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2007年05月29日(火) 『反戦略的ビジネスのすすめ』

平川克美著『反戦略的ビジネスのすすめ』がよかった。たまたまたどり着いたブログで紹介されていたのを見て、これは読まねば、と思い購入。どこのブログかもうわからなくなってしまったのが残念だが、私が得たものをまたネット上でお返しすれば、他の誰かに役も立つかと。

後半に収録されている内田樹氏との対談(メールのやり取り)が面白い。二人は幼なじみであり、村上春樹の『1973年のピンボール』を地でいくような翻訳会社のかつての共同経営者だったそう。

<本から抜粋>
人間は自分を確認するために他者を必要とするわけです。この場合、他者は自分と同じでなければならず、同時に自分と異なっていなければならないという奇妙な二重性が現れます。

戦略的な思考にとらわれる理由はふたつしかありません。そのひとつは、少しでも自分に優位に事を進めるために、スタート地点における有利なポジションの獲得、競争相手の弱みに関する情報の入手、地政学的な優位性に関する情報を獲得しようという、いわば一種のずる賢さの肯定です。そしてもうひとつは、自分の相手は必ずこのずる賢さで自分に対応してくるという、疑心であり恐怖感です。

わたしは、この「当たり前」の事実、つまりビジネスにおいて交換されるのはモノやサービスとお金であると同時に、技術や誠意といったものが満足や信用といったものと交換されているという二重の交換こそが、あらゆるビジネスの課題の中心であり、そこからビジネスの過酷さも面白さも派生してくるということを申し上げたいのです。

わたしは、負け組みの烙印を押されて意気消沈しているベンチャー経営者から、がんばっているのだけれども報われないと思っている現場のサラリーマン、エンジニアにいたる「現場で逡巡する人たち」に対して、報われない努力というものには意味があるということ、ビジネスは果実を得るまでに多くの時間を要すること、たとえ華々しい結果を現在得ることができていなくとも、継続の中に「見えない資産」が蓄積されていることなどを理解できれば、自らのたち位置に新たな価値を見出すことも可能である、だから、今の場所にもう少し踏み止っていただきたいのだという思いをお伝えしたかったのです。

…重要なことは、信用は信用を再生産するということなのです。

ビジネス全体を構成している用件を見てみれば、金品との交換と同時に「見えない資産」というべきものの交換が行われていることが見えてくるだろうということ。「見えない資産」の蓄積には、戦略的、攻略的な方法は必ずしも有効ではないこと。むしろ、戦略的な成功は「見えない資産」の減少と引き換えに得られた成功である可能性が強いということ。「見えない資産」の蓄積は反戦略的な意思の持続によって誰にでも確実に達成できること。それは、具体的には企業を時間はかかっても着実な成長軌道に乗せる唯一の方法であること。

<対談より>
マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』の「沈黙交易」
「交易」というものの本質が「ビジネス」であると同時に「コミュニケーション」であるということを示す方等に見事な事例。
重要なことは、この沈黙交易が「外縁の圏域」で行われるということです。「未開共同体の民族的辺境」とは、それぞれの共同体の言語や価値観がその普遍性を失うところ、つまり「言葉が通じず、度量衡が共有されない」場です。にもかかわらず、というか、それゆえにこそ、そこに「交易したい」という強烈な欲望が生成する。
ここでなされているのは「等価物の交換」ではありません。
サーリンズは、人々は適切な等価交換が行われたと思わないときに、「もう一度出会わなければならないと感じてしまう」と書いています。そして、それが沈黙交易の原動力である、と。
ひとつは、「たいへん価値のあるものと、あまり価値のないものが交換された」という場合です。…もうひとつの意味があります。それは、交換した双方とも、「交換して相手から受け取ったものの価値がよくわからなかった」という場合です。こういう場合にも、たしかに人々はそれを「適切な等価交換」とは思わないでしょう。
沈黙交易の継続を動機づけるのは…交換されたものの「考量不可能性」。…「価値がわからない」がゆえに、さらに交易を継続しなければならないという心理的圧力を感じる…だから、おそらくは「交易相手に、もう一度出会わなければならない」とぼくたちに思わせる心理的圧力の高いものほど、「経済的価値」が高いとされるのです。

変な話ですけれど、その価値がたいへんよく理解でき、その性能がスペックに見事に表示されており、価格設定もまことに合理的……というような商品はむしろ売れないんじゃないですか?(内田)

…不完全な市場からまた人間は欲望を刺激されたリ影響を受けたりする。
ジョージ・ソロスがいっていることと同じ  「期待と結果の間に乖離があることは相互作用的な状況の特徴であり、そこでは参加者は完全な知識をふまえて判断を下すことはできない。参加者の判断には必ずバイアスがかかっており、そのバイアスが結果を決定する要因の一つになる」(平川)

三百万円のロレックスにどうして消費者は魅了されるか…「象徴価値」…「社会的階差」…最終的には「その人にもう一度会わずにはいられない(しかし、どうやったら会えるのか、そのルールが私には明かされていない)という焦燥感」
象徴価値のかなりの部分は「どうしてこんなに高いのかわからない」…だから買うわけですよね。(内田)

人間って(アフォーダンスについて書いていたように、「ドアノブがあると回したくなる」ものですし)、人が楽しそうにしていると「何でだろう?」と思うことが止められないものですから。(内田)

「信用」とは「繰り返し」のことである。(内田)

つまり、平川君のいう「見えない資産」という言葉の重点は、「資産」のほうではなく「見えない」ということのほうにあるんじゃないでしょうか。(内田)

<あとがきより>
問題なのは、「戦略」をクローズアップするということはその他の無数にあった条件を隠蔽してしまうということなのです。これについては、メルロ=ポンティが実に面白いことをいっています。

物をそれとしてみるには、この戯れそのものを見てはならなかったのだ。通俗的な意味での<見えるもの>はその前提になっているものを忘れている。
(M・メルロ=ポンティ 『眼と精神』みすず書房)

マラソンレースのあとで、人は勝利者の戦略といったものに目を奪われます。ひとつの結果をひとつの原因によって説明したいというのは人の世の常、性分であるわけです。そのほうがわかりやすいですからね。しかし、もし負けていれば、同じひとつの失敗の戦略として語られることになったはずだという可能性は選択的に排除しているのです。結局、わたしたちは勝利の原因をどこまで分析し、切り刻んだところで、その因果関係についての証明を得ることはできないということです。
大切なことは、しかしそれでも複数の要因、選手の努力、試合に向けて選手が支払ったものがなければ、結果というものもまたないということなのだろうと思います。

もし成功から学べるとすれば、それは結果からではなく、選手の構え、トレーニングに対する日常的な対し方といったところに降りていくほかはないということなのです。それは、優れて想像力の問題であるといってもいいだろうと思います。


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