月の輪通信 日々の想い
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30才になると、女の人はおばさんになるんだそうだ。 昨年、40代の大台に乗った私などは10年前からおばさんだったのだ。 おまけに、今の私には「大阪の」というありがたい冠がついている。 スーパーで細かい小銭をじゃらじゃら出す。 いつも持ってるバッグの中には、小さく畳んだスーパーの袋、タオル地のハンカチ、口寂しい時のための飴袋。 立ち上がるときには、どっこいしょ。 体型を隠す総ゴムのパンツに長めのトップス。 そうです、私は立派なおばさんです。
人からおばさんと言われると、たしかに「なにくそ!」と思うこともあるけれど、 ホントの所、おばさんというのは、やってみると結構居心地がいい。 おばさんは自分が居心地のいいと言うことに正直だ。 外目にカッコイイとか体裁がいいと言うことよりも、「便利」「ラクチン」「気持ちいい」が優先する。 確かに、人目を気にせず傍若無人に振る舞う中年女性に対して、悔し紛れの捨てゼリフとして「オバサン」と言う言葉が使われる。 しかし、その中には「あんな風に自分の好きなように生きてるのって、なんか楽そうだよな。」という羨望のかけらが混じっているような気がすることも多い。
若かりし頃、「おばさん」になりたいと思っていた時期がある。 大学を出て、なんとか講師の仕事が決まって、それでもこれから自分がどんな風に人生を歩んでいくのか、一生の伴侶となる人は現れるのか、どんな仕事をしていくのか・・・、人生はまだまだ不確定事項でいっぱいだった。 1年先、3年先の自分が見える水晶玉が欲しいと、よく思った。 身の回りの、夫や子どものいる女性達には、そんな水晶玉があると信じていた。 「来年、長女が七五三。」 「退職したら、姑さんと同居よ。」 仕事を終えて家に帰ると、自分の家族がいる。 子ども達は否応なしに家族の時を刻む。 そんな確実な水晶玉が、「おばさん」達にはあるものだと思っていた。
早く、決まった鞘に収まりたい。 「独身を通し仕事に生きる女」でもいい。 「お休みの日には子ども達とケーキを焼く元気なママ」でもいい。 とりあえず、「ここが私の一生を過ごす場所」と言える場所が欲しかった。 若い私には、人生の選択肢がいっぱいあって、まだまだ自分の可能性を探し求めることの出来る贅沢が少しもわかっていなかった。
40才、主婦。 4児の母。 家事の合間に家業を手伝う。 今の私が収まっている「鞘」 確かに不確定事項は減り、1年先、3年先にも今と同じように、台所に立つ自分の姿が容易に目に浮かぶ。 その揺るぎない安定感は、若き日の私が欲しいと思っていた「水晶玉」と言えるかもしれない。 「おばさん」たちは水晶玉を持っている。 だから、自分の本能に正直に、「居心地のいい」状態を身の回りに置くことに少しも躊躇しないのだ。
おばさんも夢を見る。 思春期のように、「アイドルになって、スポットライトを浴びてる私」とか、「白馬に乗った王子さまと幸せな暮らしを・・・」というような突拍子もない幻想は湧かないけれど、それでもおばさんにも夢はある。 「娘が成長したら、一緒に街でショッピングを」とか、「趣味を生かしてささやかな副業を」とか、おばさんの夢は「今の私」に足場を置いた堅実な将来だ。 おばさんになっても、まだ自分の人生の残されているささやかな選択肢。 台所でお大根を刻み、洗濯物の山をやっつけ、井戸端会議に時間を費やす主婦の日常にも、いつもいつも小さな夢はある。 変わりない日常の雑事と、心に秘めた小さな夢を、いつでも合わせ持つことの出来る懐の広さ。 それが本当の「おばさん」の強さの秘密ではないかと、おばさんは思うのである。
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