おひさまの日記
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母が私に言った。
「あんこの入ったあんぱん買ってきたから食べなー」
私は、ありがとう、と言って、あえて突っ込まなかったけど、 ばあちゃん、あんぱんってぇのはもともとあんこが入ってんだよ。
じゃあ、 ジャムの入ったあんぱん、とか、 クリームの入ったあんぱん、とか、 カレーの入ったあんぱん、とか、 やきそばの入ったあんぱん、とか、 はたまた、わざびの入ったあんぱん、とか、 応用がきいちゃうじゃないか。
もぉ、おかしくて、プルプルしながらabuに報告に行ったら、
「あ、俺のところにも来て言ってたよ。 あんこのあんぱん買ってきたから食べな、って(笑)」
あああ、素なんだ、あの人は素でああなんだ、天然なんだ。 そうだよな、思えば私が子供の頃から天然だったよな。 まだ、「天然」なんて表現がなかった頃から天然だったよな。
父はその「天然さ」にイライラして母を怒鳴り散らしてたっけ。 記憶をたどっていってよくよく思い出すと、 母が天然さを発揮する度、父は怒ってたような気がする。 は?と思うようなとんちんかんな言動で、母はいつも怒鳴られてたけど、 あれは、母が天然ちゃんだったからなんだな。
そうかー。 そうだったのかー。 今気づいた。 そうかー。
そして、それを笑い飛ばすことを教えてくれたのはabuだった。 私が父のように天然な母にイラッとする度、abuは横で大爆笑していた。 そして言うのだ。
「親子だね、えみやも天然だもんね、そっくり」
え? 私天然なの? 私、あんなふうなわけ?
もしそうだとしたら、ああ、そうか…
天然でいる母を父はひどく非難し、攻撃し、怒鳴り、暴力をふるった。 ひどい仕打ちを受け続けてきた母を見ていたから、 そんな苦しい空気の中で育ったから、天然な母親が許せなかったのだろう。 そして、まさか自分が、父に仕打ちを受け続ける母と同じような、 そんな要素を持っているとは絶対に認めようとしなかったのだろう。
私は母をさげすんだ。 バカな母親、 しっかりしてない母親、 ダメな母親、って。
でも、それは私が自分に向けていた思いだったのね。 バカな私、 しっかりしてない私、 ダメな私、って。
人は鏡、目の前の誰かに怒りを感じる時、 それはその誰かと同じ姿をした自分に怒りを感じている。 自分はその誰かと同じだなんてこれっぽっちも思いもせずに。 本当は、その誰かと同じ自分がいるから、 そして、それを認めて受け入れていないから、 そういう姿であってはいけないと自分を罰しているから、 それと同じ姿をした人を見ると、怒りを感じるのだ。 『そんなんじゃダメーっ!!!』って。 そして、それは自分に言っていること。
これが投影。 相手に見る罰した自分の姿、シャドー。
20歳で家を出て、43歳でまた母と同居、そこで色々な衝突があった。 それは、きっと、新しい彼女とのコミュニケーションの始まりだったんだろう。 そして、その始まりは、私が認めていなかった自分に気づいて、 それを許して受け入れる、自分に統合していく、そんなプロセスの始まりなのだろう。
いくつになっても、こんな流れが押し寄せてくる。 押し寄せてきて、自分が自分の本当の姿に戻る道へとひっぱってゆく。 どんなにイヤなことがあっても、その後ろにそんな流れがあるってわかるから、 やっぱり人生は素晴らしいと思う。 そして、そんな流れがあるとわかるようになったこと、それが人生の財産。
生きるって素晴らしい。 落ちてる時はそう思えないけど、でも、心のどこかでそれを知ってる。
かわいいばあちゃん。 あり得ないほどおもしろい。 メチャクチャ笑いを振りまいてるじゃん。 サザエさんもびっくりだよ。
そうね、人はそれでもいいのよね。 そして、私もね。
張り詰めていたよね。 そんなほんわかーな自分を切り捨ててたんだものね。 シャープで強くて、キリッとした自分になりたかった。 そうなれるように振る舞ってきた、特に若い頃は。 その頃に培ったものと、昔に切り捨てて置いてきたほんわかーな自分、 両方くっつけて、私はこれからの私になろう。
abuと生きることで、私は、割れて砕けて飛び散った、 たくさんの自分のかけらを取り戻している。 ありがとうね。
私も、年を重ねていって、かわいいばあちゃんになろう。 あああ、でもカッコイイばあちゃんが理想なんだよな。 そうね、じゃあ欲張って、 一見カッコイイばあちゃん、実はかわいい、の路線で行こうかね。
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