おひさまの日記
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2006年01月08日(日) 「なんでもあり」は「なにをしてもいい」ということじゃない

私は時々「なんでもあり」という言葉を使う。

セッションに来てくださる方々には、
その数だけ人生があり、またその数だけ事情や状況がある。
仕事以外でもそう、友達にもその数だけのそれらがある。

そして、彼女達が、
社会で言うモラルに反するようなことをしてしまっている時、
常識で考えたらひどいことをしてしまっているような時、
私はよく言うのだ、「なんでもあり」だと。

たとえば、不倫。

不倫をしていることを打ち明けられた時、
やっぱり私は言う、「なんでもあり」だと。
だから、不倫をしてもいいんだ、と。

そこだけ切り取ってここに書くと、
じゃあ、したければ「なにをしてもいい」という意味合いに受け取れるかもしれない。

けれど、それは断じて違う。
したいことなら「なにをしてもいい」なら、社会は狂ってゆく。
社会という大きなコミュニティのみならず、
家族という小さなコミュニティからの崩壊が始まる。

私が言うところの「なんでもあり」は、
自分がそうせざるを得なくなってしまっている、
つまりそういう問題と言えることを行わざるを得なくなっている中から、
自分の深い部分にあるテーマと向かい合いましょう、
そういう意味合いなのだ。

そうなってしまった以上、
ただやみくもに罪悪感やドロドロな感情にまみれるだけではなく、
そこに横たわる問題の本質に迫りましょう、
どういう意味合いなのだ。

それを美化せず(美化する相手に呑み込まれず)、罪は罪として認め、
それを通して学びましょう、と。

「なんでもあり」と聞いて、それを正当化せず、
自分がモラルに反していること、またそれによって傷つく人がいること、
(たとえ他の誰が知らなかったとしても、
 無意識で人は繋がっていてすべて知られているのだから)
それをしっかりと認めながら、その出来事を通して、
自分は本当は何がしたいのか、何の痛みから逃げてそこに走るのか、
それを見極めてもらいたいのだ。
そこから私達の変化が始まるのだから。

人間は、私も含めて、自分がすることに正当な理由を与えようとする。
正当な理由を与えて、自分がいけないことをしているという罪の意識から逃れようとする。
けれど、そこから逃げていては、何も解決しない。
また、それをしている罪悪感に押しつぶされているだけでは、何も解決しない。

私がかつて中島先生のセッションを受けた時のことだった。
アンナに必要以上に怒ってしまうことが苦しくて、
やめたいのだと切々と訴えると、先生は言った。

「怒ったっていいじゃないですか。
 だって、怒りたいのでしょう?
 怒っちゃいけないと強く思えば思うほど、怒りたい自分を否定してしまう。
 怒りたい恵美さんの中に何か大切なものがあるのですから。
 怒りたいんだということを認めることで始まることもあるんです」

私はそれを聞いて泣き崩れた。

子供に必要以上に感情をぶつけるのはいいことではない。
本来ならすべきことではない。
それでも、それをしてしまう自分の中の「何か」があって、
それこそが自分が向かい合うべきものなのだということを教えていただいた貴重なセッションだった。

先生は、私に怒ることを推奨したのではない。
そのままでいいですよ、変わらなくていいですよ、とおっしゃったのではない。
今そういう状況になってしまっている自分を一旦ありのまま受け止めていいのですよ、
そして、それによってそこから抜けていきなさい、
そう教えてくださったのだと思っている。

だから「なんでもあり」でありながら、
いつかそれをしなくてすむようになるためにも、今はそれをしながら、
自分の中にある気づいていない痛みに出会っていけばいいのだと、
私は大きく方向転換をしたことを、今も覚えている。
そして、そこから私は大きく変わり始めた。

「なんでもあり」は「なにをしてもいい」ということじゃない。
ひとつのプロセスとして、それが「なんでもあり」と許されるからこそ、
許されないことをしている場所から抜け出すために、私達は努力していくことができるのだ。


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