月の輪通信 日々の想い
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ちょっと気の張る手紙を書こうと思って便箋を捜したら、横書きばかりで縦書きが一つもない。 ああ、長い事縦書きとはご無沙汰だったんだなぁと気がつく。 きれいな一筆箋は縦書きだけど、私はついつい文章が長くなるのですぐに札束のようになってしまう。 よっこらしょっと久々に縦書き便箋を買いにいく。
高校生の頃、文学青年崩れといった風貌の国語教師のF先生がいた。 ちょうど今の田村正和のような黒のタートルなんかを常着にしていて、教室に来るなり何の説明もなく小川国男の短編をぼそぼそと朗読して帰って行くような「奇行」がちょっとかっこよかった。 普段アンニュイな空気に包まれていたF先生が珍しく雄弁に縦書き文化の復権について熱く語った事がある。 ちょうど生徒の一人が「国語のノートは縦書き」というルールを破って常に使っているルーズリーフに横書きに万葉の和歌を書き写していたときの事だった。 「古来日本の文字は縦書きを基盤として発展してきた文字である。ことに和歌や俳句は横書きでは語れない。」というお目玉から始まって、延々一時間、先生の独演会は続いた。
「縦書きの本を読むとき、活字を目で追うと人は必ず何度も何度も頷きながら内容を読み取る事になる。だからこそ書いてある内容が一つ一つ頷きながら心にすとんと落ちるのである。 横書きの文字を読むとき、人は首を横に振り、イヤイヤをしながら読み進む。否定の動作をしながら内容を納得して読むのには無駄な負荷がかかる。」
「日本人はおいしいものを食べるとき、本来は『う〜ん、うまい』とひざを打ち、首を縦に振って味わうのだ。 西洋人はおいしいものを前にして『ああ、おいしそう』というときには、半目をとじて首を横に振る。あれが西洋人の本能的な肯定のしぐさなのだ。」
「たとえば母親が我が子を危険から守ろうとするとき、日本人は子どもを抱きすくめて敵から隠そうとする。ところが西洋人の母は敵と我が子の間に立ちふさがり、両手を広げて相手にNOと叫ぶ。 たとえば和式トイレは、入り口をはいって正面の壁に向かってしゃがむ事が多い。対して洋式トイレは、ドアにむかってしっかり踏ん張って、ふいに扉を開けるかもしれない外敵に対して真正面から立ち向かう姿勢で用を足す。 危険に対する本能的な姿勢も日本人と西洋人ではこんなに違うのだ。」
「日本人は日本人であるがゆえに、長い歴史の中で培われた本能的な姿勢や動作の意味を見失ってはいけない。日本の言葉を縦書きに読み書きするということは、日本人の体に染み付いた動作に素直に従う自然の行為である。」
物凄い飛躍だらけの雑談だったのだろうけれど、あれから二十年以上もたったというのに、いまだに縦書きの文章を書くたび、F先生のぼそぼそと物憂げな物言いを思い出す。
書道の稽古をしていると、日本の文字(とくに筆文字)は縦書きを基準として作られた文字だなぁとつくづく思い知る。 かな文字の連綿(続け字)などは縦書きでないと成立しない。 「鮮やかな水茎の跡」というのは、確かに上から下へとさらさらと流れてこそ美しい。 ぜんぜん鮮やかでない我が悪筆も、縦書きにしてのびのびと流れに従うとなんとなく「手紙をしたためる」という古風な言い回しの気分も沸いてくる。 ところが、いつもの調子で書いていると、縦書きの手紙はどうしても横書きの手紙より枚数が多くなってしまう。 ペン書きですらこの調子なのだから、たとえば巻紙にさらさらと筆文字で書いたなら、あっという間にトイレットペーパーのような不細工な巻物が出来上がるに違いない。 「さらりと一筆」というにはあまりの長文になってしまって、ついついくしゃくしゃと丸めて反故にする羽目になる。 縦書きの文章のボリューム感に慣れていないということだろう。 縦書きの手紙の要件の一つには、選び抜いた最小限の言葉であふれる想いを伝えるという作文能力も数えられるのだろうと改めて思う。
先日、私が受け取った縦書きの手紙は、手馴れた達筆な文字と簡潔かつ丁寧な文面の、美しいお礼状だった。 主婦たるもの、いつかはこのような美しいお礼状を、苦にせずさらりとしたためる技を身に着けたいものだなぁと反省する事一頻り。 書き上げた悪筆乱文の我が返信を、恥じ入るようにパタパタたたんで封をする。 嘆かわしい。 首を横に振る。
月の輪通信
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