月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
オニイの進学先が決まり、春からの下宿暮らしが確定した。 一番安い学生寮での自炊生活。 慣れない土地、初めての人間関係の中でオニイはうまく泳いでいくことが出来るんだろうか。 「スパゲッティを茹でるときは多目のお湯で塩を一つまみね。」 「一応、言っとくけど、電子レンジでゆで卵は厳禁よ。」 「色落ちするジーンズと白いタオルは一緒に洗濯機に入れては駄目。青いタオルを干す羽目になるよ」 などなど、世話焼き母は事あるごとにオニイに「家事豆知識」を垂れるようになった。 「大丈夫、判ってるよ」とへらへら笑いながら居なくなるオニイ。
オニイの下宿生活決定に、真っ先に反応したのはゲンだった。 「んじゃさ、来年から男の子部屋は僕一人で使っていいって事?」 と、とりあえず自分の生活への影響が気になったらしい。 「え、自炊?毎日何食べるんだろ? カップめんとかレトルトとかいっぱい食べるのかな。 洗濯とかも自分でするの?うへぇ、オニイに出来んのかな?」
ゲンにとって、オニイはいつも自分の数歩先を歩いていく先導者。 片道40分の自転車通学も、腹ペコ汗まみれの部活生活も、自転車でふらりと遠くの街へ出かけていく放課後の楽しみも、ほんの数年先の自分の姿に重ね合わせて、羨ましく見上げているのだろう。 オニイの巣立ちの日を前に、まるで自分のことのようにワクワクしたりドキドキしたりしているゲンが居る。
最近、ゲンが自転車で出かけていくことが多くなった。 少し前までは夏休みや休日に多かった「お出かけ」だったが、最近では部活が休みの放課後など、ほんの数時間の空き時間にもふらりと出かけていくようになった。 行き先は多分、いつもは車で行く遠くのショッピングモールだったり、新聞の折込チラシで見た知らない街のペットショップだったり。はじめは近所のスーパーどまりだったものがだんだん距離を伸ばし、意外なほど遠くの町まで遠征していくこともあるらしい。 自分の足でペダルを踏むことで、知らない土地、初めての町と出会うことができると言うことが、今のゲンには楽しくてたまらないらしい。 男の子らしい冒険者魂がメラメラと燃え上がるお年頃なのだろう。 夕方、ゲンが「ちょっと出かけてくる」と言って出かけていった。 もう日暮れも近いというのに、何もこんな時間からでかけていかなくてもとは思うが、「思い立ったらすぐ行動」が信条のゲン。 しゃあないやっちゃなぁと笑って見送ったのだけれど・・・。 夕食の支度で慌しくなる頃、 「ゲン、ちょっと遅すぎひん?」とオニイが気がついた。 「また、調子にのって遠くへ行き過ぎたのかな。それにしても遅いね。」 と言っているところに電話が鳴った。 「あの・・・、ボクやけど・・・。」 ゲンだ。 道に迷ったのだと言う。隣の街の電車の駅の公衆電話からかけているらしい。散々迷って、もうどっちを向いて走り出したらいいのかも判らなくなってしまったようだ。 幼い頃から自他共に認める方向音痴のゲン。最近になって何度か遠出をするようになって、いくらかましになってきたかとも思っていたが、やはり生来の傾向は根強かったものらしい。
電話を受けた私自身も不案内な場所だったので、とりあえず5分後にもう一度電話するように言って、大慌てで地図を探したりネットで調べたり。 駅の場所はすぐにわかったが、果てさてそれを右も左もわからなくなってしまったゲンにどうやって伝えたものか。 困り果てていると、 「しゃあない、僕が走ってやる。ゲンにはそこから一歩も動くなと言っといて。」 とオニイが申し出てくれた。 再びかかって来たゲンからの電話に、オニイが迎えに行ってくれることを告げると、受話器の向こうのゲンの声が心底ホッとした様子なのが伝わってきた。 薄着で出かけたゲンのために上着を自転車の前籠に詰め込んで、オニイは颯爽と出動していった。 しばらくして、オニイの携帯電話から、「不明者、確保!今から帰還します!」の報告。 それから約一時間後に、意気揚々の捜索隊長としょげ返った迷子が揃って帰宅した。 トータルで3時間近い捜索劇だった。
今回の迷子事件について、オニイの感想。 「迷子になって困ったら、すぐに『SOS』を出せるところが、ゲンのゲンたる所やな。 僕なら、絶対電話なんかしない。なんとかして最後まで自力で帰り道をさがすやろな。」 そうだね。 「助けて!」と素直に発信できるところがゲンのいいとこ。 なんとか自分で出口を探そうと最後まであきらめないのがオニイのいいとこ。 そのことにちゃんと気づけるようになったオニイ。 君は確かに大人になった。
数日後、オニイの新生活についてゲンと話していたときのこと。 「オニイ、だいじょぶかな、一人暮らし。うまくやっていけるかな」 と漏らした私に、しばらく考え込んでいたゲン。 「大丈夫なんとちゃう。 ああ見えてオニイ、結構逞しいし、うまくやっていくんじゃない。」 と答えてくれた。 ほほう、オニイの偉大さが身に沁みましたか。 うんうん、素直にそういえるゲン。 君もちょっぴり大人になった。
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