おひさまの日記
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今日、お風呂に入ろうと思ってパンツ脱いでたら、 いきなり私の中にダダダダ〜〜ッ!と浮かんで来たことがあった。 あまりに「!」ということで、おしっ、日記に書くじょ!意気込んだ。 今までにも私の中にあったものが、はっきりと輪郭を持った瞬間。
それは「現実」と「事実」について。
「現実」と「事実」はまったく別のものではないかと思った。 「現実」とは、私達が認識しているものであり、 「事実」とは、私達が認識しているいないにかかわらず、そこに存在するもの。 もちろん、その「事実」を含めたすべてを「現実」と呼ぶこともできるけれど、 ここでは、あえて、私達が「今こんなだよねぇ」と思っているものを「現実」と呼ぶことにする。
こんな表現もできる。
こんな人がいる、こんなことを言った、した、こんな出来事があった、 そんなふうに、そこにあるすべてをただそのままに、 ただ起こっている出来事としてありのまま見ると「事実」になる。 そして、ただそこに存在する「事実」に、 私達が意味付けした時に初めて「現実」になる。 つまり、私達が感情や反応を伴いながら見て体験する世界が「現実」。 辛い、苦しい、嬉しい、幸せ、そう思うすべてが「現実」。 時には「真実」さえも、その「現実」の中に存在することがあるような気がする。
そう考えた時、私達はイリュージョンの世界に住んでいるのだと感じたりする。 そして、思った。 それなら、そのイリュージョンを、自分でデザインしていけるのではないか?と。 よく言われる言葉に「現実は私達が自分で作り出している」ってのがある。 まさにその言葉通りに。 ここがポイント、ここなんだ。 今、私が、ぼんやりと、でも、なんかコレだ!と思うのは、 ここなんだ、私達は自分のイリュージョンをデザインできるということ。 今ね、すごく、すごく、あああ、こう、なんてーの!?愛おしいの、それが。 陣痛があってこその「希望」を見い出したい。 自分でそれを体験して、そして、それをシェアしたい。
私達は、ひょっとしたら、その鍛練のために生まれて来てるのかもしれないと、 なんだか思ったんだよね、突然にさ。
そして、こんな言葉も本当によく聞くし、目にする。 「すべては中立であり、そこに意味付けをしているのは私達人間である」 この意味がよーくわかった時、私は目からウロコだった。 それは、頭で理解したのではなく、 積み重ねた体験から魂が震えながらそれ自身に刻み込んだ知恵なのだと思う。 すべて私達の「反応」で成り立つのがこの世界だ。 その「反応」を引き起こすものが、常に私達をコントロールしている。 「事実」の存在知った時、 私達はいかに多くのものにコントロールされているのかがわかる。
けれど、私達人間は「現実」に生きていていいのだと思う。 反応することは悪いこととは限らない。 反応がなければ、そこには何も存在しないのだから。 感情があり、それを体験することで魂は学んでいくこともある。 だから、「事実」と「現実」は別のことだと知るだけでいい。 そうすると生きるのが楽になる。
こ難しいこと書いたけど、ウン、ホント、そう思うんだ。
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