宴が、終わった。 銅メダルの獲得は、メダル獲得のなかった前回シドニー五輪に比べれば、結果の上では確かに前進と言えるのかもしれない。しかし、今回初めてオールプロで臨んだ以上、至上命題は言うまでもなく金メダル獲得。 アメリカ、韓国という強豪国が予選敗退した今回、金メダル獲得最大の関門に打倒キューバを掲げ、予選リーグでそのキューバに勝利したにも関わらず、伏兵候補と目されていたオーストラリアに予選リーグ、決勝トーナメントでまさかの敗北。いや、同じ相手に連敗して望みを断たれた以上、この結果を“まさか”などという言葉で片付けてはいけないだろう。 オーストラリアは強かった。日本に対して相当の研究を積み、完全な対策を立てた上で試合に臨んだ結果がこれだということに過ぎず、日本は連敗した以上、オーストラリアよりも弱かったということでしかない。それが、結果というものが持つ決して軽くない意味であり、そこから目を背けるべきではないと思う。 負けたからには、当然敗因がある。目標地点に到達できなかった以上、その原因を準備段階から掘り下げ、凝視し、つぶさに検証を重ねる。我々にとっても辛く苦しい作業だが、これを怠るということは前進を諦めることと同義である。金メダル獲得という目標を捨てないのであれば、今回なぜ負けたかということを考え、次に生かそうとすることは絶対に必要である。 オーストラリアは現在阪神で活躍中のジェフ・ウィリアムスの完璧なリリーフ振りが大きくクローズアップされたが、日本は予選リーグでJ・ウィリアムスに反撃の芽を摘み取られて敗れたことで、必要以上にJ・ウィリアムスの影に怯えてしまったのかもしれない。J・ウィリアムスを出さない展開に持ち込まねば――数年前のセ・リーグのチームが佐々木主浩(横浜)の影に怯え、少々無茶な試合展開に自らをはめ込んでいたように、オーストラリア戦の日本も拙攻が実によく目立った。 早いカウントから積極的に振っていこうという意思は充分に見えていたが、準決勝のオーストラリア先発オクスプリングとニルソンのバッテリーは、そのことを充分に把握していた。145km程度のストレートを見せ球にし、勝負球はハードスライダーとチェンジアップの2つ。これを徹底的に低めに配し、打ち気に逸る日本打線の思惑をことごとく挫いた。 勝負を分けたのは、やはり1点を追う7回裏の2死一、三塁を攻め切れなかったこと。小笠原のショート後方のフライをバンビュイゼンが落球し、さらに続く和田一の深いショートゴロをファーストのキングマンが取りきれずに作ったチャンス。ミスで迎えたピンチで、オーストラリアベンチは迷わずJ・ウィリアムスを投入。打者は9番の藤本だが、この藤本が高めのスライダーを打ち上げてサードフライ。この試合は、事実上ここで決した。 相手のミスに乗じて攻め込むのは野球の常道で、ここは代打も充分に考えられる場面だったが、日本ベンチはそのまま藤本を打席に送った。藤本が今大会で振れているという要素はもちろんあっただろうが、藤本はJ・ウィリアムスと同じ阪神在籍。試合の中での生きた球というものを、藤本は打席の中で経験したことがない。ベンチに残っている野手は木村、相川、金子、村松の4人だったが、木村は体の不調を訴え、相川は捕手の控えだから万一に備えて置いておかなければならない。金子と村松はパ・リーグ在籍だからやはりJ・ウィリアムスの生きた投球を知らない。となれば、消去法で藤本をそのまま打席に送らざるを得なかった、というのが恐らくベンチの本心だろう。 藤本が凡退したから嘆いているのではない。いくらオールプロで臨んだからと言っても、チームの中では不調に陥ったまま抜け出せなかったり、国際大会である以上は環境の変化に戸惑いコンディションの維持に苦しむ選手も出てくる。前者は谷と小笠原、後者は木村と岩隈が今回は該当する。そこで流れを切り替えるべきカードを日本は持っていなかった。それは今回の敗因と切っても切れない問題である。 結果論になるが、今大会では投手陣の中でどうにも存在感に乏しかった選手が多かったように思う。安藤、三浦、岩隈、小林がそれに該当する。小林は2試合に登板したがクローザーという役割が与えられる局面はなく、あとの3人はシーズンの不調をそのまま持ち越したり体調面で崩れたりと、本来の力を発揮できないまま登板機会そのものを生かせなかった。 リリーフの重要性は散々言われていたことだから、安藤と小林の存在はまだ説明がつく。しかし、先発とも中継ぎとも役割がはっきりしなかった三浦と岩隈の存在が、結果的にはどうしても浮いた形になってしまった。日本代表は伝統的にディフェンシブな編成を好み、投手の選出割合が多くなるのもそれを踏まえた上のことではあるが、あの場面で多村仁(横浜)や北川博敏(近鉄)がベンチにいたら……ということはどうしても考えてしまう。 その後はJ・ウィリアムスが予選リーグ同様にロングリリーフでクローザーとして完璧な仕事を果たし、日本はシドニー五輪同様に決勝まで駒を進めることができなかった。初めてプロ選手が参加したシドニー五輪で屈辱に沈み、そのリベンジに燃えた今回はオールプロで臨み、結果準決勝で敗れたという事実。アマチュア球界最大の目標を派手に奪った結果がこの事実である以上、この敗戦は単なる敗戦ではない。 シドニー五輪の時は、その準備不足が散々槍玉に挙げられた。私も槍玉に挙げた1人だが、ペナントレースの為にプロ選手の合流が大会直前になり、チームとしての熟成度に疑問符が付いたのは事実だった。 今回は昨年のアジア予選のチームが予想以上に素晴らしい戦いをしたことで、その不安はあまりクローズアップされなかったように思う。宮本のキャプテンシーがマスコミを通じて大々的に伝えられたこともあり、まとまりのある好チームという印象は不動のものとなった。しかし、恐らくそれは選手側の感覚。背広組が今回まともに準備をして、前回の悔しさを本気でバネにして金メダル獲得に本気になったかと言えば、それは恐らく違う。 これは私の中の感覚にも少なからずあったことだというのを白状しておくが、オールプロで挑めば金メダルは確実、という感覚が背広組にあったのではないだろうか。つまり、準備をする=全員プロならどうにかなるでしょ、という感覚。1球団2人枠というのは企業論理に縛られた球団のエゴだということを、私は常に思っていたが、どんな形でもオールプロならどうにかなる、という感覚があったからこそこういう編成になったのでは、というのが今の偽らざる思いである。 そのことは、長嶋監督がベンチに座っていないにも関わらず“長嶋ジャパン”を連呼する、日本の情緒的な環境にも現れているように思う。あの長嶋さんなんだから、長嶋さんの為にプロ選手が集まったんだから、という風情はそこかしこに感じさせるものだった。 「3」の数字が震える国旗がベンチにたなびき、長嶋監督の戦評がFAXで送られ、それすらも情緒たっぷりに追いかけるメディア。中畑ヘッドコーチや城島といった現場の選手ですら、「長嶋さんの為に金メダルを持ち帰りたかった」と言葉を詰まらせる。手厳しい言い方になってしまうが、自分の為ですら第一に金メダルを目指せないのなら、それは長嶋監督を拠り所にし、或いは逃げ道にするというメンタリティの弱さに他ならない。日本のメディアは、長嶋監督には厳しい言葉を浴びせないということが暗黙の了解になっている。 選手は当然悔しいに違いない。準決勝に先発した松坂は7回2/3を5安打13奪三振3四死球1失点、初回からフルスロットルで飛ばし、先発としてほぼ完璧な仕事を全うしたが、「自分が先に点を取られたから」と敗戦の責任を全て背負い込んだ。リードした城島は「大輔を見殺しにしてしまった」と、点を取れなかった責任を4番打者として背負い込んだ。昨日帰国した日本代表に笑顔はなかったという。 選手達は想像を絶するプレッシャーの中で、それでも懸命に戦ったと思う。選手を責めることはできないが、姿なきJ・ウィリアムスに必要以上に怯えたように、姿なき長嶋監督に縛り付けられていたような奇妙なズレをそこかしこに感じたのも、同じような気持ち悪さに繋がったように思う。 同じ悔しさを、日本は4年前に味わった筈である。そして、数々の問題点が噴出した。その根底は、準備不足と本気度の弱さ。 ペナントレース最優先という姿勢を崩さなかった以上、準備期間が充分だったという一発回答は今回も出せなかった。1球団2人枠などというものに縛り付けられた以上、どんな選手の選び方をしても本気度は100%ではない。バランスの問題も、準決勝で見事に噴出した。そしてこれらの問題は、シドニー五輪後にも散々言われたことである。つまり、シドニーで松坂や中村が見せた涙に、今回日本代表に何らかの形で関わった背広組は何も学べなかったということになる。 “球界再編”という名の自壊作用は、いまだに既得権益にしがみついたままの背広組によって続けられている。選手会の本意では当然ないだろうが、法廷闘争という泥沼に突入しそうな雲行きにもなってきた。既得権益から離れない彼らは恐らく、日本代表が金メダルを獲得できなかったということに対して、悔しくも何とも思っていない筈である。事実、今回現地で視察した幹部の大半がアマ関係者で、プロ野球幹部は1人もアテネを訪れなかったという。そういう人間によって作られてしまった今回の「長嶋ジャパン」。 オーストラリア代表のスタッフには、大リーグのスカウト担当として日本に30回以上も調査に来ている人間が複数人いると伝えられている。日本プロ野球のビデオも相当数集めて、分析に使用したとのことだ。日本の情報は、何も日本プロ野球に在籍経験のあるニルソンやJ・ウィリアムスによってだけ伝えられている訳ではない。日本はそこまでキューバを、そして伏兵と目していたオーストラリアを研究しただろうか。本気度というのは、そういう部分でも間違いなく測れるものである。 結局のところ、私が今回で最も悔しいと思うのは、球界が全体でスクラムを組んで本気で金メダルを取りに行かず、それでもどうにかなると思い、どうにもならなかったという、考えてみれば当たり前の事実である。 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」――野村克也氏の言葉が、私の中で何度もリフレインしている。
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