月の輪通信 日々の想い
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毎日、毎日、落ち葉の雪が降る。 時折吹く風の音にふと窓の外を見ると、黄色や茶色の落ち葉がまるで雪でも降るように、はらはらと回りながら舞い落ちてくるのが見える。 降り積もった落ち葉は木々の根方に吹き溜まり、水路に漂い、道路上をクルクルと惑い散る。 竹箒や熊手を持ち出して、毎日のように落ち葉を掃く。 この時期には山中の木の葉が一度に落ちてくるのだ。 掃いても掃いても落葉はやまない。 掃いたそばからハラハラと落ちてくる木の葉。 「ああ、また降って来た。」 身の丈に余る竹箒を全身の力を込めて扱っているアプコが、宙を見上げて恨めしそうに溜息をつく。
休日の朝、アプコに落ち葉掻きの仕事を頼むと、 「わかったー。でももうちょっとしてからね。」と、すぐには腰を上げない。 ぐずぐずとやり渋った挙句、昼前ごろになってからようやく、そそくさと竹箒を持ち出してくる。その頃には、家の前の道路には休日ハイカーの数も増えて、ばさばさと砂埃を上げる落ち葉掻きはしょっちゅう途中で中断しなければならなくなる。 「朝のうちに済ましておいてくれれば、人通りも少なかったのに・・・。」 と私が言うと、アプコはニコニコ笑って首を振る。 「でもねぇ、アタシは人がいっぱい通ってるときのほうがいいねん。」 幼いアプコが大きな竹箒を振り回してお掃除をしていると、年配のハイキング客や親子連れの登山者がアプコに声をかける。 「小さいのに、エライね。」 「葉っぱがいっぱいで、大変やな。」 見知らぬ人から通りすがりに落とされる、お駄賃のようなねぎらいの言葉。 それが嬉しいから、わざと人通りが多い時間を見計らって落ち葉掻きをするのだと言う。 「人知れず行う善行」も、もしかして誰かがどこかで見ていてくれて、「エライね」と褒めてくれたりしたらホントは嬉しいと思ってみたりする。 そんなオトナの屈折も、アプコにはまだ芽生えていない。 賞賛目当ての姑息な魂胆を自ら恥じるわけでもなく、あっけらかんと「うれしいねん。」と言えるアプコの素直さがまぶしい。
先日、珍しく部活が休みで早めに帰宅したゲンが、帰るなり報告してくれた。 「帰り道のカーブの手前ンとこでさ、知らんおじさんが水路の掃除してたよ。誰やろ?」 といぶかしげに言う。 「ああ、水利組合の人じゃないの? 水路に落ち葉が溜まると詰まるから、時々掃除に来てくれてるみたいだし。」 「あ、そうなん?ボク、初めて見たけど」 「うん、たいてい君たちが学校へ行ってるような時間に来てはるからね。」 「ふうん」
秋の初め、はらはらと散るもみじ葉は細い水路を軽やかに流れてゆく。 けれども冬になって山から降る大量の落ち葉は、水路に落ちて途中で滞ると水流をせきとめ、道路に水を溢れさせることにもなる。 だから誰かが頃合を見計らって、水路に落ちた落ち葉を浚い、汚泥を掬い、わだかまった枯れ枝を取り除く。 山に暮らしていると、こうして静かに行われる誰かの小さな心遣いにふっと気づかされる機会が多い。 早朝から、歩道に散らばった木の葉を路肩に掃き寄せておく「誰か」さん。 通過する車のミラーを叩く伸びすぎた木の枝をパチンパチンと鋏で摘んでおいてくれる「誰か」さん。 轍で窪んだ道路の穴にいつの間にか砂利を詰めて補修しておく「誰か」さん。 散歩のついでに心無いハイカーがおいていった空き缶をひょいと摘まんで持ち帰る「誰か」さん。 見知らぬ「誰か」さんのこうした目立たぬ助けがあってこそ、水も人も滔滔と何事もなかったかのように流れ下っていけるのだ。
「水路の水って、放っといても勝手に流れていってるんやないんやな。」 そのことに、自分で気づけたゲンもエライ。 彼はもう、一日限りのハイカーたちがよくやるような、水路端に溜まった落ち葉を戯れに水路に落として見送る遊びを決してしないだろう。
最近テレビを見ていたら、毒舌家で知られる俳優がこんな話をしていた。 「若い頃、移動の車の窓から街路樹の落ち葉を掃き集めているジイサンを見かけたりするとさ、 『ばかだな、あのクソジジイ。 掃いても掃いても、じきにまた落ちてくんのに・・・』 なんて思ってたんだよ。 でもさ、最近、おんなじように落ち葉を掃いてるジジイを見かけたりすると、なんか妙な気分になるんだよな。 いとおしいって言うのか、なんていうのか、下手すると、ウルッときちゃったりすんだよ。バカだよねぇ。 オレも、年取っちゃったってことなのかな。」 普段の毒舌に似合わぬ俳優の気恥ずかしそうな表情が、なんだかいいなと心に残った。
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