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2007年01月01日(月) アイデアメモ

■ 14:34
性(恋)とは、個(自我)の崩壊であるという。

それはインテリ=ヲタク特有の「ものごと秩序だてて捉えたい願望(嘘パーフェクトな理論)」から反れるベクトルの感情だからだろう。



メジャーの意識を把握する健全な視野がなければ、とんでもないババを掴むことにもなりかえないというが、

それは「絶対に正当な人間が存在しうる」などという幼いイメージなどとは異なる、

日々の暮らしへの浸透力のあるセンスやスキルや基礎力を意識しつつも(標準・中庸・スタンダード)、

そこからズレている自分というオルタネイティブさを考えの立場にすえて、自と他の位置関連から意識のフォルダーの再構成をさぐるということだろうかなと思う。




■ 14:56
「自分は不幸になる途を自ら選んでいる確信犯のほうだから」と語るとある評論家氏が、

「戦後のある時期から‘平凡への強制′という教育方針がうすれてきた」という状況認識を出してたけど、

その問題は「センスやモチベーション(積極性)の弱き者…不器用さや引っ込み思案を抱えた者」が

どう意識のスタンスの幅を編んでゆくかというテーマの背景だろうかと思う。



たとえば、「自分は幸せにはなりたくないのか」「幸せをどう位置づけ捉えるか」という答えを一方に固定することなしに、日々バランスを考えてみるということだったり。




■ 15:02
慣例やマナーを支えるものは無根拠ではないかという価値相対論的考えがあるけど、

その無根拠さがリアリティー(浸透力)を保てるというのは、やはりなんらかのワケはあるのだろうから、

「センスやモチベーションの弱い自分」を我こそはポストモダンとばかりに、判断の基準に据えすぎるのはやはりいただけないかと。




■ 15:17
そうはいっても、モチベーションのスイッチがはいるきっかけとなる経験の重なり具合は、ある程度はまだしも、

やはり全世界の万人に100%共通して強制できる方策(ようは教育ですが)というのが存在しうるかといえば、かなり?で疑問である。



現行の教育的メソッドのベクトルからこぼれる人たち、たとえば世の浸透にかすり難い3流未満のアーティストやカリスマ的な人たちが、世の日常的な暮らしにおいてどこまでは許容できる(つまり自分の中に自分なりのスジというか折り合いをつけようというモチベーションを大なり小なり保てているか)どこからは問題となるか(前述のスジや折り合いという意識が希薄あるいは欠如している)というテーマを気にとめることは、呉智英氏の評論の本の処女作における管理社会(権力偏重)やファシズム・スターリニスム社会(愚情偏重社会)を回避するバランスをさぐるスタンスという命題にもリンクしうるように思う。



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長谷川 |MAILHomePage

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