自分は人にかまわれるのが嫌いだ。
ベタベタされるのや、甘えられると げんなりしてしまう。
こちらに寂しいという気持ちや かまって欲しいという雰囲気をかもし出してくる人。 それにこちらに何かをしてあげたいと明らかに伝えてくる人 これらの場合は突き放してしまう。
やってもらわなくてもいい。 放っておいてくれと 思うわけだ。
でも、人に好かれるのは好きだ。 人に触れていたいとも思う。
ここで、ふと思ったことなのだけれど 自分は何処でこの境界線を作っているのだろうか
好かれていると感じる線と かまわれていると感じる線の 境目は何処にあるのだろうか。
たぶんそれは 自分にとって、得かどうかではなく 自分の心の領域を 相手が踏み越えて来ているかどうか という風に見ているのではないだろうか
例えば、自分がいくら お金に困ったとしても 奢ってあげると言われると 自分は要らないというだろう
いくら寂しいと思うときでも こちらが好きでない相手に 甘えられると 徹底して突き放すだろう
自分で解決するから 放っておいてくれと思うわけだ
解決できなくなった時には素直に誰かに頼るからと
だが、自分が嫌いな人種というのは 自分が助けを求める前に 大して困ってない時に かまってくる
そして、一番助けが欲しい時に 本当に助けが欲しい時に 逃げ出す。
あの人たちは分かっていないのだろう
相手をを助けることで 自己満足を得ようとしているだけだということを
結局自分のためだということを。
それも分からずに
こちらの気持ちを考えずに 相手は気持ちを押し付けてくる
そういう風な人たちに
自分は「かまわれている」と 感じるのだ。
だから、逆にいうなら 礼儀をわきまえている人や 丁寧な人は 自分はとても好きだし。 好かれると嬉しい。
結局そういうことなのだ。 境界線を心の扉と考えるなら
心の扉を開く前にノックもせずに踏み込んでくる人か 心の扉をノックして、こちらが開けるのを待ってくれる人か
その差で
かまわれているか 好かれているか
自分は
区別しているのだ。
その差は自分にとって とても大きくて 大事な所なのだ。
だから
間違えてとかならともかくとして
そういったことも分からずに
この扉を 踏み込んで 踏みにじってきた人とは 自分はまともには付き合えないと おもう。
今日の一口<当たり前と思っていることほど怖いものは無い>
|