるのだと思います。 これが「お四国」ですよね。 四国に1年しか居なかった私ですが、この辺りはなんとなくわかりますよ。 遍路の歴史や石の命の長さを思えば、「手続ききっちり、書面で残す」が、愚かしく、むなしく思えたりします。 ** 石はほとんど不変に近い。 私が死んで、賛同して下さった人達も逝かれて、月日が流れて、石は石だけになる。 碑をよりしろに道行く遍路見守ってこられた「霊的存在」たちも、お浄土に向かい・・・やっぱり石はひとりぽっちになる。 中司茂兵衛が「我が身は死んで、残るは石ばかりなりけり」みたいな句を残しているはずだが、まさにその通りになるのだ。 拝まれることで、力をつけた碑を後の世の人達がどうするかは、私の知ったことではない。
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明日は引っ越しです。 これから、パソコンもかたづけます。 しばし、失礼します。 1週間くらいお休み??それとも、甥のパソコンを使わせてもらえたらアップできるかな。 イヤヤ、家族とは一緒に住まないのだから無理か・・・
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