おひさまの日記
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2002年11月07日(木) |
私がセラピストでなかったら・・・ |
私がセラピストでなかったら・・・そんなことを考えることがある。
もしも、私がセラピストでなかったら、きっと私は生きていけないと思う。 無味乾燥な時間をただただ過ごす、人生の迷子になってしまうだろう。 それほどセラピーは私にとって大きなものになった。 きっと、私は、セラピーを通して魂の呼吸をしているのだと思う。
もちろん、今までには辛いこともあった、悔しいこともあった。 ひとりで泣いたこともあった。 自分にはもうできないんじゃないか、そう思ったこともあった。 どうしていいかわからずに、途方に暮れることもあった。 それなのに、やめられなかった。
一見、セラピーを提供しているようで、 実は、クライアントさんからの贈り物を受け取っているのだと、本当に思う。 どう表現したらいいのだろう、よくわからないけど、 セッションを重ねる度に、人間が生きていくということの意味を知る。 命のからくりを見せつけられるような喜びに満ちた衝撃が走る。
少なくとも私の場合、セッションにおいて、 自分の体験と、そこから得てきたことをシェアしているに過ぎないのだと思う。 それがお会いする方の人生に符合し、なにかがほどけていく時、 私は私の人生さえも肯定することができるようになる。 そして、輪郭がぼやけていた自分の中のものが、 突然ハッキリと姿を現わすことがある。
セッション中、しばしば、私は考えることを放棄し、 ただただ自分の中に降って湧いてくることだけを、口にしている。 それは、時に奇跡的でもある。 なぜ今自分はこう感じてこう言ったのだろう、そう不思議に思うことがある。 そんな時感じるのだ。 私はただの「媒体」なのだと。 神様なり、宇宙なり、私達を守る存在なり、そんなものがただ私を通して、 クライアントさんに何かを注いでいるのだと。 だから、クライアントさんにそれらの存在から注がれる叡智は、 私への贈り物でもあるのだ。 私は、自分を癒し、自分の真実を見つめ発見し、自分のプロセスを歩むために、 セラピーをしているのだと強く確信せずにはいられない。 お会いする方と一緒に。
セッションが終わった後、私はものすごくいい状態になる。 よく言うところの「中心に戻る」状態になる。 それは、私を通過していった高い存在達の叡智のおかげなのだと思う。
専業主婦でも、会社勤めでも、自営業でも、 フリーターでも、家事手伝いでも、プー太郎でも、それは同じだ。 その自分の選んだ仕事や状況の中で、自分なりの方法で人生を見つめていくのだ。 そして、私はたまたまセラピストになったのだ。 それが私の魂のプロセスの近道だったのではないだろうか。
名前は忘れたけど、南国にある鳥がいる。 その鳥は、眠る時以外、ずっと激しく羽ばたき続けているのだそうだ。 それは、花の蜜を吸うためだ。 羽ばたくのをやめると蜜が吸えなくなり、その鳥は死んでしまうのだそうだ。 蜜を吸い、その蜜のエネルギーでまた羽ばたき、また蜜を吸い、消耗し、また吸う。 死ぬまでそんな人生なのだそうだ(鳥に人生ってヘンだけど)。 蜜を吸うために羽ばたくのだけれど、その蜜は羽ばたくためだけに消耗される。 なんともおかしな話で、割に合わないような気さえしてしまう。 もっと効率的に生きればいいのに、そう思ってしまう。 けれど、私にはなんとなくその鳥の気持ちというか、 そんなさだめの元に生まれたことがとてもよく理解できてしまう。
私もその鳥みたいだ。 セラピーを通して得たものを人生のプロセスの糧として進み、 またセラピーをして人生のプロセスの糧を得て、次に進む。 その糧を補わなければ私は立ち止まるどころか、きっと倒れてしまうのだ。 自転車操業みたいだな(笑) 少なくとも今はね。
恵みの雨が降っても、それを喜ぶ人がいないと、それはもはや恵みの雨ではない。 喜ぶ人がいてこそ、神は恵みの雨を降らせるのだ。 受け取る人がいてこその恩恵なのだ。 人はひとりでは生きていけない。 私も。
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