月の輪通信 日々の想い
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一昨日、きんもくせいが咲いた。 新聞を取りに出たら、頭の上に涼やかな香りがあって、「ああ、今年もまた・・・」と嬉しくなった。 いつもきんもくせいは、ある朝突然思いがけなく咲いている。 子ども達の学校行事や工房の展示会が重なる一番忙しい時期に咲くからだろうか。
工房で古い資料を探していた父さんが、「こんなものを見つけたよ」とニコニコしながら見せてくれたもの。 それは、先代さんが作ったと思われる小さな判子。おそらくは陶器のなまの生地に装飾として押す「印花」として使われたものだろう。 印材は何かの道具の持ち手部分を転用したような硬い木材で、それにごくごく細い線で寝そべった犬の図案が掘り込まれている。印面はわずかに直径1,5センチくらい。周りを彫り落として、線の部分だけを残す「朱文」なので、かなり気の張る緻密な手仕事が推察される。 そのくせ、彫られた犬の表情は飄々とユーモラスで愛らしい。
印花と言うのは、例えば、よく土鍋の蓋などに小さな花柄等の印文を縄状に並べて刻んだ装飾を見かけるが、簡単に言うとアレに使う印のこと。 最近、私自身も小さな陶のアクセサリーを拵えたりしているが、その装飾用に1センチ角くらいの小さなスタンプ印を使う。近頃はネットで簡単にオーダーのスタンプも作れるようになったが、これも本来は職人が自分でちまちまと印材を削って作ったものだろう。父さんも、いまだに時折、石膏や木、素焼きの陶材等を削って、小さな印を拵えてつかう事があるようだ。
うちの窯では現在義父の跡を継いだ義兄が8代目。 けれどもここで言う「先代さん」とは、七世松月である義父の事ではなく、ひいばあちゃんの旦那さんである六世さんのことだ。 50年余り前に、50代の若さで亡くなった先代さんのことをもちろん私も父さんも知らない。けれども義父やひいばあちゃんの話す逸話や、残された作品や書簡の数々をみると、謹厳な、しかし作陶以外にも諸芸に秀でた、優れた文人の面影が察せられる。
その昔、出入りの下駄屋さんの話によると、先代さんの履かれた下駄の歯は決して片減りすることがなく、いつも水平の線を保ったまま均一に磨り減っていたのだという。先代さんの実直で几帳面な人柄と、すぐれたバランス感覚を伝える話として、何度も義父から聞かされた逸話である。 父さんが見つけてきた「印花」にも、確かな技術の几帳面さと、その硬さを和らげるかすかなユーモア感覚が現れているようで楽しい。
それにしても、半世紀前の陶芸家は一体どんなところにこんなかわいらしいイラスト印のような印花を刻んだのだろうか。古い印花には確かに陶器の生地に使われたらしい土の汚れも残っているので、賀状や書簡に捺す印として造られたのではない事は確かだ。 並べて捺して、何かの縁飾りに使ったのだろうか。 作家の印と共に茶わんの裏などに印したのだろうか。 それとも、干支のお守り印として、戌年の人への贈答品にでも捺したのだろうか。 明治の人のデザイン感覚の面白さに、あれこれ思いをめぐらせて見る。
犬の印花と共に、父さんはもう一つ面白いものを見つけてきた。 小さな青い松ぼっくりの形の陶器の玉。 裏返すと、その裏には小さな画鋲が彫りこんで貼り付けられている。今で言うフックピンという奴だ。 松ぼっくりのデザインは、うちの窯では古来香合などに使われる伝統的な意匠で、「松月」という窯元の名にもちなんだなじみの形。 それをわざわざ小さな画鋲の飾りに刻んで、青釉(みどり)や飴釉を施しておそらくは窯の隅っこに並べて焼いたのだろう。 なんでもない画鋲に、手の込んだ陶器の飾りをつけ、見る人に「ほほう!」と言わせて楽しんだその遊びの感覚が、偉大なる先代さんの隠されたユーモアというか、子どものようないたずら心を思わせる。 そして半世紀以上たった今、その子孫である父さんや私に「ほほう!」と言わせて、笑わせてくれる。物づくりの人の確かな技の力というものを改めて感じて嬉しくなった。
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