おひさまの日記
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2002年12月22日(日) マイナスの美徳

マイナスの美徳ってもんを、最近、強く感じる。
マイナスって言っても、ネガティブってことじゃなく、
「差し引く」って意味でのマイナス。

たとえば「何もしない」ってのもこれ。
誰かを助けない、ってこともこのひとつ。

苦しんでる人、困ってる人を助ける、すごく美しい行為だけど、
時には押し売りになる。
砂漠で乾き切って水が欲しい人に、
脂ギトギトのフランス料理のフルコースを差し出しても有り難くない。

すべてにはタイミングがある。
もし、誰かを本当に助けたいと感じたら、
その人が今なにを一番欲しているかを感じ取ることが大切になってくる。
自分にとっての「いいもの」、いい考えやいい話、いい行為、
それをしてあげたいと感じても、相手はそんなもの必要ないかもしれない。
それを受け止めるには時期早々ってことだってよくあるのだ。
純粋にそれが欲しくないことだってある。
そこで「マイナスの行為」が必要になってくる。
なにもしないのだ。
ただ、待つのだ。
その人が自分や自分の持つものを必要とするまで。
そして、その時が来たら、そっと、それを差し出せばいい。
永遠に欲しがらない時は、永遠に差し出さない。

人を救う行為とは、ただ信頼して見守ることに尽きる。
何かを差し出すのは、そのプロセスの中のひとつにしか過ぎない。
ひたすら相手を信頼して見守る行為が、その人を救う。
そして、自分を信頼していなければそれはなかなかできない。

気が遠くなるような作業だ。
相手は見守られてるなんて知りもしない。
感謝もされない。

相手を助けよう、なんとかしようという行為は、
場合によってはまったくのエゴであり、コントロールに過ぎないこともある。
人を助ける行為で自分を満たそうとするエゴが、人には少なからずある。
私にも、だ。
その罠にハマらず、真実を見極める目を持ちたいものだとつくづく思う。

よく「癒したい病」という言葉を本で目にする。
人を癒したくて仕方ない人のことだ。
そして、それらの人の目的は、
人を癒すという行為に耽溺する自分に価値を見い出すことだ。
そして、潜在的に、自分の中にあるものから目をそむけることだ。
私もそこを通った。
そして、そんな時、人を見て必ず思うのだ。
「私がなんとかしてあげる」って。
けれど、それは土台無理な話だ。
そう思っている間、ある意味、人は何もできないのだから。

私達は自分の無力さを知る時、初めてそこに道を見い出す。
そして、それは、もはや自分の範疇を越えたところから力を得るということなのだ。



今日は冬至だね。
明日からまた少しずつ日が長くなってくんだね。


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