DEAD OR BASEBALL!

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Vol.186 ガレキの中の花、咲き誇れ
2004年07月24日(土)

 皮肉なことだが、今回のあまりにも理不尽な球界再編騒動を通じて、プロ野球選手会とファンがこれまで感じたことがない程に一枚岩になってきたように感じてしまう。とある週刊誌の調査では、プロ野球選手会が万一の場合はストライキを行う可能性もあるということについて、70%以上のファンが賛成の意見を持っているという。

 プロ野球選手会長の古田敦也が方々で語っているように、ストライキは事実上、選手会に残された最後のカードである。ファンのことを思えば、できれば使いたくないカードであることは間違いないだろう。だが、古田らが「ファンの為に使いたくはない」と言ったカードについて、ファンの70%以上が支持、或いは止む無しという意見を持っている事実は、単純に大きい。

 渡邊恒雄・巨人オーナーは、一リーグ制反対という世論について、「君たち(マスコミ)が煽っているだけであって、そんなものは世論ではない」と一蹴したという。自身が大マスコミのボス猿に君臨しているにも関わらず、マスコミの集めた世論に対して偽物のレッテルを貼ったという事実も、単純に大きい。

 今週発売のNumber誌上で、元報知新聞記者の鷲田康氏が、ヤンキースタジアムのライトフェンスに掲げられた「読売新聞」という日本語の巨大広告について批判している。記事の見出しは『「読売がよければ」では野球界は救われない』。

 鷲田氏はこの記事の中で、『読売新聞社にとり野球とは、商業活動であり文化ではない。あのオレンジ色に輝く看板からは、そんな匂いがプンプンしてくる』と書いている。その上で、巨人戦の視聴率低下やチケットのダブつきに焦る読売新聞について、『球界のピンチではなく、巨人の、読売のピンチをどう凌ぐか――。野球という文化を守るためではない。ここにも読売新聞社の商業主義だけが透けて見えてしまう』と、野球の論理の外で動き続ける読売に矛先を向けている。

 同じくNumber誌上で連載を持っている巨人の仁志敏久は、今回の連載を特別寄稿と位置づけた上でこんなことを書いた。

 『「たかが選手」。それはどういう意味なのだろうか。自軍のオーナーの発言であったことは、極めて遺憾である。選手がプレーをするからファンは集まり、テレビやラジオが放送され、それらから収入があり球団は成り立つ。選手という核は全てであり、同時にそれらをネタにして仕事をしている人達も大勢いる。選手の存在はもちろん、たかがではない。それどころか、されどでもない。この世界に携わる人達にとっては「選手あっての」というのがもっともなのではないだろうか』

 01年まで10年近く報知新聞で巨人担当をしていた鷲田氏もそうだが、仁志の場合は巨人の現役選手である。いわば巨人にとっては“身内”とも言える存在が、渡邊オーナーの尋常ならざる発言や、長老達のあまりにも密室的・黙殺的なやりかたに対してはっきりとNOを突き付けているという現状は、かつてない危機感を選手側が持っているという事実の証明に他ならない。

 仁志がこの原稿を書いたことは、本来はかなり勇気のいることだったと思う。何しろ、自分が所属している球団のオーナーを、しかもああいう人物を批判する原稿を書き、それを雑誌に掲載したのだ。仁志本人が球団や渡邊オーナーからどういう仕打ちを受けるともわからない。それでも仁志は、巨人の選手という前に、一介のプロ野球選手として、現状の死活問題に対して自分の意見を示さなければ気が済まなかったのだろう。

 仁志は、元々うるさ型の選手と言われ、そのビッグマウスぶりから他球団のファンにとってもうるさ型の人間として扱われているように思う。時に傲慢に映りかねないその言動には、正直なところ私自身もあまりいい印象を抱いてはいなかった。だが仁志は、あくまでも選手自身の目線に立ち、ファンの存在をはっきりと意識した上でこの原稿を書いたように思う。黙っていてもファンの目が集まる巨人の選手が、ファンと選手の存在を無視し続ける自軍のオーナーに対する批判意見を、臆することなく堂々と出す。そのうるさ型ぶりが、私には嬉しかった。

 近鉄・オリックスの合併問題から端を発したかのように見えるその問題に、選手会が総出で立ち上がった。23日には合併問題に直接関係ない中日選手会が、ナゴヤドームでの試合前に近鉄・オリックスの合併や1リーグ制移行に反対する署名活動を行った。

 選手会のベクトルは、一枚岩となって強烈な光を発している。現場では現場で絶対に守らなくてはならないものがあり、それを「たかが選手が」などという発言で侵されてたまるか、という意地もあるのだろう。

 ファンが支持しているのは、プロ野球であり、そこに在籍している魅力的な球団であり、そこで非現実の心地よい世界に我々を連れ出してくる数多の選手たちそのものである。

 少なくとも私は、球団として支持したことはあっても、読売新聞社や西武グループを支持したことは一度もない。彼らは野球を野球として扱っていないからであり、彼らの目線にファンがいない以上、私達の目線にも彼らは入れる必要がない。それだけのことだが、よくよく考えたらそれは非常に不毛な関係である。

 企業論理が何物にも優先され、そこに野球そのものが入る余地はどこにもない。それこそが球界密室政治の真実だったことを、今回の件で多くのファンが現実として受け止めたに違いない。だが、選手会側は現場レベルでその問題ともっと早くから闘っていた筈だ。

 古田が言うように、セパ交流試合の実施やドラフト制度の正常化は、選手会側がこれまで何度も議題に上げながら、長老達に無視され続けてきた問題だった。無視していた人間のトップは大マスコミのボスで、経済界にも強い影響力を持ち、恫喝と共にその権力を行使することに何の躊躇もない人間だ。邪推になるが、これらの問題をこれまで大々的に取り上げてこなかったことには、そのような事情もあるだろう。

 鷲田氏が指摘するように、パ・リーグの財政が厳しいのは、何もここ数年で急に降って沸いたことではない。セ・リーグが長嶋監督復帰や阪神フィーバーで表向き凌いできた間も、パ・リーグはドラフト制度の改悪やFA制度など、財政力に乏しい球団には更に不利になる条件を飲まされ続けてきているのである。

 それらを受け入れてきた背景には、「苦しくなったら巨人軍が助けてやる」という口約束があったのかもしれない。だが、巨人がしてきたことは、パ・リーグの看板選手をことごとく引き抜き、パ・リーグの足腰を弱めることに手を加えることばかりだった。巨人の助け=一リーグ制というまやかしの果実を見せられ続けたパ・リーグだが、読売にぶらさがろうとする人間にとって、それは当初とは違った意味で最後のカードになってしまっているのだろう。

 この問題以降、チーム数を拡大してゆるやかで確実な発展を続けているJリーグと度々比較されているプロ野球界だが、ファンレベルの問題としては、球界全体のパイの問題などのマクロ的な話は実際のところ直接的な問題ではない。肝心なのは、それで本当に面白いプロ野球が観られるのかという、極めてミクロ的かつ多次元的な問題だ。一国繁栄の帝国主義、真の問題は、それが本当に面白いのかという根本的な話に過ぎず、だからこそファンも選手も怒りの声を上げて一枚岩になっている。そんなことでいまより面白い野球なんか実現できる訳ないだろう、と。

 野球も含めて、スポーツは文化である。文化である以上、それが面白く魅力的でなければ廃れていく運命にある。商業的な視点は、もちろん必要である。だがスポーツというものは、商業的であれば文化的である訳ではない。文化を前提として成り立つ商業でなければ自滅の道を辿る。そういう視点が、長老達からは決定的に欠落している。

 改めて書くが、彼らはなんて器の小さい人間なのだろう、と長老達を見る度に思ってしまう。敢えてきついことを書くが、まるで駄々っ子のように思えて仕方がない。自分の思い通りにならないとすぐにカンシャクを起こす、ワガママな駄々っ子。彼らの姿は、今月末で3歳になる私の甥っ子のそれと大して変わらないように見える。

 私は当初、この問題に対して腹立たしく思っていた。しかしいまは、怒りを通り越して呆れ返るような脱力感しか感じることができない。ファンや選手がどれだけ声を上げても、長老達の耳に届くことは、恐らくないだろう。だからと言って、ファンや選手の行動に意味がないとは思わない。彼らが反旗を翻し、長老達に堂々と宣戦布告を突き付けた事実は、単純に嬉しかった。そのこと自体には意味がある、例えプロ野球が潰れても、選手や彼らのファンがいる限り、野球自体が死ぬことはないんじゃないか、と。

 いまのままでは問題は山積している。だが、山が動けば全てが洗い流される訳ではない。山の動き方によっては、土砂崩れや土石流など新たな災害によってさらに傷口が大きくなる。合併・一リーグが全ての免罪符だと言うならば、それは大きな誤りであると思う。

 守りたいものがある。守らなければならないものがある。選手やファンが一体となってプロ野球という文化を守ろうとする姿は、とても尊いものだと思う。私はその姿が、ガレキの中で懸命に咲こうとしている花のように見えて仕方ないのだ。

 私は、選手会やファンの懸命な姿が嬉しい。だからこそ私は、何の意味があるかも知れず、細々とこんなことを書いている。一介の野球好きとして、ここに自分の思うことを示すことが、自分なりのファンとしての表明なのではないかと思う。

 願わくば、ガレキの中で芽吹きつつある花が、近い未来に堂々と咲き誇らんことを。



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