おひさまの日記
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2002年11月15日(金) |
生きる「知恵」を持つ |
世の中に言い尽くされたこと、言い古されたことはいっぱいある。 それを目にしたり、耳にしたりする度に、 ああ、それね、ウン、ウン、わかってる、そう思う。
たとえば、この世界ではもう耳タコの言葉に「起こることは必然」ってのがある。 それだって、はい、はい、そうね、必然なのね、そんな感じ。 わかってまーす、って。
言い尽くされたこと、言い古されたこと、それを頭で理解することは簡単だ。 でも、「腑に落ちる」ことは、意外になかなか難しい。 そして、腑に落ちないと、実は自分のものにならないのだと、最近強く思う。 頭で理解しているのは「知識」であって、「知恵」ではないのだ。 エラそーにサッカーの技術の上達法を事細かに詳しく説明する人が、 実は自分ではへたっぴーで全然モノにならない、そんな感じだ。 机上の空論、まさにそれが「知識」なんだと思う。 「知識」を「知恵」にして、初めてそれは私達の人生で意味を持ち始める。
私はよくこういうことがあった。 いいことがいっぱい書いてある本を読み、素敵な人のいい話を聞き、 目からウロコ、なんだか自分が変わったような気がする。 でも、しばらくしたら、なんだか違和感を感じ始める。 なんか何も変わってないな、あれ〜?って。 それは知識として自分の中に入っただけで、実は自分の実になっていないことを知る。 頭でわかっていたけれど、実はそれを全然自分のものにしていなかったわけだ。
もちろん、知識を得ることはとっても大切だ。 知識があるから、体験に基づいて、それを知恵にすることができるのだから。 だから、知識は必ず必要なものだ。 けれど、知識を持っただけで満足してしまうのはとても危険だ。 もっと危険なのは、知識を知恵だと勘違いしてしまうことかもしれない。 危険だなんて、あんまりいい表現じゃないけど。
気付いて、それを体験に昇華させることが、私達の人生のワークかもしれない。 それには行動が必要になってくる。 人生の中のあらゆる出来事で実験してみる必要がある。 気付きの裏づけを取るために。 裏づけとなる体験をした時、それは初めて腑に落ちて知恵になる。
ぢゃあ、一体どうすればいいのよっ!と思う人もいるだろう。 それは自分で見つけるしかないらしい、私の体験からだと。 でも、それを助けてくれる人はいっぱいいるはずだ。 私は、中島先生や、ねね、出会ったセラピストやヒーラーの方々に助けてもらってきた。 人の力は積極的に借りたい私だから(笑) 私は幸い、私を依存させずに上手に突き放し、 けれど、いつも温かい目で見守ってくれる人達に出会ってきた。 必要な時にだけ、必要なことをほんのりと、でも強烈に、示唆してくれる人達に。
言い尽くされたこと、言い古されたことが、しみじみ自分のものになる時、 きっと現実が動き出す。 生きるのが楽になる。
ちなみに「生きるのが楽」なのは、「辛いことがない」のとは違う。 辛いことがあっても、その背後にある恩恵を信頼できるということなのだ。
あれ〜、一気に書いたけど、支離滅裂〜? まいっか。 送信。
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