月の輪通信 日々の想い
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体外受精卵の着床前診断が話題になっている。 性別の産み分けや障害の有無を調べる目的で行われたという。 人間が人間の生命を選択するという重い問題。 あちこちで議論され、賛否が問われるなか、私は静かに唇をかむ。
実を言うと私も、胎児の性別や障害の有無を知りたいと思ったことがある。 男二人、女二人という、まるで産み分けしたような見事な男女構成に恵まれて、 この上、なにをと思われるかもしれない。 けれども、私が出生前の診断を考えたのは、アプコを授かる前の事だった。
アプコが生まれる二年前、私は生後3ヶ月の娘を心臓病で失った。 そして、今は元気で駆け回っている長女のアユコもまた、生後すぐに心臓に障害が見つかり、長い間投薬を受け、体重や身長の伸びが少し遅れたまま学齢を迎えた。 「もしかして、我が家の女の子達みな心臓病のリスクを負っているのではないだろうか。」 「遺伝病ではないと思う。」 という、専門医の判断にもかかわらずオリのように心に沈む母の不安。 「もう一度、亡くなった娘を生み直してやりたい。」と考えたとき、 私がもう一度抱きしめたいと思ったのは、障害がなく、存分に乳を飲み、大きな声でなく元気な赤ん坊だった。
「もう一度、女の子を授かったら、また心臓の悪い子が産まれるでしょうか。」 不安を口にする私に、かかりつけの産婦人科の先生はおっしゃった。 「専門医が大丈夫とおっしゃっているのだから、遺伝は関係ないと思いますよ。 でも、本当に心配ならかなりの確率で男の子を産み分ける方法もありますよ。 妊娠の初期に赤ちゃんの性別や遺伝病を調べる方法もないわけではありません。」 これまで、4人の子どもを取り上げて下さった先生は、いくつかの選択肢を示して、それでも5人目の赤ちゃんの妊娠を勧めて下さった。 「大丈夫。今度はきっと元気な赤ちゃんが生まれてきます。 精一杯お手伝いしますから。」
「妊娠中に赤ちゃんの障害や性別を調べる方法があるとききましたが・・・」 アユコの定期検診に訪れた心臓病の専門医の先生にも、同じ事を問うてみた。 亡くなった娘の病気も診て下さっていたこの先生はとても厳しい先生だった。 「何の為に調べるのですか。」 先生は私の問いには答えず、まっすぐに問い返してこられた。 「仮に障害がある子どもとわかっても、きっと今度は大事に育ててやりたいと考えています。それでも・・・」 と口ごもる私に先生はおっしゃった。 「では検査は必要ありませんね。」 たくさんたくさん、重い心臓病の子どもを診察してこられた専門医。 幼くして亡くなっていく子ども達ともたくさん出会ってこられたことだろう。 その小さな命の重さを何度も感じてこられた先生だからこそ、 「命を選ぶ」問いを発する私に、厳しい問いで答えられたのだろう。
幼い娘の命を見送って、 障害を持って生まれてくる命も、等しく同じ大事な命と痛感した私。 それなのに、私の心には「健康で、障害のない子どもを授かりたい。」と選ぶ気持ちが存在する。 「調べる」ということは、既に「選ぶ」ということの入り口をくぐってしまっていると言うこと。 その欺瞞をあの先生は気付いておられたか。 「子どもは健やかに成長して欲しい。」 親として当たり前のこの願いが、いつか命を選ぶ傲慢に流れてしまう そんな危うさを私はそのとき初めて知ったような気がする。
同じ産むなら望まれた性別の子を・・・ 障害のない元気な赤ちゃんを・・・ 中絶するなら母胎に傷も付かず、精神的負担の少ない時期に・・・ 「生まれてくる子どもの為に・・・」と言いつつ、産む側、育てる側の都合で選ばれる命。 その行為の是非を、私はまだ声高に語る資格はない。
出生前診断も産み分けもすることなく、 私は元気な娘、アプコを授かった。 亡き娘とそっくりな濃い髪と、大きな瞳のアプコを抱いたとき、 「お帰りなさい」という言葉がこぼれだした。 もう一度、亡くした娘を抱かせて下さった神様の贈り物。 そんな奇跡を前に、人間のこざかしい細工やあがきは傲慢でしかない。
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