月の輪通信 日々の想い
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雪柳も終わった。都忘れも盛りを過ぎた。宗旦ウツギが今年は思いがけなくたくさん花をつけた。 アジサイや甘茶が小さなつぼみをびっしりとつけ始めている。 春は終わっていくのだなぁ。 アプコに訊かれて「紫蘭」という花の名を教えたら、 「『知らん』って、へんな名前!それ、ウソ?ホント?」と信じようとしない。お約束のようなダジャレだけれど、最初に「紫蘭」の名を教えるとどの子も同じ反応をしてケラケラ笑う。オニイもアユコもゲンも・・・。 赤紫の派手な色合いの紫蘭は、白やブルー系統の花の多い我が家の庭ではいつもぱっと目立ちすぎて居心地が悪そうなのだけれど、「しらん」というダジャレの面白さを楽しむために、もう何年もでんと居座って花を咲かせる。 今年はことさら、花つきがよかった。
アプコが帰り道、「今日は席替えをしたよ」という。 「アタシのとなりはHちゃんになったよ。」 Hちゃんは、ひまわり学級という障害児学級の女の子。どんな子か私にはよくわからなかったけど、この間、急な雨で傘を持って迎えに行ったとき、自分の傘がないと先生にしがみついて泣いていたあの子らしい。 「Hちゃんのお隣はちょっと大変なんよ。自分のご飯を他の子のお茶碗に入れたり、ヘンな事するねん。」 アプコにとってはこれが障害を持った友達との始めての出会い。 「ときどきひまわり学級へいく子」とは理解しているらしいが、具体的にHちゃんに対して「障害のあるお友だち」という認識はまだないようだ。 「Hちゃんとは、よく一緒に遊ぶの?」と訊くと、「うん、いつも一緒に遊んでる。大うんていとか、Hちゃんは自分ではうまく登れないから、みんなで手伝って登るの。」という。 Hちゃんの障害そのものは理解していないけれど、何かとお手伝いの要るお友だちという認識はあるらしい。 どうもアプコは、障害のある子とそうでない子の違いをかぎ分ける感覚が他の子よりもちょっと鈍いらしい。
私自身が障害を持った子と初めて出会ったのは、公立の幼稚園に入園したときだ。 クラスに一人、Tちゃんと呼ばれる知的障害の女の子がいた。Tちゃんは大人しくて自分からはなかなか人に話しかけたりしないのだけれど、何となくクラスの中では一人浮いている感じがあった。 手洗い場で、みんな並んで手を洗っていると、何故だかTちゃんの番になると、後ろの子が順番抜かしで割り込んでいく。お弁当を食べる時にはTちゃんの机だけほんの数センチ離して配置されている。 多分クラスのほかの子達は、「Tちゃんは普通の子と違う」と言う事に入園後まもなく気がついて仲間はずれにしていたのだろう。けれども、その時何故だか私はずいぶん後になるまでTちゃんに障害があるということに気がつかなかった。 なんで他の子たちがTちゃんをのけ者にするのかがいつまでも分からなくて「手を洗いに行くときには早くしないと皆に追い越されちゃうよ。」とか、「髪の毛はちゃんと梳かしてもらってきたほうがいいよ」とか、コソッと人のいないところでTちゃんにお説教したりしていた記憶がある。 思えば私自身も今のアプコのように、友だちの障害を認知する感覚が他の子たちより少々鈍かったのかもしれない。
Tちゃんとはその後、中学3年までずーっと同じクラスだった。今思えば、多分私は「Tちゃんのお世話をしてくれる子」ということで、いつもTちゃんとセットでクラスに振り分けられていたのだろう。 障害児学級の子を特定の面倒見のいい子にくっつけてクラス配分する、そういうシステムが学校現場の中では常識なのかどうかは分からない。当時の私は「な〜んだ、またTちゃんと一緒のクラスなのか・・・。」と、先生たちのクラス編成に意図的なものを全く疑うことなく、10年間のTちゃんとのお付き合いがつづいた。その辺の先生たちの作為に対しても、私はかなり鈍感であったのだろう。 修学旅行や遠足など行事のあるごとに、Tちゃんは当然のように私と同じ班に編入された。時にはそれが原因で他の仲のいい友達と同じ班になれなかったりして、Tちゃんの存在をうっとおしく思ったり、Tちゃんの世話をいつもいつも背負わせる先生たちへの反発を感じて、本気で抗議しに行ったりすることもあった。時にはわざとTちゃんを避けるような態度を取ったり、したこともある。 それでもTちゃんは多分私のことを慕ってくれていたのだろう。中学の卒業式の朝、Tちゃんはいつものようにちょっと距離をおいた所に遠慮がちに立って、それでも決して離れることなくおずおずと私と一緒に友だちの輪に加わっていた。 あの時の私は、十年間一緒に学校生活を過ごしてそれぞれに違った進路に進んでいくTちゃんにちゃんと「さよなら」を言ったのだろうか。
今年、中一になったアユコもまた、軽い学習障害のあるSくんと同じクラスになった。小学校入学の時からずーっと同じクラスだから、今年で7年目のお付き合いだ。一年生の頃には、授業中に落ちついて座っていられなかったり集中力が保てなかったり、小さなトラブルがいくつかあったけれど、アユコはS君のことをちょっと世話のかかる弟のように、着かず離れず見守ってきたような観がある。 この春、入学式の朝、校舎の壁に張り出されたクラス編成表を見上げて、アユコは一番の仲良しのAちゃんと同じクラスになって大喜びだった。そしてそのあと、「あれ、Sくんも一緒のクラスだ。わぁ、一緒のクラスはこれで7年目だよ」とあっけらかんと驚いている。 「ホントだねぇ、よっぽど縁があるんだねぇ。」とその場では私も気にも止めずにいたけれど、後からSくんのお母さんに会った時に「うちの子は、アユちゃんと一緒のクラスにしてもらえるんじゃないかなと思ってたわ。」といわれて、初めて「あ、そうか」と思い至った。 中学生になって、普通学級から障害児学級にうつるSくんに、「仲のいい友だち」としてアユコとAちゃんの名前が小学校の先生から申し合わせがなされていたのだろう。「7年間一緒」は偶然ではなく、もしかしたらずーっと先生方の「作為」の結果だったのかもしれない。 けれども、私もアユコも今回S君母からほのめかされるまで、「いつもおんなじクラス」の偶然を疑いもしなかったし、そこに誰かの「作為」があるなど思いもつかなかった。 親子揃って、そういうことには鼻が利かないということだろう。
結果として、私が幼稚園から中学3年までTちゃんと一緒に過ごした10年間は私にとっては貴重な10年間だった。 大学卒業後、思いがけず私が飛び込んだ職場は知的障害の子ども達が学ぶ養護学校だった。重い知的障害の子や情緒障害でしょっちゅうパニックを起こす自閉症の子達と格闘する日々の中で、私はたびたびTちゃんが仲間はずれにされる理由をいつまでも理解できなかった幼い日の私の鈍感さを思い出した。 あの日の私はいつまでもTちゃんに「障害児」という名札をつける事ができなかった。他人より早く手洗い場に並ぶ事の出来ないTちゃんの要領の悪さと、小動物を苛めたり芽を出したばかりのチューリップを踏みにじったりしても心の痛まないやんちゃ坊主の無神経の違いがなかなか理解できなかった。その鈍感さのお蔭で、私は比較的抵抗無く、知的障害の子達や重い情緒障害を持つ子ども達との生活に飛び込んで行けたのかもしれない。時には「障害」に対する鈍感さは彼らと自分自身との距離を縮める最大の力になることもある。
「Hちゃんが泣いてるときは、アタシもちょっとだけ悲しくなるんよ。」 アプコはまだHちゃんに「みんなと違う子」という名札をつけていない。 「なんでかなぁ。」と首をかしげてHちゃんのそばにたたずんでいるようだ。 「Hちゃんは他の子とどこが違うんだろう。」 その疑問がアプコ自身の中からわきあがってくるまで、私は「障害児」という言葉の意味を教えないで置こうと思う。 いろいろな人の本質を公平に見る目というものは、知識ではなく経験から身につけていくものだと思うからだ。
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