おひさまの日記
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辛いとか、悲しいとか、むかつくとか、 腹立つとか、憎いとか、恐いとか、 そういう感情を、みんないけない感情だと思ってる人が多い。
でも、いけなくないんだな。 それはただそこにあるだけ。
私達が悲しい時、自分がそれそのもののような気がするけど、 自分はただ自分であり、悲しみが訪れているだけ。 何かを恐れている時は、恐れが訪れているだけ。
感情はお客様。 それがどんなものであろうと、 「お、来たね、いらっしゃい」という部分を持っていれば、 もてなされたお客様はいつか去ってゆいく。
感情を「もてなす」というのは、 つまり、ただ感じてあげるということ。 それについて裁かず、 ただ「辛いな」とか、「寂しいな」とか、「恐いな」とか、 ひたすら感じていくこと。
その「もてなす」ということは、 決してガマンしていい顔をしていることではなく、 ありのままの気持ちをまっすぐに感じること。 そうしている間は、訪れている感情を体験するわけだから、 怒ったり、泣いたり、落ち込んだりするけれど、 それはそれでいい。
それは、まるで、朝になると明るくなること、 春になると花が咲くことくらい、 ごくごく自然なこと、当たり前のことだ。 自然なこと、当たり前のことを、操作しようとすると、 必ず何かが狂ってくるのは、 地球の環境問題を見ていても一目瞭然だろう。 それと同じ。
そして、お客様をもてなす、つまり、感情を感じることは、 とても恐ろしい行為に感じるかもしれない。
でも、実は、感情は私達を殺したりしない。 感じることをやめたり、それを否定したり、 「もてなさない」でいると、私達を脅かすものになる。 心で感じることをやめたり、否定したりしてしまうと、 感情は流れていくことができず、滞り、ずっと私達の中に居座る。 もてなされないもんだから、すねちゃうようなもんだ。 感情自体も流れていきたいのに、 こちらがそれを止めることになる。
感情はすごくリキッドな感じなのかもしれない。 水は流れている限り澄んで美しい。 けれど、淀むと濁り、やがては腐り、悪臭がしてくる。 それと同じだ。 感情も流れれば別段私達を真の意味で苦しめたりしない。 感情を感じず、その流れを滞らせるから、 私達はそれによって真に苦しくなるのだ。
わんわん泣いたらやたらスッキリすることがあると思うけど、 それはまさに感情が流れていくから。
訪れた悲しみという感情が、 私達に「感じる」という「もてなし」を受けて、 流れて去っていくから。 それを、泣くのをガマンし、強くならなくちゃ、 こんなことでくじけちゃいけないんだ、と、 悲しみという感情のお客様を否定してしまうと、 一見その克服に成功したように見えるけれど、 実は、流れずその場に滞った感情が積もり始める。 積もって、腐って悪臭を放つように、どんどん大きくなり、 やがてものすごいフラストレーションになる。 自覚のない不安や恐れ、悲しみみたいになって襲ってくる。
弱さを受け入れる強さ、 あらゆるお客様、つまり感情を直視する勇気、 それが、真の意味で、 私達をとても楽な場所へと連れていってくれる。
私達は感情を持つことはできても、 感情そのものになることはできない。 それを、感情が自分自身だという錯覚に陥る時、 身動きが取れなくなってしまうのだ。
私達は「感じる」という五感を与えられた、 自分という場所の主であり、 堂々とお客様を迎え入れ、送り出せばいい。
辛い気持ちに教われた時、 「こんにちわ、苦しいのはわかったよ」と、 心の中でその気持ちに言ってあげよう。 辛いままでいい、苦しいままでいい、 それをするだけで、主である自分とお客様である感情を、 別のものとして認識することが始まり、 だんだん今までとは違ったものが育ってくる。
それを始める時、私達は真の癒しに出会うと確信している。 そして、そこからしか始まることができないものがあるのだ。
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