僕の、場所。
今日の僕は誰だろう。
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あのときの麗人は、かすかに、だけど確かに歌を歌っていた。
何故なら、その歌声にこそ私は引かれて歩いていったのだから。夢の中のような、不思議な場所を、柔らかく包み込んでいた歌声は、静かに低く、心地良いものだった。耳をすますと、それは子守唄だと分かった。 靄の立ち込める木々の中で、その麗人は黒く艶やかな衣服を纏い、さらりと流れる黒髪ごしに白い首筋を際立たせていた。不思議な衣服。平民のそれとは明らかに違って質の良いもの。口元に浮かべられた微笑は、とても穏やかで、しかし同時に力強いものでもあった。形の良い唇から流れる子守唄は、ほんとうに慈愛に満ちており――まるで何か、この世の人とは思えないような神秘的な光景だった。 そして、ふと歌うのをやめたかと思うと、麗人はそっとこちらを振り返り、静かに私の名前を呼んだのだ。 「…殷氏」 「………ぇ」 かすれた声しか出せなかったが、確かに、確かにいまこの人は私の名を。 目を丸くした私に向かって微笑んだ麗人の目はとても澄んだ色をしていて。その瞳に吸い込まれたように私は動けなくなってしまう。恐怖ではなく、一種一目ぼれに近いような衝撃で、体が言うことをきかなくなる。 「怖がらないで」 頷く。なんと返事をしたら良いか、分からなかった。事実私は怖がっているわけではなく、常人とは思えないその空気に圧倒されているのだった。 「貴女にこれを贈るよ。…手におえないかもしれないけど、貴女なら大丈夫だから」 麗人が、手にしていたのは二色に色分けされた小さな珠だった。よく分からない素材、よく分からない用途。何かしら?と目を凝らしたときには、その珠は麗人の手を離れて、ふよふよと宙を漂ってこちらに来た。驚く私に、麗人はやさしく微笑んでいた。訳の分からないまま立ち尽くしている私の腕の中に、その珠はふわりと収まった。冷たくも熱くもなく、無機質な感じのする珠は、それ以上は動いたりせずじっとしていた。 「あ、あの…これは」 「貴女のだよ」 そう言われれば、何故か愛着のわくのが人の情だろうか。愛おしくて堪らなく思えてきた。これは一体…何なのだろう? 「それじゃ、またいつか来るから。……その子を頼んだよ」 そんな不思議な言葉を残して、麗人は姿を消した。
胸に残された珠を抱き、頬を寄せると、鼓動が高まった。直感で分かる。これは…この子は、私の子だ。そっと口付けると温かい。おいで、と呟くとその球体は私の身体にするすると沈み込んでいった。 そして私は目を覚ます。身を起こせばいつもの寝室で、夫が隣で寝息を立てている。う、と気付けばお腹が痛む。ああ、あの夢は…。あの夢はきっと…。目覚めた今でも、あの麗人が口ずさんでいた子守唄が頭に鮮明に残っている。思い出して口に乗せると、あたたかなメロディが心地良く、お腹の痛みすら和らぐようだった。
宝貝儿歌(下)に続く。
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