おひさまの日記
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2010年02月15日(月) 置き去りにした心

人は他人に迎合してしまうことがよくあると思う。
無意識のうちに、だ。

自分では迎合しているとは全く気づかない。
まるでそれが、自分の意志であり、気持ちであるかのように、それをする。

たとえば。

自分の言葉にダンナや彼氏が腹を立て、ケンカになったとする。
相手は一緒にいるのに口もきかない。
話しかけても無視される。
険悪な雰囲気。

そんな時、つい「ごめんね」と口にしてしまわないだろうか。

謝ることがいけないのではない。
どういう動機でその言葉を口にしたか、ということが言いたいのだ。

自分が悪いと思っていなくても、言ってしまう「ごめんね」がある。
もちろん、本当に悪いと思って言う「ごめんね」もあるけど。
それは、私が悪かった、という思いより、
少しでも早くこのつらい状態を終わらせたい、
そんな祈りにも似た「ごめんね」だ。
私が悪かったから許して、自らがそういう立場になることで、
関係の修復をしようとする。
自分が悪いと思っていなくても、それをする。
なぜなら、相手に拒絶されるということが、あまりにつらいからだ。
そこから逃れるためにそうするのだ。

頭で考えるのではなく、そうしたことはとっさに行われる。
そう、無意識に。

だから、「ごめんね」の陰に、
そうした心理があることなど自分では全く考えず、ただ謝る。

ケンカして仲直りしたのに、妙に後味が悪い、なんてことないだろうか。
そうした動機の「ごめんね」で修復した関係は、後味が悪い。
その時は、許してもらえて、また楽しい時間に戻れた喜びで、
そんなことに気づかないかもしれないけれど、
関係の修復の代償として、
自分の本当の大切な心を置き去りにしてしまっている。

たとえば、伝えることのなかった思い、

「私にだって言い分がある」
「私は悪くない、悪いのはそっちじゃん」
「そんなことで腹立てておかしいんじゃないの?」
「自分だって同じようなこと普段言うじゃん」
「それなのになんで私だけ謝ってんの?」
「なんで私だけ悪者なの?」
「あなたも謝りなさいよ」

そんな思いがかすかにでもどこかに残っていると、後味が悪い。
押し殺してしまって自分では感じないようにしていても、
そういう思いは消えずに残っているのだ。

このケンカの例え話で言えば、
そんな思いが「置き去りにした心」だ。
相手に、許してもらう、受け入れてもらう、それと引き換えに、
表向き「ない」ことにしてしまった大切な気持ち。
それをあるままにしておくと、相手に受け入れてもらえないから、
もみ消してしまった大切な気持ち。

こうした無意識の行動は、
幼少期の親との関係の中で心が傷ついた体験から生まれる。
親に、怒られた時、子供は、
これ以上怒られたくない、これ以上ひどい目にあいたくない、
受け入れられたい、愛されたい、
そんな小さな心の叫びにも似た痛みから、
その瞬間自分の感じていることなどそっちのけで、
どうやったら許してもらえるか、受け入れてもらえるか、
それを必死に探し、実行する。
それに成功すると、今度はその成功事例を自分の基本行動にしてゆく。
そうして、それがあたりまえになって、無意識に行われてゆく。

それが「心を置き去りにする」行為。
相手に迎合し、自分の心はないものとする。
無意識に行われることだけど、
心を置き去りにしたことから生まれる違和感は拭えない。

子供は、一般的に反抗期と呼ばれる時期に、この違和感に気づく。
そして、今まで従順であった自分から成長して、
自分の意志を生きようとする。
けれど、親から見ると、ただの反抗なのだ。
あんなにいい子だったのに、反抗期なのね、で終わらせてしまう。
違うのだ。
子供はただ単に本当の自分に気づいてしまっただけ。
個として自立しようとしているのだ。

それでも、幼い頃の体験でできあがった基本行動のパターンは、
無意識のうちに繰り返されてゆく。

今、大人になって、
そうした「心を置き去りにする」行為があるということに、
気づくことが大切だ。
それに気づくことで、相手には言えなかったにしても、
自分の味方になることができる。
相手との関係を、主従関係のようなものではない、
もっと健全なものにしていくための道も開ける。
その新しいやり方が通用しない相手は過去の自分が引き寄せたのであって、
時にパートナーチェンジとなることもあるだろう。

人は何かを、誰かを、失いたくなくて、自分を見失う。
時に大切だと思う何かを、誰かを、失ったとしても、
決して見失ってはいけないもの、自分。
自分の心を置き去りにするという代償を差し出し受け取ったものは、
本当に欲しいものじゃない。

置き去りにした心を拾い上げる時、
それまでの自分との選択が変わってくる。
それによって、現実が変わってくる。
現実が変わることで痛みは伴うだろうけれど、
その痛みを越えた、そして、想像を超えた、
清々しく心地よい、穏やかであたたかい世界が待っている。




こういうこと書いたり話したりしてると、
なんかまたセラピーをしたくなってくるんだよな。
好きなのねぇ、あの仕事が。


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