おひさまの日記
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2010年10月28日(木) あなたが喜ぶなら

知る人はもう知っているであろうヒラキで、
母親に、寝る時に肩に羽織るフリースの肩当てを買ってやった。

自分の買い物のついでにね。
おかあたま、冬は寝る時に首と肩が冷えると言って
タオルを首に巻いて寝るから。
ホント、何の気なしにね。
380円だし。

そうしたら、すごく喜んでくれたんだ。
普段そんな笑顔しないでしょ、ってほど、顔をしわしわくちゃくちゃにして、
肩当てをさすりながら。

それを見て驚いたの。
なんでこんなに喜ぶんだろう、って。
たったこれだけのことで、って。

そんな母を見て泣きそうになった。
うれしかった。自分がしたことでこんなに喜んでもらえるってことが。
自分のした何かで誰かが喜ぶってこんなにうれしいんだ…

そんな時、ふと、ある人の言葉を思い出した。



「厳しいことを言います。
 あなたは自分のエネルギーを自分のためだけに使っています。
 私は、私は、
 私が、私が、
 自己卑下、自己憐憫、
 何もかもが自分のためなのです。
 そのエネルギーを人のために使ってください。
 あれこれ考える時間がなくなるほど、
 そのために忙しくしてください」



私はその言葉の意味がやっとわかったような気がした。
その言葉を受け取ってから2年以上経っていた。

その言葉を受け取った時、
「自己卑下」と「自己憐憫」については、イタタ、ああ、やっちゃってるよね、って思った。

でも、正直、「エネルギーを人のために使う」という言葉から
滅私奉公のような印象を受けて、まっすぐ受け取れなかった。

まず自分が幸せでいることが大切なんじゃないかな、
楽しくワクワク生きていれば自然に周りの人を幸せにすることもできるんじゃないかな、
自分を捨ててまですべてのエネルギーを人に使うのはどうなんだろう?
そう思った。

そして、いつしかその言葉のことは忘れていった。



私はここしばらく、自分の在り方や、自分の生き方について、色々考えていた。
悶々と。
何をしても満たされることがなくて、心が迷子になっているような、
そんな感覚と一緒に過ごしてきた。

好きなことをしよう、ワクワクすることをしよう、そう思って、
自分が好きなこと、ワクワクすることをやってきたつもりだった。

ところが、私の心は満たされることなく、むしろ、どんどん枯渇してゆく。
好きなことも、ワクワクすることも、やっているうちに苦痛に変わってゆく。
そのうちに、自分が何が好きなのか、何に対してワクワクするのか、わからなくなった。
そして、何をしたらいいのかわからなくなった。すべて投げ出したくなった。

欠乏感だけが私の中で肥大していって、
特にこれと言ってイヤなことがあったわけでもないのに、
悲しくて悲しくて、昼間ひとりになると泣いていた。

ひとつだけわかっていたのは、
今の生き方が自分の望んでいるものからはほど遠いということ。



でも、母が肩当てをもらって大喜びするのを見て、理屈抜きに思った。

「ああ、これだ…」

って。

うれしかったの。
幸せだったの。
おひさまが私の胸の中で輝いているみたいに、
私の世界は光でいっぱいになったの。

私は私に対して何もしなかった。
したのは母に肩当てを買うという外への働きかけだけ。

けれど、ここ最近、自分が好きだと思っていることや
ワクワクすると思っていることをしている時より、
うんと、うんと、うれしくて幸せだった。

そして、こういう感覚が欲しいんだと思った。
自分がしたことで誰かが喜ぶ、それこそが、今の自分のワクワクだと思った。

そして、上の言葉を思い出したのだった。



私は一生懸命好きなことをして生きようとしていた。
そして、郵便局でパートをしていた頃よりは楽になった。

でも、今思うと、それは、楽になったと言うよりは、
郵便局で苦痛に感じていた色々なことがなくなって、
それから逃れられたという感じだった。
じゃあ楽しくてワクワクするような毎日を送っていたのかと言うと、
それもまた違う。
なんとなく、ただ過ぎていく日々の中に浮かんでいた、そんな感じ。

私はこれが好きなんだ、
そう思ってることを色々やってみても、
何かが違うような気がして仕方なかった。

「おかしいな、好きなこと、ワクワクすること、
 やってるはずなのに何かが違う、何が違うの?」

そんな問いが常に心の中にあった。
そして、それが続くうちに、違和感がどんどん大きくなり、
空しさだけがつのっていった。



今ならぼんやりとだけどわかる気がする。

私は自分のエネルギーを自分のためだけに使っていた。

私がうれしく楽しくなるために、
私が幸せになるために、
私が豊かになるために、
私が、私が、私が…

私は好きなことをしている、
私はワクワクすることをしている、
私は自分の心に正直に生きている、
私は、私は、私は…

自分にエネルギーを使うのはいけないことじゃない。
でも、ちょっと間違っていたと思う。

ワクワクすることをして生きる、それを提唱する「ソース」、
そのワークショップに参加したのが8月、
その時に改めて「ソース」の本を読んだんだけど、
その最後の方にこんなくだりがあって、心に残った。

「自分がワクワクすることをして幸せになるように伝えてきたけれど、
 それは、実は、最終的には人のために何かをするということです。
 ワクワクすること自体が人や社会への貢献です。
 そこに辿り着いて人は真の幸せを見いだすことができます」

というような言葉だった。
私が読んで受け取った内容を言葉にしたので、原文の通りではないけれど。

ワクワクを実践して生きようと、ある意味血眼になっていた私。
けれど、ちっともワクワクしなかった(爆)
私の毎日は、せまい牢屋の中で鉄格子の小さい窓から青い空を眺めるような、
そんな毎日だった。
ただただ空しくさびしいものだった。

私は、ワクワクを実践するということの、
上っ面だけをなぞっていたのかもしれない。
そしてやっている気になっていたのかもしれない。
好き勝手やるという、ある意味間違った方向に進んでいたのかもしれない。
そんな気がする
だから何をやってもうまくいかず、満たされることがなかったのでは…と。

そう、自分が幸せになれば周りの人も幸せにできる、
じゃなく、私が幸せになればそれでいいのよ、って。
まさに自分のエネルギーを自分のためだけに使っていた。



こうした気づきは、ある瞬間突然訪れる。
ここにこうしてズラズラ書いているけれど、それを一瞬にして理解した。
今までバラバラだった色々なことが瞬時にひとつになる。
時には何年も前の出来事も。



「そのエネルギーを人のために使ってください」

その言葉の意味もなんだかわかった気がした。
それは、滅私奉公じゃなく、
ただ純粋に、人の役に立つことに、人に喜んでもらえることに、使う、
そういうことなんだな、って。
自分を犠牲にするのではなく、自分ができること、自分だからできることで。
そして、それはワクワクすることでもあるんだな、って。

今までは、ワクワクすることって自分が基準で、
自分が満たされることだと思っていた。

けれど、喜ぶ母を見て、人が喜ぶこともまた自分の喜びなのだと、あらためて感じた。
これまでも数えきれないほどそう感じてきたはずだ。
人が喜んでくれるとうれしい、って。
でも、ここまで腑に落ちてなかった。

自分を殺して、相手の機嫌を取ろうとか、相手の愛を手に入れようとか、
そんな犠牲や打算のあるものではなく、
純粋に、自分がしたいと思うことをすることで、
もし誰かの役に立ったり、誰かの喜びを作り出せたりしたら、
それほど素晴らしいことはないんじゃないだろうか、そんなふうに思った。

人間だから、喜んでもらえないとがっかりしたり、
どこかで見返りを期待したり、
そういうことはゼロにはならないかもしれない。

でも、喜ばせるためにする、と言うよりは、
喜んでもらえるかもしれない、自分がそれをしたいからする、
そういうスタンス、そんな感じがいいんだな、そう思う。

そして、その大前提として、
ここで初めて、好きなことやワクワクすることをするというのがで出てくる。

友達の誕生日にカードを送ることがワクワクするなら、それをする
電車でお年寄りに席を譲ることが自分の喜びなら、それをする。
誰も見ていない道端にゴミが落ちているのを拾うのが自分の意志なら、それをする。

自分のワクワクや喜び、気持ちや意思がそれをしたいと望むことを、する。

人によってワクワクや喜びは違う。
時にワクワクは自己中心的なものに見えることもあるかもしれないけれど、
私がはき違えていたようなことさえなければ、
基本、自分がワクワクすることは必然的に誰かに何かを与えるものになる。

それが、わかった、やっと、わかった。
喜びや幸せはひとりでは成り立たないんだね。
わかってたのに、わかってなかったよ。



ステージが変わったのかもしれない。

昔、なんでもかんでもうまくいっていて、
大好きなことばかりして過ごしていた頃は、今よりもきっと未熟だった。
でも、うまくいっていた。
そして、そのやり方がいいんだと思って、
私はずっとそういう生き方をしてきた。
けれど、同じように生きているつもりが、
どうも空回りするようなことばかり続くようになった。

昔の私は素晴らしかったのに、うだつの上がらない今は全然ダメだ、
そう思うことがよくあった。

でも、今はこう思う。
さらに人間としてステップアップするために、
さらに大切なことを学んで成長しようとしているのかもしれない、と。

春には花がたくさん咲くけれど、
冬の間、その花の種や株は土の中で眠っている。
花が咲く気配さえ一切なく、そこにはただの冷たい土くれだけがある。
あたたかい日差しの季節がやってくるなんて想像もできないような、
美しい花が咲くなんて考えも及ばないような、そんな時間。
けれど、その間に土の中では確実に命が育まれている。
その時間なくして花は咲くことができない。

きっと、私は、今まで、そんな冷たい土くれの中にいたんだと思うようにした。
ダメなんじゃない、おかしくなったんじゃない、
そんな時間の中で起こるあらゆることから、
そんな時間の中で感じるあらゆることから、
次のステージへ行くために必要なものに自分で気づいていくために、
まるで冬のような毎日の中過ごしていたんだなぁって。



あなたの夢はなんですか?
そう尋ねられたら、私はこう答える。

「わかりません」

そして、こう付け足す。

「でも、心が望むことをします」

その第一歩として、お店でお会計をする時に、レジの人にめいっぱいの笑顔で、

「お世話様でした、ありがとうございます」

と言うことから始めた。
小さな、小さな、でも、うれしい一歩。



心が望むこと、それは、自分のエネルギーを人のために使うことだった。
犠牲やガマンの上に成り立つような滅私奉公ではなく、
自分のワクワクや喜びを媒体として。

自分の中にそんな思いが芽生えた時、
いつも心にこびりついていた重たいものはもうなかった。

何年もかけて集めた人生パズルの無数のピースが、
パチンとそれぞれの場所にはまってひとつの絵を見せてくれた。

それは、私が笑っている絵だった。

あなたが喜ぶなら、私も笑うのです。


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今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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