世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年09月21日(火) 昨夜 帰宅

昨夜11時少し前に帰宅した。
弔休が3日という連絡があったので。(伯母を初めとした親族は、親の死去はふつう1週間じゃないかといぶかっていたが・・・)ちなみに、今日は、田舎でいう「段崩し」(祭壇をくずす)なる初7日があるが、なんだか父はもう家の近辺にいないような気配なので、もういいやとかえってきた。

ご弔慰下さった方々には心から御礼申し上げます。
ありがとうございました。

父は15日早朝5時10分永眠。
7時40分のJALに乗ろうと(これが一番早い)仕度していたら連絡が来た。
地元家族も間に合わなかったらしい。
14日夜遅く、病院に呼ばれていって来た・・かなり肺炎が広がって悪い、もう延命処置はしないが・・という説明を聞いてきた、という電話が入って、家族はそのときにあって来ていたが。
要するに、父は誰のことも待たずにさっさと逝ってしまったというわけ。
私だけでなく、みんな間に合わなかったというのが、ゴーイングマイウエイで時々家族からひんしゅくを買っていた父らしいといえば、父らしいし、最後に「味なこと」をしたねえ、ともいえるし。(苦笑)
(医者は、前夜、もし必要ならご家族が到着するまでの延命はできますといったらしいが、家族は、本人がさらに苦しむことはやらなくていい、と断ったこともあって間に合わなかったという事情もあるにはあるが)
昼1時過ぎに帰ったら、もう祭壇ができていて、父が眠っているそばで母や伯父、伯母がそばでお稲荷さんを食べていた。
「おや、早かったなあ」なんていわれて。
前日までぐずついていた新潟の空、この日は快晴で、空気もさわやか、まさに日本晴れの中、あっちににいった・・・という話をしていた。
この4ヶ月あまり、みんなが苦しそうな父の姿を見てきたからなんだか悲しみよりホッとしていた。
私も・・・実はお彼岸は人が逝きやすい時だし、危ない、18日に帰ろうとおもって切符を予約済みだったが、まあ、会えなかったのはつくずく残念だが、もう、ちょこっと身体を動かされても痛くて「ウー、ウー」といやがる姿を見なくてよかったのは、なんだかホッとしたといえばホッとして。
実は、みんな、悲しみよりホッとであったのだ。

16日お通夜、17日告別式。
お骨は、骨箱にけっこういっぱいになって、農民だった父の骨太さを実感した。

15日の夜、父のそばで、一晩、燈明と線香をあげていたが、深夜1時近く、姪が飼っている犬が激しく鳴いた。
犬は4月に来たが、姪が写真を持っていって「じいちゃん、いぬがいるよ、退院してきたら会えるよ」といっていたので、どうやら、2階の姪の部屋まで見に行ったらしい・・・(とわたしは確信した)
父は犬が大好きだったし。
朝方5時近く、線香番を弟と交代して、居間に毛布をかぶって転がってウトウトしていたら、胸のあたりをグウと踏まれた時間をおいて2回。
玄関側の戸が開いて、黒い影が入ってきて(ウトウトしていた私がつかんだイメージ)、私の胸をグウと踏んだ。
初め、仏間で線香番をしていた弟が暗闇でまちがって私を踏んだかと思うくらい強かった。
しかし違う・・・
そう、私がねっころがっていたところは、父が生前トイレを探して徘徊するときに通り道になっていたところだ。
で、時間的にも、トイレに行く時間だし。
母が入院していたとき、この時間に起こすと「大丈夫」だったモノだ。
どうやら、トイレを探して、例のごとく徘徊していて私を踏んだらしいのだ・・・(とわたしは思った)だから2回。3回目はなかったから、どうやら自力で無事に最後のトイレに行き着いたらしい。よかった。

お通夜の晩は、気配なし。
告別式以降も、気配なし。
どうやら、父は、通夜の晩に供えられたお酒を飲んで、新米のコシヒカリを食べてけっこう満足してひらひら酔っぱらいながら浄土に旅立っていったという気がするのだ。
霊感系の母もいう。
「じいちゃんは、もうこの辺にいないようらなあ」
賛成だ。
とりあえずは、あちらでなつかしい人たちに再会している・・宴会でも張っているのではないか。
父は法事、新年会・・・等々・・家でしてにぎやかに力いっぱい飲むのが好きだったし、それに乗っ取って、セレモニーホールではなく、すべて家でした。仏間と茶の間2間と廊下を取っ払うと20畳あまり。あまり広くはないが、仮通夜、お通夜、告別式と、祭壇の前で、伯父や従兄弟、その他親族の人たちでにぎにぎと宴会した別れだった。
弟も、「これで本人大喜び」といっていたが、私もそう思った。

しかしまあ、いまだに、入院していた病院に行くと「父2号」がいそうな気がしてはいるのだが、まあそれは「無いはずのちぎれた指」が痛むのににている・・・

離職まであと1ヶ月、がんばろ。




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