月の輪通信 日々の想い
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「富士山に登るぞ!」と父さんが突然宣言したのは、一ヶ月前。 思い立ったその日に初心者向けのバスツアーに申し込み、ガイドブックを買い込んで準備に取り掛かる。 毎朝、4時半におきて近所の山歩きを2時間。 山登りの装備や準備物をしらべ、登山用具店をはしご。 同時に、留守中の仕事の段取りをつけ、あちこちに不在の根回しをする。 その精力的な行動力には、舌を巻く。
登山用具の多くは数年前に富士山にも登ったという実家の父が、「上から下まで同じサイズ」のよしみで貸してくれることになった。完全防水の登山服やらずっしり底厚の登山靴、トンネル工事の人のような頭に付けるライトやら大きな登山用のリュックまで、どーんと詰め込んだ小包が届いた。 これらの借り物を中心に、残りは何度も何度もあちこちの登山用具店に足を運び、こまごまと自分用のものを買い揃える。買い物には、家族に秘密裏にこそっと出かけていって、さりげなく「好日山荘」のロゴの入った紙袋を提げて帰ってくる。 汗止めのバンダナ、特殊な素材のアンダーウエア、高山病予防のための小型の酸素ボンベ、山小屋での安眠のための耳栓など、思いもつかない小物がどんどん増える。チョコレートだのカロリーメイトだの、見慣れぬ登山食も買い揃えた。 「初心者の登山にコレだけは必要!」 「あると便利、登山裏技グッズ!」 をいっぱい詰め込んで、父さんのリュックはみるみる大きく膨らんでゆく。 「ほんとにそれ全部要るの?」とは誰もいえない。出発当日である今日になってはじめて、本人があまりのリュックの大きさに気づき、何度もパッキングをやり直していたりする。 それも良し。 遠足前の楽しみの一つ。
父さん、51歳。 何を思っての突然の富士登山か。 作品作りの参考に一度は自分で登って見なければとは、長年思っていたらしい。「いつかはきっと・・・」と思っていることを好機を逃さず「今!」と実行に移す力。それは不器用な職人気質な父さんが、芸術家としてのひらめきをつかむための大事なエネルギーなのだろう。 傍目には衝動的とも見える計画を立て、バリバリと準備を重ねていくときの子どものように嬉しそうな父さんの熱中振りを見ているのは楽しい。 父さん自身は、そういう自分の熱中や数日間の不在や予定外の出費を、家族が「難儀やなぁ。」と辟易しているのではないかとしきりに気にしているようだけれども、「そればっかりでもないんだよ。」という事をまっすぐに夫に伝える事は難しい。 「頑張っていってらしゃい。でも、その分、帰ってきたらいっぱい働いて、家族サービスもお願いね。」と、憎まれ口で父さんの背中を押す。 アタシは可愛げのない妻である。
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