おひさまの日記
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2004年09月21日(火) お客様

辛いとか、悲しいとか、むかつくとか、
腹立つとか、憎いとか、恐いとか、
そういう感情を、みんないけない感情だと思ってる人が多い。

でも、いけなくないんだな。
それはただそこにあるだけ。

私達が悲しい時、自分がそれそのもののような気がするけど、
自分はただ自分であり、悲しみが訪れているだけ。
何かを恐れている時は、恐れが訪れているだけ。

感情はお客様。
それがどんなものであろうと、
「お、来たね、いらっしゃい」という部分を持っていれば、
もてなされたお客様はいつか去ってゆいく。

感情を「もてなす」というのは、
つまり、ただ感じてあげるということ。
それについて裁かず、
ただ「辛いな」とか、「寂しいな」とか、「恐いな」とか、
ひたすら感じていくこと。

その「もてなす」ということは、
決してガマンしていい顔をしていることではなく、
ありのままの気持ちをまっすぐに感じること。
そうしている間は、訪れている感情を体験するわけだから、
怒ったり、泣いたり、落ち込んだりするけれど、
それはそれでいい。

それは、まるで、朝になると明るくなること、
春になると花が咲くことくらい、
ごくごく自然なこと、当たり前のことだ。
自然なこと、当たり前のことを、操作しようとすると、
必ず何かが狂ってくるのは、
地球の環境問題を見ていても一目瞭然だろう。
それと同じ。

そして、お客様をもてなす、つまり、感情を感じることは、
とても恐ろしい行為に感じるかもしれない。

でも、実は、感情は私達を殺したりしない。
感じることをやめたり、それを否定したり、
「もてなさない」でいると、私達を脅かすものになる。
心で感じることをやめたり、否定したりしてしまうと、
感情は流れていくことができず、滞り、ずっと私達の中に居座る。
もてなされないもんだから、すねちゃうようなもんだ。
感情自体も流れていきたいのに、
こちらがそれを止めることになる。

感情はすごくリキッドな感じなのかもしれない。
水は流れている限り澄んで美しい。
けれど、淀むと濁り、やがては腐り、悪臭がしてくる。
それと同じだ。
感情も流れれば別段私達を真の意味で苦しめたりしない。
感情を感じず、その流れを滞らせるから、
私達はそれによって真に苦しくなるのだ。

わんわん泣いたらやたらスッキリすることがあると思うけど、
それはまさに感情が流れていくから。

訪れた悲しみという感情が、
私達に「感じる」という「もてなし」を受けて、
流れて去っていくから。
それを、泣くのをガマンし、強くならなくちゃ、
こんなことでくじけちゃいけないんだ、と、
悲しみという感情のお客様を否定してしまうと、
一見その克服に成功したように見えるけれど、
実は、流れずその場に滞った感情が積もり始める。
積もって、腐って悪臭を放つように、どんどん大きくなり、
やがてものすごいフラストレーションになる。
自覚のない不安や恐れ、悲しみみたいになって襲ってくる。

弱さを受け入れる強さ、
あらゆるお客様、つまり感情を直視する勇気、
それが、真の意味で、
私達をとても楽な場所へと連れていってくれる。

私達は感情を持つことはできても、
感情そのものになることはできない。
それを、感情が自分自身だという錯覚に陥る時、
身動きが取れなくなってしまうのだ。

私達は「感じる」という五感を与えられた、
自分という場所の主であり、
堂々とお客様を迎え入れ、送り出せばいい。

辛い気持ちに教われた時、
「こんにちわ、苦しいのはわかったよ」と、
心の中でその気持ちに言ってあげよう。
辛いままでいい、苦しいままでいい、
それをするだけで、主である自分とお客様である感情を、
別のものとして認識することが始まり、
だんだん今までとは違ったものが育ってくる。

それを始める時、私達は真の癒しに出会うと確信している。
そして、そこからしか始まることができないものがあるのだ。


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